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人を呪わば穴二つの本当の意味 情動型虚血性疼痛 被害感情は自分自身をさらに傷つけるという不合理な事実 PTG(ポストトラウマティックグロース) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

人を呪わば穴二つの本当の意味 情動型虚血性疼痛 被害感情は自分自身をさらに傷つけるという不合理な事実 PTG(ポストトラウマティックグロース)

人を呪わば穴二つ
ということわざというか格言というかありますね。
受験解答的意味としては、他人を害することを望んだ場合は、めぐりめぐって自分も害されることになる。呪い殺そうとする場合は、相手の墓穴と自分の入る墓穴と二つ必要になることになる。
という感じでしょうか。

どうやら正式な意味のような因果応報的な回りくどい間接的な被害ではなく、他人に対して攻撃的感情を持つと、その攻撃的感情によって自分自身が直接傷つくということになるかもしれないというお話です。私は、このことわざを作った人たちは、今からお話しすることを良く理解した上で、わかりやすくこういう言葉を選んだのではないかと感じています。

最近二人のうつ病患者さんとお話をしました。お二人とも職場の人間関係がきっかけとなり10年ほど前にうつ病を発症させて、現在も通院中という共通点があります。

最初の患者さんは、うつ病とともに体のあちこちが痛いという症状がある方で、痛みの権威のあるお医者さんに診てもらったら、うつ病から痛みを感じることは多いと言われたそうです。その場にいた何人かで早速調べてみたところ、ある文献が出てきました。
そうしたら、怒りなどの情動が亢進すると、血流の変化が起き、一時的に虚血状態になる体の部分が出てきて、痛みが発生するのだと説明がありました。そこにいた仲間の中では、この見解がどのくらい信用できる知見なのかということを判断することはできませんでした。虚血性疼痛というメカニズムも分かったような、わからないようなというところでした。しかし、うつ病患者さんは思い当たるというのです。自分がうつ病になった原因を作った人たち、された理不尽な出来事を思い出して怒りに震えたときに痛みが出現するかもしれないとのことでした。

これに対して次の患者さんは、体の痛みは無いとおっしゃいます。この方は、怒りを高まらせるというタイプではなくて、理不尽な扱いを受けると自分が傷ついていくというタイプの人です。相手に対して恨みとか、怒りという感情が弱いところがむしろ心配なところでもあります。恐れという情動が優位になる性格なのかもしれません。

どうやら「疼痛を抑える」ということだけを目標とした場合は、怒りを感じない方が良いということになりそうです。

でも、最初の患者さんが職場で受けた仕打ちはそれは不条理なものでしたから、怒るのは当然だと私も感じるのです。そのことが無ければ、病気にもならないで、それまで通りに働いていたことでしょう。色々な計画もあったと思います。しかし、現実には、うつ病になり、働けなくなり、家族はうつ病患者を抱えてしまいました。かなり重症な発作が続く時期もあるようです。本人やご家族にとって、人生を台無しにされたという思いが生まれて当然だと思います。しかし、その当然の怒りが、患者さんをさらに疼痛によって苦しめるというのですから、何とも不条理なことです。

また、怒りを持てないという人は、なかなかうつから脱却できないという状況もこれまでよく目にしてきました。「自分は悪くない、悪いのは相手だ」と思えた方が回復するのかなと漠然と感じていました。怒りだけでようやく自分を支えていた人もいらっしゃいました。しかし、怒りによって、疼痛も生じ、うつ病も軽快しないということならば違うのかなとも思えてきました。

当事者である患者さんが、痛みに苦しんでも怒りを捨てたくないというのであれば、周囲がどうのこうのということはできないのかもしれません。ただ、怒りがご自分を直接苦しめている可能性があるということは言うべきではないかとも考えています。だから「怒ってはいけない」というアプローチではないのでしょうね。怒るなと言ってしまえば、信頼関係が傷つくことになるでしょうね。自分をわかってくれない。きれいごとばかりを言う。そんな感じになるでしょうね。

ただ、患者さん自身の怒りがご自身を苦しめる可能性があるとすれば、支援者は無責任に当事者の怒りをあおることはするべきではないということになると思います。患者さんが、穏やかに生活しようという価値観で、家族とともに回復の道を歩んでいるのに、「もっと怒るべきだ。」という自分の価値観で怒りをあおるということは、疼痛を招く可能性もあるし、もしかしたら回復を妨げるということがあるかもしれません。

疼痛に限らず、怒りやその前提となる被害感情によって、精神的な意味で害がもたらされている可能性があると感じています。仕事がら、人間関係の紛争の当事者の方々とお付き合いするわけですが、やはり怒りをもって当然だと思える不条理な思いをしている人たちはたくさんいます。人間関係の中でも、家族関係を筆頭に、職場関係や、学校関係など、継続して付き合わなければならない人間関係において紛争がある場合は、うつ状態になりやすいように感じています。怒りながら、精神活動が低下していくという、一見矛盾するようなご様子になる方も少なくありません。支援者等安心感を持てる人間の中では怒りを持てるのだけれど、その外の世界や一人の時間になると精神活動が低下してしまうという感じでしょうか。しかも、1人で住んでいる家、部屋から、メールを送信するときにその怒りが果てしなく膨らみ、収拾がつかなくなってしまうという様子もよく見られます。
第三者としてそういうメールを読んで感じてしまうことは、怒りで収拾が付かなくなり、冷静な判断ができず、合理的な反撃ができなくなる、むしろ、自分に不利なことを自ら行ってしまいそうになっているということが一つです。もう一つは、相手に対する呪いのような怒りによって、ご自分をさらに苦しめているなあと感じることです。相手を攻撃しているはずなのに、相手を攻撃する言葉の中に自虐的な要素もずいぶん感じてしまうのです。第三者としては、そのような呪いの言葉は、あまり効きたくはありません。ひどい仕打ちをされたのだから、それに見合うような呪いの言葉で攻撃しないと、自分を保てないということも理解はできるのです。しかし、プロとしては、その感情にまでついて行ってしまうと仕事が冷静にできなくなりますので、「理解はするけれど、同調はしない」ということが原則だと考えています。

依頼された事件を首尾よく成し遂げるという目的の範囲では、その呪いのような怒りを自分たち以外に表明することはどうしても避けるべきだというアドバイスをするべきだと思います。

しかし、恨みを抱く気持ちはよくわかる。呪いのような攻撃の言葉を発しないと自分という精神存在を保つことができないということも理解できる。しかし攻撃的感情を持つと体の痛みが生じ、精神的にもダメージを受けてしまう。どうしたらよいかわからなくなります。

こういう場合に、患者さん方は、ご自分で解決の方向を見つけられることが多いようです。最初の患者さんは、「うつ病になってこれまでの仕事、生き方が断絶させられてしまったけれど、労災を申請したり裁判をしたりする経過の中で、色々な人と出会え、色々な人が自分の味方になってくれて、色々ことを考えることができた。仕事が中断しなかったらこういうことを知らないで生きていったと思うと、悪かったことだけではないと感じている。」と言ってくださいました。
弁護士なんて言う職業は、うつ病の患者さんから励まさられる職業なのだなあと嬉しいやら恐縮するやら、そういう思いで聞かせていただきました。

2番目の患者さんからも色々なことを教わりました。このブログのいくつかの重要な記事(もっとも重要な記事を含む)は、この方と共同作業で作成したようなものです。

心理学では、悲惨な体験をして精神的にひどく傷ついてしまった場合、なかなかそれが治癒しない時に、治癒だけを優先するということをしないで、精神的外傷も承認した上で新たな人間としての成長を図るという方向での解決方法が提案されているようです。ポストトラウマティックグロース、PTGという理論のようです。治癒することを放棄するというのではなく、治癒を待たないでも幸せを実感していくという考え方なのだろうと、最初の患者さんの言葉を聞いてしみじみと実感することができました。
幸せは人それぞれかもしれません。しかし、その人なりの幸せの追求をすることも、怒りとともにでも良いから、選択肢として提起するということを目指すということになるのかもしれません。紛争解決の方向を定めるにあたっても有効な働きかけになるような気もしています。

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内親王殿下の複雑性PTSDの診断に寄せて インターネットの誹謗中傷は極限的な攻撃性を獲得しやすいことと、インターネットの誹謗中傷が人間の精神を破壊する可能性があること [進化心理学、生理学、対人関係学]



医学会においては、複雑性PTSD(complex post-traumatic stress disorder)という疾患を認めるか否か、またそもそもPTSDという疾患を認めるか否かということについて議論のあるところだと聞きます。しかし、私は医学者ではないし、ICD-11ではCPTSDも疾患名として認められたと聞きますので、こういう疾患が認められるということを前提としてお話しします。

何よりもお話ししたかったのは、内親王殿下が中学生くらいから、インターネットで自分に対する悪口を書かれていることを見つけるようになって、CPTSDを発症したとの発表があり、それに対してある精神科医の先生が、「悪口くらいでCPTSDが発症することはあり得ない。」とコメントをされていたことについて、それは違うのではないかということです。

もしこの精神科医の先生が正しいのであれば、もしかすると昨年亡くなった木村花さんは、悪口を言われただけで自死したのはおかしいということにならないだろうかという疑問も出てくるような気がします。もっとも、精神科医の先生は、私なんぞが思いもしないところで整合したご意見を発していらっしゃるのでしょう。しかし、私には、インターネット情報の危険性の方に目が行ってしまうのです。

確かにCPTSDを提唱したJ.L.ハーマンの想定していた精神的外傷(トラウマ)は、夫婦間暴力や虐待等、直接対峙する人間関係に基づく悲惨な体験に基づくものでした。インターネットに書き込まれるということは、それに比べると身体的な侵害はないし、逃れられない継続的な人間関係の中での出来事ではありません。悪口くらいでCPTSDになるということは考えられないとする根拠もここにあると思われます。

ハーマンの「心的外傷と回復」が執筆された時代は、1990年代です。フェイスブック社の創業が2004年です。ハーマンの執筆の当時は今ほどはインターネットが一般化しておらず、その対人関係的弊害が認識されていない時代です。もっとも今は2021年ですけれど、未だにその弊害の深刻さについては十分認識されていないのではないかと思われます。ちょうどよい機会なので、この点についてお話ししようと思いました。

CPTSDを提唱したハーマンは、それまでの通常のPTSDは、戦争やテロ、強姦という、一回の出来事でも誰でもが深刻な外傷体験となる体験、通常はスポット的な体験が念頭に置かれていました。ここで念頭に置かれている強烈な外傷体験は、さすがに繰り返して体験する人はいないだろうと思われます。しかし、それほど強烈ではないけれど、繰り返し長期にわたる虐待事例において、過覚醒、侵入、狭窄という恐怖症状、心理学的監禁状態、社会との断絶などの症状が現れることを観察していました。通常のPTSDではない、慢性の外傷体験(被支配体験)による症状についての診断名が必要だということ、うつや適応障害、人格障害や解離とは症状も治療方法も異なるため新しい診断名が必要だということで、CPTSDを提唱しました。

ハーマンは、CPTSDが発症する外傷体験を
「全体主義的な支配下に長期間(月から年の単位)服属した生活し、実例には人質、戦時捕虜、強制収容所生存者、一部の宗教カルトの生存者を含む、実例にはまた、性生活および家庭内日常生活における全体主義的システムへの服属者を含み、その実例として家庭内殴打、児童の身体的および性的虐待の被害者および組織による性的搾取を含む」
としています。

これを読んでしまうと、なるほど、虐待と言えるような激しい攻撃が必要で、かつ、直接的に対峙する人間関係の相手方の行為であることが必要であるように感じてしまいます。
しかし、インターネット、特にSNSの弊害を考えると、SNSによって、CPTSDが発症するという流れがあるのではないかと考えるのです。

ハーマンは、「精神的外傷と回復」の中で、CPTSDの本質は社会とのつながりを奪われることにあると述べていると私は読みました。だから、治療方法は、人とのつながりを再生することだと言っているわけです。
どうして、先ほどの外傷体験があると社会とのつながりが絶たれるかというと、それらの外傷体験は、加害者の支配によって被害者は加害者以外の人間から孤立するからだということになろうかと思われます。全体主義的支配という意味は、そういう意味で、具体的に強制収用や、慢性的な虐待という「逃げ場のない状態」にあることを診断のために必要だとしたのでしょう。

心的外傷と回復の中で、私が一番感動したのは、人間における自己の概念というのは、単体で生きていて形成されるものではなく、自分のつながりの中での自分の在り方を意味するのだというところです。このため、自分が生きていくうえで必要な人間的つながりが絶たれてしまうと、人間は自己概念を維持できなくなり精神的破綻に向かうと私なりに理解しました。

つながりの自由が奪われること、つながりの自己コントロールが不能になることは、人間の精神に対して深刻な打撃を与えるということがCPTSD理論の中核だったはずです。
私の理論の根拠もここにあります。

つまり、
インターネットの他者の書き込みによって、
現代人は、「自己と他者とのつながり」を
「自分でコントロールすること」が不能になると感じてしまい、
自己概念を維持することができなくなり、
他者とのつながりが持てなくなってしまう。
という弊害があると私は主張いたします。

インターネットの書き込みは、ハーマンの言う外傷体験とは全く異なります。
書き込みをされても、自分の家族、学校、職場においては、変わらずに自分は他者とのつながりを持つことに支障が無いようにも思えます。インターネットに悪意が書き込まれていても、日常生活には影響が無いようにも見えます。そんなことで悩むのは馬鹿らしい、気にしなければ良いだけの話だという人もいることでしょう。

しかし、どうやらそうではないようです。人間はそう簡単に物事を割り切ることができないし、気持ちが強くできてはいないようです。

実際に精神医学の認知行動療法の中に、対人関係療法という体系があります。対人関係学とは無関係の由緒ある医学体系です。この療法の治療の考え方として、
現在クライアントが抱えている対人関係的問題が、自分にとって重要な関係なのか、重要ではない関係なのかということを、ご自分で認識することによって、無用な悩みを、無用であると判断し、精神状態の改善を図るという方法があります。対人関係療法からは、人間は、本来、悩むべき人間関係のトラブルと悩まなくても良い人間関係の不具合とを、簡単に区別ができない場合があるということを示していると思います。

できれば、すべての人間の中で尊重されていたいと思うのが人間のようです。
どうしてこのような無茶な願いをするのでしょうか。それは、人間の心の発生時期の環境と関連すると私は思います。

人間の心が発生したのは、今から200万年位前だとされています。当時は狩猟採集をして生活をしていたとされており、30人程度のコアなグループとそのようなグループで構成される150人くらいの集合体を作っていたようです。このせいぜい200人弱のメンバーが生まれてから死ぬまでに認識する自分以外の人間ということになります。こういう少人数の群れにおいては、自分と他人の区別があまりつかず、利益も公平に分配されていたとされています。誰かが、失敗をしても仲間は責めることはしなかったでしょう。体力的に劣ってもフォローをしていたことでしょう。実際に介護がなければ生きていけなかった人間の人骨も発見され、他の仲間が長年介護をしていたことも証明されているそうです。人類は助け合い、仲間を責めないで、平等に生きていたし、弱い仲間を援助するという性質を持っていたようです。

これはそのような必要性があり、必要性に向かって進化したのだと思います。つまり、人間単体では攻撃能力も防御能力も低く、すぐに肉食獣の餌食になり、食物を発見すれば餓死する危険がありました。仲間を作ることによってのみ、その弱点を克服して現代に子孫をつないできたわけです。それを行うことによって、ようやく環境に適合できたことになります。だから、利他行為は、理屈ではなく、人間の本性だというべきだと私は思います。見返りがなければ他人に利益を与えないという考えは、文明に毒されている考えだと思うのです。

この心は、現代にも続いています。仲間から責められたり、批判されたり、嘲笑されれば、人間の心は傷つきます。助け合う姿に感動するはずです。こころは200万年前から進化していないのです。

では、どうして、現代のようなインターネットの誹謗中傷や、いじめ、ハラスメントが起きるのでしょうか。
詳しくは別のところで書いていますので省略します。大事なことは、接する人数が膨大になり、また、所属する群れも、家庭、学校、職場、地域その他とこれも膨大な数の群れになってしまったという環境的変化がおきているということに原因があると考えます。
同時に複数の群れの構成員、偶然すれ違う人、そのすべての人間と接しているので、すべての人間に仲間意識を持つことができなくなっています。家庭の中でも、例えば友達との関係で、親から注意されれば、心理的な葛藤が生まれます。局面によって、同じ仲間でも利害対立が表面的には起こることになります。また、仲間も死ぬまで同じ仲間ということはなく、入れ替えもあります。家族ですら、離婚等の入れ替えが起きることが珍しくありません。仲間、あるいは人間に対するつながりの意識が希薄になっているわけです。さらには、利害対立が起きた場合に、このような人間関係の希薄さによって、他者の利益を犠牲にしても、自分を守るということが常態化しています。
客観的には、人間の対立は起きやすい環境になっているわけです。
それでも全く利害関係のない、縁もゆかりもない人間からでも、他人から攻撃されれば、大変悲しい気持ちになるわけです。心が環境の劇的な変化に対応していないということになります。

こころは、およそ相手が人間であれば、自分を尊重してほしいと思ってしまう。そして、失敗を責めないでほしいし、弱点はフォローしてほしい、嘲笑しないでほしいという気持ちを持ってしまっているわけです。
しかし、攻撃する側から見れば、相手は自分の仲間ではなく、自分を守るためには相手を攻撃をしても良いと考えて攻撃をします。

しかし、人間は、どうやら、相手を攻撃するときには、その相手の落ち度を見つけて攻撃をしたいようです。その落ち度によって、自分が損害を受けているということで攻撃の正当性を図ることが多いと思います。
相手の落ち度、自分の損害が、相手の社会的ルールに違反していること、即ち正義を口実に相手を攻撃するようです。社会的ルールとは、法律だけでなく、道徳や常識、習慣みたいなものも入ります。自分はそのルールを守って生きている、だから窮屈だ。しかし、相手はルールを守らない。相手がルールを守らないことはルールを守っている自分が損をしている。だから相手のルール違反を理由に正義の観点から相手を攻撃する。
これがネットの誹謗中傷だと思います。

そして攻撃をするときの心理としては、自分が正しいことを承認してくれる他者の存在が欲しくなり、そのように自分の意見を指示してくれる人が出てくると、自分の私益のための攻撃ではなく、自分達社会の利益のための攻撃だという正当性の意識が強固になるようです。また攻撃を支える怒りの性質から、相手の自分に対する危険性を無くさせるまで攻撃の手を緩めなくなり、攻撃はエスカレートする性質があります。誹謗中傷の表現は極限まで高まっていきます。また、攻撃行動の条件として、自分が反撃されないことが必要になります。自分が安全だからこそ、不正義に対して怒りが持てるわけです。自分を攻撃する相手が自分より強ければ、あるいは自分自身にも相当のダメージが加わると思えば、攻撃しないで逃げ出すわけです。

インターネットの匿名性は、自分が反撃されないという条件を満たしています。また、自分が見られないために、怒りが抑制されるきっかけが無くなり、極限的な攻撃的な言動を可能としてしまいます。相手の反応が見えませんので、相手はあくまでもルールを破った人間という特性しかありません。容赦がない攻撃が可能となるわけです。また、自分の仲間にも書き込みが見られるわけではないので、その点からも抑止力は期待できません。

それにしても、インターネットの誹謗中傷は、見ず知らずの人間からの攻撃であるし、実際は暴力が起きるわけではない。また、自分の本当の仲間が、そんな誹謗中傷の影響を受けるわけではないでしょう。不愉快になることは当然だとして、CPTSDを発症させるような恐怖体験ではないのではないかという疑問はなお起きるかもしれません。

先ず、「人間は人間から尊重されたい。」という命題はあるわけです。この要求がかなえられない場合は心身に不調が起きるとされています。我々年寄りでも、「死ね」とか、自分の存在自体を否定されるような書き込みに対しては深い以上の怖さが出てくると思います。殺されるという具体的な恐怖というよりも、どうしてここまで自分は否定されなければならないのだろうという感情は、言い知れぬ不安感を抱くと思います。そのことをきっかけに、悲観的な考え、疑心暗鬼的な不安、安全ではないという感覚を持つようになり、焦燥感もわいてくるということはあり得ることです。特に、その自分の存在の否定に対して、その発信者以外の人間が賛同しているとか、容認する形で肯定していると感じるようになれば、自分が社会から否定されているという考え方になっていくことはあり得ることではないでしょうか。

次に、若者たちには特殊な事情があるようです。SNS等、一般に誰にでも開かれた仮想空間であっても、その中で常連のようなネット仲間がいるような場合は特に、その仮想空間が自分にとって重要な人間関係だと感じるということがあるようです。他者の書き込みによって、自分自身の評価が下げられたときは、自分その人から攻撃されたという1対1の関係での出来事ではなく、仲間の中で顔をつぶされたという感情が伴うようです。誰かが自分を庇わない時は、その誰かからも攻撃された感覚になっていくようです。自分が行っているSNS、例えばフェイスブックだったり、インスタグラムだったり、それがその若者の世界なのだそうです。そこで、自分が完全に否定されるということは、もう自分の世界の中で、自分らしく生きていくことができないというような感覚になってしまうようです。私のような年寄りであれば、フェイスブックやめればいいだろうと思いますが、若者はそれができないようです。やめるという発想を持てなくなるようです。こんなところでも、心は200年前のままのようです。

内親王殿下は、若者ですから、インターネットの書き込みは、かなり重大な打撃を受けたと思われます。SNSをやっているということはないかもしれませんが、影響力は甚大であった可能性が高いと思います。加えて多くの人間から誹謗中傷されることは、逃げ場がなくなるという感覚になったと思われます。また、中途半端に知られている、つまりお人柄などがわからないのに、身分や容姿は知ることができるということから、攻撃の的になりやすかったのかもしれません。

国民についての深刻な話は、むしろここからです。宮内庁が、CPTSDだと発表し、その原因がインターネットの書き込みにあると説明したにもかかわらず、なお、以前に増して、内親王殿下や殿下の大切にしている人に対しての書き込みが後を絶たないという現実です。皇室は必ずしも税金で生計を立てているわけではなく、税金とはかかわりのない独自の収入があるということを知らない人も多いようです。何よりも、本来自分の利害の関係のない人たちのことで、攻撃の心理によって、攻撃がやまないという現状を恐ろしいと私は感じました。

常識、道徳、慣習などのルールを破壊したという正義の名の下の攻撃ということになると思います。

皇族の生活に対する自由な意見(攻撃ではなく)と憲法上の象徴天皇制という法的な問題、及び開かれた皇室ということの不可避的なデメリットの問題は長くなるので日を改めて論じるかどうか検討したいと思います。

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【公務災害認定報告】本部審査会による逆転認定 持ち帰り残業が残業時間として認められる基準が示された事案 [労災事件]



私が弁護士になって担当した、4回目の地方公務員災害補償基金審査会での逆転認定ということになります。

今回は、離島だった島の小学校の教頭先生が、心筋梗塞でお亡くなりになった事案です。教頭先生ということで、事情が分かる方は、忙しいお仕事だということをすぐにお分かりになると思います。こちらの先生は、教頭先生のお仕事だけでも忙しいのに、教科も受けもたれられていた上に、教育委員会の仕事もたくさん引き受けられていたという事案でした。
それにもかかわらず、宮城県支部長段階(裁判で言えば第一審みたいなもの)で公務災害とは認められず、支部審査会に審査請求(異議申立)をしても(裁判で言えば高等裁判所に控訴しても)認められず、本部の審査会(裁判所で言えば最高裁判所みたいなもの)に再審査請求をして、ようやく公務が原因で心筋梗塞になって亡くなったという事実が認められました。亡くなってから認定されるまで約5年が経過していました。

勤務地は、船でしか行くことができず、船の始発の7時前に船に乗り、夕方の7時前には船で島を離れなくてはなりませんでした。小学校の教頭先生は、膨大な仕事があるため、どうしても船のある時間に仕事が終わらず、自宅に仕事を持ち帰られなければならないので、家でも仕事をしていました。これが持ち帰り残業です。

この持ち帰り残業が、請求者の主張通り認められれば、過労死基準をかなり超える時間の残業時間となるので、公務災害であると認定されるはずです。しかし、自宅での仕事は、実際にどのくらいの時間働いていたかについての証明が難しいこと、勤務場所での労働ではなく、自宅での労働なので緊張感、ストレスが大きく違うので、過労死認定における労働時間だと言えるかという2点が問題になります。

主としてこの2点を理由に、支部審査会までは公務災害であることが否定されました。
本部審査会は、持ち帰り残業が、労働時間として過労死認定に考慮されるための基準を明確に示しました。

「職務が繁忙であり、自宅で作業せざるえ終えない諸事情が客観的に証明された場合については、例外的に、発症前に作成された具体的成果物の合理的評価に基づき付加的要因として評価される。」
となりますので、これを分解してみると
1)職務が繁忙であること
2)勤務場所ではなく、自宅で作業をしなければならない事情があること
3)具体的成果物を合理的に判断して労働時間を評価できること

ということになります。

1)繁忙については、当事者が忙しくて疲れるということを実感するのは良いとしても、「繁忙」であることを認定する人に伝えなければなりません。これはなかなか難しいことです。
 認定する人は教師等現場の仕事を分かっていない人が多いということがこれまでの経験から感じていたことでした。ともすると、「過労か否かを認定する立場の人は仕事内容を習熟しているはずだ。」、あるいは、「習熟しているべきだ。」と無意識に考えてしまいがちです。これは「違う」と考えて活動を行うべきだと思います。知らないことを非難しても公務災害認定はなされません。そのためにどうするか。
 先ず、通常の職務に伴う仕事の内容をきっちりと伝えることが必要です。幸い、友人に教頭先生がいて、みっちりとしつこいくらい話を聞くことができました。どういう仕事の内容があって、どれがどのように大変なのか。朝学校に来てから帰るまでどの時間帯にどのような仕事をするのか、年間を通すとどのような仕事をするのか。何をどう聞けば、認定者が理解できるようになるか意識しながら聴き取る必要があります。
 次に、その職場その職場でプラスアルファの仕事がありますから、そこは各職場の内容を知っている人から教えてもらわなければなりません。幸いにも皆さん大変に協力していただき、この点も成果が上がりました。実際にその職場に行って、実際に活動しておられた動線を自分も辿ってみました。
 そして、その次に、その人の特別事情も知らなければなりません。この教頭先生は、通常の教頭の先生以上に教育委員会の仕事を、しかも困難な頭を使わなければならない仕事をたくさん行われていました。この仕事を理解すること自体が一苦労でした。言葉で聞いただけでは全く分かりません。実際に現地に赴き、成果物、発表物を写真に収め、パンフレットを見て、ホームページも見て、ようやくおぼろげにわかりかけてきたというような段階でした。
 そうやって、ただでさえ忙しい教頭先生なのに、さらに膨大な仕事をしていらっしゃったということがわかりました。
 それを認定する方々に説明する必要があるわけです。自分が実際にこの資料で理解できたという資料を画像にして示すということも効果があったと思います。
 繁忙を伝えるというプレゼン技法も、だいぶ考え抜いたつもりでした。プレゼンの際の話す速度や資料の活用方法なども基本を押さえて行ったつもりです。
 期限内にやらなければならない仕事がこのようにあったのだということが、まず代理人のやるべきことということになります。

2)自宅で作業を行う必要性
 先ず大前提として、職場にいる時間で仕事が終わらないという事情を示さなければなりません。その上で、船の時間のため、職場を退出しなければならなかったと続くわけです。1)の活動が前提となるということが大切です。さらには、仕事には期限があるということも自宅作業の必要性の重要なポイントですから、これもきちんと証明する必要があります。

3)成果物などの証拠
 この点で、支部審査会などと対立しました。ポイントは、成果物の内容が相当時間を要する内容であり、その時間については上司の方々も認めていたのですが、支部審査会は成果物を形式的にとらえました。つまり、文書の最終更新日の時間によって残業時間を認めようというものでした。これだと、2日以上に分けて少しずつ作った文書は、最後の1日だけが労働時間と認められて、前日の途中作業は更新されて消去されていますから労働時間だと認められないという不合理があります。ここは、大問題です。成果物の更新記録だけではなく、パソコンの作業時間を示す資料などを分析し、作業していたことの立証を行いました。ここは、ご遺族の方が発見して立証に成功したところも大きく認定に貢献しています。本部審査会もこの点について興味を見せていただき、最終的にはパソコンの提出も求められました。調べていただいたということになります。
 しかし、それは最後の決め手ですが、その前提として、ご家族のご自宅での様子、特にルーティンの様子、上司の方の成果物の評価がなくしてはこの最終トライにはつながらなかったと思います。

 本件は、管理職ということで労働組合の組合員ではなく、組合に対して積極的に支援を要請した事案ではありませんでした。それでも、亡くなった先生を知る多くの方々に様々な協力をしていただきました。亡くなった先生のお人柄が偲ばれるとともに、多くの学校現場の方々の、この事例が過労死として認められないことはおかしいという義憤のようなものを感じました。お一人お一人に頭が下がる思いです。

感想
自身4度目の逆転認定ですが、何度でも認定通知が届いた瞬間の興奮が無くなることはありません。今回も逆転認定にならなければ行政裁判だと気を張り詰めていたということもあり、喜びはひとしおでした。しかし、労災事件の常なのですが、今回の亡くなられた先生は、私と同い年でした。あと何年かで定年退職を迎える歳でした。先生もご遺族も、いろいろな夢があったと思います。ご自身の趣味の活動に時間を使うとか、新しいことに挑戦しようとか、家族で旅行に行くとか、まさに当時の私と同じように色々なことを考えておられただろうと思うのです。認定がなされてご家族の生活のご心配が軽減されたことは大変喜ばしいことですが、何ともやりきれない思いも実は大きくあるわけです。
そのためなんとしても過労死予防こそ第1に取り組まなければならないことだと思い、何かの役に立てばと思いこのご報告記事を書いた次第です。

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【先日も不合理で一方的な調停があったということからの吐き出し】夫婦問題は、具体的な離婚予防策を意識して実行して楽しい生活を送るか、一方的に子どもと引き離されて離婚して精神的ダメージを受ける上にこちら側の生活に響く生活費を強制執行の脅かしの下で支払う等の数々の理不尽を受け入れるか。結局そういう選択問題だということ。 [弁護士会 民主主義 人権]



どうやら、現代社会は、普通に暮らしていると、何割かの確率で、妻は夫に嫌悪感と恐怖を抱く。当事者からすれば外れくじを引いたような感覚になる。
同時に、妻は、夫の何気ないふるまい、当たり前の感情を行政や弁護士の力を借りてDVだと評価してもらう。この結果、ある時、夫が家に帰ったら所持品とともに、子どもも妻もいなくなっている。必死になって行方を捜そうと警察に問い合わせをしようとも、警察はお茶を濁したようなことを言って、取り合ってくれない。
先ず、ここまでが第1の不合理。
誰しも、このような近未来を予想して生きていない。その前に、何らかの提案が来るわけでもない。ある日ある時、突然それはやってくる。

第2の不合理は、あなたがいろいろ手を尽くそうとすると、行政では、あなたはDV「加害者」と呼ばれている。ここでいう加害者とは被害者に加害を加えたものではなく、DV相談をした妻の夫という意味である((総務省平成25年10月18日「DV等被害者支援における『加害者』の考え方について」)。それでも、市役所では、あなたは加害者という呼称で扱われるので、DV加害者という意識を職員たちは持つ。ただの「DV」という言葉があるだけなのに、あなたはとても激しいクレーマーだと思われ、執拗に違法な要求を繰り返してくるかのような対応をとられる。職員は、明らかにあなたに恐怖を感じ、恐怖を振り払うように、あなたに強硬な態度をとる。マニュアルには、「あなたと話すことはない。」と話せと書いてあり、その通り話すことによって、実直にあなたを怒らせる職員は多い。あなたは世間から、犯罪者として扱われているという感覚を持ち、社会的孤立に苦しむことになる。子どもが心配になり、妻の実家に行ってみると多数の警察官に取り囲まれ、ストーカー警告を受ける。離婚して10年ぶりに転居をするので連絡をしたら「つきまとい」としてストーカー警告を受ける。これは実際に起きていることで、私は話を大げさに言っているわけではない。

第3の不合理は、司法の場で起きる。あなたの妻は、婚姻費用請求、離婚請求、財産分与、親権を母親に指定すること、養育費、そして慰謝料を請求してくる。

婚姻費用請求は、常に認められ、あなたは支払わなければならない。特に住宅ローンがある場合が悲惨だ。住宅ローンを支払っていることは、支払金額の算定に考慮されないからだ。婚姻費用は、同居中と同じ程度の生活を維持する目的の費用なので金額が高額になる。しかし、二か所での生活をしているため生活諸経費は二倍かかることになる。あなたの実際の生活事情は通常全く考慮されず、あくまでも年収の額面(税込み)で決定されてしまう。高額の住宅ローンがある場合は、あなたはぎりぎりの生活を強いられることになる。子どものために生活費を払うことを嫌がる父親はいない。しかし、自分に相談もなく一方的に出て行って、その結果婚姻費用の支払いが必要になったというのに、出て行った事情は考慮されない。婚姻費用は、現実の生活を送るための費用であり、待ったなしに支払わなければならないという扱いである。そのために、不当な別居かどうかを吟味することは通常行わない。
あなたは、誰も待っていない一人の家に帰り、カップラーメンをすすりながら、婚姻費用を捻出している自分に気が付く。それでも、妻は、もっと収入があるはずだといきり立つ。それはそうだろう。一緒に暮らしているときは、残業をして、人の嫌がる仕事をして、家族のために収入を無理して高めていたから、今もその収入が維持されていると思っているからだ。一人暮らしで、可処分所得の大半を養育費や婚姻費用として差し出している人間は、そのような働く意欲など持てるはずがない。それが人間だと思う。子どもを通じて臨時の支出を要求してきても無い袖は振れない。さらに、連れ去り別居があると、うつ病の治療のために費用や、不思議と怪我をする人が多く、病院代がかさむことがよくある。

財産分与も、様々な不合理を感じる。何十年先の退職金も、まだ退職していないのに、退職金を受領したことを前提として同居期間相当分を支払わなければならない。大体多くの企業では、退職するまで会社が存続するのか保証はない。公務員であっても、賃金が切り下げられていけば、将来退職金額も切り捨てられる可能性もある。どこかでリストラされる可能性も考慮されない。そもそもまだ受領していない金をどうやって払えと言うのか。あなたは、どうして裁判所でこんなことを平気で命じるのだろうとつぶやいている。住宅ローンも同様である。離婚事件の少なくない事例で、住宅ローンを組んだ1年以内に連れ去り別居が起きている。執拗にねだられて家を建てたにもかかわらずである。結婚前からある財産も、それは結婚前からあるということを証明しなければ、半分支払えという命令が出る。その証明は通常難しい。

親権は、裁判所は母親に指定する。小さい子どもの場合は特に、乳幼児期に多くの時間を過ごした方に指定することが子どもの幸せだという考えを持っているからだ。産前産後に仕事を休んで子どもの世話をするのは母親が圧倒的に多いから通常母親が親権者となるのである。親権を外れた生物学上の父親は、子どもが児童相談所に保護される事態になっても、親権者ではないからと一切の情報の提供を拒否される。行政からは、父親ではなく、第三者の一般人という扱いだ。

それでも子ども顔が見たいと思い、面会交流を家庭裁判所に申し立てる。なんと会いたいという一心で、家裁の書記官や裁判官の論文を読んで勉強したりする。家裁月報や家裁紀要等を必死に入手して勉強する。そして、唖然とする。そこで語られていることは、家庭裁判所では一切通用しないのである。どうやらそんな文献は家庭裁判所の職員は読んでもいないようだ。就学前の子どもでも、会いたくないと語れば、子どもの意思だからと言って面会は禁じられる。長期間親に会っていない子どもは、実の親だとしても会うことに不安になることは当然である。安心の記憶ははるか昔の出来事だからだ。家庭裁判所では当然のことではないと知る。子どもは何年か会えていない父親に対しても、調査官に会いたくて仕方がないということが当然だと考えられているようだ。一番納得いかないことは、現在の子どもの感情を錦の御旗のように根拠として物事が決められているということだ。二つの意味で間違いだとされている。一つは、母親とだけ生活した時間が長く、父親と面会すらしない時間が経過したという事情から、子どもの意思が形成されてしまっているということを考慮していないこと。もう一つは、子どもは成長するということ、今は良くても将来的な影響が生じるということは多くの家庭裁判所の文献で明らかにされている。しかし、この点について考察をすることが行われないこと。父親とも生活したい子どもが無理やり引き離されて、問題行動を繰り返す例が実際に存在している。
家庭裁判所はどのようなルールで運用されているのか、弁護士に尋ねてもわからないという。

そうして、子どもとも会えないまま、離婚手続きが終わらない限り高額な婚費を支払い、離婚後も養育費を支払う。支払わなければ、給料の半分が差し押さえられるという。

ここまで書いてきたことは例外的にひどい話ではない。スタンダードな流れである。もっと悲惨な目にあっている人もいる。面会交流調停を申し立てたら、調停委員から、「なんで子どもに会いたいのだ。」と尋ねられた父親もいる。身に覚えのないDVを妻が裁判所に報告したらしく(その内容は夫は知りえない)、インカムをセットした裁判所職員が、裁判所内を夫が異動するたびに少し離れてついてくることもある。見張られていることが分かった当事者が自分は当事者として平等に扱われていると果たして考えるだろうか。現実の事例では、警備員を配置しても、離婚手続きにおいては妻は夫の暴力を主張しなかった。裁判官に抗議したところ、職員の安全を図らなければならないということ以外理由を説明されなかった。不平等は仕方が無いと言わんばかりだ。子どもをとられた母親の場合は、2メートル以内に付きまとわれたこともあった。

まだまだ理不尽はたくさんある。弁護士をしていて、自分の依頼者がこのような理不尽な扱いを受けることに慣れることはない。夜中に目が覚めてしまい、悔しくて眠れなくなることもある。法律やコンセンサスでそのような運用をするならばまだ仕方がない。依頼者に説明することもできる。そうではなくてフリーハンドの感覚で、人間の心がないがしろにされているような運用は慣れることがない。裁判所は判決や決定をしなければならない、つまり白黒決めなければならない機関である。ある程度の割り切りが生まれることは致しかないかもしれない。しかし、白黒は、正義と悪ではない。あくまでも訴訟上または手続上の決着に過ぎない。しかし、黒く塗りつぶされた方は、人間の感情を抱くことも許されないような扱いを受けていると感じられてならない。

このような扱いを受けて、子どもとは会えずに金だけは払い続け、自分は誰もいない一人の家に帰り、酒をあおって面白くもないテレビを観て寝る。相手は子どもの笑顔と成長を見ながら生きていると思うと、苦しさは倍増する。自分はどうしてこのような辛い思いをしなければならないのか、それほどのことを妻にしたのかということを問い続けることになる。しかしその答えは、多くのケースで出てこない。答えの出ない問いかけを自分に対して繰り返す。
ある人は、実績のあった勤めをやめざるを得ないまでに気力が無くなり、友人の世話になって仕事を与えられても長続きしない。そういう生活を繰り返し、10年前の自分の扱いを問い続けてきた。ある人は、離婚から10年たち、偶然知った子どもの連絡先に手紙を出したところ、ストーカー警告を受けた。ある人は養育費を支払い続けたにもかかわらず、子どもが就職したときだけ履歴書用の写真が同封された手紙がよこされた。私の知っている何人かの人は自死をした。こういう人たちは、結婚して生きる希望を持たされて、その希望を絶たれるという絶望を与えられたことになる。激しい落差を味わっている。

裁判や調停での妻の主張を見てもなお、そのように苦しい思いをしている男たちが、こういう目に合わなければならない理由があるとは思われない。多少気真面目過ぎたり、正直すぎるということはある人もいるかもしれないが、ここまでひどい思いをしなくてはならないということがどうしても納得できない。中には、本当に人格的な支配を目的として、服従を強いるような行動をするケースもあった。しかし、それはごく例外的なケースである。通常はそれなりに妻の嫌悪感情を誘引するような事情があったとしても、もっぱら夫に原因があった、というわけではないと感じられるケースが圧倒的多数だ。
そういう男たちの中には、裁判所やSNSで、攻撃的言動をする人がいる。些細な問題にこだわって、大要を把握できない人がいる。従前の性格はわからないが、大多数は、このような理不尽な思いをしたために、自分を守ろうとする意識が過剰になっていることが原因だと考えて矛盾はない。しかし、そのような理解をしようとする人はほとんどいない。通常は、元からこういう性格だから妻は離婚を決意するのだという評価をされてしまう。マイナスな面だけが額面通り受け取られて評価される。幾重にも理不尽な話である。

だから、である。
だから、こんな理不尽な思いをする人が一人でも減るようにしたいと考えている。何も事情も分からないくせに、父親を否定して、母親を苦しめた父親と会いたくないという子どもたちを作らないようにしなければならないと考えている。大人になってもこのような発言をするもと子どもと話をしたが、第三者としてもこのような元子どもたちは痛々しい。自分に自信が持てず、旧友と交わることができず、引きこもり、リストカットや拒食、過食で、精神科病棟の常連となる子どもを作らないようにしなければならない。
だから、離婚の芽をつぶすこと、病的に葛藤が強くなる時期の妻との接し方を確立し、安心感を与える家族関係を作る方法を提案し続けること、大人として家族の時間が楽しいものとするためにするべきことを考えて提案することに力を入れている。予防法学こそやるべきことだと考えている。

そして、これは、妻側にとっても、不幸を拡大しないもっとも簡単な方法だと考えている。

私のブログは、こういう動機で楽しい家族を作る方法を必死に考えて提案している次第です。

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妻からのDV、妻の病的なヒステリーによる精神的な打撃を小さくする方法についての考察 傷つくのがいつでも優しい心なら [家事]

中森明菜「赤い鳥逃げた」*1作詞:康珍化(かんちんふぁ)の冒頭

「傷つくのがいつでも優しい心なら
優しさどこに捨てましょうか
あなたから教えて」

という歌詞があります。
詩人の研ぎ澄まされた感性が
人間の真理を突いたと感じられる
私の大好きな歌でもあります。

この「優しさ」とは何かということも難しいことですが、
たとえば、「相手の気持ちを敏感に察して
相手の役に立ちたいと思う気持ちを持って行動すること」が
優しさという意味の一つだとしたならば
まぎれもなく傷つくのは優しい心だと思います。

妻のヒステリーや妻からのモラルハラスメントによって
多くの男性が精神的に追い込まれています。
妻に対する優しさを発揮しようとしての夫の行動、努力に対して
妻からは容赦なくカウンター攻撃が繰り返され
自分の存在意義さえも根底から否定されるような
発言や行動が繰り広げられて
そして逃げ場がないという状態です。

これからお話しすることは
「子どものために絶対にこうするべきだ」というように
固く考えないでください。

妻からの精神的虐待によって
自死した夫の話もお身内から相談を受けていますし
(子の連れ去りが精神的虐待ならば、
何人かの自死者と生前に出会っています。)
また重篤なうつ病にり患して働くこともできなくなった夫を
この目で何人か見ています。
一言で言って悲惨な状態です。

タイミング、夫の性格、心理的な状態
あるいは妻側の加害の具体的な内容によっては
人間として耐えられないということもありうる話です。

「いざとなったら子どもに土下座をして離婚をして逃げる。」
という選択肢を心に準備していたことが
危機を乗り越えた一番の勝因だと言っている先達もいます。

むしろ離婚という選択肢を持てなくなった時が
精神破綻に追い込まれた時だという人もいます。

自分は離婚という選択肢を持ち続けているだろうか
という自問自答をすることが
もしかしたら生き残る秘訣なのかもしれません。

そのくらい、妻の精神的攻撃に苦しんでいる夫たちがいます。


複雑性PTSDが話題になっています。
この診断名の提唱者であるジュディス・L・ハーマンは、
CPTSDの本質は、
被害者が「人とのつながりを絶たれること」にあると述べています。
だから治療は、人とのつながりを再び作り出すことだというのです。

それが正しいとすれば
虐待の本質は、身体を傷つけられる痛みではなく、
自分が人間として存在するための基盤となる
人間関係を絶たれることによる絶望なのかもしれません。
身体的暴力は、身体を傷つけられると同時に
人間として尊厳、仲間とのつながりを失わせしめているから
被害が甚大になるということになるはずです。

そうすると、DV、虐待、モラルハラスメントは
身体的暴力が無くても成立するということになります。

だから、妻から夫へのDV、虐待は十分成立するのです。

「妻からのDV」というと笑う人(相談担当者、行政)がいます。
おそらく、妻からの理不尽な攻撃があったら
男子たるもの身体的優位さで制圧するだろうから深刻になるはずがない
とでも考えているのでしょうか。

男性のDV被害者の方々は、
妻からどんなに理不尽なことをされても
身体的暴力で対抗することをしません。
しないというよりも、
身体的暴力に打って出ることが「できない」のです。

夫による、妻からのDV被害の訴えを笑う人たちは
結局、DVとは何なのか理解していない人たちです。
女性が被害者となるDVも被害も
本当は理解していないことになります。
「それほど暴力を受けるなら逃げればいいじゃないか
それを逃げないのは、結局男性に依存しているだけだろう。」
等と偏見を持っている可能性があります。
男性のDV被害を理解しない人を
相談担当や行政窓口においてはなりません。

対抗する身体的な対応もできない
攻撃されたことに驚くばかりで合理的な対応をすることもできない
こういう事情が
妻からのDVを可能としているのかもしれません。
優しさが心を傷つけるのだと感じられてなりません。

これから述べる考察は、
妻がDVを行う原因が、一過性のものである時は
良く当てはまります。

これに対して、私が実務上出会った事案のいくつかは
精神病による幻覚幻聴に基づく攻撃
精神病による自己制御不能の状態
修正不能のなんらかのパーソナリティー障害
という場合があり、こういう場合には
あまり当てはまらないことかもしれませんし
高度な技術が必要なことかもしれませんのでご注意願います。

「一過性の原因」ということの代表例が
出産前後、特に出産後2年くらいで、
特に母乳での子育てをしている場合です。

また、一か月単位の周期があって
攻撃性が高まる場合です。

(もちろん、個性による違いが大きくあります。
産前からの傾向が拡大するという場合もあるようです。)

こういう場合は、理由があって攻撃的になっている
というか
攻撃的になっているというよりも
夫が仲間であると感じられなくなっている時期なので
多くのケースでは母乳をやめるか2年くらい経つと
収まっていくようです。

しかし、この時期に対応を間違えると
新たな「夫に安心できない事情」が生まれてしまい
その後もしこりが残ることがあるようです。

第1の対応策は、
いずれ収まっていくと時間の過ぎるのを待つ
ということになります。

但し、ただ我慢するよりは、
「そういうことを言われると苦しい」
「言われるのが嫌だ。情けない気持ちになる。」
「たいそう寂しい気持ちになる。」
等ということをはっきり言葉で教えてあげる必要があります。

この時の注意としては、
居丈高に反論したり、相手の不合理を鋭く突いたり
言い負かしてしまうことは
デメリットばかりが大きくなる危険があるということです。
妻の側で、「新たに夫に安心できなくなる事情」
を作ってしまう危険があるということです。
つまり被害者だったのに、加害者になってしまう
ということです。

そうならないためには、
自分が被害者であることをまず自覚することだと思います。
その上で、被害者らしく振舞うことを考えましょう。

背中を丸めて、斜め下45度を見つめる等
体全体で感情を伝えることが第1です。

これを省略して、条件反射的に怒りだけを伝えると
加害者と被害者が逆転してしまうわけです。
実際のケースではこういうことが多いです。
そして被害者であったはずの夫は、色々な辛酸をなめることになります。

次に多いのは、妻のDVに耐えきれなくなって失踪すること。
先ず被害者であることをきちんとアッピールしてから
その後で失踪するということをしないために
妻子を放っておいたという加害者にされてしまうわけです。

大切なことは被害者であるという自覚をもって
被害者として苦しんでいるということを
攻撃にならないように工夫しながら形で示すことなのでしょう。

第2の対応策は
自分の感じ方を制御するということです。

但し、傷つくことを回避するために
優しさや感受性を殺すことは
自分自身を少しずつ殺していくようなことなので
それはしない方が良いと思います。

優しさを捨てるのではなく、
真面目さや責任感を抑えて、少しいい加減にする。
とこういうことが必要な夫たちが実は多いようなのです。

被害を受けている夫一般に見られることですが、
妻からのDVに対しても過剰な反応をしてしまっていることが
多いように感じています。

とてもありふれた相談例を挙げてみましょう。
妻からのDVの相談がある場合は、
「どんなことをされるのですか?」と尋ねます。
「暴力と暴言です。」と回答があったら、
「どんな暴力ですか。暴言とはどういうことを言うのですか。」
という具体的な内容を聞くことにしています。

「キレてこちらに向かってものを投げ出すのです。」
と言われれば、
「何を投げるのですか。」と尋ねます。
そうすると、ぬいぐるみであったり、ゴミ箱であったり
妻が投げた物を教えてくれます。

何を聞きたいのかというと
例えばハサミだったり、例えばガラスコップだったり
殺傷能力のある投擲行為をしているのか
そこまで自制ができない状態かということを検討するためです。

投げられている本人は気が付きませんが、
その物が何かによって、
夫を殺傷したいのか、
ただイライラを解消したいのかということを見極めることができます。

暴力についても、
けがをさせるとか気を失うような暴力かどうか
ということを尋ねるわけです。

暴言についても一応聞いておきます。
但し、通常、臓物をえぐるような暴言しかありませんから
あまり参考にはなりません。

この記事で私がお話ししたい人物像は、
「そうはいっても、どんなもの投げても、弱い力だとしても
人に向かって物を投げることは無条件にダメなのではないか。」
と素朴に考えている方々なのです。

こういう実際に関わるならば付き合いやすい人こそが
傷つきやすい人ということになるようです。

実際にご自分が真面目で、正義感が強いからこそ
家族に手をあげるということが「できない」わけです。
その真面目さ、正義感を家族にも求めてしまうようです。
しかし、その真面目さや正義感が
自分と妻を苦しめているともいえるのではないでしょうか。

どうして真面目さや正義感が自分を苦しめるのでしょうか。
それは次に述べるような心理経過のようです。

あらゆる暴力は正義や道徳に反する。
あらゆる人を傷つける言葉も正義や道徳に反する。
妻は自分に物を投げるということで
自分を侮辱した言葉を発したことで
正義や道徳に反する行為をした。
自分はその被害者である。
妻の正義や道徳に反する行為は、
自分を侮辱し、ないがしろにする行為である。
だから自分は怒らなくてはならない。
正義や道徳に反する行為をした妻は制裁を受けなければならない。

どうもこういう理屈っぽい感情の経過を
感じる相談が多いのです。
そしてその流れは、
かつての私のように正義感の強い人間が聞けば
ついうなずいてしまうほど自然に聞こえてくるのです。

しかし、私は、常々、このブログでも
法律も、道徳も、正義だって
それは他人同士を規律するための人類の発明品であり、
仲間同士を規律することは別のところにあると主張し続けています。

そのフィルターを通してお話を再構成すると
どうもその考えは本当は自然な考えではないのではないか
という考えが生まれてしまうのです。

つまり実際の被害を基軸にものを考えるのではなく
不正を行う妻の人格を問題にしてしまうのです。
異常な人格者と暮らしている自分はなんて不幸なのだろうと。

ところで制裁について専門的な話をしてしまうと
不正を処罰される場合というのは
理性によって不正を抑制することが期待できる場合の人です。

産後うつならぬ「産後躁」のような
けんかっ早く、無敵モード状態のときは
夫が近くにいると思うとイライラして
夫が近くにいなくければいなくて無責任だとイライラして
とそういう状態になることがあるようです。

このイライラというのはなかなか男性は理解できないのですが、
やっぱりとても苦しくて、何とかこの感情から解放されたいと
そういう要求が強くなっているようです。
そこで八つ当たりをして発散したくなるようです。
自分で合理的な思考を巡らせて
自分の夫に対する攻撃は不合理であり、やってはいけないことだ
というような思考で暴力や暴言をしているわけではないようです。

婦人科系のイライラの場合は
腹部で内出血を起こしていてイライラする場合があるようです。
そういう場合に感情が制御できなくなることが多いのですが、
男性は、そういう外傷ではない内出血が起きる日常ということは
なかなか経験できません。
おそらくその場合のイライラは
強い不安を伴うもののようなものだと思われます。
「出口のない出血」が腹部内で起きているというだけで
私ならめまいがするほど恐ろしいことです。

そういうことでヒステリーを起こしたり、夫に攻撃することが
とても多いようです。

だから、暴力の行為者、暴言者は確かに妻なのですが、
妻を責めたり、罰したりする基盤が本当にあるのか
自信が無くなってしまいます。
つまり、それをしないことが、
果たしてそんなに簡単なことなのか。
そういう妻の精神面の変化という仕組みのおかげで
子どもを授かることができたかもしれません。
そうは考えられないでしょうか。
なかなか難しいこととは思います。

そうして私の研究ですが、
夫に対してヒステリーを起こす妻ほど、
夫を失いたくないと思っている傾向があるようです。
夫を馬鹿にしていたり、侮辱しようとしていたりするわけではなさそうです。
何か特別の意図があっての行動ではないのだろうと思います。

だから、
何も問題や原因がない普通の精神状態ではない
イライラで自分がつぶされそうになっている状態なのだ
と考えてみることはできないでしょうか。

実際はとても難しいことです。
暴言なんて、そういう状態でも適格なところを突いてきます。
自分が侮辱された、馬鹿にされたと思えば
自然に怒りがこみあげてくるのがむしろ当たり前だと思います。

自分を振り返っても分かるのですが、
頭では分かっても
30代までのうちは、なかなか自分の反射的な怒りを抑えるということは

難しかったかもしれません。

でも、怒りの気持ちがわいてからで良いです。
「そんなにムキにならなくても良いのかもしれない。」
と無理して思って見てはいかがでしょうか。

物を投げるということを主目的としているような行為や
あなたに「あたりたい」ということを目的としている行為の場合は、
(つまりあなたを殺傷しようとしている目的はない場合)
あなたに甘えているという理解でよいのだろうと思います。

それを夫の道徳心が強すぎるばかりによけいに傷ついたり
正義感が強すぎるばかりに制裁感情が起きたり、
責任感が強すぎるばかりに、
ヒステリーの言葉を真に受けて余計に傷ついてしまうわけです。

それに輪をかけて
自分の実母や無責任な同僚などの助言、つまり
「そんなことやらせておいたら男子の沽券にかかわる。」
「子どもへの教育的配慮のためやめさせるべきだ。」
「あなたはかなり馬鹿にされている。それでもいいのか。」
「嫁すらも制御できないのか。」
等と言う外野の言葉を真に受けて
自分は「傷つかなければならない。」
「怒らなければならない。」と
素直に制裁感情を引き起こす例は本当に多いと感じています。

文学作品などからわかりますが、
古今東西暴君の妻に虐げられ、苦労している夫たちは
実に多いです。

あなただけではありません。
人類の長期にわたる悩み事であり、
この苦汁を受け入れてきたからこそ
人類が生き残ってきたのかもしれません。

原理的には、妻のDVこそ
人類(二足歩行を常態とする哺乳類)の誕生以来
どの時代にも普遍的に存在していたはずです。

つまり、結婚をした以上、男性は、
人類が誕生したときから選択を迫られていたはずです。

八つ当たりという不合理を断固拒否するのか、
妻の精神的な不安定を伴う焦燥感(イライラ)を
自分を差し出して共有してあげるのか
(できる範囲で)

少しでもそういう視点を持つことで、
結局は、自分と子どもたち、そして最愛の人である妻が
救われるのかもしれません。

まとめますと
第1に、
被害者のままでいること、加害者にならないこと、
被害を冷静に伝えること
第2に、
自分は侮辱されたり、軽く見られてはいるわけではないと考えること

こういうことになろうかと思われます。






*1 赤い鳥逃げた
ミアモーレの、題名違い、歌詞違い、曲、編曲同一の歌です。
どうやら歌謡曲では、こういうパターンを作り、どちらを売り出すか選ぶようです。ミアモーレの方は、歌を聞いただけでドラマチックな情景が生き生きと浮かんできて、曲調とマッチしたのでこちらをシングルカットしたようです。それでも、「赤い鳥逃げた」のパターンも捨てがたく、LPレコードのような大きなレコードでシングルカットされ、私も入手しています。B面はバビロン。先日、久しぶりにレコードをかけたとき、自分の記憶ではもう少し収録曲があったはずなのにおかしいと思っていたら、裏を見たらB面があって、自分で笑ってしまったことがありました。

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今日のNHK「お帰りモネ」(104話、105話)に異議あり、東日本大震災の時の実際の教師と内心に対して自責の念を持つことのばかばかしさ [進化心理学、生理学、対人関係学]


異議ありとか言っていますが
別に文句をつけようというわけではなく、
ちょうどテレビ番組で取り上げていただいたので
説明しやすい良い機会だという便乗企画なのです。

むしろよく取り上げていただいたという大拍手なので、
アンチモネの方々には失望させてすいません。


モネの母親の亜哉子は東日本大震災の際に小学校教師をしていて、
教師を辞めた理由として、
震災の時に、教え子たちをおいて
自分の娘たちの安否を心配して家に帰ろうとしてしまった
と言うことの自責の念を吐露していました。

これは、背景として
教師という職業は、「自分の命よりも教え子の命を優先する」
という聖職論があって、
そのような教師でないから自分を責めたという流れがあるわけです。

昨今の若い人たちには伝わりにくいのは
聖職論(というかそういう教師)なんて知らないよという人が
ほとんどではないかと考えているところだからです。

但し、残業ばかりして、教え子の部活に付き合って
自分の子どもの夕食もろくに作れない、一緒に食べられない
土日は家にいない
という意味では十分聖職者の呪いがかかっているようにも思われます。

さて、私が言いたいことの1つ目は
実際の東日本大震災の教師たちはどうだったのでしょうか。
ということです。

実は職場を離れようとするのと反対で、
震度4以上の地震があったときは職場に行くという業務命令があったため、
せっかく病気休暇をとって自宅にいたのに
原付バイクで海辺の学校に向かい、
津波に巻き込まれて亡くなった先生がいらっしゃいました。

ずいぶん時間がかかりましたけれど、
公務災害が認められました。

また、自分の子どもも大震災当時小学校に通っていたのですが、
担任の先生はご自分の子どもの安否も分からないのに、
すべての教え子の親が迎えに来るまでと
いつまでも教室に残り、子どもたちを励ましていらっしゃいました。

実際の教育現場は、このような教師の皆さんの
大変な思いで教え子を守っていたということが
リアルな話でした。
このことは、目撃者として
機会があれば、いつでも語りたいことです。


二点目は、どうしてわが子を優先しようと心の中で思ったことで
自責の念を覚えなくてはならないのでしょう。
ここが「ちゃんちゃらおかしい」というべきだと思いました。

心の中のことなんで、どうでもよいのです。
色々な雑念は、その人の人格とは無関係に
現れては消えているわけです。
思考というのは、まとまったものではなく、
こういうことを考えてはいけないと思うと
つまり責任感と正義感が強すぎると
「思ってはいけない」と感じる思考に意識が向かうだけなのです。

大事なことは
自分の行動、言動が、他者にどう伝わるか
それなのだと思うのです。
亜哉子は、その場に思いとどまったのだから
どんな思考が頭の中にあったからと言って
何も問題なしで良いと私は思います。
悩むことではない。

それよりも、芥川龍之介の杜子春ではないですが、
我が子の安否を気遣わないということこそ、
後々後悔することであってほしい
そのくらいに私は思います。

教師の子どもの立場なら
そう思うと思います。

鈴木京香さんの演技が圧巻だったため
そして脚本に共感が持てたため
敢えて「文句」を言わせてもらった次第です。

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【家事調停の技術論】子どもがいる場合の家事調停は3面構造で考えなければならないという意味。子どもの独立した人格、利益を考える意味。面会交流調停を例に。 [家事]


家事調停の担当件数が多くなっているのですが、
家庭裁判所に危機感を感じています。

例えばということで、面会交流調停の場合を例に挙げてお話しします。

数年前に、最高裁も
面会交流の動画や、子どもに配慮した話し合いを勧める動画を作成し
子どもの独立の利益を考えろと言う号令をかけ
国も、家事事件手続法を改正し、子どもの代理人の制度を作りました。

しばらくはそのような傾向に調停実務も流れかけたのですが、
最近はまた後退していると感じているからです。

でもどうやら、家裁全体としては流れは確立しているようで、
個々の調停委員会や裁判体の問題のようなのです。

言ってみれば
言葉では、子どもの利益を考えなければならないということは知っている。
しかし、実際の調停の運営における活動では
子どもの利益を考えた結果になる方向に進めていない
という印象を持ってしまうのです。

目標は知っている
しかしその目標を実現する方法についてはわからない。
というような感じです。

無理も無いと言えば無理もないことではあります。
最高裁もそこまで懇切丁寧に説明はしていないようです。

むしろ現場から問題提起をしていくべきことなのでしょう。
ということで
問題の所在が少し見えかけました。

裁判所のスタンスは、
「別居親、同居親、どちらの立場にも偏らず公平を保つ
その上で子どもの利益を第一に考え、調停を進める
面会が子どもの利益を害さないならば、
どのような形で面会を実施するかを議論する。」
というのが、公式見解「的な」もののようです。

これと違うことがあったならば、「違う」と言って是正を求めることができる
ということになりそうなのですが、
そう簡単な話ではありません。

実際の問題点をイメージ的に提示すると

<タイプA>
別居親は会いたいと言っている
同居親は会わせたくないと言っている
話し合いは平行線で、まとまらない。
調停は終わりにして審判にしたらどうだ。

<タイプ特A>
話し合いは平行線でまとまらないから
間接交流で実施するべきではないか。
(来るか来ないかわからない写真を待つことにして終わり)

<タイプ特大A>
話し合いは平行線でまとまらない。
面会は時期尚早なので、今回は取り下げたらどうだ。
(いつになったら時期尚早でなくなるのかは不明)


面会交流調停申立人である別居親からすると
こういう対応をとられていると感じやすいものになっています。
ひところはもう少しよかったのですが。

ただ、実際は、調停委員は同居親に対して
面会交流を実施するように説得しているけれど
それを別居親に報告しないだけということもあるので
そこは注意した方が良いのですが
教えてもらわなければわかりませんからね。

問題点を整理して実践的な解決方法を考えましょう。

裁判所は二つの価値観を示しているわけです。
1 同居親、別居親を公平に扱う。
2 子どもの利益を第一に考える。

しかし、上記の問題例を見ると
1の大人の当事者間の公平が第一になっており、
2の子どもの利益を考えていることが伝わってこない
という問題があるような気がするのです。

先ず、子どもの利益を考えて、
面会することが子どもの利益を害するかどうかを検討し、
害さないなら面会の方法を考えなければならないわけです。

それにもかかわらず、相も変わらず
会いたい、会わせたくない。どちらも平等
ということになってしまってはいないのかということです。

これで話し合いがまとまらなければ
結局子どもは別居親に会えないのですから
別居親は子どもに会えないのですから、
同居親の言い分に偏った結果にしかなりません。

不平等な調停だと感じる原因はここにあると思います。

形式的公平を貫く方法論になってしまっていて、
実質的に不公平な結果にしかならないのです。


しかし、考えてみれば
民事調停だってこういう大ざっぱな調停運営はしません。

民事調停の場合だって、
双方の言い分には隔たりがありますが、
それでも、何らかの合意を成立させるべく間に入るわけです。
例えば「この点の利益を実現できるならば
金銭的な要求については譲歩できるのではないですか
金銭的には譲歩しても利益が大きいとは考えられませんか」
とか、「解決の利益」を考えて当事者の方々と一緒に考えます。

双方に支持的に関与することで、
案外まとまらないと思われる調停もまとまるものです。

「相手の言い分には納得できず、反発しかないが
何とか紛争自体は終わりにしたい」
という気持ちがあるから調停に参加するわけですから
こわもての主張がなされても
双方が譲歩して成立する余地はあるのです。

どこにくさびを打つか、そのポイントを見つけることが
調停委員会の仕事なのだと思います。

家庭裁判所の調停委員会の役割だって
両当事者の言い分が
平行線かどうかを判断することではないと思います。

(これで済むならねえ。)

そもそも、「同居親と別居親に公平に扱う」
ということをわざわざ価値観として重視するから
それを第一に考えてしまうというミスリードになるのではないでしょうか。

(当事者が何を大切にしているか、どうして感情的になるかについて
 理解していないことを表していると思います)

子どものいる場合の家事調停は
当事者が少なくとも3人いると考えなければなりません。
父親、母親、そして子ども(たち)です。

父親と母親は、調停に出てきて好きなことを言いますから
調停委員は二人の話をよく聞いていればよいわけです。
しかし、子どもは調停に出席しません。
調停の場ではものを言わないわけです。
だから、子どもの利益は大人が考えなければならないことです。

目の前にいない、語らない人間の人権や利益を考えることは
大変難しいことです。
目の前にいる人間の意見に引きずられてしまうことは
放っておけばそうなってしまうことです。

子どもの発達などの知識、想像力、理性的判断という
極めて高度な精神活動が求められているのが
例えば面会交流調停なのです。

この精神活動を補うために
専門家である調査官が面会交流などには配置されるわけです。

ところが、調停委員だけでなく、
調査官や裁判官までも
大人の平等第一主義をとってしまって
子どもの利益を結局はないがしろにしてしまっている
こういうことが起きているのだろうと感じています。

実際に面会交流調停なんて、
調停委員や裁判官の強力なプッシュが無ければ実現しません。
二、三年まえまでは、こういう裁判所の働きかけがあって
子どもが安定して別居親と会えるようになっていたのです。

今は大人の平等主義が最優先になっていて
あまりプッシュをしてくれないと感じられてなりません。
それでは、子どもは別居親に会えません。

同居親は別居親と顔を合わせたくないから
子どもを連れて別居したのですから
せっかく別居したのに子どもを相手に会わせようと
思うわけがないのが当たり前です。
同居親は子供を別居親に会わせたくないものだという
リアルから出発しなければ何も始まりません。

別居親の代理人は、子どもを別居親に会わせるという
別居親との合意した目標がありますから、
同居親の感情を少しでも下げる工夫をして
拒否反応を少しでも低くするようなアドバイスをします。

しかし、裁判所がこれを面と向かって別居親に言うことは危険です。
そもそもどうして別居になったのかについては
両当事者で言い分も違いますし、
実際は言葉で説明できないことの方が多いかもしれません。

それにもかかわらず、
子どもが別居親に会えない原因がすべて別居親にあると
裁判所が言っていると聞える話になってしまいます。

同居中の出来事の真偽を確かめようとするのではなく、
調停開始後の別居親の態度が
新たに同居親の不信感や警戒感を引き起こす場合は
(けっこうあるぞ)
それを指摘するにとどめた方が良いのではないかと思われます。

但し、同居親の不安があることも、通常の場合間違いないので、
連絡の取り方とか、子どもの受け渡しとか面会交流そのものの
ルール作りをきっちり行うということは前向きな話になるでしょう。
それは別居親も受け入れるべきだし
通常理不尽な要求というより、どうでもよい話が要求されるだけなので、
どんどん受け入れるべきだと思われます。


具体的な方法論としては、
面会交流調停が難航しそうな場合は必ず、
面会交流の必要性についての調査官のレクチャーを
(面会交流プログラムを)必ず早い段階で実施するべきです。

調停期日を一回つぶしても行うべきだと思います。
その方が解決が早くなるということが実感です。
そして、調停委員も一緒にプログラムに参加するべきです。

表向きの理由は
調査官がどのようなことをレクチャーしたか
しっかり把握して調停に入ることによって
両当事者の会話が進むということです。

少し内緒の理由は
調停委員も面会交流の必要性について繰り返し学習してもらいたい
ということからです。
(代理人弁護士も参加した方が良いですね)

そして最大の理由は
調査官自身が、当事者にレクチャーすることによって
出発点とするべき子どもの利益について
調査官自身が再確認する必要性を強く感じるからです。

これが抜け落ちていると、
子どもの利益を第一にするために理性的な精神活動を求められて
そのために調停に出席する調査官でさえも
調停に出席している人間の感情に振り回されて
子どもの利益が後景に追いやられてしまうようです。

自分が気に入った正義感で
相手を制裁しようとする行動原理が
どうしても見えてくることがあります。

感情に振り回されず、知識と理性に基づいて
子どもの利益を第一にした結果を出すと言う役割が
全く果たせません。

大人の当事者双方の感情に振り回されず
冷静に、理性的に子どもの利益を第一にする
そういうためにはこのように、
一見非情に思えるような精神活動が必要になる
私はそう思います。

面会交流の阻害事由がなければ
どのようにして面会交流を実現するか
という話に進まなければなりません。

それは同居親にとっては、感情的に受け入れられないことです。
しかし、子ども利益について一緒に考えなければなりません。
その現象自体は、感覚的には
同居親に対して不平等に扱うような現象になるわけです。

大人の間の平等よりも子どもの利益という場合は
どうしても一方の親の表面的な不利益が発生してしまい
一見不平等に見えてしまいます。
それは形式的な平等よりも優先するということを
はっきりと意識しなければならないことです。

これは、面会交流阻害事由がある場合は
別居親に不利益になるのですから
実は同じことなのだと思います。

ただ、場面が異なるだけの話だと思います。


そして、家庭裁判所で子どもの利益を考えなければ
あとは子どもは自己責任で成長していかなければならない
このことの重さをよく考えてほしいと思うのです。

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