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差別の反対は、仲間として尊重すること 差別には合理的理由が初めからないこと、孤立しないこと [自死(自殺)・不明死、葛藤]

ある差別について話し合わなければならなくなりました。
実は、無理解と偏見というテーマで話したことがあり、
おそらく主催者は、その話をしてほしいということで
私を呼んだのだと思うのですが、
私は、ダイレクトに差別について、
対人関係学的に深めてみたいと思います。

まだ時間的余裕があるのですが、
例によって、ご一緒に検討したいと思います。

1 差別の対義語からみた差別の意味

差別の対義語は、「平等」とか「公平」とか言われています。

これはどうやら、
国と国民、社長と従業員、先生と生徒
というように、上に立つ者が下の者に対して
平等的取り扱いをするという文脈で語られる場合に
妥当する対義語のようです。

市民同士、従業員同士、生徒同士の間で
特定の者を差別するときには
平等という言葉はピッタリ来ません。

むしろ、「受容」とか、「包含」、
なんて言葉が、差別の対義語としてはしっくりくるように思われます。

対人関係学的に言えば、差別の対義語は
「仲間として尊重する」ということになります。

これらの対義語から見えてくる差別は、
攻撃的意味合いがあり、
かつ、排斥するという行為が存在することになるでしょう。

相手を孤立させるという手段の元、
一定の対人関係から排除しようとするというものだということになります。


2 差別をする人の背景(対人関係学的考察)
 
 差別が、怒りを含むものだとすると
 差別は、差別する人の不安を反映しています。
 不安とは、自分の立場が危険であるという意識です。

 現代社会には不安の種が多くあります。
 
 非正規雇用の労働者は、
 自分がいつ雇用契約が終了になるかについては、
 自分の知らないところで決められるのでわかりません。
 契約打ち切り、更新拒絶、
 収入がなくなることに危機感を感じている人が多いでしょう。

 一度派遣を切られてしまうと、
 再度の派遣がいつになる代わりません。

 そもそもの収入格差に伴う貧困も危機感を感じさせます。
 将来、体が動かなくなったときの年金で
 生活できるのか。

 このような危機感を根本的に解消するためには、
 社会構造を変えなければならないのでしょうが、
 そのような展望はありません。

 解消されない危機感は、
 ある人は、うつ状態に陥れるでしょうし、
 ある人は、怒りを抱くことによって解消しようとします。
 個性の違いがあるわけです。

 怒りを持っている間は、
 不安を解消することができます。
 しかし、怒りは、長期間持ち続けることができにくい感情です。
 怒りで不安を紛らわせるのは、一時的なものです。

 怒りの矛先はどこに向かうのでしょう。

 そもそも、不安の根源に対して
 立ち向かうことができないために
 怒りで不安をごまかそうということですから、
 怒りはその原因には向かいません。
 自分よりも強い存在だからです。

 怒りは自分よりも弱い存在に向かいます。
 自分より弱ければ怒りの矛先はどこでもよいのです。
 
 だから、勧善懲悪エピソードブログなんてものが
 Facebookなどで、シェアされまくるわけです。
 みんな、あれは作りものだと知っているのですが、
 見ず知らずの、おそらく実在しない人に
 容赦ない怒りを抱くことができるのです。

 「この相手に対しては怒って良い」
 そういう相手を見つけ出して
 容赦なく怒りをぶつけて、
 自分の不安を一時的に解消するわけです。

 自分より弱い相手、
 自分だけでなく、周囲も一緒に怒ってくれそうな相手
 自分の怒りは、「正義」に基づいているということで、
 そういうものがあれば、飛びついて怒るわけです。

 相手を、逃げ場のない状態にしておいて、
 多数の一人として叩くわけです。
 差別する方の主観は、自分は正義の行動をしている
 自分(たち)を防衛しているという気持ちであることが良く見られます。

 例えば、
 自殺は悪いことだ
 自殺をする者やそれを止められなかったものは悪だ
 という単純さが特徴です。
 それ以上の細かいことを検討するならば
 そもそも怒りに飛びついたりしません。

 自分のわからない事情は調べない
 知らないことを内省しない
 だって怒りたいだけですから。
 
 自分たちより弱い者のなんらかの落ち度を理由に
 怒りをぶつけて安心する
 それが難癖だということはみんな知っています。
 でもみんな加担していくわけです、
 怒りのネタに飛びつく
 いじめは、典型的な差別です。


3 怒りを受ける人
  
  怒りの理由に合理性がないのですから、
  怒りを受ける人に落ち度がないことは
  もっともなことです。

  しかし、
  差別による苦しみについては、
  主観的な事情に大きく左右されます。

  自死遺族は、
  家族を自死で失っていますから、
  自責の念、自己否定の感覚、無力感、疎外感を感じています。
  第三者から見ると、それは合理的な自己評価とはいえないことが多いです。

  それらの感覚は、そのような論理的な説明にはなじまない、
  「悲しい」とか、「悔しい」とかいう感情の、
  一つの現れ方ということが
  正しいのだと思っています。

  自分を許せなくなる。
  悪くなくても、自分が悪いと感じてしまう。

  自分でそう思うくらいですから、
  人から言われたら、ますます苦しくなることは
  きわめて当たり前のことです。
  非難されていると思いやすくなっているのです。


  さらに家族の誰かが死んだということは、
  「自分の家族が消滅した」という気持ちになります。
  家族は、一人でも少なくなると、
  それはもう元の家族ではありません。
  
  遺族は、自分を守る群れがなくなったと感じます。
  そうだとすると、
  自分を守るものがない状態だと感じてしまうでしょう。
  常に、防御意識が、無意識のうちに優勢になっていくわけです。

  何かの刺激があると
  「責められている」と感じてしまう
  臨戦状態になっているのです。


4 有効策は孤立しないこと

  孤立していると
  怒りたい人たちに狙われます。
  弱みを見せない方法は孤立しないことです。

  うかつに差別攻撃をしてしまうと
  簡単に反撃されてしまうと思わせることが有効です。

  そして、支える人たちを増やしてゆきましょう。
  「あの人は弱いかもしれないが、
   あの人を攻撃すると、
   自分の後ろの誰かからから反撃される」
  という社会環境を作りましょう。

  孤立しないで、自分を理解してくれる人に、
  自分の負の感情を声に出して語りましょう。
  そこまで考えなくてよいという言葉には耳を傾けましょう。

  一番肝心なことは
  必要以上に苦しむべきではないということです。
  
  自分が尊重されているという実感をまずもつことによって、
  差別行為をする者が社会的弱者であるという正しい認識、
  即ち、憐れみをもって、「攻撃を受け取らない」ということが
  できるようになるのかもしれません。
  
  











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