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良かれと思って虐待してしまわないために 虐待の本質としつけとの違い かわいそうだからやめるができない事情 2年2月11日のハートネットTVを受けて [進化心理学、生理学、対人関係学]


虐待について考えるテレビ番組がありました。
いくつか大変興味深い話も聞くことができました。

理化学研究所の研修者(医師)の分析は圧巻でしたし、
虐待親と何度かにわたって面談をしたという
カウンセラーのお話しは興味を引きました。

その内容は後にお話しします。

この番組を見て改めて思ったことは
虐待は特殊な人間が起こすものではないということです。
もちろん、子どもが死ぬくらいひどい虐待ということはレアケースでしょうが、
心が圧迫されて、苦しい思いをして
後の人間関係にマイナスの影響が残る
という程度の虐待は、
私たちも行ってしまっているかもしれないと思うのです。

そうならないために
他人の過ちから学ぶ必要があると思いました。


先ず、虐待とは何かというところから話を始めないと
まとまりのない話に終始すると思いますので、
この点からお話しします。

以前、このブログで、虐待としつけの違いは
ただ結果を押し付ける場合が虐待で
選択肢を提示して誘導するのがしつけだと言いました。

しかし、もう少し掘り下げるべきだと思うようになりました。
つまり虐待がなぜ否定されるべきなのかということから考えるべきだと思うのです。
虐待は、虐待を受けた人間の心が傷つくということに問題があり、
心が傷ついた結果様々な深刻な状態となり、
何よりも幸せになりにくいというところが問題だということになるでしょう。

ではなぜ虐待を受けると心が傷つくのか。

結論だけを言うと、
虐待被害の本質は、絶対的孤立を感じさせるところにあると思います

その人間関係(例えば家族)の中で安心して過ごしたいのだけど、
安心して存在したい人間関係から
自分が攻撃を受けて、仲間扱いされない。
自分には安心できる仲間がいない
と感じることが人間にとって強烈なダメージを受ける事情のようです。

迎え入れられて守られることを期待しているのに
逆に理不尽な暴力を受けるということは、
言葉が不要なほど、
仲間扱いされておらず
逆に敵視されているという感覚を持ってしまいます。

だから虐待の一番は暴力ですが、
暴力がなくても虐待は成立します。

無視、放置というネグレクトは、
その意味も分からない赤ん坊であっても
人間の本能によって、
今いる場所が安心できる場所ではない
ということを感じ取ってしまいます。

それ以外にも無理な要求をされること
容赦のない否定をされること等
虐待の内容に入るべきなのでしょう。

叱るとき叩くのは是か非かというような
形式的な二分法で議論することは間違っています。
叩かなくても
家族の一員ではないという態度をとれば虐待ですし、
叩いたとしても、感情をコントロールして叩き、
懲戒した後に愛情の回復をする行為をすること
これがあれば、必ずしも虐待にはならないと思います。

但し、年齢にふさわしくない過大な要求をして、
結果責任を取らせるような理不尽な叩き方はダメですし、
年齢にふさわしくない叩き方をしてはダメなことは当然のことです。

また、叩かないで教え諭すことが上策であることは間違いないと思っています。

虐待としつけの違いは
それをされてもなお子どもがその人間関係にいることに
安心し続けていられるか否かという結果の問題なのだと思うのです。

つまり虐待とは、
それによって、行為を受けた側が
行為者との関係に安心できなくなるような行為
だとするべきだと思います。
あくまでも行為を受けた側の心情を基準に考えるべきです。

善悪を厳しく教えても、
安心できる関係、愛情を感じる状態を維持することが大切で、
そのための方法として、
選択肢を提示して誘導する、誘導にのったら褒める
というのが有効だと思います。

虐待親のカウンセラーによると
最初は、教え諭していたようです。
ところが、だんだんと暴力的になり
100か所以上の虐待の跡が
少女の遺体につけられていたとのことでした。

これは異常です。

カアッとなって直情的に暴力をしたのではないと思います。
もしそういうレノア・ウォーカーの虐待サイクル的な暴行ならば、
自分の直情行動を恥じる時期が来ることになりますが、
それがなく、暴行を続けたということだからです。

DVと関連付けた暴行だと安直に結び付けてはならない
病的な行動だと直視しなければならないでしょう。

虐待親のカウンセラーの話が興味深いのはここです。

虐待親が少女とその母親と出会った時、
彼は、失意の中にいたというのです。
8年間務めた会社に行くことができなくなり退職したというのです。
会社に行こうとすると吐き気がするなどして
どうしても会社に行けなくなってしまったというのです。

これは典型的なパワハラ被害を受けた労働者の症状です。
実際にいびりや排除のようなパワハラがあったのかはともかく、
自分が会社にとって役立たずの無用な人間だと
執拗に自分を否定され続けた人間がかかる症状です。

私はこれは重要なポイントだと思います。

このように自分の価値が地に落ちた状態だと感じている時、
少女と母親と出会い、受け容れてもらったということならば、
少女と母親の役に立って、
自分は役立たずの人間ではないことを証明したかったという
推測もありうるのではないかと思うのです。

おそらく、少女の母親もやればできるけどやらなかった
だから自分は少女をきたえて立派な大人に育てようと思うことは
あながち不自然ではないと思います。

実際に彼は、小学校入学直前の少女に対して
読み書き、計算を教えて
かなりの程度まで学習を進めました。

これわかるんです。
この時期の子どもは、やることと能力の相性が良ければ
かなり習得していきます。

小学受験の勉強はもっと高度な勉強をさせると思いますし、
バイオリンやピアノなんかも、かなり高度なレベルまで上達します。
バレエや水泳、野球、サッカーなどスポーツも
やるだけ伸びるっていう時期があるのです。

コンクールみたいなところで入賞してしまうと
親も勘違いして、子どもに無理をさせるということは
結構よくあることです。

でも、ある程度以上は
本当の才能と、本当の指導者がいないと進みません。
どこかで壁に当たって伸びなくなることが通常です。

最初はそういうものだと思って頑張っていた子どもも、
そうなるともう苦痛で苦痛でやめたくなるわけです。

親も、「ああやっぱり自分の子どもだから無理なんだな。」と
そんな子どもをかわいそうに思って習い事をやめたりするわけです。
かわいそうだからやめるということができるわけです。

ところが彼はそれができなかった。
かわいそうだと思わなかったわけで、
これがどうしてかというところが、
私たちが虐待やプチ虐待をしないために学ぶべきところです。

私は、カウンセラーの話したエピソードから
二つの理由が考えられると思います。

一つは、子どもが思う通りに学習が身につかないので、
やはり自分が役に立たない人間だという思いを募らせ
それを認めたくないので、
益々頑張らせたし、
できないことで少女に怒りを抱いたということです。

自分のやり方を否定されたような感覚になって
少女や母親に辛く当たるという逆切れが一つです。

もう一つは、自分が懸命に指導をしているのに
学習が身につかない少女と
仕事をしていたときに、無能であると評価され続けていた
哀れな自分が重なったのだと思います。

これは、犯罪は自分がされたように他人に加害をする
ということが弁護士の中では言われることがあります。
先輩からタバコの火を押し付けられた人は
後輩にタバコの火を押し付けていじめるとかですね。
そのメカニズムはよくわかりません。

もしかすると、自分が同じ加害をすることで
被害を受けたときのみじめな自分を否定しないのかもしれません。
過去にタイムスリップして、自分が否定されていたという事実を
加害をすることで消して心の平衡を保とうとしたのかもしれません。

かなり根が深い心の闇を持っていたのだと思います。

いずれにしても虐待親にとって
少女は、既に仲間ではなかったわけです。
既に、否定するべき対象だということで
かわいそうだと思う心理が働かず、
執拗に否定し続け、
言葉が出なくなるたびに
暴行を加えていったのでしょう。

彼の言い訳がしつけ、教育だということは
理解ができます。
もちろん成り立たない言い訳ですが、
そういう狂信的な言い訳をしながら
自分をも洗脳しながら客観的には虐待行為を続けていたのでしょう。

誰かが止めなければならなかったということになります。

子どもが一人の大人によって育てられてしまうという環境が
一番の問題だったのだと思います。

一人の大人が、子どもに対して無理難題を行っている姿を見て
「子どもがかわいそうだ」と言い張る大人が必要だったと思います。

彼が実の親ではないということは
虐待の決定的な原因ではないと思います。
継父が子どもと良好な関係を保っていることが
圧倒的多数だからです。

ただ、本件は、少女の母親の方がいくつかの理由から
相手に遠慮をしてしまった事情がありそうです。
彼は、少女の母親には暴力を振るわなかったようです。
また、今述べたとおり、典型的な直情型DVの事案ではないようです。
DVが怖いために支配を受けたというのは
あまりにも型通りの議論です。

暴力がなくても虐待があるということを
見落としてしまう危険があるずさんな議論です。

一人の大人だけが子どもを育てる環境というのは
現代日本では、離婚をしてしまえば
そうなる可能性が多くなってしまいます。

離婚後の共同養育が私は一番有効だと思いますが、
そうでなくとも、何らかの複数の大人が関与できる
そういう環境を社会が作っていく必要があると思います。
十分な予算を投じるべきだと思います。



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