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もう一つのインターネットパラドクス インターネットは現実の代替にならないのではないかということ [自死(自殺)・不明死、葛藤]


「インターネットパラドクス」という言葉は1998年の論文で発表されました。
インターネットを利用すると、家庭内でのコミュニケーションの低下を招き、社会関係を縮小させ、抑うつ感や孤独感を増大させるという意味で用いられていました。

それから20年余り経た現代では、インターネットの中でもSNSの利用に伴うソーシャルネットパラドクスという言い方がなされています。友人たちのHappyな日常を見せつけられることによって自分の境遇のみじめさを感じてしまうという負の影響や、「いいね」などの反応をしなければならない等の負担感が原因として指摘されています。投稿しない閲覧中心の利用スタイルの方が、投稿を頻繁にする者よりも抑うつ傾向や孤独感が表れやすいという統計結果もあるようです。

今回はこういうことではなく、別の問題点について光を当ててみたいと思います。
コロナ禍で報告されている抑うつ症状として、学生が学校に登校できず、オンラインで講義を受けていた。友達ができない焦りなどから抑うつ症状を出現させたというものです。適切なカウンセリングによって症状が軽快されたとのことでした。
この学生さんも、友達ができないと言っても、それまでの友達もいるでしょうし、それこそSNSの友達もいたと思うのですが、それでは何かが足りなかったということなのでしょうか。この学生さんは、実際のところ、何を求めていたのでしょうか。

もう一つ、令和2年の自死の状況です。特徴的なことは、前年度比で、10代の自死が増えたということです。特に高校生女子が80人から140人に増え、小学生女子も5人から10人に増えたということに注目するべきだと思います。父親が家庭にいる時間が増えたので居場所がなくなったのではないかという根拠のない説明が公的にもなされるという驚くべき事態が日本の現状です。しかし、統計的にはこれは成り立たない説明です。例えば高校生女子の自死の原因としては、それまで家庭問題が原因のトップでしたが、令和2年は入試を除く進路の問題と、学業の問題が一位と二位になり、家庭問題は3位と後退しています。増えているのは家庭問題とは別の事情だとして原因をより詳細に考えて、対策を講じるということが科学的視点だと思われます。

学生のうつ病と、高校生、小学生女子の自死の増加という問題が関連しているのではないかという視点から掘り下げてみたいと思います。

これまでも子どもの自死の好発時期というものが指摘されていました。ゴールデンウィーク明けとか夏休み明けの日に自死が増えているということは統計的にも明らかです。
今回コロナ禍の学校の状況をみると、自宅でのオンライン授業ということが多くあり、実際の対面の授業、即ち、実際に同級生たちと過ごす時間が、断続的に停止されていたようです。自死の問題は当然のことながら個人情報の最たるものですから、その詳細が報告されることはありません。自死の時期と授業再開の時期だけでも明らかになるとある程度この説が証明できる又は否定されるのですが、ここは致し方ありません。但し、もしそうであれば、夏休み明けの日に子どもの自死が集中しているということと考え合わせると、同じ原因で自死が起きており、長期休暇明けという出来事が多かった分につれて自死が増えていったという説明が可能となるかもしれません。もちろん自死の原因はこれだけではないのですが、何らかの対策によって子どもの自死を減少させることができるかもしれません。

過度の競争社会による心理的圧迫感や自尊心の低下という根本的問題は今回は除外して考えます。根本問題が解決しなくても自死を無くすべきであり、できる対策をするべきだという考えに基づいています。

さて、それではどうして長期休暇明けに自死が増加するのでしょうか。これは、これまでもこのブログでたびたび以下のような推論を述べているところです。
学校での人間関係は、同級生であったり、部活動の仲間であったり、その他の子ども同士の人間関係や、教師、学校職員との人間関係があります。そのすべての関係で円満な、心穏やかになる人間関係が構築されるということは難しい話だと思います。そのどこかの人間関係において、ストレスが生じるような不具合の伴う人間関係があると思われます。それでも、長期間継続して人間関係を構築していく中で、対処の方法を覚えたり、誤解があった場合にそれが解消されたり、あるいはその人の行動に馴れが生じてだいぶ気にならなくなったり、友人が援助してくれたりして、なんとか毎日を緊張感をもって乗り切っているということが少なくないと思います。
しかし、長期休暇になって、そのような緊張感の不要な日々が続いてしまうと、「なんとかなっていた」という安心の記憶が失われるということが起きるようです。同級生、部活動の仲間あるいは教師との関係などとの困難な場面だけが思い出されてしまい、それを乗り切ってきたはずのその安心の記憶が蘇らないのです。
この安心の記憶というのは、言葉にできる記憶ではなく、言葉以前の生理的現象の記憶というようなものかもしれません。実は、学校に行って、校舎の壁の色を見たり、階段の角の足に当たる感触を感じたり、教室のにおいを感じたりすると詳細が思い出されてきて、それほど心配することがないことも思い出されるということが多いようです。しかし、ただ家にいると安心の記憶を思い出すツールが何も無いので、困難な場面だけが思い出されて、対処の方法が無いという結論になってしまいがちになるようです。記憶というものが危険を記憶して危険に近づかないという機能を持っているため、どうしても危険の記憶を優先して思い出されるようです。
学校に行けない、行く気力が出てこない、学校で悪いことが起きて逃げられないのではないかという感覚は説明しがたいものがあるので、なかなか周囲はそれを理解できません。困難な記憶の方、同級生とのトラブルや教師からの叱責などについてはそれなりに理解できますが、「そんなことで学校に行きたくないのか」という評価になってしまいます。安心の記憶が持てないことについて理解できないからです。
学校に行けない生徒の中には、不安が飛躍していく場合があります。学校を卒業できないような自分は社会に出ていけない、社会の中で不遇な人生を歩み、みんなに馬鹿にされてみじめな生活を余儀なくされるというような悲観的未来だけが想起されていくようです。こうして社会とのかかわりを拒否する傾向が生まれてしまい、不登校スパイラルになっていくようです。それでも明日は学校に行かなくてはならないという強迫観念が外部からも内部からも押し付けられていくわけです。そうなるともう毎日が夏休み最終日です。毎朝が苦しい時間となり、学校が終わる時刻にようやく少し楽になるのではないでしょうか。

「自分が関係する仲間の中で安心の記憶を持ちたい」という要求は、必ずしも自分が具体的に困難に直面していなくても起きるものだと思います。また安心の記憶が持てない場合は、かなり精神的に追い込まれてしまうようです。具体的なトラブルがある場合は、不安を解消して安心したいという気持ちはわかりやすいのですが、これと言ったトラブルがない場合は周囲は理解しがたいのだろうと思います。

冒頭述べた、学生さんがコロナで実際の人間とのリアルな交流がないことでうつを発症したということはこのような文脈で理解されなければならないことだと思われます。仲間と安心の記憶をもって、自分が仲間とともに学生という立場になったという安心感を持ちたいということなのだろうと思います。新たな人間関係の中で、自分が仲間として受け入れられているという安心感と言っても良いでしょう。この安心感を持ちたいというのが人間の根源的要求であり、これが満たされない場合は、心身に不具合が生じるということなのだと思います。

そうだとすると、何らかの事情、例えば精神的な疲労の蓄積、睡眠不足による思考力の偏り、誰かの影響などによって、安心の記憶が持てなくなり、具体的な人間との切り結びを一切行えなくなるということがあり得ることだということです。もちろん、いじめや無理な指導と言った具体的なトラブルがあればなおのことだと思うのですが、必ずしもそういうことではないような気がします。つまり、危険の記憶が小さい場合でも安心の記憶が持てないために行動ができないという相関関係にあるように思うのです。

 そして肝心なことは、インターネット、SNSでは、この仲間の中での安心の記憶というものが持ちにくいということなのだろうと思います。インターネット、SNSは、距離を超えて、あるいは立場を超えて、様々な人たちが交流を持てるツールであり、人間関係を無限に広げることを可能にしたツールのはずです。確かにSNSによって人間関係が広がっていくのですが、そのSNSの人間関係において、安心感の記憶を持つことができない。人数が広がった分だけ不安の材料もまた増える可能性があるということになりそうです。少なくともSNSでの人間関係の拡大は、人間の根源的要求を満たしはしない。即ち、自分が誰かと人間的なつながりの中で生きているという実感を持つことはできないということです。自分の大切に思う相手の、実際の生の声を聴き、実物をみて、あるいは手で触り、あるいは匂いやぬくもりを感じるということこそ、人間には必要なことであり、インターネットはそれを代替することはできないという仮説を立てることができるのではないでしょうか。

コロナのために直接会うことができないということは、不便なこと、経済的な問題があるということにとどまらず、人間の根源的要求を否定しかねない重大な問題が生じるということだと考えるべきだと思います。コロナ禍から、私たちはもっと大きく、もっとリアルに問題を把握しなければならないと思うのです。

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