SSブログ

「自己肯定感」は呪いの言葉 騙されてはいけない。自己肯定感が低いといって悩む人は論理的に言って自己肯定感の高い人であるという論証 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

自己肯定感が低いということを悩む方々がいらっしゃいます。自己肯定感を高めようとして、高額のセミナーに通う方もおられるようです。でも、自己肯定感が低い、高いということはどういうことでしょうか。

良く引用されるのが、高校生を対象とした平成27年の独立行政法人国立青少年教育振興機構調査です。この中で他国と比べて日本の高校生は、自分は人並みの能力があると思う割合が圧倒的に少なく、自分はダメな人間だと思う割合が圧倒的に多いという結果が発表されました。平成25年内閣府の委託調査もよく引き合いに出されます。この調査は、13歳から29歳を対象として、日本、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデンを比較しました。
「自分に満足しているか」という質問に対して日本人は、満足している、やや満足しているの回答が50%に達しませんでした。他の6か国は70%以上から80%が満足している、やや満足しているとの回答でした。「自分は役に立たないと感じる」かどうかという質問もありまして、これについては約50%が否定的でした。但し、英国、韓国、アメリカについで7か国中4位と、ちょうど中間的な位置となっています。

最近の調査結果では、ユニセフの調査結果が2020年9月3日に発表されました。日本の子どもたちの精神的幸福度は38か国中37位でした。身体的幸福度は1位だったのですが、総合で20位となりました。(対象年齢は不明)

ところで、どうして自己肯定感が低いと問題なのでしょうか。たしかに、それが不幸だと感じているならば幸せになりたいのは当たり前ですし、子どもたちには幸せになってほしいものです。

社会の問題としては、自己肯定感が低いと社会病理とされる行動を起こす危険性が高くなるということだと思います。「どうせ自分なんて価値のない人間だ」と思うと、まっとうに生きていこうとする意欲がなくなり、前向きな努力建設的な思考がなくなります。すべてをあきらめる傾向を持つようになり、犯罪など不道徳行為を実行することに心理的な抵抗がなくなる、職場や学校、家庭での人間関係を形成することができない、他者への攻撃をするようになる、薬物などへの依存傾向が出てくる、自傷行為や自死が起きやすくなる。ということです。

危険を回避しようという意識が薄れるということがわかります。また、健康とか安定した人間関係の構築という、今後の自分の人生の長さに見合った利益を追求しようという意識よりも、その時良ければそれでよいという一時的な快楽や刹那的な利益を求めようとする傾向になるわけです。自己肯定感の低さが社会に蔓延することは、社会不安を高めてしまうことになり、ますます環境が悪くなっていくことになります。

自己肯定感が低いと悩むのは、幸せを感じにくくなっていますから、何とか自己肯定感を高めて、もう少し不幸を感じないで生活をしたいということはよくわかります。しかし、自己肯定感を高めようとするあまりに、高額の費用を払いセミナーに参加する人も多いようです。私、こういう方々は、自己肯定感が低いとは言えないと思うのです。本当に自己肯定感が低い人は、自分は幸せになれる人間ではないとあきらめていますから、お金をかけて継続的に学習しようなんて言う発想にはなりません。仕事の外に時間を作ってセミナーを受講しようとする方々は、真面目で勤勉な方です。セミナーを受講する等努力をすれば、自分は自己肯定感が高くなるはずだとご自分を信じていらっしゃるのですから、客観的には自己肯定感が高いのです。

本当に日本の子どもをはじめとする日本人の自己肯定感が低いのかについては、さらなる分析をする必要がありそうです。

私は、自己肯定感が低いのではなく、自己肯定感を低くさせられているだけだということを何度も言うつもりです。自己肯定感が低いということで悩んでいる人の大半は自己肯定感とは別のところに問題を抱えているのであって、自分の自己肯定感が低いということで悩んでいるということは本来の自分は違うということが前提になりますから、自己肯定感、自尊感情が低くないのです。

高校生を例にとればわかりやすいでしょう。高校生という時期は、大学進学や就職など、いやでも自分の将来の岐路に直面している時期です。日本の高校生の大学進学目的は就職を有利にするためということが一般的でしょう。なんらかの研究をしたいという人は少ないようです。少しでも就職に有利な大学に入学しよう、そのためには浪人生とも競って合格を勝ち取らなければならない。高校生は、今以上に成績をあげなければならないと考えるのが当たり前です。そのためには、現状に甘んじていてはならず自分を叱咤激励しなければならないし、合格するかどうかは、実際に合格通知を受けるまで分からないという極めて不安的な時期で、緊張が持続する時期でもあります。第1希望をあきらめて、受験する学校のランクを落とすということもありふれてあることです。

大学に入学しても、雇用と収入が安定する企業に就職することは、それほど簡単なことではありません。それにもかかわらず受験に失敗したり、学校を怒らせて退学になったりすると、ニートの生活と無保険の老後が待っているということで脅かされたりするのが、日本の高校生ではないでしょうか。

この日本の現状とは別に、ある程度の常識的な生活を送りさえすれば、家族を持ち、家を建てて、子どもを育てて生活ができる、常識的な趣味の時間も確保でき、それなりに人間として幸せに生活できるというのであれば、それほど成績と自己肯定感は連動しないでしょう。無理な時間に無理な勉強をするより、自分の好きなことに打ち込んで将来につなげたいと思うことでしょう。

受験戦争の激化ということが子どもの権利の観点から国際的な批判を受けますが、それ自体は昔から続いていることだと思います。大学受験という入り口、ないし人生の途中経過における競争激しさは変わらないのかもしれません。しかし、大学卒業後の就職という出口の意味あいはずいぶん変わってしまったと思います。大学を卒業しても、雇用が不安定で低賃金の非正規労働しか就職口が無かったり、正社員でも過労死をするような長時間労働、過密労働が待っていたりする割合は確かに増えていると思います。
この社会変化は、高校生活の一日の意味あいを大きく変化させるでしょう

この社会変化は、自己肯定感の低さを社会によって植え付けられている一般的な事情となると思います。

しかし、自己肯定感は、その人にとって不変なものではなく、その時その時の置かれている状況の変化に左右されるものです。
例えば、高校生が大学受験に向けて模擬テストを受けて、返された成績がいくら良くても100%合格するわけではないので、一時的に安心することはあるかもしれませんが、それで「自分に満足する」ということは起きにくいでしょう。ところが、だめもとで、少し背伸びをして第一希望を受験してみたら合格したということになれば、そのときは「自分はダメな人間だ」と感じる人はいないでしょう。自己肯定感なんて案外いい加減なものです。

また、自己肯定感を得るためには何らかの客観的な水準があるわけではなく、その人の意思、希望との兼ね合いというものもあるでしょう。
別の例で言えば、それほど偏差値の高い大学ではなくとも自分が教えていただきたい教授がいるA大学を志望して努力して勉強し、順調に学力を伸ばし、入学を果たせばやはり自己肯定感が高い結果になるでしょう。ところが同じA大学に合格した人であっても、もっと偏差値の高いB大学を目標にしていたにもかかわらずその大学に不合格になったために不本意にA大学に入学した人は自己肯定感が低いという調査結果になることでしょう。

このように、自己肯定感とは、その人が元々生まれながらに持っているものではなくて、その人が置かれた状況が心に反映したものだということができると思います。
この「その人が置かれた状況」というのが、それこそ千差万別あるわけですから、一般的に自己肯定感を高める方法なんてないわけです。

もう一つセミナーに受講料を払う前に考えなければならないことがあります。それは、なぜ人間は置かれた環境の違いで、自己肯定感が高くなったり低くなったり、幸せを感じたり、不幸せを感じるかというその理由です。心や感情がどうして存在するかということです。

それは、けがをすると傷口ができて、痛みを感じることとまったく一緒です。痛みがあることによって、傷口があることに気が付きます。そうすると傷を悪化させないように、衛生を保ったり、同じ場所をさらに傷つけないために庇う行動をすることができます。傷はなくとも痛いと思えれば、捻挫などをして筋肉や軟骨という軟部組織の一部が挫滅したことがわかります。動かさないようにして患部を悪化させないかとか、直りを遅くしないということができるわけです。また、血液中に傷口をなくす成分を多くして自然治癒力を高める生理的なメカニズムも発動されます。痛みを感じるのは自分を守るためだということができるでしょう。

心の痛みも全く同じだと思うのです。
対人関係の不具合があれば、例えばいじめを受けていればとても嫌な気持ちになったり、人を信じることができない気持ちになったりするでしょう。パワハラを受けていても同じです。その対人関係を修正したり、極端な話をすれば退学したり退職したりして、自分の身を守らなければならないわけです。そういう人間関係に居続けることによって、致命的な状態になりかねないわけです。小さいころに虐待を受けたり、ネグレクトされたりして、理由がわからないで自分という存在が否定されれば、自分が何か悪いために自分は尊重されないと感じやすくなってしまいます。子どもの心理に親に対する安心感が欠落している場合は親子関係を改善する必要があります。この場合、子どもの環境を変えることも必要な場合がありますが、親から分離しても分離先でも尊重されないのであればメリットはなくデメリットだけが継続することになることをもっと気に掛ける必要があるように思われます。

こうやって本来、修正したり、離脱したりするべき人間関係であるということを、心が教えているわけです。そうだとすれば、不安や、自己否定感を感じるということは意味があることで、やみくもに、心をいじって自己肯定感を奪うようなことはしてはならないはずなのです。例えば、有害物質が流失しているから臭さを感じているのに、鼻の感覚を奪ってしまうことによって臭さを感じなくして、有害物質を吸い込んで体を壊すようなことをしてはいけないということです。疲れ切っているにもかかわらず栄養剤を服用して無理やり体を動かしていることにも似ているでしょう。

夫婦、家族であれば、人間関係の不具合を、専門家の協力を得て関係改善させるということは、初期であればそれほど難しいことではありません。お互いに自己肯定感というか、一緒にいることに安心できる関係を作るために努力すればよいのだと思います。しかし、既に離婚を決意するような段階になれば修正は容易ではなくなるでしょう。また、ひとたび傷ついた人間関係の感覚は、将来的に後を引くものです。但し、昨今の人間関係の対策は、切り捨ててしまえという外科的な発想ばかりが横行しているという危機感があります。

対人関係とは別に心身の不調で心の感じ方が不具合を起こしている場合も多くあります。専門家による必要な手当てを受けることが心の状態を回復させることもあるでしょう。このようなことの実務的研究は極めて立ち遅れています。

大切なことは危険を避けようとする意識があるかないかが本質的な問題です。これは動物全般に当てはまる自己肯定感でしょう。人間の場合は、他の動物と異なり、将来という未来を観念できる動物ですから、これから死ぬまでのスパンに見合った利益を追求できるかどうかということが必要な自己肯定感の有無だと思います。言葉を換えれば「人間として生きようとする」ということです。人間として、自分を取り囲む人間関係を居心地の良いものにしたいと思えるか、方法がなければその人間関係から離脱するということができるかどうかが必要な自己肯定感なのだと思います。

今回のブログは、去年の12月に作成した記事とほとんど変わりません。長すぎるので、ダイジェスト版を作りたかったのですが、それも成功していないように思われます。このため、そのブログも紹介しておきます。まあ、ユニセフの調査結果が出たのでということで・・・
「自己肯定感なんていらない。それは社会の問題を個人に責任を押し付ける専門用語。ではどうするか。」 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-12-03

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。