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自死予防の観点からみた子の連れ去り別居がいかに残された夫の自死を誘発する構造 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

弁護士に対してレクチャーする機会があって、原稿を書かないと収拾がつかなくなるなと思い、書いていたらやはり収拾がつかなくなってしまいましたがせっかくだからブログに上げます。当事者が特定されないように事案は多少変えています。

一番の心配は国や自治体の自殺対策の新しい目玉の一つとして女性の自殺防止が掲げられたことです。
女性の支援というのは、これまでの流れからするとDV対策が強化されることになることは火を見るより明らかです。しかし、この効果は単に男性の自殺をこれまで以上に増やすだけだと思います。
自殺対策として男性の自殺を増進するような政策は何としてもやめるべきだと思い、その思いから長文になったということもあります。



二つのケースからひも解く子の連れ去りと自死
1 二つのケース
 1)離婚訴訟を修習した当事者の20年後の相談
   某区役所の法律相談で、支離滅裂な相談を受けた。60歳代男性。現在の仕事の不満なのかと思いきや、自分の苦境を次々と説明し、結局は20年前に自分は離婚されたがその理由が今もわからないというものだった。明らかな抑うつ状態で、話もまとまらない。そんな状態で予約をして当日相談会まで来られたことにむしろ驚く。
   実は、彼の離婚理由を私は知っていた。20年前の裁判修習で彼の離婚訴訟を修習し、和解期日も立ち会った事件だった。妻の言い分は、夫は家族をかえりみないで家庭でもワンマンであり、自分の仕事ばかり優先して、部下をしょっちゅう家に連れてきてその人たちの家事までさせる。等、自分たちは無視され続けたというものだった。
   夫は、それらの家族の協力のおかげで飛び切りの成果を上げて、一緒に喜んでいたため家族も主体的に自分の仕事に協力していると思っていた。和解の席上象徴的な出来事があった。家の家具をほとんど妻が財産分与で運び出すという和解条項案が示されていて、自分の代理人の説得もあり、おおむね合意をしていたはずだった。ところが、和解期日になって、リビングのテーブルだけは持って行かないでくれと夫は懇願した。おそらくそのテーブルを囲んで、彼は仕事の成果を家族に祝われ、一緒に喜んだ思いでさえもテーブルと一緒にもっていかないでくれと思ったのだろうと肩入れしてしまい一人で涙を流していた。
結局その人は、自分が離婚に至った理由についてその後も理解できていなかった。「どうして」というリフレインだけがいつまでも頭で鳴り続けていて、仕事にも身が入らず、かつての成果が上げられなくなり、結局は退職に追い込まれた。拾ってくれる人もいたが、そこでもうまくいかないため、かつての様子を知る者としては、見る影もなく廃人のような状態に見えた。
彼の行動は、彼自身の満足のためではなく、家族のために、家族が喜ぶと思って(誤解して)行ってきたという意識だったのであろう。
 2)子の連れ去り別居の当事者(連れ去られた方)の親睦会
   子を連れて妻が別居した人たちの親睦会を主宰していた。コロナの前まで仙台駅の居酒屋で年に8度くらいは開催していた。宮城県在住の常連者の外、東京都や神奈川在住常連もこのためだけに新幹線で往復していた。二次会を見込んでホテルを取る人たちもいた。南は沖縄から北は青森まで全国から集まってきたと言っても過言ではない。1例会に8人から10人くらいは集まっていた。女性も一人常連がいた。
   毎回新たなメンバーが加わるため、毎回自己紹介をしていた。つまり自分の事件をみんなに開示していた。それだけで一番大事な部分がそれぞれのメンバーに共有されていたのだと思う。だから、みんな支障のない限り参加したし、参加できない時はメールで近況を知らせてきたりしたのだと思う。
   つまり、一番肝心なことを共有していたのだろう。説明することがツラいこと、説明しても自分の周囲では理解されないことを、ここでは口にして説明しなくても参加者全員で共有できるということが、その人の実生活にはない安心感を得られたのだと思う。新幹線代を払ってもホテル代を払っても駆け付けたい集いだった。
   また、ネットの当事者団体と違って、妻、元妻の悪口を言わなくても良い(恨みなどは言うにしても)ということがまたさらに楽だったのだと思う。
   まとめると、当事者は
・ 実生活で関わる他人に理解してもらえない精神的辛さを抱えている
・ とにかく子どもと会えないこと、子どもの成長にかかわれないことが辛く、
・ なぜ妻は子どもを置いて自分から離れて行ったのかわからない
・ できることならば、子どもに定期的に面会できるくらい信頼関係を復活させたい
ということになるのだろう。ポイントは理解されない辛さとその辛さを理解してもらうことで大きな安堵感を抱くということになると思う。
2 当事者の精神的苦痛のポイント
  数々のライフイベントの調査によると、離婚は最高位の精神的打撃があると分析されている。離婚の中でもとくに連れ去り事案は精神的苦痛が大きく、私の知る範囲でも毎年のように自死の報告を受ける。当事者の話をもとにして感情や精神の動きを感じるポイントを挙げてみる。
1)ある日仕事から帰ったら妻と子どもが家におらず、荷物もなくなっていたことの衝撃。当初は、何らかの事件に巻き込まれたと思い、行方を探しまくる。心配、不安、焦りの感情が高まっている。
2)警察に連絡をすると、「居場所は言えないが元気にしている。こちらで保護している」等という返事がされるようだ。このあたりから、「自分はこれまでの人生をまっとうに生きていて、警察は自分の味方のはずだと思っていたが、どうやら警察は自分に対して好意を持っていない」ことに気が付き、自分が体制側の人間であるという自信が崩壊する。自分のこれまでの立場の安心感が通用しない状態にあることを知り、著しい戸惑い、恐怖を伴う心細さを感じる。
3)何をしても妻と連絡が付かないその他の事情から、どうやら自分から子どもを連れて妻が逃げたということを察する。先ず現実を受け入れられない。(朝目が覚めたら、妻が子どもを連れて出て行ったことが悪い夢で、元の同居生活をしていてほしいと何度も思う。自分が夫として、父親として、人間として否定の烙印を押されたような気持になる。仲間だと思っていた人間から、あなたは仲間ではないと突き付けられたことになり、自分の安住していた地盤が崩れるような頼りなさを感じる。
4)警察や行政が妻の自分からの別離に協力しているようで、自分としてはどうやっても子どもにさえ会えない、妻と話し合いもできない、暴力的、一方的に自分が不幸に陥れられて解決方法が無いという絶望感を抱く。
5)離婚調停などで離婚理由を見ても、多くのケースではほとんど何も書いていない。「精神的虐待をする」とか「暴力がある」とか書かれるが、夫はそれに心当たりがない。自分に理由がなく妻の何らかの都合で離婚を望んでいるのではないかと懐疑的になる。
6)離婚調停で提出された資料から、自分はDV加害者として区役所や警察から扱われていることを知り愕然とする。裁判所ですら、自分に対して攻撃的な言動をしたり、恐れているような態度をしているので、自分がこれまで軽蔑していた暴力団か何かのように扱われていると感じる。
7)裁判でも、乳幼児期に一緒にいた、あるいは別居後一緒にいるということで妻側が親権を取ってしまう。それでは仕事を一生懸命やっていたために親権が失われる、理不尽な別居が裁判所によって肯定されると感じ、信じられるものが何もないと感じる。
8)こちらに離婚理由はなく、結果として判決でも慰謝料も認められないのに、妻の離婚の意思が固く別居の事実を理由に離婚が認められる。さらに信じられるものが何もないと感じる。
  こちらの言い分を認めず、論理性もなく慰謝料が認められればこの失望、絶望感はさらに強くなる。
9)これまで一緒に生活していて、子どもとも仲良かったのに、子どもと会うことができない。会えたとしても、月1度数時間しか会えない。あいたい。誰も妻を説得してくれずに、自分に我慢を強いて、手紙の交流で我慢しろとまで言われる。改めて父親としても否定されたと感じる。理不尽な状態が社会から放置されているという強い孤独を感じる。また、それらが回復する方法が見つからないということで絶望を感じる。
10)子どもと会えないことはそれ自体がストレスであり、焦燥感を抱くポイントとなる。当事者外の弁護士や裁判所は、なかなかこの焦燥感に寄り添うことをしない。
3 絶望を抱かせる人たち 警察、行政とNPO、弁護士、裁判所
 1)警察
   生活安全課でいわゆるDV相談を受け付けている。一方当事者の妻の相談だけを受けて、あたかもその事実があったかのような認定をして支援措置をとる。支援措置は原則として身体的暴力が無ければできないことになっているが、その要件について必ずしも現場の警察官は熟知していないようだ。まるで支援措置を何件するというノルマのようなものがあるように感じられる。
支援措置の基本は身を隠すということである。シェルターに身を隠すことが通常である。但し、借り上げアパートなど、探せないところを用意していることが多い。妻に別居を執拗に勧める。別居を嫌がって抵抗した妻を2時間説得して別居させた例もある。そこでは統合失調症の妻の話だけで、「夫のDVは治らない。このままだと殺されてしまう、だから早く逃げろ。」と説得していた。後に妻が保護命令を申立、裁判所によって夫には暴力が無く妻の幻想であるという理由で申し立てが棄却された事案である。
   妻が荷物を取りに来るときに警察官2名が同行して、夫の目の前で部屋に上がり込んで荷物を取る妻をガードしていた事例がある。夫はうつ病発症。
   妻の行方を捜しに妻の実家に行こうとしたら、家の付近で警察官に連行されストーカー警告を受ける夫もいた。やはりうつ病発症。
妻の実家近くまで行ったら大勢の警察官に取り囲まれ警察署の取調室に連れていかれ、「今後暴力を振るわない」という誓約書を書け。書かないと返さないと言われたケースもある。この夫は機転が利き、今後『も』暴力を振るわないと誓約書を書いたようだ。断り書きのない誓約書は当然離婚訴訟でつかわれることだろう。中には、離婚後10年を経て、転居の手紙を書き、「お近くにおいでの際はお立ち寄りください」という文面によって、「義務なきことを強要した」と認定した警察署もある。
2)行政、NPO等
  DV相談の連絡票は、相談をしたものが「被害者」の欄に記載され、その相手を「加害者」の欄に記載することになっている。被害者加害者の意味は相談をした者その相手方であると総務省は各自治体に注意喚起をしている。しかし、自治体担当者は、実際には真正の加害者として夫を扱う。妻が連れ去ったのに夫の元に帰ってきた子どもの保険証を妻が持って行っているため区役所に相談に行ったところ、「あなたとは話す必要が無い。帰れ。」という対応を取られた。この担当者は、単に被害者の欄に妻があり、加害者の欄に夫の名が記載されていたという事実以上の具体的な事実を何ら把握していない。支援措置が取られたというだけで、その相手を虐待者のように扱って、正義感をぶつけ夫に精神的な打撃を与えることをいとわない。
  妻の話が疑わしくても、信じるようにという研修がなされている。「DV被害者は被害者であるから精神的に動揺しており整序立てて話せない。逆に夫は被害者でないから冷静に論理的に話すことができる。だから、夫の話を聞かないし、妻の話がつじつまが合わないところが多々あっても、疑わない。疑うことはDV被害者に寄り添っていない。」という教育である。相談担当者はまじめで正義感が強い人たちが多いため、我こそは被害者に寄り添う人間であるということを競っているようでさえある。相談機関から「被害者」、「加害者」の氏名が記載された相談票が警察に渡されて、逃亡等の支援措置が行われる。
  初めからDV相談というタイトルで相談を受けるということもあり、DVがあるものとして待ち構えている。本人からDVの相談が無くても、「DVに気づいていない哀れな人間が相談に来ている」という感覚である。何か妻の不安を聴くと「それは夫のDVだ。あなたは悪くない。」というキメ台詞がはかれる。「確証バイアス」の教科書みたいな認定である。例えば月収18万円の夫で、専業主婦の妻がいて、生活費は夫の口座から引き落とし、食料品生活雑貨は夫がお金を出していて、妻に月4万円を渡している場合でも、経済的DVという認定があった。
  夫は反論する機会もなく、妻子と会うことも連絡を取ることもできず、親権を侵害されている。これらの支援措置は、裁判所が関与しないで断行される。
  シェルターでは保護命令の申立用紙が渡されるほか、法テラスを使って弁護士を選任して離婚調停を申し立てることを勧められる。保護されているという意識があるため、それを断ることはなかなか難しい。
3)弁護士
  相手方弁護士は、既に既成事実となったDV被害者の代理人として加害者に通知を出す。具体的事実は何も書かずにDV、精神的虐待を理由に離婚調停を申し立てるといって、当然の権利だから婚姻費用を払えと命令口調と夫が受け取る文面を書く。極めて攻撃的な文章が多い。これは、DVという言葉に自分自身が負けているためである。DVという言葉だけしかないと、最悪のDVを想定し、夫は人格に障害があるだれかれ構わず粗暴なふるまいをする人間だと想定してしまうようだ。だから夫の粗暴な態度から自分を守ろうとして攻撃的態度をとって防御をしているということが真実であると思われる。
  弁護士の本能として依頼を受けた以上は離婚が確実に実現し、慰謝料もできるだけ高額になるように主張立証活動をしようとするようだ。針小棒大で、理屈に合わない主張をすることがみられる。逆にDVだ精神的虐待だという言葉は出すものの、具体的な夫の行為が記載されていない書面も多い。妻から事情聴取をしても、妻が離婚したい理由を良く把握、理解していないからだと思われる。あとからどんどん話が変わる、つまり虐待やDVのエピソードが増えていく事例も少なくない。具体的な事実を主張しなくても別居の事実と離婚の意思の方さで離婚を認めてきた裁判所の傾向が大きく寄与している。
  夫は離婚理由に納得できるわけはなく、敵意だけを理解して、反撃に出ることばかりを考えるようになる。中には弁護士という職業は立派な人であり、公平かつ論理的に事案を見て適切な対処をする人たちだと考えている当事者がいて、素朴な疑問をぶつけてくる。説明に苦慮することが多い。
4)まとめ
  一般市民は、警察、行政、NPO、裁判所、弁護士という職業は、公的な立場に立ち、事案を正しく分析し、公平に市民に接するものと信じている。それらの立場の人間が、自分の言い分を聞かないで、自分に対して否定評価をすることに、耐えられない恐怖を感じるようだ。心当たりがないにもかかわらず、自分が否定すべき行為をしたという公的裁きを受けているような、不安と焦燥感と絶望感を受けている。
4 子どもと会えないことによる心理的状態
  当事者が一様に声を上げることは子どもと生活できない辛さである。何しろ連れ去り別居の前までは、我が子を大切にして、我が子の喜ぶことを一生懸命考えて行動していた人たちである。妻が連れ去り別居をする父親の特徴点は、子煩悩であり子どもとのコミュニケーションを上手にとっている場合が多い。連れ去り別居の理由は、妻が子どもをめぐって夫に嫉妬し、家庭の中で自分だけが孤立するのではないかという不安が原因なのではないかと思うほどだ。
  子どもの写真、子どもと旅行に行った写真、近所の公園で遊んだ写真等、父親のスマートフォンは子どもと良好な関係にあったことの証拠で満ち溢れている。
  子どもと会えないことが、父親の精神的打撃を強めることは間違いない。その理由について述べる間でもないと思われているが、実は我々が意識していない現代社会の人間関係の状態という事情が強めているようだ。
  人間は群れに所属していたいという本能を持っている。この本能があったため、言葉のない時代に群れを形成して、外敵や飢えから身を守って人類を生きながらえることができた。数百年前には、このような本能を持っていない個体もいたかもしれないが、群れに入らないために肉食獣に襲われたり、エサを取りはぐれて死滅していったと思われる。
  群れに所属したいという本能は、一人でいることに不安や焦りを感じること、群れから追放されそうになったらやはり不安や焦りを感じること、群れに貢献できていると思うと安心をすること、群れに迷惑をかけると不安や焦りを感じるなど、感情が起きることで、群れを維持していく方向で作用していたものと思われる。ストックホルム症候群で知られる現象として、自分を人質にしている犯人にさえ仲間意識を感じてしまうのは、この群れに所属したいという本能、基盤的な要求があるからだと言われている。
  200万年くらい前であれば、この本能は人間にメリットばかりを与えていただろう。人間は数十名から200名弱の群れを形成して、およそ一心同体として配慮をしながら暮らしていたと考えられている。仲間は仲間を見捨てなかったし、仲間が苦しむことは自分が苦しむことと同じような感覚になってみんなで解決しようと考えたのだと思われる。仲間の中に帰れば、みんな無条件に安心したし、充たされた気持ちになっていた。
  ところが現代社会は違う。街ですれ違う人は見ず知らずの人で、自分が困っていても助けてくれる人はいないか少数の奇特な人であり、見て見ぬふりをされる場合が多い。職場に行っても、常に同僚と比較され、偶然の要素までも自分の査定評価の対象となってしまう。常に緊張して全力を出すことが当たり前で、それができないと群れから容赦なく追放されるか、いづらくなって自らフェイドアウトするしかない。一心同体とか仲間を見捨てない等はもちろん、一人一人に対して細やかな配慮がなされることは望むべくもない。
  現代人は、他者とかかわりながらも群れの中にいるという安心感を持てない状態になっているのではないだろうか。昭和の時代は、家庭をかえりみないで働いていても例えば職場において仲間の中にいるという安心感を抱くこともあったのかもしれない。現代では見られない仲間づくりということを、先輩から引き継いだ方法で習慣的に行っていたように思える。現代社会は職場で、ことさらに仲間づくりというものがやられているとは思えない。人間としてのつながりではなく、会社全体で仕事に関して切磋琢磨するという労務管理が行われていればまだ良い方ではないだろうか。
  解雇の不安、賃金カットの不安、低評価の不安と、職場という人間関係は安らぎが生まれる人間関係ではない。あからさまに取替可能な人間だとして扱われているのである。
  これに対して家族はどうだろうか。
  現代社会は核家族である。舅姑が機能していれば、夫ないし妻の行動提起や行動制限が期待できた。嫁姑問題ばかりがクローズアップされるが、本来は家族同士がいたわりあう方法を慣習の形で伝えられていたこともある。性格の一致している夫婦などいない。意見がなんとなく一致しない場合に、つい我が出てくることがある。典型的な問題は子育ての方法である。無意識に主導権争いのような対立が生じてしまい、それなりの緊張感が生まれる。
  それに対して、子どもとの関係は無条件で仲間である。子どもは手をかければ喜んでくれるし、なついてくれる。子どもからすると父親は絶対的な存在である。子どもが平穏に成長していくことに父親として貢献できることは多い。無条件に、群れに所属する要求を実感できるのは子どもとの関係である。安らぎ、充実感、自己効用感を抱くことは子どもとの関係が一番である。無自覚のまま、子どもが生きようとする基盤を支えてくれていることが多い。子どもとの関係を断ち切られることは、人間の所属の要求の最も充たされる人間関係を絶たれてしまうということである。人間の根源的な要求を充たす代わりの人間関係は存在しない。
5 子を連れての別居をされた者の心理状態
  人間には根源的な要求として所属の要求があるとの説を述べたのはバウマイスターの「The Need To Belong」という論文である。自殺予防の研究ではよく引用をされている論文である。そしてその中でよく引用されている部分が「この所属の要求を充たされない場合、人間は心身に不具合が生じる」と指摘している部分である。
  現実の子連れ別居を経験した当事者は、多くがうつ状態になる。自分のことなのに自分ではどうしようもないことに絶望感を抱くようだ。別離の理由がわからない場合は、自分の彼女に対する行為を振り返って、「あれが悪かったのか、これも悪かったのか。」と自分の否定するべき行為を際限なく自分に問いかけてしまう。やがて自分で自分自身を否定しだしていく。はたで見ていると極めて危険な状態に思える。
  そして、子どもに会うチャンスをどんなに可能性が低くても、つい期待してしまう。子どもに会うということは自分を取り戻すことでもあるようだ。しかし、それらのチャンスだと思う方法はことごとくダメになる。現実に妻が思い直して、元に戻るという事例が最近生まれて生きているが、ごく短期に変わることは無い。早くても数か月はかかる。2,3年かけて、子どもを含めた交際期間のような準備期間を経て復縁という例もあった。これらの成功例は、妻の子連れ別居に対しての夫側の言いたいことの一切を封印して、妻にこちらに対する安心感を持ってもらうように様々な具体的行動をとることによって可能となる。
  しかし、このような結果に向けた道筋が見えない場合は、つい、我が子という自分の人間としての根源的な要求を充たす存在を奪った相手という意識から敵対的な姿勢を示したり、制裁感情をあらわにしてしまい、自らが再生のチャンスをつぶしていることがほとんどだ。妻は何らかの理由で、本当に夫を怖がっていたり嫌悪したりしている。そのような敵対的行動をとられれば、「ほらやっぱり」という態度をとることは必然である。案外別居後の夫の対応が真実の離婚理由になることもある。家族再生の公式を知らない夫は、素朴な正義感に任せて、正義の実現を信じて正解と真逆なことを行う。その皮肉を知らないため、絶望する機会だけが増えていくということが実情である。
6 解決の方向
  一番の問題は、警察、役所、NPOなどが、あるいはそこに弁護士も入るかもしれないが、夫婦のトラブルの解決方法が離婚しかないことが最大の問題である。夫婦にはトラブルがつきものである。繰り返すが性格が一致する夫婦なんていない。どちらかが甘酸っぱい我慢をしているのである。時が過ぎればその我慢が屈辱に感じてしまう時期がやってくる。些細なことも気になって仕方が無くなってくる。これは当たり前のことである。
  また、その時機にどのような態度を相手にすればよいのか、そのノウハウが無い。嫁姑のように常時観察して小うるさく注意する人間も皆無である。また、最近の教育では、意識的な仲間づくりをするノウハウを覚える機会が無い。このため当たり前に生じる夫婦の衝突が致命的な問題になってしまうということが実感である。
  先ず社会が理性的に行うべきことは、現代社会において対等平等のパートナーの作り方のノウハウを普及啓発することが必要だと私は感じる。一番大切なことは、最も根源的な群れである夫婦が相互に安心感を与えてお互いが人間としての根源的要求である所属の要求を充たすことの必要性を理解することである。
  次に相談機関の方向性の第1選択肢を離婚ではなく、家族再生を原則とするべきである。DVや精神的虐待を理由とする離婚要求で、実際にDVや精神的虐待が認定されたケースは少ない。子の健全な成長の観点も視野に入れて、夫婦が円満に過ごすためのノウハウを伝授し、妻の相談であれば、夫に意見を述べる双方向の公平な回答をするべきであると考える。妻が現状に不満を抱くと必ず「それは夫のDVだ。あなたは悪くない。」という回答がなされるように感じる。それはどんな相談でも、DV相談として取り扱うという入り口から偏っているのではないかという懸念が、実務的経験からは払しょくしえない。
  それから妻が別居する場合でも、子どもとの交流を確保する場が必要だ。厳重な警戒でも何でも、とにかく面と向かって会える場を行政の責任で確保するべきである。
  支援措置は、それ以来子どもと一度も面会できないままになってしまう可能性のある親権侵害を断行する手続きである。裁判所の許可を得ないで警察の片側からの事情聴取で行うことは、世界標準で考えれば公的機関の人権侵害だと考える。日本では人権意識の高い政治家が少ないことが如実に反映されている。このような人権侵害となる支援措置は廃止するべきだ。あるいは裁判所の関与があることが最低条件になるだろう。
  離婚調停を申し立てる場合、その理由をできるだけ詳しく主張するべきだと思う。これは相手方の精神的負担を少し軽減するという効果もあるが、それによって離婚を受け入れ、迅速に事後トラブルなく離婚が成立する可能性も高まるという申立人の利益でもある。
  面会交流については、裁判所は積極的に条件整備をするべきだと思う。面会交流がこの利益になるということは、裁判所においては著名な事実である。ところが調停委員は、申立人と相手方の公平を理由に積極的に面会交流を働きかけないことが少なくない。公平よりも子の福祉を家庭裁判所は優先するべきであることは明白である。あとは、面会の方法など双方が安心できて、スムーズに面会が実現することにこそ裁判所の役割であると思う。
  夫側の代理人は、先ず、子連れ別居の理由について科学的に把握して当事者と情報を共有するべきだ。当然、医学、心理学などの基礎的な知識は不可欠である。
  夫側が再生を目指すのであれば、再生のノウハウを習得して臨機応変にアドバイスをして手続き活動を推進していくことが必要だ。無駄に敵対するような活動は、再生にとっては逆効果にしかならないことをきちんと提起しなくてはならない。
  とにかく、他人の家庭事情に口を出す場合は、双方の言い分をきちんと聴取することが鉄則である。また、事実上子どもに会えないという人間としての根本的な生きる利益を奪うような行為は裁判手続きによってこそ認められるべきだと思う。
  本件問題が広く議論されることを切に願う次第である。

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