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母性幻想の根源は、ヒト女性行動傾向との混乱にある。人間の価値はどこに。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


先日、テレビでトランスジェンダーの映画を紹介していました。
女性の監督が、男性にやがて母性が芽生え始めるという作品の説明をしているのを聞いて、
「ああ、そういうことか。」と思いついた次第です。
「それは間違っているだろう」と。

母性というものが神格化され、
自分は母性が足りないのではないかという女性が
深刻に悩んでいるということが
家庭紛争の遠因になっていることが多くあります。

男性から見れば、
子どもに優しい妻を見ることは、
まあ、プラスに作用することもあるのですが、
それほど愛情を持たなくたって、
やることをやっているわけですから
マイナスに見るということはほとんどないのです。
隙あれば、俺が愛情を注ぐという父親も多いくらいです。

ところが女性は、
子どもに愛情を感じられないと言って悩んでは、
そのイライラを子どもにぶつけて虐待になったり、
夫に対する防衛的攻撃感情をあらわにしたりと
家族を巻き込んで自滅していくことがあります。

なるほど、聖母マリア像のように
慈愛に満ちた優しい姿が母性だとすると
そうではない自分に悩むことが出てくるのかもしれません。

対人関係学的に言えば
そもそも、母性のとらえ方が間違っているということです。

母性という以上は、
出産と授乳行為に伴う心情的変化ないしは
行動傾向の特質ということになるはずです。

女性である以上母性があるはずだということは
きわめて非科学的なファンタジーです。

そもそも、出産と授乳はホルモンの急激な変化を起こします。
妊娠から出産までは、女性の体内では
女性ホルモンが多く分泌されます。
ところが、出産以降は、
女性ホルモンが極端に減少して、
ほとんど分泌されなくなります。
女性ホルモンが無くなることによって、
母乳を生成するためのホルモンであるプロラクチンが分泌されるようになります。
女性ホルモンが無くならないと
プロラクチンが分泌しないという関係にあるようです。

イタリアの研究では、
プロラクチンは、敵対感情を高める
という調査結果が出たそうです。

要するに、子連れの母熊や母オオカミが
他者が子どもに近づくだけで敵意を示して
襲ってくるということに関係しているのではないでしょうか。

敵から無防備な子どもにおっとりした母親だけであれば、
動物は子孫を残せなかったことでしょう。
子どもを産んだばかりの母親が攻撃的になることは、
動物が生きるために必要な仕組みだと思います。

もっとも、プロラクチンは母乳を生成しますが、
母乳が無事に赤ちゃんの口に入るためには
オキシトシンというホルモンの分泌が必要なようで、
このオキシトシンは、幸せホルモンと呼ばれるように、
穏やかに、他者を信じる気持ちを作る作用があるようです。

母親が険しい表情をしていつもうなっているばかりではなく、
穏やかな表情で赤ん坊を見守るのは
何もフィクションではなく、オキシトシンの作用のようです。

このように、プロラクチンとオキシトシンという
敵対感情ホルモンと
絆ホルモンと
同時に分泌されなければ、母乳が出ませんので
母親の感情というものは相矛盾するものである
ということ言えるようです。

オキシトシンの分泌がなされていても
プロラクチンの影響が大きければ、
何か悪いことが起きるのではないかという不安に苦しめられ、
常に攻撃的感情を抱いているということも
それこそ母性の特徴としてあり得るわけです。

このことだけからしても
聖母マリア像になるか、攻撃的な母熊になるかは
ホルモンの分泌状態に左右されるということですから
母性とは、極めて偶然的な事情であり、
生理的変化であって、
あるいは一過性の状態であって
その人の人格や性格、ましては人間としての価値とは
全く無関係だということになるのです。
悩むことはメリットはなく、デメリットしかありません。

ところで、ここでいう母性とか母親の愛情というのは、
本来、母子の一体感というべきだと思います。
自分以外の者に対する愛情があふれているのではなく、
母親にとっては、自分と子どもの区別がつかないということです。
自分と子どもとの区別は、子どもの反抗期によって
母子双方が徐々に身につけていくものだと思っています。
これも、生きるための仕組みだと思います。

だから、自分を犠牲にして子どもに尽くすというのは
ある意味間違いです。
自分の本体を犠牲にして、自分の分身の利益を図る
という意識の側面があるということでよいのだと思います。

こういう意味での自己犠牲の母性は、
母親が自分自身、本体を大切にする習慣があるかないかで
現れ方が変わるわけです。
もともと自分が大切にされていないという感情が残っていると
自分の分身である子どもも大切にできないという可能性があるわけです。

対人関係学は、ここを重視します。
もし、子どもを大事に思えない、愛せないというならば、
先ず、自分を大事にしてみることから始めてみては
いかがでしょうか。

それから、子どもを守らなければならないという責任感が強すぎて、
何か悪いことが起きるかもしれないという不安感に苦しめられると
子どもを守ることができないという悲観的な考えに支配されて、
子どもを虐待してしまう、極端な話殺してしまうということがあるわけです。
これは、人間だけの行動様式ではなく、
自然界でも確認されていることです。

さて、長くなりましたがいよいよ本題です。
(ごめんなさい)

これまで母性だと信じられていた美しい感情
たとえば、弱者の保護、無条件の慈しみ、公正、
という人間のつながりを重視する感情は
どこから来るものなのでしょうか。

それは裏を返せば、
弱肉強食の拒否、自己利益の優先の否定的評価
と言えるでしょう。

これは、ヒトの群れを作る性質から形成された
遺伝子的な特徴なのだと思います。

そして、それが色濃く表れているのは
男性よりも女性においてということになると思います。

サルから分かれて800万年、原人から分かれて20万年
人は群れを作って生きてきました。

男性が狩りをして、女性が住みかを守って
ということがよく言われます。
(どこまで、整然とそれが行われていたかについたに
やや疑問がないわけではないですが、)
それには合理性があります。

当時の群れは、
それほど大きな人数ではなかったと思われます。
だから、群れの頭数を確保するということが
生き残りのためには至上命題だったと思われます。
また、出産も他の動物に比べて不利な条件でしたので、
生まれてきてもなかなか育ちませんでした。

群れの頭数を維持するためには、
ともかくも、出産までこぎつけることが
必要だったはずです。
流産の危険を避けることは、
群れの悲願だったはずです。

そうだとすると、
およそ女性には、駆けまわったり闘ったりする
狩りの仕事を避けさせるようになっていくことは
自然な流れだと思います。

女性が狩りをしない群れが
なぜか、出産率が高いという法則を
何年もかけて見つけて行ったということです。

狩りをしないことが平気だったり
狩りをしないことを好む女性が
徐々に遺伝子上優位に立っていったとは考えられないでしょうか。

一つは、このような理由から
生き物を殺すことを厭わない遺伝子が
特に女性の中で相対的に減少していった
ということは考えられないでしょうか。

もう一つは、
男性は、狩りをする性だとすると、
生きるための行動である、
狩りを遂行する、仕事を完成させる
ということを志向するようになっていった
ということではないでしょうか。

女性は、住みかを守ることで群れを守ってきたわけですから、
群れを壊す者、群れを壊す行動を排除しようとしていたと思うのです。
弱い赤ん坊などをぞんざいに扱う行為をやめさせたり、
自分だけ食料を食べようとする行為を禁止したりして、
群れの弱い者を守ることによって
群れ全体の弱体化を阻止する
役割を果たしてきたのではないでしょうか。

(もっとも、群れとして行動するのですから、
800万年にしろ、20万年にしろ、
それぞれの群れの事情もあったわけで、
整然と男性と女性の役割がわけられていたわけではなく、
ボワンとした傾向として残ったのではないか
というくらいに考えています。)

要するに、
主として男性は、群れの共存のための狩り等の遂行に価値を置く傾向にあるけれど
主として女性は、群れの共存そのものに価値を置く傾向に
長い年月をかけてなっていったのだと思うのです。

これは、現代社会においても残存していると思うのです。

結局母性というのは、ホルモンの作用を中心とした生理的作用によって出現する一過性の状態であり、
ヒトの女性になんとなくよく見られる
弱者の保護、無条件の慈しみ、公正は、
遺伝子的な傾向ではあるけれど
理性的な要素が強いものであると思います。
自然に感じるというよりは、
これがこのまま続いたらどうなるだろうかという
将来的要素、派生的要素を考える
脳の力が必要だということになります。

こちらの力が多くあるかどうかということこそ
人間としての価値なのだと思います。

現代社会は、やや男性的傾向が強すぎると思いますので、
女性的傾向が優位に立つことで人類は幸せになれると思っています。


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