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精神と肉体の関係を考えている貴方へ 心は生命を維持するシステムだと考えた場合の自殺の本質に関する試論 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



貴方は精神と肉体の関係を考えているとのこと
それを知って、貴方の成長をまぶしく感じました。
素晴らしいテーマだと思います。

このテーマの場合は正解を探し当てるのではなく、
自分が納得するまで考えることが良いと思います。
それは、貴方が人間とは何かということを考えることであり、
それは、貴方がどう人間としてどう生きていくかを考えることだと思います。

誰かから答えを教えられるということではなく、
自分の頭で考えることが大切なのでしょう。

一つの考え、こういう考えもあるのかもしれない
というアイデアをここで話させてください。

結論から言えば、
心も体も、生きるための命を守るシステムだ
という考え方です。

体が命を守るシステムであるということは
理解しやすいと思います。

脳や内臓を筋肉や骨、皮膚が物理的にも守り、
血液が栄養や酸素を運ぶ、
それらを脳などがコントロールする。

目や耳、鼻が危険を感じ、神経が脳に伝え、
脳は、体の各部分を逃げるモード、闘うモードにする。

あるいは脳は、
危険のパターンを記憶して、
危険を回避しようとする。
利益の道筋を記憶して
利益を獲得している。

実によくできたシステムです。

では、心とは何でしょう。
貴方は精神と言いましたね。

私は、心も、体を守るシステムの一つだと思うのです。
但し、ここでいう心は、心のすべてではなく
心の骨格です。

骨格ということがどういうことかというと
家で例えれば、
屋根、壁、柱が骨格中の骨格でしょう。
さらに窓や床も骨格かもしれません。

でも家はそれだけでなく、
壁紙や断熱材や、色々な付属物があるわけです。

そのような骨格以外のはなしではなく
あくまでも心の骨格の話です。

なぜ、心が命を守るシステムなのかについては
実際に心が命を守る様子を見れば明らかです。

危険が迫っていて、逃げなければならない時、
心は恐怖のモードにあります。
逃げる以外の思考を停止して、
今安全になったか、まだ危険かという
二者択一的な思考とし、確実に逃げ通すことだけを考えるから、
逃げられる確率が上がります。

危険は迫っているけれど、闘って振り払う時
心は怒りのモードにあります。
相手の心情を配慮することを停止し
相手を確実に叩きのめすために容赦のない状態にします。
相手を確実に叩きのめそうとするモードに入ることが
相手に勝つ確率を上げることになります。

この他にも、利益を獲得した時の心の状態が喜びであり、
緊張が突然不要になり、急激に緩和した状態が
笑いというモードです。
危険が迫っていないときには安らぎを感じるでしょう。

仲間の中にいる時に安らぎを感じることは
仲間もリラックスできるから、
自分が仲間から好ましく思われるでしょう。

これが、心が命を守る様子です。

貴方はきっとこう言うことでしょう。
心はそんなに単純なものではない。
ずっとずっと複雑なものだと。
危険に対する反応だけが心ではないはずだと。

ここで考えてほしいことは
人間が生きるということの意味です。
他の動物ならば、多くの場合
生物的に生きるということを考えれば
良いのだと思います。

だけど人間は生物として生きるだけでなく
仲間、家族だったり、友人だったり、同僚だったり
の中で尊重されて生きるということが
必要な動物ではないでしょうか。

例えば、貴方は、仲間の中で邪魔者にされたら
とても苦しいだろうなということは想像がつくと思います。
自分で勝手に、邪魔者とされているのではないか
と思うだけで苦しいですよね。
仲間の中で一番下の人間として扱われるとか
仲間から出て行ってほしいと思われたり
仲間から役立たずと思われたりしたら
とても苦しいでしょうし、
自分が大切に思う仲間ならなおさら耐えられないでしょう。

人間は、命や健康を維持したいという要求と同等に
仲間の中で尊重されたい、仲間として認められたい
という要求を持った生き物だと思いませんか。

チンパンジーの祖先から分かれて800万年と言われます。
武器も逃げ足もない人間は
生物的健康だけでなく対人関係的健康を守ろうとし
実際に守ることができたものの子孫だけが
群れを作ることに成功して生き残ってきたのだと思います。
それが私たちです。

だから、私たちが
対人関係的な健康を守ろうとするのは
遺伝子レベルの話なので、
そう簡単に変えることはできません。

私たちは、群れを作るシステムとして
即ち生きるシステムとして
心を持っているのです。

だから対人関係的な危険に対する反応として
生物的反応と同じ、恐怖、怒り、喜び等の
心の反応が現れると考えることはできないでしょうか。

確かに、心や精神は複雑でしょう。
そのことをむきになって否定する必要性もないと思います。
ただ、心の根本、骨組みは、
危険や利益に対する反応かもしれない
生きるための合理的な仕組みかもしれないという
考え方もあることを
頭の片隅に置いておくとよいと思います。

貴方の考えるテーマの中に、
自死は、精神と肉体の対立だというものがあるようです。
心が命を守るためのシステムならば
どうして、心で肉体を滅ぼすのか、
貴方は当然疑問に思うでしょう。

ここで補助線を引くことを許してほしい。
あの数学の図形で出てくるあれです。

それは、
人間はそれほど強くない
ということです。

強くないということは、
最後の最後まで、本当に最後まで
死ぬことをあきらめないということが
できない生物であり、
絶望を感じることができない生物だ
ということを言っています。

ここでも生物学的な危険の場合はわかりやすいと思います。
例えば銃で胸を打たれる場合、
最後の最後まで生きようと意識をはっきりさせていたら、
自分が銃弾が胸に激突して、体が壊れる様子を認識してしまいます。
もしかすると、死ぬよりもつらい時間になるかもしれません。

通常はこういう最後まで意識があるのではなく、
気絶するか、仮死状態になるようです。

最後まで意識があることで生き残る可能性が高くなるより、
気絶して無抵抗になる、自然に身を任せる方が
生き残る可能性が高くなるという指摘もあります。

これは、飢えた猛獣の前に突然投げ出された場合も
同じでしょう。

そうすると、人間は死ぬよりもつらい状態の認識を
回避するシステムがあるのかもしれません。
絶望を回避するシステムということかもしれません。

生物学的な絶望だけでなく、
対人関係的な絶望も同じことが起きているのだと思います。

自分が生きるために大切だと感じていた仲間から
仲間として扱われていないことを感じてしまい、
仲間として再び尊重されることはないという絶望が近づくと
人間はそれを感じることを回避するシステムが
作動してしまうのでしょう。

生物学的危険と対人関係の危険の違いは
生物学的危険は、結果が即時に現れるわけです。
高所から転落して死亡するとか、
猛獣に食べられて死亡するとかですね。

しかし対人関係的な危険は
実際には結果がなかなか出ません。
というか出ないことも多いです。
来る日も来る日も、危険が迫ってくる状態で
結論が先延ばしされている。
しかし回復不能であることは間違いない。

おそらく、誰も来ない絶壁にかけられた橋から落ちて、
途中の細い枝に引っかかっている状態で、
やがて枝が折れて、再び転落するだろう状態のようなものかもしれません。

ここから先は、意識ができることではないのでしょう。
無意識にストッパーが作動してしまうのだと思います。
それは心ともいえるものかもしれませんが、
その人の人格とはあまり関係の無いものだと思います。
ちょうど暑いと汗をかくことが
その人の人格とは関係の無いものと同じだと思うのです。

絶望を感じることを回避するためのシステムが作動した状態、
生きる意欲が失われたときの状態で
自死が起きるのだと思います。

そこには睡眠障害や精神障害で
脳、心が正常に作動していないという事情も
大きく影響を与えていることが多いと思います。

死ぬよりも辛い出来事を体験したことが無い人
そのような精神状態を想像できない人は
自死を語るべきではないのかもしれません。

ところで、心を鍛える、精神を鍛えるという言葉があります。
心や精神を鍛えることによって、
命を守るということなのかもしれません。
私はおかしなことだと思います。

先に行ったことがもし正しいとしたら、
心は、危険のセンサーということにもなります。
心を鍛えるということは、
センサーの感度を鈍らせることです。

対人関係的危険は、
例えば自分が仲間に迷惑をかけることでも発生しますが
心を鍛えることは
仲間に迷惑をかけても気にしないことに
つながる危険はないでしょうか。

自分だけよければ人に損させてもよいという人はたくさんいますが、
心が強いのでしょうか。

おそらく、心が弱いから自死をするという誤解があるのではないかと
思われます。
むしろ心が強い人ほど、自分の肉体や精神の限界まで
自分を追い込むことをしてしまう傾向にあります。

ここでも危険を感じるセンサーが
既に弱まっているということがわかると思います。

心は、任意にコントロールできるものではない
と私は思います。
またするべきでもないのでしょう。

それではどうするか。
どうやって自分を支えるか。
ここでもう一度、
人間とは何かということを考えていただきたい。
人間が群れを作る意味を考えていただきたいのです。

人間は、決して一人では生きていけないものです。
遺伝子にそう組み込まれてしまっているからです。

だから、心を鍛えるのではなく
自分の仲間関係を強いものにしていく
ということが一つの解決方法なのだと思うのです。

心は、環境に対する反応だとすれば、
環境の方を改善するという発想です。
心は不変要素であり、環境こそが可変要素なのではないでしょうか。

自分の人間関係、社会の人間関係を温かいもの変えていく
それは人間に無理を強いることではなく、
人間の本能を目覚めさせていくことなのだから
環境的に阻害される事情があっても
必ず前進することだと思うのです。

たしか、それを希望と名付けのは
貴方だったはずです。


私の考えは選択肢の一つ
あるいはヒントに過ぎません。
明るいヒントになれば幸いです。

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