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「自閉症の世界」(ブルーバックス)感想文3 自閉症スペクトラムの本当の意味は、普通の人の中にも自閉症的要素があるということかもしれない。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


昨日このような記事を見ました。
「自閉症者が人類社会に「不可欠」である理由 〜実は障害ではない!」 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51688

「私とおんなじことを言っている」と驚いたのですが、
書いていらっしゃる方は、「自閉症の世界」を翻訳された方でした。
この先生の本を読んで感じたことを書いているのだから、
私は、その掌の上で踊っているのであり、
当然と言えば当然ですし、
「おんなじこと」と言うのは不遜なことでありました。

ただ、私の言っていることも
あながち見当外れではなかったという安心感をいただきました。
それとも、結論がたまたま近かっただけでしょうか。

まあ、私の場合は、専門家が言っているのではなく、
素人のたわごとだと思ってご寛容のほどをお願いします。

自閉症をもう一度おさらいすると
1 社会的コミュニケーションおよび対人相互関係が複数の状況で障害されていること
2 こだわりが見られること(興味の範囲が著しく限られている。)
の2点ということになるそうです。


遺伝子的に言えば、
特定の家系に自閉症の現れる率が高いとしても、
遺伝子的には古い遺伝子であり、
一般の人たちに広く共有されているらしいというのです。

もしかすると、
いわゆる普通の人でも、
自閉症の種を持っているのかもしれません。

自閉症の人たちは、
音だとか、光や色だとか
強い拒否反応を示すことがあるようです。

ブーンという蛍光灯の音とか、
黄色の色彩やフラッシュのような光で
パニックになる等の反応を示す人がいるようです。
(緑や茶色の穏やかな色を好むことが多いらしいです。
 自閉症の人たちには、優れた音楽家や画家がいます。)

もしかすると(こればっかりなので恐縮ですが)
われわれも、
本当は、音や色彩が不快に感じているのかもしれません。
はっきりとこれが嫌だと特定できないだけかもしれない
と考えることはできないでしょうか。

実は私は、蛍光灯の音とか持続する音は嫌いですし、
フラッシュは嫌ですね。
黄色は嫌だという自覚はありませんが。

現在、ブロードウエイでは、
そのような花火やストロボを使用しないバージョンの
舞台公演をしたり、
「アナと雪の女王」も感覚に優しい形の上映を
するようになっているそうです。

おそらく、
そういう舞台や映画は、
自閉症ではない人にとっても
優しい、快いものになっているのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

めんどうくさく言うと
「嫌だ」と感じる閾値と「嫌だ」と表明する閾値が
自閉症の人が低いだけなのかもしれないということです。
いわゆる普通の人は
快不快でいえば不快なのだけれど
自分でそれをはっきり自覚しないだけだかもしれないし、
自閉症の人は「嫌だ」と感じると「嫌だ」と表現してしまうという違いがあるだけかもしれないと思うのです。

不快を感じないだけで
実は生理的な侵襲を受けていて
侵襲が蓄積されて初めて自覚をする
あるいは無自覚に何らかの症状が出て
原因不明とされている
ということが無いとも限らないだろうと
思ってみたりしています。

また、そういう自閉症の人たちが嫌がる
音や光、色彩が
それでごまかしていて、本質を隠すことにも
つながっているかもしれません。

そういう意味では、自閉症の方々の感覚に
学ぶところが大きいという可能性があるように思われます。
おそらく、将来的にはそういう社会が実現する場所も
あるのではないかと想像してみたりもします。

それをブロードウエイやディズニーという
エンターテイメントの王道が実現しているということが
偶然ではないように思われるのです。

そのような物理的な感覚だけでなく、
社会の問題も同じということは考えられないでしょうか。

診断基準が変わって、自閉症と診断されている人が増えているというよりも
自閉症者そのものが増えているとしたら、
それは理由があることだと考えなければならないでしょう。

ここで問題にするべきだということは、
精神障害は、相対的な概念だということです。
先ほどの自閉症の診断基準のうち、
複数の対人関係の障害があれば自閉症であるなら、
強いこだわりがあっても
コミュニティーがそれを受け入れれば
障害にはならないということです。

逆に同じ人でも
自分を受け入れないコミュニティに入ってしまうと
障害という診断が下される可能性が出てくることになります。

常に思うのですが、
精神科の診断には、
その人の周囲が健全なコミュニティであることを前提として、
周囲に協調しなければならないという
隠れたメッセージを感じています。

変わり者の私だから思うのでしょうが、
対人関係の不具合が
弱い者に原因をしわ寄せしているように
感じることが多くあるのです。

だから、一つの可能性として、
自閉症者が増えているとすれば
それは、むしろ個体に原因を求めるのではなく、
他者に対して不寛容なコミュニティが増えている
ということではないかということを
自分たちのために点検するべきなのではないか
と思うのです。

幼稚園や小学校などにおいては粗暴性により身の安全が保たれないことは
寛容にはなれないので、
安全については最低限の確保が図られる必要はあると思います。
(自閉症の子どもが粗暴傾向にあるというわけではないようです。
 感情を抑制できないために結果として粗暴になる
 ということが正しいような実感があります。
 だから、犯罪の原因にアスペルガー障害をもってくることは
 本当に妥当性があるのか、専門家の方々に教えを乞いたいと切実に思います。)
当面は、粗暴性に対抗する物理力ということですが、
将来的には、粗暴的感情を寛解させるノウハウの獲得
ということになるのだと思います。

また、表現行為を抑制するという発想よりも、
感覚的な刺激の解放的な対処方法の確立が理想なのでしょう。
要は、「自分がそのコミュニティに受け入れられている」
という安心感をいかに獲得するかということだと思います。

自閉症の人の中には、心を許すと人懐こく
来いと言わなくても、いつでも気が付けば隣にいる
という人もいるようです。
信頼できる人の指示には、一応従っておこうという
行動傾向がある人も多いように思われます。
ある意味、納得できないけれど学習はするということなのかもしれません。
何か、パニックになったときも
その人の声を聞くことで
安心しているということもあるように思われます。

本の中でレインマンの原型になったビルという人物のエピソードも
それを示しているように思われます。

ところが、コミュニティの方に余裕がない場合
他の人と同じ行動をとらないこと自体で
イライラするのはある意味当然のことでしょう。

前々回、ちょっとだけ触れたケースですが、
弁護士どうしの会議をしていて、
その人以外の人がみんな、
会議を一つ一つ厳密にするよりも
あとは主催者に一任して早く終わりにしようとしているのに、
「どうしてそこにこだわる」
という意見を出して、
進行を止めて自説を展開する人がいました。

いつものそのようなことで、
その人が発言を求めただけでうんざりするようになりました。

ある時、こちらも開き直り、
終わらないなら徹夜でもなんでもしてやると思うようになった時、
その人の意見は、ほとんどの人とは意見を異にするが、
よく聞くと(余裕がなければこれができない)、
確かに問題の所在を的確にとらえているという評価ができる
ということに気が付いたというか、同意できるというか
理解ができるようになったのです。

そして、案外、そういう議論を抜きにことを進めていくことで
間違いや、不適切な方向への親和性が出てくる
彼の意見を大勢の意見に置き換えることはできないけれど、
彼の意見の要素をしっかり組み入れて運用しなければならないことが多い
ということを実感できるようになりました。

もちろん彼が自閉症だったということではないのですが、
要は、大勢の感覚が必ずしもあてにならない
ということの一つの体験ではありました。

おそらく、話し合うべき時間がたっぷりあれば、
彼の意見に賛成反対をするだけでなく
どのように彼の問題意識を反映させるか
という議論に発展したのだと思います。

要するに自閉症は
当該個体のコンディションによって成立するだけでなく、
当該個体を取り巻くコミュニティのコンディションによって
「協調的でない」と烙印を押されてしまう可能性がある
ということを言いたいのです。

例えば、学校もそうでしょう。
本当にそれが大切なことか
例えば組体操をやりたくない怖いということを素直に言えば、
協調性が無いということになってはいないでしょうか。

疲労の中で、さらに残業をさせられるのを拒否することで
協調性が無いとして、叱責の対象になってはいないでしょうか。

もしかしたら、皆がやる気になっているシンポジウムでも、
一人だけ、その企画は納得できないと困らせている人がいる場合、
本当にやる必要があるシンポジウムなのか
考え直すということがあっても良いのかもしれません。

また、集団ヒステリーのような状態に
コミュニティがなっていることがあるように思えます。

「21世紀の失政」ということで、
平成23年3月ころの文芸春秋で特集がありました。
その中で、保守派の論陣や自民党の年配の方々が
小選挙区制を挙げていたことに驚いた記憶があります。

小選挙区の議論が国会でなされていた時、
私は、小選挙区制は、
社会的要素を反映した代表制にするべきだという
憲法学の立場から賛成できなかったのですが、
同じ憲法を学んでいたはずの友人たちが、
もう小選挙区制は実現することになっていると言って、
議論をすることすら反対されたという経験があります。

私なんかよりも優秀な大学の方たちでした。
というか、私のネタ元の教授の講義を受けていたはずなのです。
不快とか何とかいうよりも、
とても不思議なことが起きているという印象が強かったです。

私なんかは、自分にちょっと自閉症の傾向があると思うと
どちらかという嬉しくなってしまうのですが、
そういう優秀な人たちは
おそらく自閉症とは全く縁のない人たちなのでしょう。
人間的には良い人たちで、今でも仲良くさせていただいています。

コミュニティ自体に緊張感が持続しているケースもあります。
例えば、プロ野球のチームで
連続勝利記録みたいなものがかかっているときに、
何らかの拍子で単純ミスをしてしまって
居場所がなくなるということもあるでしょう。

例えば無理な売り上げ目標を
本社から有無を言わせずに押し付けられ、
何とかそれを実現しないと
営業所長の首が飛ぶみたいな状況の中で、
子どもの授業参観なので有休をとるといったら
やはり、協調性が無いと言われるのかもしれません。

自閉症という概念は、
むしろ、いわゆる普通の人たちの
コミュニティの在り方を考える
強力な道具になる可能性という
大きな魅力を感じます。

多数の暴走を止めるきっかけにはなるように思われます。

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