SSブログ

ユーチューバーがジャニーズ会見を批判する動画をアップする理由、尋問のプロの感じた会見の「技術的」成功とその成功が招いた想定しなかったデメリット [労務管理・労働環境]


先日、ジャニーズの4時間以上にわたる会見をユーチューブで倍速で観ました。そうしたら、その後私のユーチューブのホーム画面に、この会見を批判する動画が大量に並ぶ事態になっていて、その中のいくつかを観てしまいました。

この一連の流れは、弁護士としては、謝罪会見をする場合に気を付けなければならない事情の宝庫になっていて、どういうことをすれば聞き手はどう感じるかということもよくわかり、大変勉強になりました。その勉強の成果を還元するための記事でして、プロダクション批判の記事ではないつもりなので、初めにお断りいたします。

動画作成で生計を立てているユーチューバーの中には、純粋に動画再生数を稼いで収益を上げたいというある意味純粋な人と、特定の主義主張のセールスマンという形で、おそらくスポンサーをつけてやっている人と二種類いることがこの騒動ではっきりしてしまったということも今回の会見の副産物でした。今回分析するのは、前者の人たちです。

前者の人たちは、純粋に動画を多く再生してもらいたいということですし、一度着いた固定客を維持するというより、この会見をチャンスに新たな視聴者を増やそうという意欲が感じられる動画作成をしていました。

新たな視聴者が動画再生をするために、その不特定多数人のニーズに合わせた動画を作成しようという工夫が感じられました。

さらに、この動画がウケると思ったら、例え新たな情報が少なくても第2弾、第3弾の動画をアップすればまた見てくれるということもよくわかっていらっしゃる動画になっていました。視聴者が求めているのは、新たな情報よりも、自分が言いたくて言えないようなことをずばりと言ってもらい、自分の不満やフラストレーションを他の誰かに共感してもらいたいということのようなのです。

だから、ただ批判をすればよいというわけではないということが大切です。視聴者が言いたいこと、言ってほしいことをズバリ言う、しかもあくまでもこちらが「正義」であるという安心感を持っていられるという言葉や口調を選ぶというスタンスがとても大切なようです。

では、動画の視聴者は、あの会見で本当は何を言いたかったのでしょうか、どこに不満があったのでしょうか。これについては、動画作成者は必ずしも言葉で明らかにする必要はありません。それの説明を試みる私は動画作成をするわけではなく、今後仕事として行う謝罪会見が目的を達成できなくなることを避けるために、言葉に置き換えてみているわけです。

会見は4時間超に及ぶものであり、それなりに創業者を否定評価したものであり、今後被害者に補償をするということまで言及したし、4時間サンドバッグのように攻撃さらされれば、それなりに同情論も沸き上がり、騒動が鎮まるのではないかという見込みがあったと思います。批判に応えたぞという姿勢を示すことが会見企画者側の当初の目的だったはずです。

<企画者としての誤算だったと思われる依頼者の意思2点>

ただ、記者会見を企画した人物にとっては大きな誤算が当初からいくつかあったのだと思います。

 前社長が取締役を退任せず、代表取締さえも辞任しなかったということが第一の誤算です。社長の肩書をはずしたということは、法律的にはあまり意味のないことです。対外的にもあの人が代表取締役という会社のトップにいることは変わらないし、対内的にも実質的トップは変わらないということだけが伝わりました。小学生くらいであれば社長を辞めたということは大きなインパクトがあるかもしれませんが、大人はそうは思いません。

退任しなかったことは会見企画者としては誤算だったと思います。別に代表取締役をやめても困らないだろうという経済的面からの推測があったと思います。100%株主ですし、これまでの実績、人間関係があるのだから、会社に対する影響力が減少するわけではない。また、当面役員報酬が無くても困らないだろうから、第三者委員会の勧告に従って取締役を辞めると思って、それを会見の目玉にしよう、できるだろうと思っていたのではないでしょうか。ところが、肩書は外すけれど法的立場は変わらないということですから、企画者としては誤算ですし、一般視聴者はモヤモヤするわけです。

一時的にでも代表取締どころか取締役からも名前をはずすということになれば、身内のために仕事を奪われたという同情論が期待できたはずです。ところが代表取締役を辞めないということであれば、第三者委員会の指摘する同族企業を温存させるという印象はぬぐえません。さらに、100パーセント株主で今後も会社を支配しようとしているということに一般人の視線を誘導してしまうという副産物まで出てきた結果になりました。

もう一つ誤算だったのは、社名の変更を「検討しない」という回答をしてしまったことです。なぜ、「検討する」ということを言うことにできなかったのか、これも会見企画者としては誤算だったと思います。これでは、補償も今後のメディア露出や他の出演者への圧力防止措置も具体性が無く曖昧であることと対比して、社名を変えないという決意だけが、強固なものだという印象を与えてしまいます。当然企画者としては社名の変更を「検討する」とだけは言ってほしかったと思いますが、検討すらしないと言われたときは、代表取締役留任と合わせて、会見の効果がどうなるかを予想せざるを得なかったと思います。ホットな火種を作ってしまったことになります。また、この言いキリが、後に述べますよに、創業者に対する否定評価の話の説得力を空疎なものにしてしまいました。

<会見の技術と結果的なデメリット>

会見システムで、主催者側にとって一番工夫したと思ったシステムが、一人一つの質問に制限したことです。これは、追及はされたけれど、追及の効果は何もなく、結果として潔白という印象を作るということを結果のためには、とても考えられた工夫だったと思います。

一人一回の質問ならば、いくら時間を取って質問をだらだら続けても、核心に迫ることは初めからできません。不規則発言で突っ込めば、秩序を重んじる日本国居住者としては批判の矛先は質問者に向かいかねません。
事実、鋭い質問だなあと思う質問もいくつかあったのですが、そういう質問には答えないで別のことを話し始めて回答が終わり次の質問になっていたのですが、一人質問が一つなので、それ自体を追及することができなかったようです。

例えば社名変更についても、
「社名を変えるつもりはありません。」という答えが来たら
「検討さえしないのですか」という質問をしたり
「あなたさっき鬼畜の所業とか、史上最大の何とかとか言葉を尽くして否定評価したように言っていたけれど、社名を変えるほどの悪行ではないと思っているのですね。」という質問をしたかった人もいたのだと思うのですが、
二の矢三の矢を放つことができなかったため、結果としては話のすり替えであってもその部分を批判もできないばかりか、クローズアップすることもできず、結果として流してしまうことが可能になったのです。

例えば、「本人たちは努力しているからテレビに出ている」ということについても、
「それではジャニーズを辞めたらテレビに出られなくなるのは、やめたらこれまでの努力が遡って無になるということでしょうか」とか
「自社の芸能人以外の芸能人がテレビに出られないのは、努力が足りないということでしょうか。」とか
「視聴者の支持があるからテレビに出ているのではなく、テレビに出続けていて顔なじみになったから支持する視聴者が出てきたのではないか。(単純接触効果)」
というような大人なら誰でも気が付くことを言えなかったのだと思います。

そして中には某テレビ局の質問のように主催者を結果的にアシストするような質問がなされていれば、4時間なんてそれほど負担ではなく、結果として悪意のある質問はすべて退けられたという印象が残るはずでした。

一番気になったのは、ファンを理由にこれまでの企業活動を維持させてほしいということを述べたことです。それではスマップのファンやキンプリのファンをどれだけ会社は大切にしてきたのかというツッコミを当然多数の人が入れたがっていたことでしょう。

こんな片手間に書いていて私が思いつく突込みなんて、誰でも考え付くことなのです。一人一質問形式は、それをテレビ画面やスマホの画面で見ている者からすると、言葉では表さないまでも、消化不良や不満、不信が意識の中に蓄積されて行ったことは想像に難くありません。逆に、なんとなく会社を批判することが正義だという意識が大きくなっていったのだろうと思います。この社会心理をユーチューバーが見逃すわけがなかったということなのだと思います。

つまり、質問を結果的にはぐらかすことや、あからさまにその話はこれ以上言うなという指示がだされることは、本当は正しく質問にこたえることができるのに、質問の意味を理解しないで答えていないだけであっても、本当は回答者が混乱していて自分の意思を正しく伝えていないので制限していたという場合でも、視聴者からすれば、「何か隠しているのではないか」とか、「あの質問が核心をついているから答えてはまずいと判断したのだろう」とか、勘繰られてしまうということがわかりました。本人が職務に忠実にやるべきことをやっているという意識があったとしても、イメージは大変悪いものでした。これは私も覚えがあります。こういう風に見られていたのだなあということは大変勉強になりました。ひな壇に上がっていると案外そこまで気が付かないということがありそうです。

一人一門形式が機能するためには気を付けなければならないポイントだということがよくわかりました。ポイントを外してしまえば、せっかく時間無制限でサンドバッグになるという効果よりも、疑惑が膨らんでいくだけというデメリットもあると強く感じました。

その結果、社名は変更しない、所属タレントはこれまで通りテレビ露出をしていく、役員報酬は辞退しないという現状維持という結果の会社の希望だけが、図らずしも強調されてしまったという印象になり、視聴者はその不満やフラストレーションを強く持ち、このような不満やフラストレーションを持つ者は、そのネガティブな心情を誰かと共有したいという強いニーズが生まるという仕組みがよくわかりました。だから敏感なユーチューバーが早速動画をアップしたわけです。こんなフラストレーションはいつまでも続くわけではありませんから、動画アップはその日のうちにしなくてはなりません。

最後にひな壇の3人についての勝手な反省です。
前社長は、もっと発言を控えた方が良かったです。元々が中途半端な退任で印象が悪いのですから、話しても好感は持たれません。だとすれば「反論をしたくでもできないでじっと耐えている」という構図をせめて作るべきでした。また、タレントと違ってこれまでの露出が少ないのですから、一般視聴者が自然と感情移入されることはあまり期待できません。自を出してよいことは何もないということをもっとレクチャーするべきだったと思います。

いのはらしは、彼一人で会見したら、およそ会見の効果は上がらなかったと思います。前社長と新社長に対する世間の反発をうまく利用する結果となったためにある程度の評価がなされているのだろうと思います。

3人の一番の問題はすべて他人ごとの発言だったということです。これは会社としてはまるっきりの逆効果になっています。いかに「会見(3人)」に好印象を持つ人がいたとしても、「会社の今後」にとってはメリットよりデメリットが大きかったと思います。

会見の狙いが新出発を印象付けようとしたのだと思います。その線に沿って話を運んで、各人の役割を明確に配分していました。

新体制ということを華々しく打ち立てるためには、やはり過去と決別したという結果を印象付ける必要がありました。しかし、この決別を印象付けるためには、過去の否定評価と過ちを繰り返さないという具体的なプランを説明することが説得力があるのですが、過去の否定評価を言葉では行ったけれど、その過去と決別する部分が何ら具体的に見えなかった。自分は関係ない、自分以外の人間が悪く、自分は知りもしなかったということだけが強調された結果、既得権益を温存させたい思惑だけが際立ってしまい、この点をつけば視聴者は自分のフラストレーションを共有できたという満足感を持つだろうということを動画作成者は見逃さなかったということなのでしょう。

会社ですから会社を維持しようとすることは当然のことです。だからと言って既得権益を温存させたいということを語っては逆効果です。会社を維持させるためにどうするかという発想をもって戦略を考えて行動しなければならなかったはずです。会社の経営に努力賞はありません。

真面目な話、問題はテレビやCMスポンサーが日本の良識をどう作り上げていくかということなのだと思います。あの会見でよいと言って現状維持をするというのであれば、あの会見で良かったことになります。それとももっと、例えば音楽番組であれば、音楽の楽しさ、素晴らしさを伝えるような番組制作を行うように変わるのかということなのだと思います。

私はドキュメント的な音楽番組ができるとよいなと希望します。例えばスタジオミュージシャンのような確かな技術を持った人たちに、一時的なユニットを作ってもらう番組を作り、コンセプト設定の打ち合わせやリハーサルなんかもドキュメントタッチで撮影して、それほど大きくない数十人くらいが入るジャズバーを少し大きくしたような会場での演奏を番組で流す。それを会場にいる一人のようにバーボンのロックをオールドファッションドグラスですすりながら聞いているような錯覚が生じるような、そんな居心地の良い番組を見たいと思います。
そのミュージシャンのゆかりの楽曲を演奏しても良いし、スタンダードナンバーを演奏しても良いのではないでしょうか。

音楽を作る過程とできた音楽を両方楽しめることが魅力だと思いますし、この番組を見て音楽家を志したり趣味で音楽を始めてみようと考える人が出てきたらすてきだなと思います。

私はアイドルを否定するつもりはないのです。ライブパフォーマンスに耐えうる実力の備わったアイドルならば、観たいと思います。確かな基礎訓練があり、喜怒哀楽がしっかり表現できるならば見ごたえもあるわけです。ただ、音楽は、ジャズに限らず、その時その時の瞬間的な出来栄えの楽しさ、感動だと思うのです。MVを流すような取り上げ方はTVの仕事ではないでしょうね。感動があれば、低年齢の被写体であろうと、番組を流して時折熱心に観るということはすると思うのです。

テレビは、観る人の人生をいくらでも豊かなものにできる可能性を未だに持っていると思います。それを使わないことは大変もったいないことだと思います。

nice!(0)  コメント(0)