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衣食足りて礼節を知るの対人関係的補足 友人間のリンチの構造(ちょっとネガティブなのでその意味で閲覧注意) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

中国の「菅子」が出典のようです。
意味は、

「一国の為政者たるものは、計画をたてて経済を豊かにしなければならぬ。豊かな国へは、どんなに遠くからでも 人民は集まってくるし、開発の進んだ国から逃げ出す人民はひとりもいない。その日暮らしにもことかく者に礼節 を説いたところでなんになろう。生活が豊かになれば、道徳意識は自然 と高まるものであり、衣食が十分であれ ば、自分の名誉や恥とかを重くみるようになる。」
ということらしいです。

紀元前600年頃の話ですから、
文明、生産技術と、生活状態が直結していたのでしょう。

なぜ、衣食が足りないと礼節を忘れるのでしょうか。
この場合の「衣食足りる」とは、この時代のことですから
寒さをしのぐ手段、飢えをしのぐ手段がある
ということになるでしょう。

寒さをしのげず、飢えたままであれば
人間だって動物ですから
生きようとするわけです。


飢えていたり、凍えていたりして
生存の危険が生じている場合は、
先ず、食料を口にしたい
生存の不安を解消したいという意識が高まります。

他の群れのやぎをこっそり奪っても食べたいと思うでしょう。
そして、このような慢性的な不安がある場合は、
他の群れのやぎを奪うことによって、
後でもめ事になるというような、

他人の気持ちを考えるという共鳴する能力や
将来的にまずいことが起きるかもしれないという推察力が
活動を停止ないし低下してしまいます。

だから、道徳とか、正義とか
目に見えないものが、心のストッパーにならないのです。
おそらく自分の家族の命を助けるために
他人の家族に不利益を与えるということが多かったと思われます。

この時期には権力者が存在していますから、
新都市の形成のために移住させられた形で
地縁も血縁もない群れが隣り合わせに存在した
可能性があります。

すると、仲間という意識はないですから
自分たちの生存競争のために
他の群れと敵対することはあったでしょう。
大変興味深いです。
家族や少し大きい小集団の中では
分け合って生活したとしても、
隣の群れとは、生存競争が激しかったりしたのでしょう。

だから、礼節を知らないというのは
飢えもあるのでしょうが、飢えそのものではなく
生命の危機に慢性的にさらされていることによって
交感神経の活性化が慢性的に持続していたことによる
脳の機能の停止ないし低下という側面を見逃してはいけない
のだと思います。

現代社会でも、礼節をわきまえず、
ヘイトスピーチを行ったり、
身近な人間をリンチで殺したり、
家族に暴力をふるうなどということが行われます。

曲がりなりにも、衣食はあるはずです。
どうしてこのようなことが起きるのでしょうか。

対人関係学は、衣食が足りても、
交感神経の活性化が慢性的に持続している事情があるからだ
これが、現代社会においての
「衣食」なのだと考えます。

即ち、
このことわざを作った菅仲のころは、
群れの結束は強かったものと思われます。
群れの構成員どうしはかばい合い、補い合っていたと思います。
そうでなければ、群れ全体が消滅してしまうからです。
一人だけ食料を独占してしまうと
群れの他の構成員が死滅していき、
群れを失った者は、農業をすることもできません。
また、一つの群れに属するだけで、
複数の群れに属するということは滅多になかったはずです。

これに対して現代社会は、
家族を中心とする群れに所属するだけでなく、
学校や会社に所属していますし、
税金を払ったり選挙を行い、社会につながっています。
犯罪によって、実名が報道されたり、
ネットに自分の居場所を見つけたり、
ネットで傷ついたりしているわけです。
群れが複数存在しています。

群れの構成員相互の関係も
例えば、家族であっても、
あまり一緒にいる時間がないことが多いのではないでしょうか。

学校といっても他人の集まりということが多く、
好きや弱みを見せるといじめられたり、
就いていけなくなるということがあるのではないでしょうか。

職場といっても、人間として大事に扱われるのではなく、
会社の利益のために、人格を消すことを要求され、
恥ずかしさとか、辛さとか、そんなことは考慮されない
人間らしい結びつきも否定されてはいないでしょうか。

社会についても、
子どもたちは、中学の後半で、
自分の一生を悟ってしまう。
明るい展望を持つことを許されずに、
自分が将来的にみじめな生活を余儀なくされると
そんな気持ちになることも達が
かなりの数で存在するように感じてしまいます。

そのような子どもたちの唯一のよりどころは
同じような境遇の子どもたちです。
友達というような積極的プラスの付き合いではなく、
自分のそばにいる人間がいるという
ぎりぎり最低限の安心感のようです。

その子の弱いところを承認して助け合うわけではなく、
もともと承認されていないと感じる者同士が、
家庭でも、学校でも、職場でも
自分の存在自体を否定されていると感じている者たちにとって、
存在自体を承認する、一緒にいること自体を承認するという
最低限の「仲間」だった可能性があります。

16歳の少年が亡くなったケースでは
電話やメールに出なかったことが犯行の動機とされています。

これは、加害者たちにとっては死活問題だったのでしょう。
仲間すら、自分たちの存在を否定するという意識を持ってしまうと、
自己防衛的な意識が極めて強くなってしまいます。
危険をより大きなものととらえます。

そして、その対象者が、自分より弱い、自分たちは勝てる
という意識を持ってしまうと、
本来、社会や、家庭、学校との関係で持っている不安に対する
カウンター行動が、
弱い、勝てると思われる相手に向かってしまうわけです。

怒りの大部分は八つ当たりです。

回復できないはずの自分の存在意義の回復の行動ですから、
攻撃行動は、終わりが見つかりようがありません。

社会的存在に対する不安が慢性的に持続していて、
相手の心情を考えるような共鳴能力や
このまま続けると死んでしまうのではないか、
そうなったら取り返しのつかないことになってしまうという
近い将来を予測する推察力は
脳の機能が停止ないし低下しているために
発動することはありません。

凄惨な結果になる傾向になってしまいます。

だから、少年たちの加害も、
貧困が原因というよりも、
少年たちが置かれた、承認されない、否定されているような
社会構造にあると考えなければ再発防止にならないのではないでしょうか。

よるべき場所がない少年たちが吹き溜まりのように集まってしまうことは
社会の問題だと思います。
つまり、少年たちが、独力で改善することは極めて困難です。

それでも、社会は気楽なものです。
自分たちが、加害者を追い込んで、
交感神経の活性化が慢性的に持続される状況に落としておきながら、
全て自己責任ということで
加害者を処罰して終わりとしようとしているわけです。

これから、同種の事件は増えるでしょう。
むしろ、陰湿化、非人間化してくると思います。
自分が大切に扱われていないと思う人たちは
他人を大切にしようという気持ちになれないし、
どうすれば他人を大切にできるのかもわかりません。

それでも社会は、追い込まれた少年たちを放置して
即ち被害を放置して、
自分たちが追い込まれている社会からの不安、危機意識を
加害者に対する怒りにすり替えていくことでしょう。

自分のこととして原因を考え、対策を講じないで、
悪いやつを悪いと怒ればよいのですから
とても気楽なことだと思います。


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