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妻が、ある日突然、子どもを連れて家から出て行ってしまわないための究極の方法 [家事]

第1章 なぜ妻は子どもを連れて突然出て行くのか

 1 根源は漠然とした不安
   はじめは、何となく不安だということから始まります。
   原因が良くわからないけれど不安だということから、
   だんだんと
   「自分だけ独りぼっちになる」ことが怖いとか
   「自分だけが損をしている」
   そんな感覚的なことのようです。

   「この不安の原因が夫だ」とか
   「夫がいなければ不安が無くなるだろう」
   ということで、「夫から離れよう」
   という気持ちになるようです。

 2 出て行くことの構造
   「不安素因」に、
   「外部的要因」が重なることで不安が大きくなり、
   「アドバイス」という要素が
   不安の原因を夫と特定して、
   子どもを連れて出て行くという結果につながることになります。

 3 不安素因
   これは主として、妻側の体調のようなものです。
   出産に伴うホルモンバランスの変化
   甲状腺機能亢進症、低下症のような病気、
   性格に近いようなもの
   年齢的なものとしか言いようのないこと、

   これら、誰が悪いというわけではなく
   結果として不安を感じて苦しんでいる
   ということが基本のようです。

 4 外部要因
   不安を高める要素として
   夫の収入や雇用の不安定さ
   子どもの障害等の事情
   その他、福島原発の放射能に対する恐怖
   などということも不安を高める要素のようです。

 5 アドバイス
   行政、警察が、奥さんが不安に苦しんでいるのを見ていると
   とりあえずDVを疑い、
   偶然的な接触を暴力でDVという場合があったり、
   何もなければ日頃のちょっとした言動が
   精神的DVだということで、
   不安の対象が夫だということになることがあると思います。

   実母等が、夫に原因を求めて
   自分の元にかくまうということも
   あるようです。
 
 6 その結果、妻は、夫と同じチームだという意識がなくなり、
   夫は敵対的な存在だと意識するようになり、
   客観的事情をはなれて、夫を怖がる傾向になるようです。

第2 夫が身につけるべき心構えと対策
 1 出産について
   出産後多かれ少なかれ人格が変わる女性は結構いらっしゃいます。
   攻撃的言動が増えてくるのですが、
   攻撃や怒りは、危険と感じる対象を
   叩き潰すことによって回避するメカニズムです。
   根源は、不安を感じ易くなっているのです。

   これは、本人の努力だけではどうしようもないことです。
   怒りを表現するほど不安があるのだから、
   むしろ夫は、最大限のねぎらいをかけるべきです。
   決して、理由なく攻撃的になっていることに
   怒り返してはいけないわけです。

   子どもじみた夫の言い分は共通しています。
   「だって俺は悪いことをしていない。」

   そんなこと言ったって、
   妻も何も悪いことはしていません。
   理由ない攻撃が悪いことだとしても
   その原因はホルモンバランスの変化にあるのかもしれません。
   妻の人格に原因があるわけではないのです。

   出産をなかったことにするわけにはいかないのです。
   そのような人間が変わるような苦労をしていただいた結果
   愛するわが子がこのように出現してきたわけですから、
   感謝こそすれ、怒って良いはずがありません。

   出産後、妻は夫に八つ当たりをする
   これは生きとし生けるものの共通であり、
   その最たるものがカマキリなのでしょう。

   八つ当たりをされても心を動かされない
   一夫一妻制とはそういうものだと思うべきです。

 2 妻をほめることで、ようやくプラスマイナスゼロになる。
   不安を抱くことに理由はありません。
   とにかく、普通に接していても
   悪く悪くとられてしまいます。
   冗談でからかっても、
   「夫はそれが原因で離婚を考えている」
   と受け止めてしまう危険があります。

   「けなすなんてしていない」
   と考えて身に覚えのない人は、
   褒めていないことに、ちやほやしていないことに
   思い当たるべきです。

   不安を抱く妻は、
   褒められているか、攻撃されているか
   どちらかしか感じない、中間なんてない
   と考えるとわかりやすいです。
   あなたが、褒めもけなしもしていないのならば
   それはけなしていると受け止められていると
   考えた方が無難でしょう。
   中間はないのです。

 3 良いとこ探しが人生さ

   「うちの妻には褒めるところが無い」
   なんていう罰当たりなことをいう人は、
   おそらく子供の育て方にも失敗するでしょう。
   思春期を乗り切ることは無理だと思います。

   その気になれば、何で褒められるのです。
   ご飯を作ってくれれば褒める。
   味がおいしくなくても、作ってくれたことに褒める。
   一つでもおいしい料理があれば
   徹底して褒める。

   褒めて誘導していくということです。
   褒められればうれしいので、
   また同じようなことをするわけです。

   これは誰でも一緒です。

   自分のアドバイスで実現したとしても
   手柄は妻に持たせましょう。

   最近の子どもじみた大人たちは
   手柄を譲ったり、
   わざと負けてあげたり
   という日本古来の美徳が身についていないようです。

 4 こうあるべきなんて勝手な話は捨てる

   例えば、料理はきちんと栄養がありやすくてうまいもの
   を作らなければならない
   なんて身勝手な発想はやめましょう。
   病気にならなければ良いんです。

   掃除はチリ一つ落ちていないようにしなければならない
   なんてことも思わない方良いでしょう。
   自分で掃除できるならばですが。

   できないことを怒らない
   これが基本ですね。
   
   できるところをほめていく、
   押しつけがましくなく自分でやる。
  
   夫はパートナーであって
   親でも先生でもないのです。
   ここを勘違いしている人が多いように思われます。

 5 それは自分の本能との闘い

   人間の生きていく本能として、
   危険を取り除いて命を長らえるというものがあります。

   何らかの不具合が余計は、敏感になり脳が警告を出します。
   良いところは、
それで良しで終わるので脳は警告を出しません。

そのために、悪いところばかりが目について
   相手の努力などはスルーするのが、
   本能的な行動ということになります。

   それでは、相手の不安のスイッチを押しまくってしまいます。

   悪いところに目をつぶり、
   良いところを積極的に見つけて褒めましょう。

   それは、意識しないとできないという理由があることだったのです。

 6 失敗や弱点に目をつぶってこそ仲間=帰属意識

   失敗は必ず起こります。
   弱点は人間に必ずあるものです。

   そういうウイークポイントを責めない、笑わない、批判しない
   もう一つ説教しない
   ウイークポイントは本人も自覚があります。
   だから、そのことをいじられることは、
   かさぶたをはがしていじられているようなものです。

   逆にウイークポイントをカバーされれば、
   この仲間のために貢献しようという気持ちが
   起きてくるものです。

   そうすると、不安になればなるほど
   あなたの元にとどまろうとするものです。

 7 自分と同じ事をしていても自分以上に努力しているかもしれない。

   例えば、妊娠を経験すると
   人によっては、床に落ちているごみを拾うことも
   出産後もおっくうになることがあるようです。
   だから、ゴミを拾うことだって、
   あなたには簡単なことだけど
   子どもの母親はあなた以上に努力をしないと
   できないことなのかもしれません。

   機嫌よく話していても
   本当は不安に苦しんでいるけれど
   家族のために笑顔を作っているのかもしれません。

   そこを褒めましょう。
   「笑顔がいいね。癒されるね。
    家に帰ってきたという気持ちになる。」
   そりゃあ、無理にでも笑顔でいようと思うようになるかもしれません。
   
   一緒にいることが楽しいということは
   そういうことなわけです。

 8 意見を言うことは可
   では、すべて妻の言うとおりに生きるのか
   と大上段に嘆く人がいると思いますが、
   意見を言うことはとても良いことです。
   但し、そういう時こそ、笑顔を作って、
   敵意のないことを示しながら話す必要があるようです。
   そしてサラっという。ということになりそうです。
   情報を伝達するより、余計な感情は伝達しないということですね。

以上、なんか皮肉めいたことを言っている
と読まれた人もいるでしょうが、
   全部本気で言っています。

但し、全部が全部できなくても、頭に入れておけば
悪いことは起きにくいでしょう。
例えば、相手が努力して機嫌よくしているのに
それに対するカウンターのような「からかい」はしなくなるはずです。

   男性だけ不平等ではないかという意見もあると思うのですが、
   そもそも命がけで子どもを産むのは女性だけです。
   これに勝る不平等はないのではないでしょうか。

    あなたが子どもを愛しているなら、
    子どもを命がけで生んでくれた妻に感謝をするべきですし、
    感謝をするということはこういうことのようだということが
    数々の事例からわかり始めたということになります。

    仲間とは、チームとはこういうことなのでしょう。


第7回わが子に会えない親の会の報告 [家事]



7月も例会はありました。報告が遅れていました。
結構熱く語っていたため、つい飲み過ぎて、
あまり覚えていなかったというのが
正直な理由です。

覚えている範囲でのご報告ですが、
7人の参加でした。

毎回参加する人(私もそうですが)、
久しぶりの人、
初めて参加する人がいるのは
いつものとおりです。

幹事さんや私から、
欠席の人のメッセージ伝達などがありました。


例会に参加していなくても、
自分の集まりだという想いを持っていただいていると感じて
私もうれしくなります。

メンバー同士で携帯電話番号を交換している人もいて、
会場に電話をよこして、
一部電話で参加というのもありました。


今回は、うれしいお知らせと残念なお知らせがありました。

嬉しいお知らせというのは、
今回初めて参加される方が、
なんと南関東から
わざわざこの集まりのために、
泊りがけで仙台にいらっしゃったことです。

子どもと別れて間もないということで
情報を集めにいらっしゃったようです。

ネットでの情報収集はしているようなのですが、
ネットでの情報は、どうしても断片的にならざるを得ず、
読み方に注意する必要があります

情報というものには、
メリットデメリットがあることがつきものなのですが、
読み手の能力に合わせて書いているわけではないので、
受け手が上手により分けて、
自分に活かす必要があります。

そういう意味では、こういう会に参加することは、
実体験に基づいたアドバイスを聞くことができますので、
情報の取捨選択もアドバイスを受けることができますし、
別の観点からの情報も入手できる可能性もあります。
とても有益だと思います。

どなたも初めてお会いした時は、
かなり落ち込んでいて、
口数も少なかった人ばかりなのですが、

二回、三回と参加されているうちに
堂々と自分の体験を語って
何とか仲間の役に立てばということで、
情報と勇気を分けあっています。

しかも、自分の体験を踏まえてなのでしょう、
決して押し付けることをしないということは
いつも感心しているところであります。

残念な話題の方ですが、
今回初めて女性の方が参加するはずだったのですが、
というか、
会場までいらっしゃったのですが、
店が気か利かなかったことと、
私と主催者が打ち合わせ不足があって、
席に通されなかったというハプニングがあり、
出席かなわなかったことです。

あとで、気転を利かしていただき、
店に電話をしてもらい、
連絡がとれて事情がわかりました。
まずは安心しました。

次回は、
8月25日金曜日
6時30分から
初参加の方は、
土井法律事務所(022-212-3773)
までお問い合わせください。

くよくよしたりいかったりする前に、自分の行動の修正を考えると楽になるかも [自死(自殺)・不明死、葛藤]

他人の言動を気にする人の多くが、
「ただ気にしているだけ」
という場合が意外に多いのです。

くよくよ悩む人に限って、
ただただ悩んでいるようで、
苦しみのスパイラルに陥りがちの様です。

他人の言動によって、
落ち込んだり、
逆に怒ったりするということは、
その人との関係に
危機感を感じているということ
というのが対人関係学の主張です。

危機感とは、その人との関係が
壊れてしまうのではないか、
その人たちから自分が仲間はずれにされるのではないか
ということで、
この危機感を感じて行動を抑止したり修正することで、
人間は群れを作ることができわけです。
だから言葉のない時代からの
人間の生きる仕組みだったわけです。

だから、本来は、
くよくよ考えている時間はもったいない
ということになります。

その危機が、
自分の行動によって生じたのではないかと考え、
もし自分の行動をこう修正していたら、
自分も相手も快適だったかもしれない
という
今後の相手との付き合い方の修正の
絶好のチャンスなのです。

ここは、少し難しい思考が必要かもしれません。
大体は無防備な発言をしているのですが、
どの発言が相手の機嫌を損ねたのか、
見つける作業は、
相手の気もちを考えて検討しなければならないからです。

また、自分が修正する必要はない
と無意識に頑張ってしまうこともあるでしょう。

ただ、改める必要がある考えとしては、
赤ちゃんでなければ、
対人関係は、自分が構築することだという
意識を持つということです。

「自分が自由に何をやっても許される。
 相手が会わせてくれなければ困る。」
ということを無意識に志向している場合、
自分の行動を修正する
という発想がなかなか出てきません。
これは赤ちゃんだけが許される依存なのだと思います。

赤ちゃん的依存志向の場合は、
相手が自分に批判的だと感じると、
もうどうして良いかわからなくなり、
単に落ち込むか、
無かったことにしたり、
相手が悪いということにしたりするから、
解決が難しくなってしまいます。


本当はこうすればよかった
ということを思いついた後の話です。

こうすればということを
「本当に自分ができるのか」
ということも考える余裕があるとよいでしょう。

たとえば
夜中まで寝ないで頑張るとか
外のすべてを犠牲にして取り組むとか
できないことをしようとしてはいないか
ということです。

自分にとっての相手の大切さですが、
できないことをしようとすると
とても苦しくなってしまいます。

早晩行き詰まるでしょう。

次善の策を考える必要があるようです。

また、ベストは、
自分は、こういうことを修正したいけれど
自分の能力から言うとここまでが限界だ
どうしましょう。
と相談できることです。

大体は、
そこまでわかってくれたら
それだけでうれしいというか満足することが多いので、
無理しなくても済む
ということになるはずです。

しかし、相手が
自分ができないことを要求してくる場合は、

むしろ相手との人間関係の在り方を考えるべきです。

本当に、自分の行動を修正してまでも
人間関係を続けるべきなのか
という疑問を持つことがとても大切です。

どうしても人間は群れを作るという性質上
対人関係の不具合を必要以上に気にしてしまいます。
これは無意識に行われるので、
意識して選別する必要があるわけです。

100万年前くらいは、
人間は生まれてから死ぬまで
たった一つの群れで生活していたのですが、
現代は、
家庭、学校、職場、地域、研究会等
様々な群れに帰属していますし、
同じ群れに属さない人たちと
街ですれ違うばかりか、
同じ建物で居住しています。

それにもかかわらず、
一つの群れで一生を終えたときの
遺伝子的な感情が残ってしまっています。

ここは、意識的に、
検討をする必要があるわけです。

例えば、
街で、見ず知らずの人にぶつかって
怒られたような場合、
さすがに自分が悪い場合は、
謝る必要はあるでしょうが、
それ以上落ち込んだり、怒ったりする必要はないでしょう。

例えばスマホを見ないで歩く
という自分の行動を修正すればよいでしょう。

家庭で、パートナーから小言を言われた場合、
それはかけがえのない群れですから、
自分の行動の修正を考えるとよいでしょう。
ここでコツは、自分が悪かったから改める
という後ろ向きな考えに陥らずに、
パートナーとのより快適な関係のために
相手の言い分(多少依存的傾向も)を
受け入れる工夫をしてみる
ということも考えてよいと思います。

大体は、何が相手の気に障ったのかを
言い当てることによって、
それだけで、相手は落ち着くでしょう。
相手は、あなたの何らかの行動で、
「自分が尊重されていない」
と思っているだけかもしれないからです。

これが職場ですと、
上司の厳しい評価によって落ち込むことがあるかもしれません。

会社は確かに、生きていくために重要な群れです。
できるなら、転職のリスクは負いたくないですし、
群れに帰属したいという本能が現れてくる要素として、
毎日顔をあわせて、群れの意識が高まっているからです。

しかし、現代の会社が、どこまで群れの名前に値するか
大変疑問がある例が多くなりました。
本当に自分を仲間として認めているのか、
単なる、自分で考える便利な機会の一つと考えているのか
見極める必要があるわけです。

できないことをしなければならない
という態度なのか、
自分に責任が無いのに叱責されているのか、
ということが重要な判断材料になると思います。

会社の要求することを
無条件でやろうとしないで、
立ち止まって考える必要があると思います。

会社の代わりも、会社にとって自分の代わりも
あり得るということを忘れないでください。


知恵の実と失楽園、文明と不平等の起源 なぜ科学が人類を滅ぼそうとするのか。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

アダムとイブは、
禁じられていた知恵の樹の実を食べたことで、
楽園を追放されました。

禁じていたのはエホバだとされています。

この記事は、この聖書のエピソードを
解説するわけではありません。

対人関係学的に見た場合、
この聖書の記載が、
人類史の大きな転換点を象徴的に表現したものだという
真理を感じたので、
そのわけをちょっとお話してみようと思います。


おそらくアダムとイブという
個を確立する以前の人間は、
群れの中の一員という意識、無意識が大勢を占めていて、
一人一人の利益が衝突するということは
あまりなかったものと思われます。

人間の先祖がチンパンジーの先祖から分かれて
800万年と言われています。
そのほとんどの時期、
人間は群れを作って生存していて、
群れの構成員は全て平等だったと思います。

牙や爪といった武器を持たず、
逃げるための脚力や、敏捷性等を持たない人間は、
一人で生きていたのでは、
外敵から簡単に捕食されてしまっていたでしょう。

しかし、比較的大型の体格をした人間が、
集団を形成することは、
猛獣から見ても不気味ですから、
襲われにくかったと思います。

要するに群れの頭数が
人間の祖先を守ってきたわけです。

だから、群れ全体の頭数を確保することが
人間にとって必要でした。
食料は平等に分けられたと思いますし、むしろ、
むしろ弱い者にこそ手厚く施されたことでしょう。

なぜならば、
弱い者が病気になり、死んでしまったら
頭数が減ってしまうからです。
強い個体も、
自分が強いことで群れから大事にされることで満足し、
おそらく、自分の働きに応じて食料をよこせ
という発想はなかったことでしょう。

自分と群れを対立的に考えるのではなく、
群れの他の構成員と自分も
それほど区別がつかなかったと思います。

「自分が」ではなく、
「私たちの群れが」という意識だったでしょう。

だから、自分の死にあたっても、
群れの存続が図られるのであれば、
それほど怖さは無かったと思われます。
個体が群れに埋没していたともいえるかもしれません。

このような平等は、きれいごとではなく、
個体が生存するための必須条件です。
つまり平等を守ることができる群れだけが
群れの頭数を確保して
遺伝子を継承することができた
ということになると思います。

われわれはその末裔ということになるでしょう。

この遺伝子上の仕組みのために、自分の利益のために
他の構成員に不利益を与えるということは、
自然と嫌悪の情が湧いたのだと思います。
理屈ではなく、遺伝子レベルでの志向、感情
ということになるわけです。

さらに、抜け駆けをする個体を駆除しなければ、
群れを守れないというのであれば、
抜け駆けする個体を集団の力によって駆除したでしょう。

それは、おそらく何百万年かけて
遺伝子に定着していったものと思われます。

ここ数万年の最近になって、
食料が備蓄できるようになってきて、
また生産力も人工的に高められることによって、
客観的には、
必ずしも平等を貫かなくても、
弱い個体が死滅して群れの頭数が減り自分も死ぬ
ということにはならなくなりました。

しかし、客観的な事実の変化に反して
かなり長い間強制平等は徹底されていたと思います。

強制平等が生まれたのも、
理性の力というよりは、
強制平等を志向する遺伝子だけが生き残ったということですから、
客観的に強制平等の必要性が無くても
遺伝子が伝える感情がそう簡単になくなることはないからです。

そうだとすると、知恵の樹の実を食べることを禁じたのは、
遺伝子の声であり、
そういう遺伝子に作り上げた地球の神秘であり、
そういう意味で神であったということは
とても良く理解することができたのです。

では、結局知恵の樹の実の「知恵」とは
何だったのでしょう。

肯定的な面を見ると、
客観的な合理性のないルールを疑い、
必要のない縛りから個体を解放する
という面があるでしょう。

しかし、否定的な面を見ると、
自分の知識の範囲だけで行動することになったとともに、
自分の利益と他者の利益を対立させるようになり、
簡単に言えば利己主義の始まりだということになるでしょう。

他人と自分の区別をするようになり、
他人をさておいても自分の利益を守る。
弱い者を踏みつぶしても自分の利益を図る
ということが始まったわけです。

群れ全体の利益と自分の利益が
同じものにならなくなったために、
自分の個体の死というものが、
とてつもなく恐ろしいものになっていったわけです。

楽園から追放されて以来
「人間は死ぬようになった」ということは
こういう意味で、真理だと思います。

他者と自分の区別を感じるようになり、
他者との間で優越的地位を保とうとすれば、
羞恥の感情も現れるでしょう。

聖書の記載は全く正しいと感じるわけです。

人間が知恵を獲得したことが
原罪だというキリスト教の教えも
すんなり受け止めることができます。


知恵や理性は、私もこれまで
正しいもののように思っていました。
あるいは好ましいものだと思っていました。

しかし、まさにこの抜け駆けという意味での
「知恵」の中には
遺伝子から来る感情である、
「仲間に不利益を与えてしまって申し訳ない」
というものや、
自分の行為によって不利益を受けて、
悲しんだり、途方に暮れたりする仲間の
負の感情に対して共感を覚えたり、共鳴してしまったりという
遺伝子から来る感情を抑圧することができてしまいます。
そうして、自分の利益を図ることができるから図る
という意識的あるいは無意識の働きが
可能になるという仕組みが生まれます。

弱肉強食を是認することは、
知恵や理性の力ということになるでしょう。

知恵や理性の集団的な表れである「文明」も
もしかしたら、利己的な思考の表れではないかと
ハラリの「サピエンス全史」を読むと
そう思わざるを得なくなります。

これを端的に表したのが、
ヒュースケンの「日本日記」です。
ヒュースケンは、幕末ハリスの通訳として
来日した人物で、
日記をつけていたものが公刊されています。

西洋文明が入ってくる前の
美しい日本人の情景がふんだんに記載されています。
日本の滞在時間が長くなるほど、
西洋文明とは異なる日本人の行動様式にひかれていったようです。

ヒュースケンは、次のように書き記しています。
「今や私がいとしさを覚えはじめている国よ、この進歩は本当に進歩なのか?この文明は本当にお前のための文明なのか?この国の人々の質素な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことができなかった私には、おお、神よ、この幸福な情景が今や終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならないのである。」(青木枝朗訳岩波文庫221頁)

結局、このヒュースケンの見通しが正しかったかもしれません。

この点において、ハラリもサピエンス全史下巻で、言及しています。

要約すると、
境界を接しない国に対する侵略は、技術や国力で実現したのではなく、
西洋的な文明によって実現していった
だから、いち早く文明を取り入れた日本が、
西洋列強から支配されず、
他国を侵略していくに至った
というのです。

もちろんここでいう「文明」は
「知恵」や「理性」の総体としての「文明」です。

日本が西洋列強から支配されなかった原因が
西洋文明の導入にあるというハラリの考えは
私は不十分ではないかと思います。

日本の文化と秩序は、
日本人が意識的に形成していったものです。
そこには武士や僧侶たちの意識的な活動がありました。

但し、他のアジアの国々やイスラム圏の国々と異なり、
日本が、他国に攻め込んで支配しようとするようになったんは、
明治維新という、日本の西洋化の結果だと言われれば
得心できるところが多くあります。

「文明」は、他者との競争をもたらしましたが、
競争を勝ち抜くために
物事を単純に割り切るようになりました。

正と悪、
あるいは正と誤
自分側と敵側、
やるかやられるか、
好ましいもの嫌いなもの
加害者と被害者
支配する者と服従する者
勝つ者と負ける者
理性と感性あるいは、理性と本能

単純化して対立させることによって
「同じ人間なのだ」という当たり前の理解を
自分で封殺することができるようになったわけです。
だから、他人を陥れて
自分の利益を図ることができるのです。

これは、明治維新以来
日本においても徐々に定着するようになりました。

江戸時代までの日本は、
善悪で割り切るのは子どもの発想でした。
いや子どもですら、
例えば、仁義礼智忠信孝悌という
様々な価値観があるということを
読本などで知っていました。

かたき討ちは、
人を殺すことでよくないが、
親の敵を討つという側面では共感できる
という複雑な思考を
当たり前のようにしていたことになります。

文明が徹底されれば
ただの殺人者ということで終わってしまいます。

きわめて極端な結論の
どちらかに入ってしまうことにしかなりません。

サピエンス全史のハラリは、
一神教と多神教の影響を示唆しています。

割り切ってしまうことでは、
因幡の白兎は、
わにざめをだました悪ということになり、
皮をはがれても仕方がない
という存在なのでしょう。

しかし、大国主命は、
そんな白うさぎを助けます。
助けることが肯定的に描かれているのが
日本の心だと思います。
簡単に言えば、
「いくら何でもやり過ぎだ。
 もういいじゃないか。」
という発想です。

こういう発想は文明開化とともに
実際上否定されていくことになります。

明治維新以後に書かれた歴史書は
ことさら江戸時代の負の側面を強調していますが、
明治維新はまさに日本のイデオロギー対決の場面ですから、
少し懐疑的に見る必要があるでしょう。

江戸時代までの貧富の差は、
貧しき者の立場をつぶすということはなく、
生活は保障されていたわけです。
上に立つ武士が自らを正して
質素倹約に価値を置いて、
経済的実力以上の振る舞いを禁じていた
という側面があったことを見逃すべきではないでしょう。

もちろん、日本文化の否定的側面もあるのですが、
肯定的側面があまり正当に評価されていないのではないか
という問題意識があるわけです。

さて、そうはいっても、
文明という欲望の正当化という体系様式は、
科学の発展に寄与してきたことも間違いのない事実でしょう。
文明の正の側面ということになると思います。

しかし、その文明ということの出発点が
個人の利益を追求するということであったことの
必然的帰結として、あるいは内包する矛盾として
科学の発展の帰結が、
核兵器や地球温暖化という
人類の滅亡ということになりかねない状態にあります。

また、消えない800万年の遺伝子が、
平等に扱われない苦しい感情の源とになったり、
平等に扱わない自責感情の源となり、
社会的ストレスとなっています。

もともと、遺伝子の声から耳をふさぐことで出発した
知恵や科学や理性や文明です。
理由の理解できない掟から
人間(強者)を解放したという側面がありました。

しかし、
今は、遺伝子の声にこそ耳を傾け
人間本来の幸せを感じる感情を実現させるために、
あるいは、人間の滅亡を回避するために、
弱肉強食の常識を疑うことに使われるべきです。

知恵をそのような方向で
全力で稼働させなければならない時期に来ていると
私は考えます。



これが典型的なパワハラだ。「一度で覚えろ」、「こんなこともできないのか」がとても危険で即刻辞めるべきだという理由 [労災事件]

パワハラによって労働者が自死した事件を担当すると、
かなりの頻度で登場するのが、

「どうして一度でわからない」
「一度聴いたら覚えろ」
「何度説明すればよいのだ」
「何度言ったらわかるのか」
「どうしてこんなこともできないのか」
「こんなことができなくて今まで何やってきたんだ」

という、労働者の能力を直接否定する言動です。

挙句の果てには、
「一度言ったからもう言わない」
「あとは自分で調べろ」
「自分で理解する努力をしろ」
ということで、指導を放棄するという
行動に出ることも多く見られます。

(公共の安全にかかわる仕事で
 こういうことが横行しています。
 自分が言われたことをどうやってやればよいか
 わからない人に私たちの安全が
 ゆだねられているということが結構あることになります。)

こういうことは一度で終わらず、
何度も何度も繰り返されます。

そうすると言われた方はどうなるでしょうか。


人間は群れを作る動物です。
800万年前ですから「言葉」が生まれるはるか以前から
群れを作ってきました。
その仕組みは、
群れから追放されそうになると
「不安」を感じて、
自分の行動を修正することで
群れにとどまってきたというものだと思います。

この「不安」を生理学的に言ったのが
ストレスです。

そもそも群れから追放されるようなこと、例えば
理由もなく誰かを攻撃するとか
弱い者から食料などを奪い取るとか
そういうことを、はじめからしない
ということもこの仕組みです。

自分では気が付かなくても
群れの反応を見たり、推測したりして
やろうと思った行動をやめてみたり、
方法を少し変えてみたり
私たちもやっていることです。

現代社会ではもしかすると
群れにとどまる切迫した必要はないのかもしれませんが、

800万年の人類の歴史の上に自分たちは生きているわけですから、
こういう群れが命の維持の絶対条件だった時の
修正が無くなってしまうことはなく、
遺伝子にしっかり組み込まれているとみるべきでしょう。

無意識に、
不安感や自己嫌悪感が
キチンと形成されているわけです。

とにかく群れから追放されそうになると
群れにしがみつこうとしてしまいます。
人間というのはそういう動物です。

群れから追放されることの不安が高まるきっかけが、
自分が群れにとって不用な人物だという烙印を押されることです。
群れにとってふさわしくない人物だとか
どうでも良い人物だとか人より劣っているとか
自分がそういうふうに思われていると感じると
どんどん不安になり、ストレスが形成されていきます。

先ほどの言葉

「どうして一度でわからない」
「一度聴いたら覚えろ」
「何度説明すればよいのだ」
「何度言ったらわかるのか」
「どうしてこんなこともできないのか」
「こんなことができなくて今まで何やってきたんだ」

これらは、
自分が、職業をする職場の人間として
能力的資格がないということを突き付けています。

解雇するぞとか退職を示唆されているわけではないのですが、
遺伝子的レベルの無意識の反応の中に
群れから追放されるという不安を
つい持ってしまうきっかけになってしまいます。

要するにこれらの言葉の中には、
「これは、私たち職場の人間は、
 通常一回聞けばわかるものだ。
 これを一回聞いても覚えられないのは、
 私たち職場の人間の持っている資質よりも
 一段劣っている資質の人間だということだ。」
という言外の言葉が隠されていて、
その要点を、
むしろ無意識のレベルで把握してしまうということだと思います。

しかし、この評価が正しいということは極めて少ないです。
一回聞いて覚えられるような誰でもできる仕事が
プロとして行われている仕事だということはあまりありません。
素人にできない仕事だからプロの仕事なのです。
一回聞いて覚えられるということはあまりないということが現実です。

次に、すぐに把握できる環境にあるのか
ということが問題です。
過重労働が続いていないか
あれこれといろいろなことを同時期に行うことが要請されていないか
不必要な緊張を押し付けられていないか
という問題があります。

こういう悪条件があると、
新しいことを覚えることは難しくなります。

そしてさらに、
教え方は適切だったか
という問題があります。

立派な上司であれば、
自分に自信のある上司であれば、
自分の教え方を修正しようとして、
部下のわからないポイントを尋ねるでしょう。

そして、どこがわからないのか、
どのポイントに誤解なり、知識不足があるかを見極めて、
適切なアドバイスをするでしょう。

本当を言えば、それができないからこそ、
二度目を教えることができないのです。
一度目は、わけがわからないうちにまとまった指示を出すので、
聞いている方が疑問を持たないのです。

それで実際やってみて、
具体的にわからないことが出てくる。
その分からないことを聞かれると、
そこにピンポイントに応えて、説明しなければなりません。
おそらく、パワハラ上司は、
自分でも人に教えるほどはわかっていないのだと思います。

「自分はそれでも食らいついていった」と言うことも多いのですが、
食らいつく甲斐のあった自分のかつての上司と、
自分自身の比較をしてから言うべきです。

教えないで済ませることができる職場なら
どうでも良い職場ということになります。
上司が役割を果たさなくても不問に付されるということですから
上司にとってとても甘い職場ということになります。
あまり未来のある職場ではないでしょう。

大体は、一度聞いてわかるような話ではありません。
自分で調べると言ったって、
何をどう調べたらよいのか
経験などが無いためにわからないということが多い
ということが裁判等では明らかにされることが良くあります。

それでも、言われている方は
そんな事情は全く分かりません。
次第に、本当に自分には能力が無いのではないか
と考え始めてしまいます。

一つには、繰り返し上司から言われているうちに
そう思いこまされるということもあるでしょう。

ただ、見逃してはいけないことは、
人間は理不尽な扱いを、理由もなくされている
という絶望を感じることをなるべく回避しようとするようです。

だから、「自分が悪い」と思うと
かえって救われるのだそうです。

「どういう風にやったら良いかわからない
 上司に尋ねても教えてくれない
 このままだと、自分は指示されたことが
 達成できない」
労働者は途方に暮れているわけです。

できなければ叱責されるでしょう。
極めて理不尽なことになっているわけですが、
それが理由なくされていると
そこまでひどい扱いをされているとは
人間思いたくないようです。

「何か理由があるはずだ
 その理由を見つけて修正したい」
無意識に人間は救いを求めるようです。

「自分には能力が無い」
だからつらく当たられるのだ
という考えに逃げ込んでいくわけです。
事実、「自分が悪い」
そう思うことで、少し心が明るくなるようです。

どんどん自分に対する自分自身の評価が低下していきます。
自分が生きている価値が無いというような
考えに近づいていきます。

これに睡眠不足や
過重労働が加われば
精神的に破たんしていきます。
生きる意欲が失われていくわけです。

これは極めて悪質なパワハラなのです。
人の命を蝕む行為だと言わなければなりません。
このようなことを、
周囲も容認してはいけません。


このように追い込まれた労働者は
会社を辞めようという選択肢を持たないことも多いようです。

退職ではなく、
会社という群れから追放されそうな自分は、
死ぬことを考えるようになります。

このまま苦しみ続けるか
死ぬか

という発想になるようです。

先ほどの自責の念と似ていますが、
「死んだら」
苦しみが無くなるということを考えると
甘い誘惑に引き込まれていくようです。
次第に死ぬことが
希望のような感覚になっていってしまうようです。

まさに精神破綻です。

職場を挙げて、
このような理不尽を防止することが
会社のためにも労働者のためにも
必要なことだと思います。