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いじめやパワハラは、助け合いや弱者保護と背中合わせだということ 組織の論理(排除の論理)と袋叩き反撃仮説と [進化心理学、生理学、対人関係学]



 もしかしたら、今あなたは、人間関係の中で、不当に低く評価され、あるいは仲間から外されそうになって思い悩んでいたり、そのために経済的にも苦しい思いをさせられている等生活が困難になっているかもしれません。この文書がそんなあなたの窮地を救うことにはならないかもしれませんし、気休めにもならないかもしれません。でも、どうして自分がそのような理不尽な目にあっているのか、あなた自身に問題があるとは限らずにひどい目にあっているということをわかっていただければという思いで書いています。そして少し心に余裕が生まれ、自分を大切にしてくれる人に目が向くことを願っています。

1 対人関係学はきれいごとではない

対人関係学として、これまで私は、人間の本質は、仲間を平等に取り扱おうとすること、仲間を助けようとすること、特に弱い仲間を保護しようとすること等にあるということを述べてきましたhttp://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/。このためきれいごとではないかと反発を受けることもありました。
しかし、このような人間の本質、本能があったため、今から200万年前から2万年くらい前まで続く「狩猟採取時代」という時代の過酷な自然環境の中で、戦う牙も爪もなく、逃げる足も羽もない人間が、肉食獣から身を守って生きることができなかった人間が滅亡しないで生き延びてこられたのだと考えています。
平等取り扱いや弱い者の保護をしなければ、弱い者から死んでいく環境です。すぐに頭数が少なくなって、肉食獣に襲われたり、食料を確保できずに飢え死にしたりしたはずだからです。
 それにしても、この考えがきれいごとだと感じるのは、現代社会ではなかなかそういう人間の姿が見られず、むしろいじめやパワハラ、ネット炎上など仲間を攻撃している人間の姿ばかりが目に付くために、人間がそんなに素晴らしい生き物ではないと自然と感じてしまうことは無理もないと思います。
対人関係学は人間万歳という学問ではありません。この世の社会病理行動がどのように起きるのか、どうやって予防をして人間が幸せに生きることができるかを考えています。狩猟採取時代は人間の心は人間の生き延びるための不可欠のツールでした。しかし、現代社会では、狩猟採取時代の心が残っているために、逆に人間が苦しんで、命さえも奪われかねないということについてお話ししていきます。

2  特に袋叩き反撃仮説。肉食獣に襲われて絶滅しなかった理由。

袋叩き反撃仮説とは、対人関係学の理論の大事な柱です。(詳しくはネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp) ) 
狩猟採取時代、野獣から仲間の一人が襲わるということがあったはずです。一部の学説によると、仲間が襲われているのをなすすべもなく見ていたように描かれることがあるのですが、これは違うと思います。そこにいた仲間たちが野獣に対して怒りの感情がわいて無意識に反撃を開始して、仲間を救おうとしたはずです。ある程度大綱の高いヒトが何人かで総攻撃をすれば、野獣の方も自分の身を守りながら攻撃をしなければなりませんから、人間の反撃から逃げて行くことになったのだと思います。これが袋叩き反撃仮説です。
人間に限らず動物全般も、通常危険を感じた場合には、自分よりも強い者に対しては怒りではなく恐れを感じて逃げ、「勝てる」と判断した場合には怒りを感じて攻撃をして危険を無くすという行動パターンになります。いわゆる「Fight or Flight」という行動パターンで、これは一瞬のうちに無意識のまま感情がわいて行動が続いていくとされています。だから肉食獣に攻撃されたら、自分ひとりでは恐怖を感じて逃げるのが行動パターンです。しかし、人間の場合は、仲間がいる、あるいは仲間を守るという場合、無意識に怒りをわきあがらせて、戦うことを選択してしまうという本能があるようです。ほかの哺乳類も、母親が子どもを守る場合には、相手が人間であろうと捕食者であろうと、怒りをもって戦うという行動傾向を見せます。

こうやって、肉食獣たちに、人間を押そうと仲間から反撃されてしまい、自分の命もなくなるかもしれないという嫌な記憶を与え続けてきたことによって、肉食獣は人間を恐れる本能を受け継ぐことになったのだと思います。元々、比較的大型の動物である人間のフォルムと、集団行動をする不気味さももちろん人間を襲いにくくした要因であるとは思います。しかし、人間を無抵抗に捕食できるという体験があれば、やはり補色の標的にされて、食べつくされていたのではないかと思うのです。

この他狩猟採取時代の、言葉の無い時代に群れを作っていたのは、孤立や群れから排除されそうになる(群れから低評価を受けることが中核)と、不安になり群れにとどまりたいと感じてしまう心とか、仲間の弱い者を保護しようとする心とか、群れの権威(群れの共通価値、必ずしも人間とは限らない)に従おうとする心(詳しくは「迎合の心理」 遺伝子に組み込まれたパワハラ、いじめ、ネットいじめ(特に木村花さんのことについて)、独裁・専制国家を成立させ、戦争遂行に不可欠となる私たちのこころの仕組み :弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp))、近くにいつもいる人を仲間だと感じる単純接触効果などがあります。このような心理状態を感じることができた大きな要因は、人間にはミラーニューロンが発達していて、他者の感情を自分の感情であるかのように感じる能力(共感力)が大きいということにあります。また当時の環境が生涯一つの群れだけで生活し、みんな顔見知りであり、少ない食料を分け与えて生き延びる運命共同体だったという環境に起因したと思います。

そうすると、袋叩き反撃仮説の反撃者の心理は、「仲間が肉食獣に襲われて、死の危険を感じての恐怖を抱いている。自分が死の危険を感じているときと同じ危険を感じている。しかし、襲われているのは自分ではなく、自分の外にも反撃する仲間がいる。だから、自分たちは野獣に勝てる。野獣に対して怒りを覚えて攻撃をする。」という一連の行動を、おそらく意識に上ることなく始めていたのだと思います。仲間を助けるために無我夢中で気が付いた攻撃に参加していたという具合です。襲われている方も、仲間がいるのだから自分を助けようとするはずだという心理状態になっていたと思われます。

3 現代社会に続いている狩猟採取時代の心

現代でも、人間の脳は進化していませんから、狩猟採取時代の心という群れを作るシステムは受け継がれています。平等取り扱いであれば、不平等や差別があれば、程度は憤激からモヤモヤまでバリエーションはあるとしても、善くないという気持ちになります。弱者保護ということに関しては、小さく弱い者に対しては「かわいい」という感情がわいてきます。これは保護の行動を起こさせる感情です。本能にかなう行動は、大雑把に言えば本能的に「善いこと」という感覚を持ってしまい、自分が「善いこと」を行うと充実した気持ちになるし、他人が善いことをするのを見ると、ほっとする気持ちや、感動をしたりするものです。どうしてこのような感情になるかというと、こういう感情になる人間の先祖だけが群れを作り生き延びることができたので、それがその子孫である私たちに遺伝子で受け継がれてきたとのだと思います。

現代社会は、環境が大きく変わりました。この環境の変化に起因して、かつては人間を生き延びらせた群れを作る本能が、パワハラやいじめを引き起こしてきていると考えます。

かつての狩猟採取時代の環境と異なる二つの大きな変化は、狩猟採取時代は一つの群れで生涯を終えていたのに、現代社会は複数の群れに同時に帰属すること、例えば家族、学校、職場、地域、あるいはSNS、ボランティア団体、趣味のサークルから、お店の店員と客、道端で目があった人等、相手を助ける関係になる場合がある人間や傷つける場合がある人間関係全てを考えると私たちは無数の人間関係に帰属していることがわかります。もう一つの変化は、多数の群れに同時に帰属するということから必然的にかかわりあう人数も莫大なものになっているということです。何百万年かを要して、人間の脳は進化したとはいえ、個体識別できる人数は概ね150人程度だとされています。その程度の人間としかかかわりを持ってこなかったので、進化がそこで止まっているわけです。
人間ではあり、自分のすぐ近くに存在しているにもかかわらず、あるいはしょっちゅう一緒にいるにもかかわらず、「仲間」だと認識できない人間が現代社会では登場しているのです。これは人間関係の希薄化の意味でもあると思っています。中島みゆきさんの「帰省」という歌の歌詞には、人は多くなるほどものに見えてくるという一節があります。見事に現代社会をとらえきった詩人の感性の鋭さには脱帽するばかりです。
このような環境の変化は、複数の人間関係の間のバランスをとることを必要とします。しかし、複数の人間関係に帰属するようになったのは、ここ1万年くらいにすぎず、脳が進化するにはあまりにも短い時間です。だから、例えば家庭と職場で、バランスをとって生活するという発想が持ちにくく、真面目な人ほど職場で全力投球をしてしまい、家庭では体力的意味でも、心理的余裕という意味でも余力が無いというような、不具合も生じてしまうわけです。人間はマルチに物事を考えることが苦手だということです。そのように脳は進化していません。このため、他の人間関係の不具合によるストレスを八つ当たりで発散しようとしてしまうわけです。

4 いじめやパワハラの「正義感」の構造

最近は熊の被害が報告されていますが、都市部では肉食獣が人間を押そうということはほぼないと言ってよいでしょう。山間部でも今年が例外的なことだとのことです。野獣に対して袋叩き反撃をする機会が無くなっているようにみえます。

しかし、この本能は、肉食獣ではなく、人間に向けられており、これが多くのいじめやパワハラの正体だと思っています。説明します。

仲間を守るということで群れを維持していた人間は、仲間以外は敵だとみなして攻撃の対象としていた可能性があります。現代でも、ジャングルの奥地などに住む他の種族と交流のない人たちは、よそ者がテリトリーに入ると怒りをもって攻撃をしていたと言います。その人たちにとっては、仲間以外の人間は敵だと認識し、脅威を感じて、攻撃して自分たちを守ろうとしたわけです。彼らにとって文明人を攻撃することは、自分たちを守ることであり、「善いこと」であり、正義という認識です。

群れを守るということは、本能に合致することですから、「善いこと」であり、正義感を呼び起こすことです。群れを害する者は、人間であっても、同僚や同級生であっても、攻撃して排除することが正義感だと思ってしまうメカニズムがここにあると思うのです。

これはおそらく狩猟採取時代もなかったわけではないのかもしれません。精神破綻した群れの構成員が暴れて仲間に攻撃をしたような場合は、もはや仲間という意識を捨てて、敵だとして排除したことは大いに考えられることです。

どこまで明確に意識をしていたかは不明ですが、当時の群れの共有している価値観は、究極的には群れの存続という低い内容だと思いますが、そのためのツールとしての心は、群れの仲間を大事にする、特に弱い者を保護するという形で究極の目的を達しようとしていたわけです。この心に反する行動をする者は仲間という認識を失い敵であると評価が変わり排除の対象となったのでしょう。

但し、この評価の転換は、その対象人物とは生まれた時から一緒にいた人間という記憶があり、かつては仲間として扱っていたこと等から、よほどのことがあったときにぎりぎり起きることだったと思います。

ところが現代社会の複雑化による人間関係の希薄化によって、仲間という認識が外されることはかなり簡単になったのだと思います。全員に不利益が無いようにすることは、かかわりあう人間の数が膨大すぎて初めから無理だと思ってしまうわけです。この考えは、人間が苦しんでいても、共感できなくなるという現象を引き起こすようになりました。

現代社会のいじめ、パワハラもこの点を理解する必要があると思います。いじめやパワハラをする人たちも、このような背景があるからこそ、職場の部下だったり、同級生だったりを、容赦なく攻撃することができる条件になっているということです。

群れの仲間から敵へ簡単に評価の転換が起きやすくなっているうえ、その群れの果たすべき内容が非常に高度になっていることから、果たすべきことを果たさないことに対して、「群れの仲間の足を引っ張る」とか、「群れに迷惑をかける」とか、「群れの構成員としての資格が無い」等という評価が下されやすくなってしまっているようです。

例えば学校では、授業中に変に体を動かしたり、集中をしていない児童がいたとしても、私のころは1クラス50人超の人数が詰め込まれていましたから、「そういう子どももいるな」ということでことさら問題視されることはなく、先生の気が向いたら注意をしたり、後で通知表に書き込まれたりということで済んでいました。現在は、それは障害だから、病院に行って治療を受けなければならないということになっているようです。成績の良い人間たちは、授業に出て出席数を稼ぎ、教師の話を聞くわけでもなく、授業中に教科書を読んで、問題を解いて自分で学力を上げていたので、同級生が何をしようとあまり気にならなかったと言います。今は、不規則な行動をする同級生に対して、イライラして、攻撃をするということが成績上位者には見られます。

例えば職場でも、何らかの不具合の結果が生まれると、後付けのような形で規則を持ち出して注意されるわけです。例えば課長の言うとおりに取引相手との交渉を進めていたのに、取引相手の都合で交渉が打ち切られたとしても、逐一報告をして相談をしなかったからだと叱責されるようなものです。年度目標を定めるときに抽象的な目標でよいとされてそう記載したところ、抽象的な文言から無理やりこじつけられて、求められる努力が足りないなどと低評価されるということもよくあることです。偶然的事情で査定が下がり、賃金が減額されるということは大企業では日常茶飯事ではないでしょうか。

このいじめやパワハラの「きっかけ」に着目すると、群れの目的が高度過ぎるという背景があるように思われます。群れの目的が人間が努力さえすれば容易に達成できることではなく、めいっぱい緊張して、運も味方につけてようやく達成できるかできないかというもので、構成員たちは日々一杯いっぱいの状態にあるということです。ただでさえ、人間関係の希薄化によって、他者を仲間だと認識することが困難になっているところに、ちょっと気を抜いたり、ちょっと運が悪かったりすれば、組織の目的を阻害する行動だと評価されてしまうような人間関係になってしまっているのだと思います。だから、組織の中で、人々は簡単に「悪」を認定され、その悪を正すことは、「善きこと」という意識が起きやすくなっているのだと思います。「悪」に対して、具体的な修正方法をレクチャーすることもできないししないので、「悪」と評価して切り捨てて敵として攻撃するという安直な行動に出てしまうのが、パワハラやいじめの「きっかけ」で、それは、人間関係の希薄化と組織の目的の行動かによって、実に些細なことがそのきっかけになりやすくなっているというのが現代日本の状態なのだと思います。

5 ひとたび始まったいじめやパワハラが強烈になる理由

いじめやパワハラは、きっかけとその過酷さは、別々の原因がある場合が多いことに注目するべきだと思います。

いじめやパワハラは、何もきっかけが無ければ起きにくいのですが、一度始まってしまうと過酷な攻撃になりやすいという特質があります。この他者への攻撃が過酷になる原因のほとんどは、八つ当たりです。つまり攻撃者が、自分が別の人間関係で追い込まれているために危機感を感じていると、その危機感をはねのけたいという感情が生まれます。危機回避の方法は逃げるか戦うかですが、その当初の危機感を与えた原因は大きなもので、親とか学校とか社会とか、あるいは上司とか社の方針であるとか、取引相手とかのために、怒りと攻撃で乗り切ることができません。そうかといって逃げ出すわけにもいかないので、耐えているしかありません。これでは、危機回避の要求ばかりが高まっていきます。ひとたび些細なことで、攻撃のターゲットを見つけていじめやパワハラを始めると、別の人間関係で生じた危機回避の要求の肥大が、そのターゲットへの怒りのエネルギーとして攻撃を行い放出されるようです。

実際のパワハラ事例では、上司や会社からのノルマ達成への圧力がパワハラの大きなエネルギーになりましたし、他の職場では和やかに仕事が進んでいたのに当該職場だけ店長がパワハラを行っていた原因として、家庭の不和があったということがあります。学校でのいじめは、進学に対するプレッシャーがエネルギーになっている事例が多く、偏差値の高い学校を受験するような生徒がいじめを行うということが少なくありませんでした。

このような、何らかの人間関係の圧が強すぎたり、人間関係の圧に対する抵抗力が少なかったりという理由から、圧を強く感じてしまい圧からの解放要求が強くなると、近くにいる人間の些細なことを口実にいじめやパワハラが大きくなっていくこともありうることだと思います。特に正当な根拠が無くても、こじつけて攻撃するということがあります。特に「なんとなく虫が好かない」というような嫌悪感や不快感が口実になる場合は、理由をでっちあげて攻撃を開始するということも見られます。

6 さらに不合理ないじめやパワハラの構造

いじめやパワハラは不合理ですが、さらに誰がどう見たって不合理だといういじめ、パワハラも少なくありません。それは以下のような構図、人間の本能を利用して成立していることがあります。

先ほど、群れを作る人間のシステムとして、「権威に従おうとする心の傾向、弱い者を守ろうとする心の傾向」を挙げました。このいわば人間の本能に由来するいじめも少なくありません。特に大人のいじめに多いようです。

典型的なメカニズムは、群れの権威者が、群れの中で自分よりも権威が上になりそうな相手に対して危機感(権威が無くなるという危機感)を感じ、その新権威候補者を貶めようとするわけです。それこそ、些細な事情、見解の違いがさも「悪」であるかのように、突如新権威候補者の非難を始めます。その話を周囲は熟慮の上賛同しているわけではありませんが、権威者に同情して権威者を支持してしまうという人間の共感力に基づく本能と、権威者が弱さを見せたことによって権威者を保護しようという本能が、特に詳しい打ち合わせもしないで、あたかも意を通じ合っているように、権威者の新権威候補者に対しての攻撃を見て見ぬふりをしたり、加担したりするということが起きます。

ひとたび攻撃が開始され、攻撃が継続しているという既成事実ができてしまうと、態度を変えて、「やっぱりその攻撃はまずいのではないか」と思わなくなるようです。攻撃を継続し、それになんとなく取り巻きも巻き込まれてしまうと、徐々に取り巻きの心も、新権威者候補に対して怒りを覚えてきて攻撃を是認し、その攻撃を内省することができなくなるようです。つまりこの時点で、新権威者候補は組織にとって「敵」であり、仲間ではなく、配慮や尊重の必要が無いと勝手に感じてしまうようです。行動を継続すると、心もそれに沿って変改しているようです。そして、ここまでやるかという相手に対する配慮の無い攻撃を組織的に始めていくわけです。

攻撃する仲間の共同行動によって、勝てるという意識が強くなり、相手が消滅するまで攻撃を続けます。相手はもはや人間ではなく、肉食獣と同じ仲間に危害を与える存在ですから、容赦のない攻撃が加えられ、排除が完成するまでそれは続き高まっていきます。ひとたび怒りに支配されると、相手が弱ればもういいだろうという気持ちにはなかなかならないようです。ゴキブリを見た場合、殺虫剤をかけたり、叩き殺そうとするわけですが、弱っていても少しでも動こうとする姿を見ると、さらに息の根を止めるまで怒りに任せた攻撃をするのですが、それと同じです。

権威者を守るということが、組織を守るということと同じ意味だと本能的にはとらえてしまうので、攻撃は「善きこと」正義になってしまうので、歯止めが利かなくなります。

こう書くと猿山のボス猿の時と同じかというと、それは違うと思います。自然界の猿山の群れは、基本的には雌猿とその子どもで構成されていて、ボス猿だけが大人の雄だそうです。この場合はボス猿が自らを守ろうとするのは、排他的生殖の権利を守ろうとしているわけです。しかし、人間は猿と異なり、男女が同じ群れで生活するように進化しています。犬歯が小さくなっていることが、女性をめぐって仲間同士が争うことをやめた証拠だとされています。
あくまでも組織を守ろう、権威を守ろうとする人間特有の心というシステムのゆがみに基づくものだと思います。

環境と心のミスマッチとはいえ、冷静に観察するととても醜い行動であると思います。当然、心権威候補者は何が起きているのかわからず、自分をかえりみても非があったとは理解できず、修正方法が思い浮かばないので、なまじ群れに帰属しようという本能があるため、精神打撃はとても深くなってしまいます。絶望を抱いても何らの不思議もありません。

7 まとめ
仲間を守ろうとするはずの本能がいじめやパワハラに転化しやすくなる環境
1)複数の群れに同時に帰属し、150人以上の人間と何らかのかかわりを持つ複雑な社会である現代社会
2)組織の要求度が高く、構成員の緊張が高まっていること
3)組織の要求度に合致しない行動に寛容が無い雰囲気
いじめやパワハラが激化しやすくなる環境
4)他の人間関係において不具合を抱えてストレスが高じている場合
5)相手が弱く抵抗を想定しなくてよい場合(相手を弱めてから攻撃する場合もある。)

さらに不合理な組織の論理
6)権威者が特定の個人になってしまっている場合(構成員の意識の問題であり、組織の定款や規約などの記載とは別の問題)
7)組織が攻撃にさらされやすく、構成員が組織を守らなければならないという意識が高まっている場合で、特定の権威者を守ることが組織を守ることだと自然に感じてしまう環境
8)組織が構成員の経済的な条件となっていたり、構成員が生きることを支えているような求心力の強い組織である場合

このような場合は、組織の権威を守るため、本能的に組織の構成員はターゲットを攻撃し、容赦なく排除しようとする。その人の人生や他の人間関係や生活については何らの排除もしない。まさに袋叩き反撃が行われてしまう。
組織の外に向かっての反撃もある。



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