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行動決定の原理 序 社会病理の分析と予防策について短期シリーズのお知らせ [進化心理学、生理学、対人関係学]



次回から短期シリーズで、人間の行動決定に関するお話をさせていただきたいと考えています。いずれも長文だし、それほど興味のある人もいないかもしれないので、完全に私の自己満足ですね。

まさにその通りで、死ぬまでに(ボケる前に)、これまでの到達点を整理しておきたいという強い願望があってのシリーズです。

1回目 総論
2回目 犯罪の行動決定
3回目 自殺の行動決定
4回目 離婚の行動決定

を準備しています。5回目に補論があるかもしれませんし、ないかもしれません。

それぞれの社会病理がなぜ起きるのかを考えて、有効な予防策を提案するというパターンになっています。

これまで、社会病理の予防については、色々考えられてきたわけです。ここに掲げた犯罪、自死、離婚の件数については、確かに統計的には平成14,5年をピークに右肩下がりに減少してはいます。しかし、意識的な政策によって減少させたということではないので、またいつ上昇するかわからないということが本当のところです。

なぜ有効な政策を立てられなかったかということ、人間の行動について、十分に理解をしていなかったからだと思うのです。その最大のポイントは、犯罪についても、自死についても、離婚についても、「人間が自由意思をもってそれぞれの行動を自分が行うという意思決定をしていた」という点が間違いだというところにあります。

おそらく、「そのどこが間違いなのか」と怪しむ人も多いことでしょう。ズバリ、「人間が意識的に行動決定をしている」という点が誤りです。でも「自分は、意識していろいろなことを決定して行動している。」と思う人がほとんどで、これは理由のあることです。

ただ、これまでの認知心理学や脳科学の結論としては、「人間が意思決定をする0.4秒前に脳が行動を開始している。そのあとに意識は行動決定をする。」としています。

結論を羅列すると、脳は意識をしている以上に、様々な情報を処理しているということがまず最初です。自分たちは自覚していませんが、実際は意識をしている以上に視覚情報、嗅覚情報、皮膚感覚情報、味覚情報。聴覚情報等を脳はキャッチしています。そして、脳が勝手に、「この情報はどうでもいいから未処理。」とか、「この情報は生理的に対応しよう(例えば体内に取り込んでしまったばい菌処理)」、「この情報は、意識的に上らせよう」ということで、勝手に処理しているということです。確かに食べ物を消化については、消化しやすい生理的な変化(血流量の調整や体温調整)などを無意識に行っていますし、無意識に心臓を動かしています。

例えば「盲視」という現象があり、脳の中の視覚野という部分が損傷すると、物が見えていても意識としては見えていないのです。「『見えていない』という意識」なのに「見えている」というのは、見えていない物を質問をすることによって、あてずっぽう以上に正しい回答をすることができるという実験結果によって示されていると言われています。

次の結論としては、人間は自分が意識して行動したのではなくても、自分は意識して行動したのだというストーリーを後付けで作る、つまり作話をする動物だそうです。これも実験によって証明されています。脳の右半球と左半球の連絡が切断されてしまった人に、それぞれの脳で絵の描いたカードを選ばせると、それぞれの脳が関連のないカードを選ぶのですが、それを言語化できる脳の方に両方見せると、初めから両方の脳で見えていたように関連があって意図的に選んだのだという説明をするそうです。わかりやすく説明することができないので興味がある方は、ベンジャミンリベットの「マインドタイム」、トール・ノーレットランダージュの「ユーザーイリュージョン」をお読みください。脳が意識よりも0.4秒先行するという実験についても紹介されています。

意思決定抜きで勝手に脳が行動決定していても、私たちは、「自分が意思決定した」と考えるので、それほど支障が出てくるわけではないようです。私が体験した脳が勝手に行動決定して命拾いした経験を次回の第1 総論で書いています。その体験がこの例に当てはまるのか自信はありませんが、おそらく意思決定の遅れを自覚してしまった例で間違いないのではないかと思います。私の作話は、幽霊話でしたが、自分でも半信半疑だったのが良かったのかもしれません。

どうも西洋人は、このように自分が意思決定しないで行動するということに不安を感じて仕方が無いようです。日本人は、案外どうってことなく受け入れるのではないでしょうか。私のように、自分はご先祖様に守られており、自分が拙い判断をしないようにご先祖様とか守護霊によって守られているなんてことはよく聞く話です。

それでも、どこかしら不安が残るということも理解できます。人間は意識や人格が無くて、自分というものは実は存在せず、自然法則によって勝手に動いているだけだと思うと、心配になったことが私自身随分前にあったような気がします。その後に中途半端な考察の下で理系の学者の方と雑談した時も、「おそらく環境が人間の行動に強く影響している」という話をした時に、「人間の自己責任を否定するのか」という文脈で非難され、話がかみ合わなかった経験もありました。

しかし、人間には個性というものがありますし、客観的に同様な刺激に対して同じ反応をするとは限りません。大事に守ろうとする存在としての「自分」もあるわけですし、意識できるわけです。自分が他者から攻撃されると嫌な気持ちになるのもその一例だと思います。

ただ、個性というのは、持って生まれた生理学的諸条件の影響があるでしょうし、その後の自分以外との人間関係によって育まれるという側面が強くあると思います。行動決定の際には、そのような遠因として背景的事情が反映されており、「個性」というものの実態を形成していると思います。

遠因としての背景的事情だけでなく、まさにその時に近接した時期にあった出来事も、その行動決定に影響があるわけです。近因としての背景事情ということになりましょうか。また、遠因と近因の間にも中間的背景事情が無数にあるわけです。

さらにはその置かれた状況に対する、感じ方(事実の見え方)事態も、見えた自分に対する働きかけについての評価も背景事情によって異なって見えるでしょう。言われても気にしないで聞き流す人、真面目に受け止めて思い悩む人がいるわけです。同じ人でも、その時々の体調によっても、睡眠障害のあるなしをはじめて、違いによって決定的な違いが生まれてしまうものだと思います。

「自分の行動には理由があるが、大きい目で見れば偶然の産物だ」と思ったところで、何かが変わるわけではなく、今の感情が持続していることは間違いないので、深刻に考える必要はないと今では思っているところです。

むしろ今の自分は偶然の産物だと認識した方が、良いこともたくさんあるように思われます。自分が、今絶好調であったら、「それは偶然の産物であり、自分の力だけでこのような結果が生まれたわけではない。」と正しく把握して、謙虚に、誰かに感謝して喜ぶということができると思います。また、自分が窮地にあったとしても、「自分という存在に問題があるわけではなく、偶然の産物だ。だから、自分を否定するよりも、ここから上昇するはずだ。」と思った方が良いことがたくさんあるような気がするのです。その上昇のための道具、あるいは、破綻をしないで自分を維持する道具をシリーズでは考えていくわけです。

逆に言うと、自分が帰属している人間関係は、意識をしないと、その時の体調による考え方(受け止め方)の変化、周囲の人間の影響、あるいは社会情勢等様々な外部的要因によって壊れてしまう可能性があるということだと思います。自分というものがどの程度確かなものかについて自信を持つことはかえって危険であるかもしれません。誰でも、自死をする可能性があり、犯罪をする可能性があり、離婚等大切な人との別離を選択してしまう可能性があることは間違いないことだと思います。

ただ、知識としてどういうメカニズムで、人間はそれらの行為をしてしまうのかということを予め知ってさえいれば(情報を取得し保持するという近因的背景事情の取得)、あとで困るような行動決定はしないで済む確率が飛躍的に高まるはずです。

ただ、それは役に立つ道具であることが必要です。人間の行動決定がどのようなメカニズムで行われるか、そのことに焦点を当てて、その行動決定を選択肢に上らせないということが一番のキモだと思います。但し、本来的な主張は、「結局世界全体が他者に思いやりをもって助け合おう。」という壮大なもの、宗教的な主張にならざるを得ません。そのためにどうしたらよいかということを考えるには、時間も文字スペースも十分ではありません。その前段階、急場しのぎの対処療法、今できることを中心に論じるしかありませんでした。

一番ダメなのは、他人の社会病理の行動については、自分とは違う世界の話だと思いたくて、「それらの社会病理の行動をその人自身が意思決定をしたのだ、その人は特殊な人間であり自分は違う」という、排外主義的な考え方だと思います。これが現在の国家などの政策論も前提となっているのではないでしょうか。

対人関係学の出発点は、「生きること、生きようとすることに一番の価値を置く」ということですし、「社会に問題があったからと言って、社会のせいにしてあきらめずに、自分のできることを行い仲間と一緒に幸せになろう」ということにあります。社会病理の行動をした人を否定評価して安心するのではなく、社会のせいにして自分のできることを考えないのでもなく、何かできることを探していくということが大切だと思っています。

今回のシリーズは、意思決定に着目しないで、行動決定に着目して、分析と予防策の構築を全面的に改めてみたというのが、これから始まる短期シリーズなのです。業務時間外でコツコツと考えたことだし、なんせブログという媒体なので十分な分量ではないのですが、一応納得のゆくものができたと思っています。もしお読みいただく方がいたら、それだけで大感謝です。

いずれも長文になり申し訳ありません。

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