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宝塚歌劇団存続のために 何を調査し何をどう改善するのか [労務管理・労働環境]



1 企業はまず何を考えるべきか

宝塚歌劇団の25歳の俳優が転落死した事件(令和5年9月30日発覚)について、ネット上は様々な情報が飛び交っていましたが、大手マスコミはなかなか正面から取り上げてこなかったという印象があります。(それでも歌劇団は、外部弁護士9名による聴き取り調査を行っていたようです。)

大手マスコミにおいて、いわゆる潮目が変わったのは、11月10日に川人博弁護士が遺族側代理人として記者会見を行ってからだと思います。川人先生の実績に基づくネームバリューによってテレビでも報道されるようになり、一気に世間の関心が高まりました。その中で、11月14日に第三者委員会の報告書が提出されたことを踏まえた劇団の記者会見がありました。

第三者委員会の調査は極めて短期間であるにもかかわらず、踏み込んだ調査を行っていて、故人の死と劇団の仕事の関係を一定認めた内容になっています。さらに今後に向けた提言もなされている点も評価ができると思います。

ただ、潮目が変わった後の発表であるということと、マスコミの姿勢から、報告書には批判もなされています。

私は、報告書にケチをつけるつもりは毛頭ありません。私は法実務的には事実関係を把握していない立場であるというべきでありますから、本件の転落死が労災に該当するかどうかとか、損害賠償の対象になるかどうかについて論じるつもりは全くありません。この点については「わからない」としかいうべきではないと思っています。

私がこの記事で一緒に考えようとしているのは、主として企業の危機管理の問題です。不幸にして自死と思われる劇団員の死亡があって、その後報道とその変化の中で、「企業は何を考えて、何を調査し、何を行うべきか」という問題です。

まず何を考えるべきかということです。これは明らかだと思うのですが、なかなか徹底できません。つまり、「劇団の存続」を考えなければならないと思います。単に企業体の存続というわけではなく、宝塚歌劇という文化を継承する義務が、経営サイドにはあると思います。

宝塚歌劇を継承するために考えるべきことは、宝塚歌劇を愛する人たちが、これからも宝塚歌劇を安心してみようと考えること、それから劇団の卒業生の方々の劇団員であったことの誇りを奪わないことも必要だと思います。

宝塚歌劇のファンには多様性があります。「どんなことがあっても自分は宝塚や、俳優を守る。そのためには何でもする。」というコアなファンもいらっしゃいますが、それは私は「あり」だと思っています。そこまで熱心ではないとしても、何年に一回は舞台を観に行ったり、テレビ中継があれば予約をしても確実に観ようとしたり、卒業生が出るテレビドラマをチェックしてみようとするファンが大勢います。この多くのファンは、宝塚があるから人生が豊かになったり、人生のピンチを慰められたりして、まさに生きる糧、人生に添えられた花のような不可欠の存在として宝塚を大切にしています。

多くのファンの人たちは、テレビが報道する前から転落死の情報をつかんでいました。週刊文春が報じる前から、様々な風評も入ってきていて、とても心配をしていました。遺族側の記者会見がテレビ報道されたことによって、このようなファンの人たちは、悲観的な思いを深めてしまいました。存続の危機を感じている人も多数生まれてしまったということを先ず会社に知っていただきたいと思います。

歌劇団としては、このファンがこれからも安心して宝塚歌劇を観覧できるという安心感を提供することこそ、今考えなければならないことで、そのためのはどうしたらよいかという発想で対策に乗り出す必要があると思うのです。

何事もないように、ただ存続するのでは足りないということです。

2 検証や対策に対する、マスコミの功罪 「いじめ」の有無ということにはあまり意味が無いこと

先ほどからお話ししているように、遺族側代理人の記者会見から、宝塚の問題の世間的注目は格段に上がりました。潮目が変わったわけです。今回の第三者委員会の報告書にも発表前から注目が集まっていました。否が応でも調査をしてそれなりの報告をしなくてはならなくなるわけです。その意味では、マスコミ報道は検証と改革の後押しにもなりうるというメリットもあります。もっとも先ほど述べた通り、結構前から歌劇団は第三者委員会による調査を始めていたようです。

しかし、メリットがある一方、いじめやパワハラをめぐっての報道については二つの問題点があります。

一つは「いじめ」等の定義が人によってばらばらであり、その言葉自体では何も始まらないということです。

「いじめ」という言葉を例に説明しましょう。
この言葉は、狭い意味で使う場合、「加害者が悪意をもって行うことで、被害者に防御の方法が無い加害行為を行い、被害者を精神的に追い詰め、精神破綻を招くことや自傷行為、自死行為を行わしめる危険のある行為」ということになると思います。おそらく世間一般で、「いじめ」という言葉でイメージされるものは、こういうことが起きていたというものでしょう。

広い意味で使う場合は、「関係者から、ストレスを与えられる言動」ということになってしまいます。こんな広い意味で「いじめ」という言葉を使っているのは誰かというと、それは国の法律です。「いじめ防止対策推進法」の第2条は、「この法律において『いじめ』とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。」となっています。これはなるべき広くいじめを把握して、狭義のいじめを見逃さないようにするという目的があって広くしています。ただ、広すぎる弊害もあって、日弁連などもこの定義を批判しています。

様々な問題点がありますが、極端に言うと、いじめをしている友達を「いじめをするな」と注意しても、法律の「いじめ」に該当してしまうのです(友達の方も、いじめをしているわけではないという反論もあるかもしれません)。もちろん、そこは「常識的な判断」でいじめとは言わないとして扱うだろうと普通は思われることでしょう。でも考えてみてください。そこでいう「常識的な判断」をするのは誰だと思いますか。そこは学校の教師たちなのです。いじめか否か子どもたちがアンケートを提出して、先生がそれはいじめではないよと「常識的な判断」をして、アンケートを書き換えさせたりしているということを当の先生(管理職)から聴いたことがあります。結局、何がいじめで何がいじめではないのかは学校の判断で決めてしまうことにどうしてもなってしまうので、アンケートは意味をなさなくなってしまいます。

こういう曖昧な「いじめ」があったかなかったかということを、結果として報告することにあまり意味はないのだと思います。

もっとも第三者委員会の報告書でも、遺族の要望でも、「いじめ」という言葉は先ほどの悪意のある狭義のいじめの意味を前提にされているということでよいと思います。

しかし、ここで考慮しなくてはならないもう一つの問題こそ、マスコミの報道姿勢です。実際のいじめ防止対策推進法の事案で、発信者側が法律用語の広義のいじめの意味で使っていると何度も説明しても、新聞の紙面やテレビニュースでは、あたかも狭義のいじめの意味で大見出しを打つのです。真実はどうだったかということよりも、いじめが「あったのか、なかったのか」だけに関心を持つようです。そして、すこしでもいじめと名が付くのであれば、スキャンダラスに報道する傾向をずっとみていました。

実際にあった出来事よりも、打撃的なこと、重大なことがあったという報道をしたいようです。

だから、やるべきことは、事実を指摘してそれがいじめかどうかは読み手が判断するべきだという態度でよいと思うのです。
むしろ、行為を受けた側の立場から(本件では故人から見て)、その行為がどういう性質をもって、どう受け止めて、その結果、対処の方法があったのか、防御の方法があったのか、その苦しい状態の持続期間等を調査して報告すればよかったのだと思います。受けた側が無くなっていたとしても、合理的に考えてどういう風に感じたかという推測はできるはずです。

いずれにしても事実関係を見守っていたファンは報告書を読んである程度納得できたかもしれませんが、報告書を読まないで報道だけに接している人たちは、言語道断の極悪非道な先輩が、無抵抗の新人をいじめていたという印象を受けてしまったということは事実としてあるようです。ジャーナリストを名乗る人でさえ、とにかく狭義のいじめがあったはずだと思い込んでおり、それを少しでも否認するような報告があると、会社の意をくんでの報告書だとか、隠蔽だとか、糾弾口調になっている姿を目撃しました。マスコミなんてそんなものなのです。

3 第三者委員会の報告書

上記の観点は、第三者委員会の先生方ももちろん理解されているところだと思います。しかし、そのような報告を徹底しきれなかった事情がありました。

既にいくつかのいじめがあると報道された行為があったのかどうかという点を念頭に置かざるを得なかったということです。報告書の概要版でも比較的詳細に調査して、事実認定をして、報告されています。いじめとは断定できなかったということが結論です。しかし、報告書では、実際にヘアアイロンを額に当てられたという事実、それによって小指の先(末節指)の大きさの皮膚の変化(やけどの痕)が見られたこと、故人はやけどの痕が残るだろうかという不安があったことはきっちり認定されています。しかし、目撃者がいなかったということ、悪意があったとは断定できないこと、その後やけどの跡が消えたこと、それから宝塚ではヘアアイロンによるやけどが頻繁にあることその他、特に悪意を証明できなかったためにいじめとは断定できないというようです。
(わたしとしては、どうしてその人が髪型の指導をしたのか、自らヘアアイロンを使ったのか、その人の立場の人がそういうことを通常するものなのか、小指の末節指大のやけどの跡ができるということはどの程度の時間ヘアアイロンを額につけていたかなどについて調査した方が明確になったかなという思い付きはあります。)

企業としては、認めるべき点は認めるとしても、それが事実に反するのであれば、事実に反するということを言わざるを得ません。評価が不当だと思えば評価が不当だと言わざるを得ません。そこが、先ほど言ったマスコミのスキャンダラスな報道、怒りをあおるような報道が先行する場合は、逃げだ、隠蔽だと指摘される要因になります。立場を変えて遺族側からすればもっともな話でもあります。何せ歌劇団の中のことはわかりませんから、なかなか納得がゆかないということは当然のことです。当たり前です。
マスコミの報道姿勢の理由で、精神的負荷によって自死を選ぶ可能性を認めた報告書なのですが、その点はあまり報道されず、いじめを否定した、遺族は残念に思っているということだけが強調されているということは間違いなくあるように思われます。

4 もし再調査があるとすれば何をどう調査するのか

私が再調査をするのであればという観点でお話しします。一番は、報告書が指摘していた、上級生と下級生の関係、組ごとの独自のルールということです。これをやはりもう少し踏み込んで、宝塚文化の中の規律の作り方について検証をするべきだと思われます。とくに当該の組の中での「独自のルール」についてです。
この記事のジャンルである労務管理の場合、生産性の観点から検討します。規律によって何を実現しようとしていたのかということをまず言葉で明らかにしていく作業が必要になるはずです。
そして実際に行われていた規律を創る行為がどのようなものだったのか、それは規律によって実現しようとしていた価値の実現に結び付くのかということを真剣に考える必要があります。

個人的には、上下関係という規律については、ある程度あってよいと思います。それによって、舞台にも規律や礼がみられるところが宝塚の良いところだと個人的には思います。しかし、規律とは上に絶対服従ということではないと思うのです。過去において、特に他の組において、そんなに上が絶対ということがあったのかこの点も検証されるべきだと思います。つまり、卒業生からも事情聴取をするべきです。今回の亡くなられた方の責任という観点からは、故人の状態を知る人に限定して調査をするということには合理性があると思います。ただ、一般の大勢のファンを安心させるという観点からは、往年の状態と現在の状態の比較が不可避になると思います。100年以上続いているので、キリがありませんが、50年くらいは遡って調査をすることができると思います。トップスターがどこまで神格化されていたか、行き過ぎた感がある指導をするようになったのはいつからか、当該組の独自のルールが無ければ良き伝統、良き雰囲気、高いクオリティーが維持できないということなのかについて真摯に検証をするべきです。

労務管理の観点からすると、パワハラは百害あって一利なしだと常々思っています。一般企業ですらそうですから、そもそも高いモチベーションをもって入学をしてきた人たちに過剰な指導は本当に必要ないことではないのでしょうか。
 
不必要な厳しさは、生産性を阻害します。委縮効果が生まれて、大きな副作用が生まれてしまうのです。

また、過去において、規律づくりにある程度の共通性があったとしても、規律づくりのために高まる緊張を緩和させる方法が無かったのかということを十分に調査する必要があります。「昔はもっと厳しかったのだ」という人ほど、厳しい状況の中でほっこりするフォロー受けているものです。

だから、ある程度現役の劇団員の方と卒業生とキャッチボールをしていく必要があると思います。受け継ぐべき伝統と排除するべき伝統を明確に区別する作業が必要になるはずです。

その際、現役生は特に、発言の匿名性を確保する必要があります。調査員の外は、立ち会うべきではありません。特に歌劇団のスタッフや親会社の人、あるいは上級生のいないところで自由に話していただく環境を作る必要は絶対条件です。

5 調査の結果どう改革するべきか

将来の改革に向けて、報告書でも提言が出されています。根本的な問題であるスケジュール過多をはじめ的を射た提言がなされていると思います。ただ、目的が異なるため仕方がないことですが、私が再調査事項として掲げた事項についての具体的な言及がないために、この人間関係についての効果的な対策というものがどういうものなのかについては詳しく述べられてはいません(概要版では)。

効果のない規律、デメリットの大きな規律は、すべて排除するという改革がなされるべきです。これは報告書でも同じようなことが記載されています。そして、そのような独自のルールが生まれた由来についても調査して、根本的なところにメスを入れるべきです。組織に不可避な事情があるのか、特殊な人間関係、パーソナリティを背景とするものにすぎないのかということをはっきりさせる必要があるということです。

もし、個人に由来する問題であるとすれば、どうしてその個人に権威が集中してしまったのかについて調査分析する必要があると思います。もし個人が行き過ぎた規律を求めていて、故人がそれに苦しんでいたとするならば、それを見て見ぬふりをした人たちもいるわけです。それは、労務管理上は、見て見ぬふりをしていた人が全員共犯だと考えるよりも、どうして権威者の行為を追認してしまったのかという発想で考えることになります。人間は、集団の中で権威者が現れると、権威に従ってしまう性質があるという社会心理学的の知見に従って考えるわけです。人間は一度権威に迎合してしまうと、その権威が行う人間に対する行為も、正当化してしまって、批判的観点を持ちにくくなるようです。

苦しめられる個人は、誰からも救済されないどころか、反価値的存在だということで、なお一層苦しめられますし、絶望を抱きやすくなります。悪意の有無が決め手ではなく、悪意と受け止めたか、対策を講じることができないという絶望感を偉大かどうかということこそ考えるべきです。

このような受け手にとって深刻な影響が生じる行動は、送り手の歪んだ正義感が大いに関与しているということを見すごしてはなりません。

それから、冷静な第三者の目が必要です。精神医学的には宝塚のような劇団という職務形態ではパワハラが起こりやすく、過激になりやすいという傾向が指摘されています。典型的な職業としては、自衛隊、警察、消防署です。

これらの組織は、単位組織が一体として行動しなければ任務が果たせないばかりでなく、仲間の死に直結する過酷な現場で活動します。仲間に対する要求度が必然的に高くなるというのです。第三者からすれば、些細なことでも、仲間内では重大なことにつながります。そうすると、要求の対象としては、技術だけでなく、精神的緊張の度合いや、指示を指示通りに確実に遂行する姿勢のようなものも求めてしまいがちになります。しかし、新人には、技術が未熟であることに加え、集中するということがどういうことか実感として持てませんし、指示内容も正確に、具体的に伝達しないと伝わらないという事情もあります。これがある程度経験を積んだ人であれば、省略した言葉でも中身は伝わります。伝え方の問題で伝わらなくても、他の人には伝わるので、つい相手に責任を押し付けてしまうということが起きるようです。命にかかわることなので、イライラも講じてしまい、「あたり」もかなり強くなってしまうわけです。

宝塚は、組全員が一体として指示通りに行動しなければならないところは一緒です。しかし、死の危険があるわけではありません。それでも、おそらくそのくらいの気持ちで真剣に舞台を務めあげよういう気持ちは共通しているのだと思います。

だから、俳優たちにすべてを任せてはいけないのです。まじめに、夢中になって良い舞台を作り上げようとしていると、相手の心という複雑なものを理解したり共感したりすることができなくなってしまうのは、人間の限界として厳然と存在すると心得るべきです。自主稽古であっても、冷静な第三者の目が行き過ぎをチェックしてセーブすることが必要不可欠だと思います。これは単にセーブをするのではなく、もっと効果的な指導に置き換えるという作業に具体的にはならなくてはなりません。

その意味では、運営側の責任は大きかったということになることは間違いないことでしょう。

報告書から推測できることは、運営側が十分介入しなかったこと、介入できなかった事情があったこと、介入できないことに対する危機感が無かったことを指摘しなければならないでしょう。このあたりも、これまでの伝統に照らして調査し、検証し、対策を立てる必要があると思います。



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