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DV法の保護拡大の報道に接しての危機感を表明する。家族制度解体に向かう亡国の法律となる危険があるということ。国家としてあるべき政策とは。 [家事]




配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律(DV法)が拡大の方向で改正される動きがあるらしい。

私は、この法律実務に関与した経験のある弁護士として、この改正によってこれまであったDV法の危険がより深刻化するのではないかという懸念があります。その懸念をここに記しておきます。

<現行法のおさらいと改正の動き>

今改正の動きがあるのは
保護命令(DV法10条)と呼ばれる制度の拡大です。
保護命令は、
A:すでに夫婦等が別居している場合は、6か月間、被害者(DV相談をした相談者という意味)の住居、勤務先などに近づくこと、付近を徘徊することの禁止命令
B:申し立て時夫婦等が同居している場合は、加害者(被害者の配偶者等という意味)を、2か月間自宅に立ち寄らせないという命令
を命じることです。

罰則として1年以下の懲役または100万円以下の罰金があります(DV法29条)。

但し、すべてのDVではなく、
① 身体に対する暴力又は生命等に対する脅迫のある場合で、かつ、
② さらなる身体的暴力によって、
③ その生命又は身体に重大な危害を受けるおそれが大きいとき
という条件のすべてが認められなければなりません。

今回の報道では、上の①,②,③のどの部分が改正されるのかはっきりしませんが、①が改正されることは間違いないことになります。

問題は、②,③も改正されてしまうかというところにあると思います。ここが不明です。ただ、読売新聞の報道(司法関係の報道では安定して正確だと感じているため)では、「内閣府によると、2020年度に政府のDV相談窓口に寄せられた内容のうち、身体的暴力は約3割にとどまり、精神的暴力が6割近くを占めた。精神的暴力によって心的外傷後ストレス障害(PTSD)など深刻な被害を受ける恐れもあることから、政府は保護命令の対象に加える必要があると判断した。」
とされており、生命または身体に重大な危害ということの中に、PTSDの発症の危険が含まれることになるということも想定しなければならないと思います。
そうすると、②の条件も、PTSDは、必ずしも身体的暴力によって起きるのではありませんから、PTSDを発症させる外傷体験があれば足り、身体的暴力を要件とする必要がなくってしまう可能性も出てきてしまいます。逆に身体的暴力の要件は温存するという考え方もないわけではないでしょう。身体的暴力がある時に限って、PTSDの発症の危険も考慮することにしてバランスを保つということです。

<現行法の特徴 バランスのとり方>

この通り、現行法は、被害者保護のために
保護命令を発令して、加害者とされた者に対して、
・行動の自由を制限する(憲法13条)
・居住の決定権を制限する、(憲法22条、29条)
・個別の裁判所の決定で刑罰の対象となる行為が定まる(憲法31条、13条)
という強い効果を与えていることがわかります。

これとのバランスをとり、人権を保護の観点から
・そもそも身体的暴力、生命に関する脅迫の場合に限定して、保護の必要性が明白であり、かつ、国家という第三者が介入する基準を明確にする。
・さらに保護命令が強い制限効果を有するため、加害の内容を身体的な暴力であり、かつそれが生命や身体への重大な危害の場合という明らかに不道徳な場合に限定しているのです。

このようにおよそ法律は、
一方を保護すると他方の権利侵害が起きることになることを踏まえて
バランスを取りながら、保護を図るものです。
理性的な議論が必要になります。

確かに人権侵害のような配偶者加害行為から、被害者は解放されなければなりません。しかし、本当に配偶者加害行為があったのか、簡単にはわかりません。
例えば妻が浮気相手と結婚するため今の夫と離婚したい、離婚原因が特にないから、暴力があったことにして、保護命令を出してもらい、離婚調停や裁判を円滑に進めて、首尾よく不倫を成就したい
というような欲望のために、夫の財産や行動を制限しないようにしなければならないのです。こういう事件は結構な割合であると実感しています。

現行法の具体的なバランス感覚が、身体的な暴力、生命を脅かす脅迫があった場合に限定するということでした。

<現行法の問題点>
実務家の体験や保護命令手続きの現状からすると、現行のDV法の保護命令の手続きはとても大きな問題があります。

第1の問題 本来バランスをとるために必要である、上記①,②、③が極めて曖昧であっても保護命令が出されているという現実です。
 実際に保護命令が出された問題でも
申立人(妻)の主張が「激昂」、「暴力をふるうふり」、「近づく」、「周囲のものを叩く」、「蹴るしぐさをする」、「激怒し口論」、「はだしのまま体を引きずって突き飛ばす」、「乱暴な言動」で、これのどこが身体的暴力、命の危険のある暴力になるか訴訟行為としては全くわからないというべきです。
具体的な内容はほとんどなく、その場面を体験していない申立代理人の評価がだいぶ混じった内容となっています。別の事案でも、帰宅時に玄関に立っていた妻を夫が強引につかんで廊下に上げたなどと主張されたことがありますが、午前零時を過ぎて酔っぱらって帰ってきた妻を介抱するために家に上げたことが暴力とされていたりします。ハサミをもって追い回したという主張がありましたが、犬の毛のスキばさみをもって犬を探したことをもって命にかかわる重大な危険があると認定されてしまっていたりしています。また、何年か前のもみ合いをもって身体的暴力があり、今後の暴力によって生命身体に重大な危害があるという決定もよく目にするところです。
現在でも身体的暴力という要件は曖昧なまま運用されていることが散見します。
この結果、抗告審や再度の保護命令の際に、保護命令決定が否定されることがかなり多くあります。保護命令を出した当の裁判官が全く同じ申立書に対して、取り下げを説得したという事案さえあります。前の保護命令では相手方の夫は弁護士を依頼していなかったのです。代理人が付かないと法律を無視して保護命令を出すぞと言っているようにしか聞こえませんでした。
こんな曖昧な暴力認定によって、主に夫は、自分の家に2か月も帰れないという状態となり、帰ってしまうと1年以下の懲役や100万円以下の罰金が科せられるという犯罪者となってしまうのです。

第2の問題 防御の手続きが奪われる運用がなされている。
  これは前に述べました。
やっぱり保護命令手続の現状の運用はおかしい
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-03-12
   から続く一連の記事

  簡単に言うと、相手方には、木曜日に裁判の呼び出しが普通郵便で送られてきます。届くのは金曜日の午後か土曜日。働いている人は金曜日の夜以降に封筒を受け取ります。驚いても土曜日、日曜日に弁護士に連絡が取れません。月曜日に事情をよく分かっている弁護士にたどり着くことも至難の業です。そして、火曜日の何時に裁判所にきて申し開きをせよと命じられている内容を読んで、そのまま行ってもちんぷんかんぷんで何を言ってよいのかわかりません。必要な反論もできないまま保護命令が出されてしまうのです。だまし討ちのような例はたくさんあります。
  これまで真面目に生きてきた人間が裁判所に出頭を命じられるだけでもパニックになるでしょう。裁判所で自分を守るなんてことは普通の人では無理な離れ業なのです。

第3の問題 男性の申し立てが受け付けられない男女差別
  保護命令は事実上、女性だけが申立権利者になり、男性が申し立てようとしても受理されないということがあります。受付で笑われて相手にされなかったそうです。
  これはおそらく、「女性がひ弱な力で暴力をしてきても、男子たる者は、体力で制圧して自らをかばい、女性の暴力をやめさせるべきだ。お上にお願いするなんて筋違いだ。」という意識があるのだと思います。この意識は極めてジェンダーバイアスがかかった問題のある考え方であり、そもそも配偶者加害の被害について何も理解していないことを示しています。
  妻のヒステリックな言動や暴力に対して、逃げ場を見つけられず心理的に追い込まれている男性はたくさんいます。彼らは様々な理由から心理的に暴力を行使できないのです。心理的に暴言や暴力を受け入れてしまうのです。また、妻の暴力によって夫が死亡するという例はよく報道されているとおりです。妻は暴力や共犯者を使って夫を殺しているようです。夫婦間殺人で実際に男女差がそれほどあるという統計は無いように思われます。
  要するに、DVを担当する公的実務の担当者は、未だに「男性は体力で女性を圧倒するべきだ。」と考えている問題があるということになります。

<現行法の問題点を増悪する可能性のある改正>

曖昧なまま、居住権、財産権、行動の自由を制限され、名誉を棄損されるという問題点は、「身体的暴力」や、「生命身体の重大が危害」の解釈が曖昧な点に理由がありました。印象として、「申立人が言えば、明確な反論がない限り、そのままその存在が認められた」言い得ということが少なくありませんでした。そのまま自宅に立ち寄れず、子どもの安否も確認する手段がなく、DV加害者のレッテルを貼られるわけです。
おそらく、今回の改正を後押しした関係者とは、こういう無理な主張をしなくても保護命令を出すために、モラルハラスメント、精神的虐待という概念を導入するということが必要だと感じていたのでしょう。現在でもほとんどの保護命令の事案がこれですから、そういう主張は目に見えるようです。
身体(人間の体)に対する暴力(不法な有形力の行使)という明快な意味を持った概念でさえ、曖昧なまま手続きは勧められます。そうであれば、モラルハラスメント、精神的虐待というような曖昧な概念はますます曖昧に手続きが運用されるようになるでしょう。
本当にそれがモラルハラスメントや精神的虐待にあたるのか不明なことが多くあります。確かに、大声で罵倒して土下座を強要したり、正座を崩したことを理由として怒鳴りだしたりする場面を録音録画しているならば明確ですが、身体的暴力ですらそのような証拠は求められていません。具体的な例を出せば、妻が夜間長時間連絡をしないまま、どこかにいなくなってしまった。帰ってきても、何ら謝罪もない。夫婦はリビングのテーブルに座って、夫から連絡が無いと心配するのだ、連絡が欲しいと言っても妻は口も開かない。事情だけでも説明してほしい等と言うやり取りを1時間近くしていたとします。場合によっては小さい子どもを連れたままいなくなっていたとします。場合によっては子どもをほったらかして、夫のいない家に留守番させていたとします。子どもにとっても良くないということを説明をしていたら、それは精神的虐待になるのでしょうか。ある程度子どものことを想って攻撃的な表現を使った場合はやはり保護命令の対象となり、家から出ていかなくてはならず、子ども安否を確認するために家に戻ったら懲役や罰金となるでしょうか。実際にこういう例はありふれています。実際に起きている保護命令の事案というのは、こういう事案が大多数だということが実務家としての実感です。

PTSDの概念の曖昧さ

PTSDが裁判所においても乱発されていて、司法が混乱しているという問題はつい最近述べました。
簡単に言えば、PTSDという精神障害が発生するためには国際病類分類上、外傷体験という誰でも強い心理的圧迫となるような体験が必要で、それは戦争体験や人質、強姦などの強烈な被害だとされています。しかし、現代の裁判所に出てくる診断書のPTSDは、被害者が体をかがめたところに加害者の膝があったという出来事を理由にPTSDの診断をするような状態です。本来要件が厳格になるはずの外傷体験は裁判の場においても曖昧に運用されていることが実情です。PTSDでも保護命令が出るというならば、まずます運用は曖昧になっていくことは間違いありません。

男女差別の問題

法律相談や離婚事件を担当した実感としては、モラルハラスメントや精神的虐待を行うのは、男女差はなく、むしろ女性の方が行為件数としては多いと思います。
本当にこの改正を進めていくのであれば、男女平等(憲法14条)の観点からは、男性からの申し立てについてもきちんと受理するように実務を改めなければなりません。裁判所だけでなく、警察もそうです。形式的申立要件がそろっているのに受理をしない場合は、罰則を設けるべきだと思います。また、女性によるモラルハラスメントや被害例についての研修も義務付けるべきだと思われます。
 私は、裁判所がこれまでの保護命令手続きのような緩い手続きを継続していくならば、改正の中身によっては、女性に対する保護命令が男性に対する保護命令よりも増える可能性があるとさえ感じています。

<改正の目的に関する疑問>

もし報道のとおり、DV被害の相談の大半が身体的暴力以外だったとするならば、それは法律の効果が表れたのであって、喜ぶべきことであり、法律を強化するべきことではありません。
それなのに、保護命令を広く緩くするということならば、相談機関の仕事のために法律を改正しようとしているように感じてしまいます。
また、PTSDになることを防ぐ必要があるということも法律の目的として説明されているようです。この点については、反対できないことなのです。しかし、いつも思うのですが、どうして配偶者などの関係に限定しているのか、そこに疑問の目を向けるべきだと思うのです。例えば、どうして、職場のパワハラやセクハラににこのような視点が導入されて、保護命令や刑事罰が設けられないのでしょうか。なぜ、刑法自体においても議論がなされるべきではないのでしょうか。
 夫婦問題だけ特別に取り上げて保護=行動制限を増加させる政策を行うということはヒステリックな対応のように感じています。

<自殺統計から見れば夫婦は自殺を食い止める>

自殺白書を見ると
以下のような夫婦と自死の関連が掲載されています。
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男女の別なく、どの年代でも、配偶者がいる方が、配偶者のいない場合よりも自死者は少なくなっています。離別による独身者と配偶者のいる人を比べると、さらにその差は広がり、離別者の自殺率は高くなっています。特に男性の自死者の中では既婚者と離別者を比較すると10倍を超える年代もあるくらいです。

統計上は、夫婦でいることによって自死を予防する保護因子となっているということが言えるようです。

1つの原因として、夫婦以外の希薄な人間関係においても、例えば地域、例えば職場、例えば友人関係などにおいても、どうしても人間は仲間であるという実感を持ちたいようです。それがかなえられず、職場のパワハラを受けたり、近所づきあいや子どもの保護者としての付き合いなど人間関係に不具合を生じて苦しんでも、夫婦という安定した仲間が存在することで、仲間の一人であるという実感を持ち、精神的に追い込まれていくことを緩和する作用があるということが言えるのではないかと考えています。
ところが、今回の改正では、保護命令が認められやすくなる危険があるため、離婚が増えていく、配偶者と離別する夫婦が著しく増加する危険があるということが最大の心配なのです。

<本来の、あるべき国家政策>

精神的虐待やDVがあれば、夫婦は自死の防波堤にはなりません。また、一方が他方から毎日毎日暴言を受け、義務無き事を強制され続けていたら、その人は一体何のためにこの世に人間として生まれてきたのかわからなくなります。そのような姿を見て育つ子どもたちの成長にも深刻な影響を与えることになるでしょう。夫婦が安心して過ごせる関係になることは求められていることであることは間違いないと思います。

それでは国はどこまで夫婦の問題に介入するべきなのか、介入できるのかということを考えなければなりません。ここを考えないのであれば法律論とは言えません。

先ず犯罪が行われている場合に警察が介入し、犯罪者に対して刑事手続きを適用するということは、法治国家である以上当然のことです。これは当然今も行われていることです。
DV法は、犯罪が行われていなくても国家が介入するという法律です。このために、介入要件を厳格にしなくてはならないわけです。

私は、第一に予防を考えるべきだと思うのです。予防ですから、刑事罰や命令といった強制の契機はありません。それでもうまくいかない場合に、命令の発動要件をもっと厳格にした上で強制の契機を含んだ対策を考えるのが順番だと思っています。

予防の政策を行わないで、強制の政策を行う背景としては、予防には効果が無いという一部の考え方が働いていると思われます。例えば、男性は女性を支配したがるものだというジェンダーバイアスとかですね。家族は女性を縛るものだから、できるだけ離婚をさせることが女性の解放だというような考えでしょうかね。いずれにしても、加害をする男性は生まれつきなもので改善不能だという考え方があるようです。実はもう一つの考えとしては、被害を受ける女性は男性に依存するダメな女性だから、矯正をしなくてはならないという考えを持つ人もいるようです。女性の保護施設、保護制度は、元売春婦の保護施設、保護制度を踏襲しているという驚くべき実態がありますが、役所感覚というだけではなく、そのような女性蔑視の思想があるように私は感じています。

しかし、私の実務家としての感覚としては、
夫婦の仲良く仕方がわからないということの方が実態によく合っているように感じています。お互い仲良くしたいのに、余計なことを必要な配慮もなくしてしまうというようなことですね。これが日常、両親と同居していた時代では、両親から注意されて是正してきたのだと思います。現代の両親は、逆に自分の実子の方の肩をもって、実子の配偶者を一緒になって非難しているという嘆かわしい事態が日本では横行しているように感じています。

いま必要なことは
夫婦はどうあるべきかという啓発活動なのだと思っています。
そして、その根本として、人間の幸せを真正面から考えていくという問題提起が必ず必要だと思っています。
その信念で、これまでこのブログの記事を書き続けているわけです。

家族といると安心できることのすばらしさ、その必要性、人間として生まれてきたということはどういうことか、助け合うことのすばらしさ、本来人間はそうするように生まれついているのだけれど、それができず逆に傷つけてしまう理由等々です。

被害者、加害者という言葉もこれまで何年にもわたってこのブログで述べてきましたが、あくまでもDV相談をした人が被害者、その相手が加害者ということだそうです。総務省自身が日本語として不適当であることを認めているのだから、こういうバイアスがかかった行政運用を先ず中断するべきです。
そうではないと、議論がヒステリックになるだけなのです。

DVというのは、
配慮ができない配偶者と、暴力、暴言を受け入れてしまう配偶者の共同作業の側面があります。DVに限らず夫婦のいさかいの大部分がこれです。そして受け入れてしまう方は、それをやめてほしいという提案が苦手のようです。だから、離婚訴訟などになると、あの時こうだったという主張のオンパレードになってしまい、あたかも元配偶者の同居中の行為の通信簿をつけているような感じです。自分がそのような行為が不快であるということすらいえないのです。これには様々な理由があります。
結局心理的圧迫を加える側も、加えられる側も、ちょっとした生活のヒントを知らないし、人間についての考察が足りないということがあります。そのちょっとしたところレクチャーし、みんなで幸せな家族を作っていくということ画啓発の意味です。そして心理的圧迫を受ける方も、どうして自分の行為の修正を求められると不安になり、イライラしたりするのかを知るとその後の人生がだいぶ楽になるはずなのです。これが対人関係学です。

こういう人間を幸せにしていくことが国家政策でなければ私はだめだと思います。国民を馬鹿にして、回復不可能などうしようもない人たちだという政策をしていれば、国民はやがて見限るでしょう。そうでなければ国が亡びるだけだと思います。

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大新聞のあおり記事は、戦前に戦争遂行の下地作りで行ってきたことを、性懲りもなく繰り返している。煽情的な記事に無邪気に反応してしまわしないために。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



「戦争反対」というスローガンは最近あまり聞かれなくなっているように感じます。私がぼーっと生きているからでしょうか。戦争の技術が高度になりすぎて、戦争が起こる、あるいは戦争に巻き込まれるという実感が持てないからかもしれません。しかし、戦争であったり、戦争と同じ不道徳な行動は、鉄砲担いで飛行機乗ってと言うだけではないと思います。戦争あるいは戦争と同様の不道徳な行動の加害者にも被害者にもならないで、平和に生きていくという準備をすることは当面は必要なことのような気がします。

この準備をしないで無防備に戦争に突入していったのが、戦前の日本の歴史だと思います。私自身、ふと気が付くことがあるんです。戦争を行った当時の日本人は、あたかもものを考えずに、右向け右で一斉に疑いもしないで戦争に突入した無邪気な人たちが圧倒的多数だったような錯覚を抱いてしまう自分に気づくことがあるわけです。しかし、戦前の具体的な文化人(法律学者をだいぶ含む)や、自分の祖父母などの話を聞くにつけて、むしろ今よりは高度な知能、高度な文明、高度な人間関係を営んでいたと言っても良いのではないかということです。無駄に他人を攻撃しないという観点からは現代人はほとほと情けないように思っています。特に公的な場面で人情が無いというか。まあ、それは極端な議論、偏った議論だとしても、戦前と現代と、人間の能力はほとんど変わらないわけです。それにもかかわらず、戦争を描いたドラマや映画で少数派の主人公の敵役のように強調されて描かれるものだから、戦争を行ったと人間たちがそういう敵役のような人たちばかりというバイアスがかかった見方をしてしまうのかもしれません。戦争に反対しなかった世代の人間という目で、ひとくくりに見てしまう自分に戦慄を覚えるのです。

要するに戦争遂行勢力が、戦前と同じように十分な準備をすれば、現代でも鉄砲担いで飛行機乗っての原始的な戦争も可能なのだということなんです。

ここでいう戦争の準備については、多くの人たちは昭和に入ってからの思想統制だったり、特高警察や軍部の締め付け、五人組制度等の相互監視というものを念頭に置くと思うんです。しかし、特高警察にしろ、軍部の台頭にしろ、大日本愛国婦人部にしろ、先にこれがあったわけではなく、むしろ結果なのだと考えた方が良いと思うんです。ここに来るまでが大変だったんだと、当時の日本の支配層は言うでしょうね。日本人なのか、外国人なのかわかりませんが。

要するに戦争は善だ、百歩譲って仕方がないものだ、やらなくてはならないものだ、日本人を、自分の家族を守らなければならないという意識があって初めて特高警察や、軍部、五人組は国民の支持を受けたのだと思うのです。

本当に国民の思想づくりをしていたのは、明治から大正にかけてのことだと思います。このことは前に詳しく述べました。
「現在に残存する戦争遂行イデオロギーとしての作られたジェンダー 」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2021-06-14

そこで一役買っていたのが、間違いなく大新聞なわけです。
それまで先行的に、戦争準備をしていたのを知っていながら
戦う思想づくりを推進していたわけです。

そして、昭和に入りアカラサマな戦争遂行イデオロギーを露わにすると同時に
マスコミも同調したわけです。

分かりやすくすれば
「何にもまして正義は大切であり、
正義に反することがあれば怒りをもって制裁しなければならない。
反正義に怒りを持って戦うことは国民の義務である。」
こういうことですね。

高度成長期は「正義」が「生産性」に代わっただけですから
日本人の価値観にぴったり合ったのでしょうね。

こういうと、
このような感情は人間の本能であるから
人間の本能にマスコミが迎合したのだ
という人が出てくると思いますが、
それはサルと人間とを区別できない人のセリフです。

サルと人間は次々と進化の過程で枝分かれしていきました。
最後に分かれたのがチンパンジーで
600万年まえまでは人間とチンパンジーは同じ祖先をもっていました。
それぞれ進化を遂げていますから
人間がチンパンジーだったわけではありません。

人間とチンパンジーはこのため遺伝子的にはたいして違いませんが
大きな違いがいくつかあります。
1つは犬歯、糸切り歯が人間は極端に小さいということです。

この犬歯は、オスがメスを取り合って戦う時に使うものだとされています。
人間の糸切り歯が小さくなったということは
人間はメスをめぐってオス同士が物理的な戦いをしなくなったということです。

ドーキンス先生に言わせれば
遺伝子は自分のコピーを永続させるために
オス同士が戦うことをやめ
群れを作って生き残る戦略をとった
みたいに言うのだと思います。

ハミルトン先生を引用して
その群れとは血縁を基盤とするなんて余計なことを言ったかもしれません。

しかしリアルな言い方をすれば

人間の祖先の中には、
メスをめぐって血で血を洗う者たちもたくさんいたはずです。
しかし、殺し合い寸前のようなことを繰り返していたために
群れを作ることができず
せいぜい夫婦と子どもが何世代かにわたってグループを作ることしかできない。
そうすると、群れの中に暴力装置として有効なオスが少ない、
頭数も10人未満の群れしか作れず
肉食獣に襲われるとひとたまりもない弱い状態となり
食料もろくに獲得できないために飢えも深刻となり
あっという間に絶滅してしまったのだと思います。

しかし、たまたまメスをめぐって争わない地方があり
その地方では、オス同士も同じ群れの仲間として強力できて、
血縁に縛られない30人程度の群れを形成することができて
小動物を狩るチームと
食べられる植物を採取して子育てをするチームと別れて
効率よく餌をとることもできるし、
頭数も充実しているので
肉食獣も襲いにくく、
襲ってきたらみんなで反撃することから
強い群れが作られた。

その強い群れは子孫を残すことができ、
今の人間が生まれてきた
とまあこういう言い方になるのだと思います。

つまりチンパンジーは群れを作らなくとも生きていく能力があったものだから
オス同士が戦って遺恨が生じても種としては絶滅せず
生きていく能力に乏しい人間は
オス同士が戦ったら生きていけないので
オス同士が戦わない傾向のある者たちだけが生き残った
とこういうことなのだと思います。

この人間のこころが完成したのが今から200万年前くらいだとされています。

家族は女性を縛り付けるツールだなんていう人もいましたが、
家族が夫婦を基本として構成されるのは、最近の話であり、
女性が嫁に行くようになったのは、日本でも鎌倉時代からで
そんな古い話ではありません。
200万年前は、母系という傾向はあったかもしれませんが
夫婦という単位はそれほど重要ではなかったのではないかと考えています。

このような平和な時代は約200万年つづきます。

その後、農耕が始まり、労働時間が長くなるともに
定住が多くなり、関わる人数も増えていきます。
人間の能力を超える人数が常に自分の近くにいて
群れ同士の利害対立も起こるようになるわけです。
典型なものは水争いでしょうね。

それまで、人間と言えば仲間しかいなかったわけですから
人間が人間に怒りを向けるということは極端に少なかった
ほとんどなかったと思います。

しかし、仲間ではない人間が身近に存在し
自分達の利益を奪うという段になって
仲間ではない人間に対しては怒りを持つようになっていった
物理的な争いが起きるようになった。
ということなのだと思います。
差別の起源です。

しかし、しかし、200万年続いた人間のこころが残っているということは
仲間ではない人間だとしても人間の形をしている以上
攻撃することには抵抗があったり、後味が悪いものですから
攻撃や怒りを正当化して自分を慰めなければならない
それが「正義」であったわけです。

正義は怒りを解放する口実として生まれたと私は思っています。

正義とは必要悪か、必要のない悪かどちらかだと思います。
当時は自然を相手に生きていくためには必要だった可能性があります。

人間はこのように200万年の記憶があり、
理由もなく他の人間に対して怒りをもつことができない
という特性があります。

この例外が「自分を守る場合」と「正義感を発する場合」ということになります。

だから海の向こうの見たこともない人たちとの戦争というものは
なかなかできることではない。

本来であれば、同じ国の人でも
自分とかかわりのない人がかかわりのない場所で悪さをしたところで
怒りの感情が自然と湧きあがるということは
なかなかないわけです。

この普通なら起きない怒りを無理やり起こしているのが
マスコミです。

児童虐待に対する怒り、いじめに対する怒り、パワハラに関する怒りも
マスコミが媒介して私たちが怒るわけでして、
私たちが怒るようにマスコミが媒介するという言い方もあると思います。

東京の目黒区で、実母と実母の夫によって、
女の子が死んだという事件がありました。
この子は何歳くらいというご記憶でしょうか。
当時亡くなった女の子の写真として広く報道された写真は
亡くなる何年か前のものでした。
亡くなる直前の写真もあったのに
おそらく今でも事件に関連して出される写真は
亡くなる数年前の写真なので
3歳くらいの子が亡くなったと記憶されている方もあると思います。
亡くなった子は6歳の誕生日を目前とした5歳の子でした。

私たち人間は弱い者を守ろうとする意識を持つようにできています。
これも進化の適応の中で身につけたというか
そういう意識を持つ者だけが群れの頭数を確保して生き残ったわけです。
だから、弱い小さい者がいじめられることに
本能的に不快、嫌悪を感じます。

亡くなる直前のお母さんにそっくりな写真を使わず
いたいけな3歳くらいの写真を使って報道したというのも
私は国民の怒りをあおる意図があったと考えています。
これは印象操作です。

いじめの報道にしてもそうです。
当然記者は、いじめの内容について取材をしています。
どういういじめがあったか知っているわけです。

それが凄惨ないじめであれば
具体的ないじめの内容を報道します。
しかし、記者の目から見てそれほど重大ないじめではない時は、
いじめの内容は具体的に報道せずに
「いじめ」があったという報道スタイルになります。

敢えて読者の想像力を掻き立てて
怒りをあおっていると
いくつかの報道から感じ取ってしまいます。

いじめ調査の第三者委員会や遺族の発言も
その本来の趣旨を敢えて切り落として
怒り、いじめ、制裁の対象となるところだけを選んで
記事にされてしまいます。

名の通った新聞でもそれなのです。

怒りとは、危機感の表現です。
逃げる場合も怒って反撃する場合も
脳の扁桃体が危険が存在すると判断し、
次の逃げる、戦うという行動のための
生理的変化を体内に起こす仕組みです。

そうだとすれば怒りをあおられるということは
無駄に危機意識を感じさせられているということです。

読者に迎合して挑発的な記事、煽情的な記事にする
という解説をよく聞くのですが、
読み切りのタブロイド紙や週刊誌ならともかく
定期購読する一般新聞の記事が
煽情的で、刺激的なので購読を続けよう
という人がいるでしょうか。

いませんよ。

朝日新聞を定期購読していた人が
産経新聞の記事の方が血が沸き肉が躍るから産経に変える
なんてことは、無いとは言わないけれど
一般的には考えにくいわけです。

だいたい競合新聞数紙の中から
三面記事を読み比べて購読する新聞を決めるなんて言う人はいません。
いつもとっているからとか、勧誘が来たから
その新聞を読んでいるだけでしょう。
地方紙なんかは、それしか地元の情報を取り上げる新聞がないから
選択の余地がなくそれを読んでいるわけです。

そうだとすると結論としては、
新聞は読者を見て煽情的な記事を書いているのではないと思います。
読者とは別の人間の顔色を見て書いているわけです。

あおる新聞の文章表現こそ戦前の勧善懲悪の特徴が実に色濃く出ています。
戦前のマスコミの二番煎じです。
つまり、怒りの対象としてふさわしい悪人がいて
その悪人が罪もない正義の人を苦しめている。
さあ、悪人に石をぶつけろというものです。

いじめの被害者は絶対的な善人になり
加害者は絶対的に悪人になります。

DVの被害を訴える女性は、無条件に手を差し伸べるべき人であり、
その相手の男性は、人間とは思われな残虐な性格を持っていると
知らず知らずのうちに私たちは思い込まされ
全く必要のない怒りの感情を高ぶらされているわけです。

目黒事件でも
その母親は、わが子が亡くなったばかりで化粧っ気のない顔を
何カ月もたった時まで使われて
ことさら極悪人のように報道されていたのですが、
裁判が始まると夫のDVの被害者だということで
評価が逆転された報道がなされました。
写真もおそらく実物に近いだろうものが使われました。
手を差し伸べるか叩くか
どちらでなければならないという不文律があるようです。

しかし、人間の世の中、そうめったらやたらに
二項対立の人間関係はないでしょう。
結局国民に冷静になって考えさえることを妨害しているだけです。
冷静になって考えないで怒りをもって批判しろと言うように見えてしまします。

こうやって引き起こされた
無駄な危険意識は、やがて
自分も同じような目を受けるのではないかという
漠然な不安を抱かせるようです。

先ずます些細な刺激に過敏に反応するようになってしまいます。

他人の行動に目を光らせて
些細な落ち度を見つけては批判する
そういう風潮が生まれているように感じます。

要するに慢性的にイライラするようになるわけです。
怒りっぽくなってしまう危険もあります。
不安になりやすくなる危険もあります。

その風潮形成に貢献しているのは
間違いなく大新聞と有力地方紙です。

私たちが大事にしなければならないことは
冷静な目で世の中を観察し
静かに考える思考を確保することではないでしょうか。

新聞を見ない方が良いとは考えてはいませんし
テレビを見てはだめだと言うつもりもありません。

ただ、自分の精神状態を健康に保ち
家族や友人たちにイライラをぶつける等悪影響を避けるためには
あまり自分と関係のない事件については
「色々あったのかもしれない」
とクールな態度でいることが最善であろうと思う次第です。



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厚労省主催過労死防止シンポ青森で、お話してきました。過労死を止める方法として家族とともに幸せになるという価値観を導入すること [労災事件]


2021年11月24日、青森市で厚生労働省主催の過労死等防止対策推進シンポジウムが開催され、「過労死と家族」というテーマで基調講演を行いました。その内容について記録したいと思います。

当日は、雪が降っている寒い夜で、コロナ禍ということもあったのですが、大きな会場でコロナ対策の間隔をあけていたとはいえ、かなりの人数の方々が参加されていました。企画推進をされているプロセスユニークの方々、地元の青森県社会保障推進協議会の方々、労働基準局の方々など関係者のご努力と関心の高さに心より敬意を表します。
青森県は過労死防止に熱心で、大学や高校から、毎年のように呼ばれて、お話をしています。

さて、私は、呼んでいただき、お話をさせていただくと、感謝の気持ちでいっぱいになります。我々過労死弁護団は、この世から過労死を失くして弁護団を解散することが悲願なのです。どんなに労災認定がとれても、請求が認められる判決がもらえても、心に引っかかるものがあるのが過労死事件です。それは最初は、認定取れました、それも逆転で認定となりましたという報告をすると、私も興奮しているし、ご遺族も喜んでいただけるのです。でも、しばらくすると、亡くなった人は帰ってこない、あるいはうつ病の方は治らないということがあり、喜んでばかりもいられないという思いがあります。なんとしても、過労死は予防しなければならないという気持ちが強くなります。だから、予防のお話をさせていただくということは、本当にありがたいことなのです。

今回は、「過労死と家族」というテーマとしました。過労死予防とは何なのかこのことをご一緒に考えていただきたくて、私なりの回答を用意して臨みました。

先ずは過労死とは何かということについて説明をしなければなりません。その中で、過労死は、気が付かないうちに発症して亡くなってしまうということをお話ししました。心臓の血管、脳の血管が詰まったり、破裂したりして心臓や脳の活動が止まったり、精神疾患にかかり自死をとどめることができないという特徴をお話ししました。自動車のガソリンのメーターのように、自分の危険性がわかれば対応も取れるのですが、そうはいかない。私の担当した自死事件の統計を取ったことがあり、16件中14件が、当日、または前日就労していたということを紹介しました。突然死がやってくる。誰しもその日倒れるということがわかっていたら、仕事にはいかないでしょうけれど、それができないのが過労死だということが実感です。

過労死の民間労働者の死亡についての労災認定件数の推移をみました。但し、これだけが過労死ではないということも、説明しました。2か月前、公務員の事例ですが、再審査請求と言って、一度申請してだめで、異議申し立てをしてダメで、再度の異議申し立てをしてようやく認められた事案でした。最初の申請で断念してしまえば認められなかったわけです。これはいくつか理由があって、このケースでは、認定する側が、亡くなった方の仕事の内容がよくわからず、数字ばかりに着目していたということが理由の一つでした。このギャップを埋めるということが弁護士の仕事でもあると考えています。
認定件数は少なくなっています。過労死防止法の効果もあるのでしょうけれど、もっともっと減少させなければなりません。

そして過重労働の典型の長時間労働についてお話ししました。長時間労働は週40時間と定めた労働基準法の制限を超えた時間の合計で判断します。元々は週48時間でしたが、後に40時間に短縮されたこと、戦後直後に制定された法律ですがこのように労働時間を定めたのは「早死にしないため」と言う松岡三郎先生の教科書を引用してお話ししました。そして月間100時間の残業時間のサンプルを示し、案外簡単に100時間の残業が可能になるということを示しました。

長時間労働が過重労働となり、過労死に繋がるのは、睡眠不足を招くからであり、まとまって6時間から7時間の睡眠時間は必要だということを説明しました。

そうすると過労死を予防するためには、長時間労働をせずに睡眠時間を確保するということが鉄則になるはずです。しかし、それができない。会社からの実質的な残業の強制という事情も確かにありますが、労働者側の事情として、
責任感が強い
能力が高い
公的な仕事に価値観をおいてしまう
というものをあげさせていただきました。

過労死防止法制定にあたって、早期制定の地方議会決議が次々となされました。私の宮城県議会でも決議が全会一致で採択されました。
その中では、過労死は、社会的損失でもあるということが述べられています。社会にとって職場にとってとても有益な方が亡くなってしまうということに着目してこのような内容も入れられています。

私は、過労死や労災の事件を多く担当していますが、離婚事件や親子の事件も多く担当しています。そういうことからの持論ですが、家族という仲間の単位をもっと大事にして、強化する必要があると考えています。過労死予防も、この家族という価値観を広めることによって効果が上がるのではないかということが今回のお話のテーマでした。

第1に、家族のために死なないということです。
親を過労死で亡くしてしばらくすると子どもに異変が生じることを見てきました。母親が仕事が忙しく病気の手当てをしないために、急激に悪化して亡くなったケースでは、お子さんは自分の母親は自分よりも仕事をとったのだという観念にとらわれて、家庭内暴力が始まり不登校となってしまいました。父親が過労死して、母親の再婚相手が現れたころ、それまで何の問題もなかったお子さんが学校から呼び出されるようになってしまいました。父親が自死されて、表面的には普段と変わりのない生活をしていたのだけれど突然重篤なパニック障害が起きてしまい、学校を退学したお子さんもいます。
子どもはどうしても年齢が低いと自己中心的に物事を考えることしかできませんので、自分が良い子ではなかったからお父さんに会えないんだと考える傾向があるということも、東海林智さんの「15歳からの労働組合入門」の一節を紹介しました。このくだりは、どうしても涙で声が詰まってしまいます。

第2に、では死ななければ良いのかという問題があるということです。
長時間労働は、家族と過ごす時間が無くなるということです。父親でも母親でもどちらでも手料理を子どもに食べさせるということが、本来的には家族のコミュニケーションだと思うのですが、子どもがスーパーの総菜やインスタント食品を食べさせるということを悔やんでいる学校の先生たちの調査結果を紹介しました。
また、パワハラなど不条理な職場での扱いが、知らず知らずのうちに家庭に持ち込まれて、離婚原因になったり、子どもの自尊心低下につながるということを説明しました。そういった自分が大切にされていない時間を過ごしていると、本来大切にしなければならない家族も大切にできなくなるという怖さを説明しました。

ここでいう家族は人それぞれで良いと思います。必ずしも夫婦と子どもを単位としていなくても、一緒に住んでいなくても、あるいは亡くなっていても、あるいは血のつながりが無くても、ひとはそれぞれ、変えるべき人間関係が必要だと思っています。そういう人を大切にできなくなってしまうそれは怖いことだと思います。結局は、自分の帰るべき場所がなくなってしまう。それは紛れもなく不幸なのではないでしょうか。

先ほど挙げた責任感が強い、能力があるという過労死をするタイプの真面目な方たちは、仕事をセーブしろと言われても、あまり効果がないと思います。仕事の時間を削って、家族と一緒に過ごす時間を大切にするという新しい価値観を導入しなければ、どうしても仕事を優先してしまうということが実感です。

家族を大切にするという価値観は、これは国も提案しているところです。ズバリ働き方改革がこれだと思います。政策としては具体的に必要な介護と育児が強調されていますが、これは政策ですから当然です。その先の、家族を大切にするという価値観の導入を職場でも活かしていくということは、われわれ国民が国からバトンを受けて行うことではないでしょうか。

では、どういう風に職場で活かすかということです。私は、同僚、部下、上司にも家族がいるということを意識することが効果が上がるように思われます。人材なんて言葉があるように、とかく労働力の人間性が考慮されない風潮があると思われます。その人を人間として扱うということの一つに、家族を持っている人間なのだということを意識するということはとても大切なことだと思われます。
それから家族を大切にするように
同僚の心情にも共感できるような人間関係作りをし
弱い者をかばうという職場の気風を作り
批判ではなく提案する職場環境
相手の失敗を許すという許容性
意見が対立しても仲間であることには変わらないという考え
こういう職場づくりをすることで、パワハラがあっても、「今のはひどいよね。」の一言もでない人間関係を変える必要があると思います。過労自死が起きる現場は、パワハラを受けた人を心配している人がいないわけではないのですが、その一言がないという特徴があるように感じています。
つまり、職場は単なる人材が同一場所にいるという意味あいではなく、仲間でありチームプレイをする場であるという転換が求められていると思います。私は労務管理の観点からも、実はそういう職場転換が生産力をあげているという実例を見てきています。これが働き方改革だと思っています。

これは家族でも一緒です。家族から常に評価の対象となり、批判の対象となったら、子どもも大人も家に帰りたいとだんだん思わなくなると思います。そのままで家族なんだ。無理をしなくても良いのだという家族作りが子どもの自尊感情を高めて、夫婦の安定した関係を保つことができると思っています。

過労死予防とは何かということを冒頭申し上げました。
私は、それは、大真面目で大人たちが幸せとは何かということを考えることだと思います。その答えの一つとして、家族を安心させる家庭を作ることであると思います。そのためにも、長時間労働や不条理なパワハラなどの扱いを撲滅する必要性があると思います。そして、根幹は子どもたちの健全な成長です。


以上が私の1時間足らずのお話の内容でした。
お気遣いいただき、講演が終わって帰らせていただきました。シンポジウムが終わってからの帰路となると、終電が終わって帰れない可能性もありました。
てんぱるというわけでもなく異様な高揚感が残っていました。唯一開いていたキオスクで買ったハイボールの酔いが進むにつれて、涙が止まらなくなりました。自分でも驚くほど、泣くことを欲しているような感じでした。私の担当した過労死事件の記憶、ご遺族の様子の記憶が自然と湧きあがっていたようです。具体的な場面というわけではありません。私は、特に自死事件は、関係者のお話しを徹底的に聴取し、嫌がられることもあります。しかし、その人の人となり、そしてその人の会社の様子、ご家庭の様子などから、亡くなられた方の自死に追い込まれた心情に、理屈ではなく再体験するような感覚が沸き上がったとき、なぜその方が過労で自死したのかということをうまく説明できるようになり、その体験がリアルであればあるほど、良い結果となっています。おそらくその再体験の感覚、あるいはお子さん方の自分を守ろうとする悲鳴の感覚が、自覚はしていませんが講演中によみがえっていたのだと思います。泣き続けることによって、感情が整理されたのだと思います。泣くことも大切だし、そのためには少しばかり?のアルコールも必要なものだと感じた次第です。


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いじめかどうかの議論よりも子どもの命の心配をするべきではないのか。教育現場において、子どもを心配する「システム?」を作る必要性がある [自死(自殺)・不明死、葛藤]

いじめ防止対策推進法が平成25年に施行されています。
この法律では「いじめ」を幅広くとらえて、
いじめに対しては懲戒を行い、
重大事態(生命被害、心身被害、不登校)が起きたならば
いじめとの因果関係を調査し
教育委員会に報告する等の義務を学校に課しています。

いじめの定義だけここにも記録しておきます。
「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒との一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」

様々な問題点については1年前に書いていますので、
よろしければ以下をご覧ください。一部重複します。

いじめの定義を科学的なものにするか、いじめと認定した効果に教育的観点からの働きかけを入れるかしてほしい。いじめの定義は広すぎて改めるべき理由 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2020-11-26

この法律というか、現在の日本の子どもを守るシステムについては
子どもが「児童生徒からいじめられていた」といいう条件が
必要だということになっているという問題があると言えると思います。

いじめが無ければ、自死があっても、深刻な自傷行為があっても
何年間も学校に来なくても
調査も報告もしない
ということになってしまっています。

もしかしたら、
教職員の逸脱した指導があったかもしれない
登下校中に犯罪などの被害に合っているのかもしれない
それなのに
児童生徒からいじめられた子どもだけが
調査の対象となっているということはそれでよいのでしょうか。

こういう政策を原因として
児童生徒に何らかの被害が生じた場合、
無理やりにでもいじめがあったと主張しなくてはならない
ということになるような気がします。

但し、いじめは簡単に見つかってしまいます。
なぜならばいじめの定義が
子どもどうしの心理的影響を与える行為であって
それで子どもが心理的苦痛を与えられればそれでいじめですから。

未成年者が集団生活をしているのですから
当然、心理的影響を与え合っているわけですし、
未熟さゆえに心理的苦痛を受けていることも
日常茶飯事であるからです。

今大人になっている者たちの中で
学校で嫌な思いをしたことがない
苦しい思いをしたことが無いという人間が果たしているのでしょうか。

子どもに限らず対人関係上の心理的苦痛は
ちょっと加減をしないでやり過ぎてしまったなどの先行行為があり、
それに対して攻撃されたと思って、反撃をして
反撃をされたことによって、心理的苦痛を受ける
ということが日常無数にあるわけです。

この苦痛によって、自分の行動が失敗だったことに気が付き、学習し
行動を修正して人間関係に復帰していくわけです。

成長のために有益な苦痛となることが多くあります。
これも全部いじめになってしまいます。

(但し、一方的な八つ当たりのようないじめも確かにあります。
これは何が何でも大人がやめさせなければなりません。)

そして、反撃した人間が児童生徒であり
反撃された側の子どもが心理的苦痛を抱えていたら
懲戒の対象としなければならない
これがいじめ防止対策推進法の建前なのです。
法律の「加害者」に対するアプローチは懲戒だけです。

もちろん学校は「良識」をもって反論するのです。
いろいろと自己流の理屈をつけていじめには該当しない
と無理なことを言い出すわけです。

このように自己流のいじめ除外理由が横行してしまうと
どれもこれもいじめではなくなってしまい
誰しもいじめだと感じる残虐ないじめだけがいじめになってしまい
気が付いたときには子どもの自死も防ぐことができない
つまり自死があったときだけいじめを認める
ということになってしまいかねません。

いじめの定義の問題が学校関係者においても
十分理解されていないのですから
世の中で理解がなされていないのは当然のことです。

これを読んでいる多くの方々も
いじめの定義の意味の問題点をどの程度の方が
ご理解されているでしょうか。
私は以前たまたま自治体のいじめに関する仕事をしていた時期があり
いじめの定義について資料に目を通す機会があったため
ここでこのお話ができるわけです。

「DV」という言葉で再三お話ししているとおり、
「いじめ」という言葉も独り歩きをしてしまいます。
「いじめ」があったというだけで、
誰しもいじめだと感じる残虐ないじめがあったと
そう感じる方も多いのではないでしょうか。

子どもどうしのたわいもないやりとりも
法律上の「いじめ」に該当してしまうので、
子どもどうしのたわいのないやりとりをしただけなのに
残虐ないじめがあった
残虐ないじめの加害者だという受け止め方をされてしまいます。

なぜかマスコミも、
いじめがあったと認定すると
実体とは別に
残虐ないじめだったかのような報道をするようです。
しかも相手方のコメントも取らず、
第三者が存在している場合も第三者のコメントも取らず
一方の言い分だけを報道してしまいます。

さらにおよそいじめがあれば、
それがたわいのないものである可能性もあるのに
自死や不登校などの重大事態と結び付けようとする報道も
最近よく目にするとおりです。
根拠は、ただ、いじめと認定されたそれだけです。

それもこれも、いじめがなければ
調査活動を行わないという法律に問題があると私は思います。

自死という最悪の事態を考えてみると
ご賛同いただけるのではないかと思うのですが
いじめによる自死
教師の逸脱指導による自死
登下校の犯罪などによる自死
原因不明の心理的圧迫を受けての自死
私は全て防止する必要があって
そのために大人は全力をあげなければならないと思うのです。

さらに自死ではなく不登校だって同じだと思います。
子どもが長期間休校してしまうと
なかなか再登校することは難しくなります。

長期休み明けの心理が強大になり
否定的な記憶が優位になってしまいます。
また、自分がいない期間の中で
人間関係が変わってしまい、自分の居場所がなくなってしまっている
という不安も付きまといますし、
いざ登校してみると
知らないやり方が定着しているなど
お客さん気分、つまり自分はこの仲間ではないという意識を
拭い去るには相当の時間がかかるでしょう。

ずっと不登校が継続してしまい
学校どころか、社会に復帰することが困難になる事例もあります。

原因不明の不登校が起きたら
大人たちが団結して対応する必要がどうしてもあると思います。

自死に話を戻しますと
何らかの心理的葛藤があり
自死リスクが高まった場合、
不登校になって
重大事態の目安になる1か月休校を待って調査を行う
というのでは、
自死は起きてしまいます。

立ち止まって考えるとつくづく不思議なのです。
いつも登校していた生徒が突然不登校になったというのであれば、
心配にならないのでしょうか、
そうでなくても10代の若者が
突如家に引きこもった状態になったというのであれば
一体どうしたのだろうと心配になるのではないでしょうか。

人格の向上を最上位の目的として学校教育がなされているのだから
学校に来ないまま大人にすることはできないと
焦ってしまうことが普通ではないかと感じるのです。

このままでこの子の人生はどうなってしまうのだろう
と心配になることが、普通ではないかと思います。

いじめがあったかどうか
不登校と評価できる日数の休校があるかどうか
なんてそんなことはどうでも良いのではないかと思えるのです。

いじめの有無や休校日数は
こうやって考えると
学校が調査をしない言い訳に思えてきます。

自死が起きたら
学校としても、自分達に何らかの問題がなかったか
調査をしたくなるということが
あるべき人間の姿ではないかと思うのですが
違うのでしょうか。
また、そういう発想を持つ立派な教育委員会も現存します。

これからの日本は
今の子どもたちに大きな経済的な負担をかけることが予想されています。
子どもたちの一人当たりの負担を減らすという
私たち大人の自分勝手な利益のためにも
もっと学校に予算を投入して
子どもたちの健全な成長を確保する政策を実施するべきだと思います。

いじめに限らず
不登校や
不健康な状態
自死リスクへの対応をし
何が何でも健全に成長する子どもを増やすために、
予算を抜本的に増やし
当たり前に心配のできる教職員を
必要人数配置するべきだと思います。

ただ、お金をかけるだけでなく、
子どもの異変を心配する大人たちが教育に関わる仕組みを
作る必要性があると感じています。

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【緊急提言】面会交流調停後の子どもの状態について調査をするべきだと思う。 [家事]


面会交流調停で、父親と母親との意見が食い違うと
安易に間接交流が提起されることがあります。

面会交流調停とは、離婚や別居で父親と母親が別々に暮らしていると
子どもがどちらかの親と同居して、他方の親と別居するわけです。
別居親が子どもと面会をすることが
自尊感情の低下を防ぐなどの子どもの成長にとって有益であることが
統計的にも他の調査でも明らかになったため、
子どもの健全な成長のために面会交流の実施が求められています。

ところが、同居親には別居親に対しての悪感情が強く、
子どもを会わせたくないという意識が強すぎて
DVや虐待が無かったとしても面会交流が行われない場合があります。

面会交流の実施を求めて
別居親などから申し立てられるのが面会交流調停です。

面会交流調停では
通常は面会交流が子どもにとって有益であることなどを
家裁調査官がレクチャーすることが多いですが、
最近は、理由は不明ですが行われないことも少なくありません。
主として同居親が感情的になっていて、
その感情に「寄り添って」レクチャーの実施が曖昧にされているような印象もあります。

そうして、子どもの利益ということがあまり考えられる機会がなく
同居親は会わせたくない、別居親は会いたいということで
どっちもどっちということで
調停が進まないことも最近は増えてきました。

数年前ですと、調停委員、裁判官、調査官らが
子どもの利益を説明して同居親を説得し
面会交流が行われることもよくあったのですが、
最近は大人への寄り添いがメインとなり
子どものための説得がめっきり少なくなったような印象です。

そして、子どもの利益を重視しての進行になっていないために
別居親に直接面会することを譲歩させて
手紙や電話などのやり取りを約束して調停を成立させる
「間接交流」をすることで話をまとめようとする風潮があります。

間接交流は
実際に手紙を書いても子どもに現物が渡らないことが多く、
子どもも同居親に遠慮して手紙を手に取らないことも実例としては多いです。

というか、
実際に間接的に交流がうまくいって
子どもの自尊心の低下を防止することができた
という実例は報告されていません。

私は再度の面会交流調停の申し立ても複数件行っていますが、
間接交流が取り決められた例で
間接交流が一方通行であったとしても実施されたという実例は知りません。

別居親の手紙や写真を同居親が子どもに渡すということもありませんし、
子どもは親の気持ちを忖度して見ようともしないようです。

私は直接元子どもたちからお話を聞く機会があるのですが、
別居親である父親が、同居親である母、子ども2名の誕生月に
養育費を増額して送金していても
子どもは同居親からその事実を教えられていませんでした。

そもそも別居親から養育費が支払われていることを知らない子どもも
少なくないようです。

家裁調査官の中では、面会交流や家事事件に習熟している人も中にはいて
間接交流が成功した例は無いということを
ポロっと同意していただける人も中にはいます。

知識も経験もない人たちは
理念的に間接交流は可能であると言いますが
具体的な実例は語ることはできません。

家庭裁判所は調停が成立するまでしか関与しませんので、
その後のことなんて通常誰も知らないわけです。

これは極めて無責任ではないでしょうか。
民法等が子どもの利益のための制度を作っても
家庭裁判所は役に立たない間接交流を勧めて
あとは知らんふりということが実情なのです。

実際はなにも子どもに役に立たない間接交流を勧めて
調停は終わりになるのでしょうけれど
子どもの成長はこれからなのです。

本来調停後の子どもの成長を考える事こそ
家庭裁判所での大人の役割のはずです。

私は、国家的プロジェクトとして
面会交流調停後(面会交流を定めた場合の離婚調停後)の
子どもの追跡調査を行うべきだと提言したいのです。

子どもはその後別居親とどのような交流があるのか、ないのか。
子どもの健全な成長が遂げられたか否かについては
なかなか難しいし、比較対象も難しいのですが、

私が見てきた面会交流の無かった事例での不具合のあった子どもたちは
リストカット
拒食過食
不登校
精神科への入退院の繰り返しがありました。
中学校の頃から不具合が始まり、
20歳前に深刻化していました。
そのようなことが他のお子さん方にもあるのかないのか
大変心配です。

そういう調査を踏まえて、
本当に間接交流も民法766条の面会交流に含むことができるのか
あるいは間接交流を続けて直接交流ができるようになる事例があるのか
あるとすればどのようなことに気を付ければよいのか

子どもと同居親のプライバシーの問題もあるのでなかなか難しいとは思うのですが、
そういう調査をしないで、間接交流を勧めるということに
強い抵抗があるのです。

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先生(Dear Doctor)! 離婚(別居)してしまうと親が子どもに二度と会えなくなることが現実には起きています。 [家事]


ある夫が、入院中に離婚を迫られて、離婚届に判を押した
ということがありました。
最初は二人の話し合いに主治医が立ち会っていたそうです。
何の病気でも怪我でも、入院治療中に離婚を迫られれば
治療効果に影響が出てくると思いますし、
一刻を争うことでもありませんから
私は主治医ならば、「そのような話題は退院してからお願いします。」
と言っても良いのではないかと思うのです。
ところがその主治医は、ことが離婚の話に及ぶと
止めるどころか席を外してしまったそうです。

夫は、もともと妻の言うことをその場では正しいと思うというか
正しいと思わされるような口調に負けてしまい
後から「あれおかしいな?」と思う性格だったうえ、
入院して気が弱くなっていたということもあり
離婚届に判を押してしまったというのです。

今回のお話ししたい内容は、ここから先です。
主治医は夫婦が離婚することになることを知って
夫にこういったそうです。

「大丈夫、一生お子さんに会えないということはありません。
 法律で決まっていますから、そのうち会えるようになりますよ。」

私が言いたいのは医師が無責任だということではありません。
実際は、裁判をしても子どもに会えるとは限らない
実際に子どもに会えない親(男女にかかわらず)がいる
一方の親に会えない子どもたちがいるということを
知ってほしいということです。

よほどの事情がない限り
親が子どもに、子どもが親に会えないということは
非道な話です。
しかし、
このような考えを持つ人間は、
行政や裁判所では、どうも少数派のようなのです。

平成25年10月18日付の総務省自治行政局住民制度課から
各都道府県住民基本台帳担当課にあてた事務連絡によると
DVの支援措置で言う「被害者」というのは
DV相談などをした人のことを言い
「加害者」というのは、被害者に加害を与えた人ではなく
「被害者」の相手方を言うとしているのです。

つまり、DV相談をしさえすれば
警察や市役所などが身を隠すのを手伝い
新しい住民票を「加害者」に見せない等の
支援措置をとるというのです。
しかも、被害加害は証明されていないとはっきりと連絡しています。

一方が相談をしただけで
他方は、配偶者だけでなく子どもの居場所も全く分からなくなります。
会えるわけがありません。
実際に暴力や暴言が無くても、
相談しただけで夫はDV加害者にされてしまうのです。
いくら総務省が実際の加害者というわけではないと言っても
実際の窓口担当者は、文字通り加害者として扱うのです。
子どもの所在を教えることも拒否するという
私からすれば人権侵害を行っています。

主治医はおそらく、良識をもって考えるでしょう
裁判になればそんなことはないだろう
子どもは親に会えるだろうと考えていると思います。

そうすべきだということは大賛成ですが
現実は違います。

DVの主張をしなくても
妻が夫と顔を合わせたくないと言えば
妻は夫と顔を合わせて話し合わなくて済みます。

全く第三者の弁護士が間に入って
話し合いによる相互の歩み寄りを拒否して
徹底した主張を行います。

また、住所も隠してくれます。
裁判になっても会いに行くことはできません。
むしろ裁判になった方が会えなくなることが多いかもしれません。
それまで、夫と妻が話し合って
週に一度子どもとの時間を作っていたのに
弁護士が入って調停になったことを理由に
話し合いが終わるまで会うことを遠慮くださいなんて言い出すわけです。

肝心なことは
夫と会いたくない、夫を子どもに会わせたくないという
妻の心情は裁判所では大いに大切にされますが
子どもと会いたい、
子どもが今どこでどうしているか、元気でいるのだろうか
という夫(父親)の心情は考慮されない上に
子どもが一方の親と面会しなことによる弊害が明らかになっているのに
子どもの利益も考えられていないということです。
どうしてそうなるのと尋ねたら
だって仕方がないだろうというのですよ。

DV支援の行政、裁判の姿勢は
DV以外の夫婦間紛争にも色濃く影響を与えているのです。

同居している母親が会わせようとしなければ
どうしようもないということが実情なのです。

良識的な主治医は「それでも」というのかもしれません。
「それでも父親、母親であることは変わりないのだから
DVがないならば会いに行けばよいのではないか」

この点も全く道理を説いていると思います。
しかし、それは無理なのです。
無理どころか危険なことです。

身に覚えのないDV相談を妻がしている場合は
支援措置が取られていますから、
保護命令という接近命令を裁判所が出していなくても
子ども近くに行けば大勢の警察官に取り囲まれます。
そして警察署に連れていかれて、
二度と暴力をしないという誓約書を書けと言われた人をたくさん知っています。
一度も暴力をふるったことが無くてもです。

私その警察署に電話をしました。
暴力がない場合は法律も通達も警察官は
法が定めた支援措置ができないのだと教えたところ
DVは、身体的暴力だけではないだと回答されました。
自分の警察官として行動する法的根拠にも無頓着なのです。
無頓着で市民の行動の自由が奪われているのです。

DV相談をしていない場合でも
自体はそれほど変わりません。

ストーカー規制法があるからです。

① 家族で住んでいた家を売却して引っ越すことになったので
転居先の連絡をハガキでいて
「お近くにお寄りの際はお声がけください」
と書いたばっかりに
義務無き事を強要したとしてストーカー警告を受けました。

② 子の連れ去りがあり、子どもの安否が心配で
他県の妻の実家近くに行ったところ警察に取り囲まれて
この次このあたりに来たらストーカー警告を出すと警察から警告を受けた
(警告の警告?)

③ 同じく子の連れ去りがあり、
妻の実家のある町の知人のところに相談に行ったら
付きまといということでストーカー警告を受けた。
実家近くに立ち寄らなくてもです。

一般市民は警察官は怖いです。
絶対正義だと思っていますから
警察から敵対的な態度をとられてしまうと
当然に委縮してしまいます。
子どもに会いに行くこともできなくなるし、

裁判所から妻の近くに行くなと言われただけでなく、
自宅付近の徘徊も禁止されてしまうこともあるのです。
暴力がない事案です。
それは精神的に大きなダメージを受けてしまいます。

そして会えないのです。


彼ら、彼女らは、自分の子どもと会えないのです。
生きていて、近くにいるかもしれないのに会えないのです。
大震災があっても、津波があっても
安否を確認することさえも許されないのです。

肝心なことは
暴力があった事案か否かほとんど関係がなく
こういう事態になりうるということです。

まだまだ言わなくてはならないことはあるのですが、
もしよろしかったらこのブログに書いていますし、
この続きもいつかしたいと思います。

どうか、実際に子どもと会えなくなる親がいる
親に会えなくなる子どもがいるということを
知っていただきたく、申し上げました。

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他人との不具合は、自分の行動を修正して解決しようとする人の方が長生きする 堅強なる者は死の徒 柔弱なる者は生の徒の意味 但し、過労死の危険もあるということ 共通の対策としてはその人と心中しても良い人と巡り合うことかもしれない [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



例えば上司からわけのわからない理由で叱責されることが増えたり
妻から冷たい言動を言われることが増えてきたリ
あるいは、SNS等で、それほど近しい人でもないのに批判のコメントが来るようになったり、
人間関係で、嫌な思いをするとき、
人間の反応は二種類に分かれるようです。

Aタイプは、自分に何か失敗事があり、周囲を不愉快な思いにさせているかもしれない。だから、自分の行動を改めようとするタイプ。
Bタイプは、上司や妻、それほど近しい人でもないのに自分を批判するその相手こそが問題のある人格であり、腹立たしく怒る。あるいは、自分の不遇を呪う。

こういう場合、対人関係を円満にするのはAタイプの方のようです。

両タイプで、もし本人の主張が正解である場合は、
Aタイプは、自分の行動を修正することによって不具合が解消される可能性が高まります。
Bタイプは、相手や自分を呪うだけで解決することがなく、精神的ダメージが継続するだけです。

Aタイプは、相手に率直に尋ねることによって、相手もこちらに悪意はなかったことを知ります。また、将来に向けて何をしてはいけないのかということを知ることになります。
Bタイプは、そのような解決策は生まれません。

Bタイプは、周囲から改善のための提言を受けても、自分の行動を修正して乗り切るという発想がないために、概ねそれらは自分に対する攻撃だと受け止めてしまうことが多くあります。周囲から見ればBタイプの人が不合理なことをしていると評価して、特に自滅しかねない状況に注意を促しても、聞く耳を持たず、結局自滅していくという事態がよく見られます。

「そしてあの時あの人の言うことを聞けばよかった。」との振り返りができません。「どうしてもっとわかりやすく教えてくれなかったのだ。」と親切な人、自分のためにアドバイスしてくれた人を非難してしまいます。

Bタイプの人は結局損をしてしまう運命になります。

第1に、通常は「自分を攻撃する人」だと思わない人も、「自分を攻撃する人」だと思うのですから、世の中に自分を攻撃する人、自分にて期待する人が一般の人よりも多いということになるでしょう。
第2に、その裏返しですが、自分を助けてくれる人がいるという実感を持てないので、一般の人よりも自分は孤立しているという気持ちになりやすいのです。
第3に、自分では見えないけれど、周囲からは見える解決方法を使おうとしないので、自分の直面している人間関係上の課題に、解決策が無いと感じやすくなってしまいます。
第4に、せっかくの他人の親切を攻撃だと思ってしまう結果、自分を守るために反撃してしまいます。親切行動をした相手は、反撃されると思いませんから、無防備な自分の状態に攻撃をしてくる人間だとみてしまいます。
第5に、その結果解決策がありませんから、世の中すべてに絶望をする可能性が高くなります。

派生問題としては、

自分を助けてくれる人がいないと感じていますので、誰かを助けようと思う気持ちに離れずに、ますます孤立していきます。
自分を助ける人を逆恨みしますから、誰も援助しようとは思わなくなり、ますます孤立します。
そもそも、誰も信じられない状態で、これが悪化してゆくのですから、孤立感は深まっていくのは当然だと思います。
結果、周囲の協力を受けることができる人であればやすやすと解決できることも解決できずうまくいかないことばかりになっていきます。

Bタイプスパイラルという感じに悪い方に悪い方に結果が生まれてしまいます。

Bタイプに、どうしてなってしまうのでしょうか。

色々原因があると思います。
確認できた原因をあげていきます。但し、それぞれが単体としてBタイプになる理由ではなく、複合して理由になっているのではないかと思います。
① 育ち方
つまり、厳しく育てられて(厳しい評価をされ続け、他者は自分を否定するという学習をしてしまった)、あるいは、親とのコミュニケーションがうまくゆかず、親からの援助を拒否するような習慣が生まれてしまった場合、
② マイナスの経験値の蓄積
周囲の援助を受けてことごとく失敗したような経験の蓄積 特にいじめの体験
信じていた人の助言に従ったら裏切りの助言で損害を被った
③ 被害感情・孤独感情
何らかの人間トラブル、特に近しい人とのトラブルが継続している場合は、Bタイプの行動をとりやすいと思います。だから、Bタイプだから孤立したのだろう思われがちですが、そうではないことがあります。孤立したからBタイプの傾向が強くなっている可能性があると私は思います。
④ 無意識の日常行動の否定に対して
日常の何気ない行動(日常的ルーチンのような言動)に対して特に近しい人から否定評価されてしまうと、これまで平穏に行っていた行動が否定されたことになり、自分の行動を修正する必要性を認識しにくい。自分の行動が無意識に行われているため、どこを振り返ればよいの変わらない。その結果、相手の言動が自分に対する言いがかりだと思うこともある。
⑤ 体調
自分が否定されていると感じやすい、精神に影響を及ぼす内科疾患、脳などの傷害、あるいは精神疾患がある場合。あるいは、病気とまでは行かないけれどなんらかの心理的影響がある。

概ねAタイプの方が、問題を解決してストレスを軽減し、その結果長生きする可能性が高くなり、Bタイプは孤立感とストレスを抱えて苦しんでいくことになると思います。

解決方法は難しいのですが、一つ考えられることがあるとすれば、援助者をみつけるということですね。この人は自分を見捨てることが無いと信じて悔いない人、この人が自分を裏切るならば仕方がないと思える人をつくり、その人の意見は必ず肯定的に聴くということです。それができないのがBタイプなのですが、それができれば有効だと思います。
つまり全面的にAタイプになる必要はないということです。特定の人にだけコミュニケーションの風穴を開けるということです。限定Aタイプ行動とでも言いましょうか。そして心中上等ということをはっきりと意識する。おそらく結婚というのはこういうものであるべきなのでしょう。

Aタイプは、一見、協調的に円満な生活を送るように見えます。しかし、思わぬ落とし穴があるのが現代社会です。過労死をするタイプはAタイプかもしれません。人間関係はこちらだけが品行方正にしてもダメで、相手のあることなので難しいですね。相手が悪い人格の持ち主というよりも、相手の立場や関心事のその時の状況が影響を強く与えているということなのでしょうが、本人にとっては天使から悪魔に豹変する結果になることがあるわけです。この場合、Bタイプは被害が少ないのですが、Aタイプは甚大な被害が生じる可能性があります。特定の人にだけ窓を開く限定Aタイプの場合も同様です。

例えばパワハラ上司の場合です。
相手は上司ですから最初からそれがパワハラだということにはなかなか気が付かないということが多くの実例です。周囲が見たらパワハラだと思っても、Aタイプの方は、「業務上必要なことを言われているし、会社全体の立場から考えると自分のやり方が間違っていて上司の言うことが正しいのかもしれない。」という意識になることが多いです。こういうタイプでパワハラの被害を受けると、長期間うつ病が治らないケースが多いです。10年間うつ病が治らないケースで上司に問題があったケースを3件担当しています。そのうち2件は現在係争中です。1件は労働者側の勝利的和解で解決しました。

それらのケースでは、やはり、最初は上司の正当な指導だと思って、労働者は、何とか自分の行動を上司に合わせて修正しようとしています。だんだん、上司の発言が無茶なことを言っているように感じるのですが、それでも従おうとします。従わなければならないと自分を律するという感じです。しかし、パワハラの原因は、客観的には上司の私的利益の追求というか保身、別の事例では差別・偏見だったのですが、言われている方はなかなかそれに気が付きません。上司の攻撃は徐々に強くなっていきます。薄ら笑いを浮かべた嫌味のような小言から、自分に対する発言の際の上司の顔つきが険しくなり、はっきりと憎悪が読み取れるようになります。叱責も捨て台詞のようなものも頻繁に出てくるようになります。さすがに自分が上司から嫌悪されていることに気が付きますが、しかし、どうしてそういう風な扱いを受けるかわかりませんので、困惑してゆきます。自分の何を直したらよいのだろう、上司にどのように説明したらよいのだろうということを当てもなく悩んでいきます。自分の行動を改めれば上司は普通に扱うはずだ、上司は誤解をしているのかもしれないからきちんと説明すればわかってもらえるはずだと思ってしまうのです。解決策は見つかりません。見つかるわけがないので、初めからパワハラですから、上司が行動を改めなければ解決しないのです。こういう相手を信じ切っている時期が相当程度経過したある時、様々な事情から上司の指導は、実はとても職務上の指導とは言えない、逸脱した違法行為だということに、突然気が付きます。自分は上司の保身のための犠牲にされそうになっていたのだ、あるいは上司は自分を差別していたのだと突然気が付くのです。うすうす感づいていたのを一生懸命自分で否定していましたが、否定しきれなくなり、急激に確信に変わるという感じです。

さて、こうなった場合、おそらく多くの方々は、労働者が「自分が悪くない」と理解できたので救われたのではないかと感じると思うのです。晴れ晴れとした気持ちになるのだろうと思われないでしょうか。多くの「支援者」はこのように思って、気づかせた自分をほめる傾向にあります。ところが実際は逆です。それまで、何となくモヤモヤしていたり、自分が悪いと思っていたりしていたけれど、実は相手が自分に悪意があり、保身目的で自分の害を与えようとしていたと理解したとき、一気にさらに強い精神的にダメージを受けるということが実際でした。それまで張りつめていた気持ちが一気に喪失してしまい、これまでの上司の発言の一つ一つを思い出してはとても強い悔しい気持ちになるようです。そしてそれと同時に、これでは、自分はどうすることもできないという解決不能感が一気に押し寄せてきて、絶望して、気力が失われてしまうようです。こうなってうつ病になると難治性の遷延化したうつ病になるように感じます。今まで信頼していた人間関係の基盤が一気に喪失してしまい、支えるものが無くなり、転落していくようなそんな感じなのだと思います。

こういうパワーハラスメントのケースでは、Aタイプはかなり危険な結果になる可能性があると考えなければならないと思います。*1労務管理上のコメントは後述


人間は、基本的にはAタイプの方が良いのだと思います。関係者がみんなAタイプならば、円満な人間関係が形成されるのだろうと思います。しかし、相手によってはAタイプが深刻な打撃を受けることがあるわけです。こうならないためにはどういう条件が必要かというと、親身になって客観的なアドバイスをする援助者が存在することだと思います。「あの上司の発言はひどすぎる」と言ってくれる人がいることが必須だと思います。本人ではなくても、その場面を体験した他者が修正を提案できればそれは袋小路に陥らなくて済むことになるでしょう。

パワーハラスメントが起きて、長期の療養を必要とする精神疾患になる場合は、職場の同僚にこのような正当な評価をしてくれる人がいません。「ひどいよね。」とか、「気にする必要ないよ。」と言ってくれる人が一人でもいたならば、悲劇は起きていなかったかもしれないと思うと、残念でなりません。そのような人が一人もいないと、パワハラの被害者は、上司だけでなく周囲も同じように自分を評価しているのだろうと感じていきます。そして急激にBタイプに移行していってしまいます。タイミングを逃がすと、もう、周囲の声を正当に評価することができなくなります。
いじめの場合も全く同じです。

逆に、この救いのコメントを言うべき人が本人の足を引っ張ることも良くあります。困窮している本人の認知の歪みが生じることを知らないために、本人を援助しようと手を差し伸べている人を攻撃してしまうことが多く見られます。先ほど言いましたように、Bタイプの人間は自分に対する手を差し伸べる程度を不満に思います。もっときちんと問題を解決してほしいという意識になってしまうからです。本当はその人の苦境を解消するキーマンになり得る人に対して、本人は不満を述べるわけです。そして、本当の敵とは戦う気力が無くなっています。そちらは無理だと思うのでしょうね。だから、自分に好意を示す人の不十分さ(自分の願望に照らしての)だけが具体的不満として表現されるということが結構あります。第三者の「支援者」はこのメカニズムがわかりません。だから、本論、本人を苦しめている根本問題を見ないで、本人の言動だけを聞いて、主たる敵は本来キーマンになる人間だということで、本来キーマンになる人間の低評価をあおるようになります。それを「よりそい」だというのです。これはよく見ているし、自分自身も体験していることです。本人だけがBタイプであるだけでなく、「支援者」を含めたチームBタイプというような感じです。本人も第三者の賛同を得てしまいますから、もう自分の主たる敵は本来キーマンになる人間だと信じて疑わなくなります。同時に、キーマンの手を差し伸べる行為自体が攻撃だったという記憶に置き換わってしまいます。その結果、本人は有効な協力者を失い、その様子を見ている周囲の関係者も本人から離れていくわけです。

どうすればこのような偽支援者に足を引っ張られないかというと、やはり、
・公的な立場だということで信頼しないこと
・昨日今日の知り合い、あなたの従前の性格などを知らない人、またキーマンについてのあなたからではない情報を知らない人に、そして何よりも知ろうとしない人にあなたの運命を委ねてはならないということだと思います。
こういう人は、あなたがこの人と心中しても構わないといっても、笑って私はしませんという人たちです。

先ず家族からAタイプの人間関係を広めていき、そして無理しないということしか、今は言うことができません。そして、小さいことで構わないので、なるべく早めに声掛けをして、他者を孤立させないという活動が、完全ではないけれどいずれ自分を助けると信じて行動することがよりましな方策だと思います。


*1
およそ指導であれば、具体的な改善方法を指導しなければなりません。改善方法を簡単に始動できないのであれば、一緒に考えればよいのです。抽象的な激励は、指導ではない、即ち生産を向上させないということを徹底するべきだと思います。自分で考えて見つけろと言うのは、非効率な考え方です。確かに文字を使って指導できない技術というものはあるでしょう。しかし、コーチング技術が発達した現代では、ごく例外的な事柄です。技術的な行動を反復して体得する場合も、きちんと意義を説明して納得して取り組むことが早期体得となり、生産性の向上につながるという考え方をするべきだと思います。相手を谷底に落として自力で這い上がるのを待つという論法は人権問題を生じるということを肝に銘じるべきです。


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もう一つのインターネットパラドクス インターネットは現実の代替にならないのではないかということ [自死(自殺)・不明死、葛藤]


「インターネットパラドクス」という言葉は1998年の論文で発表されました。
インターネットを利用すると、家庭内でのコミュニケーションの低下を招き、社会関係を縮小させ、抑うつ感や孤独感を増大させるという意味で用いられていました。

それから20年余り経た現代では、インターネットの中でもSNSの利用に伴うソーシャルネットパラドクスという言い方がなされています。友人たちのHappyな日常を見せつけられることによって自分の境遇のみじめさを感じてしまうという負の影響や、「いいね」などの反応をしなければならない等の負担感が原因として指摘されています。投稿しない閲覧中心の利用スタイルの方が、投稿を頻繁にする者よりも抑うつ傾向や孤独感が表れやすいという統計結果もあるようです。

今回はこういうことではなく、別の問題点について光を当ててみたいと思います。
コロナ禍で報告されている抑うつ症状として、学生が学校に登校できず、オンラインで講義を受けていた。友達ができない焦りなどから抑うつ症状を出現させたというものです。適切なカウンセリングによって症状が軽快されたとのことでした。
この学生さんも、友達ができないと言っても、それまでの友達もいるでしょうし、それこそSNSの友達もいたと思うのですが、それでは何かが足りなかったということなのでしょうか。この学生さんは、実際のところ、何を求めていたのでしょうか。

もう一つ、令和2年の自死の状況です。特徴的なことは、前年度比で、10代の自死が増えたということです。特に高校生女子が80人から140人に増え、小学生女子も5人から10人に増えたということに注目するべきだと思います。父親が家庭にいる時間が増えたので居場所がなくなったのではないかという根拠のない説明が公的にもなされるという驚くべき事態が日本の現状です。しかし、統計的にはこれは成り立たない説明です。例えば高校生女子の自死の原因としては、それまで家庭問題が原因のトップでしたが、令和2年は入試を除く進路の問題と、学業の問題が一位と二位になり、家庭問題は3位と後退しています。増えているのは家庭問題とは別の事情だとして原因をより詳細に考えて、対策を講じるということが科学的視点だと思われます。

学生のうつ病と、高校生、小学生女子の自死の増加という問題が関連しているのではないかという視点から掘り下げてみたいと思います。

これまでも子どもの自死の好発時期というものが指摘されていました。ゴールデンウィーク明けとか夏休み明けの日に自死が増えているということは統計的にも明らかです。
今回コロナ禍の学校の状況をみると、自宅でのオンライン授業ということが多くあり、実際の対面の授業、即ち、実際に同級生たちと過ごす時間が、断続的に停止されていたようです。自死の問題は当然のことながら個人情報の最たるものですから、その詳細が報告されることはありません。自死の時期と授業再開の時期だけでも明らかになるとある程度この説が証明できる又は否定されるのですが、ここは致し方ありません。但し、もしそうであれば、夏休み明けの日に子どもの自死が集中しているということと考え合わせると、同じ原因で自死が起きており、長期休暇明けという出来事が多かった分につれて自死が増えていったという説明が可能となるかもしれません。もちろん自死の原因はこれだけではないのですが、何らかの対策によって子どもの自死を減少させることができるかもしれません。

過度の競争社会による心理的圧迫感や自尊心の低下という根本的問題は今回は除外して考えます。根本問題が解決しなくても自死を無くすべきであり、できる対策をするべきだという考えに基づいています。

さて、それではどうして長期休暇明けに自死が増加するのでしょうか。これは、これまでもこのブログでたびたび以下のような推論を述べているところです。
学校での人間関係は、同級生であったり、部活動の仲間であったり、その他の子ども同士の人間関係や、教師、学校職員との人間関係があります。そのすべての関係で円満な、心穏やかになる人間関係が構築されるということは難しい話だと思います。そのどこかの人間関係において、ストレスが生じるような不具合の伴う人間関係があると思われます。それでも、長期間継続して人間関係を構築していく中で、対処の方法を覚えたり、誤解があった場合にそれが解消されたり、あるいはその人の行動に馴れが生じてだいぶ気にならなくなったり、友人が援助してくれたりして、なんとか毎日を緊張感をもって乗り切っているということが少なくないと思います。
しかし、長期休暇になって、そのような緊張感の不要な日々が続いてしまうと、「なんとかなっていた」という安心の記憶が失われるということが起きるようです。同級生、部活動の仲間あるいは教師との関係などとの困難な場面だけが思い出されてしまい、それを乗り切ってきたはずのその安心の記憶が蘇らないのです。
この安心の記憶というのは、言葉にできる記憶ではなく、言葉以前の生理的現象の記憶というようなものかもしれません。実は、学校に行って、校舎の壁の色を見たり、階段の角の足に当たる感触を感じたり、教室のにおいを感じたりすると詳細が思い出されてきて、それほど心配することがないことも思い出されるということが多いようです。しかし、ただ家にいると安心の記憶を思い出すツールが何も無いので、困難な場面だけが思い出されて、対処の方法が無いという結論になってしまいがちになるようです。記憶というものが危険を記憶して危険に近づかないという機能を持っているため、どうしても危険の記憶を優先して思い出されるようです。
学校に行けない、行く気力が出てこない、学校で悪いことが起きて逃げられないのではないかという感覚は説明しがたいものがあるので、なかなか周囲はそれを理解できません。困難な記憶の方、同級生とのトラブルや教師からの叱責などについてはそれなりに理解できますが、「そんなことで学校に行きたくないのか」という評価になってしまいます。安心の記憶が持てないことについて理解できないからです。
学校に行けない生徒の中には、不安が飛躍していく場合があります。学校を卒業できないような自分は社会に出ていけない、社会の中で不遇な人生を歩み、みんなに馬鹿にされてみじめな生活を余儀なくされるというような悲観的未来だけが想起されていくようです。こうして社会とのかかわりを拒否する傾向が生まれてしまい、不登校スパイラルになっていくようです。それでも明日は学校に行かなくてはならないという強迫観念が外部からも内部からも押し付けられていくわけです。そうなるともう毎日が夏休み最終日です。毎朝が苦しい時間となり、学校が終わる時刻にようやく少し楽になるのではないでしょうか。

「自分が関係する仲間の中で安心の記憶を持ちたい」という要求は、必ずしも自分が具体的に困難に直面していなくても起きるものだと思います。また安心の記憶が持てない場合は、かなり精神的に追い込まれてしまうようです。具体的なトラブルがある場合は、不安を解消して安心したいという気持ちはわかりやすいのですが、これと言ったトラブルがない場合は周囲は理解しがたいのだろうと思います。

冒頭述べた、学生さんがコロナで実際の人間とのリアルな交流がないことでうつを発症したということはこのような文脈で理解されなければならないことだと思われます。仲間と安心の記憶をもって、自分が仲間とともに学生という立場になったという安心感を持ちたいということなのだろうと思います。新たな人間関係の中で、自分が仲間として受け入れられているという安心感と言っても良いでしょう。この安心感を持ちたいというのが人間の根源的要求であり、これが満たされない場合は、心身に不具合が生じるということなのだと思います。

そうだとすると、何らかの事情、例えば精神的な疲労の蓄積、睡眠不足による思考力の偏り、誰かの影響などによって、安心の記憶が持てなくなり、具体的な人間との切り結びを一切行えなくなるということがあり得ることだということです。もちろん、いじめや無理な指導と言った具体的なトラブルがあればなおのことだと思うのですが、必ずしもそういうことではないような気がします。つまり、危険の記憶が小さい場合でも安心の記憶が持てないために行動ができないという相関関係にあるように思うのです。

 そして肝心なことは、インターネット、SNSでは、この仲間の中での安心の記憶というものが持ちにくいということなのだろうと思います。インターネット、SNSは、距離を超えて、あるいは立場を超えて、様々な人たちが交流を持てるツールであり、人間関係を無限に広げることを可能にしたツールのはずです。確かにSNSによって人間関係が広がっていくのですが、そのSNSの人間関係において、安心感の記憶を持つことができない。人数が広がった分だけ不安の材料もまた増える可能性があるということになりそうです。少なくともSNSでの人間関係の拡大は、人間の根源的要求を満たしはしない。即ち、自分が誰かと人間的なつながりの中で生きているという実感を持つことはできないということです。自分の大切に思う相手の、実際の生の声を聴き、実物をみて、あるいは手で触り、あるいは匂いやぬくもりを感じるということこそ、人間には必要なことであり、インターネットはそれを代替することはできないという仮説を立てることができるのではないでしょうか。

コロナのために直接会うことができないということは、不便なこと、経済的な問題があるということにとどまらず、人間の根源的要求を否定しかねない重大な問題が生じるということだと考えるべきだと思います。コロナ禍から、私たちはもっと大きく、もっとリアルに問題を把握しなければならないと思うのです。

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「孤独の科学」(河出文庫)カシオボ、パトリック著を読む。対人関係学と何が違うのか。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

「孤独の科学」(河出文庫)カシオボ、パトリック著を読む。対人関係学と何が違うのか。

興味をもって買ったのに、ブックカバーをつけてもらったばっかりに
数か月たってようやく読み始めた本が
「孤独の科学」(河出文庫)J・T・カシオボ、W・パトリック著
です。
最近楽器の練習にかまけて基礎的な勉強を怠っていて、
楽器演奏は上手になりましたが、本から離れてしまい
それでも良いかと思っていたところ、
事務所のバックヤードを整理していたら見つけました。

面白そうだと思って買ったのですが、面白い。
どんどん頭に入るのは、対人関係学と
ほぼ言っていることが一緒だということです。
特に人間とは何かというところです。
このブログや対人関係学のホームページを見たのかしらと
(通常の発想は逆)
思うほど主張が似通っています。

これは理由があり、この本で引用されている研究者が
バウマイスターや、アントニオ・ダマシオなどであり
まるっきり産みの親が一緒だということです。
さらにこの著作のテーマが
特にバウマイスターのNEED TO BERONGという論文の
「人間は、誰かとつながっていたいという根源的要求を持ち
この要求が満たされないと心身に不具合が生じる。」
という結論部分を論証するはずの論文となっています。

カシオボらは、「孤独」という切り口で論を進めていきます。
対人関係学では、
孤立化(追放、排除)の危険の認識を「対人関係的危険」と表現しており、
よく似ているところです。
但し、対人関係学は、
形式上は孤立していない、群れには属している
けれど、その群れから外されそうになると、不安や焦燥感を感じて
群れから外されないように自己の行動を修正しようとする
ということがセットとして考察されています。

カシオボらの「孤独」も、
必ずしも形式的にも孤立している場合だけではない場合も対象としているようですが、
多くの考察では孤立が完成した後の孤独を使って実験しているようです。
この実験の方法は詳細に語られていないので
どういうことかはよくわかりません。

興味深いのは色々あるのですが、その中でも
孤独に陥った場合に現れる弊害として
・要求ばかりするようになる
・批判的になる
・行動が消極的になり引きこもる
と言ったものをあげています。

対人関係学では「被害者の心理」として紹介しているところと似ています。

被害という評価の入った概念で用いないで
孤立という客観的状態を基軸に論を進めることにも
相当のメリットがあると思われます。

問題というか是非言いたいことというか
「どうして孤立ないし被害を受けると、そのような変化が生じるのか」
ということについては、述べられてはいるのですが
対人関係学は、少し重点を置いて説明しています。

これらの心理的変化は、対人関係学では
「過覚醒(かかくせい)」という言い方をします。

危険を感じた者(ないし生物一般)は、
平常時よりもさらに危険から自分を守ろうとします。
例えば路上強盗が現れた道路を通って帰宅しなければならない場合、
もしかして自分が付け狙われているのではないかと
強盗が現れる以前に比べてより恐怖を感じるでしょう。

ただの風の音でさえも、あるいは道路を通るバイクでさえも
自分に対して攻撃に向かってきているしるしなのではないかと
過敏に考えてしまうことはわかりやすいと思われます。

おそらく意識に上る以前の生理的な現象として
音、視覚、触覚などによって、
自分を侵害するものだと危険だという認識を持ってしまうのでしょう。

これは生物的危険として整理されます。
これと異なり、対人関係的な危険も
通常であれば感じないことでも
危険を感じているときには感じやすくなるわけです。

誰かが話をしているとき、自分に対する悪口ではないかとか
声が大きいといら立っているのではないかとか
自分が排除追放されているのではないかと
感じやすくなっているということが対人関係学の分析です。

ここに必要な手当てをしないと
あなたの仲間、例えば配偶者なんかは
自分があなたから追放される、排除されるという予期不安が高じて
その予期不安から免れるために
自らあなたから立ち去って、不安を解消しようという行動に出る
ということがありうると主張しています。

そうだとすると、夫婦関係の不具合がある場合は
一方が孤独を感じていて
他方がその孤独に気が付かず孤独感を逆なでしている
と説明したほうがわかりやすいのかもしれません。

そして対処方法としてはカシオボらは
・現実を直視する。
・なんでもできることをして、寂しい人間に安心感を与えよう
ということですから、ここも対人関係学の主張と一致します。
特に後段ですね。

対人関係学的に言えば
例えば子どもに対して、例えば配偶者に対して
あなたを絶対に見捨てない
というメッセージを出し続けるということで
お互いの関係に安心感を持ってもらう
ということになりましょうか。

それから、過覚醒状態にあると
自分の不安を解消してほしいという要求が強くなり、
相手に対する要求度も強くなります。
このため相手に対して批判的になり、要求ばかりするようになる
という説明の仕方をしています。

対人関係学の本の出版なんておそらく現実化しないと思います。
ブログやホームページを見るのも疲れることかもしれません。
「孤独の科学」をお読みになることはとても簡単なことです。
とても親近感を抱いています。

ご紹介方々
対人関係学の宣伝もちゃっかりやらせていただきました。


ちなみに対人関係学の学は
体系的な学問だというよりも
学び続ける、勉強し続けるものだということでつけています。
なんて、私も少し過覚醒のところがあるのかもしれません。

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【緊急】文部科学省の令和3年の自死対策 コロナも令和2年の統計結果も関係ないまとめではないのか。つまり実効性に疑問を払しょくできない。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

令和3年度 児童生徒の自殺予防に関する調査研究協力者会議 審議のまとめ

文部科学省の審議会が令和3年のまとめ報告を令和3年6月に行いました。
https://www.mext.go.jp/content/20210629-mxt_jidou02-000014544_002.pdf

この点について読み込んでメモをする必要があったので、ついでにブログにして保存することにしました。

文部科学省に児童生徒の自殺予防に関する調査研究協力者会議という審議会があるようで、毎年一度審議のまとめを発表しているようです。令和3年度は、5月7日に第1回会議があり、6月25日に第2回会議があったとのことです。いずれもweb会議だったそうです。そして、6月に、資料を除いて30頁の審議のまとめが発表されました。二回のweb会議で誰がどうやってまとめたのかたいそう興味のあるところです。

(6頁)同会議は、まず、令和2年の児童生徒の自死に関する統計を確認しています。子どもの自死は増えています。特に高校生女子は、80人から140人に増大しています。小学生女子も5人から10人に増加しています。小学生の自死が少ないにもかかわらず100%増ですから、人数が5名だとしても本来大問題とするべきですが、特に言及はありませんでした。警察が調査した自死の理由を分析しています。まとめとしては、うつ病を含む精神疾患の影響の割合が増えたことを多く指摘しています。高校生では、入試以外の進路の悩みが、学業不振、病気の悩みが上位を占めたそうです。ここで注意するべきは家庭問題を理由とする自死が増えたという事情が報告されていないということです。また、どうして精神疾患にり患したかということは考察されていないということも留意しておく必要がありそうです。このため、対策としては、論理的には進路の悩みと健康状態の悩みにどう対応するかということが議論されるはずだと述べておきます。

(9頁)次に、コロナ禍の家庭環境の変化について、統計の直後に分析しています。先ず、進路問題や健康問題についての分析が先になされるべきと思われますが、なぜか家庭問題が第一に分析されているところも留意が必要です。
 ここでは、在宅ワークのために父親がリビングなどを占拠し、「家中に声をとどろかせて」オンライン会議をしていた、家族は息をひそめて過ごしていた、母親は家族全員分の食事の用意などをして自分の時間が無くなっただろうという、根拠を示さない推測をしています。さらには一世帯当たりの酒量が増えている家計調査を示し、「酒を飲めば酩酊するはずだ、酩酊すれば声が大きくなり、感情の制御も難しくなり、家族間の衝突が多くなった」かのような文章が続きます。子どもたちはこの問題から遠ざかるためにスマホ、ゲーム、動画干渉に依存し、親の干渉を呼ぶという悪循環が起きて、家庭が居心地の良い場所ではなくなった可能性は否めないとしています。このような出来事があったということは推測にすぎません。また、自死者の家族問題がこういう問題であったという調査も全く示されていません。
 なぜこのような推測と決めつけの話を原因論の冒頭で行うのか私には理解できません。

(9頁)そして、学校環境の変化について言及がなされています。そこでは、運動会や文化祭、遠足や修学旅行などの行事の中止、部活動や合唱コンクールの中止や延期が冒頭に上げられ、次に友人や学級担任などの交流が亡くなったことを指摘して、これを環境の変化というようです。加えて、カウンセリングの相談が難しくなったというのです。これが児童生徒の自死予防を増加させてしまったというのです。しかも、そのことによって、むしろ日常の学校生活やカウンセリングが自死予防に効果があったことを証明しているというのです。
 現実の児童生徒の自死の原因について、詳しく調査をしたという話がないままの自画自賛が続いているようです。はたして、カウンセリングなどがどの程度の自死予防に貢献したのか、その論理的確からしさのない我田引水の感想文に過ぎないと思うのは歪んだ味方でしょうか。

(10頁) 次に児童生徒の自死の原因としてうつ病とあるが警察官の調査によるものでうのみにすることができないという指摘は正当だと思います。また、精神科の専門治療につなげるだけでは児童生徒の自殺予防としては十分とは言えない可能性があるとの指摘があり、この点は賛意を示します。しかし、ではどうするかということで、「地域の保健業績感や児童福祉機関、あるいは、民間の社会資源とも連携した支援が必要であるともいえる。」これが具体的に何を意味するのかについては、この時点では不明です。また、どうしてそれらの連携が有効なのかについてもわかりません。やや唐突な印象を受けます。但し、学校と精神科だけで抱え込んではだめだということは賛意を示します。

そして課題に移るのです。つまり、原因として増えている、入試以外の進路についての自死の理由については全く考慮されていないというところに注意していただきたいと思います。確かに5月に始まった会議で6月にまとめたというのであれば審議期間が短いと言えるのですが、どうしてそんな短い審議機関でまとめを出さなければならないのかについては理解が及びません。

(11頁) コロナ禍の社会変化に対応した児童生徒の自殺予防に係る課題
と題された論述が次に展開されます。
 どうしても気になることが、常に不十分、原因を作っているのが家庭で、学校は支援を補充する場所、子どもを支える「プラットフォーム」だという論法にあります。学校が原因で自死リスクが高まるという観点が全くありません。いかに文部科学省の審議会だとは言え、「指導死」という言葉もポピュラーになっている現在、そのような視点が全くないことは奇異であり、科学的分析とは遠い分析がなされているような印象を受けてしまいます。先ず、子どもを守るのか、学校を守るのか、鼎の軽重を見せてほしいところです。プラットフォームの意味が分かりにくいのですが、どうやら基盤という意味で使っているようです。子どもを支える基盤、基礎が学校にあるという考えに立っているようで、国民の意識との乖離がないかどうか検証するべきだと思いました。
 そしてSOSの出し方教育を含む自殺予防教育が必要だというのです。これではコロナはあまり関係なく、コロナ前からの行政の主張を繰り返しているだけだと私は思います。

(11頁)コロナ禍で児童生徒の危険を支援につなぐ必要があるとして、そのためには子どもの援助希求を求めることが重要などしながらも、追い込まれた人間心理としては援助を求める行為は厳しいという意見には賛成です。ではどうするかということなのですが、日々の健康観察、相談体制、そしてアンケートとのことです。これは従来から学校現場では行っていると思っているようなので、具体的に何が足りなくてどうすればよいのかということを指摘しなければ、「もっとがんばれ」と言っていることに等しいと思います。その上で、SOSを表現しやすいツールの開発や表現されたSOSを支援につなぐ体制の強化が対応策だと言っています。自らSOSを発することが心理的に難しいと述べていながら、難しいことをどうやって克服するかを示さずにもっと頑張れということで終わりにしているような気がします。

(12頁)SOSを把握した場合の体制が論じられていますが、一言で言って連携をしろということに尽きるようです。それは間違いないとは思いますが、現状で連携していたのかいないのか、不十分であればどこがまずかったのか、そして具体的にどうすれば連携できるのかについては一切言及がありません。つまり、また頑張って連携しろということなのでしょう。とにかく学校側の反省は全く論述されていないと言ってよいでしょう。
 そして、家族に問題がある場合もあるので、家族の機能を代替する方法を考えろと言っています。具体的には児童相談所の保護なのでしょう。学校に問題がある場合は一切想定されていません。

(13頁) 第2章 コロナ禍における児童生徒の自殺予防等のために必要な今後の施策がここから始まります。具体的に見ていきましょう。

1)各人がかけがえのない個人としてともに尊重し合いながら生きていくことについての意識の涵養等に資する教育又は啓発
  自尊心を向上させろというのです。文部科学省は自尊心とか自己有用感ということが大好きなようですが、もうこういう言葉に頼ることは止めるべきです。どうして子どもが自尊心が低いのか、その原因を突き止めて改善することこそが大切のはずです。環境をそのままにして自尊心だけを高めろと言っても私には無理な話だと感じられます。具体的には心理プログラムを実践しろと言っています。教育の在り方についての充実については放棄し、心理プログラムでつじつまを合わせろと言うように聞こえてなりません。

2)困難な事態、強い心理的負担を受けた場合等における対処の仕方をみにつける等のための教育又は啓発
 子どもに対して、一般的に強い心理的負担を受けた場合の対処の仕方を身に着けされるという施策は無謀としか言いようがありません。こんなことをするよりも、教師一人一人が、子どもに信頼される方法を身につける方がよほど実践的だと思うのです。しかし、この審議会は学校に対する反省が全く見られませんので、教師に問題があったというアプローチを拒否するようです。あくまでもSOSを出さない子どもと、家族に問題があるというアプローチで児童生徒の自死を減らすことができると考えているようです。

3)心の健康の保持に係る教育または啓発
  祖の教育とは何かと言うと「こころの不調や精神疾患についての知識を得ること、病気を予防したり、自分のこころの不調に気付いて周りの大人や友達、専門相談機関などに相談したりできる力をつけていくこと」だそうです。
 先ほど追い詰められた者が、自ら援助を求めることは非常に難しいとした指摘をした同じ会議が言っていることとは到底理解できません。矛盾していると言ってよいと思います。

児童生徒に対する働きかけは以上となるようです。

(14頁)そして体制整備を施策としようとするようです。
プログラムとして、「学級の一員としての自覚や自信の獲得や、互いを認めあえる人間関係の構築」ということについては大賛成です。ただ、このプログラムを実施すれば、学校現場の負担軽減に繋がると考えられるという見解は学校現場とはだいぶ乖離していると思いますが、いかがでしょう。

そしてSOSの出し方教育を含む自殺予防教育プログラムの構成要素の明示がなされます。具体的に引用しましょう。
①早期の問題認識(心の危機への気づき)
・チェックリストなどを用いて自身のこころの状態へ気づく。
・心の危機につながる出来事、状況を知る
・心の危機への対処方法を考える。
②援助希求的態度の促進
・心の危機への対処方法として、他者に援助を求めることの重要性を知る
・友人、教員、家族、親族の他、地域の相談機関など、相談先について知る。
・友人の危機に気づいたときの対応方法、き(気づいて)、よ(よりそって)、う(受け止めて)、し(信頼できる大人に)、つ(つなぐ)について知る。
いずれにしても子どもに自分を守らせようとしている姿勢は鮮明です。そんな都合世の良い自殺予防教育プログラムというものが文部科学省では用意しているのかもしれません。いずれにしても自ら援助を求めることは非常に難しいとした指摘した態度とは別人格だと思います。②のひらがなをつなぐと教室という言葉になりますが、そこまでして話すほどの促進方法なのか賛同しかねます。むしろ信頼できる大人を作るということが前向きだと思います。
私の独自の考えかもしれませんが、プログラムの作成が可能となったとしても効果は極めて限定的だと思います。自ら援助を求めることは非常に難しいとした指摘の論理的帰結だからです。

(15頁)心の健康の保持に係る教育の実施時間の確保
一学期あたりに2,3回の時間を確保してSOSの出し方教育を行うそうです。日常的なクラス指導の中に組み入れていくということも検討していただきたいです。

こころの健康の保持に係る教育の実施に関するマンパワーの確保
スクールカウンセラーの活用が唱えられています。おそらく理想的な経験も知識も、技術も豊かな心理士が十分に確保されているという前提なのだろうと思います。

(15頁)ICTの効果的な活用
結局ネットワークと端末の整備のことらしいです。こういう審議会のまとめでありながらICTとはなにかということも記載されていません。SNS相談などを行えと言っているようです。ずいぶん過大な評価をしていて、デメリットについて考慮がなされていないものだなあと感心することしきりです。現状分析とは全く関係がなく、唐突にICTが出てきたなと感じます。そう言っておきながら、まず導入してからなのでしょう。活用のメリットデメリットについて、丁寧な検討が必要だとしています。デメリットを検討しないで導入だけは呼びかけるということなのでしょうか。理解がなかなか難しいところです。

(17頁)関係機関等の連携体制の構築
協力体制を保護者、地域の関係機関との間で(学校は)築く必要があるということはそのとおりでしょう。奇妙なことは自死の原因の上位3が学業不振、進路についての悩み、親子関係の不和だとしていながら、家庭の問題をどのように解決するかという文脈になっていることでしょう。連携が大切なことは、学校の反省を促す意味でも必要だと思われます。

以上が第Ⅰ部でした。
第Ⅱ部はSOSの出し方教育を含めた自殺予防教育の在り方とのことです。
(20頁)これまでの取り組みが記載されています。
(21頁)SOSの出し方教育の在り方
まあ、色々書いてあります。児童生徒の自死が無くなるように、個別事案に応じて必要なことはすべてやるべきだと思われますが、なぜか大きくSOSの出し方教育という縛りがあり、これに該当しない教育は認められず、その基盤や環境整備として位置づけられなければならないというような説明がなされています。仮にSOSの出し方教育が完璧に自死予防に効果的な方法で、それ以外はむしろ弊害が大きいというならばこういう議論は意味があるとは思いますが。なんにせよ、大人ができないことを、いかに教育とは言えできるようにはならないのではないかと悲観的な感想が首をもたげています。これは私だけが言っているのではなく、協力者会議が同じような意見を言っているようです。(26頁)私は、この懸念に概ね同感です。
つまり、このまとめ文書の名義人が懸念を持っているのにもかかわらず、強引に推し進めようとしているということです。誰がこのまとめを作成しているのか、訳が分からなくなります。
(28頁)学校の施策で留意が必要なものとして
・関係者の合意形成
・適切な教育内容
・ハイリスクの子どものフォローアップ
これらはその通りだと思います。ただ、相変わらず、家族が子どものストレッサーであり、学校はフォローをする組織であるという姿勢はあっぱれなほど一貫しています。

どうか、私の歪んだ見方ではなく実物をご一読ください。
歪んだ見方とは、結果としてコロナとか、令和2年の統計とかとはあまり関係のないところで議論をして、原因分析を科学的に行わないで従来の対策を繰り返し主張しているという感想を払しょくできないということです。

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