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「戦争法案」というネーミングのデメリットと議論の方法についての意見 [弁護士会 民主主義 人権]

8月30日、国会をはじめ、各地で
安全保障法案反対のデモンストレーションがありました。
NHKでさえ、夜の7時のニュースでは映像を付けて取り上げました。
廃案まであと一歩というところまで来たと思いますが
その一歩というのが、歴史的に超えることができなかった壁だ
ということになります。

その一歩をどこに向ければよいのか考えてみたいと思います。

私は、立憲主義維持という法律家の立場から
わが国が直接間接侵略を受けなくても武力を行使する
安全保障法案に反対する立場です。

今考えなければならないのは、
デモなどの表現行為が、
ストレートに政権を追い込んで法の成立を断念させる
ということではないということです。

多数派を形成することが歩みの方向でなければなりません。
30パーセントは、現在の内閣を支持しているわけです。
どうして支持しているのかについてを考える必要があります。
この方々の共鳴共感が必要なのです。

本来国防に関することなので、
他国の模範となるような格調高い議論をするべきだと考えているのですが、
怒りが優っている状態で、それができていません。

もっとも推進派の議論というのも格調が高くない。
第1に 対案を出せというものがありますが、いただけないというほかありません。

そもそも対案は、出すべき場合とそうでない場合があります。

例えば、いじめ対策の場合は、私は
「命を大切にしよう」と掛け声をかけるばかりではだめで
教師の雑務を減らせと対案を出すのですが、これは
いじめをなくすべしという問題の所在が共有されているからです。

これと反対に夫婦で、
夫が「高い釣竿を買いたい」と提案した場合、
「そんな余裕がないから買わない」と妻がいうのは
釣竿を買う必要性を共有していないからです。
それにもかかわらず
妻に対案を出せとはまともな大人は誰も言わないでしょう。

今、安全保障法制の論点は、
「我が国が直接間接侵略のおそれがない場合にも武力を行使するべきか。」
というものです。
そういうことを決める必要性を認めていない人は
対案出さずにただ「反対」ということが論理一貫した態度ということになります。

それにもかかわらず「対案を出せ」と批判するのは、
先の夫婦のケースで釣竿だめなら対案を出せというようなものです。

「対案を出せ」というのは、企業の会議でよく言われているようです。
元企業戦士も、この言葉で野党を批判します。
しかし、それは、売り上げを上げる等の
問題の所在が共有化されているために
そういう主張が通るわけです。

企業に飼いならされ過ぎた人たちが
対案を出せということを言うのであれば、
企業マニュアルは、万能のものとして扱われていることになります。
マニュアルは、
「時と場合」によって使い分けなければならないということについて
うまく運用ができていないという弱点があるようです。

第二に格調が高くない主張は、
推進派、反対派双方ありうるかもしれませんが、
自分の結論を、意見対立している人に押し付けて
本来その結論についての理由を主張しあわなければならないのに
「理由は言わなくてもわかって当然」とか
「もう決まったことだ」とか
「わからない奴は馬鹿だ、子どもでもわかる。」
というような形でごまかすということです。

同じ日本に暮らすもの同士、
いたわりと尊敬をもって、本来、国防を議論するべきなのです。
そこに論点があるならば日本の将来のために
懇切丁寧に労をいとわないで説明するべきです。
だから私は、愛国心(普通の当たり前の意味)を持たない人には、
国防の議論をご遠慮いただきたいと思っています。

もう少し根本的な、格調の高くない論理があります。

30%の内閣支持者の多くの方が、
他国の侵略に対する不安から
集団的自衛権を指示しているという
非論理的な現象があるようです。

どうも安全保障法案の推進者の方々は、
「中国や北朝鮮が攻めてきて戦わないで
 侵略され放題になってもいいのか」
 という論理のすり替えを意図的に行っているようです。

本来それらは、個別的自衛権の範囲ですから
周辺事態法や自衛隊法、日米安全保障条約のもと、
きっちりと自国防衛の武力行使を行うわけです。

今は、「直接、間接わが国が侵略されていない場合にも
自衛隊などが武力行使をする」
ように拡大するかという問題なのですが、
反対者は個別的自衛権も否定していると
すり替えられています。

そのすり替えを裏付けているのが
実は「戦争反対」という単純なスローガンです。
防衛戦争にも反対しているのだと、
すり替えを刷り込まれた人たちには写っています。
そういう風にすり替えているともいえるでしょう。

戦争法案というネーミングがここまで運動を大きくしてきたという
そういう側面は否定できないでしょう。
そのスローガンを下ろせということは今や暴論でしかありません。

しかし、そこにはデメリットも当然あるのだという
当たり前のことは頭に入れておく必要があるように思われます。

論点を明確にするような努力も必要なのでしょう。
個別的自衛権は、きっちり行使するのだということです。

もう一つ
「戦争法案」のネーミングについては、
ただの非防衛戦争の危険以上の危険についての思考を
停止させるのではないかと危惧しているところです。

あたかも安倍首相がヒットラーのように
戦争をやりたがっているという主張も、
同様にいかがなものかと思います。
30%の人たちの少なくない部分の人たちは
このような首相を嘲笑するような表現は
生理的に受けつけないようです。

安倍首相が、主体的にこの法案の必要性を認め
法案の構成をデザインしているのか、
疑問があります。
むしろ、機に乗じて
持論を実現しようとしているというのがリアルなのではないでしょうか。
この点は、国会論議で明らかになってきたというべきでしょう。
もっとも報道はされませんが。

また、アメリカの押し付けという大雑把な考え方も
敵と味方を誤らせるのではないかと思われます。
堤実果さんの一連のルポルタージュでは、
アメリカから搾取されている最大の国民は、
実はアメリカ国民だという告発がなされています。

国会の終盤、
議院は、法案の派生効果、影響こそ
具体的に議論するべきです。
武器輸送だけでなく、武器警護という点についても
十分議論を尽くすべきだと思われますが
議論されている形跡はありません。

新聞は、国防という大事な議論なのですから
もっと、きちんと議論を掲載するべきです。
しかし、野党によって政府が追い込まれている委員会質問も
きちんと答弁したような報道が繰り返されています。
マスコミはあてにならないようです。

一人一人がきちんと知る権利を実現させ、
反対者の意見を吸い上げながら、
論点をクリアーにしていけば、
この問題は落ち着くべきところに落ち着かざるを得ないと
考えています。

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