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多忙であることと学校のいじめ対応が不十分になることの関係 対人関係学の展開 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

前の記事で対人関係学概論を書きましたが、
具体的展開例としてわかりやすいので、
まとめてみました。

1 物理的、時間的制約
  忙しいということは、
  自分の仕事で手いっぱいなのですから、
  他人の仕事を手伝うということができないのは、
  当然なので、特に説明はいらないでしょう。

  問題は、複数のことを同時並行でやらなければならないので、
  何から先に始めるかという、
  仕事の優劣を付けなければならないのですが、
  これは無意識に優劣をつけてしまうようになります。

  まず、期限がある仕事は、期限内に終えなければなりません。
  何月何日までに報告書を作成し提出しろ
  といわれれば、それを先にやりますね。
  集金なんて言うのも、通常期限があるでしょう。
  持ってこない生徒がいると、指導をしなくてはなりません。

  やる時間が指定されている仕事はその時間にやります。
  授業であったり、会議であったり、部活なんです。

  また、短期的に仕事の評価がでることは
  やるでしょうね。
  公開授業とか、研究発表とか

  自分が、教育理念などから「これをしなくてはならないはずだ」
  と思うことよりも
  上司からやれといわれたことを優先するでしょうね。

  結果がわかりにくい事よりもわかりやすいことを
  ついつい優先してしまいますよね。
  子どもの人格の向上とかは
  その結果ついつい後回しになってしまい
  教育とは何なのか、塾と学校の役割分担
  なんてことは考えもつかなくなります。

  終わりのある仕事も優先になるでしょうね。
  運動会とか合唱コンクールとかです。

  これらの結果、ついつい劣後するのは、
  子どもが、協調して学校生活を送るための指導、
  他人を尊重するという人格の向上に関する指導
  ということになりましょう。

  人格の向上には終わりはありませんし、
  形や数字に表れない
  評価されるかどうかわからないし、
  いじめによる自死や不登校という結果が出ないかもしれない。

  結果が出ても、原因は複数あるのだから
  責任は問われないかもしれない
  ということがいじめ報道から知る教育委員会の方針ならば
  優先していじめに取り組むということにはならないでしょう。

  特定の子が機嫌を悪くすると、
  モンスターペアレントが学校に乗り込むという
  結果が出ることが明らかなことについては
  対応をするのかもしれません。

  物理的、時間的に、業務を減らすことが
  有効ないじめ対応なのだと思います。

2 交感神経の活性化の過剰かつ持続
  交感神経が過剰かつ持続の状態になると、
  複雑な思考ができなくなるということは
  前の記事で書きました。

  この推論する力がなくなるため、
  他人の感情を思いやるということがなくなり、
  本人が助けを求めていないのだから助けなくてよい
  という単純な発想になります。

  危険か安全化の判断が優位になってしまいますので、
  とにかく結論を求めてしまいます。
  
  その結果、生徒に行動を誘導するという指導ができなくなり、
  形式的な謝罪で良しとするわけです。
  結論を押し付けて良しとするわけです。

  結論に直結するマニュアルを探そうとします。
  原理原則に意味を感じ取ることができません。

  「なぜ生徒が、そのような行動をするのか」
  という、理解、共鳴、共感をすっ飛ばして、
  はみ出しているものを矯正しようとし、
  足りないものを、叱咤して、結論を出せと
  いきり立つようになってしまいます。

  他人から言われたことをこなすしかありません。

  部下や同僚に対する指示は命令になり、
  上司や同僚に対する協力は服従になるわけです。
  自発的なモチベーションはあまりないでしょう。

  不測の事態には対応できないことになります。

  書いていて不安になったのですが、
  これらのことは、学校現場に対する悪口ではありません。
  一般的に、忙しすぎるとこういうことになることが
  理論的には当たり前のことですよということを
  申し上げているのです。

  実際の学校現場は、このように理論通り腐っているわけではありません。
  先生方が無理をして頑張っているからです。
  頑張りすぎていることは心配なことです。
  一刻も早く、先生の多忙を解決するべきです。

3 やることが多すぎると、不安が出てきます。
  これは自分で自分の身を守れないのではないかと
  無意識の中で、出てきてしまうのです。
  人間に限らず動物は自分で自分の身を守ろうとする本能があります。
  やらなければならないことが多すぎると
  いざ、何か危険が生じたときに対応できないのではないか
  という不安が頭をもたげてしまうのです。

  思考の単純化は、この観点からも強くなります。
  他人に対する見方も単純化していきます。
  自分の役に立つ生徒なのか、自分の足を引っ張る生徒なのか
  という見方をついしてしまうわけですが、
  それはその人の人格や能力の問題ではなく、
  忙しすぎるとそういう発想になっていく傾向にある
  ということなのです。

  そして、自分の足を引っ張る者に対しては
  自分を攻撃する者という評価をしてしまいます。
  自分にとって、危険なのか安全なのか
  という短絡的な思考に陥るからです。
  そして、自分に役に立つものを優遇するようになります。
  安全圏に入っていたいからです。
  そして、攻撃には容赦がなくなります。
  怒りを止めることは、危険の回避と矛盾するからです。
  怒りも危険回避システムです。

  そうして、対人関係上の危険を回避することがテーマとなり、
  他人の評価を過度に気にするようになり、
  些細な不具合は自分の失敗と受け止め、
  それが致命的なものに感じてしまいます。

  その結果が、先ほどの優先順位の傾向を強めるわけです。

  心に余裕がないということは具体的にはこういうことです。

  先生の仕事に余裕があり、
  生徒の顔を見る時間があれば、
  生徒の目の輝きは、先生であればよくお分かりになります。
  いじめやからかいの情報がなくとも、
  声がけをすることができるわけです。

  また、些細なからかいでも
  うるさく言われても、四角四面といわれようと
  だめなものはだめと
  一つ一つないがしろにしないわけです。

  忙しければ、
  多少、生徒の誰かが、別の生徒から
  人格攻撃をされていても
  「からかいだからいじめではない」
  という奇妙な論理構成で、
  なかったことにするわけです。

  なかったことにしたいわけです。
  
  いじめがあっても、必ず自死するわけではない。
  自死してもいじめとは限らない
  という間違った考え方から、
  結果が出るかどうかわからないことは、
  優先順位がはるかに後方になるわけです。

  尋常でないほど忙しければ、多かれ少なかれ、
  そのような発想に自然と無意識になっていきます。

  人間として、動物として
  自分の身を守る本能があるからです。

  これ以上、先生方の仕事が増えて
  いじめが減るとしても、
  今度は、学力がさらに後退するか、
  先生の過労死が増える
  ということは自明の理だと思うわけです。

  今のマスコミの論調では、
  学校を責める姿勢ばかりめだっていて
  いじめや生徒の自死を解決するという観点がなく、

  いじめや生徒の自死を無くせと
  結論だけを押し付けているのは、
  多忙から始まる二極的思考と同じです。

  パワハラ上司が部下に結果を出せという叱責と
  かぶって見えてきてしまいます。

  いじめの問題は、
  学校だけで解決することが不可能な現状であることは
  わかりきったことですが、
  学校が主体とならないと解決できないことも事実です。
  
  学校は、忙しさと、実際の非難で
  何を言っても自分たちは責められているとしか感じず、
  防御反応が強くなっています。

  学校は、父兄は、自分たちを攻撃する存在であって、
  協力してものを解決する存在だと
  認識していないように感じるときがあります。

  原因と問題の所在を共有して、
  いじめの問題は解決しなければなりません。

  怒りは後で良いし、その方が良いし、
  加害者をさらすことは何の良い方向にもなりません。
  これは国民の思考も二極化、単純化している現象に
  他なりません。

  とにかく、教師の多忙を解消する。
  まず学校現場から、広く市民に向けて
  堂々と
  その必要性を訴えてほしいと思っています。
    

  
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