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他人から精神的に追い込まれたことに気づくためのセルフチェックと対処方法 付録としての解説 傷つくのは仲間だと思うから 本能から理性にどのように転換するか [進化心理学、生理学、対人関係学]


<場面設定は対人関係に不具合=トラブルがある場合>

自分が精神的に追い込まれているということは
なかなか自分ではわからないものです。
「なんか苦しいな」とか、「しんどいな」とは感じていますが、
自分が精神的にすでに追い込まれているために
ものの見方感じ方が変容してしまっているとか
思考パターンが拘束されていて自由に考えられないとか
体調が悪いということさえも気が付かないことが多いようです。

もしも今自分が
精神的に追い込まれているのだとわかれば
その原因を探すなりして
解決しようとするのですが、
わからなければ解決しようとすることはできません。

何も対処をしないと自分をますます追い込んでしまい
四六時中、苦しんだり、傷ついたり、怒り続けたり
どんどん悪くなっていってしまいます。

私なりのセルフチェックと対策をご紹介します。

これは、脳や身体の不調で追い込まれている場合や
薬の副作用などでの追い込まれる場合ではなく
あくまでもだれか他人の行為によって
精神的に追い込まれている場合に限定した対処方法です。

<セルフチェックの方法>

セルフチェックの項目は
① 眠れない等、睡眠が快適ではない
夜中に一人で布団に入ると
その人とのやりとりを反芻するとか
妙に興奮状態となりいつまでも眠れない。
どうでもいいやと思えなくなってしまっている。
寝ているか寝ていないかわからない時間がある。
明け方に起きてしまい目がさえてしまう。

②食欲がなくなる。
おなかがすくということがあまりなくなり
何か食べるのだけど、おいしいという感じが弱まっている。
胃が膨らんだような感じがして抵抗感があり
食べなければ食べなくてよいという感じがしています。
これが激しくなると
その人と顔を合わせなければならない時に嘔吐をすることも出てくるようです。

③逃れられないという拘束感
精神的に追い込まれるまでは、
人間関係を断ち切るということを考えることができるようです。
退職しようとか、転校しようとか、その集まりに行くことをやめようとかですね。
ところが精神的に追い込まれてしまうと、
その人間関係から離脱するという選択肢がなくなるようです。
解決方法がわからず、ただ苦しみ続けるようになります。

④実際の被害よりも今後さらに拡大していくという見通しを持ってしまう。
例えば取引相手が加害者だとすると
その取引がなくなるだけでなくて
その人が某会社となり、他の取引相手に対しても働きかけるとか
会社に働きかけて自分の居場所がなくなるとか
将来的に自分は仕事を辞めなければならなくなるとか
どんどん被害が拡大していくことばかりを感じるようになります。
その人間関係だけの不具合であるのに
あたかも、自分が世界の悪訳(ヒール)になることが確実かのような
むやみな、無意味な悲観的な考えを持ってしまいます。

⑤加害者以上に、加害者の周囲の人間を恨むようになる。
この項目は、あまり説明されているところを見ませんが
精神的追い込まれた場合の特徴として、よくみられることです。
「自分の惨状を他人も理解するべきだ」という意識が強くなりすぎるようです。
援助を希望しているということなのですが、現れ方が不穏当になります。

本来であれば、自分を追い込む張本人に対して、怒りを向けるべきです。
しかし、張本人ではなく、張本人の周囲にいる人間に対して
張本人の行為を放置し続けていることについて怒りが向いてしまうようです。
加害者に対して怒りを持てない分
周囲の人に対する怒りの感情が向けられるというような印象を受けます。
周囲の人間にとっては他人事ですから、
他人のために張本人と感情的対立を生むことが嫌ですし、
今度は張本人から自分に攻撃が向くことを恐れますから
日頃他人には正義感を振りかざす人も
より仲間である張本人に対して異議を申し立てるということはなく
より他人である被害者を助けることはしません。

被害者は、張本人の周囲の日頃表明されている正義感に
過剰な期待を持ってしまいますから
自分のために何もしてくれない現実を見ると余計に落胆するわけです。

但し、その中にも、被害者の方に心情的に近い人もいて
精一杯の援助をする場合もあるのですが、
精神的に追い込まれている人は
援助行為の要求度も高くなっていて
それがその人の援助行為だということを評価できなくなっています。
無駄に傷つきやすくなっているし、
自分で孤立に向かってしまうという仕組みが生まれているのです。

自分が一番気が付きやすい項目は⑤かもしれません。
自分のトラブルの相手は誰か
その相手ではなく、相手の周囲の人間に対して
激しい怒りを持っている、あるいは激しいじれったさ
過剰な期待を持っているということは、比較的気が付きやすいのでしょう。

⑤に気が付いて、自分の異変を自覚して
④、③、②、①と気づきが進んでいくのかもしれません。

<自分が精神的に追い込まれていると自覚した次の対策>

1) 生命身体が安心であることを確認すること

精神的に追い込まれている人の体内では
あたかも間もなく自分は死の危険に直面することになる
ということと同じような生理的反応が起きています。

無意識にそのような心理状態になっているようです。
危険の程度についての判断が付かなくなっています。

ですから、まず自分が生命身体の危険がないことを自覚しましょう。
例えば深呼吸です。
深呼吸をするとなぜ落ち着くかというと
対人関係上緊張するべき事態があったとしても
まさに生命身体に危険がないということが自覚できるからです。

これは頭で考えるのではなく
全身を使って息を吸ったり吐いたりすることによって
自分の体を感じるということが肝心です。

だから、息を吸ったときのおなかや胸の体の動きや
吐いたり吸ったりするとき空気がのどや口を通る感覚を
十分感じることが大切です。
すると皮膚感覚が、「自分がいま安全な状態にある」
ということを自然に自覚させてくれるようです。

2)「笑って」みよう

もちろん笑うような精神状態ではありません。
でも、これも効果があると思います。
やるべきことは、安心できる場所で
口の両端を上に上げるという所作です。
可能であれば目じりを下げましょう。

劇的に心境が変化するようです。
体内で生理的反応が起きるようです。

3)感謝できることを探そう

どん底に追い詰められたときは
「自分に対する他者の援助が足りない」としか思われません。
何かに感謝できない状態になっています。
逆の行動をするということで巻き戻しをしているわけです。

「飢えていない」ことに感謝したり
「雨風がしのげる住居があること」に感謝をしたり、
あるいは、
「こんな自分を嫌がらずに一緒に生活してくれる家族に」
大いに感謝ができることに気が付くかもしれません。
(家族に申し訳ないと考えている人が多いと思いますが、
この「申し訳ない」を「ありがとう」に変換してみるのです。

そして、感謝ができることを見つけたら
さっきの笑う行為をその都度やってみましょう。

先ず形、心なんて後からついて来ればよいと思います。

4)自分が所属するべき、貢献するべき仲間はどの仲間なのかを考える

自覚することはありませんが、
現代人は、同時に多くの人間関係の中で生きています。

家庭、学校、職場、地域、社会活動、友人関係
それぞれ別々の仲間、人間関係です。

人間の心が生まれたときは、たった一つの群れだけに所属していました。
このため、どんな人間関係であったとしても
仲間だと考えてしまい、嫌われることを極度に恐れてしまうのです。

だからどうでもよい人間関係の不具合があっても
この世の終わりのようなすべての人間関係で
自分の評価が低下するような気持ちにさせられてしまうのです。

その結果、本来自分が大切にするべき人間関係において
あなたは、自分の果たすべき役割を十分果たすことができず、
本当の仲間を傷つけてしまうということがあるわけです。

どうでもよい人のために、
大切な人を傷つけてしまう
こんな理不尽な話はありません。
早速これを自覚して、不合理から抜け出しましょう。

対策編の1)から3)の行動は、
とらわれのあなたの思考パターンをニュートラルにして
頭を動かすことができるための準備運動みたいなものです。
さあ、ここから考えを始めましょう。

5)仲間を大切にする

仲間を大切にするというアクションを開始しましょう。
日常生活で、相手の嫌がることをしない、やってほしいことをやる
相手の弱点、欠点、失敗を笑わない、責めない、批判しない
そういうものがあれば自分が補うとともに
感謝と謝罪をはっきりと声に出して行う。
ねぎらうということもはっきり意識して、チャンスを待ち構えましょう。

将来的な問題では、
あなたを追い込める張本人と決別すると
仲間に不利益が加わるのではないかとそういう後ろ向きの思考から
自分が仲間のためにできることを考えて、増やしていく
という当たり前の考え方に転換をしていくということが大切です。

どうしても追い込まれていると悲観的な考えに陥りがちなのですが、
それは本能に任せて思考が停止しているからです。
理性をつかって考え始めるということが
ここからの作業の根本ということになります。


6)自分を攻撃する他人を仲間ではないときちんと自覚すること

あなたが、本当の仲間を自覚して、
本当の仲間と「理性的な仲間づきあい」をするとともに
本当の仲間以外の人間との関係を切り捨てていく
特に張本人は、仲間ではないということを強く自覚しましょう。
言葉に出して自覚することも効果的でしょう。

あなたに対して理不尽な攻撃をしてくる
しかも、反撃しにくいような攻撃をするというのであれば
そんな人間は仲間ではありません。

あなたの感情や利益を無視して
張本人本人やその周囲に利益を与えようとする場合は
まさに敵です。

理性で切り捨てて、なるべくかかわらなくすることが肝心です。

無視、受け流し、気づかないふり
何でも知恵を総動員して関わらないという方法を実践するべきです。


<解説編>特に読まなくても良いですが、読むと全編の内容が良く理解でき、実践しやすい「かも」しれません。

1) 人間が他人の行為によって精神的に追い込まれるのは、その他人があなたと何らかの人間関係があり、濃い場合が多いこと


人間が精神的に追い込まれる場合の多くは
自分と何らかの関係のある人から攻撃されている場合です。

通りすがりの見ず知らずの人から言いがかりをつけられても
よほど恐怖を味わう場合は別として
通り過ぎればその人の顔も忘れてしまうし
確かに不快な印象、嫌な印象は残りますが
精神的に追い込まれるほど引きずることは少ないはずです。

もっとも、通りすがりの見ず知らずの人に言いがかりをつけられる
ということ自体それほどないことですね。

より近しい関係の人から攻撃されると、
より精神的に追い込まれるということになるのではないでしょうか。

この理由は簡単で
人間は言葉を作る前から群れを作って生活することで
肉食獣から自分たちを守ることができて
協力して食料を獲得することができたのですが、
仲間から攻撃されることを恐怖として感じることができたため
攻撃されるようなことをしないで
群れにとどまろうとした
それで群れが形成されていたということに由来するわけです。
約200万年前には、この関係とこころが確立したといわれています。

当時は生まれてから死ぬまで、
ほぼ一つの群れで生活していました
また、30名程度の少人数の群れで生活していたとされていますから
生まれてから死ぬまで群れの仲間は同じメンバーで
運命共同体であり、
仲間から攻撃されるということはほとんどなかったはずです。

よほどの理由がある時だけ、
幼馴染や、生まれた時から知っている仲間を
攻撃するかもしれないという事態になったのでしょう。
だから、仲間から攻撃されそうになっている場合は
自分の落ち度も心当たりありますから
落ち度をカバーしようとして全力で修正行動をしたのでしょう。

それこそ、本能的な恐怖を背景として
なんとか仲間にとどめてもらおうと頑張ったのだろうと思います。

この仕組みは、人間が生きていくためには
合理的なものだったと思います。

また、このような仕組みがあっても
仲間を攻撃するということはめったに怒らず
今から200万年前には
人類は、肉食獣の攻撃や飢えにはおびえながらも
仲間の中にいることで安心することができ
比較的穏やかに生活することができたはずです。

ところが現代社会は、
先ず、何らかの関係のある人も膨大な数に上りますし
それぞれ別の家庭を持っていたり
別の会社に勤務していたり、
とても200万年前の一つの少人数の仲間というわけにはゆきません。
濃い仲間意識は持ちようがありません。

またその人同士の利害対立や
周囲がどちらに味方をするかということで、
関係のある人間を敵だとみなすことができるようになっています。
人間関係が希薄だということはこういうことです。

それでも人間のこころは200万年前とあまり変わっていませんから
どんな些細な人間関係でも
自分が攻撃されることには抵抗力が小さいのです。

ここでいう「攻撃」とは
「仲間から外す」ということで
その予期不安を感じさせる
「否定評価、低評価、落ち度など弱点をことさらあげつらうということ」も
同じ意味として攻撃と感じてしまいます。

人間は、こんなことで、
精神的に追い込まれ、破綻し
自ら死ぬ危険性のある動物なのです。

厄介なことに、200万年前と同じ心の状態ですから
一つの群れで一生涯を終えていたように
人間関係であればどんな人間関係からも
人間は無意識に、攻撃されたくないと思ってしまい、
否定評価をされれば、自分の行動を修正しようと思ってしまいます。

本能的な思考にとどまる場合は
相手は自分の味方のはずだ
それなのに攻撃をするのだから自分が何か悪いのではないか
自分が行動を修正するべきだと考えてしまいます。

しかし、現代社会は人間関係が希薄ですから
相手は自分の味方ではなく
あなたと本当は利害が対立しているかもしれないのです。
一方的にあなたに損害を与えようとしているかもしれない。
それなのに、人間の本能は
自分を責めてしまうように自分に仕向けるわけです。

だから、むやみやたらに人間関係を感じる本能を停止させ
意識的に理性を使って、人間関係を整理する必要があり、
理性を使って本能を停止させることもできることが人間の特徴
だという可能性も持ち合わせているわけです。

人間が相手を仲間だと思ってしまう本能が発動されるのは
「時間的に長い人間関係であること」
「距離的に近い関係であり、頻繁に接触する人間関係であること」
この二つがあれば本能は自動的に発動されてしまうようです。
単なる物理的条件に過ぎないのに、仲間という感情が生まれてしまう
ここに注意が必要だと思います。

2)一つの人間関係の不具合が他の人間関係に悪影響を及ぼすということ

嫌な気持ち、理不尽な気持ちを家庭に持ち込まないということは難しく
過敏になっている精神状態は、
悪意のない家族の行動に怒りを覚えたりすることもあるでしょう。
子どもに対して安心して楽しい家庭を提供することもできなくなります。

既に悲観的な思考パターンに陥っていますから
意味のない行動にも、自分を否定評価していると勘違いが起こり
自分を守るために相手に対してしなくてもよい反撃をするわけです。
専門的な用語で
イライラしているために八つ当たりをしやすい状態になっている
ということにしましょうか。

また、そのような自分の不遇を家族にいうことには
責任感の強い人ほど、無駄なためらいがあり、話し出すことができません。
ただ心配かけたくないということで
無駄に明るくふるまい、ごまかしをします。
これは精神的にかなり負担となり、さらなに精神を消耗させます。

このように、どこかに人間関係の不具合が起きると
どんどん不具合が広がっていきます。
人間関係の修復ができれば修復すればよいですけれど
修復できないで放置することによって病巣は拡大していくわけです。

そんな時は大切ではない人間関係を断ち切るという
外科手術をするべきだということになるのだと思います。

3)追い詰められていると、人間関係の離脱という選択肢が消えてしまう

精神的に追い込まれている状態であると
その人間関係から離脱するという選択肢を
なかなか選ぶことができない状態になっています。

また、あなたの責任感が
その人間関係からであっても、
離脱することは、やるべきことを投げ出すことだというような
無駄な真面目さがあなたの窮地を救うことを妨げることもよくあります。

しかし、その人間関係を維持しなくてはならないということは
単なる勘違いであることが多いのです。
人間はどんな人間関係でも大切に考えてしまう傾向があります。
責任を感じてしまうということですね。

しかし、それは200万年前は妥当した思考傾向ですが
現在では環境に適合しない過去の思考の場合が実に多くあります。

繰り返しますが
「時間的に長い人間関係であること」
「距離的に近い関係であり、頻繁に接触する人間関係であること」
この二つがあれば本能は自動的に発動されてしまうようです。

だから、あなたを追い込んだ張本人が
あなたを自分の仲間だとは思っていなくても
あるいは実質的には人間味のない人であっても
その張本人と長い付き合いであったりすると、
仲間だと思ってしまうようです。

そしてその人が、あなたの利益に従って動いてくれるはずだ
自分を攻撃しないはずだ
攻撃されるのはあなた自身に問題があるからではないかと
自動的に勘違いしてしまうというのが人間のようです。

そしてまじめな性格が、
ひとたび仲間だと思ってしまうと
その人との関係を守らなければならないと
本能的に思ってしまうのです。

4)本当はその人が敵である場合の多いパターン

本能的に仲間だと思ってしまうことを他ちぎるためには
こういう場合、仲間ではないと思うべきだということを
予めわかっていれば気が付きやすくなります。

あなたに損害を与えて他人に利益を与えようとするような人
誰かあなた以外の人、その張本人に限らず張本人が大切にしようとしている人
そういう人に利益を与えるために
あなたに、あなたに原因がなく損をさせることをためらわない人

その人があなたに対して攻撃する理由が
あなたへの嫉妬である場合。
あなたが能力を発揮することで自分の立場が悪くなる
ということであなたを貶めることによって
自分の立場を相対的に上げようとする人、
今の自分の立場を維持しようという
実に個人的なわがままということがほとんどです。

あなたがその人になびかないために
自分の立場に危機感を感じている人

あなたの利益や感情よりも
マニュアルや自分の決め事を優先する人

世間的な評価はともかく
こんなつまらない人たちによって苦しめられるなんて
馬鹿な話ですよ。

あなたはこの世に生まれてきて
そんなつまらない人間との仲で悩む必要はないのです。
そんなつまらない人のために命の危険にさらされる必要はありません。

そして、そんな人を批判もできない人の集まりなんて
さっさと離脱したほうが身のためだということになるでしょう。

あるいはあなたが新人であったり
何らかの理由があり不得意分野があるということで
あなたに対して攻撃的になる人間がいて
その攻撃を周囲が止めないならば
やはりその人間関係からは早々に離脱することが
精神的な健康を維持できるはずです。

家族以外は、離脱できない人間関係はない。
家族でさえも全く離脱できないということはない。
そういう世の中であることを逆手に取るということになるでしょう
最終的には一人で生きていくことも不可能ではない
そういう世の中が既に存在しているわけです。

ところが人間の脳は200万年前から変化をしていない
そのために苦しみが生まれてしまう。
しかし、なぜ苦しみが生まれてしまうか
そしてその苦しみが無駄な苦しみであると気が付くことができれば
精神的に追い込まれた状態から回復することができる
ということになるわけです。

5)方法論としての対人関係療法の考え方

そこから脱却するためには
人間のこころの仕組みと現代の人間関係の希薄さという
こころと環境のミスマッチということを意識して
本能的な思考にストップをかけなければなりません。
これが第1歩です。

この時参考になるのは精神療法の一つの方法論である
「対人関係療法」です。
水島広子先生という方が積極的に書籍を出版していらっしゃいますから
この療法について詳しく知りたい方は
自分に最も関係ありそうな本を読んでください。
とてもわかりやすく書かれています。

(本記事は対人関係学という立場で書かれていますが、
対人関係療法とは全く別の概念です。
あくまでも水島先生の本をお読みください。)

つまり、いくつもあるあなたを取り巻く人間関係の中で
あなたを攻撃している張本人のいる人間関係は
あなたが仲間だと思って大切にするべき人間関係なのか
ということを見極めることなのです。

そして、その本来大切にする価値のない人間関係で悩んでいることによって
あなたが本当に大切にするべき人間関係の中で
あなたが果たすべき役割を果たせなくなっているのではないか
ということを恐れるべきだと思うのです。
つまり、あなたにとって大切にするべき人間関係はなにか
ということを理性でもって考えなければなりません。

そして、大切さの度合いによって
解決方法を変えなければならないということになります。

あなたの最も大切な人間関係であれば
自分の行動を修正し、相手の行動の修正をも提案して
人間関係を修復するという解決方法が選択されるでしょう。

それほど大切な人間関係でなければ
その人間関係から離脱するという選択肢を持たなくてはなりません。
つまり、関係度によって対応、考え方を変えるのです。

6)その人の攻撃は繰り返される。スパっと断ち切ろう。

今回だけ攻撃されているのではなく
また同じようなことがあれば確実に相手は
あなた以外の人の利益のためにあなたを攻撃すると思うべきです。
そんな人との関係を継続しても
どこまで行ってもあなたは苦しくなるだけです。

スパっと人間関係を断ち切りましょう。
形式的には、関係を続けざるを得ないにしても
こころは仲間だと思う必要はありません。
敵だと思ってよいのです。

敵が近くにいると思うと
不愉快な気持ちにはなりますが、
味方ではなく敵だと思うことができれば
以前よりも精神的な負担は軽くなるはずです。

そのためにも、あなたの本当に大切な仲間は誰か
ということを明確にして意識しましょう。
あなたのまじめさや責任感は
仲間のために使いましょう。

その仲間に裏切られるなら
仕方ないと諦められる仲間こそあなたの本当の仲間です。


(付録)プロ野球の乱闘シーンでチーム全員が出てくる切実な必要性と人間らしさ

プロ野球で乱闘が起きると、
チームの全員がグラウンドに飛び出てきますね。
あれはとても重要な意味があります。

選手の一人が理不尽な思い(通常は危険な行為を相手からやられたという思い)
をする場合、自分の存在を否定するような行為をされたと
激しく感じているわけです。
そういう時には、仲間であれば当然に自分を助けてくれる
という期待が生じてしまいます。
これは人間が遺伝子上に組み込まれている感覚だと私は思います。

それにもかかわらず、
極端な話、誰もベンチから出てこなければ
自分には、自分を大切に思ってくれる仲間がいない
という意識を強烈に感じてしまうわけです。

これは精神的に極めて危険な状態になります。

特に、自分が攻撃されているという意識を持つと
仲間に対する期待も高まってしまいます。
逆に自分のために仲間が怒ってくれているということで
本人が落ち着いていくということも期待できます。

だから、その人の怒りが理屈に合わない自分勝手なものであっても、
チームとしてはグランドに飛び出さなければならないのです。
どこまで暴力をふるうかはともかく
飛び出していくことは、とても合理的で必要な行為なのです。

だから、「なんであんたが怒るのだ」というほどエキサイトしている
選手やコーチがいますけれど
これは人間としては仲間を助けるという気持ちからの行動ですから
本当はとても人間的な行動なのです。

仲間に助けてもらえないというだけで
かなり精神的に錯乱するような状態になります。
ましてや仲間から攻撃されると
平気でいられる人間というのは考えられず
大抵はひどく落ち込んだり、怒りを感じて眠れなかったり
そういう状態になってしまいます。

人間は、仲間から見放されるということに
耐えられない生き物のようです。



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家事事件の案件でパニック発作が起きるという報告が増大していることの原因としての、現代の夫婦にとっての夫婦の関係 [進化心理学、生理学、対人関係学]

最近離婚事件の相談を受けたり、代理人として仕事をしていて気になるのが、妻のパニック発作が多いということです。私が夫側から妻の様子を知らされてパニック発作だとわかる場合もあれば、妻側からの相談でパニック発作が起きたことを打ち明けられる場合もあります。パニック障害の診断書が出される場合も多くなってきたような感覚もあります。

事件に出てくるパニック発作の具体的症状で多いのは過呼吸ですが、手にしびれが現れたり、葛藤というより焦燥感が制御できなくなったりしてしまい、救急車を呼ぶということも少なからずありました。体の力が失われてしまい動けなくなるということも報告されています。情動性の反応なのでしょうか。情動性の反応だとすると、ナルコレプシーを思い起こさせます。但し、むしろ眠れないということから不安が原因でパニック発作が起きるという順番のようです。

教科書をつなぎ合わせて考えると、「もともと、精神的に弱いところのあるところに、夫からの働きかけによって逃げ道がないという精神状態に追いやられた。」ということになるようです。「女性の解放は家族から解放することから始まる」という考え方の人は、妻がパニック障害を起こすということは、そこに夫のDVがあると即断してしまいます。そしてパニック障害が夫のDVの証拠だとされてしまいます。

パニック発作は、発作を起こさない人の日常とは異質な出来事です。また、発作を起こしている本人は、このまま死んでしまうのではないかと不安が止まらなくなることがあるようです。また、確かに夫の行動が、直接、間接の原因になっていることも少なくありません。

パニック発作の直接の原因として多いのが、DV以外では、口論をしている場合です。妻が夫に何か言って、夫から言い返されて、さらに追及されるということが多いようです。妻の言い分に共感できる場合もあれば、共感できない場合もあるのですが、夫の側が、妻が窮地に陥っているのに、さらに攻撃を継続していることが少し目につきます。自分が妻に攻撃されたと思って、自分を守ろうということから怒りに火が付き、怒りに任せて、「相手をかわいそう」と思う気持ちを持てなくなり、さらなる攻撃を継続するという感じですか。
気持はわかるのです。中には臓物をえぐるような妻の言いがかりがあり、「それは反撃したくなるよな」というところまではわかるのです。しかし、妻が黙ってしまい、行き場がなくなったところを逃げ道をふさぐような攻撃をしたのでは、やっぱり家族としてはダメなんだと思うのです。怒りという感情は、性質上途中で止められなくなるという特徴が確かにあるような気がします。
但し、夫婦仲が悪くなってしまうと、夫が近くに来ただけでパニック発作が起きたということもあります。この場合は、夫に攻撃をする意図もそぶりもない場合でもパニック発作が起きることがあります。

間接の原因というのは、夫に何かミス(借金発覚とか職場での処分とか)があり、妻が大変ショックを受けている場面です。直接ではないのは、パニック発作が起きる直前には口論などの夫の働きかけがなく、夜寝ているときに発作が起きたり、別居後に発作が起きたりする場合です。おそらくいろいろなことを考えているうちに焦燥感が高じ、不安がいやがうえにも高まってしまったのでしょう。ここには、眠れなくなって、ますます不安になるという流れも多くのケースであるようです。

実務上で知らされるパニック発作は、多くはこんな感じで起きています。パニック発作のきっかけは、虐待とかDVと言えるレベルでもないのではないかなという感じがするんです。口論の場面で、支配を目的とした攻撃とまでは言えないと思う場面でも、パニック発作は起きています。
もちろん、「DVや虐待ではないから夫の行動は自由だ」というわけではありません。妻が逃げ場のない状態になっているのだから、その時点で攻撃は止めて、後でゆっくり話し合うなり、水に流すなりするべきだと思います。夫からすれば、妻が最初に自分に攻撃を仕掛けてきておいて、自分が我慢しなくてはならないなんて不公平だと思う人が多いと思います。しかし、家族ですから、不公平とか正義とかを持ち出してはダメなんだと私は思っています。

特に妻が多いのですが、時折、自分の感情が制御できず、発言を抑制することができなくなる時が、多かれ少なかれ誰にでもあるようです。「うちはないなあ。」と言われる方はとても幸運な方だと思うので、奥さんに感謝するべきだと思います。
「妻のヒステリーを真に受けてはだめだ」ということなんですね。我慢しなければならないし、古今東西、男は我慢してきたというのが、多くの文学作品から読み解けます。(但し、限界はあるし、馴れるまでには時間を要するということも真実ですね。)
そして「泣いたら終わり。血が出たら終わり。」というのが、小さい頃の地域の年齢混合での遊びや喧嘩のルールでしたが、最近の若い人たちはよくわからない人と遊ぶということがないから、ルールが身についていないのかもしれません。過呼吸になる前に、相手が言葉に詰まったら、口論は終わりにする。後で冷静に話し合うなり、水に流すなりということなのだと思います。
これ実はなかなか難しいことです。動物である以上、自分を守ろうとすることはどうしても発動してしまいます。そして、怒りを伴って防御の体制になると、同じように攻撃衝動を抑えることが難しくなるからです。本能的には抑えられないならば、予め、妻から理不尽な攻撃があることがあるという知識を身につけておいて、その場合でもできるだけ我慢して、逃げ場のないところに追い込まないという覚悟を予め持っていなければならないということなのだと思います。
そこで男女平等だとか正義に反するなんてことを家庭の中に持ち込んで、自己を正当化しようとすると、DV認定がなされた上の連れ去り別居離婚がどんどん増えていくだけだと思います。

(それでも、妻の仕打ちの極端に悪い例があり、夫が自分で自分を守れないケースもあります。そういう場合は、離婚を考えるしかないというか、離婚という選択肢を抱えておかないと極めて危険なことになるので、そちらの方向で考えることもやむを得ないと思います。命を守ることは肯定されなければなりません。その場合こそ、条件反射的な反撃をせずに、証拠をとって後に備えるということが鉄則です。)

それにしてもです。

それにしても、パニック発作を起こしやすくなっているのではないかという疑念がどうしても残るのです。パニック発作は不随意的な運動ですから、芝居を打つことはできません。発作は起きていると考えるべきです。

しかし、それだけDVが増えたと考えることはどうしても納得ゆかない。「そんなことでパニック発作が起きてしまうのだろうか」という事例が大変多いのです。

どうしてかという思考の歩ませ方は、
①パニック発作を起こしやすい個体が増えたのかという生物学的な変化が起きたのかということと
②パニック発作を起こしやすい人間関係が増えたのかという環境的、対人関係的変化が起きたのかということだと思います。

前者は私にはわかりません。前者と後者は矛盾するわけではなさそうなので、とりあえず後者だとすればどういうことかということを考えてみようと思います。

その上で考えたのは、
「現代の夫婦は、夫婦の関係が壊れることを極度に恐れている」ようになったのではないかということです。しかし、それを自覚することはありません。
「いつも断崖絶壁のがけっぷちに立っていて、相手から愛想を突かされてしまうと、がけ下に転落するしかない。」
そんな切羽詰まった感じなのです。
だったら、相手を大事にすればよいのですが、
相手を大事にするという発想を持つことができず、自分を大事にしてしまうのです。自分を守ることに精一杯という感じを受けてしまいます。
それと仲良くする方法がわからないという感じです。

つまり、家庭でも、学校でも、会社でも、地域でも、友人関係でも、他人と仲良くして、心地よい人間関係を作る方法がわからない。波風を立てないように我慢をしてしがみつくか、他人と人間関係を結ぶことをはじめからあきらめたり、時間や場所など限定的な付き合いしかしないということなのではないでしょうか。

それでも繁殖期の勢いで結婚をしてしまう。そうすると、夫婦という人間関係だけが自分が帰属する唯一の人間関係だと思い込んでしまう。その結果、夫婦という人間関係が自分と配偶者という未熟な人間の集まりに過ぎないのに、「夫婦」という関係に過剰な期待が生まれてしまう。その安住の場所であるべき夫婦関係の中で自分が否定されることが何よりも恐ろしくなる。
こんな感じなのでしょうか。

つまり、友人、会社、その他の人間関係が希薄になっているために、夫婦という関係を気が付かないうちに相対的に重要なものだと認識してしまっているというかんじでしょうか。

(理由がわからないパニック発作が起きるケースでは、
発作を起こす人の特徴として、仕事上では業績がある人、能力を評価されるべき人ですが、同僚との間の人間関係についはあくまでも職場だけの人間関係で、職場の外でまでは付き合いをつくらない人が多いように感じられます。)

夫婦関係が自分にとって大切な人は増えているのですが、それを自覚する人も少ないですし、大切にする方法を知っている人も少ないように感じます。
お互い大事にしあうことによって、いたわり合うことによって、相手との絆を強くして、壊さない人間関係を作る。それを意識して作るという発想を持ちにくいようです。それでも関係を維持しようと汲々としてしまうと、対等な人間関係ではなくなってしまいます。ますますストレスが増えていき、やはりうまくいかなくなるというようなこともあるようです。

相手から愛想を突かされるとか、自分に対する相手の評価が下がりそうだとなると、自分を守るために言われる前に言い訳をするとか、自分を否定評価しそうな相手を先制攻撃してしまう。それで自分を守っているような錯覚に陥ってしまっている。そんな感じなのです。

相手からの自分の評価を守るために相手を攻撃する
こういう本末転倒なことをやっているようです。

反撃された妻は、逃げ場が無くなってしまい、夫婦という関係に依存しているために、すべての望みが絶たれたような絶望を感じて、パニック発作を起こしているのではないかとも感じます。

必ずしも身体生命の危険を感じているわけではなく、夫婦の中の自分という立場が失われるという不安がパニックとなって表れるということです。それでもパニック発作が起きると「このまま死んでしまうのではないか。」というところまで感じてしまうことがあるそうです。

これが続くと、もう夫婦でいることは「疲れてしまうからいいや。」ということになるのも理解できるような気がします。

もっとも、自分の立場が危うくなるという危険性を病的に感じやすくなっている夫が、あらゆる妻の自分に対する否定評価を断ち切ろうと、妻の人格まで操作しようと働きかけを強めればそれは配偶者加害(DV)ということになってしまいますね。こういうケースもないわけではありません。こういうケースは、同時進行で表に発覚することが難しいですし、その結果妻が精神破綻をしてしまうことがあり、大変恐ろしい結果になります。

でも、近時のパニック障害のケースはここまでひどいケースは見当たりません。

つまり、パニック発作を起こすまで追い込まれているといっても、それに見合う精神的虐待があるというよりも、二人とも仲良くしたいのに仲良くする方法がわからずやみくもに自分を守ることしか考えられない。相手の気持ちを推し量る余裕がないから、相手が自分の行為によってどういう気持ちになるのか考えられないといった、現代の夫婦の弱点があると私はにらんでいます。

心理学が盛んになり、皆さん自分の気持、自分の行動の原因について説明することが上手になってきています。なぜか、そのとき相手がどう思ったか、今どう思っているかということを考えるのは苦手なようです。

夫婦や家族の仲良くする方法、喧嘩をしない方法について、普及啓発をすることが、つまり選択肢を提示することが、現代日本では求められている、そう思えてくるのです。

相手を攻撃してしまうのは、よく考えない反射的行動、本能的です。仲良くするということは理性的行動です。反射的行動を抑えて理性的行動に出るためには、、どこで反射的行動を起こしてしまうかということを予め知り、そのポイントがここだと感じる訓練と、反射的、本能的意思決定ではない、行動の選択肢を予め持っていること、それによって理性的行動をしやすくすることだと思います。


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Kさんからのお便りに返信 離婚調停で妻側の意思決定をしているもう一人の代理人を感じるときの対処方法 夫(妻)が戦うべき相手は、夫婦が協働で戦うべき相手だということ。 [家事]



前にお電話でお話をさせていただいたKさんからお便りをいただきました。
Kさんは、奥さんの典型的な「思い込みDV」によって妻子に会えなくなり、
現在調停中ですが、電話ではお子さんとお話しできているそうです。

少しずつではあるけれど、奥さん本人の歩み寄りが感じられるエピソードが
増えてきたとのことです。
私がこのブログなどでぼんやり考えていたことを
より精緻に再構成して果敢に実践されているとのこと、
もはや私の考えというよりはKさんの理論になっているのですが、
お便りをいただきました。ありがたいことです。何よりの励みになります。

何が事態を前進させたか、
何が事態の前進を邪魔しているか
ということについて考えましたので、共有したいと思います。

1 攻撃より感謝のアクション(感謝の「気持」よりも大切なこと)

離婚紛争を抱えている当事者の方に伝えたいことは
感謝の行動が事態を好転させるという成功のカギになっている
ということです。
私に感謝しなさいということではなく、
妻が軟化した姿勢を示せば、すかさず感謝を伝える
不十分でも子どもとの交流ができれば感謝を伝える
(Kさんのお子さんがとても良い子でうらやましい)

このアクションが、相手に伝わり、相互作用でプラスに作用していくようです。
誰でも不合理な状況におとしめられれば
自分を守ろうとして、怒りがこみあげてくるのは
人間として当然のことです。
それでも、希望をもって突き進む中で
怒る気持ちを見せず(怒りを持っていても相手に見せないということ)、
一つ一つのエピソードを「事態打開の通過点」だと認識できることによって
着実に前に進んでいくことができる。
そういう印象を受けます。

2 離婚調停が建前通り機能しない本当の原因、戦うべき本当の相手

今回、Kさんの手紙の中に
私が、時々ぼんやり感じていたことが
極めて正確に言葉で記載されていたので
これはぜひ多くの方々と一緒に考えてもらいたい
そう素直に思いました。

どちらかというと子どもを連れて夫と別居し、
居場所を隠して保護を受け
支援を受けて離婚調停を申し立てた
お母さん方にこそ読んでもらいたいのです。

先ず、現在の離婚調停の問題点の第一は
「離婚についての、あるいは家族の在り方についての
実質的な話し合いになっていない」
というところにあると感じています。

申立人本人が裁判所に来ない。
代理人だけが調停期日に出頭するのです。

本来の離婚調停ならば
離婚を要望する申立人側も相手側も
「どうして離婚をしたいのか」ということを
できるだけ具体的な形で
話し合いの「まないた」に乗せるべきです。

少なくない事例で
「離婚をしたい気持ちは固く変わらない」という結論だけが
他人から幾度も声に出されているのですが、

素朴な感情として、どうして
ということが知りたいわけです。

割と弁護士になってそれ程の期間がたたないうちから
私は気が付いていたのですが、
本当に離婚したいのであれば
ここを丁寧に説明し、相手に対して最大限の理解を示すことが
早期の遺恨が残らない離婚になる
離婚後のこまごまとした問題解決にも役に立つのです。

これをしないのだから
離婚手続きは長期化し、遺恨が残り
離婚後の処理も弁護士が間に入らないと進まない
という状況になると思っています。

離婚という当事者や子どもにとって重大なことを決めるのだから
大人の責任として、相手に説明する責任があると思います。

しかも本人が調停に出席しないで
他人である弁護士だけによって、「離婚の意思は固い」
ということを繰り返されるだけですから
不信感だけが強くなることは当然です。

これでは家事調停はなりたちません。

ただ、
Kさんのケースや私の代理人として担当した別件では
こちらの働きかけ方によっては
妻の「夫よりの感情」が漏れて出てくるような印象を持つ出来事があることがあります。
妻の譲歩が突然現れることもあるのです。
弁護士が書面などで主張していることと
まるっきり矛盾する好意的な行動を提案してくることがあります。

妻側の弁護士が、妻の時折見せる夫への配慮、心情を
調停などで情報提供をすることがあるのです。
でも、それにもかかわらず、相変わらず妻は出てこないで
その弁護士が妻の離婚の意思は固いということを繰り返します。

Kさん曰く

裁判所に来ないもう一人の代理人がいるみたいだ

まさにそんな感じです。
但し、離婚を切望している妻であっても人間としての情があるわけですから、
夫否定一辺倒ではなく、肯定的評価をコメントすることもあり、
だからといって離婚という結論は変わらない
という場合ももちろん多いのです。

妻の弁護士が揺れる妻の心情を
大体は妻の強い要望に押し切られる形で
伝えることが少なくありません。

こういう肯定評価を最大限大切にさせてもらい
仮に離婚になったとしても
子どもとの関係をより広く自由に行うための
手掛かりにするということも大事なことです。

でも違うのです。

こういう、妻の要望を伝えようとする弁護士の他に
もう一人の代理人がいて
妻の代理人よりも、妻本人よりも
離婚の意思の固い人間がいて
離婚に向かうスピードを緩めることを許さない監視者がいる
そういう感覚を持つことが確かにあるのです。

妻の意思決定に干渉し、代理人の活動に口を出す
そういう人間がいるということならば理解ができる
そういう現象は確かにあるような気がします。

これ、私のホームであるS裁判所での事件では
というより、S弁護士会の弁護士が代理人に就かれた場合は
あまり感じないのです。
他県の裁判所で多く感じるということに気が付きました。

S弁護士会の弁護士は、男女問わず、男女参画政策との距離を問わず
本人の意思を尊重し、自分の頭で事件処理をなさっているのでしょう。

それでもS家庭裁判所で、
その「もう一人の代理人」を見かけたことがありました。
夫も知らないその女性は、おそらく
婦人保護施設のセンセイという職業の人のようでした。
NPOの職員というわけです。

婦人保護施設というのは、
売春防止法が制定され、管理売春が禁じられ
職と住居を失った元売春婦の方々を自立させるための施設でした。

文芸作品等を読むと施設ではたらく人たちは二種類の人がいて

社会構造によって売春を余儀なくされた女性に
幸せな生き方を提供しようという理想に燃えた人と

売春という女性として屈辱的な仕事をするしか生きていけない
男性に従属して生きるしかない女性に対して
矯正してまともな人間にしてやるという
そういう発想を持った人たちがいたようです。
つまり、自分達女性の足を引っ張る人たち
という見方があったようです。

現在、夫のDVがあった場合の保護施設が
この同じ婦人保護施設なのです。
DV保護のための作られた施設ではなく
元売春婦の保護施設をそのまま利用しているということになります。
それは建物を利用しているという形の問題だけではなく、
保護を受ける人たちに対する見方もそのままだということです。

そうでなければ、元売春婦の保護施設を
そのまま利用しようという発想になるわけはないのです。
夫との結婚生活が
売春宿で売春してきたことと同じに考えているわけですから
無茶苦茶だと思います。

だから施設の職員は矯正を担当する少年院の職員みたいなものですから
センセイと自分たちを呼ばせたいわけです。
(施設によってここは異なります。)

ここまで素材がまな板の上に上がると
以下の通り、すべてがつながります。
原則に反する調停の形の理由が見えてきます。

1)
妻は、自分の体調の理由が主たる理由で
特に出産直後に、漠然とした不安感が生まれ
この不安感から逃れたくてたまらなくなります。
当初は夫に相談をすることも多いのですが、
気の迷いではないのでなかなか解決の方法が見つけられないでいます。
2)
妻は経産婦というか、頼れる女性に対して安心感を抱くので
公的な相談所に相談に行きます。
公的な相談所が家族解体が女性の幸福だという考えの影響を受けていれば
「それは夫の精神的虐待がある。DVだ」と何の根拠もなく言うわけです。
真面目で正義感を持っているだけの人はマニュアル通りに言うわけです。
とにかく不安から解消したいと切望している妻は、
だんだんと夫に嫌悪感や恐怖感を抱くようになります。
つまり、不安の原因が夫にあるかもしれないと意識するようになります。

夫から離れることによってこの不安が解消されるかもしれない
と思い込むようになるわけです。
思い込みDVの完成です。
3)
妻は不安を解消したいという一心で
DV相談所に言われるがままに子どもを連れて別居し
夫から姿をくらまし保護施設に収容されます。
収容所では、離婚調停や保護命令の手続きを紹介され
法テラスで弁護士の援助も受け
離婚調停などを申し立てます。
4)
中には、このあたりで、不安が何も解消されないし
生活が不自由であることに気が付いて
保護施設を出て夫の元に帰る妻、脱走する妻も現れます。
5)
婦人相談所は
逃げ出す女性は男性に対する依存傾向が強いという
情けない女性だとみなすと同時に
逃げ出しの予防措置をとろうとするわけです。
結局確実に離婚させようと
「正義感」を発揮してしまうわけです。

先ずスマートホンなどは施設入所の段階で取り上げ
夫と連絡をとれないようにします。
そのままにしておけば夫と連絡を取るだらしない女だと思っているので
自分が保護した女性を信用していないのです。
自分で考える力のない人間だとみているから
自分で考える余地を奪おうとするのです。
自由を奪っていると言えるのではないでしょうか。

保護施設と関係の深い(付き合いの頻繁にあるお得意様の)
弁護士を妻に紹介し、離婚調停などを申し立てさせます。
別居した日の直後に申立書の日付が記載されていることが多いです。
じっくり離婚しかないのか考える時間を
与えられていないわけです。

保護命令の申立書の用紙も施設に備えおき
妻に自分で保護命令を申し立てさせるところも多いようです。
保護施設の職員のアシストもあって作成するのですが
法律家からすると、稚拙で必要事項も記載されていないような
内容の申立書です。
ずさんな申立にもかかわらず、
かつては裁判所は今よりも頻繁に保護命令を出していたようです。

これが正しければ、申立人本人である妻を
調停にも出席させない理由は明白です。
調停の場で妻の本音が出たら困るからです。
夫の元に戻ることを思いつかせないという戦略なのでしょう。

夫への嫌悪感、恐怖感があるから裁判所に来られないと裁判所に話すのは
それが真実の気持ではなく逆の気持だからという場合がありそうです。
(もちろん、夫に理由があり、そのような感情になる
古典的な離婚申立てももちろん少なくはありません。)
7)
但し、完全に保護施設に収容されてしまう場合より
実家や実家の近所で居住している場合の方が
夫の働きかけに対しての良好な反応が
漏れてくる確率は多いようです。
8)
ここからは想像なのですが、
おそらく妻が弁護士と打ち合わせをする際には
婦人保護施設のセンセイも同席して
妻の決意が揺らがないように監視しているのでしょうね。

徐々に妻抜きでセンセイと弁護士が打ち合わせをして
妻にはセンセイから連絡が入り
必要な資料を取り寄せて弁護士に渡しているのではないでしょうか。

弁護士との打ち合わせや調停の前の打ち合わせなどでも
決意が変わらないように妻に働きかけをしている場合もありそうです。

そしてこれらのセンセイの行動を
「支援」と呼んでいるのでしょう。

<ではどうするか>

このような仮定が間違っていようと
このように「もう一人の代理人が存在している」ということは
とても役に立つ想定ということになります。

つまり、
今の事態を引き起こした元々のきっかけは
夫婦関係かもしれませんが、
事態を悪化させた原因として
もう一人の代理人が存在すると想定するということです。

夫はもう一人の代理人と、妻のこころをめぐって
綱引きをしている場合がどうやら多くありそうです。

怒りは、もう一人の代理人だったり
夫婦関係で不具合を起こしただけの女性を
売春婦と同じように扱っている国家政策に対して向ける
大いに向けるということ、これが第1ステップです。

もう一人の代理人は、離婚が成立した後の面倒を見ない
期間限定の「支援」であることが多く
途方に暮れた元妻が色々なところに相談しますが
離婚をした以上は解決する方法がありません。
離婚訴訟などで、夫はたいそう傷ついていて
その怒りの対象が妻に行っていますし
色々なお金を負担していますから
妻と連絡をすることさえもこりごりになっています。
子どもを抱えて途方に暮れています。

その先を考えると
妻子を守るのは夫の役割であり
そのためには正しく戦う相手に標的を定めなければなりません。

すると調停に出てくる代理人さえも形式的なものに過ぎないのだから
あまりムキになって相手にする必要はなく
漏れ出る情報を漏らしやすくするということが得策です。

あるべき調停の姿に戻すために調停委員には一緒に考えてもらう。
「本人が出てこないで、本人の意思がわからないなら
 調停は成り立ちませんね。」
と共感を引き出すということが正攻法だと思います。

私は申立人が出頭しない調停は、相手方が同意しない限り
期日を開くべきではないと考えています。

そうして、妻から攻撃されているわけではないという意識をもって
妻に対して、自分の存在が安心できるものだということを
準備書面や陳述書を使ってアピールしていく。
抽象的に言えばそういうことが正しい戦略のようです。

綱引きをしているのに
悪の張本人が妻だというような主張立証をすると
益々妻のこころはもう一人の代理人の方に傾いていきます。
「思うつぼ」ですね。

もちろん、必ず成功するわけではありません。
しかし、そこに可能性があるならばやってみる価値はあると
参考にできるのではないかと
そういうケースもあるのではないかということで
ご紹介してみました。


ところでKさんはお怪我をされたということで心配です。
一日も早いご快癒をお祈り申し上げます。

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会話の本質は仲間を安心させるということ、文字に置き換えられる情報伝達だけでは心の交流ができないということを認知症患者さんから教えてもらいました。リモート社会、SNS社会の何が不完全なのか [進化心理学、生理学、対人関係学]

私のような乱読者の最大の欠点は
記憶している文章があってもその出典を示せない
というところにあるような気がします。

今日も、どこかで読んだ本を紹介するところから始めなければなりませんが
何の本だったのかわかりません。
その本では、認知症の患者さんの施設で、
入所者の高齢の3人の御婦人方の会話の描写がありました。

お三方は、日の当たるロビーのソファに腰かけて
仲良さそうにニコニコしてお話をしていたそうです。
遠くから見る分には、それぞれ自分の順番を守って話をしているようで、
上品なご婦人がたのおしゃべりにみえたそうです。

近くに行って話の内容を聞いて作者は驚いたそうです。
三人が三人とも全く自分勝手なお話をしていたというのです。

ある人は、施設の待遇についてお話ししていて
ある人は、自分の子どものことについての自慢話をしていて
もう一人の人は、自分の趣味の話をしていたそうです。

それでもお三人は、順番を守って、他人の話を遮ることもなく
おしゃべりを楽しんでいたそうです。

実際話している内容を聞かなければ、三人が認知症であるとは
思いもよらない光景だったそうです。

そしてある日、
三人の中のおひとりが、施設にクレームをつけていたようです。
別のおひとりが、その人の名前を読んで
「つまらないことはやめて、また三人でおしゃべりしましょうよ」と
話しかけてくれたそうです。
それをきっかけにクレームを述べていた人も
また楽しいおしゃべりの輪に加わった
という話だったと思います(細部は脚色しているかもしれません)。

この話を読んでいたときは、
「認知症は不思議だな」と思っただけでした。

何年かしてに、ロビン・ダンバー先生の学説を読む機会に恵まれ
「人間の会話の起源はサルの毛づくろいの省エネ化だ」というお話を聞いて
つまり、お互いをなだめあい、集団でいるストレスを軽減させる
ということらしいということで、
徐々にこのお考えを理解するようになっていきました。

このブログなどでもダンバー先生のお話を紹介していたのですが、
それから何年かして、はたと3婦人のお話を思い出したのです。
ダンバー先生のおっしゃる毛づくろいは、
この認知症のご婦人方の会話そのものなのではないかということです。

本来の会話の目的が相手を安心させることだとすれば
そこに言葉の意味や、言葉による情報伝達などは
元々は必要事項ではなかったのではないかと考え始めているのです。

三人のご婦人は、
明らかに会話をして楽しそうにしていらしたということです。
一緒にいて楽しくするというが会話の本来の目的なのかもしれません。
ここで一緒にいて楽しいというのは
一緒にいて会話をすることで安心できるということなのではないでしょうか。

認知機能が衰えると、当たり前のことがわからなくなり
不安が増えていくようです。
不安解消行動で、徘徊が起きるという話を聞いたことがあります。

穏やかに楽しく過ごすために、お三方の会話は立派に機能していたのでしょう。

それから、クレームを言って感情穏やかでないご婦人は
三人での会話をすることによって
感情が鎮まった。

これも不安に基づく怒りという感情を
会話をすることによって鎮めた、つまり
会話が不安を鎮めたということなのではないでしょうか。

不安を鎮めること自体が会話の大切なこと、会話の本質なのだと思うのです。

一つは仲間意識が持てて楽しい
もう一つは、感情を鎮めてくれる。
それでよければすべてよしなわけです。
なにも、相手の言葉の意味をきちんと理解して
話を合わせる必要なんてないわけです。

ここに会話の本質があるということを言いたいわけです。

会話や言葉の本質についての議論で、
この考え方と違う見解というのは、
「会話というのは言葉や会話に付随するコミュニケーションによって
情報を伝達することに本質がある。」

私は実はこれも本質だと思っているのです。

私の考えは矛盾しているように見えますが、
会話とは
「緊張を和らげて、仲間意思を持つことによって安心すること」
「情報を伝達すること」
という二つの源流があるという考えなのです。

おそらく先に発生した会話は前者で
言葉もない時代に群れを形成するために
無くてはならない人間の行為だったのだと思います。

その後、その初期会話によって形成された信頼関係を基礎として
(遺伝子レベルの無意識の話なのですが)
農耕の始まりによって他の群れとの近接がきっかけとなることと相まって
情報伝達の必要性が増えてきた
言葉の意味の存在と意味の明確さが求められていった
という順番なのではないかなと考えているわけです。

そう考えると冒頭で例に挙げたお三方は
とても人間らしい営みをされているということになるのです。

お互いを楽しい気持ちにしようと行動しているし
無駄にお互いを批判することをしない
お互いが話すことによって安心することができる
攻撃的感情も会話によってなだめている
こういうことです。

私たちは、
情報伝達ということに力点を置きすぎていて
会話の大切な目的、機能を忘れてしまっているということはないでしょうか。
それは人間性というものを失うということなのかもしれません。

インターネット社会、SNS社会、そしてリモート社会も
人間の会話の本質からすれば
極めて不十分なコミュニケーションなのかもしれません。


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「子ども家庭庁」の名称に賛成する。安心して帰ることができる家庭を意識的に育んでいく政策を進めてほしい。子どもから家庭を奪わないでほしいと願う意味 [家事]



政府は、子ども家庭庁という機関を創設するそうです。とても素晴らしい政策になる可能性があると期待をしています。
子ども一人一人が健全な成長を遂げることは、国民一人一人の幸せに直結すると思われます。

名称については、インターネット上で議論があるところですが、私は「家庭」という文字をつけることに賛成です。
ここでいう「家庭」のあるべき姿としては、「その中にいることで、安心できる人間関係」、「どんなことがあっても、自分が見捨てられることがないと信じ切ることができる人間関係」ということになると思います。また、その意味で、ここでいう家庭とは必ずしも親子という限定的な意味ではないと考えています。

子どもという概念と家族という概念は、政策立案及び執行にあたっては、切り離すべきではないと考えています。子どもは単体で生きているわけではないからです。子どもであっても、「自分」を意識する場合、家族や、年齢によっては友人や学校の先生などの、「他者との人間関係の中にいる自分」ということを意識し、自分という概念を形作っていくわけです。
特に子どもという時期の人間にとって、家族はとても影響力が強いわけです。だから、家族の在り方が子どもにとってふさわしい在り方にすることが、その時の子どもの幸せに直結するし、成長するという子どもの特性を踏まえても必要なことであるということは間違いないと思います。

例えば、両親が離婚したり別居したりした子どもは、一緒に住んでいない方の親とも交流を持ちたいと思い、交流が持てないことに不満を持つという調査結果があります。一緒に住んでいない親と定期的に交流していない子どもは、そうでない子どもと比べて自己評価が低いという統計もあります。このために日本も民法を改正し、離婚をする際には面会交流の方法を親に決めさせることを原則としています。

この点、「子どもの独自の権利を認めるべきだから、家庭と切り離して子どもの在り方を考えるべきだ。」という立場から、家庭という文字を庁名に入れるべきではないという反対説の論拠があります。しかし、家庭という名前を入れたからと言って、子どもの独自の権利を否定するということにはなりません。心理学的にあるいは発達科学的に、子ども、子どもの成長と家族の関りを関連付けることは必要な考えだと思います。
子どもの独自の権利を考えるからこそ、親や社会に対して、子どものために家族の在り方を見直していこうという問題提起ができるのだと思います。

また、インターネット上で話題になっていることとして、家族から虐待を受けた経験がある方が、家庭という文字に心理的な抵抗があるということで、家庭という文字を削ることを提案し、一度は政権党のチームもこれを受け入れて子ども庁という名称にする動きがあったとのことです。
拝聴し、考慮し、検討の材料とするべき話ではありますが、およそ国の政策決定の際に決め手にするべき要因にはならないと思います。国家政策ですから、原則的に推進していく課題と、そこに不可避的に生じる個別の不具合への対応ということは当然あるわけです。政策決定にあたって必要なことは、現状の日本の状態がどのようなものであるかという分析と、それに基づいて何をどのように修正するかという政策方針の決定という科学ではないでしょうか。個人の体験に基づいて政策の原則論が左右されるということはあってはなりません。寄り添いとか優しさとかそういった感情は大切な感情です。しかし、政策を立案する場合は、感情を大切にしつつも、国家情勢という視点から政策を進める必要がどうしてもあると私は思います。

私は、現代の日本の社会病理は、人間が、自分が安心して帰属できる人間関係が存在しないという対人関係の現状が大きく影響としていると考えています。学校でもいじめを受けないように親も心配し、子どもも気を使い、仕事を始めてもいつまでこの職場で働くことができるか不透明な非正規雇用があり、正規雇用労働者であっても、偶然に左右され、上司の主観に左右される業績評価によって、自分が不当に低い評価を受けたり、解雇におびえたりしているわけです。家庭においても、子どもに良かれと思いながらも、厳しい就職状況を背景にして、高い学歴を身につけるという方法論によって、子どもに高いハードルを押し付けているような状況もあるのではないでしょうか。子どもに限らず、人間の多くが、自分のよって立つ場所、自分のありのままに過ごしてよい場所が無い、四六時中緊張していなければならないという有様ではないでしょうか。多くの人間に、自分がいつか、この仲間から切り捨てられるのではないか、自分の能力が高いことを見せつけなくてはならないのではないか、仲間が自分よりも優秀であることに不安を感じてしまう、そういう焦りや不安が蔓延しているというのが今の日本だと思います。私は、この不安や焦りが社会病理の温床だと思っています。

人間が、安心して過ごす場所を求めているというのが現代社会だと思います。安心して過ごすことができる場所の第一の候補は、消去法で言えば、やはり家庭なのだと思います。

こういう考えに対しては、「家庭にはいろいろな形がある。虐待をする家庭もあることだから、家庭を改善することは効果が期待できない。」という反論が考えられます。すべての家庭で子どもにとって居心地が良い家庭にすることは確かに難しいでしょう。
しかし、だからといって、「子どもが安心して生活する家庭を育てる」という政策が重要であることを否定することはできないと思います。
そのことについて説明をします。

たとえば、児童虐待という言葉を一つとっても、私は、国民が「虐待」という言葉によって、少なくとも二つの誤解をしていると感じています。あたかも、「虐待」と「しつけ」には、完全な仕切りがあるという誤解が一つです。もう一つの誤解は、子どもを虐待する人は、特別な思考をする人、特別の性格、人格を持っている人であり、自分とは別の種類の人間であるという誤解です。いくつかの児童虐待事件に接して思うのですが、例えば児童相談所に、児童虐待があって子どもを引き離される人の例を見ると、そうではないという思いが強くなります。
例えば、危険なので子どもが近づいてはいけない沼があり、母親からそこにはゆくなと再三言われているような場合に、友達と遊んでいる流れで沼の近くで遊んでいて、ついつい時間を忘れて遊んでいて遊んでいたとします。母親は、感情的ではなく、二度と沼に近づいてほしくないために、子どもに手を出させて手を叩くということをしたとします。体罰だから虐待だとする人もいれば、その程度の痛みは母親の心配を伝えて、命を守るためには許されると考える人もいると思います。私は、子どもの年齢や性格、母親の育児補助がいない等の事情があれば、子どもの命を守るためには、子どもが危険に近づかないために許される懲戒だと考えます。懲戒の後のフォローは考えなくてはなりません。
例えば。何かの罰として子どもに食事を与えないことは虐待であると思いますが、例えば約束を守るということの大切さを教えるために、約束を果たしてから食事をするということは、その約束を果たすことの難易度や所要時間に照らした場合は、認められることもありうると思っています。もちろん、その場合は、兄弟には食事をさせて、せめて親の一人は一緒に食事を遅らせる等の対応は必要だと思います。
例えば、子どもが不道徳な遊びをしているときに、こんなことをやっていたらダメな人間になってしまうとか、夜遅くまで寝ないと成長に影響が出てしまうということを親が子どもに言う場合でも、子どもがひどく恐怖を感じてしまう場合もあるわけです。言い方によっては精神的虐待になるかもしれませんが、子どもにとって必要な説教だという場合もあるわけです。

とかく児童虐待事件というと、極端なケースばかりが報道されます。しかし、児童相談所が介入する場合は、そのようなわかりやすいケースばかりではありません。私から見ると、虐待としつけ、体罰としつけというものは、それほど完全に区別のつくものではなく、連続しているのではないかと考えています。そして、例えば親が会社で理不尽な叱責を受けていたとか、子どもが友人と喧嘩したとか、色々なタイミングが影響して、子どものこころに影響が残る場合とポジティブに受け止めることができる場合と、偶然に左右されることがあると感じています。
つまり、私も虐待をしてしまうこともあれば、あなたも虐待をしてしまうタイミングがあるかもしれないということなのです。虐待というのは他人事では決してありません。完ぺきという御家庭がないのであれば、みんなで家族という人間関係を安心できるものに育てていくという国家政策が必要だと思うのです。

子どものこころや成長にとって必要なことは、虐待をしないことというよりも、なんやかんやあっても、安心できる家庭があることということになるはずです。絶対自分は家族からは見捨てられることはないという確信を持つことだと考えています。これさえあれば多少の親子関係のぎくしゃくがあっても、子どもは自尊感情を低下させることはないでしょう。また、学校や職場で理不尽な思いをして傷ついても、「自分には帰るべき家庭がある。」ということで精神的ダメージを軽減することができるはずだというのが私の考えです。

それから、親の虐待については、知識不足ということが大きく影響としているように感じます。偏った知識、ある状況には対応できる優れた対応方法でも、その人の家庭で行ってしまったら子どもの不安を招くだけだというような対応をした形の虐待も多く見受けられます。それから、親のその時の社会的立場だったり、職場での人間関係だったり、あるいは内科、外科、精神科的な健康状態ということも大きく影響をしていると感じています。
だから、親の健康状態を悪化させないこと、対処方法の選択肢を増やすこと、精神的安定なども、子どもの幸せに直結することになると思っています。何よりも親の育児を様々な側面から支援することも、子どもの幸せにダイレクトにつながっていくことだと思います。

日本の家庭の多くは、「伸びしろ」が期待できる。こういう状態だと思います。

もう1つ、無視してはならない問題があります。親と同居していない子どもが存在するという現実です。原則的政策を進めるにあたっては、必ず少数者が生まれるわけで、その少数を無視してよいということにはなりません。
しかし、子どもにとって家庭が大切であるという理解は、親と同居していない子どもにとっても有益になるはずです。子どもにとって何が大切か、家庭とは何かという問いに対して、「安心して暮らせる人間関係、絶対に見捨てられないと信頼しきることができる人間関係」であると考えることが必要です。そういう風に考えられるのであれば、親と一緒に暮らしていなくても、親ではなくとも、固定の人間関係の中で安心できる状態で生活できることを目指すべきだということになります。ヨーロッパでは、このような考え方が第2次世界大戦後には主流の考え方になっています。養護施設や病院などで、世話をする担当者がくるくる変わってしまう状態では子どもの精神状態が安定しないとして、抜本的な改善が進められました。日本でも、さまざまな困難なポイントがありながらも、もっと改善を進める契機になると思われます。
さらには、壊れない家庭を作るという選択肢を提起するということにもつながると思います。様々な国家政策の中で、これまで家族というものが軽視されて続けてきました。家族に問題があれば解体するという発想が優位になっていたような印象すらあります。子どもにとって家庭が大切であるならば、それにふさわしい家庭を作る方向で政策を進めることが期待されます。親に対しても、子どものために努力をしたり、我慢をすると言う選択肢を臆することなく提起するべきです。親だけでなく、社会全体が子どもから家庭を奪わないということを第一次的な目標にしてほしいと切実に感じています。

子どもから家庭を奪う最大の問題は過労死等の親の死です。私も過労死啓発シンポジウムなどで強調しているところですが、過労死を筆頭として、働き方が家庭に大きな影響を与えています。子ども家庭庁の事例や調査の蓄積をもって、親の働き方の問題について、他の省庁や社会に対して問題提起をすると言うことも素晴らしいと思います。学校や地域、受験制度等についても、子どもの利益という価値観から意見を述べてほしいと願っています。これまでこういう発想、立場の機関はなかったと思います。子どもの利益を図る横断的な国家機関ということは、こういうことをまさに求められているということになると思います。

子ども家庭庁という名称に、以上のことから私は大賛成です。色々な意味で、子どもから家庭を奪わないでほしいと思います。子どもの利益を基軸に、様々な国家政策が展開されていけば、日本という国はだいぶ住みやすい国になっていくと思います。

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マスコミの報道があまりにも被害者に配慮を欠きすぎるのではないか。被害者にもそれ相応の原因があるかのように聞こえる表現は改められないか。 大阪ビル火災事件の報道と中学生刺殺事件の報道に共通する問題 [弁護士会 民主主義 人権]


大阪のクリニック火災事件で、お医者さんがお亡くなりになった
という報道に接しました。
その中で、警察は、放火事件であるとみていることが報道され
放火犯人とクリニックの間でトラブルがなかったか調べている
との報道がテレビなどで繰り返しなされました。

どうなんでしょうか。
私は、こういう表現を聞くと
亡くなったお医者さんという被害者にも何らかの原因があって
今回の事件になった、ということが示唆されているように
聞えてきてしまいます。

(もしかしたらそう聞えてしまうのは、私が特殊なのかもしれません。
その場合は謝りますし、以下は私の言いがかりということになるでしょう。)

多くの人が亡くなった事件ですから
警察があらゆる可能性を捜査することは当然です。
問題は、どうしてクリニックと加害者のトラブルの捜査
だけを報道するのかというところにあります。

このような被害者の落ち度報道は現在(事件後の月曜日)ではなされていない様子で
そのような報道が前になされたということも
インターネットでは調べにくいようになっているようです。
おそらく該当記事の全部ないしその部分が削除されているようです。

代わって、お医者さんのお人柄や業績が
丁寧に報道されるようになっています。

しかし、このトラブル報道にはもう一段階の問題点があるようです。

このお医者さんのお父さんが、
「お医者さんがトラブルを抱えていたということを言っていた。
それは警察にすべて言っている。」
という報道があり、これはまだ修正されていません。

しかし、NHKの詳細な報道によると
先ずマスコミの記者が、お医者さんのお父さんに
「何か犯人との間にトラブルがあったのではないか」
と尋ね、お父さんは
「相談は受けていたが、詳しい内容はわからない。」
というような回答をしたということが真実らしいのです。
その相談されたトラブルというのが、本件の犯人とのトラブルなのかどうかも
わからないとおっしゃっているようです。

つまり、お父さんが
自分の子どもであるお医者さんが「放火犯人とトラブルを抱えていた」
と言ったわけではないのです。

それにもかかわらず、マスコミは未だに
「父親によればトラブルがあった」と報道し続けているわけです。
あたかも父親によれば、「院長と犯人の間にトラブルがあった。」
と言っているように印象付けられる表現となってしまっています。

私がなぜここにこだわるかということなのです。

トラブルという言葉には様々な人間関係の不具合が含まれてしまいます。
どうしても人間関係の相互作用によって生じた不具合であり、
双方に何らかの問題があったように感じてしまうのです。

例えば、一方的な悪意がある犯罪の場合等は
トラブルという言い方はしないのではないでしょうか。
確かに元夫婦の間のストーカー事件などの場合は
トラブルがあったという報道のされ方はするかもしれませんが、
一方的に町で目をつけられてストーカー被害にあった
などという場合はトラブルがあったとは言わないと思います。

本件は確かに真相がまだ明らかになっていないのですが、
そうであれば、なおのこと
被害者の一人であるお医者さんに原因が無くて
一方的に事件に巻き込まれた可能性もある
ということなのだと思うのです。

そうだとすれば、一方的に被害にあってお亡くなりになった可能性があるのに
多くの方々がお亡くなりになった事件について
何らかの被害者の原因があるかのように示唆する報道をすることは
とても納得できないのです。

何もわからない段階で被害者に落ち度がある可能ような報道表現は慎むべきだろうと
そう思うのです。

これは11月に起こった中学生が腹を刺した事件の報道でも見られました。
未成年者の重大事件であるにもかかわらず
警察の断片的な捜査情報を意味ありげに報道し
あたかも加害生徒が、被害生徒からいじめを受けていたかのような
印象を与える報道表現がありました。

これ、子細に報道を読むと、
いじめと言っても深刻ないじめがあったわけではなく
広すぎる文科省の定義に照らしても
「いじめ」と言ってよいかわからないような出来事を言っているだけだ
ということがわかるのですが、

特に知識がない人が何か別の用事をしながらテレビなどを聞いていると
いじめられた報復に腹を刺した
というような印象を受けてしまっても仕方がないような報道だったと思います。
いじめという言葉を効果的に使っているように感じました。

この報道は亡くなった生徒さんのご遺族を深く傷つけたようです。
それは当然のことだし、報復報道をする段階で
ご遺族の心情を考えなければならなかったことだったと思います。

私は二つの報道表現には
共通する報道姿勢を感じるのです。

1つは、事件は、常に、一方的に起きるものではなく
被害者にも誘因があるはずだという姿勢、
1つは、被害者という絶対的善の裏の顔を「暴く」ことが
報道の仕事だという姿勢
1つは、面白ければ、その報道表現によって人が傷つくことに
配慮を示さない姿勢

もう1つが、警察との関係についてです。

どちらも警察発表を垂れ流していて
自分では何ら裏をとらない報道になっています。

マスコミの話では事件報道は
警察が正式に発表したからには報道しなくてはならない
という不文律があるとのことですが、
そうであれば、日本マスコミの伝統である
大本営発表が脈々と生きながらえているということになります。

そして、事件報道にすぐに興味がなくなってくる消費者に対して
誰かが傷つこうが、真実はどうであれ
警察発表の使える部分を使って
消費者が飛びつくような報道をしようとしているのではないか
という心配があります。

それは「一見正義のように見えて、実は不正の者を糾弾すること」が
消費者の飛びつくスタイルだとでも考えているようです。

中学生の事件ではそれが大成功で、
インターネットのコメント欄の閉鎖がなされるほどだったようです。

二番煎じが失敗しそうなのが
今回の放火事件です。

マスコミの初期報道は、
中学生事件と同じ構造をたどる姿勢が垣間見えました。
何も反省せず、同じ被害者攻撃を繰り返そうとしたように見えました。

しかし、インターネットでも、これに対する反応は鈍く、
むしろ警察や報道姿勢を激しく批判する真っ当な意見が
多く見られました。

そういう国民の反応を敏感に察したか
初期報道に対するマスコミ内部の自浄作用があったのかわかりませんが、
露骨なトラブルの存在の報道は影を潜めていますが
父親の発言は、マスコミが誘導した結果の要約にもかかわらず
父親の話のような報道が訂正されないまま掲載され続けています。

事情を分からないままの印象付け報道や
(トラブルがあるかどうかわからないのに、警察がトラブルがないか調べているという報道の類)
事情を分かっているにもかかわらず、印象的な部分の切り取り報道
(父親がトラブルがあったと言っていないのに、そういう風に言ったと要約する報道)
は、なにもこの二つの事件だけでなく、
私がかかわった案件の報道でも見られるところです。

そんなこと報道していない。
そういう印象受けるのところまでは感知しない。
誤解や悪意の読み方であり、マスコミには落ち度がない
と言っているかのような表現になっています。

「マスコミなんてこんなもんだ。」
というところを暴露することが
一番消費者が喜び、
マスコミを健全化するという意味では社会的意義のある
報道になるのではないでしょうか。

なぜ、中学生事件は、
警察の捜査情報を無批判に垂れ流したのか
報道をしなかったマスコミはあったのか。
その報道によって深く傷つく人たちがでるということを
考慮したのか、考慮しなかったのか
考慮したとすれば、どうして報道に踏み切ったのか。
加害者の一方的な話が、真実ではないかもしれないということは
報道を抑制するきっかけにはならなかったのか。

なぜ、トラブルという表現を使ったのか
父親の発言としてトラブルという言葉を使ったことに
問題があったとは思わなかったのか
そのような報道をしなかったマスコミはあったのか。

警察の情報としてトラブルを調べているという報道について
その派生効果を考えたマスコミはあったのか
どうしてその報道をやめることができなかったのか

その原因は
警察の情報を必ず報道しなければならないということなのか
その方がインパクトがあるということなのか

そういうことを検討して、
あるべき報道表現ということを
マスコミ自身が国民と一緒に考えていかなければ
いつか来た道に戻ることを国民は心配するべきでしょう。


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業績をアップさせる指導になるか、生産性を低めてパワハラになるか。教え方がわからない時に行う指導方法とは。 [労務管理・労働環境]




「俺は教えるべきことを教えた。あとは自分で考えろ。」
ということは新入社員に対するパワハラになることが多いです。

新入社員は、考えても分からなくて無駄に何日も立ち止まり
苦しみ続けて仕事がいやになってしまいます。
これ、「そんな奴なら使えないから会社にいらない。」という人がいますが、
苦しむ人は、真面目に仕事をしようとしている人です。
とりあえず給料もらえばいいやという人は
自分で考えることに見切りをつけて
誰かにやってもらうか、
頭を下げてできませんでしたとヘロっと言えるのです。

真面目で、戦力になる人間に、手かせ足かせをはめるようなことをして
生産力が向上するわけありません。

「なんでこんなことができないんだ。」
「前に説明しただろう。」
という言葉ばかり言う上司は、自分の無能を宣伝しているようなものです。

なぜできないかを考えるのは上司の仕事だからです。
指導とは、客観的に「必要の範囲」というものがあるわけではなく
相手に合わせて行う必要があります。
相手がわからなければ、指導としては不十分です。
社会は厳しいということを覚えましょう。

「なぜできないかわからないこと」には理由があります。

「こんな知識社会常識だろう。知っていて当たり前だ。
この知識があれば、解決方法を考えることはできるだろう。」
という考えが正しいものだと思っているのでしょう。
しかし、これは間違いです。

先ず、知識は、ひとそれぞれで、興味のある得意分野もあれば
苦手分野もあるというのが当然です。

また、知識と知識を組み合わせること、つなぐことは
実は思考というよりも
知識を組み合わせる、その組み合わせ方の知識
という側面があります。
文系選択者にはわかりづらいことかもしれませんが、
これが真実です。

組み合わせたことのない人間は、いかに必要な知識があっても
組み合わせることは、ほとんど不可能でしょう。

業務というものは、
その業務を反復継続して行い、特別な技術、知識を習得するから
収入を得ることができるのです。
誰でもできることをやって収入が上がると思っている上司は
社会の厳しさを知りません。

この組み合わせの知識は、反復継続して組み合わせを行うことによって
効率よく習得することができます。
初期の指導とは、反復継続して作業をやらせるということであって
知識もないのに組み合わせを考えさせるということは
極めて非効率で、時間がもったいないということが科学です。

また、無能な上司は
自分ができなかったときのことを忘れています。
自分がそのような知識があったのか
知識を組み合わせることができたのか
おそらくできなかったことを忘れているのです。

名人と言われる人ほどこれは忘れてしまいます。
というか初めから体験していない場合もあります。

尺八のある大師範は、子どものときに尺八を初めて口に当てたところ
初めから尺八を吹けたというのです。
おそらく99パーセントの人は
尺八の音を鳴らすまでに多くの月日を費やしていると思います。

この大師範にとっては、尺八の音の出し方を教えるということは
なかなか難しいことなのだと思います。

まあ、一般の上司は、色々先輩から援助をしてもらって
仕事を覚えているわけですが
それを忘れているわけです。

尺八など楽器も同じで
どんなに才能のない演奏家でも
楽器は吹けるようになることがあり
そして一度吹けるようになると
どうしてあの時音が鳴らなかったのだろうか
ということがわからなくなることが一般的です。
というか
そんなことを考えることもそれほどいないわけです。

この上司も、この仕事を続けていくのであれば
懇切丁寧に教えることは、自分のキャリアアップにつながるのです。
新人が何がわからないのか、
知識不足か、知識の組み合わせ不足か
どうして知識の組み合わせがわからないのか
どう教えたらわかりやすいか
そういうことを考えながら教えることによって
つまり言葉に出して説明することによって
なんとなくやっていた自分の作業も
原理や目的を意識するようになれるし
そうなれば応用を利かせることもできるようになるからです。

そうして、上司としてのスキルがアップすれば
顧客に対するスキルもアップします。
社内での人間関係も良好になっていくわけです。
人にものを教えるということはそういうことです。

さらに、懇切丁寧に指導された部下は
自分が指導するときに、この経験をまねすればよいのですから
会社は永続していきます。

これを、こわもてで接して、厳しいことばかり言って
部下に緊張させるような指導をしていたら
緊張しているのですから、吸収も悪くなるだけです。
非効率ここに極まれりという感じです。

そして真面目で責任感がある人間から
やめたり、体調不良になっていく
こういうことなんです。

それでも仕事は日々変化します。
百戦錬磨の上司でも教える方法がわからない場面も出てきます。

教え方がわからない。というよりも自分でもわからない。
分からないということを部下に言うのは恥ずかしい。
上司の沽券にかかわる。
なんてことを気にする上司がパワハラをするような印象があります。
自分の立場を守ることに汲々としている人は
会社全体の立場とか、真っ当な対応というようなことを
気にしなくなってしまいます。

こういうことが許される会社は
会社全体が事なかれ主義に陥ってしまい、
自分の立場を守れるのであれば
会社が少々損をしてもかまわない
という風潮が蔓延していきます。

言われた通りのことをやっただけで
どうして自分の評価が下がるんだ
等と本気で考えてしまうわけです。
これでは人を相手にした仕事はできません。

では、どうするのか。

1 わからないことを認める。
これが第1です。
これが無ければ、次に続く得難いチャンスとなりません。
むしろこれができれば上司としては一人前です。

「俺がわからなければ、誰もわからない」
こういう発想に立てば何でもないことです。
この発想に立つためには
勉強、実践経験、そしていくばくかの図々しさが必要です。

新人は上司が「俺も分からない」ということで救われます。
真面目で責任感の強い人間ほど救われます。
「わからない時があって良いんだ
わからないと言っても良いのだ。」
ということを学ぶことは貴重です。

2 一緒に考える。
これは、部下にとって貴重な体験です。

なにせ部下は、どう考えて良いかわからないのですから
上司の思考の流れ、知識の組み合わせ方を勉強できるということで
すぐに実践に役立つ勉強になります。

わざとわからないふりして一緒に考えるという作業を
推奨したいくらいです。

経験不足で役に立たない部下との会議でも
上司にとってとても役に立ち
解決に向けて一人で悩むよりもよほど役に立ちます。

普通考えと話の順番については
脳で考えて、考えたことを言葉にする
と思われていると思います。

ところが必ずしもそうではないようです。
まさにこのブログでいつも感じていることなのですが、
言葉にすることによって、
考えがひらめくことがとても多いのです。

言葉にしなければ、そのことを意識しないのでしょう。
あるいは、言葉にすることによって
言葉にする前には思いつかなかった
言葉の意味だったり、その言葉から連想することだったり
そういうことが広がっていき
新しい思考が可能になるのだろうと思います。
詳しくはビゴツキーという人の文献をあたってください。

頭の中の言葉と口に出した言葉は別物なのでしょう。

2 それでも分からなかったとき

どんどん部下の経験値が上がっていくわけですが、
上司が相談してもわからない時どうするか。

同僚や自分の上司に聞いてみるということをするわけです。

これとても大事です。
先ほども言いましたが、考えるということは
知識をつなぎ合わせるという知識が必要だと言いました。

そのつなぎ方がわからない人がいたとしても
そのつなぎ方をわかる人もいるかもしれない。
そうだとすると、案外簡単に答えが出てくるかもしれません。

その課題を解決できるか否かというのは
必ずしもその人の能力と関係があるわけではないのです。
経験の違いというより、経験した分野はみんな違うわけです。
だからこそ集団で仕事をする意味があるというものです。

今に日本の労務管理は
こういう当たり前の原理で仕事ができないような状態に
労働者一人一人を追い込んでいるわけで
これでは生産性が上がらないのは当然です。

また、他者に相談することを部下が覚えるということも大事ですが、
自分の仕事の状況を仲間に伝えるということも大切なことです。
しょっちゅうこういうことをやるわけには行きませんが、
考えても分からなかったという内容であれば
ある程度の人数で共有することはとても有益です。

こういう業種を超えてしのぎを削っている状態のときに
成果主義的賃金体系なんて余裕のある個人プレーを推奨する労務政策なんて
誰が従うのだろうと不思議でたまりません。
それをすると安心するというおまじないみたいなものなのでしょうか。

3 最終的に分からなかったとき

誰に聞いてもわからない。考えてもわからない。
それを会社も知っている。
ということになれば、
課題を解決できないという結論を認めることになります。

それを認めて始めて
次善の策を考えられるわけです。

この事後処理ということも
とても大切なことです。
最も高度な仕事かもしれません。





ここで大切なことこそ、
別の同僚に教え方を援助してもらうということです。
ユーチューブチャンネルを複数閲覧するということと一緒です。
自分が忘れていたことを覚えていたり、
画期的な教え方を知っていたり、
思わぬ人が思わぬ指導をすることがあるわけです。

こうして協力し合って結果を出すということを教える事こそ
本当にするべき指導だと思います。



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若い人がフェミニズムを嫌うという電通の調査に寄せて、 YOKO ONO ’I want my man to rest tonight’ [弁護士会 民主主義 人権]



先日、尊敬している若手女性弁護士の方が
フェイスブックで電通調査の記事を紹介されていました。
私は常々、この先生の着眼点の鋭さというか
紹介の気負いのなさというか
自分にはないものをお持ちだということで注目していたのですが、
いつものようにシェアしていたら、
先生の記事まで引用されていたことに何日か経って気づき
見ようによっては先生を批判しているようにも見えてしまいそうなので
慌てて削除した次第です。

という言い訳から今日は入るわけです。

その記事というのが電通の調査の記事で
若い人ほど「フェミニズム」が嫌いで
女性活躍政策も支持しない
という傾向があるということを紹介したものでした。

ちなみに、私がシェアしたときのコメントが
フェミニズムが嫌いなことと女性活躍を応援することは矛盾しない
というようなことだったと思います。

「フェミニズム」が好きか嫌いかという質問も
漠然としているためにどうかと思うわけです。

フェミニズムは時期によって
その主張内容や、活動方法が
全く別だからです。

ウィキペディアによると
女性参政権運動や社会主義に基づく女性の権利・地位向上、男女同権を求める運動を中心とした第一波フェミニズムに対して、文化・社会に深く根を張る意識や習慣による性差別と闘い、主に性別役割分業の廃絶、性と生殖における自己決定権などを主張した運動が第二波フェミニズムである[1]。
としています。
もっともこのウィキの記事は、どうやら第三波の考えによって第2次フェミニズムを解説している傾向が強く、第三波との共通点を強調しているように私は感じます。
もっとも第二波フェミニズムは、様々な思想的背景などから様々な主張がなされています。第二波とひとくくりにすることにも無理があるかもしれません。

現代のフェミニズムは第三波というそうです。

年配の人がフェミニズムに対する嫌悪感が少ないというのも
これはよくわかる。
私より上の世代は第二次フェミニズム運動と呼ばれる時代の
その時のフェミニストたちの主張や活動が念頭にあり
必ずしもすべてに賛同はしないとしても
共感できる部分が多くあったからだと思います。

私は、フェミニズムという言葉と最初に出会ったのは
オノヨーコさんです。
現代の三波の皆さんが彼女をどう評価しているのかわからないのですが、
彼女の主張するフェミニズムは、私はすんなり共感できるものでした。

そのヨーコとの最初の出会いは、敢えて邦題で紹介しますが、
「無限の大宇宙」というアルバムでした。
その中の、 ’I want my man to rest tonight’ という曲です。

是非、曲名と歌詞 で検索していただき
グーグル翻訳などで訳していただきたいのです。

実はこの時期ヨーコはジョンと別れて、失意の中にあり
新たな展開として豪華ミュージシャンが参加して
無限の大宇宙をレコーディングしたようです。

山口百恵がデビューしたころに、日本でリリースされました。
ジャケットはヨーコの横顔が大写しになっていて
今見ると何でもないのですが、
当時はひどく怖かった思い出があります。

女性上位という言葉もあった時代ですから
無限の大宇宙のジャケットは、何か怖いものの象徴でした。

その当時はさすがに小学生だったもので
ヨーコの曲を聴く機会もなかったのですが
少しして中学生になってませてきて、
何かの機会でこの歌詞を目にした時、
「ああ、救われる」という形で強く強く共感しました。
よく聞いた記憶があるのですが、海賊版にでも入っているのでしょうか。

歌詞の内容を少しだけ紹介すると

ヨーコが女性に向かって歌う歌なのですが、

あまり男性を厳しく責めないでよ
彼らも頑張っているんだから
彼らは男だからって言われて無理させられている
だから、私は、彼に今夜はゆっくりしてほしいと願っているの

みたいなところで間違いではないでしょう。

つまり、女性が女性らしさを強制されているということは
男性も男性らしさを強制されているということで
お互いが性的決めつけから解放されることで
世界は平和になる
といわれたような気になったということです。

ああ、そりゃあそうだよなあ。
と、もろ手を挙げて賛同したわけです。

その頃から、ふつふつと男らしさなんてやせ我慢みたいなものだ
というハードボイルドの哀れさを理解するようになったというか
紅白歌合戦では紅組を応援してよいんだという意識になっていったわけです。

でも、「男らしさ」を捨てることは繁殖期を過ぎるまでは難しいものです。

平和の問題も第二次フェミニズム運動は当たり前のように取り上げていました。
女性らしさとは、男性らしさと根が一つだということを見抜いていたからこそ
男性らしさが、戦争遂行など、他人と物理的に戦うための
思想統制的な道具だったのだということを主張していました。

そのときは理解できなかったのですが
男も髪を伸ばしてふらふらしているという
私の一つ前の時代のヒッピーの思想って
そういう主張もあったのかなと今では想像しています。

(それを理解できない当時の若者たちが
既存の価値観にやみくもに反発して
麻薬などに手を出していたのではないかと。

いずれにしても、大ざっぱとか極端というのはろくなことにならない。
反対勢力からのツッコミの提供になってしまう。)

前も真面目に言いましたが
男らしさ(ジェンダー)と「闘い」ということは
切り離せない問題だと思っています。

本来であれば、200万年前には人類は
この男らしさを、少なくとも人間相手には捨てていました。
人間はチンパンジーと別れて犬歯が極端に小さくなるころには
闘いを好まない動物種になっていたはずなのです。
せいぜい食料として動物を狩ることと
肉食動物から仲間を守ること
という意味合いでだけ戦う動物種だったということです。

また、心が成立したと言われる200万年前は
一生をかけて出会う人間はおそらく99パーセント仲間だったわけで、
戦う必要性もなかったようです。

ところが、農耕が始まり人間の個体識別能力を超えて
多くの人間と利害関係を有するようになって
自分達を守るために、自分たち以外の人間を攻撃できるようになってしまった。

しかし、道徳や宗教によって、それも地域の秩序が形成され始めれば
徐々に闘いも減るはずだったのですが、
さらに移動距離が長くなってしまったために、
本来利害対立しないはずの遠方の民と
無理やり利害対立の場面を作り出して戦いが始まってしまった。

帝国主義的侵略や帝国主義国家相互間の戦争
というように言うらしいですよ。

だから、日本でも
遠すぎて見たこともないような外国をさして
日本の生命線だとか、絶対死守だと言っても
戦おうって気には自然にはならないはずでした。

しかし、明治以降の勧善懲悪という男らしさの教育が起き
義を見てなさざるは勇なきなりなんてことで
チンパンジーと共通祖先の頃の男性の本能を無理やり呼び起こされて
なんだかわからない怒りを持たせられて死地に追いやられたのでしょう。

私は戦争遂行のイデオロギーで一番重要なことは
この怒りに火をつけるシステムだと思います。
過剰な正義感、無謀な責任感がその油になっているわけです。
単純な、戦いたくなる感情、怒りやすい感情を
戦前の政府はコツコツと培養していったわけです。

(でも現代も、この傾向は、やはり戦前と同じようにマスコミによって
 細々とかもしれませんが、脈々と栽培されていると私は思います。
 過剰な正義感、無謀な責任感、そして二項対立、怒りをあおる報道
 には最大限の警戒が必要だと思います。)

かまやつひろしの「我がよき友よ」(作詞吉田拓郎)で
「男らしいは優しいことだと言ってくれ」
と歌ったのはこういう思想的背景が何となくあったのでしょうね。
男らしさとは、戦うことではないということでしょうね。
そして、戦争のイデオロギーが残存し、行動成長に使われたという
男性労働者たちの意識的あるいは無意識の実感から、多くの強い共感を
なんとなく得たのだと思います。

第2次フェミニズムが男性からも支持を受けたのは
無駄に男女間の対立をあおらなかったからではないでしょうか。

フェミニスト達も、男性をジェンダーバイアス越しに見るのではなく、
男性も本性は同じ人間であり、
作られた男性像を押し付けられているだけだと
少し余裕をもって、堂々と上から男性を見ていた
ということが言えるのではないでしょうか。

案外それは、男性にとっても自然で心地よいものだったのかもしれません。

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一日がかりで、隣県の高校生に過労死予防啓発授業(厚労省の事業)を行ってきました。授業の要点3つ [労災事件]



先日、隣県の山間部の高等学校に過労死予防の授業をして参りました。
新幹線とタクシーを乗り継いでいかなくてはならないところです。朝10時半過ぎの新幹線に乗って、夜6時半ころ駅に帰ってくるという強行軍ですが、お話は1時間です。それでも、過労死弁護団の弁護士は、この啓発授業は喜んで取り組んでいる事業です。

この授業は、学校側に費用の負担はありません。厚生労働省の事業で、国から費用が出ます。高校生がメインですが、大学や短期大学、専門学校でも、私の場合は中学生バージョンがありますので、中学校でも受け付けています。毎年入札があるようですが、これまではずっと(株)プロセスユニークという会社が委託を受けて窓口になっています。学校の先生が窓口になること、学校の施設内で、つまり学校(校長先生)の許可があることは必要です。最近は、就職や進学を控えた生徒さんたちに、過労死予防と労働条件の話をすると言うリクエストが多いようです。サークルやPTAが主体となっても学校の先生が窓口になり、生徒さんも参加していれば、国が費用負担を行うようです。
私にお声をかけていただければ、プロセスユニークにおつなぎします。

令和3年バージョンのお話しするポイントは3点です。
1 過労死は、発症するまで本人も家族も気が付かない病気の一群であるということ。
だから、「ああ、自分が少し悪くなってきたら、少し仕事量を抑えようか」というコントロールが効かない現象だということです。だから予防を徹底する、つまり過重労働を行わないという方法でしか防ぐことができないということが第1です。

2 過労死と認定される一群の疾患は、睡眠不足と関係しているということ。
だから過重労働の典型が長時間労働になっていること。また長時間労働とは具体的にどういうことかということをタイムスケジュールというか時間割を作って、法定労働時間と時間外労働時間を色分けして、週25時間時間外労働をすると、1か月100時間の時間外労働なんて簡単にできる等と言うことをお話しします。睡眠をとることがどんなに大切なことかを少し理屈をもっておはなしします。
 だから、過労死予防は長時間労働をしないこと。プラスして孤立しないことについても言及します。

3 3点目は、予防方法がわかっているのに、なぜ長時間労働をするかというお話をします。なぜ投げ出すことができないのかということをお話しするわけです。そして、本当の過労死予防の特効薬は、職場に仲間を作ること、お互いを助け合い、気遣いあうこと。そのためには、社会に出る前から仲間を作る訓練をすること
というお話をしています。

中学生バージョンも基本は変わらないのですが
仲間を作るということに力点が置かれます。いじめの予防も意識しているわけです。「いじめはだめだ、命を大切にしよう」ではなく、仲間を意識的に作るというプラスの方向を提起しています。

総じて、過労死を無くすとか、いじめをなくすということは、それ自体を目標にしても対策が言葉尻をとらえたものや、目についたこと、あるいは結果を押し付けるだけのものになりがちになります。むしろ具体的にどうするか、そして何を目標として生きていくか。つまり、仲間や家族と一緒に幸せになっていこうということ、その大目標の実現に向かえば、過労死やいじめが無くなっていっているはずだという理念をもってやっているというところです。

今お話しした通り、過労死は突然人が亡くなります。どんなに労災認定が取れても、損害賠償が勝訴になっても、亡くなった人は戻りません。予防しか方法がないのです。過労死弁護団は、できるだけ早く過労死という現象をこの世から失くして、弁護団を解散させることが悲願とされています。一日かけて1時間のお話をするということでも、本当にやりがいのあることなのです。
また、今回もそうですが、高校生の皆さんは、本当に熱心に聴いてくださるし、ポイントのところでは顔をあげてこちらを見て聞いてくださります。皆さんにとって有意義かどうかは計り知れませんが、私にとっては本当にありがたい事業となっていることは間違いありません。

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予防政策を減速させてしまう、二方向の「被害者の落ち度論」 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]




自死でも、虐待でも、いじめでも、性犯罪でも、
予防政策を進めるにあたって、その足かせになってしまう二つの
二つの「被害者の落ち度論」があります。

<一つ目は、被害者(および加害者)の特殊人間論です。>

前もブログで書いたことがありますね。
ニュース報道だけで、何も事情が分からないくせに、
被害者にも悪いところがあったから、被害にあったのだという決めつけです。
ネットでの書き込みなどでよく目にします。

この被害者の落ち度論を言う人の心理というのは、
一言で言えば、被害に動揺して、自分の不安を鎮めたいというものです。
つまり、
「被害者は特殊な人間だから被害にあったのだ
(あるいは特殊な加害者に偶然関係したために被害にあった)
私は普通の人間だから被害にあう可能性は著しく低い
だから自分は大丈夫だ。」
と思いたいわけです。
そして誰かに肯定してもらいたくて
ネットに書き込んだり、友達とそんな話をするのです。
そうだねと言ってくれれば、安心できるからです。

しかし、実際は、自死でも、虐待でも、いじめでも
被害者が特殊な人間であることはありません。
(加害者であったとしてもどこにでもいるような人間
である場合がほとんどです。
登場人物はどこにでもいる普通の人間であることが通常です。)

特に被害者については、被害を受けやすい属性のようなものはなく、
全くの被害者であることが通常です。
理不尽で絶望的な被害を受けるのです。
つまり誰しも被害に合う可能性があります。
だから、予防の方法を構築することが大切になるわけです。

根拠がなくても安心を求めるのは、人間の常です。
自分だけがそう考えて、安心していればよいのですが、
「被害者が特殊なだけだから、対策なんていらない。
被害者の行動をしっかり修正すれば被害にあわない。」
ということになってしまえば
対策を講じれば予防できたはずの被害も
対策を講じられなくなり、予防できなくなります。

予防政策を立案するにあたっては
普通の人が被害にあう構造をよく理解することが
第1歩ということになると思われます。

<二つ目は、被害者に被害の原因を求めるなというものです>

具体例を挙げて考えてみましょう。
深夜、1人で帰宅中の女性が痴漢にあったという例で考えてみます。

一つ目の特殊な被害者論の論者たちは、
被害女性が、肌の露出した服を着て歩いていたから目をつけられたのだ
とか、
1人で深夜歩いていることが悪い
というように被害者の落ち度を強調して
自分は大丈夫と安心しようと思うわけです。

これに対して被害者に原因を求めるなという立場からは
深夜に一人で歩いていようと露出の多い服を着ようと
犯罪でも不道徳でもない
犯罪を行った加害者が悪いだけであり、
被害者の行動をとやかく言うことはおかしい
ということになるでしょう。

分かりやすくするためにどちらも極論をあげてみました。

善悪論で言うならば後者が正解でしょう。
深夜に一人で歩いても、犯罪にはなりません。
仕事帰りだったり、何かの事情で、
どうしても夜中の道を一人で歩かなければならない事情があった
ということを想像するのはそれほど難しいことでもありません。

犯罪被害にあってもやむを得ないという理屈は
全く出てこないことはその通りです。

また、露出の多い服を着ているから犯行を思い立って実行した
ということは、私の弁護や損害賠償実務の経験ではあまりなく。
どちらかというと、かなり前から犯行を思い立ち、
自分が捕まらないような場面と、ターゲットを物色して犯行を行いますから、
その時の服装というのは、あまり決め手にはなっていないようです。
(被害者の心理としては、自分が前々から狙われていて、
自分の行動を監視されていて、その結果襲われたと考えがちです。
しかし、実際は行き当たりばったりの犯行が多く、
加害者は被害者がどこの誰だかわからないことが多いです。)

但し、
犯人がターゲットを探しているときに二人の候補がいる場合、
露出の多い服を着ている方がターゲットに絞り込まれやすいし、
犯行を決行するかやめるか迷っているときに
露出の多い服が背中を押すということはありうることかもしれません。

被害にあった人も悪くないのですが
これから被害にあうかもしれない人も悪くないのです。
そうだとすると、
ちょっとの工夫などで被害にあわないで済む、
あるいは被害にあう確率が著しく低下するなら
その工夫を明らかにして、一般的に広めるべきだ
ということになるのではないでしょうか。

おそらく冷静に考えれば、あまり批判されないことだと思うのですが、
被害にあわないように行動の修正を提案すると
(例えば夜中に一人で歩かない等)
「被害者に落ち度があったと言っているようなものだ。
被害者を苦しめるからけしからん。」
(一人で歩いた被害者が悪いと言うのか)
というような極論を言う人たちが出てきてしまうわけです。

路上の痴漢行為という犯罪に関しては
加害者と被害者がきれいに分かれるわけですが、
他の社会病理に関しては
例えば家庭の中の問題等継続的な人間関係の問題に関しては
加害者と被害者ときれいに分かれる場合だけではありません。
相互作用の問題として考えて対策を立てた方が
関係者の今後の幸せに大きく貢献するという場合も多いような気がします。

こういう場合は、行動の修正を提案された方が
「悪かった」から被害が起きたのだと言っている
と受け止められると対策を立てにくくなります。

良い悪いではなく、
被害にあわないためにどうするかという視点は
受け止め方によっては冷たい視線になるようです。
被害者に寄り添っていないということになるらしいです。

言い方の問題で解決できる問題なのかもしれません。

考慮しなければならない要素は
・被害を出さないこと
・すでに被害にあわれたかの気持
ということになろうかと思われます。

予防策は、あくまでも、被害にあう確率を少しでも下げるための方法論だ
ということを徹底しなくてはなりません。

そうすることが悪いわけではないけれど
被害にあわないためにはこうするべきだ
ということを自由に言えるようになることは
被害予防政策の立案にとっては
極めて重要なことだと思います。

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