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弁護士は心理的解剖をする職業 情状弁護(有罪を認めた弁護)こそが弁護士のすべての業務の基本となるべきこと [刑事事件]



正式には心理的剖検(ぼうけん)と言いまして、
例えば自死した方が、どうして自死に至ったかという
その原因を分析するために
多方面からその人の行動歴、病歴を調査して分析することがあります。

自死の危険のある出来事を予め明らかにしておけば
自死を予防できるという考えで行う場合もあれば
遺族のニーズで行う場合もあります。

中には、親戚から、例えば妻が原因で自死をした
というような心ない中傷がある場合に
そうではないことを証明してもらうために
心理的剖検を行う場合もありました。

心理的剖検を行うのは
日本の場合は主として精神科医です。

自死というと精神科疾患というイメージが
根強いからかもしれません。
あるいは、医学には「公衆衛生」という学問分野があり、
予防を中心とした仕事があるということも
大きな理由にあるのかもしれません。

但し、これまで公的に行われてきた心理的剖検は
それ程ち密に行われているわけではなく、
遺族からの電話やアンケート調査を集約したものがほとんどです。

むしろ、自死した個人について
様々な角度から分析を行うことを仕事にしているのは
弁護士なのです。
主として過労自死の労災手続きや裁判手続きで
心理的剖検を行っています。

もっとも弁護士だけでは説得力がないと思えば
医師や心理士に助けてもらうようにしています。

ただ、過労自死を多く扱っている弁護士はそれほど多くないのですが、
自死という制限を外せば
刑事弁護の中で心理的剖検が行われています。
というか、
本当は行わなければならないのです。

刑事弁護というと華やかなのは無罪を争う事件の弁護です。

もちろん、これは簡単な弁護ではなく、
あらゆる科学を総動員して行う大変なものです。
大切な活動であることは間違いありません。

司法試験に合格した後に最高裁の研修があるのですが、
その時も無罪弁護を中心として刑事弁護の研修をしています。

それは良いとしても、
刑事事件の9割以上は、
初めから罪を犯したことを争わない事件です。
それでも日本の刑法の刑罰は幅があって、
例えば窃盗の場合は、懲役10年が一番重いのですが、
1年未満の懲役(刑務所での強制労働)の場合も多く
懲役ではなく罰金刑になることもあります。
この刑の幅を争うのが有罪を認めた場合の弁護活動です。

これを「量刑を争う」と言います。

確かに、表面的には量刑を争うのですが、
弁護活動の目的はそれだけではないと思いますが、
今日は割愛します。

その量刑を争う場合には
その事件がどのような事件なのかということを明らかにして
被告人に有利な量刑事情を主張立証していくということが
弁護人の活動で、これを「情状弁護」と言います。

大雑把に言えばどうして罪を犯したかということです。

一般の方は、その人が悪い人だから罪を犯したのだろうと考えがちですが、
それでは、情状弁護はそこで終わってしまいます。

亡くなられた野村克也さんは、
「負けに不思議の負けなし」という言葉を遺しています。
試合に負けるのにはそれなりの理由が必ずある
だからその理由を除去すれば勝てるということになるわけです。

犯罪も同じで、
やってはいけないことだとわかっていながらやってしまうには
(規範を破るという言い方をします)
必ず、ルールに従おうという気持を弱まらせる理由がある
と私は確信しています。

犯罪をするように生まれてくる人間など一人もいない
ということから出発することが情状弁護の基本です。
そういう視点で、被告人とどうしてルールを破っても平気になったのか
一緒に考えていくことから始まるわけです。

生い立ち、両親との葛藤、その後の学校での出来事、
職場での出来事、恋人との関係等の出来事や
病気の影響など
様々なことが規範を破る理由になっていることに気が付きます。
できるだけさかのぼることで、
法律を守らないようになったリアルがようやく見えてくるわけです。

そこで、その事情が、被告人を責められない事情
多くは、国などがきちんと政策を実行していないために起きた事情や
学校や職場が不合理な扱いをして、人間として尊重されていない
そういう事情がある場合。
全ての責任を被告人だけに負わせてよいのか
という問題が出てくるので、それを主張するわけです。

罪を犯した人は、解決の方法が見つからないことが多いようです。
本当はこう言うことを意識すればもっと平穏に暮らすことができた
今度社会復帰したらこういう生活をすれば
今のような殺伐とした人生を過ごさなくて済む
あるいは、自分なりに幸せになれる
という道筋をつけるまでが刑事弁護でいう反省です。

その人が二度と犯罪をしないとなれば
被害者を産まなくて済むわけです。

良い弁護人は、このような心理的剖検をするのですが、
その前提として、根っからの悪人はいないというか
被告人は、もしかしたら自分だったかもしれない
ちょっとしたボタンの掛け違いが
接見室のこちらとあちらになってしまったのかもしれない
という視点を持っています。

そうして、その人が罪を犯した「原因」を一緒に真剣に考えるわけです。
そのツールとして、心理学だったり、行動学だったり、
最近では生物学が役に立つ場合が多いのです。
もちろん社会学や政策学も使わなければなりません。
つまり対人関係学の基本はこの情状弁護にあります。

心理的にも脳活動の面においても
本当はかなりハードな仕事であるし、
刑事弁護をするまでの人間研究にも時間とお金をかけているわけです。
いやいたわけですと過去形に述べた方が正確なのかもしれません。

現在、刑事弁護の圧倒的多数は国選弁護事件になってしまっています。
被告人やその家族は弁護士の費用の負担をしないですみますので、
弁護士を頼みやすいということはあるでしょう。

ところが国選弁護事件の報酬はとても低いものです。
逮捕からかかわって判決まで弁護しても
10万円に足りない場合もあるようです。

それでも弁護士が乱造されたためか仕事がない弁護士が多いため
そのような仕事でも引き受ける人に不足がないようです。
1か月以上かかる刑事弁護で
その人の生い立ちから調査して、
場合によっては遠方の親せきから事情聴取して
10万円にもならないなら赤字になってしまいます。

また、司法研修所では情状弁護を習いません。

情状弁護は弁護士がついて行われている
しかし、それは本当に弁護の名に値するものなのか
国民はユーザーとして知る必要があるように思われます。

なぜこれを書いているかというと
弁護士が、人の心理や行動の原因を分析するということはない
と思っている若手弁護士が多いことに気が付いたからです。
そういう弁護士たちは、一体情状弁護で何をやっているのか
とても不安になったからです。



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職場は放っておくとどんどん殺伐になるという法則。「昔はもっと厳しかったのに」という錯覚が起きる理由 [労務管理・労働環境]




働き方改革で、労務管理の仕事の重要性がましてきました。
実務的には同一労働同一賃金の対応で大変な思いをされていると思います。
パワハラ対策ということも決め手が見つからず
「パワハラするな」と命令することが実際の対策になってしまっています。

なぜ放っておくと、部下に厳しく当たってしまうのだろうと
頭を抱えている担当者の方も多いと思います。
まさか自分の会社でパワハラが起きてしまうなんて思いもよらない
という人事担当者が多いと思います。

そこでパワハラをしているという噂のベテラン社員に聞いてみるわけです。
「最近は、あんまり厳しすぎる指導は、問題になるよ。」
するとベテラン社員は答えるでしょう。
「なに、私の若い時は、もっと厳しく言われましたけれど、
誰もやめたりしませんでしたよ。
これでだめならものになりませんので、大丈夫です。」

これには理由があります。

1 聞き手が効く状況の違い

先ず、ヒトによってダメージの受け方が違う
という批判はもっともオーソドックスの批判です。

これは、育ってきた環境の違い、
もともと持っている感受性の違いももちろんですが、
フォロー体制の整備の違いがあります。

ベテラン社員の新入社員当時は年功序列賃金の体系ですから
上司ににらまれたところで
出世はできなかったかもしれませんが
定年まで会社にいることはできました。
それなりに賃金は上がりました。

上司から叱責された若手従業員に対して
上司からすれば余計なフォローをしていた人たちがいたわけです。

飲みに連れて行って慰めてくれたり、
こっそり仕事を手伝ってくれたりしたわけです。
上司からの叱責のダメージに対しては
同僚からフォローされることが一番のいやしになるようです。

ところが、最近は、上司からにらまれると
出世ができないどころか、
リストラとか派遣切りとか更新拒否とかいろいろあって
そのことをおそれるあまり
事後的なフォローすらしなくなるという風潮があるようです。
叱責を受けた若手従業員は
会社の中で孤立することが多くなったようです。

過労自死は、こういう現場
つまり、上司の過剰な叱責があっても
誰もフォローする者がいない職場で多く起きています。

ベテラン社員が上司から同じことを言われて耐えられたのは
こういうダメージ軽減策があったからかもしれませんので、
単純に同じことを言ってしまうと
ダメージが軽減されない現代の職場では大変なことになってしまいます。

2 上司の勘違い、場面違い

また、同じような場面で同じような言葉を使ったというつもりでも、
実際は場面がまるっきり違う場合があります。

例えば、部下が職務上の質問をしてきたときに
「なんでもこっちに聞くな。自分で考えろ」
ということを言うことがあります。
新人従業員に対するパワハラで多く聞かれる叱責です。

おそらく、それを言った上司も、かつて、
自分の上司から同じ言葉を言われたのだろうということは予想がつきます。
でも、本当に同じ場面かというと、少し怪しいことが多いようです。
自分が言われたときは、極端な例を挙げると
上司が丁寧に説明して一度それをやることができたのに
ちょっとだけ応用して考える要素が出ただけで、
上司の指導を仰いだというケースがあるようです。

それにもかかわらず、自分が言われた言葉を後輩に使いたくて
(昔の指導に対する腹いせとか、上司ぶってみたいとか)
ほとんど説明していないにもかかわらず、
また、何の経験もない新人に対して
自分で考えろという無茶なことを言っている場合が
どうやら多いようです。

昔は「ああ無茶言っているな」とかわいそうに思って
先輩がやり方をこっそり教えてくれる
というようなことがあったのかもしれません。
それで、上司が若手のころ何とかしのげたのかもしれません。

だいたいがパワハラをするような上司は
上に媚びることは上手な人が多くて
何人かの自分の上司の温情で今の立場に引き上げてもらった人が多いように
訴訟などの事件を通じてみてそう思います。
当のパワハラ上司は、そういうことは忘れているようです。

場面が違って考える材料がそもそも与えられていない
またフォローすると自分がにらまれるのでフォローしないという職場では、
自分で考えろ
と言われた方は不可能を強いられているわけですから途方に暮れてしまいます。

3 発言者と聞き手のダメージの度合いの違い

叱る人が自分の叱責で相手に与えるダメージとして想定される大きさと
それを聞いた人が受ける実際のダメージは
聞く方のダメージが大きいのです。

これは、自分でくすぐってもくすぐったくない原理で説明できます。
自分でくすぐってもくすぐったくない理由は、
くすぐる直前に、どの指でどの程度の力で、指をどう動かすかということが
無意識に、あるいは意識的に想定してしまうからなのだそうです。
くすぐったいというのは、意外性が無ければ感じない感覚なのでしょうね。

これと同じように、発言者の方は、
これから自分が何を言おうとしているのか、
口に出す直前に認識しています。
感情的になっていたとしても、
ある程度は、これから話す内容を知っているわけです。

どのくらい懲らしめてやろうとか考えているわけですが、
真意が別にあることも自覚しているわけですから、
それほどひどい結果を考えていないことも
話す方はわかっているわけです。

例えば「死ね」と言ったって、
本当に命を奪うというつもりで言っているのではないので、
それ程強烈な言葉を言ったという自覚はありません。
自分の内心と照らし合わせて、
それほどダメージはないと思っているわけです。

例えば「役立たずの給料泥棒」という場合も同じです。
泥棒の犯人として警察に告訴するわけでもないですし、
給料を返せというつもりもないのです。
だから、言っている方は、
「もっと結果を出せるよう頑張らないと自分は相手をしないよ」
という程度の(それでも十分強烈ですが)気持で言っているようです。

ところが、言われている方は相手の内心などわかりません。
「死ね。」と言われれば、
まさか命を取られるということはないだろうと思っても、
自分という存在をその上司の前から消すようにと言われているように感じます。

「役立たずの給料泥棒」と言われれば
給料をもらう資格がないと言われていると感じるわけです。

会社に来るなと言われているように感じるのです。

そうしてそれを他の同僚が黙って聞いているならば、
他の同僚からも同じ意見を持たれているというように受け止めてしまいます。

言われている方は、言っている方が想定するダメージより
はるかに大きなダメージを受けることが「通常」なのです。

4 叱責は代を重ねるごとに大きくエスカレートしていく

同じ言葉を、同じ場面で行ったとしても
ダメージは大きくなっていくという理由があります。

ポイントは話す方が想定しているより、聞く方のダメージが大きい
というところにあります。

わかりやすく数値を使って説明しましょう。

上司が元上司と同じ言葉で叱責した場合、
元上司は、20ポイントくらいのダメージを想定して叱責すると
その叱責を受ける方はもっと大きなダメージを受けるので
若かりし頃の上司は40ポイントのダメージを受けたとします。

歳とった上司が、元上司の同じ叱責をしようとすると、
自分が受けたダメージと同程度ならばよいだろうと思うとすると
40ポイントのダメージを部下に与えようとしてしまいます。

聞いている方は言う方の想定より大きなダメージを受けますから
例えば80ポイントのダメージを受けてしまうことになるわけです。

上司のまねをして「同程度」の叱責をすることが
何世代かにわたってしまうと
かなり激しいパワーハラスメントが行われてしまうことになります。
それでも、
「自分だって同じことを言われたのだから
それでダメージを受けてしまう今どきの若者は弱くなったなあ」
とのんきなことを言っているわけです。

5 小まとめ

自分が受けた叱責と同じ叱責をしようとすると
同じシチュエーションだとしても
部下は自分以上に大きなダメージを受けている。

ところがこれに加えて
自分が上司から指摘された場面が違うとか
それを聞く側の条件が違うとか
同僚のフォローがなくなったという事情が加われば
深刻なダメージを受けている可能性があるわけです。

簡単に言えば
普通に叱責すれば、ダメージは想定以上に大きくなる
これが真理なのです。

「普通に叱責」させることをやめさせなければ
精神破綻をする従業員が増えていき、
殺伐とした職場の雰囲気になるし、
過労自死が増えていくことになるでしょう。

生産性が上がるわけがありません。

6 どうすればよいか

先ず、一度叱責をやめさせることが必要です。
乱暴な言葉、配慮を欠く言葉、厳しい言葉をやめさせることです。

これを何年かに一度徹底しなければなりません。
放っておくと自然と受けるダメージはエスカレートするのですから。

止めろと言ってやめることはないでしょう。
何が悪いのか、通常の場合は上司も分からないからです。
何しろ、自分が受けたことと同じだという意識ですから。

失敗、不十分点、弱点、欠点を
責めない、批判しない、笑わない
という意識が有効です。

これをきちんとしたコーチング技術に置き換えることです。
これを経営者が直近の部下に対して手本を示す
ということから始めなければなりません。

失敗に対しては対人関係学は
PMGという手法で成長の好機として活用することを提唱しています。

弱点などの属性を改善するための方策を一緒に考えるということも良いですし、
チームプレイとしてフォローをし合う体制を作るということも有効でしょう。

何よりも、現状のメンバーで、チーム力を発揮して生産性を上げる
という明確な目標に近づけるための方策にしなければなりません。

できない人にできるようになってやれという指導が
実際は良く行われていますが、
色々な意味で時間の無駄です。
日本経済を落ち込ませる典型的な無能の労務管理です。

あなたが会社で労務管理を担当する立場にあるならば
是非、新人従業員から指導内容について具体的に話を聞くという方法で
上司の力を点検することをお勧めします。

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良かれと思って虐待してしまわないために 虐待の本質としつけとの違い かわいそうだからやめるができない事情 2年2月11日のハートネットTVを受けて [進化心理学、生理学、対人関係学]


虐待について考えるテレビ番組がありました。
いくつか大変興味深い話も聞くことができました。

理化学研究所の研修者(医師)の分析は圧巻でしたし、
虐待親と何度かにわたって面談をしたという
カウンセラーのお話しは興味を引きました。

その内容は後にお話しします。

この番組を見て改めて思ったことは
虐待は特殊な人間が起こすものではないということです。
もちろん、子どもが死ぬくらいひどい虐待ということはレアケースでしょうが、
心が圧迫されて、苦しい思いをして
後の人間関係にマイナスの影響が残る
という程度の虐待は、
私たちも行ってしまっているかもしれないと思うのです。

そうならないために
他人の過ちから学ぶ必要があると思いました。


先ず、虐待とは何かというところから話を始めないと
まとまりのない話に終始すると思いますので、
この点からお話しします。

以前、このブログで、虐待としつけの違いは
ただ結果を押し付ける場合が虐待で
選択肢を提示して誘導するのがしつけだと言いました。

しかし、もう少し掘り下げるべきだと思うようになりました。
つまり虐待がなぜ否定されるべきなのかということから考えるべきだと思うのです。
虐待は、虐待を受けた人間の心が傷つくということに問題があり、
心が傷ついた結果様々な深刻な状態となり、
何よりも幸せになりにくいというところが問題だということになるでしょう。

ではなぜ虐待を受けると心が傷つくのか。

結論だけを言うと、
虐待被害の本質は、絶対的孤立を感じさせるところにあると思います

その人間関係(例えば家族)の中で安心して過ごしたいのだけど、
安心して存在したい人間関係から
自分が攻撃を受けて、仲間扱いされない。
自分には安心できる仲間がいない
と感じることが人間にとって強烈なダメージを受ける事情のようです。

迎え入れられて守られることを期待しているのに
逆に理不尽な暴力を受けるということは、
言葉が不要なほど、
仲間扱いされておらず
逆に敵視されているという感覚を持ってしまいます。

だから虐待の一番は暴力ですが、
暴力がなくても虐待は成立します。

無視、放置というネグレクトは、
その意味も分からない赤ん坊であっても
人間の本能によって、
今いる場所が安心できる場所ではない
ということを感じ取ってしまいます。

それ以外にも無理な要求をされること
容赦のない否定をされること等
虐待の内容に入るべきなのでしょう。

叱るとき叩くのは是か非かというような
形式的な二分法で議論することは間違っています。
叩かなくても
家族の一員ではないという態度をとれば虐待ですし、
叩いたとしても、感情をコントロールして叩き、
懲戒した後に愛情の回復をする行為をすること
これがあれば、必ずしも虐待にはならないと思います。

但し、年齢にふさわしくない過大な要求をして、
結果責任を取らせるような理不尽な叩き方はダメですし、
年齢にふさわしくない叩き方をしてはダメなことは当然のことです。

また、叩かないで教え諭すことが上策であることは間違いないと思っています。

虐待としつけの違いは
それをされてもなお子どもがその人間関係にいることに
安心し続けていられるか否かという結果の問題なのだと思うのです。

つまり虐待とは、
それによって、行為を受けた側が
行為者との関係に安心できなくなるような行為
だとするべきだと思います。
あくまでも行為を受けた側の心情を基準に考えるべきです。

善悪を厳しく教えても、
安心できる関係、愛情を感じる状態を維持することが大切で、
そのための方法として、
選択肢を提示して誘導する、誘導にのったら褒める
というのが有効だと思います。

虐待親のカウンセラーによると
最初は、教え諭していたようです。
ところが、だんだんと暴力的になり
100か所以上の虐待の跡が
少女の遺体につけられていたとのことでした。

これは異常です。

カアッとなって直情的に暴力をしたのではないと思います。
もしそういうレノア・ウォーカーの虐待サイクル的な暴行ならば、
自分の直情行動を恥じる時期が来ることになりますが、
それがなく、暴行を続けたということだからです。

DVと関連付けた暴行だと安直に結び付けてはならない
病的な行動だと直視しなければならないでしょう。

虐待親のカウンセラーの話が興味深いのはここです。

虐待親が少女とその母親と出会った時、
彼は、失意の中にいたというのです。
8年間務めた会社に行くことができなくなり退職したというのです。
会社に行こうとすると吐き気がするなどして
どうしても会社に行けなくなってしまったというのです。

これは典型的なパワハラ被害を受けた労働者の症状です。
実際にいびりや排除のようなパワハラがあったのかはともかく、
自分が会社にとって役立たずの無用な人間だと
執拗に自分を否定され続けた人間がかかる症状です。

私はこれは重要なポイントだと思います。

このように自分の価値が地に落ちた状態だと感じている時、
少女と母親と出会い、受け容れてもらったということならば、
少女と母親の役に立って、
自分は役立たずの人間ではないことを証明したかったという
推測もありうるのではないかと思うのです。

おそらく、少女の母親もやればできるけどやらなかった
だから自分は少女をきたえて立派な大人に育てようと思うことは
あながち不自然ではないと思います。

実際に彼は、小学校入学直前の少女に対して
読み書き、計算を教えて
かなりの程度まで学習を進めました。

これわかるんです。
この時期の子どもは、やることと能力の相性が良ければ
かなり習得していきます。

小学受験の勉強はもっと高度な勉強をさせると思いますし、
バイオリンやピアノなんかも、かなり高度なレベルまで上達します。
バレエや水泳、野球、サッカーなどスポーツも
やるだけ伸びるっていう時期があるのです。

コンクールみたいなところで入賞してしまうと
親も勘違いして、子どもに無理をさせるということは
結構よくあることです。

でも、ある程度以上は
本当の才能と、本当の指導者がいないと進みません。
どこかで壁に当たって伸びなくなることが通常です。

最初はそういうものだと思って頑張っていた子どもも、
そうなるともう苦痛で苦痛でやめたくなるわけです。

親も、「ああやっぱり自分の子どもだから無理なんだな。」と
そんな子どもをかわいそうに思って習い事をやめたりするわけです。
かわいそうだからやめるということができるわけです。

ところが彼はそれができなかった。
かわいそうだと思わなかったわけで、
これがどうしてかというところが、
私たちが虐待やプチ虐待をしないために学ぶべきところです。

私は、カウンセラーの話したエピソードから
二つの理由が考えられると思います。

一つは、子どもが思う通りに学習が身につかないので、
やはり自分が役に立たない人間だという思いを募らせ
それを認めたくないので、
益々頑張らせたし、
できないことで少女に怒りを抱いたということです。

自分のやり方を否定されたような感覚になって
少女や母親に辛く当たるという逆切れが一つです。

もう一つは、自分が懸命に指導をしているのに
学習が身につかない少女と
仕事をしていたときに、無能であると評価され続けていた
哀れな自分が重なったのだと思います。

これは、犯罪は自分がされたように他人に加害をする
ということが弁護士の中では言われることがあります。
先輩からタバコの火を押し付けられた人は
後輩にタバコの火を押し付けていじめるとかですね。
そのメカニズムはよくわかりません。

もしかすると、自分が同じ加害をすることで
被害を受けたときのみじめな自分を否定しないのかもしれません。
過去にタイムスリップして、自分が否定されていたという事実を
加害をすることで消して心の平衡を保とうとしたのかもしれません。

かなり根が深い心の闇を持っていたのだと思います。

いずれにしても虐待親にとって
少女は、既に仲間ではなかったわけです。
既に、否定するべき対象だということで
かわいそうだと思う心理が働かず、
執拗に否定し続け、
言葉が出なくなるたびに
暴行を加えていったのでしょう。

彼の言い訳がしつけ、教育だということは
理解ができます。
もちろん成り立たない言い訳ですが、
そういう狂信的な言い訳をしながら
自分をも洗脳しながら客観的には虐待行為を続けていたのでしょう。

誰かが止めなければならなかったということになります。

子どもが一人の大人によって育てられてしまうという環境が
一番の問題だったのだと思います。

一人の大人が、子どもに対して無理難題を行っている姿を見て
「子どもがかわいそうだ」と言い張る大人が必要だったと思います。

彼が実の親ではないということは
虐待の決定的な原因ではないと思います。
継父が子どもと良好な関係を保っていることが
圧倒的多数だからです。

ただ、本件は、少女の母親の方がいくつかの理由から
相手に遠慮をしてしまった事情がありそうです。
彼は、少女の母親には暴力を振るわなかったようです。
また、今述べたとおり、典型的な直情型DVの事案ではないようです。
DVが怖いために支配を受けたというのは
あまりにも型通りの議論です。

暴力がなくても虐待があるということを
見落としてしまう危険があるずさんな議論です。

一人の大人だけが子どもを育てる環境というのは
現代日本では、離婚をしてしまえば
そうなる可能性が多くなってしまいます。

離婚後の共同養育が私は一番有効だと思いますが、
そうでなくとも、何らかの複数の大人が関与できる
そういう環境を社会が作っていく必要があると思います。
十分な予算を投じるべきだと思います。



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モラル論について、ヒュームとカントに学び批判する対人関係学 モラルよりも人間性の回復をという意味 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

またロビン・ダンバー先生の本を読んで
目を開かされたというか、
話は、カントとヒュームの道徳の話なのです。

道徳論ということはこれまでも対人関係学で検討してきましたが、
哲学に首を突っ込むことになるとは思いもよりませんでした。

私たちの生活をストレスフルにする原因としてやり玉に挙げてきた
正義とか、道徳とか合理性ということの根っこが
どうもカントにありそうだということと
18世紀の啓蒙学者ヒュームの「共感」への着目に脅威を抱いたこと
この二つをお話ししたくなったのです。

ロビン・ダンバー先生の要約を要約すると
ヒュームは、道徳というものを
他者への共感に根差した直感的なものだと主張したのに対して
カントは、選択肢の長所短所を吟味した上での
合理的理想の産物であるべきだと主張したというのです。

ヒュームについては、現代日本では、
高校生の倫理社会の参考書にも載らなくなっていました。
これに対してカントは最重要人物ですから
ずいぶん差が付いたものです。
私もヒュームは名前しか知りませんでした。

それにしても気になるのは、ヒュームが、
「道徳の根本に他者に対する共感がある」ということを述べていることです。
これは、対人関係学の主張と重なってきます。

対人関係学も行きあたりばったりの結論を提示しているのではなく、
進化生物学や脳神経学的な知見(と言っても、文庫本とか新書ですが)
に則って立論しているわけです。
18世紀にはそのような学問はありませんから
これは一体どういうことかと
ヒュームの「人性論」を読んでみました。
(人間の本性についての考察なので、人「性」論)

驚くべきことに、知性や情念についての考察は
脳科学的知見にそったものでした。
訳が古いので、よくわからないと思いますが、
脳科学者が翻訳すればそれがわかるのではないかなと思いました。

突き詰めてものを考えるということはこういうことかと
哲学を見直したというか、自分の無学を思い知らされたというか
感じ入りました。
実際人性論の第3章の道徳のところで、
実際そういうことが書かれていました。

アントニオ・ダマシオという脳科学者はデカルトをやり玉に挙げて
感覚的な意思決定も、人間の共同生活をするために役に立っている
というようなことを脳科学的に立証しましたが、
読みようによってはヒュームも同じようなことを言っているように思いました。
そして、人性論でもデカルト学派の形式性を批判していたので、
つじつまが合うなあと一人で楽しんで読んでいました。

ただ、ヒュームに限らず、近代ヨーロッパでは、
モラルという社会規範と、他者への共感、同情というものを
あまり区別しないで論じているようです。

対人関係学では、この区別が重要だと考えています。
これを区別しないとモラルとは何か、モラルの始まりはいつか
という議論が整理できないからです。
家庭の中にモラルを持ち込むことの愚かさ、弊害を
理解できないと思います。

人間が150人程度の緩やかな一つの群れだけで一生涯を終える限り
モラルというものは不要だったと対人関係学は主張しています。
モラルという社会的ルールがなくても、
自分と他者の区別がつかないほど一体の群れとして行動していたので、
仲間が腹を減らせていたら、自分が食べていなくても食べさせたいと思うし、
仲間が怒っていたら、譲ってでも謝っただろうということです。

これに対してモラル、道徳とは
自分の思考の外に厳然として存在する客観的な規範で、
自分の感情に反してでも従わなければならないと感じるものです。

他者への共感とモラルという規範は、区別して論じないと
議論が混乱するだけです。

但し、そのモラルの根本に他者への共感、同情がある
というならばヒュームの主張は正しいと思います。

というのも、モラルが必要になったのは、
人間がせいぜい2万年前くらいから農耕をするようになって
生産性が上がったことによって人口も増加し
150人を超える大人数とかかわりをもつようになり、
さらに定住を余儀なくされたことから
かかわりを避けることができなくなったということに
理由があると考えているからです。

このような状態になると
なじみのない人との利害対立が生まれてしまいます。
人間の能力に対して関わる人数が多すぎるために
これまでの仲間のように親密に一体感を持つ仲間と
必ずしもそうではない人間が生まれてしまったのです。
人数の量的な拡大は、人間関係の希薄化な人間の存在を産んでしまったのです。

聖徳太子の17条憲法を読んでみると
人間は、どうしても自分の仲間の利益を図ろうとするものらしく、
それは結局、争いを招き共倒れに終わりがちです。
また、仲間ではなくとも人間なので、
全く共感ができないわけではなく、ついつい共感してしまうため
紛争の末に自分たち仲間が勝ったとしても
やぶれた他者の様子を見てついついて共感してしまい、
後味が悪くなったり
自分たちの価値観が殺伐としてきます。
紛争は勝利しても莫大な損害を受けてしまうわけです。

だから人間は、紛争を未然に防ぐことに努力したのだと思います。
自分たちの安心、幸せという大きな利益のために
紛争を未然に防ぐための「決めごと」を作った。
これがモラルという社会規範だと私は思うのです。

そしてモラルが社会規範であるためには
決めごとが存在するだけでは不十分で、
「そのモラルに従わなければならない」
という構成員の意識が必要だということになります。

そうすると、どうしても、
人間の感情に沿った内容が道徳の内容になっていく
ということになるのです。

「なるほどそれなら納得できる。」
「なるほどそれは大切なことだ。」
というような道徳が作り上げられていくわけです。

だからヒュームの説が、
道徳は直感的に判断することが基本だということについては
その通りだと思うのですが、
道徳のすべてがそれではない
と言わなくてはなりません。

自分の利益、自分の仲間の利益に反することでも
もっと大きな共同社会を平和に維持するためには
仲間の我慢も必要なことがある
これが大切であると思うのです。

こう考えるとカントに分がありそうです。

カントの「実践理性批判」は読んだことがなく
「道徳形而上学原論」を読んだのは40年前のことです。
なんとも心もとないので、
カントに興味がある場合は、私のまとめをうのみにしないでください。

カントは、
経験に基づく認識を排除して道徳を考えるということになると思いますので、
合理性とか、絶対的正義を突き詰めて
条件付けをせずに、こうすべきだという道徳こそ正しい
ということになるのだと思います。

ここに私は、ヒュームが維持していた人間性に基本を置く道徳から
カントの道徳論は人間性が遊離してしまう原因があるように感じました。

「人間性」という根本価値から、
「合理性」という価値に置き換わってしまう
という危険が生まれたのではないかと思うのです。
おそらくカントはこのことに気が付いたので、
晩年に「恒久平和のために」というパンフレットを作成したのでしょう。

一直線に世界が人間性を排した社会になったわけではないにしても
結局は一人の人間の幸せ、一人の人間の尊厳よりも
重大な価値があるという理屈が生まれてしまい、
功利主義、経済変革を容易にする反面
人間疎外が現代では当たり前になっている
という視点が重要になってきていると思います。

何もカントが悪の権化ということではなく
カントの理屈は都合が良いと感じた一群が
自分にさらに都合良く進化させてしまったのでしょう。

また、無自覚に合理性を礼賛する人たちも多いと思います。

カントのように根源的な合理性を説くのなら良いのですが、
どうも現代社会は目先の合理性を追求している気がします。
結局は合理性に反することがまかり通っているのだと思います。

「合理性」という言葉や「道徳」という言葉は
疑ってかかるべきだという確信が深まりました。
合理性や道徳を
人間性、共感という価値観に置き換えるべきです。

こんなことを言うと絵空事だと思われるかもしれません。

しかし、21世紀になって科学は
どんどん人間性を取り戻しています。
行動経済学やその基礎となった認知心理学、
アントニオ・ダマシオの脳科学
進化生物学やその応用科学、
人間性の回復というキーワードで科学を見ると
21世紀が見えてくるのだと思います。

家庭の在り方、職場の人間関係
学校の生活の在り方などを
あらゆる人間関係の紛争未然に防ぎ
安心と幸せを獲得していく対人関係学も
その流れの中で生まれたのだと
私は考えています。

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なぜ宗教は、人種や民族の壁を越えて存在するのか、何時から存在するのか、不安解消行動としての原始宗教と対人関係学 [進化心理学、生理学、対人関係学]




進化生物学の学者さん方は面白いことを考えるもので、
・人種や民族、科学の到達度に関わらず、
なぜ宗教は普遍的に存在するのか
・いつから宗教は始まったのか
ということをテーマに考えを進めているようです。

この問題を考えていくうちに
宗教には、いろいろな利点があるからではないかと考え、
1)宇宙の体系的な説明が可能となる
2)人生を過ごしやすくする
3)規範(社会の約束事)を提起し社会秩序を維持する
4)共同体への参加意識を持たせる(同じ宗教を信仰する仲間)
という4点が人類にとって普遍の利益だというのです。

ここまでロビン・ダンバー先生の
「友達の数は何人?」(インターシフト)
を参考にしています。

私は、このほかに、
衛生問題とか、仕事上の便利さとか、生活の知恵とか
先人たちの経験や知恵を定着させて
人生を豊かにしている側面があると思っています。
メディアとしての機能を持つ宗教、信仰という側面ですね。

その他に、人類が宗教の存在を切実に必要とした理由として
「不安解消方法としての宗教」という側面があると思います。
これが、4つの利点と重なるのかどうかは自信がありませんが、
対人関係学的な説明ということで、お話ししたくなりました。

不安とは必ずしも死ぬことばかりではありません。

人間は好奇心が旺盛な生き物であり、
知りたいことがわからないと厄介なことになる
ということのお話しです。

漫才の春日三球照代師匠の名セリフで、
「地下鉄の電車はどこから入れたの?
それを考えてると一晩中寝られないの。」
というのがあります。

地下鉄に限らず、
一晩だけ寝られなくならよいのですが、
それ以上になるともっと深刻な話にもなりそうです。

この世界の果てはどうなっているのだろう
星はなぜ夜に輝くのだろう
人は死ぬとどうなるのだろう
誰が人間を作ったのだろう
世界の始まりと終わりはどういうものだろう。

そういう壮大な疑問もあるでしょうし、

どうして私はここでけがをしてしまったのだろう
どうして大切な友達が私から去って行ったのだろう、
私は何か悪いことをしたのだろうか等
身近なことまで考えればきりがないことが多くあります。

考えても答えが出なければ
もっと答えを知りたくなる。
答えが出ないと不安でたまらなくなる。
そう言った状態になるのでしょう。

本当に一つのテーマを段階を追って考えていけば良いのですが、
単に想像がつかないことを想像しようとして
考えるエネルギーを使い果たしてしまうと
自分がなくなってしまうほど脳が消耗してしまったりします。
これは大変危険なことです。

誰かがどこかでストップをかけなければ
もしかすると歴史的に多くの人間が
早死にしていったかもしれません。

もし宗教が、これが正解だと示すことができるのであれば、
ある程度の納得ができることでしょう。
特に考える方法がないのに考えることは無くなると思います。

ギリシャ神話にはイカロス(イーカロス)という人物が出てきます。
翼を作り空を飛びまわっていたようです。
ある日イカロスは、父の教えを破り
太陽に近づいたために翼のろうが解けて地上に墜落して亡くなります。

よくこれは人間の傲慢さを戒める話だと言われますが、
人間の力、特に脳の力を超えて考えすぎた者が、
人間の脳の限界を超えて考えすぎて自我消耗を起こした
という話のように思えるのです。

日本には和算という学問があります。
漢字の数字で微分積分等、自分で問題を出して答えを出していたようです。
とてつもなく素晴らしい問いと答えができた場合は、
絵馬に記載して神社に奉納していたようです。

おそらく脳の限界まで思考を深めることが通常なので、
素晴らしく高等な問いと答えができた場合は、
不吉なことという感情もあり、
神社で厄除けをしたという側面もあるのではないかとにらんでいます。

江戸時代に和算が庶民に広がったというのですから
人間はよほど頭を使うことが好きなのだと思います。

「わからないことはわからない」という代わりに
「神のみぞ知る」ということが言われたのでしょうが、
これは人類に必要なタームだったのでしょう。

では、何時くらいから宗教は起き始めたのでしょうか。

先ず、人間のこころが生まれた200万年前は
まだ宗教は生まれていなかったと思います。

人間のこころが成立したとされる200万年前は、
人間は身の丈に合わせた人数の他人と共同生活をしていたのであり、
生まれるから死ぬまで原則として知り合いの中で生活していました。

そう高度な原因結果の関係は考えず、
特に座禅を組まなくても
全ての人間がすべてを受け入れてきたのだと思います。
苦しみも痛みも空腹も、死も生も
すべて受け入れていたのだと思います。

時間もゆっくり過ぎていったのでしょう。
発明や発見も1万年単位で進んでいたと思われますので、
人一人の一生では、何も変わらない
という感覚だったと思います。

ところが、今から数万年位前から
人間が狩りをやめて定住をはじめたことによって、生産力も上がり、
村が作られていく中で、
150人(人間が同一性を把握できるおおよその人数、ダンバー数)
を超える規模の人間と交流を余儀なくされるようになりました。

とたんに時計が動き出します。

交流によって、あちこちの発明が
瞬時に(数年位で)入ってくるようになり、
応用することを考えていく中で
物事の仕組みについて考えるようになったのではないかと
想像をたくましくしています。

仲間は一つではなくなり、
人間同士の戦いが生まれ始めてきたのだと思います。
利害対立が生まれたのです。
これがパンドラの箱を開けた状態、
あるいは楽園からの追放というシーンが
リアリティをもって説明しているように感じます。

自分や自分の仲間を守る必要が生まれ、
あるがままを受け入れることができなくなりました。
それとともに知能が発達したということなのでしょう。

利害対立が生まれれば利害調整の知恵も生まれてくるでしょう。
紛争を避けるために、概念や物体を示す共通の言葉が生まれ
言葉の数が増えて行きます。

言葉を使うようになれば、
言葉をつかって考えるという作業が行われるようにもなります。

言葉が増えていき、
決め事が増えるとともにまた言葉が生まれて行きます。

人間関係が複雑になり、それに対応しなければなりませんので、
脳の活動も変化してきたのだと思います。

考えれば、もっと快適に生活できるという感覚が、
考える楽しさを人間に与えたのだと思います。

同時に、言葉によって、
当時は考えても仕方のないことまでも
考えるテーマとして設定されたために、
考える苦しさ、焦り、不安も感じるようになったのでしょう。

この時期あたりで原始宗教が生まれたのではないかなと
そう思っております。

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男性的価値観と女性的価値観の違いを直視して、家庭の中のことは妻に従うべきであるという根拠 [進化心理学、生理学、対人関係学]




男性的価値観と女性的価値観は、異なります。
なぜ、そう言うのかというと、
弁護士として離婚事件に立ち会うと、
家族の不幸の原因は一つではないとしても、
夫が気が付かないで男性的価値観で妻の行動を評価し
無邪気にダメ出しや指図をしているうちに、
妻は、気づまりになったり萎縮するようになったりして、
一緒にいることが苦痛となり、
嫌悪や憎悪が高まって後戻りできなくなってしまったのではないか
ということをよく目にするからです。

女生と男性は価値観、行動基準が違うとしっかり認識することが第一歩で
どちらにも一長一短があるのだからどちらが正しいわけではなく、
うまく使い分けるべきだということで、
家庭では女性の価値観、行動基準に合わせた方がうまくゆく
ということを言いたいために男女は違うのだと断言することとします。

男性的価値観とは、会話の中によく現れています。
一度言葉にした以上、なかったことにしないこと
前に言ったことと矛盾することを言ってはいけないこと、
論理的な流れに従って話をすること
テーマに沿ってかみ合う形で議論を進めること
感情は、後回しにすること。

効率よく目的遂行に役に立つということに価値をおいて
そのために有効なやり方だということだと思います。
学校や職場等で鍛えられる議論の進め方ということになります。

これに対して女性は、
相手や自分の感情を大切にすることを優先します。
その場が円満な状態になることを大切にするわけです。
相手の過去の言動には寛容な姿勢を示します。
あえて白黒をつけないということもあるかもしれません。

(けんかをしている場合は別ですからね)

この男女の違いには理由があります。
人間のこころが成立したとされる200万年前の
男女のそれぞれの役割遂行に都合がよくできているのです。

当時人間は樹の上の生活から平地に降りてきて
数十人から150人の群れに所属して
生まれてから死ぬまで一つの群れで生活していました
主に男性が小動物を追い詰める猟を行い、
主として女性は、子育てをしながら、
食べられる植物を採取して男性の帰りを待っていたようです。

ジェンダーフリーという考えをしている人の中には、
「このような考えはけしからん」と抗議をする人たちもいるようです。
女性は、人間が成立した時から
男性に従属していたものになってしまうので認められないというのです。

私から言わせれば、こういう一部の人は
ご自分が男性的価値観に従属してしまっていることに
気が付かないだけだと思います。

それともいうのも
狩りを終えた男性が群れに帰還した場合、
男女は全く平等で、
獲得した食料も全員で平等に分けたようです。

現代社会のように、
一人一人が独立した人格であるというよりも
群全体が一つの動物という扱いをしていたようで、
他人と自分の区別もあまりなかったのではないかと想像しています。

動物性たんぱく質を獲得することも
脳に栄養を与えることで大切なことですが、
子育てをしなければ群が消滅します。
動物性たんぱく質を摂れない場合に備えて
植物を採取しなければ飢え死にしてしまいます。
だから、植物採取も命を維持するために大事な作業です。
どちらが価値があるかなんてことは全く考えなかったと思います。

また、平等に栄養がいきわたらないと
弱い個体から死んでいきますので、
平等に食料を分け合うことも絶対条件だったようです。

仲間に栄養を行き渡らすために、それを喜びとして
狩りという危険な重労働を行ったのだと思います。

自分だけ楽をするとか
自分だけ多くとるという発想の無い時代でした。

ではなぜ女性が狩りをしなかったのか、
それは二足歩行の問題があると思います。
人類が二足歩行を確立したために
骨盤の位置が地上から高い所に上がってしまいました。
こういう事情もあって、流産がしやすくなったのです。

女性が狩りに参加して走り回っている群れは
赤ん坊ができにくい
女性が狩りに参加しない群れは赤ん坊が生まれやすい
ということになれば
女性は狩りに参加してはいけないという結論が
掟(おきて)となって守らせようとするわけです。
掟なんて悠長なことを言っている場合でもなく、
群に赤ん坊が生まれてこなければ
群が死滅してしまうので、
女性に狩りをさせない群だけが生き残ってきたというわけです。

また、赤ん坊は母乳を飲むしか生きるすべがないので、
乳児期は女性による育児は必須でした。

だから、自然と女性は狩りをしなくなったのだと思います。

徐々に、男女の役割分担ができてきたのでしょう。
当然植物採取チームの中には
狩りで傷ついて走れなくなった男性もいたわけです。

狩りチームは小動物をしとめるという
絶対的な目的があります。
できるだけ無駄のない動きをして
失敗を極力避けて
確実に小動物をしとめることに
価値をおいて言ったことは簡単に想像できます。

矛盾する行動をとることは
仲間を混乱させてしまい
小動物を取り逃がしてしまうでしょう。
わき目も降らず、狩りという目的に直線距離で進む
そういうコミュニケーションの方法が
あるべき姿だという考えがしみついて行ったと思われます。
途中で気が変わったということが許されるはずもありません。

これに対して子育て・植物採取チームは、
小動物を狩る場合のような
差し迫った目的に向かっての共同行動はありません。
むしろ子育てという行動を共同で行うためには、
仲間を脱落させてはならないということに
主眼があったはずです。
常に相手の気持ちを考えて
相手を一人ぼっちにしない、
寂しい思いをさせない等
相互の感情を優先させる価値観がしみついて言ったと思います。

誰かが矛盾する行動をとっても
途中で気が変わっても、
狩りチームほどそれによって何かを犠牲にするということがありません。
それ程目くじらを立てる話ではないという
価値観を共有するようになったのでしょう。
このように実害がないことに寛容になり、
みんなが機嫌よく一緒にいることが一番
という価値観が生まれたかもしれません。

そうやって人間の脳やこころが形作られていったのでしょう。

そうでないパターンの思考をする人間たちの群れは、
狩りチームは小動物を狩れないし、
植物採取チームは仲間割れをしてしまうことになります。
そうして群が消滅した
というパターンも多かったと思います。

私の言う男性的価値観、思考パターン、コミュニケーション術は、
厳しい環境の中で、
失敗が許されない状態の中で確実的に目的を達成するためには
合理的なパターンなのです。
ところが、相手の感情を重視しないため
群を調和させ、維持していくということにかけては
あまり向いていないパターンなのだと思います。

家族でなにかやる
例えば、子どもをプロ野球選手にするために一致団結する
という目的があったとすれば
それは男性的コミュニケーションが役に立つかもしれません。
しかし、子どもをプロ野球選手にすることはできても
家族の一体性、存続、幸せが犠牲になる危険性に対しては
無防備にさらされているのかもしれません。

通常の家庭では、
家族で命を懸けて何か一つのことをするということはないのだから
家族の幸せを第一に考えてよいのではないかと思います。

そうすると、男性的な思考パターンは
無駄な緊張を強いるだけというデメリットがクローズアップされてくるのです。
例えば、
「明日、海辺の町に行ってお寿司を食べようね」って
妻が言ったので夫である自分がその気になっているのだから
今さら「海はなんとなく寒そうだから温泉に行きたい」
なんてことを言うなと怒ってみたり、

妻が本を買いたいというから本屋も入っている大型店舗にきたのに
妻が入り口近くにある小物屋で商品の物色に夢中になってしまい
本屋に行く時間が無くなってしまうので、
小物屋に時間をとることは不合理だと怒ることもないわけです。

気持ちが変わればそれに合わせればよいわけです。
本なんか買えなくとも、妻がニコニコしていればそれでよい
という考えを男はなかなか持てない。

つい無駄な合理性、無駄な論理整合性が
むくむくとこみあげてきてしまうわけです。

でも、200万年前も
男性たちは狩りの時は厳しく緊張をして狩りをしていても
獲物をしとめ誇らしげに帰宅してしまえば
おそらく、妻や母等女性チームの論理に
従って暮らしていたのではないかと思うのです。

男性的な価値観は
現代社会においては、
極めて限定的な場面にしか有用ではなく
多くの場面ではデメリットの方が大きいと
そういう考えもあるわけです。

乱暴に言えばそれが第2次フェミニスト運動です。
男性的な価値観から女性的な価値観に社会的転換を行い、
平和で公正な社会を実現するという主張がなされました。

昭和後期に労働法を学んだ者たちは、
多かれ少なかれこの考えの影響を受けています。

先ほど述べた、進化生物学を否定した一部の第三波フェミニストたちは
男性的価値観、女性的価値観という違いがあること自体を否定するのでしょう。
しかし私には、それは結局
いびつで硬直な男性的価値観を唯一の価値観としてしまう
という危険性をはらんだ考えではないかと心配しています。

それはともかく、社会的にも
最近は多様な価値観を尊重するという言い回しが増えているのですが、
先ず、目的達成のための合理性の追求という
男性的価値観の存在を前提として
考えが進められているように思えてなりません。
社会の中では依然として男性的価値観が世の中を動かして、
弱者保護は、余裕がある場合の付録のように扱われていると感じられることがあります。
今いる人たちが、無条件に機嫌よく生活するということの価値観が
それ程顧みられているようには思われません。

特に男性は
合理性、論理整合性というものに絶対的価値をおくという姿勢を
長年に渡って思考に刷り込まれていていますので、
家庭の中にも合理性、論理整合性優先の姿勢を
持ち込んでしまっているというように感じてなりません。

自分がいま男性的価値観にたっているということを
自覚することはなかなか難しい。
私自身もそう感じています。

「あ、これは男性的価値観が出てしまったからやめよう」
なんて色分けをすることはなかなか難しいのです。
そんな分別をするよりも
とりあえず、家庭を大事にするためには、
少なくとも家庭の中でのことに関しては
妻や娘、母にイニシアチブを預ける
ということを心掛けることがよいのではないかと考えています。

誰かの気持ちを考えることを優先にすることを学ぶべきだと思います。
突然の気が変わるということは人間だからあるわけですから
気分は悪くなっても、怒らない。
下調べなどの準備が役に立たなくなっても、
そのことで文句を言うデメリットを考えれば、
言わないに越したことはないようです。

苦労は苦労で感謝されるし、
臨機応変にこちらのリクエストに応えてくれる
という方が、夫の価値が上がるようです。

この視点は女性にもてるためにはどうすればよいか
という世俗的な役にたつばかりではなく、
ビジネスシーンにおいても
寛容なビジネスマン
臨機応変なビジネスマン
という称号をとるための近道にもなるわけです。

私は、もっと女性的価値観が
社会にも職場にも意識的に取り入れられるべきだと思っています。

「必殺仕事人」の中村主水は、
外では、非情の刃傷沙汰を繰り広げながらも
家では、嫁と姑に頭が上がらないという役どころなのですが
案外こういうことを理解した上で
自然にふるまっている達人なのかもしれないと
今思いついたので、これでこの文を終わりにしたいと思います。

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