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【広告宣伝】御社の「パワハラ規制強化への対策」は十分ですか?生産性アップにつなげるパ原防止策の企業研修を担当します。 [労務管理・労働環境]


いよいよ、国もパワハラ対策に力を入れ始めました。
パワハラ防止の企業努力が求められていて、
今後パワハラによるメンタル不調や自死が起きた場合の
企業に対する世論や責任はますます厳しくなるでしょう。

企業は、パワハラ対策を強化しなければならなくなっています。

ところが、経営者がいかに「パワハラを無くそう」と焦っても
なかなかパワハラは根絶できず、
現場からは嫌な報告が上がってくる
ということがあるようです。

企業の労務担当の方は、
国のガイドラインを読んだり
講師を招いたり、セミナーに参加したりして
防止策を研究しているわけですが、
いまひとつピンときません。
「わが社にパワハラの芽がないか
どうやって早期発見することができるのか。」
確信が持てないうちに時間ばかりが過ぎていきます。

なぜ研修がピンとこないのかについては理由があります。

1 特殊な事例ばかり紹介される。

パワーハラスメントと縁のない人たちも
パワハラ講師をしています。
生の実態が分からない人たちが無理やり講師をするときは、
過労死の裁判例を説明するようです。

こういう人たちは、判決しか見ていません。
判決だけを見てパワハラを語ろうとしますから、
結論だけしかわかりません。

確かに何をやって、労働者がどうなると
企業はいくらの金額を払うということはわかりますが、
それがどういう経過の中から起きたことなのか
そのことを見ていた同僚の目はどう映ったか
その他の生の事実については何も書いていません。

このため、そういう話を聞かされても、
「特殊な会社の特殊な人格の上司が
 とてつもなく酷いことをやった。
 うちの会社は普通の会社だし、
そんな変な人はいない。
うちの会社には関係ないだろう。」
ということになってしまいがちです。

2 結局何がパワハラかわからない

あるいは、
こういうこともパワハラになります
こういうこともパワハラになります。
ということが繰り返されて、
「これでは実務が回らない。」
と思ってしまうと、
結局運を天に任せて
今まで通りの日常を繰り返してしまう
ということになってしまいます。

何がパワハラなのかが結局よくわからない
どうしてそれをしてはダメなのか
ではどうしたら良いのか
ということも分かりません。

これは、事例をただ集めるだけで、
パワハラが起きる要因、
パワハラによって生じる労働者の影響
それによって二次的に起きる家族への影響
という実態の分析がなされていない事に原因があります。

私はいろいろな人と分析チームを作り、
厚生労働省の過労死防止啓発シンポジウムなどで
研究の成果を発表しています。

私の周りには、法律家や遺族だけでなく、
心理学の学者さん、カウンセラーさん
社会保険労務士さんや
なによりも、現にパワハラで苦しんでいる
多くの労働者と身近に接していて
分析チームに入ってもらっています。

このため、自信をもって分析結果を発表できるのです。

3 警鐘は鳴らされるが、ではどうしたら良いかわからない。

中には、いくつかのパワハラの実態はわかっているけれど
正義感が強すぎて伝わらないということもあります。
過労自死が起きれば、本人だけでなく
家族が一番苦しい思いをしますし、
同僚にも深刻な影響が生じています。

このため、
「パワハラは悪であり、追放しなければならない」
という声高の主張で終わる場合があります。
それはそうなのですが、
そこで思考を停止してしまうと
具体的な防止策が出てきません。
「防止しろ」と言われて終わりです。
善悪二分論は防止の力になりにくいです。

具体的職場において
危険な要素がどこにあり、
どう改善していくかという
「思考」ができなければなりません。

変な表現ですが、
パワハラ上司に対する理解(賛成や支持ではない)
をすることが
普通の企業で普通の上司によるパワハラを無くすためには
どうしても必要なことだと私は思います。

4 「パワハラを無くす」という発想が逆に難しくしている

「パワハラを無くす」ということが目標とされています。
これは実態を考える上でとても邪魔になります。
今あるパワハラの原因を温存して
具体的なパワハラ行為だけを止めるように努力する。
と考える傾向がどうしても生まれますから
どうしても無理が生まれます。

あたかも、怒りを抑えるためには
怒りそうになってから
色々と手立てをする
というようなもので、
頭でわかっていても
実践することはとても難しい
結局、絵に描いた餅ということになります。

それだけならばよいけれど、
「自分はダメな人間だ」
というような罪悪感や無力感に
無駄にさいなまれることもあるようです。

パワハラを無くす、いじめを無くす、自死を無くす
それだけでは、目標としては足りません。

もちろん企業ですから
利潤の追求はしなければなりません。
しかし、パワハラを起こさない職場は、
一人一人の従業員のモチベーションが高まり
逆に生産性をあげている実績もあるのです。

つまり、
パワハラ、過労死を無くすという
マイナスからゼロを目指すのではなく、
その先にあるプラスを目指さないと
本当の改革にはならないと思っています。

このようなことをお話ししながら、
従業員が尊重されるという意味をお話しし
それが生産性のアップにつながるという道筋を
お話しする予定です。

お話しする内容は、
基本的にはこのブログにアップしています。
労働、労災のカテゴリーに主に入っています。

実績
過労死訴訟、労災認定、示談交渉、職場の人間関係改善、相談等実務豊富

最近の講演実績
港湾労災防止協会 平成27年度東北地区安全衛生セミナー
「メンタルヘルスと安全配慮義務」
法務局幹部研修 「ハラスメントの起きない職場づくり」
厚生労働省過労死防止啓発シンポジウム
 30年福島会場「過労死が起きる働かせ方を知る
~26件の精神疾患事例の分析から~」
 28年岩手会場「過労死・過労自死のない社会を目指して」
他仙台会場、山形会場
医療関係者主宰 「過重労働が家族に与える影響」」
社会保険労務士研究会
        「労働災害による損害賠償について」外
熊本県弁護士会 「復興過労死の防止 東日本大震災の教訓を生かして」
厚生労働省 過労死防止啓発教室 
宮城、岩手、青森等の大学、高校、専門学校での授業講師
その他、人権、いじめ、クレーマー、家族力の育み方、離婚、自死等をテーマに、学校、PTA,自治体(教育委員会、保健所等)、弁護士会、心理士会、企業、医療関係者等での講演多数
現職 人権擁護委員 調停委員 精神医療審査会委員等 自殺対策連絡協議会
元職 東北学院大学法科大学院講師(労働法)

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存在しない夫のDVをあると思いこむ心理過程 思い込みDV研究 [家事]

夫が仕事から家に帰ったら
妻や子どもと家具などが消えていて
行方も分からないという
突然の子連れ別居は、
それほど珍しい事例ではなくなっています。

事前の話し合い抜きに
妻が行動を起こすケースの中には、
妻が不貞を成就するために行うケースや
逆に実際に夫が言動で妻を追い込んでいる
という極端なケースもあるにはあるのですが、

大半は、
妻は夫のDVから逃れるために行動を起こしたと主張するのですが、
DVの具体的内容が語られることはなく、
夫からすると、どうして妻が子連れ別居をしたのか
理由を理解できないというケース群です。

このようなケースの多くで、
妻に精神的問題があることが見られます。
病気の有無については夫がそう判断しているのではなく、
実際に裁判などに診断書が出されるケースや、
裁判所によって妻に理屈のつかない不合理な行為がある
と認定されるということです。

妻に限らず

「人間は理由なく不安になる生物である」

ということを先ず理解していただきたい。
理由なくというのは、
夫がDVを行わなくても、
他の人間関係に思い悩まなくても
ということです。

離婚裁判に見られた疾患で一番多いのは
甲状腺機能の異常です。
亢進も、低下も両方見られます。
内科疾患ではC型肝炎ですが、
これはインターフェロンの副作用ということがあるかもしれません。
夫婦仲が悪くなった時期に妻がプレドニンを継続的に服用していた
という例もありました。
精神科の病名では
不安障害が多く、うつ病がこれに続きます。
病名はわからないものの投薬から推測すると
統合失調症の診断が出ていたのではないか
という事例もあります。
パニック障害、産後うつ、更年期障害、等の病名もありました。

妻の疾患以外では、
子どもが先天的障害を抱えた事例が多いです。
最近では子どもが発達障害だと診断された事例が多いのですが、
うまれながらの障害を子どもがもっている事案も多いです。

同居時の妻の発言などから
子どもが先天的な障害を持って生まれてきたのは、
母親である自分に原因がある
と多かれ少なかれ、自責の念を持ってしまうようです。

子どもが先天的な障害を持っている場合、
その子どもを連れて別居するケースもありますが、
障害のない子どもだけ連れて
障害のある子どもは連れて行かないで
別居に至るケースもあります。

このような妻たちに共通することは

漠然とした不安を抱いていること

です。

その不安の内容とは、
本人もなかなか気が付かないのですが、
家族の中で、自分が尊重されていないと感じること
極端に言えば、追放されるかもしれない
一人ぼっちになるかもしれない
という危険を感じているようです。
家庭が安住の地、帰るべき場所になっていないようです。

つまり、妻の不安の始まりは
夫による積極的加害行動がない(弱い)
場合でもありうるし、
実感としてはそのような場合が多いように思われます。

問題は、なぜ、

「漠然とした不安があると
ありもしない夫のDVがあると思いこむようになるのか」

というところにあるでしょう。

例えば甲状腺機能に問題がある人の大半は
離婚をしないわけです。
単に病気から妄想が生じるという
短絡的なメカニズムではないことは間違いありません。
何か理由があるはずです。

先ず、理解していただきたいことは
原因がどこにあるかに関わらず、
妻の心理状態としては、
不安で居ても立っても居られない状態になっている
毎日が生きづらくて、楽しいことがない
という深刻な状態になっている可能性があるということです。

そうです。夫の行為が原因でなくても
家族がそのように苦しんでいるということを理解していただきたいです。

さて
不安を抱くと、妻に限らず、人間に限らず

「不安を解消したいという要求」

が生まれます。
不安を解消したいという要求に沿って
恐れをもって逃げる行動を起こすか、
怒りをもって攻撃する行動を起こしたりします。

不安・危険の意識
     ↓
 不安解消要求を抱く
血液の変化、思考の変化   →  不安解消行動がみつからない
     ↓                ↓
 不安解消行動(闘争、逃走)    不安解消要求の増大
                      ↓
                  不安を解消するためなら何でもする

これに反して不安を解消する行動が見つからなければ
不安解消要求が弱まることがなく
どんどん大きくなってゆきます。

不安解消要求から逃走、闘争等の不安解消行動への流れは
動物が危険を回避するための仕組みですから、
生きるための仕組みです。

それにもかかわらず、
不安解消行動が見つからなければ、
生きること以上に、不安を解消する要求が大きくなってしまいます。

「死んでも良いから不安を解消したい」

という意識になるわけです。

不安解消要求が起きていれば
逃げ始めなくても、闘い始めなくても
血液の流れは逃げたり戦ったりするための変化が始まっています。
脳の機能自体も
余計なことは考えずにひたすら逃げる、ひたすら戦う
というモードに入っています。
余計なこと、つまり複雑な思考が停止ないし低下しています。

これが極端な二者択一的思考、悲観的思考の原因です。

からだは逃避モードないし戦闘モードに入っているのに
不安解消行動が見つからない
これは大変危険な状態です。
「死ねば、不安が解消される。」
と思いつくと、明るい気持ちになってしまうこともあります。
それだけ不安解消要求は、強烈な心理作用のようです。

家庭の問題で自死に至るということは多くはないのですが
心中という形態をとるので、記憶に残りやすいようです。
不安解消要求の肥大は大変危険なことです。

さて、妻の不安は、本来は漠然としたものですが、
妻が一番大切にしている群れが家族の場合、
家族から追放されるのではないかということが
一番の不安になります。
漠然とした不安は、大事なものがなくなるのではないか
という形になりやすいという事情があるようです。
一番悪いことが起きるという悲観的傾向を反映しています。

だから、「離婚」とか「出て行け」とか「終わりだ」
という言葉は絶対に禁句にしなければなりません。


こういう場合は、共通して以下のような気持ちになるようです。
自分が尊重されていない。
自分が軽く扱われていて、
いてもいなくてもよいように思われているのではないか。
具体的には、
自分だけ損をさせられているのではないか。
自分の実家(ルーツ)が馬鹿にされているのではないか。
自分の気持ちを無視されているのではないか
自分のことや子どものこと、家族のことを
自分が決めることを許されていない。
自分は子どもや家族の奴隷だと思われているのではないか
等々の気持ちになることが多いようです。

もともと原因のない不安ですから
不安解決行動は見つかりません。
このため不安解消要求だけが肥大していきます。

「離婚をして、夫と関係なく生活できれば
不安がなくなる」
という考えになることがあるようです。

構造は、自死の構造と類似しています。

第三者から観ると
相手を好きすぎて自滅していく人は
大変多くいらっしゃいます。
とてもいたましい出来事に映ります。

夫と別居、離婚というアイデアが出てしまえば
そっと誰かが背中を押しさえすれば、
不安解消要求が肥大化しているために、
子連れ別居の行動に出てしまう
どうもそういう形が基本にあるようです。

付随的な話ですが、
妻のヒステリーを抑え込まない方がよいということは、
ヒステリーや逆切れを起こすということで
妻が不安解消行動を自発的にやっている
ということだからです。
「配偶者のヒステリーは抑え込まないほうが良い。賢い対処法」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-31

また、ヒステリーに寛容な姿勢を示すことで、
自分が尊重されているということを実感できます。
ありがたく受け止めるべきなのでしょう。

<夫側の原因>
夫は、妻の不安を解消せずに増強させていることが
多く見られます。
・汚いこと、嫌なこと、面倒なことを妻に押し付けている
・妻のやることなすことに否定評価すること
・意見が違うと、無駄に論理的に又は無駄に大声を出し制圧すること
・それができないとお前にはわからないと否定すること
・妻や妻の両親、兄弟を否定すること
・妻の至らないことに説教すること
・子どもの前で妻よりも自分の能力が上だという結果になる行動をすること
 (子どもが生まれる前に妻から褒められた調理すら、
  子どもが生まれた後に嬉々として行うと
  妻が不安になることがあるようです。)
・子どもの前で妻に対して論評することは増強理由でしょうか。
・一緒にいる時間が短い
夫としても、妻に八つ当たりをする意識はないとしても、
知らず知らずのうちに妻の不安を増強していることが通常です。

論理性、道徳性、正しさが夫の行動原理ですから、
自分が間違っていないという意識になってしまうと
妻が傷ついていることが分かりにくくなります。

自分が間違っていなければ
妻の方が悪い、自分は関知しない
ということになってしまいます。

第三者から観ると
妻が風邪をひいたのは自分が風邪をひかせたわけではない
だから看病しない
と言っているようなものです。

一段階ギアをあげて
妻が苦しんでいるのだから
仲間として何とかしてあげよう
という気持ちになることが大切ですし、

自分が悪くなくても苦しみを緩和してあげよう
という発想になるべきなのです。

ところが、こういうことは誰も教えないので
自分がしていることが相手に打撃を与えていることも知りませんし、
何とかしてあげたいという気持ちはあっても
何もできないということになってしまいます。
そもそも相手が苦しんでいることすらわからない。

妻は、夫に何とかしてもらおうと詰め寄りますので、
かえって、自分が責められているように感じてしまう。
苦しくなって(夫に不安解消要求が起きて)
妻を突き放す形で解消してしまう。
すると妻はますます不安になる。
こういう悪循環が起きています。

対策として
家族の間に、正しさとか、道徳とか、論理性さえも
持ち込むべきではないということです。
あくまでも家族の感情が少しでも上を向く
ということを価値観にするべきなのでしょう。

<支援者の原因>

前に、配偶者加害相談事例と面会交流調停申立が
極めて密接に関連しているというお話をしました。
行政などの支援の問題は統計上明らかです。
危険なのは面会交流ではなく、別居、離婚の仕方 先ず相互理解を試みることが円満離婚の早道
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2017-05-11

先に名古屋地裁の判決で示されたように
配偶者加害保護事業が目的外使用をされている
という判示がなされましたが、
ようやく事態を正面から裁判所が認めたという感があります。

本来、夫が妻の不安を増強するかどうかはともかく、
夫にそこまで原因があるわけではないのに、
妻に精神的不安定があると
行政や司法は、
夫の精神的虐待が原因だと決めつける傾向がありました。

決めつけるとは、
妻が夫のDVの危険性を強く主張しないのに
夫からも事情聴取をすることなく、
夫の精神的虐待が「存在する」と決めつけることです。
そうして、夫は妻と子どもの行方が分からなくなるので、
事実上家族から引き離されてしまうのですが、
夫はどうすることもできないという事態に陥ります。
当然自死の危険性も高くなります。

決めつけ行為は行政のあらゆる場所で見られます。
自治体は妻からの申し出だけによって住民票を秘匿します。
児童相談所の中には、別居している子どもを一時保護し、
妻の言い分だけをもって、妻に子どもを引き渡し
夫が子どもと会うことすらできない状態にします。
裁判所は、妻の身体生命の重大な危険も認められないのに
保護命令を出すケースが、残っています。
家庭裁判所すら、妻側の警備の要請を
無条件に信じて、複数の職員を
あからさまに警備させて夫の神経を逆なでしているところがあります。
警察も、ひところほどではないにしても
妻からの申立によって、些細な行為もストーカーとして警告し、
警察署に連れて行って、暴力をふるったことの無い夫に
「二度と暴力はふるわない」
との誓約書を書くようにせまるところもありました。

妻が不安優位な精神状態にあっても
夫がその原因になっているのかは別の話なのですが、
別の話だと当たり前のことを言うと
「DVに理解がない。寄り添っていない。」
と言われる、上司から評価されるわけです。
だから、夫に何らかの虐待があると考えることが
女性に寄り添う姿勢だとどうしようもないことになっています。

妻はもともとDVなんて受けていませんから、
家に帰ってクリスマスを祝いたい、お正月を迎えたい
というのですが、
2時間でも3時間でもかけて
それは命の危険があると説得した結果、断念してもらった
と有頂天になっているとさえ思える
報告書を読んだことがあります。

後に、DVはなかったと裁判所で認定されても
行政が責任を認めて夫に補償した
という話は聞きません。

それでその結果、子どもの成長に問題が生じたり、
妻自身が恐怖を固定化されている
という事案はたくさん見ています。
「支援による子連れ別居は、女性に10年たっても消えない恐怖を植え付ける  女の敵は女2」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2016-12-10

もっとも「寄り添い」支援が有害であることは
夫婦問題に限りません。
裁判でも、事情が分からない支援者が
弁護団と当事者の打ち合わせの後で、
それはなんぼなんでもおかしいとか言いながら、
打ち合わせ結果と異なることを当事者に吹き込むことがあります。

弁護団と当事者の信頼関係がなくなるのですが、
その後当事者は、解決不能の裁判に
膨大な時間とお金を費やして
徒労の結果となることが殆どです。
それでも支援者は、その時間とお金を償うことはありません。

さて、それでは、妻は、どうして
行政の言った、ありもしないDVがあると
思い込むようになるのでしょう。
これが思いこみDVなのです。

夫はありもしないことを妻が主張しているのですから
妻が嘘をついている、嘘をつかされていると感じますが、
妻は、次第にそれが真実起きたことだと
記憶が変容しているようなのです。

一つに不安解消行動が見つからないで
不安解消要求が増大している時、
記憶の短期障害が起きています。

新しい出来事の記憶が定着しない
という現象のようです。

但し、自分の不安が現実化したと思われるときだけは
記憶しています。
だから、自分がヒステリックになって
意味不明の行動をして
(家のベランダから外に出ようとする行動、
 裸足で外に走りだそうとする行動
 興奮して夫を連打する行動)
危険回避のために手足をつかまれ、
場合によっては転んでしまう

そうすると、意味不明の行動をしているという
自覚も記憶はなくなっているのです。
もともと記憶していないという方が正確かもしれません。

強く痣になるくらいに手足をつかまれた、
畳に転がされた
という結果だけが記憶されている
ということが起きるようです。

常日頃、夫からは暴力を振るわれていないのに、
その時だけ、つかむとか転がされるという暴力があった。
ということだけは自分の記憶なのですが、
しかし、なぜそのように夫が暴力をふるったのか
前後関係の記憶がない
ということが起きています。

このような短期記憶障害は著明な精神症状ですが、
通常は、恐怖や驚愕が起きている時の症状だと
説明されています。
こういうこともあって、
「短期記憶障害があることから、恐怖体験をしたのだろう
つまり、夫からDV被害を受けたのだろう」
という流れになっているようです。

肝心なことは
妻が嘘をついている、真実を隠しているという事案よりも
実際記憶がない、あるいは
痣や転がった畳のことはよく覚えていて
自分が暴力を振るわれたのではないか
という不安だけが存在しているということです。

人間は、記憶が曖昧であるとき、
適当な事実があったとして記憶の隙間を埋める
ということをするそうです。

逆に言うと、
つじつまがわからないことは
何とか心の中だけででも
整合性のあるストーリーを作り上げたくなる動物のようです。

実感としてなんとなくわかります。
自分の両手首を見たら痣ができている
記憶の始まりで自分が畳に寝転んでいて
夫が上から見ている
という記憶だけがあれば
どうしてそうなったのか気になるし、
何らかのストーリーを作らないと
落ち着かないということはあるように思います。

これはなぜ記憶というものがあるのか
ということに関わってきます。

記憶がなければ
危険だとわかっていることを行ってしまうので、
あっという間に命がなくなるからです。

何が危険で、どうやって危険を回避したかということを記憶して
危険を回避して生き延びるために記憶というものがあると
考えられたら考えてください。

そうすると、自分に痣ができているという結果が
どのようにして起きたかということは
知りたいことだということになりますし、
記憶が欠落していれば何らかのストーリーを作って
危険回避の方法があると納得して
安心したいということになるでしょう。

そうやって、真実が知りたいと思っている時に
妻の支援者が
「それは夫のDVですよ」
と言えば、つじつまの合った話が完成しますから
「夫からDVを受けた」
という記憶が作り上げられるわけです。

しかし、実際はDVを受けていないので、
自分に痣ができていたり、寝転んでいる事情を
詳しく質問しても出てこないのです。

これは、実際は存在しない身体的DVの記憶が
作り上げられる過程です。

もう予想がついていると思うのですが、
存在しない精神的DVの虚偽記憶の作り方も同じです。

自分が不安を抱えていて、解消行動もないということは
実際にかなりのストレスフルの状態です。
場合によっては、猛獣にかみつかれそうになっている状態と
同様なストレスフルになります。

命の危険はないけれど、
不安解消要求が慢性的に持続しているために
精神的な消耗は猛獣の場合よりも大きくなるからです。
人間の不安解消要求に耐えられる時間は
ごく短いもののようです。

耐性期間を超えて苦しみ続けている人にとって、
「あなたが苦しんでいるのは
夫の精神的虐待が原因だ」
といわれれば、そうなのかと記憶が書き換えられるのです。

妻の方も、
自分の苦しんでいる原因がある
言葉で説明できる
というと、人間の危機回避のシステム上
大変楽になります。
夫から離れさえすれば
不安が解消できると思って
そのアイデアに飛びつくわけです。
これは生きるための仕組みである以上
妻の立場に立って考えると
やむを得ない側面もあるように思われます。
(と思うことができますか?)

但し、どのような精神的虐待行為なのかは
なかなか言葉で説明をすることができません。
ようやく支援者が聴き取ったエピソードが
毎月5万円しかお金を渡されないということならば
「それは精神的虐待だ。DVだ」
と高らかに宣言しているようです。

しかし、実際の事例では、
旦那さんの賃金が手取り20万円程度で、
妻は専業主婦。
電気、ガス、水道などの公共料金は夫の通帳から引かれ、
子どもたちの分を含めた保険のお金も
そこには含まれない、
コメやみそなどは夫が買い
ほとんどおやつ代というか小遣いなのです。

無理やりDVに仕立てようと根掘り葉掘り尋ねられ、
ようやくヒットした話なので、
妻も実はこうだとは言えなくなるようです。

あとはシェルターにでも行ってしまえば
携帯電話は取り上げられ、
自由に家に帰ることもできなくなります。

保護命令の申立書の用紙が渡され、
名前を書いて、アンケート用紙に記載すれば
申し立てることができます。
この時、妻も半信半疑な人がいるらしいのですが、
裁判所は保護命令を出したと言っています。

やはり自分は夫から命を奪われそうになっていたのかと
新たな恐怖感情が生まれるきっかけになるでしょう。

ある人は、もう離婚が成立したと嘘を言って
離婚調停を依頼したことになっていた弁護士費用を
法テラスに払って、
手紙を出しただけの弁護士に報酬も支払う約束をして、
夫の元に逃げ帰りました。
離婚の成功報酬は夫が支払いました。

現在、妻の不安とその不安による家庭崩壊については、
私以外それほど言っている人がいるようには思われません。
勉強不足であれば幸いだと思っているくらいです。
肝心の内科医が、家庭崩壊の危険の啓発と
不安に対する対処方法について
あまり興味を持っていないようです。

人間が家族など人間関係を持っていれば
その人間関係が壊れることの予防をしなければならないと思います。
これが現代日本の科学では欠落しているというのは言い過ぎでしょうか。

また、何らかの妻の支援の啓発では
夫の家事参加、共同家事でお茶を濁されることが多いようです。
できないことをやれということで、
妻の不安は解消されず、
夫のストレスも大きくなって行き、
しわ寄せが子どもへの八つ当たり
ということは心配しすぎでしょうか。

一昔前までならば
夫婦は大家族や、地域コミュニティーの中で
お互いへの対応を学びながら、
年寄りに怒られながら
夫婦として長年暮らしていたわけです。

今はこれがありません。
隙あれば、夫婦仲を壊して実家に戻そうとする
親が増えているように感じてなりません。

家族という、弱いユニットですが、
人間が安心する場所として機能すべき場所を
国民世論で育てていく必要があると
痛切に感じています。

行政や自治体という妨害者を乗り越えて
家庭が崩壊するメカニズムを研究し
たくましく幸せな家庭を作るために、
もっともっと国民的議論、研究が巻き起こすことが
今求められていると思われてなりません。

もっと力があればと思わずにはいられません。

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日本の自殺対策は道半ば うつ病対策から環境改善総合政策への移行と対人関係学 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



日本の自死対策のトップとも言うべき方の
お話を聞く機会がありました。
印象的なことは、
これまでの自死対策は、うつ病対策だったが、
現在の対策は、環境改善に移行してきた
というお話でした。

私は、弁護士の立場から
業務や付随活動で自死を扱ってきた経験から
あるべき自死対策は環境改善だと
言い続けてきました
これがようやく受け入れられたと感じ感激した次第です。

しかし、実際の自治体や国などの自死対策の現状を見ると、
うつ病対策から環境改善への移行は
道半ばであると思います。
自分自身についても、
多かれ少なかれそういう発想に立ち切れていない
ということを折に触れて痛感します。

ここで誤解を避けるための説明が必要でしょう。
うつ病対策を止めるべきだと言っているわけではないことです。
うつ病が改善されれば自死に至らないということもあることです。

問題なのは、これまでは、うつ病対策に重点を置きすぎてきた
ということです。
これには理由があります。

うつ病が自死を招く可能性があるということは
医学的に承認されてきたことです。
うつ病以外の要因については、曖昧模糊としていました。
このために自死対策が医学的に承認されたうつ病対策になっていた
という側面があると思います。

また諸外国の自死対策において
うつ病対策がとられていたという事情もあります。

しかし、うつ病対策に偏重している国よりも
環境改善政策を織り交ぜた北欧などの国の方が
自死者の数、率の減少がみられた
という事情もでてきました。

また、内因性のうつ病以外でも
多重債務による自死、過重労働による自死、いじめ自死
等によって、
外部的事情と自死という因果関係も
社会的に認知をされ始めました。

WHOも自死は防ぐことのできる死であるとし、
社会的要因も強調するようになった。
国も自死は、追いつめられた末の死だとの認識を示すに至りました。

このような背景事情からもうつ病対策偏重から
環境改善を含んだ総合政策に移行してきたわけです。

さらに
うつ病対策偏重には
重大な限界があったことも指摘しなければなりません。

うつ病対策が、うつ病者に対して、
治療を充実させ、社会復帰の諸施策を講じていく、
その結果、生きる意欲を取り戻すという一連の政策ならば、
極めて重要であり、現代においても必要な政策です。

しかし、従来の自死対策は、これとは異なっています。
うつ病者を「気づき」(発見し)、精神科医療につなぐ
そのためのゲートキーパー養成事業に
という図式化された政策を行ってきていました。

ところが、うつ病者を見つけることは
実際には困難なことです。
北海道大学名誉教授の山下格先生の
精神医学ハンドブックでは、
重症うつ病者を除くうつ病者の圧倒的多数は
うつ病を隠すと指摘されていますし、

実際に私が接しているうつ状態の人たちも
よくお話してくれているところです。

相手に心配をかけたくないという気持ちが
自分のうつを隠すということを
自然に起こしてしまうようです。

このため、医者も気が付かず、
順調に治療をしていたつもりが
突然の自死を招いてしまうことがあると
山下先生は注意喚起をされています。

実際は自死のサインなどなく、
あったとしても事前に把握できるものではありません。
それにもかかわらず、
うつ病を見逃した、自死のサインを見逃したと
そういう発想になりやすく
自死者を防ぐ役には立たないにもかかわらず、
自死者の周囲に自責の念を植え付けるだけの
理論になってしまっていたのが実情でした。

また、精神科につなぐのは良いとしても
つないだ後の対策もなく
医師任せになっていたという問題点も指摘しなければなりません。

主訴ごとに(不安だ、眠れない、焦ってしまう等々)
重大な副作用を持つ薬の種類が増えていくという
多剤処方の問題の改善や
居場所のない、引きこもるしかない社会の状況の改善についても
必要性すら浸透されていないのが現場でしょう。

ひとたびうつ病になると
風邪のように短期間で治癒することは多いわけではなく、
長期間社会復帰できない状態が続くことも少なくありません。

うつ病対策に偏重していたにもかかわらず、
うつ病対策自体が結果として十分なものではなかったのです。

そうして、
多重債務や過重労働、いじめなど
うつ状態に陥らせ、判断力を奪う要因をそのままにして
うつ状態になってから対策を立てるということに
批判が起きていたことは自然のことでした。

国は、このことに気がついて、
現在各自治体に
「事業の棚卸し」というユニークな名称の指示を出しています。

これまでうつ病対策とは思われなかった事業に
自死対策の効果があるということを指摘し、
各自治体に事業の自死対策との関連付けという
再評価を求めました。

しかし、各自治体では、
従来の自殺対策=うつ病対策
という図式が浸透しすぎていて、
国がサンプルとしてあげた事業だけが、
その理由も理解されないまま
自死対策関連事業とされているという側面も否めません。

これもうつ病対策偏重の弊害でしょう。


うつ病対策から環境改善を含む総合政策にかわるということは
自死の理解に対する変化も必要となります。

それは、一言で言えば
「自死をする人は、自死になじむ特別な個性のある人
ではなくて、
誰でも同じ環境に立たされれば、
自死をする危険がある。」
という人間観にたつことです。

こういう考えになかなか立つことは難しいようです。
原因として、
臨床医学にしても、臨床心理学にしても
「個別のクライアントの治療」という観点の学問であり、
「当人の症状をどのように改善するか」
という発想になりがちである。
原因をクライアントの中に探す宿命を負っているように感じます。

端的に言えば、ある医学雑誌で、
会社に適応できないのは
労働者側に精神的成熟が足りないからだ
という決めつけで、論を進めている記事がありました。

それは、会社という社会制度は適切に運用されていて、
その場になじめないのは
なじめない側に原因がある
という発想のように感じました。

うつ病偏重の政策の根本的由来もここにあると思うべきです。
だから症状が出現することを待って
症状の改善という政策に疑問を抱かなかったと考えられるでしょう。

臨床医学から公衆衛生的発想に
切り替えが必要なのだと思います。

人間の普遍性にもっともっと着目するべきなのです。
そのような人間観に立った研究が
特に日本では遅れていると感じます。

環境によって、病気ではない人が病気になり
あるいは極端な視野狭窄や自由意思を奪われ
自死に追い込まれています。
この事態を防止する実務的研究が必要です。

どうしても、「こころ」の問題が絡みますから、
話が哲学的隘路にはまり込んでしまう傾向があります。
そうではなく、
自死防止、視野狭窄防止の範囲で
人間を理解すればよいのです。
それ以上の複雑な部分も認めつつ、
快適に、幸せに暮らすことができればよい範囲で
研究すればよいという実務的な学問です。

その範囲では、人間はそれほど大差がない
そう思います。

私は対人関係学という考えを提唱してきました。

簡単にいうと、

人間は、群れの中で尊重されて生活したい
という本能的要求がある。(所属の根源的要求)

群れの中で尊重されない事情があると
生命身体の危機感と同様の生理的変化をともう
危機感を感じる(対人関係的危険)

危険を感じると危険を解消したい要求が出現する
これに基づいて、
恐怖を伴う逃走
怒りを伴う闘争(攻撃)
という危険解消行動を行う。

対人関係的危険についても群れにとどまる志向をしてしまう。

しかし、群れの中で尊重される方法がないと認識すると
危険解消要求は極限まで高まってしまう。

現在人間は複数の群れ(家族、職場、学校他)に所属しますが
すべての群れでこのような反応を無意識にしてしまいます。
だから、例えば家庭に問題がなくても
学校でいじめを受けていれば、
危険解消要求が極限まで高まってしまうことも
よく観られることです。

危険解消要求が昂じると
複雑な思考ができにくくなり、
将来的因果関係、他人の気持ちという思考能力が低下し、
折衷的な志向ができなくなる二者択一的な思考に陥り

生存要求よりも危機解消要求が強まってしまう、
現在の危機感を解消することが何よりも最優先事項となり、
自死、離婚、退学、犯罪、いじめ、虐待などの
行動に出ることを制御できなくなる

従って、最も重要なことは
対人関係的危険を起こさないようにすること
適切に解消すること、
ということになります。

ただ、現在の段階では、
何が対人関係的危険を感じさせることなのか
ということを
共通認識にしていくことこそが
求められているように思われます。

知らず知らずのうちに
対人関係的危険を起こさせていることが
余りにも多いようです。

もし、この対人関係学の概念が正しいとすればということになるでしょうが、
どうやって、このことを多くの人に理解していただけるようになるのでしょう。
とりあえず、
あきらめないで頑張っていこうと思います。

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