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加害者イスラム国ではなく、人質に対する憤りの正体 お亡くなりになった方に対するご冥福を祈る [事務所生活]

湯川さんらしき人が殺されている映像が流れたようです、
お亡くなりになった方のご冥福をお祈りいたします。

その前日、私はフェイスブックに投稿しました。

人質二人の救出に尽力するのは良いとしても
身代金を支払うことには賛成できないというものです。

理由としては、

湯川さんは、戦争を利用して営利活動をするために渡航したこと
自分の妻が身重であるにもかかわらず高度の危険を熟知しながら
渡航した後藤さんにも共感できないこと

また
200億円の金があるならば
自分に責任がなく命を落としたり、
人生を不意にしてしまう子どもたちを
助けることができるから。

というものでした。

しかし、どこか、こういう感覚を持つ自分にも抵抗があったのでした。
誰かに論破されたいという願いもありました。

いろいろなコメントをいただきました。

浄土宗の和尚さまからもコメントをいただきました。
命がなくなることを肯定するのかと

そのようなつもりはなかったのですが、
結果としてそうなるのかもしれないと思い当りました。

また
人質の命に悲観的になっており、
悪い結果が出ることを見据えて
自分に言い聞かせているのではないか
ともご指摘いただきました。

わたしの愚にもつかないつぶやきに
ご説法いただき、
まことにもったいないやら、ありがたいやら
敬虔な気持ちになりました。

自分の心に対する言い訳ということは、私だけでなく、
人質に批判的な意見を表明するもの
計算抜きに自己責任論を主張するものに
共通の心理状態なのかもしれません。

人質の名前を知っている。
ある程度来歴もわかる。
言葉が通じる
ということで、
彼らの命がなくなること
恐怖のただなかにいることについて
自然と共鳴力が働いていたのでしょう。

何か、理屈をつけなければ、
そのむごさに耐えられず、
防衛本能的に、
自業自得というレッテルを張りたかったのかもしれません。
助けられない自分に無意識の言い訳をしていたのかもしれません。

そうでなければ、
命がなくなるかもしれないというその時に、
あえて批判をする必要はないのです。

われわれは、
すべての人の死を悼んでよいのです。
ごまかす必要は何もありません。

他人の命に劣後する人命というものもないのでしょう。

ガザでピンポイントで空爆されて亡くなった子どもたちの
その死も悼むべきだし、
戦争で、多くの人を殺した人の死を悼むことも
許されることなのでしょう。

人間の命がなくなることを肯定する必要はない。

そこから出発しなければならないのでした。

彼らの活動は、否定されるべきであり、非難されるべきだと思います。
しかし、そのことと、
生き死にの微妙な問題を区別して論じる必要があるということになります。
その区別ができなければ、語るべきではないのかもしれません。

自業自得などという
命を粗末にしている表現を目にした人たちに
嫌な思いをさせる上に、
命を軽く見た発言をした自分も
命を大事にする心を削り取っているという側面があるはずです。

不幸にも彼らの命があやういことは、
多くの人が知るところになっています。
知った以上は、
無事を願う心を否定するようなことがあってはならないのでしょう。

こんなあからさまな命の危険に直面して
無事を祈らない心になってしまえば、
もっと緩やかな死の危険に対しても
鈍い反応しかできなくなることでしょう。

今回和尚様に正していただきました。
浄土宗は禅宗ではないので
こんな表現をしてよいものかわかりませんが、
座禅の際に警策をいただいたような
ありがたいという気持ちになっております。



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