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世にいう「複雑な社会」とは何なのか。社会病理の行動決定理論結論部分 [進化心理学、生理学、対人関係学]



離婚、自死、犯罪その他の社会病理の行動決定理論を検討してきましたので、そのまとめをいたします。

1 人間の行動決定は十分意識して行われるものではない。

人間の行動決定は、社会病理に限らず、無意識に行っていることがほとんどである。行動の前に、この行動をした時に「自分がどのようなデメリットやそれに見合うメリットがあるか」ということを十分に検討しないで行動をしてしまっていることが多い。行動を開始し、あるいは行動を終了してから、自分が行動をしていたことに気が付くことが少なくない。

2 意識しない行動なのに、多くのケースで問題行動を起こさない理由

意識によって行動決定をしないにもかかわらず、人間の行動が社会秩序の範囲内の行動をしているように見える。その理由は、人間は本能的に他の人間から攻撃されたり、否定されたりせずに、人間の輪の中にとどまっていたいという本能があるということがとても大事なポイントである。脳科学者のアントニオ・ダマシオが発見した「二次の情動」というものがある。「一次の情動」とは、命や安全などにかかわる情動で、危険を覚知すると、その危険を回避しようとする行動決定を無意識のうちに脳が決定するものだ。怯え、怒り、喜び等の感情を伴う。この一次の情動と同じように、人間関係の中で自分が低評価を受ける(究極には排除される)という危険を感じると、その行動を無意識のうちに修正するのが二次の情動である。二次の情動が健全に働いていれば、人間関係の中で自分が他者から低評価を受けるような行動をするという選択肢自体が、無意識に排除される。だから、人間は十分にものを考えて行動決定をしなくても、他者から低評価をされるような行動を行わない。

十分な検討をしないため、「群の論理」に従って、群れから低評価されたり排除されたりしないように行動をしていることになる。社会心理学で論じられる「服従の心理」は、私から言わせれば群れの権威の意思決定に迎合するという「迎合の心理」である。いつも近くにいる人に親近感を覚えて、敵対しない単純接触効果も「群れの論理」で説明できると思う。

3 二次の情動、群れの論理が働かなくなる場合

このように、本来人間は、社会的評価を下げるような行為や仲間と敵対する行為は行わないはずなのに、様々な社会病理の行動を人間はしてしまう。これはどうしてなのか。どうして二次の情動が選択肢を排除してくれなかったか。

二次の情動が働かなくなる典型は、アントニオ・ダマシオが「デカルトの誤り」の中で分析していたとおり、二次の情動をつかさどる、前頭前野腹内側部が損傷したり、腫瘍で圧迫され機能しない場合だ。しかし、社会病理はこのような脳の不具合が無くても起きる。それは、既に何か別の事情で一次の情動や二次の情動が発現されてしまっているために、新たな(後発の)二次の情動が発現しにくいという事情になってしまうということだと考えている。

例えば、肉食獣から命からがら逃げようとしている場合、怖くて逃げるという情動行為がすでに発動されているために、他人の敷地に入り込むとか、敷地内のものを壊すことを厭わない状態になっている(一次の情動が既発で、二次の情動が発現できない)。あるいは、職場で無理難題を上司から言われて、それに従わなければならず、自分の評価が不合理に低いことで二次の情動が発現している場合、家庭で八つ当たりをしてしまう(二次の情動が職場の関係で発現しているために、家庭では二次の情動が発現しにくくなっている)。

これは、痛みの部位が複数ある場合もっとも痛い部分だけに痛みを感じるという「側部抑制」を応用した。もちろん、一つの情動発現が先行している場合に、必ず後発の情動が発現しないというわけではない。しかし、発現しにくくなるということはあるのではないかと考えている。

4 二次の情動が発現する事情が重複する場合、どの群れを優先するのか、優先の基準は何か

会社のことで思い悩んで自死が起きた場合、家族のことをそれほど大事に思っていなかったのかという形で問題になる。
これはどうやら違うようだ。この事例での結論を言えば、「たまたま二次の情動が職場で発現していたために、家庭に関する二次の情動が起きにくくなってしまっていた」ということにすぎないのだろうと考える。

職場で苦しんでいると、家族に苦しみを与えるようなことを思いとどまるということができなくなる理由こそ、人間の脳が複雑な社会に対応していないということを端的に表している。

5 複雑な社会とは何か

複雑な社会とは何かということを考えるにあたっては、単純な社会とは何かということを考えることが早道だと思う。単純な社会とは、①一つだけの群れに所属して生涯を全うできることと、②人間の脳が他人の個体識別が可能な人数である150人以下の人間とだけかかわりを持っている社会を言うと考える。つまり、約200万年前、人間が心を獲得したころの生活環境である。人間の脳は、このような単純な社会で、情動や感情で行動をすれば事足りるように、進化の過程で作られた。群れの権威に迎合して行動し、いつも一緒にいる仲間を大切に扱えば、それ以上の心も言葉も不要だった。この環境に合わせて脳の働きが作り上げられた。

そうすると複雑な社会とは、対立する可能性のある複数の群れに同時に所属し、150人以上の人間と関りを持つという社会環境だということになりそうだ。

6 複雑な社会環境と人間の脳(心)のミスマッチ

複雑な社会環境で起きる解決するべき問題は、人間の脳では対応が不可能な問題なのだと思う。だから、職場でのストレスを家庭に持ち込んでしまったり、見ず知らずの人の店で自分の利益を図るために万引きをしてしまったりする。仲間と調和的な関係を結ぶことができず、近しい仲間と争いごとが起きたり、仲間を食い物にして自分の利益を図ることが可能になってしまう。

逆に、職場の人間関係なんて、その他の家族という人間関係や、友人という人間関係等と比べると、それほど大事にしなくても良いはずだという考えもありうると思う。しかし、職場の人間関係で不具合が生じ、対応することができないで思い悩むと、あたかも世界中から自分は孤立しているかのような精神的ダメージを受けてしまう。200万年前の心ができた当時は、一つの群れしかなく、およそ群れから低評価を受けることや孤立することは、この世の中で孤立することを意味したため、そのように感じてしまうのだ。これが環境と脳のミスマッチの一例だ。

情動が高まってしまうと、本当に考えなければならない人間関係を大切にするための方法などということは考えようとすることさえできなくなるようだ。

7 二次の情動を阻害して社会病理の行動を選択してしまう事情

二次の情動の発現を阻害して、自死を思いとどまることができなくなったり、犯罪を実行してしまったり、離婚を決断してしまう要因はいくつかある。それは個別に検討してきた。
特に気にしなくてはならない事情の1番目は、二次の情動を高める事情だ。どこかの人間関係において、自分が低評価を受けていること、特に理不尽な低評価であり、その低評価を覆す方法が簡単ではないことが、職場での二次の情動を高めてその他の人間関係での二次の情動を出現しにくくなる事情のようだ。

事情の2番目は孤立である。1番目の事情も自分に味方がいない状態だから、広い意味での孤立かもしれない。ある一つの人間関係で孤立しているにすぎず、他の人間関係では受け入れられているとしても、受け入れられている人間関係を第一のものとして大切にして、不合理な評価をする人間関係を切り捨てることができなくなるようだ。

事情の3番目は睡眠不足だ。上の1番目の事情や2番目の事情が起こると睡眠不足にもなります。睡眠不足になると、被害意識ないし危険と感じる度合いが強くなるうえ、悲観的な発想になりやすくなるということもありそうです。ますますものを考える力が無くなるとともに、二次の情動もゆがんだ形で表れてくるようです。

すぐに全世界の人間が一つの群れのように相手を思いやって、尊重して、配慮して、助け合うということは実現不可能だと思う。

応急処置としては、家族等安心できる基本的人間関係をつくり、他の人間関係の状態がどうあっても、この基本的人間関係において安心できるという意識を徹底して意識づけを行うという対処方法が考えられる。

なぜ家族が理想化というと、そこが帰る場所であり、夕刻から朝方までの副交感神経が優位になる時間帯に一緒にいることが多く、利害が対立しずらく、永続する人間関係になりやすいという特質があるからだ。必ずしも家族がそのような形態になっているわけではないが、全世界の人間の意識づけをするよりは、はるかに対処できる方法であると考える。

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