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親子断絶防止法の真の不十分点 結論を押し付けずに誘導する姿勢の大韓民国民法にはるかおいて行かれている [家事]

もういい加減よいだろうと思うのだけど
今出ている親子断絶防止法案は、
特に賛成する人はいないのではないかと思われる。
それよりも、
全くオープンな議論もなく、
法案自体が改悪されていることに着目するべきだろう。

改悪したのは、女性を自分の欲望の対象としか見ない
国会議員だとされている。

とにかく、低レベル過ぎるのだ。
本当に離婚後の子どものことを考えているのか。
といっても、もはや誰も信じないだろう。
葛藤の高い元夫と元妻の
どちらの利益をとるかの駆け引きの産物になっていると感じる。

どのくらい、低レベルの遅れた状況かということは
お隣の韓国の離婚制度を参考にすると
一目瞭然である。

先ず、離婚自体がこれほど野放しにされている国も
先進国では日本くらいである。

普通の国は、離婚に伴う養育費や面会交流の取り決めについて書類を作成し、
裁判所の許可をとる等の手続きが必要とされている。
親が自分の気持ちを優先して
子どもの利益をそっちのけで離婚を優先することを避けるためである。

日本は、面会交流や養育費について
それなりのことを離婚届に記載すれば
誰もチェックなどしないで離婚が成立してしまう。
全く不道徳な国である。

通常の先進国は、
離婚後も共同親権である。これが原則。

単独親権制度は日本の国民性に合致しているという意見があるが、
子どもをそっちのけで離婚を優先する国民性が日本の国民性だなどと
誰が言っているのだろう。

あるいは、他の先進国と比べて
深刻なDVが多発する野蛮な国民性だとでもいうのだろうか。
まじめに考えてほしい。

なんにせよ、あまり法案がオープンにされていないので、
ネット情報だよりということもあり、不確かな法案なのだが、
じゃあ、面会交流一つ取ったって、
具体的にどうやって実現するか
どのように規定されているのか、
見えてこない。

これに対して、既に2007年から
子どもの福祉に配慮した離婚手続きを整備した韓国は、
2014年にさらなる具体的配慮がなされている。
どんどん日本は置いてきぼりを食っている。

2007年の大韓民国民法改正では
子の養育と子の親権者決定に関する協議書の提出義務が課された。
これが不十分である場合は、補正命令や家庭法院の訂正決定がなされる。
子どもの将来に対して当事者任せにしないのだ。

また、「離婚案内」というガイダンスがなされていて、
専門相談員との相談勧告がされる場合がある。
別居親の面会交流についても説明を受ける。

離婚案内を受けて、
「離婚をめぐる法的問題」や
「親の離婚が子に与える影響」などのレクチャーも受ける。

2014年になると、
離婚をするためには、日本の家庭裁判所にあたる家庭法院で
離婚意思確認申請の手続きが必要とされているが、
その際、ソウル家庭法院では、
専門の相談員が、相談員と面談することになっている。
その後に上記の離婚案内を受ける。

大事なことは、このような細やかな働きかけをして、
離婚後の共同親権の実効性を確保しようとしているのである。
養育費や面会交流が
「ああなるほど必要なのだな」と
「それなら子どものために頑張るか」
という誘導がなされているのである。

きわめて実務的である。

もしかすると日本の親子断絶防止法案は
「面会交流はやったほうがいいですよ」
「自治体は援助しなさい」
という言いっぱなしの結論押し付け型ではないだろうか。

こういう定めであれば、無駄に不安になる人が続出してもやむを得ない。

面会交流の実施の具体的な後押しになることが
何も定められていない恐れがある。

問題は会わせるか会わせないかという不毛な
決着済みの議論の中で生まれた法案だというところが
消耗の議論の始まりなのである。

「どのように会わせるか」
ということが定めらることが重要なのである。

同居親が安心して、大きな苦痛なく
別居親と面会させる
物的施設や
心理的葛藤を鎮める援助者が必要なのである。

その過程の中で、
あわせないことがこの福祉に合致するという例外的ケースを発見し、
面会交流を実現しなかったり、
付添型の面会交流等の厳格な手続きをとる等の
ふるいをかけることができる。


こういうことを法定化しないで、
法律で面会交流したほうがいいですよと定めても
なんの力にもならないだろう。

当然、離婚制度も問題になるだろう。
葛藤を高め、危険性を高める離婚が横行している
多くの人たちが離婚にまつわり
無駄に精神的ダメージを追っている。

子どもが、別居を余儀なくされた親が、
そして死ぬまで逃げているという意識を持たされた同居親もである。

お隣の国でできていることが
日本でできないことはないだろう。
よく学んで、より良い制度を作ればよいだけの話のはずである。

韓国は日本以上に儒教の影響の強いお国であったと理解していたが、
それでも先進国の例に漏らさず、共同親権制度をとっている。
そうして日本のはるか先を行く制度を法律や
そうる家庭法院の規則で実現しているのである。

養育費についても差し押さえと転付命令を一つの手続きでできるようだ。
専門の取り立て制度もあるようだ。

すべては子どもの健全な成長のためである。

最近、配偶者加害の影響を回避するための論者の主張を曲解して、
面会交流原則廃止と必死さだけが伝わってくる論陣を張っている
学者や社会活動家が跳梁している。


よく勉強してから
公的な発言をするべきであり、
そのような発言を繰り返したところで
役所から気に入られるわけではない。

エビデンスがないという前に
アメイトやウォーラスタイン等を勉強し
どのように議論がなされているか
せめて知ってから発言するべきである。



参考文献
家族法と戸籍を考える(50)義務面談,面会交流センターと養育費履行管理院 : 離婚紛争解決の入口と出口に関する韓国の新展開(二宮 周平 金 成恩)戸籍時報 (741), 11-22, 2016-06  日本加除出版
ネット上では読めないようだ。

韓国法における養育費の確保・面会交流センターの実務について 宋 賢鍾 , 犬伏 由子 , 田中 佑季

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00224504-20150928-0130.pdf?file_id=105395






わが子に会えない親の会(仮称)第3回会合報告 [家事]

このブログを読んで、この会を知って、
新たに参加した方がいたので、
これは、報告しなければならないと思って。

先ず、次回は
4月21日金曜日
18時ころから
遅刻可、但し割り勘(但し自己申告で飲み過ぎた人加算)

先日、子どもと離れて暮らす親の人たちの交流会を
仙台駅前の某居酒屋で行いました。

今年に入って毎月行っていますので
3回目になります。

前回からの人や
今回初めての人、
前回来なくて今回の人
皆勤賞の私と
いろいろな人が、
仕事を終わった人から順番に集まってきます。

持ち回りで幹事を決めて、
店を予約してもらいます。
結構他の席と区切られているので、
自由に話をすることができます。

大体一人3000円台に収まります。

あたらしい人が来るたび自己紹介から始めますが、
みんな、仕事から帰ったら
家族と荷物が無くなっていて、
子どもに自由に面会できない
という事情を抱えています。

自己紹介の途中で、
仕事の関係で時間までにこれなかった人が
到着するたびに乾杯をやり直します。
結構、メンタル的につらい人たちが多いので、
また会えたことにほっとして
自然と乾杯ということになるわけです。

離婚をした人、調停中の人
それも様々ですね。

子どもと会えなくなった時期も
千差万別です。

メンバー同士、
自分と違うところを見つけて
慰め合ったり励まし合ったりするところも面白いです。

今全く子どもと会えない人は、
それでも自分は子どもが思春期の手前まで
一緒に暮らせたことを
幸せに感じなければならないなと思い、

4歳の子と自由に会えなくなった人は
それでも全く会えないわけではなく、
制限付きながらも面会できるところに
幸せだと思いなさいよと励まされるわけです。

どちらかというと、
そうやって納得するというよりも、
相手を励ますことによって、
生きていく力を少しずつ取り戻していく
ということでしょうか。

仙台開催なので、
今は宮城県の人たちが中心です。
土地柄なのか、
子どもを連れ去った母親に対する憎しみや
攻撃的発言はあまりないことが特徴かもしれません。

どうすればよかったのか、
今後自分をどのように修正して
相手の変化を修正するか
という視点での建設的な話し合いが
自然と主流になります。

とても素晴らしい。
尊敬に値する話し合いだと感じ入っています。

ただもちろん、
子どもに会いたいという気持ちは、
当事者でなければ話せない言葉で
聞いているだけで、身を切る思いです。

全員が、配偶者暴力のない事案です。
(調停や裁判でも主張されていない)
また、奥さんが離婚の原因になりやすい
三大疾患を抱えています。
大変勉強になります。

当事者の方々は、
そんなことはあまり気にしません。
同じ思いをしている人たちなので、
面倒な説明をする必要がなく、
事実を淡々と話せば
気持ちを分かってくれるという安心感があるようです。

また、相手の気持ちがわかっているからこそ、
空虚な励ましや、アドバイスはありません。
発言一つ一つが相手に対する思いやりに満ちて
ぼんやりと灯りがともるような言葉になっているようです。
だから、厳しい話題なのですが、
にこやかに、和やかに話は進みます。

ブログを見て積極的に参加される方もいるのですが、
私の依頼者とかは、何度誘っても来ない人もいます。

来ればよいのになあといつも思います。

次回参加をご希望の方は、
ブログ左上のプロフィール欄から
あるいはリンク先から
弁護士事務所のホームページを見つけていただき、
ホームページの上のタブの事務所案内をクリックしていただき、
電話番号をお調べいただいて
お問い合わせください。

次回も仙台駅前付近の居酒屋で行います。


上から目線の「過労死するくらいなら仕事をやめろ」ということが有害だと考える理由 [労災事件]


SNSなんかで、よく事情も分からずに
「自殺するな」とか、
「過労死するくらいなら仕事をやめろ」とか、
なんで?っていうくらい上から目線で
攻撃的に語り掛ける人がいますが、
やめてもらえないかと思います。

わたしでさえ、なんか責められているみたいで、
苦しくなってしまいます。
そこで働いていることが
悪いことをしているみたいに思えてきます。

だいたい、伝わるべき人の心に響きません。

その理由

「あたかも、そういう上からの人は、
 過重労働等で苦しんでいる人が
 自分の苦しさを自覚していて、
 それが過重労働によるものだと
 理解している
 そうして、過重労働から抜け出す選択肢を持っていながら、
 その選択肢を、行使しないで、しがみついている。
 つまらない見栄や、生活費のためが、その理由だ。」

これらは、概ね間違いです。

第1に、
自分が苦しいということを自覚することはなかなか難しい
という事情があります。
苦しいんですが、苦しみの連続なのですが、
何とかしなくてはならないという気持ちがあります。
自分が苦しんでいるという客観的な視点はありません。

これに気が付けば、多くの人は仕事をやめますよ。
どうやって、それに気が付くかということを
東北希望の会では、弁護士、心理士、
遺族、当該労働者のチームで去年研究したのでした。

特に、過労死に陥りやすい人は、
家族と接する時間が短いので、
家族の気づきはなかなか困難なので、

仕事との距離を置く(四、五日休む)ことが有効で、
距離を置くことを考えるべき性格の人
距離を置くべき事情を類型化し報告しています。

そのまとめの記事
【宣伝】 過労死する前に仕事をやめる方法 心理学者のみた過労死防止の技術 過労死防止啓発シンポジウム宮城 
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2016-10-27

この中では、特に、おかしくなる前から
華道とか、茶道とか、
自分の心の状態が客観視できることを続けることも
有効だということを報告しています。

それだけ、自分の状態を自覚することは
大変難しいようです。

第2に、過重労働のために苦しいという自覚はさらに難しい。

過労死や過労自死になりやすい人は、
苦しいからといってそれをやめようとしません。
先ず「与えられた仕事はやらなければならない。」
次に「やり通すことができない場合はさらに頑張る。
   残業してでもやり遂げなければならない。」
そして、「途中で投げ出すと、自分がだめな人間になる。」
という意識を持つ人が驚くほど多いのです。

従って、苦しいと自覚しても、
それは自分が悪いのだということで、
さらに頑張る理由にしかならないのです。
ここもポイントです。

おそらく、仕事のために苦しんでいるという自覚があるのですが、
さらに頑張ることが、彼らにとって
自己防衛の行動として自分を守る意識なのでしょう。

企業の方も、
まじめで責任感が強いという人に
甘えて仕事を振っていると、
思わぬ落とし穴があるということで、
「この人は特別大丈夫だ」
という気持ちを捨てることが大切です。

第3に、自発的に退職する選択肢はないということ。

特に、過重労働や職場の人間関係が原因で、
悩み切っている人たちは、
退職する選択肢はないようです。

いろいろな過労うつ体験者の話を聞いても、
もう辞めたいという気持ちにはならないようです。
「このまま苦しみ続けるか、
 死ぬか。」
という視野狭窄状態になっているようです。
やめるということと死ぬということが
同じ意味になってしまっているところが怖いところです。

第4に、生活費のために退職しないわけではない。
確かに、収入がなくなることはとても怖いです。
しかし、そこまで、つまり退職後のことまで
考えが及ぶようなら、半分危険から脱出しかけている状態です。

生活費が無くなることを恐れて
仕事をやめられない
というわけではないのです。

対人関係学的に言えば、
人間は本能的に、所属する群れ(対人関係)から
外されないように努力してしまう
ということなのです。

いじめも同じです。

攻撃されればされるほど、
自分の行動を修正しようとしますが、
どうしても群れから追放されることを
免れる手段がない、不可能だと認識すると
生きる意欲が失われていく
というように把握していた方が
予防の上からは有効だと思います。

冒頭掲げたSNSは
善意なのはわかるのですが、
以上申し上げたことから、
苦しんでいる労働者をさらに鞭打つ
あなたの選択肢は間違っている
ということを突き付けているだけで、
退職しろという結論が正しいとしても、
どうやってその結論に向かえばよいのかということを
一言も提案しないで
絶望だけを突き付ける結果となる
そういう可能性があるということを
指摘しなければなりません。

他人が頑張れと言っても
下手すれば、死ねといっていることと同じになる場合があります。

きちんとした信頼関係を築いた上で、
相手が自分の状態を自覚し、
合理的な選択肢を持てるように
誘導することが必要です。

また、それは専門家だけが行うことよりも、
家族なり友人関係なり、
その人を取り巻いている
暖かな対人関係の存在を自覚させ、
問題のある職場などの対人関係に
不具合があることに気が付かせる
そういう丁寧な
集団的な作業こそが有効であると
経験上感じていることを申し上げておきます。

私がフェミニストだったら、強硬に離婚後の共同親権を主張するだろうということ。20年先を行く韓国の法制度並みに。 [家事]

突然、ある有名な判決の事件の代理人をした
弁護士の方から電話があり、
面会交流を含めた離婚に関する法制度のことで
しばらく話し込んでしまったのですが、
なかなか刺激的な体験でした。

その中でも話題になったことを、
その後のこちらの調査も含めて少しお話します。

つい2,3日前に思いついた話なので、
まだ持論ともいえないでしょうが、
論を持ったというところまでは言えると思います。

先ず、離婚をした場合に、父と母の
どちらを親権者とするかという法制度では、
特に理性的な考察をしなければ
単独親権制度ということになるのでしょう。

離れて暮らす父と母が共同で親権を行使すると
居住場所にしても、教育方針にしても
離婚しても話し合って合意しなければならないので、
実際は不便だろうということで、
どちらかに単独で行使したほうが
子どもの利益になるだろうという
そういう考えはもっとものようです。

日本においても単独親権制度なのですが、
そういう合理性に基づいた立法とだけも
言い切れないのではないかとそう思いだしました。

もともと日本の戦前の法制度は、
母は原則法的能力がないとされていました。
はっきりとした男女差別の考えですね。

戦前の法制度では、
父系を中心として血統を重んじた概念であるところの
「家」という制度が個人よりも優先されていまして、
個人の気持ちというのが家に劣後していたわけです。

だから戦前の法制度の離婚は
原則として家が気に入らない妻が(嫁が)、
「家」から追放される
というものでした。

もちろん、こういう制度は
日本国憲法における男女平等や
個人の尊厳原理に反するものなので、
戦後日本国憲法の成立に伴って、
民法も改正されました。

ただ、当時は、
まだ、子どもの成長や、子どもの人格
ということを法律に反映するということが
世界的にも遅れていましたから、
日本においても、あるべき離婚後の親権制度については
従来の離婚の制度を部分的に手直しする
という範囲での改正でした。

即ち、
封建制度の単独親権制度が
単に男女平等という観点だけから修正され、
子どもの権利や、子どもの健全な成長
という観点からの修正までは及ばなかったことになります。

両親が離婚してしまうと
子どもがもう一方の親とはなかなか会えない
ということは続いたわけです。

これまで母親が差別されて、子どもに会えない状態だったのが、
子どもに対して寂しい思いをさせる加害者が
平等の立場になったにすぎません。

時代的な限界なので、当時の立法を批判するわけではありません。

ただ、子どもがどちらかの親の単独親権に服す
ということは、
単に離婚が男女に葛藤をもたらせ持続する
という普遍的な事情の陰に
封建制度の残存物という側面があることを
現代人は認識しなければなりません。
しかも、性差別に根差した残存物だったのです。

男女平等の観点から現行制度をもう少し見てみましょう。
高度成長期以前は、家イデオロギーや
女性の働く環境の劣悪という諸条件から、
離婚後に子どもを引き取るのは父親が多かったようです。
家イデオロギーの希薄化に伴って、
高度成長期以後は母親が引き取るようになりました。

しかし、いまだに家イデオロギーのように
気に入らない嫁を追い出す悲惨な事件が無くなってはいない
ということを忘れてはなりません。
また、収入が低いということから
泣く泣く父親に子どもを預けて離婚している事例も多くあります。

あたかも封建イデオロギーに基づく単独親権制度で、
子どもを引き取りやすくなっていた男性が、
男女平等で逆に子どもと引き離されるように、
単独親権制度の恩恵を受けていた女性が
同じ女性の子別れを作り出してしまっている危険がある
ということを忘れてはならないのです。

但し、本当に女性は「恩恵」を受けているのでしょうか。
単独親権制度は合理的なのでしょうか。

そもそも、離婚後に女性が子どもを引き取るべきだ
という考えはどこから来るのでしょう。
子どもと離れたくないという気持ちは男女共通です。

現在のアタッチメントの理論は、
ともすれば、性差による役割分担の考えに基づいている危険があります。

アタッチメントの理論を提唱したボウルビーは、
必ずしも母親とのアタッチメントが不可欠だとは言っていません。
胎内記憶とアタッチメントというくくりでは
理論づけられているわけではないようです。

産後直後は母体の回復の必要がありますから、
母親が専従子育て者になることに合理性はありますが、
「母体が回復してもなお、母親が職を持たずに子育てをしなければならない」
ということは、性差による役割分担の主張だ
ということになるはずです。

裁判所は、現実の男女の労働条件や賃金格差を
現状追認的に肯定する傾向があります。

何が何でも、子どもが小さいうちは
母親が育てるべきだという考えが
性差別による役割分担論だとすると
離婚後も、主たる監護者である母親を親権者とするべきだという考えは
性差別による役割分担を現状追認する敗北主義的な主張
だということにならないでしょうか。

離婚後も母親が親権者になるべきだという考えがあります。
日本の親権者は、監護権、法定代理権があります。
一般的には親権者が子どもと同居して、
働きながら子どもを育てるということを余儀なくされるわけです。
それが母親でなければならないという主張があります。

その中の一つには、父親は、外に出て働いて、養育費を払えばよいのだという考え、
ないし感情があるようです。
まさに、封建イデオロギーの性差による役割分担の主張です。
この本音が、むしろ、男女平等を訴える側から出されていることが少なくない
ということは私の認識がおかしいでしょうか。

それから、母親が子どもを育てるべきだという考え方も
母性信仰という極めて古典的な女性蔑視ではないでしょうか。

この考えで行くと離婚後父親は孤独を抱えながらも自由に生活ができ、
再婚するチャンスも多いわけです。
これに対して、離婚後の母親は、
子どもの弁当を作り、幼稚園などの送り迎えをして、
さらに食事の準備から身の回りの世話をして
ということになり、
子どものためばかり時間を使い、
自分という一人の人間であることを否定されているような
そういう状況にあるわけです。

母性信仰に離婚後の女性を縛り付けているのは
男女、どちらが多いのでしょうか。

男性が親権を持つのか、
女性が親権を持つのか
二者択一的な選択肢は、
子どもの健全な成長という視点が欠落しています。

同じ儒教の国である韓国は
離婚後は共同親権です。

民法などが改正されて、
離婚の時には裁判所が後見的に
離婚や親の葛藤が与える子どもへのマイナス影響
等のレクチャーが公的になされていますし、
養育費や面会交流の定めを書面にする義務があります。
それが不十分である場合は
是正を求められたり、裁判所が定めたりするようです。

面会交流センターというものも
日本でいう家庭裁判所の中にあり、
面会交流支援や引き渡し支援など
子どもの健全な成長のためのサービスが運用されています。

子どもという次世代の国家を担う者への
国家的配慮がなされているわけです。

日本は未だに、
子どもの健全な成長とは何かということについて
理解が進んでいないようです。
親子断絶防止法案を見ても、
精神論ばかりであり、具体的なことは
子どもの意見を尊重して面会交流を進める
ということぐらいです。

何も学習せずに、
子どもの成長など掛け声だけだということが
韓国の法制度と比較すると歴然です。
感情の対立を放置し
国家が子どもの健全な成長の観点から
後見的に、面会交流を進めやすくする
という肝心な点がきわめて抽象的です。

そうして、現在の離婚制度が
極めて女性蔑視、女性の役割論に基づいている
ということは、一切考慮されていません。

韓国と比べても
20年くらい日本は遅れている
といわざるを得ないようです。

この20年の遅れは、現在の評価です。
日本が子どもの健全な成長のための理性的な改革がなされない以上、
時がたつにつれて遅れの期間が増大していくことになります。

残念ながら、役に立たずに弊害ばかりの
親子断絶防止法が
せめて、オープンな議論が始まるならばともかく、
こっそりと提案されるだけであるならば、
取り返しのつかない遅れが確定してしまうような危惧があります。


浮気をされた女性の心理 何年たっても消えない傷の正体 [家事]


(本質的には男女差はないと思うのですが、
説明しやすいため、夫が浮気をした場合ということで。)


小さな子どもを抱えた、浮気をされた奥さんの
離婚調停の代理人になることが
これまで何度かありました。

特に、浮気現場が自宅だという場合は
かなり精神的なダメージが強く出るようです。

自宅に入ることがどうしてもできなくなるようです。
会社なり、実家なりから、自宅に帰ろうとしても
どうしても体が動かなくなる
金縛りにあったように自分で自分の体を
動かせない状態になるようです。

死ぬような危険なことはないのに、
あたかも自宅に帰ると死ぬような怖い出来事が起きるような
そんな不吉な感覚のようです。

また、自宅で不貞が起きようと別の場所であろうと
浮気をした夫に対しては、
近しい気持ちが無くなります。

生理的な嫌悪ということはなんとなく理解ができるのですが、
恐怖すら感じるようです。
あたかも夫が自分を殺すかのような
壮絶な恐怖を感じているようです。

どうして恐怖を感じたようになるのか。

これは対人関係学的な考察をすれば
理解を助けることになると思います。

人間も動物ですから
身体生命の危険に対しては、恐怖を感じます。
人間独特の感覚として、
自分が仲間から外されそうだということを感じると、
やはり自分が危険な状態であると感じます。
ドキドキしたり、顔が赤くなったり、熱くなったりですね。

これは人間が群れを作るための遺伝子的仕組みで、
仲間の感情を読み取って、自己の行為を修正し、
仲間から外されないようにするわけです。

ひどいことを言ったら、逆に攻撃されるから言わないとか、
ここで助けないと恨まれると思うから助けるとか

あるいは、テストで悪い点数を取らないように頑張ろうとか
会社を首にならないために頑張るとか
まあ、そういうことですね。

そうして、何か失敗をして上司から叱責されると、
とてもドキドキしたり不安になります。
これは、交感神経の活性化といって、
血圧が上昇し、脈拍が増加し、体温も上昇する等の
体内の生理的変化なのです。

この反応は、身体生命の危険を感じた時と
大ざっぱにいうとまるっきり一緒です。

身体生命の危険についても
ちょっとひっかき傷ができるだけの危険から
出血多量などで死亡する危険まで
その危険性に応じて交感神経の活性化の度合いが代わると思うのですが、

対人関係的危険についても
ちょっとからかわれるだけから
追放されてしまうまで程度があることでしょう。

夫に浮気された妻の状態は、
死亡の危険に匹敵する危険の感じ方をするのだと思います。

特に女性は、男女関係において
チームになることを重視するようです。
これは、出産をする性として
遺伝子上組み込まれている合理的な志向です。

夫が浮気をすることは
自分と夫とあるいは子どもが一つのチームだと安心していたのに、
チームの中に異分子が現れてしまい、
一つの閉じた、安心できるチームではなくなったということのようです。

自宅に泥棒が入った人の話を聞くと、
自分の家なのに、自分の家だという安心感が無くなる
ということを言います。
常に泥棒がいるのではないかという感覚だそうです。

自宅に強盗が入ったらなおさらでしょう。

夫が浮気をしたということは
家庭という建物の中に強盗が入ったような感じなのでしょう。
その強盗が浮気相手ではなく夫なのです。
もはや同じチームの仲間ではなく、
自分をチームから追放しようとしている
という感覚になるのでしょう。
完全に敵であり、
自分の対人関係的な生存を脅かす
攻撃者、生きる活動の妨害者というように
脳が勝手に感じてしまうということが近いようです。

だから、浮気をした夫に恐怖を感じるということは
対人関係学的な理解をすれば
極めて自然な流れだと思います。

問題なのは、この後です。
自分は、このような恐怖や屈辱や疎外感を感じながらも
子どものためにやり直そうとして、
離婚をせずに同居を続けたとします。

やり直すと言いましたが、
実際にやり直すことは難しいようです。
やり直している人もいます。

むしろ、
これまでとは違った
あたらしい関係を作っていくという方が
近い場合も多いようです。

この考えは、離婚を避けたい場合は有効です。
どうしても、昔のようにわだかまりなく生活することが不可能でも、
少しずつ、同居に馴(な)れていく
ということはあり得ることです。

そうやって努力をしていくのですが、
ふと何かの拍子に
努力ができなくなることがあります。

浮気の証拠と同じものをテレビで見かけたとか、
浮気の場所を通りがかったとかですね。

但し、
そういう頭の記憶をよみがえさせる場合だけでなく、
体が記憶していることで苦痛がよみがえることがあるようです。
例えば、浮気が発覚した時の気温であるとか
沈丁花の匂いがしたとか
転んでひざを痛めたとか、
そういう、本人も気が付かない出来事を
体が覚えていることがあるようです。
その体の記憶が浮気と結びつけられてしまっているのです。

これは相当根深い心の痛みを抱えていたことが
わかります。

みんながみんなそうではないのですが、
夫の浮気がPTSDのようになっている場合があるわけです。

夫としては。何年も前の浮気だし、
その後平穏に暮らしていたのだから
まさか、その浮気が原因で妻が自分を拒否している
ということを理解することができません。

何か別に原因があるのではないかと
考えることはむしろ自然かもしれません。

PTSDのような状態になる場合、
妻は古い記憶を思い出して嫌な気持ちになっているのではありません。
その時に感じた屈辱感や恐怖感を
その時と同じように感じているようです。
記憶がよみがえったのではなく
感覚がよみがえっているのです。

ここから逆に浮気をされた心理を考察すると
先ず、「自分」という感覚が壊されたということになります。
自分とか自我というのは、生命体単体で感じるものではありません。
自分を取り巻く大切な仲間とのつながりを含めて
「自我」というものを感じているそうです。
そうだとすると、夫という大切仲間との
つながりが絶たれることは、
結局「自分」というものが崩壊してしまう感覚を持つ
ということになります。

また、浮気をされたことによって
夫以外の人との関係でもつながりがたたれたと
そういう感覚も持つのかもしれません。

これが孤立感であり、疎外感であり、
人間の生命線を絶たれる不安を感じているということであり、
命の危険に匹敵する出来事だということになります。

また、一番安心を感じたい、
一番基本的な仲間の裏切りであるから
絶望感を感じやすくなります。

この絶望を感じたくないために、
時に、自分が何か悪かったからではないかと
罪責感を抱いたりするわけです。

「あなたは悪くない」
というアドバイスは、
この罪責感を抱くことによって
絶望感を回避しようとする活動を遮断することですから
とても危険なことだということになります。

その罪責感にも寄り添うことが本当の寄り添いです。
極限的状況において何が起こったのかということ罪悪感を伴った意識をすすんで分かち合うことが寄り添いなのです。
そうすることによって初めてもつれた糸をほぐすことができるわけです。

ここまで考察が進めば、女性にとって
夫に浮気をされたということは
個性による違いはあるにしても
強姦された場合と大差のない精神的被害を受けていた可能性がある
ということになります。

ずいぶん前の浮気を言い出したということは
精神的にはかなり危険な状態です。

夫とのつながりを復元できない場合は、
夫以外の親や兄弟、子ども、友人等
つながりの中で癒されることが必要です。
新たな自我を形成していく過程で
恐怖反応を克服していく必要があります。

「ずいぶん前のことを今更言い出すなんて」
という人は、
人間を支援したり、人間の紛争に関与したりすることを
一切やめていただいたいと思ってやみません。

参考文献
「心的外傷と回復」(みすず書房)
ジュディス L ハーマン

自殺予防対策における連携の意味 業種間の相互乗り入れ [自死(自殺)・不明死、葛藤]



<自死の原因論の誤解とその理由>

自死予防として他業種の連携が必要であると
ようやく言われ出してきたようです。
「自死予防の原因は平均4つあるから
それぞれの分野の専門家が連携する必要ある」
みたいな説明がなされることもあります。

ここはちょっと誤解があるようですから、
説明しておきます。

こういう原因並列論の文脈で語る人たちの中には、
警察の統計に基づいて話をしている場合があります。
ここで誤解というか理解不十分があるわけです。
警察は自殺が起きた場合、捜査をします。
目的は事件性の有無です。
主として殺人事件や傷害致死事件ではないか
という観点で捜査をしなければなりません。

家族や会社の同僚から事情聴取したり、
遺書を読んだりするわけです。
そして死亡の原因を探ります。

そうして、自死であり
他殺ではないということが判断できれば
「事件性なし」という事件処理をします。

自死であるとするためには
自死の原因が必要だということになります。

ここでいう原因は
あらかじめ用意されたカテゴリーの中から選ぶわけですが、
家庭問題、健康問題、経済・生活問題、
勤務問題、男女問題、学校問題、その他、不詳
という9つのカテゴリーの中から選ばれます。

そうすると、
「会社でいじめにあいノルマもきつく、
うつ病にかかったが、
単身赴任のため家庭との折り合いを欠いて」
なんてことになれば、
健康問題、勤務問題、家庭問題が
ぽちっと押されるわけです。

会社の上司を事情聴取して
パワハラはありません
なんて言われると、
ハイそうですかということになるわけです。

上司が殺したり、
自死するよう脅迫したのでなければ
事件性はないわけですから
それ以上警察も突っ込まないわけです。

また、そのカテゴリーの中で
主従も決めません。
該当するカテゴリーは全てチェックします。
チェックしたカテゴリーのすべてが
自死にどの程度関連するかなんてことは
あまり関心がないということになります。

こんな統計をもとに自死の原因は
平均4つあるなんて言うことは
無責任極まりないと言わざるを得ません。

上記事情では、
パワハラとノルマ過多が自死の原因であるべきでしょう。
単純並列切によると
自死の原因は複数あるから
労働だけが原因ではない
だから会社は全部の責任を負わない
なんてことがまかり通ってしまうことになります。

本来自死の原因が複数あるという意味は、
複数の次元から考えなければならないという意味です。
並列的に原因が並ぶわけではありません。

精神科医の松本俊彦先生は
入れ子構造という考え方を紹介しています
(「自殺問題と法的援助」 日本評論社)
いれこという言葉になじみがないのですが
マトリューシカのことです。
人形を開けると中に人形が入っていて
その人形を開けるとまた人形が入っているという
あれです。

また、原因論というよりも
どうすれば自死が防げたかという観点からの考察で、
たとえ、職場でひどい目にあっても
それを同僚が家庭に報告し、
タッグを組んで一人をフォローし、
精神状態によっては、精神療法を受けたり、
法的な解決方法を専門家に相談したり
退職した後の生活方法のレクチャーを受けたり
ということで、
あるべき対処方法を用意して
会社と対決する
ということを言っているわけです。

少なくとも責任論と原因論は分けて
ものを言うべきです。

<具体的なリスク者に対する連携例>
さて、

上記事例で自死が起きたことの責任を追及されるべきは、
会社です。
では、自死する前に具体的に
どのような連携をして自死を予防するのでしょうか。

先ず、弁護士のところに相談に来たとします。
弁護士は、法的手続きが何かできるかどうか
最低限その点について検討するのは当然です。

悩みがあると言うなら
じゃあ、カウンセリング受けてください。
良いところを自力で探してください、
眠れないなら精神科に行ってください。
それじゃあさようなら
というわけにはいかないです。

そもそも、弁護士のところに法律相談に来て
生(なま)の悩みをぶつけてくるというのは、
相当その弁護士は人間味があふれる人のため
信頼される人徳のある人です。
通常は、様子がおかしいということを察知して
こちらから水を向けてみます。

案の定希死念慮などがあれば、
自分の信頼できる精神科医に
事案の詳細を紹介した文書を作成し
そのお医者さんに持っていくように本人に渡します。

様子がおかしいということを見抜く力も必要です。
それ以前に、パワハラや孤立という事情があるならば
おかしくなって当たり前だという人間観が必要なのです。

また、家族などのコミュニティーの共有問題にする
ということを提起して(奥さんに話しなさいとか)、
具体的方法を一緒に考えます。
場合によっては、家族にも来てもらい
具体的な状況と心配のポイントについて説明します。
具体的な対処方法について家族に提起します。

お医者さんに対しては、
これから予想される具体的手続きと
起こりうる葛藤の高まるポイントについて知らせ、
警戒をお願いするわけです。

お医者さんの方から、
治療の必要上、直ちに手続きに入らないで
これこれの期間様子を見れないかとか
手続きを断念できないかという話も来ることがあります。

依頼者が最終的には決めることだとしても
お医者さんからの情報提供をもとに
手続きを進めることについての
メリットデメリットを提起し直して
依頼者が判断しやすいように提供します。

手続きを断念する場合も、
主治医の先生と依頼者を通じて連絡を取り合い、
その後のフォローも行います。

ここから言えることは、
先ず、その人が治療の必要性があるかどうか
という判断をすることになります。
まあ、必要ないという判断はあまりしませんが。
それはお医者さんが判断するべきだからです。

但し、自分が知りえた事情を
依頼者が全てお医者さんに告げるとは限りません。
医学的に見て必要な事項については、
できるだけ漏らさずに紹介状に記載する必要があります。
そのストレスのポイントについては、
実は本人が説明してもなかなかお医者さんに理解できない
事情があります。

一つは、お医者さんは、
会社は良識ある大人の集団だと思い込んでいます。
会社についていけないのは、
本人の人格が未熟だからだと
思い込む傾向があるようです。

お医者さんの元を訪れた段階では
既に精神的に疲弊しきっているため
防御的な反応をしているということを
あまり理解してくれない先生もいます。

だから信頼できるお医者さんを紹介するのですが、
それでも現在の会社や学校の
異様な人間関係については
あまり理解されていないようです。

弁護士はここを補う必要があるわけです。
要するに先入観を持ってもらうのではなく、
先入観を排除してもらうために
紹介状を作成するのです。

ある程度の精神医学的な知識が
どうしても必要になります。

それにもかかわらず、
いまだに、自死やうつのことは
精神科医に任せて弁護士は立ち入らない
という考えの弁護士が大勢います。

しかしその考えでは、
弁護士は通常業務をするだけで、
自死予防の連携には入らないことになります。
今、目の前に、自死を予定している人がいても
そのことはないことにして
通常業務だけをすることになってしまいます。

前述の精神科医松本俊彦先生は、
自死の原因が入れ子構造にあるから
何が必要かというと
それぞれの業種が相互にそれぞれの業種に
相互乗り入れをするべきだという考えを紹介しています。

もちろん、弁護士が一から精神医学を
学ぶということは現実的ではないでしょうし、
あまり効果が上がらないでしょう。
しかし、積極的にいろいろな文献を読んだり、
直接精神科医に教えを乞うということは
とても大切なことだと思います。

一番必要なことは、
その人の状態を見て治療の必要性を考えるというより、
その人の置かれた境遇が
およそ人間にとって精神的に圧迫する境遇か
という洞察の方を鍛えることだと思います。

<一般予防における連携>

我が国の自死予防対策で一番遅れていると思われるのが、
一般的な自死予防の方法論の研究だと思います。
これは、自死予防=精神科治療
という図式に安住していた時期が長かったためです。

うつが自死の原因だとしても
それが増加した要因は、
例えば遺伝的な内因性のうつではなく、
ストレス因によって引き起こされたり
強い影響を受けたうつの増加が原因だったはずです。
そうだとすれば、うつを予防する
という発想がどうしても必要だったはずです。
こういう発想はあまり目にしませんでした。

唯一、過労死、過労自死予防だけが
そのような予防対策だったようにも思えます。

過労死、過労自死予防は、
医師と弁護士が共同研究を行い、
医師によって弁護士が医学的な知識や考え方を学び
訴訟において主張立証をして、
医師は弁護士から労働実態や行動経緯等を知らされ、
最終的には、かなりの相互乗り入れがなされました。

私が力を入れているのは、
家族問題です。
家族問題で自死をする男性がかなり多くいます。

誰かが悪いという視点を外して、
どうすれば、家族が崩壊しないか、
家族の崩壊を招く疾患とは何か
ということが研究されていないように思われるのです。

誰かは研究しているのでしょうが
現在苦しんでいる家族には伝わっていません。

これは理由があると思います。
お医者さんは、身体的疾患の治療をすることで
命を長らえたり、身体的苦痛を解消することに
専念することはもっともなことだからです。

また、当人でさえ
身体的疾患によって、
例えば悲観的な思考傾向に陥っているということに気が付きません。

しかし一定の疾患が、認知の歪みを生じさせ
家族を危殆に至らしめる可能性があるようです。

そういうことを問題提起するのは、
やはり、離婚問題を担当する
弁護士がやらなくてはならないことだと思うのです。

精神問題は医者やカウンセラーが担当するというのでは、
検討が始まりさえしないことも多くあるように思われます。

無理かどうかやってみましょう。
また間違いがあれば、正してもらいましょう。
何もやらないで等閑視しているのでは、
あまりにも情けないと思うのです。

今回は、弁護士と医師、カウンセラーとの連携を
お話ししましたが、
もっともっとそういうことを意識的に行う必要があると
そういう連携をしていくことを
一歩ずつ実現させていきたいと考えています。


人はなぜ争うか。仲間に対して怒りを抱く理由。対人関係学宣言。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



対人関係学は、人間は本来、
群れに協調しようとする生き物であり、
群れから追放される不安を抱くと
自分の行動を修正するし、
群れの仲間のためならば
自分の命さえ提供することがあると説明する。

そうであれば、
なぜ、紛争が起きるのだろう。
戦争で人々が殺し合い、
夫婦が分かり合えずののしり合い、
いじめやパワーハラスメントが起きるのだろう。

対人関係学は、
あまりにも現実離れした理想論なのだろうか。

実は、対人関係学は、
もともと、人間の紛争が研究対象である。
どうして紛争が生じるのか、
どうすれば紛争を防ぐことができるのか
というところから考えが出発している。
そうして行き着いたのが、
人間の遺伝子的な協調性だった。

答えは最初に用意されていたのであり、
今回はそれにさかのぼる思考実験をしてみる。

1 紛争の理由としての脳の限界

  まず、そもそも、追放される危険を感じるところの
  仲間として認識できる人数が
  人間も、それほど多くない
  という理由がある。

  イギリスの心理学者ダンバーが提唱した
  ダンバー数という霊長類の理論がある。
  それぞれと安定した関係を維持できる個体数の認知的上限は、
脳の容量によってきまっていて、
  ホモサピエンスの上限値は、平均150人
  100人から230人というのだ。

  現代はグローバル社会である。
  世界中の何十億という人間が
  ともすれば運命共同体となる。
  
  しかし、人間の脳の発達は
  この状況に追い付いていない。

  おそらく、サピエンスが成立して
800万年ないし20万年の
  ほとんどの期間
  150人くらいの集団で行動していたので、
  実務的にはそれで十分だったということなのだろう。

  従って、その人数を超えると
  仲間として関係を築きたいという
  協調の志向自体が自然発生的にはなくなってしまうのだろう。
  
但し、共鳴力、共感力は、
  およそ人間のかたちをしていれば発生するから、
  仲間だと認識していなくとも
  助けようとする行動にでる。

2 防衛行動

  しかし、そうだとしても、
150人未満の職場や学校のクラス
  そもそも家庭の中においても紛争は生じる。
  確実に仲間であると思っているにもかかわらず、
  なぜ紛争が生じるのだろう。
  
  その理由が防衛行動にある。
  対人関係上の危機を感じた場合、
  自己の行動を修正する形で危機を乗り越えるが、
  修正のかたちは、大きく分ければ二通りある。
   相手が嫌がるだろう自分の行為をやめる(逃避型)
   相手を屈服させて行為を継続する(闘争型)
  である。
   
  本来は、逃避型が本能にかなっている。
  闘争型であれば、客観的には
  対人関係的危機が増大することの方が多いだろうから、
  対立遺伝子として定着する合理性がないからである。

  つまり、紛争の原因として
  防衛行為であるというだけでは
  何ら答えとは言えない。

  なぜ、闘争型という修正行動9*によって
  対人関係の危機を乗り越えようとするのか
  これこそが真の命題である。

  ここから先も、論理的考察であって
  歴史的な検討ではない。
  例えばうさぎの耳が長い理由は
  音によって敵の存在を感知し、
  いち早く闘争行動に出ることに適している
  という類の話である。

  人間が群れから追放される予感に対して
  不安を抱き、自己の行動を修正する理由は、
  自分を群れの中に帰属させ続けるためである。
  群れの各メンバーが、このような志向を持てば、
  群れから外されるメンバーは出てこないことになる。
  
  この結果、群れの頭数が確保される。

  他の動物に比べて
  逃走力も、闘争力も見劣りするヒトは、
  群れの頭数を確保することによって、
  生存競争の中で滅びることを免れていた。

  集団的な狩り、収穫、
  集団的な闘争(防衛)
  集団的な保温、
  そして集団的な子育てをすることが
  弱い人間には必要なことだった。

  言語を操るはるか以前の必要性なので、
  それは文字で記録されたのではなく
  遺伝子に記録されたのである。
  即ち、対人関係上の危機を感じる個体だけが
  子孫を残してゆき、
  やがてそれがヒト(ホモサピエンス)の
  種としての特質となったと考えている。

  そうだとすると
群れに帰属し続けていることが
  自分の利益であると無意識に感じているとすれば、
  それを否定して余りある行動原理が必要で
  それが紛争の理由だということになる。

  ただ、それは単純ではない。

  まず、第1に、群れと個体が対立する場面がある。

  最終的に、群れから追放されたり攻撃を受けるたりする時、
  ヒトも、動物である以上、
  自らの身体生命を守ろうと抵抗する。
  この抵抗をしているときの
  感情的表現が怒りである。
 
  これは人として成立するはるか以前から
  動物として成立するための前提条件であるから
  群れを作っても消えるということはない。
  群れに協調するヒトとしての遺伝子と
  群れと対立しても自分を守ろうとする
  動物としての遺伝子という
  場面によっては矛盾する遺伝子を
  ともに持っていることになる。

  攻撃は、客観的に存在しなくとも
  攻撃を受けている感覚があれば、
  自分を守ろうとして、
  逃げたり、闘ったりすることになる。

  そうだとすると、
  群れの誰かに攻撃する時の基本は、
  先ず、対人関係上の危険を感じていること
  次に、その危険は群れによってもたらされている
  という感覚をもっていることである。
  また、怒りを抱く条件として、
  相手と戦って勝てるという意識が必要だということになる。
  勝てるという意識がなくても、
  「ここで戦わなければ致命的な結果が生じるという」
  そういう意識がある場合も怒りを持つのかもしれない。
  
  怒りを抱いている場合、
  当人は、まだ望みを捨てているわけではない。

  第2に、自分が群れから尊重されていないという意識がある場合である。
  自分を追放しようとしている者が群れのメンバーで、
  そのメンバーから自分が尊重されているという実感がある場合、
  自分の不利益を宣告されても
  怒りを抱くということになりにくい場合がある。
  例えば「姥捨て山」の例等がそれであろう。

  
それとは逆に、自分がいわれのない攻撃を受けていると感じる場合や
  自分の行動に修正するべき客観的理由はないと
  主観的に考えている場合に怒りは生まれるのだろう。

  自分が尊重されているという経験が無かったり、
  自分の仲間が尊重されていないという経験が重なると
  およそ人間は尊重されるべきだという
  感覚を持てなくなる。

  自分が尊重され、他人も尊重されていると
  人間は尊重されるべきだという意識が生まれ、
  誰かが誰かを尊重しないということに
  強い抵抗感を覚えることになる。

  ここでいう尊重は、究極的には、
  対象者を群れの仲間として認め続ける
  ということである。
  蔑みや、心無い批判、嘲笑、
もちろん攻撃や無視などは、
  群れからの追放を予感させるため、
  対人関係的危険を感じさせる行為である。
  
  自分や仲間が尊重されていないと感じたならば、
  他人を尊重しようとする動機もなくなる。
  仲間に対する容赦ない攻撃ができるようになる。

  このような事態は悲劇である。
  自分が仲間として尊重されたいという動機から
  逆に仲間に対して攻撃し、
  攻撃された仲間が、自分は尊重されていないと
  対人関係上の危険を与えてしまうからである。

  仲間になりたい気持ちが
  仲間との関係を危殆に至らしめる皮肉である。

  実際の対人関係上の不具合のほとんどが
  このような悲劇であると感じている。

  要するに、仲間に対しての怒りを伴う攻撃は、
  自分が尊重されていないことに対する
  防衛行動であると説明できると思う。

3 打撃の錯誤 怒りを向けるべき相手の不合理性

  ここで注意しなければならないのは、
  怒りの原因が、必ずしも怒りの矛先にあるのではない
  そういうことが多いということである。

  ざっくばらんに言うと
  自分が何らかの病気になって、余命が長くないのではないかという不安や
生活上の不便と、
  社会的に、さげすまれていて、誰からも相手にされない不安と、
  いじめやパワーハラスメントと
  その不安の現れ方はみんな一緒だということだ。

  要するにストレスが生じる、即ち
  脈拍が増加し、血圧が高まり、体温が上昇する。
  血液は内臓から筋肉に流れる量が増加する。
  これを感情的に表現すれば不安ないし怒りである。

  自分のストレスがどこから来るのか、
  正確に把握することは実は困難である。
  不安の感情からさかのぼることができないからだ。
  
  だから、職場で自分が尊重されていないことから来る
  不安を抱えて帰宅して、
  子どもの些細ないたずらが、
  自分を馬鹿にしてやっているように感じてしまい、
  子どもを必要以上に叱ったり恐怖に陥れたりするが、
  それは、実は職場でのストレスを解消しようとしている場合がある。

  部下の失態を叱責しているつもりでも
  自分が自分の上司から叱責を受けていたことによるストレスのため、
  部下が、熱心に仕事をしていないのではないかという疑念が生じ、
  そこを叱責という形でぶつけているだけかもしれない。

  親が金銭的に恵まれていなくて、
  みすぼらしい格好で、世間に引け目を感じていて、
  無差別的に、自分が誰からも尊重されていないと感じ、
  子どもに対する愛情のかけ方を知らないことから
  子どもであるがゆえに起きる、失敗や不十分点を
  怒りをもって叱責し、暴力もふるっていると、
  子どもは、最初から他人と協調することや他人に親切にするという発想を持てない。

  そういう子どもは、友達との関係で思い通りにならないと、
  どうすれば自分の希望する、
  その子と仲良くすることができるのかわからない。
  このため、いつも自分の近くにいることを要求し、
  それがかなわない場合は、
  自分が馬鹿にされたと思い攻撃をする。
  自分が家庭で受けていることを再現する。

  いじめられた子どもは、
  感情のみならず学力や生きる意欲という点で
  十分に回復しきれないということが少なくない。

  謝罪の会を開けば解決というわけではない。
  それと気づかない無数のトラウマ的体験をする。

  進学や就職に問題が生じるかもしれない。
  不遇な思いをしていて、
  社会全体から自分は尊重されていない、
  自分はもっと能力があるはずなのに
  正当に評価されない
  という意識を持つかもしれない。

  かなり複雑な対人関係的危険を感じ続けているかもしれない。
  周囲に自分より弱い者を探すだろう。
  怒りの口実を探して、わけのわからない理屈をたてるだろう。
  無責任な媒体の影響を受けるかもしれない。

  無差別殺人が起こる要因になっているかもしれない。

  ここでまた注意。
  無差別殺人というのは、その通り、極めて例外的なこと。
  しかし、無差別殺人には至らないけれど、
  何らかの対人関係上の不具合が生じている可能性は極めて高いと思う。
  ぎすぎすした人間関係の中で、
  誰かが新たに傷ついているかもしれない。
  ちょっとした嫌がらせと無差別殺人は
  他人を尊重しないという軸で考えると
  程度の違いかもしれないし、
  程度の違いには偶然的な要素もあるかもしれないと
  そう思えないだろうか。

4 今考えていること

  世の中の現状は、例えば江戸時代に比べると
  かなり悲観的に考えなければならないだろう。
  
  子どもすらも、
  失敗が許されないという意識で
  日々学校に通ってはいないだろうか。
  普通にしていれば、普通に生き続けることが
  保障されていないと感じてはいないだろうか。

  当時は、どんなことがあっても村八分とはいえ、
  家事と葬式の時はコミュニティーの一員とされた。
  今は、それすらない。
  人間として尊重されているという意識をもって
  安らかに生きている人はどれだけいるだろうか。

  もしかしたら、これを読んでいる人たちの中には、
  自分が現状での勝ち組だから、それでよい
  と考えている人も多いのかもしれない。
  あるいは、その人の人生の長さから考えると
  それでよいと言えるのかもしれない。
  そういう価値観もあるだろう。

  しかし、
  大きな地球の歴史、生物の歴史から考えると
  我々人類が生き延びて、
  さらにはネアンデルタール人との
  生存競争にも勝てたのは、
  ホモサピエンスの結束の力だったのではないだろうか。

  それしか能のないホモサピエンスが
  結束力を失った時、
  種としての終わりが始まるときであろうと思う。

  群れの仲間を尊重することで生き延びてきた
  生存に適さないはずのホモサピエンスが、
  個体に価値の序列をつけ始めてしまうと、
  自然の驚異に粉砕されてしまうことになる
  そう思えてならない。

  対人関係学は経済学ではない
  どのような社会制度が妥当かという考察はしない。
  しかしどのような社会制度であったとしても、
  人間が尊重されていない状況を
  一つ一つ是正していくはるかな営みが
  今を起点として求められているような気持ちでいる。

  かつて、世界史には、天才的な神や仏が現れて
  同じような活動を行った。
  その時々の、人間の尊重の仕方を教えた。

  現代においてそのような世界史的な天才は
  育ちにくいと思われる。
  むしろ、我々名もない人間たちが
  できるだけ多く力を合わせて
  人間が尊重される方向へ
  具体的な行動を研究し、実践することが
  求められていると思う。

  人間の弱点、不十分点、失敗を
  それゆえに低価値評価をすることをやめよう。
  人間である、つながりがある
  それだけで仲間として迎え入れよう。

  冒頭、対人関係学は
  現実を無視した理想論に過ぎないのかと自問した。
  答えは否である。

  単なる理想論ではなく、
  現実を超越することを目指した極端な理想論であると
  ご理解いただければ幸いである。

  私はくじけるだろう。私の肉体は滅びるだろう。
  しかし、ホモサピエンスであることに誇りを抱く者達が
  私の考えが大筋において間違っていないことを証明してくれると信じる。

自殺予防のキーワードは生きようとする意欲の喪失 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

先日、熊本の自死予防シンポジウでお話をさせていただき、パネルディスカッションにも参加し、とても刺激を受けました。もやもやしていたことがはっきりしてきたこともあります。このシンポジウムを契機に考えたことについて述べます。

1 自死者の心理状態

  上記パネルディスカッションの中で、「本当は生きたいと思っているのに、なぜ自死を選ぶのか」という問いかけがあった。
  この点は自死の心理の理解のために極めて微妙な話である。些細な言葉の表現の問題にこだわるのかと受け止められることを承知で、あえて口を挟んだ。
 「自死者は自死を選択しているわけではない。サバイバー研究などを踏まえて、以下の事例を紹介する。電車通勤をしていて、ある日電車が来たとき、『このまま飛び込めば楽になる』とふらふらと向かったところ、予想に反して早く電車が到着したので、事なきを得た事例がある。この人は、そういうことがあったことを2年間忘れていた。選ぶという心理状態にはない。自死を実行するかどうか、偶然的要素もある。」と説明した。
  司会の方から衝動性の考慮も大切だと言われた。
  時間の進行もあるので、さらなる口を挟むことはしなかったが、このやり取りで私の考えは進んだ。
  自死者が衝動的に自死をしたくなるわけではない。確かに、周囲の人から見れば、それまで自死をするという気配が無いところで、突然自死が決行されれば衝動的に見えるかもしれない。体内からアルコールや向精神薬が検出されれば、衝動性が高まったと評価されるかもしれない。しかし、それは正確ではない。
  自死者の多くは、家族等周囲に心配をかけないようにする傾向がある人が多い。自死の意欲やうつを隠そうとする。このため、周囲は自死をするまでその危険性に気が付かないことがほとんどだ。しかし、本人からすると、突然自死を思い立つということはむしろ少ないようだ。
  サバイバーたちから話を聞いてみると、朝起きたときから、自死の手段を考えるという人が多いように感じる。死ぬことは確定していて、あとはその手段というわけだ。それをわずかに残った精神力で、極力押し返しているという状態のようだ。アルコールや向精神薬は、わずかに残った抑止力を奪い、むしろ自死に向けた行動力を付与してしまうのだろう。
  だから、衝動的に自死をしたくなったり、衝動的に自死の行為に出たりするのではなく、慢性的に自死の誘惑にかられ続けている状況であるという表現が実態にあっている。そうすると、その中で生き続けているということは、慢性的に自死をしないことの努力をしていると考えるべきなのだろう。
サバイバー研究を踏まえてもう一言付け加えれば、自死を選ぶという選択肢があるのではなく、「死ななくてはならない」という強度の思い込みの感情が継続しているという方が正しいようだ。希死念慮や視野狭窄が病的に現れる場合は、そのようなすさまじい心理状況であるとサバイバーたちは語る。
  慢性的に、自死を考え、自死をすることが確定事項となっているという状態はどのような状態か。私は、これこそが、「生きようとする意欲が失われている状態」であるという概念を定立することが有益であると考える。
  生きようとする意欲を失いながらも、それとは矛盾するところの生きようとする生物活動がある。その綱引きをしているのだと思う。このような一人の人の中にある矛盾をありのままに把握できるか否かが、自死に対する理解が可能となるかどうかの分かれ目になると思う。

2 生きようとする意欲とそれが失われた状態について

  生きようとする意欲とは、意識するものではない。生物として存在する以上どんな生き物にも存在する。生きることを志向する活動である。あるいはそれが生きているということなのだろう。自律神経が動き、生命活動が生理的に行われる。外部から栄養を摂取し、危険から身を守り、生殖活動をして子孫を増やす。生の営みである。生きようという理由から精神活動を意識的に行うのではない。おそらく、生きようとする意欲とは、生きていることと同じことを意味し、一つのことについての別の角度からの表現なのだろうと思う。生きている以上は生きようとする意欲が、無意識に存在する。血液が循環し、新陳代謝が行われる。これは意識するものではない。死を意識しても、たとえばその日死刑になることがわかっていても、食事をとり、水を飲み、日常のルーティン活動を行うがごときである。

  生きようとする意欲について、動物と植物には大きな違いがある。それは、動物の場合は、危険を回避する行動をとるということである。感覚機能を使って危険を感じ、身体の運動機能を使って逃げたり、闘ったりして、危険を回避する。
  このような機能のない植物の場合は生きようとする意欲が失われるということを観察することはないが、動物の場合は、危険を回避する行為を行わないという形で生きようとする意欲が失われることを観察することができる。しかし、人間以外の動物では、生きようとする意欲が失われることを観察することは稀であろう。
  では、人間の生きようとする意欲が失われるということは、どういうことか。この例として良く言われることは、絶望的な危険の状態に直面して気絶することである。高所から転落した時等、自分では危険回避の方法がないと悟った場合、その瞬間に気絶をしていたと生還者が語るという。危機回避の方法の存否の認識については、危険の客観的程度に比例するというよりも、それぞれの個性によってだいぶ違うようだ。気絶する場合も、自らが意識して意識を失うのではなく、無意識に気絶してしまうだろうことは、想像できることだ。結果として、客観的に生きようとする意欲が失われている状態である。
  このような極端な身体生命の危険があって、それに対応して気絶をするということはわかりやすい。しかし、危険が即時に現実化しない場合、例えばがんの宣告をされたからと言って、死ぬまで気絶しているということは無いだろう。もしかすると、奇跡的な回復や新薬の開発など、あるいは誤診だったということも含めて、望みを失っていないのかもしれない。しかし、最初の宣告の後、八方手を尽くしても、早晩死に至るという結論が動かないとき、というより、動かないという認識に至ったとき、ヒトは絶望する。しかし、気絶のような「生きようとする意欲を失う状態」には通常ならないだろう。但し、希望を失ったことによる心身の変化が生じてくる。このことについて考察を進める。
  次にお話することは、危険に直面して危機回避の行動をとれないことが、高所から転落するように即時に結果が出る場合ではなく、慢性的に継続する状態の場合、どのような精神状況になるかということである。

3 慢性的な危険と生きようとする意欲の喪失

  即時ではないが死は避けられない状況の場合、徐々に生きようとする意欲が失われていくということがある。最もわかりやすいのはうつ状態になることである。現在ではうつ状態は、操作的診断方法によって診断される。これは、いくつかの症状の継続があるかないかという方法で判断される。しかし、伝統的には、うつ病の定義は、全精神活動の停止に特徴があるという。うつ状態も、精神病理的に言えば、精神活動の停止ないし低下ということになるはずだ。
  ここでいう精神活動とは何か。それは生きるための活動であると私は考える。人間として生きるために、朝目覚めて、外に出て社会的な活動をして収入を得て、食事をとり、家族を作り、休息をとる。これがうつ状態になれば全般的にできなくなる。朝起きないし、対人関係を形成することが困難になり、性欲、食欲、睡眠欲が減退する。
  精神活動の最も重大な低下状態は、そのすべてを行えない状態である。重症うつ病である。ただ、上記の精神活動の中で、対人関係の活動以外、生物として生きる活動はできる場合もある。また、好ましい友人とは交際できるが、職場に行くことはできない、学校に行くことはできない等、精神活動の低下の程度、分野があると思われる。
  それらをすべてうつ病と呼ぶかどうかは、本稿は医学的な考察ではないので、ここでは考えない。ただ、大づかみで考えた場合、危険回避の方法が無くなった場合、絶望を感じ、全般的ないし部分的に精神活動が停止ないし低下するのであり、それは生きようとする意欲が徐々に停止ないし低下していく状態だと把握できるのではないかということが肝要であると提起したい。

4 対人関係的危険と生きようとする意欲の喪失

  末期がんが自死の原因の大半ではない。多くは、対人関係、職場、学校、地域、家族、あるいは社会との関係が自死の原因として指摘されている。自死予防として、ソーシャルネットワークやコミュニケーションによる予防が妥当する場面である。対人関係的問題と生きようとする意欲を失わせる危機回避の不可能感の関係について、どのように説明するかが問題である。
  私は、この拙文の中で、「危険」については、身体生命の危険を例に挙げてきた。しかし、本項は、少なくとも人間は、身体生命の危険と同様に、対人関係においても危険を感じるということを述べていきたい。その前に、身体生命の危険の回避のしくみについて脳科学的観点から確認する。
 
<身体生命の危機回避の仕組み>
  先ず、前述のように、動物としては、身体生命の安全を守るという形で生きようとする意欲を観察することができる。即ち、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)によって危険を感知すると、身体の運動能力を使って危険を回避する行動にでるというのが動物の仕組みがある。危険を感知すれば、逃げるか、闘うかという行動を選択する。
この時、自分で自分の身を守ろうとしていると把握することが大切である。危険が迫らなくても、危険を感じ取る感覚機能(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)が奪われれば、それだけで不安を感じる。また、危険回避の方法である闘争や逃走の手段を奪われる、身体拘束等をされればそれだけで不安になる。危険が生じても、自分で自分の身を守れないということが、それ自体が強い不安を抱かせる。金縛りという現象がまさにそれである。
この危機回避の仕組みは、視覚的に観察できる部分が上述であるが、視覚的には観察できない体内の反応としても起きている。即ち、逃げる等の危機回避行動を効果的に行うために体内に変化が生じている。体温が上昇し、脈拍や血圧が増加し、通常は内臓に流れている血液が筋肉に流れるようになる。こうして体が動かしやすくなり、筋肉の能力が一時的に高まるのである。これらの反応を、セリエやキャノンはストレスと名付けた。

 <対人関係的危険>
  人間は、身体的危険の外に、もう一つの危険を感じる動物である。これは、群れを作る動物であることに由来する。群れから外されそうになることを示す事情を認識して危機感を感じ、自分の行動を修正しようとする仕組みである。例えば、言いたいことを我慢したり、一人だけ抜け駆けしないようにしたりするのがそれである。
  仲間に迷惑をかけたり、仲間の中で顔向けできないことをしてしまったりすると、不安になってしまう。この時も、対人関係的な危険を感じているのである。
  顔が赤くなったり、胸がドキドキしたり、顔が熱くなったりする。
これは身体生命の不安と同じ反応である。即ち、体温が上昇したり、脈拍や血圧が増加したり、血流も筋肉に向かっている。要するにストレスが生じているのである。
対人関係上の危険においては、これらは意味がない反応である上、むしろ有害になることが多い。誰かから叱責されたからといって、走って逃げなければならないということもないだろうし、失敗するたびに誰かと戦うということもあり得ない。むしろ、緊張が高まり、新たなミスを発生させる原因にもなる。
アントニオ・ダマシオは、「デカルトの誤り」の中で、私のいう身体生命の危険に対する反応を「一次の情動」と名付け、私の言う対人関係上の危険に対する反応を「二次の情動」と名付けた。もちろん正確に言えば、高名なアントニオ・ダマシオのデカルトの誤りを読んで、私が二次の情動を対人関係上の危険と単純化したということが正しい。ここでダマシオは、節約のために手直しして使いまわす特技を持つ自然は、一次の情動と虹の情動を表に出すために、それぞれ独立した機構を用意することはしなかった。自然は単に、一次の情動を伝えるためにすでに用意されている同じチャンネルを使って、二次の情動が表出されるようにしている。」と説明している。
対人関係上の危険を感じた場合でも、身体生命の危険を感じているときと同じように、ストレスが発生する。これが持続するにより、血管の脆弱化や動脈硬化などが生じる。これは、クモ膜下出血や脳内出血、心筋梗塞や大動脈解離といういわゆる過労死の原因となる。危険にさらされることによる弊害は、身体生命の危険であろうと対人関係の危険であろうと同様だということになる。

5 対人関係的危険の特質

対人関係的危険は身体生命の危険と重大な点において異なる。
身体生命の危険を五感で感じるような場合は、危険が現実化するか去るかは即時に判明することが多い。このため、ストレスが慢性化ないし持続化するということは少ない。これに対して、対人関係的な危険については危険が即時に現実化しない。むしろ、危険が現実化しないまま、その危険だけが慢性的に持続することが多いように思われる。いわゆるパワーハラスメントやいじめのケースである。ここで一つ注意しておきたいのは、パワーハラスメントやいじめは、個々の印象的な出来事、大声での叱責や暴力行為、人格否定行為という出来事に本質があるのではなく、そのような対人関係の状態が継続することが心身に悪影響を与えるということである。
そうすると、簡単には、ヒトは対人関係上の危険が現実化することに回避の手段がないという絶望に陥るということではない。いじめなどを例にすると、何か攻撃行動を受けたとしても、それは改善されるだろうという願いを込めた見通しを立てる。これも無意識である。ところが、いじめが頑固に継続してゆき、自分が群れの中に受け入れられないという認識が継続したり、様々な行動修正の試みが功を奏さなかったりした時、不可能感は強固になってゆく。
また、攻撃をしている者が強烈な権力を持っている場合、たとえば子どもにとっての教師であるとか、絶対的な上司であるとかという場合も絶望感が強固になっていく。多数対一人という構図ができた場合も同様であろう。また、自分の行動を修正できない場合、国籍とか治療不可能な疾患、障害等を理由とする場合も、対人関係的危険を回避する希望が失われやすくなる。
これらは、要するに危機回避の方法を奪われているという認識を与える事情であり、身体生命の危機回避における手足を縛られた状態と類似することになる。
肝心なことは、即時に絶望を感じるのではなく、日々の対人関係の時間によって、少しずつ絶望に近づいていくということである。そうだとすると、生きようとする意欲も、気絶するように即時に反応するのではなく、少しずつ低下していくということが理屈に合っているということになる。

6 複数の対人関係を意識しない理由

  例えば会社であるとか、例えば学校であったとしても、あるいは夫婦でも、その自分を攻撃してくる人との関係がすべてではないことは、第三者は容易に判断できる。夫婦であれば離婚をする、職場であれば転職をする、学校であれば転校をするという方法があるはずである。どうして、一つの不良な対人関係が原因で生きようとする意欲が失われるのかという疑問が生じるだろう。
  しかし、対人関係的な危険を感じることは、遺伝子的なレベルで受け継がれているホモサピエンスの特徴である。対人関係的危険を感じ、修正して群れから追放されないようにするというのは、群れを作るための本能なのだ。そうだとすると、およそ群れであれば、本人にとって重要ではなくとも、無意識に対人関係的危険を感じ、無意識に行動を修正して群れに帰属し続けようとし、無意識にそれが不可能だと感じれば絶望を感じてしまうものなのである。人類は長期にわたって、一つの群れで一生を終わらせてきた。複数の群れに所属するということはせいぜい数千年の歴史があるだけであり、日本人の大半は、二百年前は単一の群れで一生を終えていたのである。
  その群れから離脱すればよいというのは理性の活動であろう。しかし、遺伝子レベルの反応は、よそ群れから外されそうになると、危険の予感(不安)を感じ、行動を修正しようとし、何とか群れに帰属しようとしてしまう。極端な話、通りすがりのようなグループからの攻撃ですら危険の意識が芽生えてしまうものだ。

7 生きようとする意欲失われている状態の「心理」

  これまでの考察からすると、生きようとする意欲が失われた状態は、心の状態の問題だけではないということが導かれると思う。生きようとする意欲が失われた状態は、脳内のホルモンの分泌に影響を与えている。ロジックな思考によって生きようとしなくなるのではなく、もっと根底の生きようとする意欲を活発化させる脳内の機能の問題であると思われる。
  この状態になってしまうと、脳内の機能の活性化をしていくことが求められる。但し、それは、投薬によって可能のとなるのか、投薬以外の方法によって可能になるのか、本稿では結論を留保しておく。個別の状態に適応した改善の働きかけが必要であるということになるとは思う。
  少なくとも気の持ちようという精神論でもなく、不十分になったホルモンを補充すれば足りるという問題ではないだろう。分泌量が減っていた

8 自殺予防として行うこと

  第1、0次予防として、生きようとする意欲を失わしめるような対人関係的な危険を発生させる人間集団の在り方を改善する必要がある。慢性的、持続的な絶望は予後が悪い。ひとたび失ってしまった、生きようとする意欲を取り戻すことは容易ではない。
  人間がどのような場合に対人関係の危険を感じるか、危険回避を絶望視するか、生きようとする意欲を失うか、人間についての考察が不可欠となる。
  第2に、生きようとする意欲が停止ないし低下した人を見つけるポイントは、そのことを示す指標に気が付くことである。これは従前事故傾性といわれているものである。しかし、うつ者はうつを隠すということからも、なかなかこのことに気が付くことは困難である。コミュニティが、仲間の誰かが生き生きとしていないときに、安心感、見捨てない気持ちを伝えていくことが必要となるであろう。
  第3に、生きようとする意欲を取り戻す活動こそが自死予防の活動だということになる。一つの方法として、特定の対人関係上の危険が原因である場合、その対人関係の修正を試み、それが困難である場合は、別の対人関係の在り方を強化し、帰属志向を満足させ、安心感や安全感を感じてもらうというコミュニティ機能の強化を提案する。
  最後は、駆け足になったが、生きようとする意欲という概念ないし視点を導入することが、自死予防対策には有益だと考える次第である。

月経前症候群(月経前緊張症) 子どもを奪われた女性依頼者から託されたこと 家族再生・崩壊予防学会の創設を! [家事]

今から20年くらい前になるだろうか
弁護士を始めてすぐのころ、
まだ結婚もしていなかった。

その時に、ある離婚事件を担当した。

宮城県北部の農村部を舞台にした事件だった。

私の依頼者は女性、子どもがいた。

女性の職場によく出入りする取引先の男性が
女性を見初めて、
半ば強引に結婚となり、
女性は男性の家に嫁いだ。
舅姑と同居ということになる。

女性は、明るい性格で
はきはきした気立ての良い女性だった。

家の財布は姑が握っていて、
夫の収入はもちろん
妻の収入も姑に差し出していた。

当初はあまり気にしていなかった。

やがて子供が生まれて、
様相が変わっていった。
自分の行動が常に監視されているような不自由さを感じ、
それまで夫婦そろって出かけることもあったが
あまり外出もしなくなった。

どうやら女性は浮気を疑われるようになっていたようだった。

姑や夫に対する不満も募り
子どもを連れて別居をするに至った。

女性の実家は夫婦の問題を解決するまではと
実家の敷居を跨がせなかった。
経済的にも困窮していた。

女性は、それでも、子どもと二人
心穏やかに暮らしていた。
時折、婚家の要望で子どもを見せにも行っていた。

ある日、久しぶりに子どもをお泊りさせてほしいという
婚家の要望で、何の気なしにお泊りをさせてしまった。
翌日子どもを迎えに行ったところもぬけの殻だった。

大人はほどなくして帰ってきたが
子どもは帰ってこなかった。
親戚筋に隠されたようだった。

それから私に依頼が来て
監護者指定、子の引き渡しの調停を申し立てた。

相手方の態度はかたくなだった。
子どもが小さく、母親の愛情が必要な時期だったということ
騙して子どもを盗られたという事情もあり、
家庭裁判所も熱心に父親側を説得してくれていた。

しかし、何度説得してもらちが明かず
月日がたっていくという焦りばかり募っていった。
裁判官も入り説得し、
いよいよ審判移行になったとき、
女性は、子どもをあきらめた。
勝つ可能性が高かったのだがあきらめた。

女性も考えに考え抜いたし
私とも長時間話し合った。

いろいろなことが問題の所在として
立ちふさがっていた。

その一つの問題が
女性の月経前症候群だった。
当時は月経前緊張症と言っていたようだ。

確かに、その女性は、
自分の感情を制御できなくなることがあったようだ。
それさえなければ、
いろいろな不満はありつつも
明るく暮らせたはずだった。

自分でも
どうして感情が爆発して
どうしてそれを抑えられないのか
自分で自分を理解できなかったという。

私と調停に取り組んでいた時、
あちこち病院を転々として
ようやく自分の病名にたどり着いた
自分が月経前緊張症という病気だったということで
その女性は少し救われたようだった。

しかし、まだ、研究途上のような段階で
資料としても生の医学論文が2本くらいあるだけだった。
女性からそれを提示されて
調停で文書で説明をしたが
相手方は理解しなかった。

女性は治療しながら
一人で生きていくことを決めた。

病気が理解されないで
人間関係が崩れるということを多く見ている。

本人の人格が異常で仲が壊れるということは滅多にない
おそらくもともとうまくゆかないだろう。

相手方の理解できない行動は
通常は何らかの理由がある。
相手方の異常な行動を
病気を理解できなくても受け止める
そういう態度は広い心だと称賛されるべきだろう。

子どもをあきらめるにあたって、
女性から託されたことは、
世の中、自分が悪いとあきらめている人がいる
しかし、実は自分が悪いのではなく
病気によって不具合が生じることがあるということ、
それが理解されないまま、大事なものを失うことがあるということ
それは、本人の責任ではないにもかかわらず
本人に大きな損害を与えることがあるということである。

そして、こういう病気があることを
広く知らしめて、
自分と同じように悲しい思いをする人が
少しでもいなくなるようにしてほしいと言われた。

当時の私は、その気持ちは痛いほどわかったが
どうすることもできず途方に暮れていた。

このブログで紹介することで
女性から託された責任を果たすことはできないだろう。
しかし、
家族の崩壊を予防し、崩れかけた家族を再生する学会を作り
このような病気が家族を別れさせてしまうこと、
どうすれば家族が一致団結して生活することができるか
提案ができるようになれば、
この女性のように悲しい選択を余儀なくされる
ということは亡くなることでしょう。

ようやく道筋が見えてきました。




「女性らしさ」 女性性を否定する呪いから女性を解放する時期に来ている。一部のジェンダーフリー論はフェミニズムとは言えないと主張する理由 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

先日、自分の写真をたくさん掲載するNPO法人の関係者の記事を読み、
「ああなるほど」と、膝を打ちました。

「女の子らしく」しろというのは呪いなのだそうです。
ヒーローもの等で女性が補助役でしか登場しないのは
「女の子らしさ」の呪いなのだそうです。

結局、この論調は一部のフェミニズムを自称する団体と共通で、
象徴的な主張です。
要するに、「女性も兵士にしなければならない」ということです。
これがフェミニズムの堕落の象徴的な主張なので、
考えてみようと思いました。

「女の子のくせに」とどんな時に注意されるでしょうか。
最近、自分の意見を鮮明に表明する場合に
女の子を引き合いにして注意されるということは
さすがになくなっていると思います。
森友学園でさえ、女の子にも宣誓をさせていましたが。

子どもを育てていて、
自分ではあまり男の子らしくとか女の子らしく
とかいうことを言った記憶はありません。
ただ、いろいろな集団活動の現場で
耳にすることが無かったわけではありません。

女の子のくせにという言葉が発せられるのは、
一つに乱暴なことをする場合
だったと思います。

その時は、そこで女性を出さなくてもよいのではないか
と正直思いましたが、
今は、それが女性らしいと感じることは
理由があることだと思うようになっています。

乱暴をしないというところに焦点を当ててみます。

先日、母性についての誤った理解は、
女性性と母性が混乱しているからだ
と指摘しましたので、この点については触れません。
「母性幻想の根源は、ヒト女性行動傾向との混乱にある。人間の価値はどこに。」 http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2017-02-23

私の主張は、行動学的に見て、
人間の女性が争いを好まず、共存を志向している
という特徴を遺伝子的に有しているというものです。

但し、現代のすべての女性にそういう傾向が色濃くあるとか
そうあらねばならないということを主張しているわけではありません。

繰り返しもあるのですが、少し説明します。

すべての出発点は、
ヒトが二足歩行をするところにあると考えています。
その影響があると思うのですが、

受精してもなかなか着床しない。
流産しやすい。
走り回らなくても重い物をもっても骨盤が開く
四足歩行の場合は重い物は持たない。
妊娠期間が長すぎる
出産が危険である。
出産後に母が死亡するケースもある。
死産も多い。
生まれてすぐ死亡しやすい。
生まれてからかなり長期間自力行動ができない。
新生児は極めて弱い。
新生児の依存度が高く長期間にわたる。

こういう傾向があったわけです。

このため、チンパンジーの祖先と別れて800万年
原人と別れて20万年という人類の歴史の大部分が

子どもは母親だけが育てるものではなく、
母親を中心としつつも群れが育てるものだ、
そのために共鳴共感のメカニズムが母親以外の者と成立する
という極めてまれな生物となっている。
母親以外の大人が赤ん坊を可愛がり守ることがある。

こういうヒトの行動傾向が
ヒトが種を保存させるために必要でした。

言葉もない時代からヒトはこのような行動をとってきた。
それは遺伝子的に組み込まれることによってのみ
ヒトという動物に普遍的な傾向となったわけです。

二足歩行がこのような動物としての特徴を作ったのか、
群れを作る特徴が二足歩行を可能としたのか
なかなか面白い問題だと思います。

当時、群れは自分を守るものですから、
あまり個の確立は求められない時代が続いたわけです。

群れを守るというのは群れの頭数を維持するということが基本です。
大部分の人の歴史では、
40歳を超えて生存するということはあまりなかったと思われます。
そうだとすると、子どもを出産すること
子どもを自立するまで死なせないで育てること
これがヒトの一番のテーマでした。

一つには流産を避けること、
狩りなどの戦闘行為に女性を参加させないということは
流産を避けて、出産率を高めるためには必要だったはずです。

もっとも植物の採取だって、アスファルト道路なんてないのだから
流産の危険を回避するためにはいかせない方が確実だったと思います。

それは女性が劣っていることを示すものではなく
単純な役割分担ということです。

いつしか遺伝子的な行動が
文化的な感情を伴うようになるわけです。
なんとなく静かに過ごす女性が好ましいような風潮は
人間独特のものですが、
遺伝子的な行動という頼りない行動様式を
文化的な確実なものにしていったのだと思います。

(アントニオダマシオは
 二次の情動は、後天的なものと割り切っているようですが、
 私は、少なくない部分は遺伝子的要請と文化の混在によるものだ
 と漠然と思っています。)

具体的な男性や女性がどうかというより、
このような人類の悠久の営みによって
遺伝子的にいくつかの傾向が生じてしまうのは、
人類が歴史から切り離せない形で生存していることから
当然のことです。

男性は、命がけで狩りをすることが役割ですから、
動物に対する殺戮を嫌っていたのでは話になりません。
また時には他の群れとの戦闘もあったと思います。
どうしても、共存そのものではなく、
共存に必要な狩りや戦闘の遺伝子が入ってきているでしょう。
不正を許さないということも
チームプレイに自分や群れの命がかかっていることから
どうしても峻厳になる傾向があるのと同時に
感情が高ぶってしまうことも合理的な理由があるわけです。

これに対して女性は、
群れを守るという役割があります。
チームプレイを乱したところで、
よっぽどのことが無ければ命にかかわりませんので、
寛容性があるというか、攻撃性が低いというか
そういう傾向になりやすいと思います。
そこが、正しさよりも優しさを選択する発想になるのでしょう。

男性はどうしても白黒をつけたいわけです。
論理学でいえば矛盾を許さないアリストテレス論理学です。

女性は白黒よりも共存を志向するため
双方の利点を尊重しようとするわけです。
ヘーゲルの弁証法論理学がなじみやすいですね。

こういう女性らしさは確かにあるように思われます。
新幹線の二人掛けの椅子に座っていて
先ず、女性がひじ掛けからはみ出すということは
経験がありません。
男性はひじ掛けから肘がはみ出して出っ張っていると
どうしてもムカッと怒りの感情が出てきてしまいます。
ちょっと、突っついてみたりして。

女性は、あまり、このムカッという感情が
どうやらでないようなのです。

もっともここにも論点があって、
女性は怖いから言わないのだという人もいます。
そうかもしれません。
ただ、色々私的にリサーチしてみたところ、
どうやら傾向として、
反射的な怒りは男性の傾向のようです。
女性を馬鹿にしてという意味付けをした場合に
女性は怒りを持つような感覚を受けています。

これは日常家事的にはもっと鮮明に現れてきます。
本当によく聞くのが、
スーパーマーケットのレジに並んでいた場合、
例えば横入りだったり、その他不道徳な行為に
夫は反射的に怒りの感情を持ち、
感情を抑えきれないで注意等の行動をすることがあり、
妻はそれに耐えられないということをよく聞きます。

正義感が必ずしも肯定的にばかり作動しない
ということになる場面ですね。

男性は、ルールを守らない方が悪い
という価値観で行動する傾向がありそうです。
女性は、ダイレクトに調和を求める傾向がありそうです。
例えば、夫はルール違反でなければ自由な行動をしますが、
妻は、人から見られて恥ずかしい行動はしてほしくありません。

このポイントが
実は、妻が夫に対して恐怖を感じたり
自分を否定されていると感じるポイントになっている
と私は離婚の事例を担当して感じることが多いです。

フェミニズムは、第2派フェミニズムまでは、
女性のこのような非戦闘的、寛容的、協調的な傾向で
世界を変えようとしていました。
それらの傾向は、公正公平、弱者救済、平和の志向に
論理的にもなじみやすいわけです。

平成28年10月20日のAFPの配信記事ですが
「イスラエルとパレスチナの女性活動家ら、平和を訴える行進」
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161020-00010007-afpbbnewsv-int
とても素晴らしいことですし、
これぞフェミニズムだと私は思います。
女性らしさを大切にした活動で、
世界から称賛されるべき人類史的な活動だと思います。

確かに、遺伝子的な要請に文化的なものが加わるとき、
時々の権力の所在によって、
本来遺伝子的な要請ではない事項が付加されます。
女性らしさは、慎みだという事項は、
全くこういうものであり、唾棄すべきものだと思います。

しかし、ヒトという生物的な女性らしさを否定しまうことは
何の根拠もなく、かえって女性を苦しめるものです。
一部のジェンダーフリー論者が国家権力と結びついて、
女性の権利を剥奪していきました。
深夜労働を解禁し、生理休暇を事実上廃止しました。
女性であることを理由に保護されるのがけしからんということらしいです。
そうしてまで果たしたい女性の社会進出はどうなったのでしょう。
賃金格差はどこまで解消されたのでしょうか。

女性らしさを理由にできないということは
女性にとっては大変つらい場合もあります。

また、今の一部のジェンダーフリー論は
女性であることを否定するもので、
女性を男性化しようとしているのではないかと
思えて仕方がないことがあります。

自分の写真をべたべた乗せるNPO法人関係者みたいに
女性も過労死させろと言っているようなものです。

戦闘シーンで女性が補助的な立場でなく
攻撃を主導する立場で喜ぶのは誰でしょう
会社が決めたルールにのっとって
自分の個人的な事情を無視して長時間働くことで
喜ぶ人は誰でしょう。

実は、「女の子らしさ」を否定することは、
強欲な利益至上主義者の手先の効果が
主な効果になっていないでしょうか。

深夜労働を拒否できない状態にすることで
安い労働力を使えると喜んでいる人がいるわけです。
毎月生理休暇が取りにくい状態を
確実に喜んでいる人がいるわけです。
男性並みに活動し、
無自覚流産しても
何のも痛痒も感じない人たちがいるわけです。

これは、800万年の人類史上初めて
女性が、女性であることから受ける
当然の利益を奪われている時代ではないでしょうか。

むしろ、
男性を女性並みにしろと言う主張自体が健全です。

なぜならば、今の時代、
戦闘的な本能は不要である上、有害だからです。
正しさよりも優しさが必要な時代だからです。
もっと、女性の遺伝子的傾向が
社会の支配的傾向になるべきです。
今なお続いている戦争を少しでも少なくし、
それぞれの人間の条件を無視して
過労死するまで働かせることを
優しさで否定するべきです。
誰かを攻撃したくなるような要因を探り
ダイレクトに共存するための文化を構築するべきです。

それには何が正しくて、あるべき姿だなんていうような
男性的な発想は有害になるだけではないかと
今は考えています。

もし、今の第3派フェミニズムの趨勢が
このような発想、遺伝子的女性らしさの強調ですね、
これを否定するのであれば、
それはフェミニズムと呼ぶべきではないと思います。
女性を解放しないで、男性化させるだけの
論調に成り下がっていると思います。
人類史の中で恥ずべき最悪の論調です。
女性性の否定という呪いから生身の女性を解放するべきです。
女性であることを理由に堂々と自分を大切にすることを
是とするべきです。
それは自分だけの利益ではありません。

時代は、男性化社会から女性的傾向社会へと
変化することが客観的に求められていると思います。
そうでなければ人類の生き残り自体が怪しくなっていくでしょう。
案外第4派フェミニズムの担い手は
日本では女性ではなく、
理性的に目覚め、自らの弱点を認識した
男性なのかもしれません。