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第三者の無責任な支援、寄り添いが、いじめ、紛争を作り出すその構造 複雑な現代社会で他者を支援するとき忘れてはならないこと [進化心理学、生理学、対人関係学]



1 「世界」に書かれていた寄り添いの純粋形態

ネットを見ていたら、岩波出版の雑誌「世界」の2023年7月号に、以下のような文書が掲載されていたということが紹介されていました。

「♯withyou の声を多くの人があげることは、被害者の言葉に「嘘だ」というのではなく、「あなたの言葉を信じる」ということ。そして誰かが心無い言葉を浴びせた時には、「あなたは悪くない。悪いのは加害者だ。」とともに感じること。自分の被害が認められることは、被害回復の第一歩である。」

マニュアルらしきものがあるということは具体的な支援の事例から想像していて、このブログに想像したその内容を書いていました。まさかここまで私が想像していたとおりの文章が存在するとは思いもよりませんでした。

現在の日本の支援、特に女性支援も、行政も含めて、精神的ダメージを受けている女性が被害者、その相手が加害者だと二者択一的に色分けをします。「加害者」とは加害をした者というわけではないと総務省も説明しています。

少しでもご自分の頭で考えながら、冒頭の「世界」に掲載された文書を読めば、違和感に気が付くはずなのですが、ただ読んだだけでは「善いことが書いてあるな」と感じてしまうのではないでしょうか。

2 弱者を保護することが人間の共通の価値観に合致すること

この文書が何も考えないと高評価をされる理由について、先ず説明します。

ある人が誰かとの人間関係等を原因として精神的ダメージを受けて傷ついている場合、人間の本能的価値観としては、「ダメージを受けている人を力づけて、ダメージを少しでも軽減する働きかけをすること」が、「善いことだ」と感じますし、このような働きかけでその人が少しでも回復したら、「充実した気持ち」になることが一般的だと思います。

この価値観が妥当して、人間の共存にとってメリットとデメリットを比べるとはるかにメリットが大きかったのは、今から200万年前から2万年前の「狩猟採取時代」のことです。

狩猟採取時代は、人類は、数十名から150名程度の一つの群れの仲間で、生まれてから死ぬまで生活を共にしてきました。
もしその群れの中の人間関係で誰かが精神的ダメージを受けた場合は、心傷ついている人に共感を抱きやすい仲間が、自分がダメージを受けているかのようにその人のダメージを軽減しようとするのは、弱者保護という人間の本性でした。弱者保護をしないと弱い者から死んでゆくので、群れの頭数が減って、肉食獣の餌食になったり、食糧を探し出せなくなって飢え死にすることを回避できる、とても都合の良い心理傾向、行動傾向でした。弱者保護の行動を本能に組み込んだものだけが厳しい自然環境を生き抜いてきたという関係になります。

だから現代社会の人間たちも、個性による程度の違いはあるとして、このような弱者保護を「善いこと」と感じ、自分が弱者保護の行動をすると充実感を抱くようにできているわけです。

そして、弱者保護をしているという意識は、そのための行動を本能的に行ってしまい、理性的に振り返るという思考が停止してしまう要因があるのです。

3 複雑な現代境において、狩猟採取時代の支援が成立しないことを構造的に理解してみる

問題は現代社会の第三者である支援者による支援についてですが、狩猟採取時代との違いに着目して考えてみましょう。

狩猟採取時代は、生まれてから死ぬまで同じメンバーで生活して、極めて近くにいつも一緒にいるという特徴がありました。だから、精神的ダメージを受けたその経緯についても、すぐ近くで目撃していたということになります。事実関係を直接把握していたということが第1の違いです。現代の支援者は、第三者であり、当事者の関係性も、歴史も直接見るということはありません。通常どちらか一方の話だけを聞いて支援を始めます。
第2の違いは、精神的ダメージを受けている方も、その相手方も、狩猟採取時代は間に入る者からすると、どちらも同じ群れの仲間だという点に大きな特徴があります。できれば、再び仲良くなって、群れを支えてほしいと思っているわけです。だから、よほどのことが無い限り、ダメージを受けた者の相手を一方的に糾弾したり、排除したりするということはなかったと思います。よほどのことをしていたという場合は、群れを守るために容赦なく排除したということもあったのかもしれません。

その結果、おそらく狩猟採取時代では、単純にどちらかが悪で加害者で、どちらかが被害者だと認定することはよほどのことが無い限り無かったと思います。双方をなだめて仲直りをさせるということが主たる働きかけだっただろうと想像しています。

もちろんこれが人間対人間の争いではなく、群れの外の野獣が群れの仲間を傷つけたということであれば、容赦なく野獣を襲って致命的なダメージを与えるまで攻撃を続けたのだと思います(袋叩き反撃仮説)。


しかし現代は環境が著しく変化しました。通常は、人は、様々な群れに同時に帰属しています。家族、学校、職場、社会、国家、ボランティアやサークルなどに所属しています。また、誰かにダメージを与える可能性のある他人は、群れの数の大きさや、職業を分担する社会構造、インターネットの普及等により膨大なものとなっています。これが「複雑な人間関係」の本質だと思います。

人間は、このようなとてつもない環境の変化の中にいながら、先ほどのべた狩猟採取時代の価値観を有してしまっています。この心(価値観)と環境のミスマッチが様々な弊害を起こしています。

支援の関係で整理すると現代の環境では、一言で言えば、ある人の精神的ダメージを回復させようとする支援者は、全くの第三者であるということです。つまり、第1に、その精神的ダメージがどういう形で起きたのか、出来事以前のその当事者同士の関係性はどのようなものであったのかについては全く分からないという特徴があります。第2に、精神的ダメージを受けた者に対しては、支援担当者は仲間であるという感覚を持つのに対して、精神的ダメージを受けた者の相手方は、顔も知らない人間であり、仲間だという意識を持っていないという特徴もあります。

現代社会の支援は、事実関係を十分把握しないで開始されるということを意識する必要があります。

4 改めて冒頭の文章を読む

先ず、被害者の言葉に「嘘だ」と言わないで、「信じる」べきだというようなことが書かれています。なるほど、これは必ずしも支援者の心得として書かれたものではありませんが、弱者保護の集団的なムーブメントの中での心構えのようなものだと受け止めて良いのでしょう。これはかなり無責任な態度だと言わざるを得ません。

なぜならば、第三者は、そこで何が起きたのかよくわからないということから出発するべきなのに、心室性の吟味をすることを否定しているからです。被害者の主張する「被害」が事実として存在していたのかについてはわかりません。また、「被害」の程度、被害を受けるに至った事情などについてわからないのです。

また、「被害者」が複数いる場合は、解決の目指す方向もその人によって異なることは通常あることです。必ずしも同じ被害感情を持っているわけではありません。これがピアサポートの難しいところです。

もし、支援者が自らが「加害者」とされた人にとっても影響を与える行為をするならば、何らかの方法で真実を調べ、何が真実であるのか確定し、それに基づいて被害者の意思に沿った支援をする必要があるはずです。

被害者の言い分を「嘘だと疑わないで信じる」という行為は、真実か否かわからない情報によって行動を起こすということですから大変危険な行為です。仮に「被害者」の主張が、事実に反していたり針小棒大な主張であれば、罪もない人を加害者だとして、攻撃をして社会的に排除する行為になりかねません。

さらに、真実がどこにあるかもわからないのに「あなたは悪くない。悪いのは加害者だ。」ということも極めて無責任です。
「あなたは悪くない」ということはとても簡単で安直な言動です。また、人間関係を善と悪で割り切る二者択一的考え方です。例えば、二人の関係が家族どうしならば、必ずしも善と悪が対立しているわけではなく、疑心暗鬼や言葉の不足から、コミュニケーションがうまく取れていないことが多いのです。ちょっとした工夫をアドバイスすることによって、お互いが幸せな関係を築くことだって不可能ではないかもしれません。

また、この態度はアメリカのフェミニズムの精神科医で、複雑性PTSDの病名を提唱した、ジュディス ハーマンは、「あなたは悪くない」という言葉を発することで、支援者は具体的な被害者の被害、精神的打撃、絶望の恐怖を理解しなくても済む、被害感情を共有することを拒否する態度だと批判しています。

むしろ本当はどうすればよかったのか、過去の時点で別の行動をとった場合のシミュレーションを後に行うことも、絶望を回避する方法になり、精神的ダメージを受けた者の回復に役に立つのです。「あなたは悪くない」ということで、支援者は思考停止をすることができます。それは支援者の心の負担を軽減する以上の効果はありません。同時に支援対象者は、支援者への依存を深めていくという効果は確かに見られます。

つまりあなたは悪くないということは、被害回復の第一歩ではなく、被害者の絶望の淵を垣間見ることを拒否する支援者の防衛行為であり、被害者を自分に依存させるだけの効果しかないということです。あくまでも支援者の利益にしかならないと私は考えます。

5 被害者の言動を嘘だと思わないで信じた弊害 草津町議事件

実際は、様々な被害を受けている人がたくさんいます。ひとたび「加害者」とされると、それは支援者たちは仲間だと見ないで、あたかも肉食獣のように被害者を攻撃する人間だとみなしているかのように、容赦のない攻撃が加えられます。仲間だと思わないから、そういう非人道的なことを正義の感覚で遂行することができてしまうのです。
私が多く見ているのは、DV被害者保護の名目によって、子どもと会えなくなった無数の父親たちですが、これは何度もこのブログで書いていますので割愛します。

今日は、草津町という温泉の町で起きた典型的な弊害についてご紹介します。
事件の詳細は、真の被害者である町長の黒岩信忠氏を紹介するWikipediaに記載されています。要約すると、2019年に女性町議Aが、2015年に町長室で町長から性的暴行を受けたと電子書籍を出版して主張し、告発をするので、町長は辞職をしろと言う記者会見まで開いたことから始まります。Aは、町議会でも自分の主張が真実であるとして、町長に対して不信任決議案を提出しますが、賛成者が二名しかおらず否決されました。
その後、町議会は、Aの行為が品位を欠くということで、懲罰動議を発議しAは失職します。しかし、知事の裁決によって懲罰動議は無効となり、町議としての地位は回復します。2020年9月には、虚偽の事実の書籍を出版して名誉を棄損したことと、町議会議員に立候補するにあたっての居住実態が無かったことから、リコール運動が起き、圧倒的多数をもってAは解職されました。圧倒的多数でリコールが成立した背景には、Aの言っている暴行事件が、電子書籍に記載した内容と、刑事告訴をした内容と根幹部分で異なっていたことが、つまり電子書籍には事実に反することが書かれているということを刑事告発をしたことによってAが認めたことが大きな原因だと分析する町民が多いようです。

この一連の行動に対して著名人も含んだ支援者たちが、Aを支持し、草津町長ばかりではなく、草津町議会や、リコール投票をした草津町町民に対して攻撃を行い、デモが行われるほか、Aは外国人記者クラブでも記者会見を行い、この事件を世界に広めました。支援者の言い分は、現在では、町ぐるみで女性町議を強権で解職したというのは女性に対するいじめだということを根幹にしているようです。しかし、彼女らは当時はこのリコールに対して「セカンドレイプの町草津」と書いたプラカードを掲げて抗議していました。A町議のいう、町長室でレイプされたということを疑わないで信じたからそれがファーストレイプであり、リコールがセカンドレイプということになるはずです。

ちなみにAは、電子書籍に記載したことの根幹部分が虚偽であることを民事訴訟において認めています。

結局、町長は、根も葉もないことで、町長室という公的な場で、女性に性暴力を行ったということを世界中に広められてしまい、あらぬ疑いを各方面からかけられてしまったわけですから、著しい人権侵害が起きていたことは間違いありません。町政を混乱に陥れられたということも事実だと思います。さらに、「セカンドレイプの町」ということで、大々的に抗議をされて、温泉という観光業が主力の町は大ダメージを受けたことも想像に難くありません。一人の嘘が、多くの人たちに大きな損害を与えました。

この被害が拡大した要因こそが、冒頭の文章のような無責任な被害者支援の手法だったわけです。追い込まれた町長らが自死でもしたならどのように責任を取るつもりなのでしょう。町長という高い地位のある人は犯罪者とされてしまうことで、自分の立場がジェットコースターのように下がるので高い自死のリスクが発生したことになります。

当然少し考えれば、もしAの主張が虚偽であれば、このような悲惨な結果が起こるだろうということは、頭が働く状態であれば容易に想定できることです。でもセカンドレイプの町とプラカードを掲げた人たちは、想定したとしても、同じことをしたでしょう。

これは、Aが被害者であるという主張から、弱者保護の本能が発動していたしまったことと、Aは仲間であり人間として尊重をしなくてはならないという強い考えが、町長は仲間ではない、肉食獣のようなものだという、仲間からの排除の意識が強く出てしまって、町長の心情や家族の心配、草津町の人たちに対する侮辱による精神的苦痛、経済的損害などということを配慮できなくなってしまった結果なのです。

現代社会においては、誰かを支援することは、誰かを攻撃することにつながることが付いて回ることかもしれません。特に、何らかの思想や信念に基づいての弱者保護行動は、思想や信念を共通にする群を守る意識が強くなり、反射的に敵対する人間を人間扱いできなくなるという傾向があるわけです。誰かを支援する立場の人はこのことを頭に入れて話さないことが必須条件となります。

支援者が対立当事者の間に入る時は、真実について自分は知らないという態度を貫いて、その上で今何をするべきかを考えるべきです。また、国や自治体は、自分たちの支援が、このような弊害が大きな支援ではないかということを早急に見直すべきであり、立法府、政治家はそれをただすべきです。

また、草津町議事件についても、抗議デモの弊害を拡大したのは一部マスコミにも大いなる責任があります。報道姿勢にも、真実がよくわからないという自覚を常に持ち続けて、罪もない加害者の人が苦しむ報道にならないようにくれぐれも注意するべき責任があると私は思います。





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