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【講演告知】職場ストレスが家庭に与える深刻な影響とそのメカニズム 死ななければ良いってものじゃない 支援者が必ず持つべき視点 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

2019年2月21日木曜日 6時45分から
仙台駅前アエル28階研修室において

自死防止の多業種ネットワークみやぎの萩ネットワーク
主催の定例会において
「家庭の問題の真の原因は家族の職場にあるのかもしれない
〜職場ストレスが家庭に与える深刻な影響とそのメカニズム」
と題したお話をさせていただきます。

だいたいおかしいわけです。
人間の行動や感情が
その置かれている環境によって大きく影響を受ける
ということは争いのないことのはずです。

ところが、弁護士や心理士その他の支援者は、
いざ相談を受ける段になって
そのことをコロッと忘れてしまうようです。

夫が怒りっぽくてしつこい
子どもがふさぎがちでやる気がないようだ
という質問を受けると

「それは夫のDVだ、一生治りません」とか
「子どもはうつ病だから薬を処方してもらいましょう」とか
人間の行動や感情が
その人の既に完成された人格であるときめつけ
家族分離を勧めているのです。

非科学的なエレナ・ベーカーの結果論の輸入を
それとも知らないで信奉しているカウンセラーが多すぎます。
どうもカウンセラーという人たちは、
偉い人、有名な学者が言ったということをもって
エビデンスとしている傾向があり、
正直辟易することが多くあります。

しかし、その固定人格の烙印を押された事例の少なくない事例に
環境的要因があることを目撃しています。
環境的要因を共有することによって
家族のきずなが深まり、
続く困難に立ち向かうことができた
という事例も多くかかわっています。

その環境の中の無視しえないものが
過重労働等の職場のストレスです。

「その旦那さんの出勤時間と帰宅時間はどうなっていますか?」
という一言から問題が解決することも多くありました。

環境的要因に目を向けると
根本的解決手段にアプローチできる可能性が高まるだけではなく、
解決行動を協働することによって
問題発生以前よりも良い結果が生まれることもあります。

お互いを支え合う行動ができるからです。

これに対して、相手の人格の問題と決めつけてしまうと、
家族に対する恐怖の感情が生まれてきます。
あなたは悪くない、それは精神的虐待だというアドバイスを聞くごとに
「自分が理由なくしいたげられている。
 自分は、相手からどうでもいい存在だと思われている」
という意識が固定化してゆき、
恐怖感、疎外感、相手に対する嫌悪感が募っていくようです。

相手の行動のすべてが、
自分を否定する行動だと意識されるようになり、
楽しかった出来事の記憶も
自分が馬鹿にされても耐えていたという意味の再構成が起きてしまい、
記憶の改変が起きるようです。

この悲劇をお話して一緒に考えてもらおうと思っています。

どんなに職場で辛いことがあっても
家庭ではスタンダードを維持しなければならない
ということは理想であって
人間観として端的に間違っていると思います。
だから実務的ではない、
つまり問題を解決しないのです。

弱い人間であることを前提として
家族が意識していない問題を顕在化させ
苦しみを共有するだけでも
人間は強くなれます。

職場のストレスは
対人関係的危険の意識を高めます。
いわば傷口が開いている状態です。

対人関係的危険を解消したくても
職場のストレスの場合はなかなか解消できないことが
多くあります。

職場という対人関係で開いた傷口ですが、
対人関係的危険意識ということで
家庭という対人関係の中でも
傷口が開いている状態なので、
些細なことで敏感に反応してしまうのです。

危険を防衛する仕組みは、
記憶の仕組みとかなり重なるのですが、
危険に対処しようとする神経活動が起きています。
防衛意識が過敏になっている状態です。

この神経活動は、それほど緻密なものではないから
対人関係の中で尊重されていないという傷口が
家庭でも閉じにくくなっています。

それで、過敏な神経にさわってしまい、
怒りという防衛行動が誘発されてしまう
ということが多くみられるわけです。

家庭を家族の安全基地にする作業こそが必要です。

また、労働者である当事者はなかなか職場に文句を言えませんが、
家族ならば職場に文句を言うことができることがあります。
憲法で保障されているのは労働者の労働組合ですが、
家族組合を作って、職場と交渉をするということも
アリなのかもしれません。

今の地域労組は、
家族も組合員となって団体交渉に参加する労組もあります。

もしかしたら、
働き改革を推進する力は家族にあるのかもしれません。
働き方改革の目的も、労働者家族の幸せにおくべきでしょう。

当日のお話は、
悲劇的なお話をいくつか行い、
環境の人間に与える影響を紹介し、
どのような支援をするべきだったのか
一緒に考えていきたいと思います。




 
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長期休みの最終日が辛い理由 結構みんなが辛い理由 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

長期休みの最終日が辛い理由

ゴールデンウイークや夏休みなど
長期休み明けは子どもの自死が増える
大人だって、気が滅入る。
今年(平成30-31)の年末年始は
9日間事務所が休みになったので、
私でさえ、出勤のことを思ってしんどくなったことがあった。

このように多くの人がそうだそうだと思うと
「そういうものだ」になってしまい、
思考が停まってしまう。

そして、単純に
学校や職場の人間関係の問題に問題がある
というような犯人探しに躍起になってしまう。
ところが、何が原因で、どう修正するかについても
まともな議論さえ広がらないのだから、
向こう岸の議論に思えてしまう。
要するに今困っている人にとって、
何の役にも立たない議論だということだ。

とりあえず対症療法を考える人も
いても良いと思う。

問題の所在は、
長期休み前は、その人間関係の中で
ともかくも生き残って
やってきたわけだ。

また同じことをやって生き延びればよいし
実際に多くの人間は休み前と同じように
困難をすり抜けて生きることができる。

つまり、休み前に耐え抜いていることが
休みを挟んでしまうと耐えられなくなる
この仕組みを真剣に考える必要があるのではないだろうか。

その人にとって休み前の生活、人間関係は、
おそらくかなりの緊張の連続だったと思う。
単純な緊張だけでなく、
複数のストレッサーがあって、
ひっきりなしに強い緊張が訪れて、持続して
しかも、顔がつぶされるとか、立場を失うとか
本気で参ってしまう危険を前に
強烈な緊張状態にあり、
局面においては、完全に孤立していると感じていたかもしれない。

これに対して家庭がうまくいっている場合は、
ストレスをあまり感じなくてよい。
だから緊張する必要が少ない。
副交感神経が活性化され、
生理的にはメンテナンスに適した環境になっている。
消耗した神経や血管が修復に向かう。

ストレスという交感神経が活性化された状態から
副交感神経が活性化され緊張がゆるみ切る状態である。

人間は、ストレスがかかり続けると
一気に破綻するが、
緊張がゆるみ過ぎると
行動を起こすことが難しくなるようだ。

通常は一日の内、大雑把に言うと
昼間に交感神経が活性化し
夜は副交感神経が活性化し
一日のリズムの中で活動とメンテナンスを行っている
(サーカディアンリズム)

おそらく、平日に学校に通っている日々も
このような生理的リズムがあるのだろう。
但し、
例えば学校で緊張状態が90ポイントになるとすると
帰宅しても60ポイントとかにしか下がらないのだろうと思う。
また明日のことを考えると
戦闘態勢を解除するわけにはいかないからだ。
朝起きた段階が60ポイントだとすると、
身支度を整えながら80ポイント近くまで上がっていき、
学校に着くころには90ポイントまで上げることは
おそらくそれほど難しいことではないのだと思う。

ところが、長期休みになって、
翌日に緊張のポイントを90にあげる必要がなければ、
日頃のストレス疲れの反動で
休みが続くうちにどんどん緊張ポイントが下がり、
10ポイントくらいになっているのではないかと思う。

10から90に持っていくことはなかなか難しいのだろう。
いきなり90ポイントまで上げなくてはならないと思うと
それはしんどいだろう。

もう一つ理由がある
学校でのストレスのかかる出来事が
対処方法抜きに思い出されてしまうという問題だ。
本当は緊張をしているにしても、
何らかの形でやり過ごしている。

緊張ポイントが高く維持されている時は、
嫌な奴の嫌みが来ても無視をしたり笑ってご増すという
処世術とセットになって思い出すことができる。
理不尽な先輩に会わないように
行動経路を工夫していたかもしれない。

ところが、緊張レベルが低い時は、
ごまかしの対処方法が思い浮かばず、
困難の場面だけが思い浮かんでしまう。
この結果、真正面から正攻法で対処することしか
思い浮かばなくなってしまうようだ。

真正面からの正攻法で対処して失敗した記憶だけが
その時窮地に陥った感情だけがぶり返すわけだ。

しかし、実際は
耐えきっているし、
ごまかしているし
先延ばししているのだ。
これをえいやっとやっているので、
緊張をしていない状態では、
思い出すことができないのだ。

ここまでのことをまとめてみる。

長期休み明けは
緊張ポイントが、通常時よりかなり下がっている。
このため、通常時が緊張状態だったことを体が忘れている。
困難な出来事を想定してしまうが、
緊張状態を作っての対処方法とることを思い出せない。
だから対処方法を思い出したとしても、
それがまたできるとは思われない。

真正面の正攻法での対処方法しか思い浮かばないが
やはりそれができるとは思えない。
出来ないからこそ嫌な記憶なのだ。

その結果、自分が顔がつぶされ、立場がなくなる
ということだけが頭を駆け巡る。
孤立と不可能だけが現実だと感じてしまう。
つまり絶望が起こりやすくなる。

しかし、原因が分かれば対策は簡単にできるかもしれない。

先ず、対処方法を思い出す方法がある。
休みの日学校の近くまで行ってみるということだ。
誰もいない教室に入れればなお良い。
誰もいない教室で一人でいると
なんとなく天下を取ったみたいに安心できる。

実はこの年末年始私も誰もいない事務所に何回か行った。
部屋の片づけをしなくてはならないという
差し迫った必要性があったから行ったのだが、
やはりなんとなく落ち着いた。
私の場合特に理由のない不安というか焦りというか
そういうものを持っていたのだが、
誰もいない事務所に座って仕事をしていると
そういうマイナスの気持ちは
自然と薄らいでいった。
年末年始の間、何回か事務所に足を運んだ。

環境の中で記憶が喚起されるという側面がある。
何とかなってきたじゃないかという自信みたいなものも
湧いてくるだろう。
実際、多くの不安はなんとかなるものである。

次の方法は、
あまりまじめに考え過ぎないことだと思う。
実際休み前は結構適当にやっていたはずだ。
勉強や仕事に関しては適当にやっても困るが、
人間関係については、結構
耐え抜く、ごまかす、先延ばしする
でしのいできたはずだ。
卒業すれば会うことも無くなる人間とは
そんなにまじめに決着をつける必要もない。

逃げられるところは逃げることも勉強だ。
逃げ込むべき場所、逃げ込むべき人は
えり好みしなければ見つかる。
逃げられる時間は確実に逃げよう。
ずるいと思っても、自分が一番だ。

色々困難な現実があり、
不合理な攻撃を受けることも
勉強だ。
危険や困難があっても
一時しのぎや自信をもてる自分のフィールドを作ることも
若いうちに経験しておくとその後役に立つだろう。

一人で打ち込める楽器、読書、収集
それからいざと言うとき守ってもらう家族に
前もって奉仕しておくこと、
できることはやっておいてよいだろう。
自分の危険の程度がそれでわかることがあるので、
よくよくの時に逃げ出すという選択肢を持つことができる。

困難を乗り切ったら自分を癒す方法があると
本当に困ったときも立ち直ることができる。

長期休み明け、
学校に行きたくないのはあなただけではない
原理を考えると誰にでもあることなのだ。

学校に行きたくて仕方がない人というのは、
家庭の中にいる方が緊張を強いられる人だと
憐れむくらいでちょうどよいことになる。

でもだいたいは学校に着くころは、
緊張状態も上がっていき、
行きたくなかった記憶も薄れてくることが多いだろう。

学校で色々嫌なことがあっても
前日に布団の中で嫌がっていた状態よりは
幾分過ごしやすいことが分かるはずだ。



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「かわいそうだからやめる」ということがなぜできないのかの研究メモ [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



最近、お話に行くときの肝で使うフレーズです。
パワハラでも、長時間労働でも、いじめでも、夫婦問題や虐待でも
結局
自分がしていることで、相手が苦しんでいる状態にあると気づいて
ああ、かわいそうだから、これ以上はやめようとか
これから自分がすることが相手を苦しめることなので、
やっぱりやめておこう
ということができない現象なのだと
そういうことを言っています。

かわいそうだからやめるということは
本来、人間のが自然と行う行動原理のはずです。
(本来というのは200万年くらい前のことです)
ところが、人間が所属する群れが複雑になってきたので、
この「本来」が通用しなくなってきたと
つまり環境の変化に適応できないために
こういう現象が起きているのだと考えています。

だから、かわいそうだからやめるようにしようという「人権教育」は、
もともとある人間の志向を際立たせるということなので、
案外理性的に効果を上げるだろうと
のんびり考えているわけです。

ところで、「かわいそうだからやめる」ということは
分析的に考える必要がありそうです。
つまり、言葉ではそれだけですけれど
意味を考えると、いくつかの言葉が省略されているということです。

だから、本当は、
「相手が苦しんでいることがわかりました。
 それは自分の行為によって相手を苦しめているようです。
 相手が苦しんでいると自分も苦しくなります。
 自分の苦しさを止める意味でも
 相手が苦しむ自分の行為をやめます。」
ということになるはずなのです。

これを要素に分けますと、
①相手の苦しみの認識(客観的評価)
②自分が相手を苦しめている(因果関係の把握)
③苦しんでいる相手がかわいそう
④自分も苦しくなる
⑤相手を苦しめている行為をやめる(行動)

という段階です。
これがどうしてできないのかについて考えてみます。

①の相手の苦しみを認識できない事情とは何か
通常は、相手の表情などを見て把握できるのですが、
メールやラインなどのインターネットの場合は
文字情報しか相手の情報がなく、顔も見えませんので
脅えていたり、泣いていたりという
実際の相手の表情が見えません。
インターネットの場合、そもそも①が把握できないということになり、
かわいそうだからやめるということができなくなる理由がありそうです。

この他に、似たようなケースですが、
相手がどこにいるかわからないけれど何らかの攻撃をする場合も
同様に「かわいそうだからやめる」という思考にはなりません。

相手が店員さんとかサービス業の人とか、
下請の業者の人とか、立場が弱くて
不愉快な表情をできない人に対しても
①が成立しなくなる可能性があります。

関連すると、相手は、苦しんでいないはずだ
という思い込みがある場合も、
①が成立しません。

他者を使って攻撃する場合も、
「攻撃するように」と命じるだけで
相手との矢面に立たない場合
上司だったり、親分だったり、いじめの首謀者だったり、
①が成立しません。

いじめの被害者は、いじめられるときに感情を隠蔽しますので、
①が成立しにくくなる傾向にあるようです。

ちょっとレベルが違う話ですが、
とにかく相手を見ない、見ないようにする場合も
①が成立しません。

ちょっとコメントすると
相手の感情を見ないから相手が苦しんでいるとわからなかった
というのはダメなんでしょうね。
「こういうことをすれば、相手は苦しむはずだ
 だからやめよう」
という発想が必要で、
学校のいじめや職場のパワハラ、セクハラでは
そういう論理で行かないと防止できないし、
ネット被害なんかもそうなのだろうと思います。

②自分の行為が相手を苦しめている
ということが分からない場合

よく言うことは、自分を守っている、仲間を守っている
という場合です。
相手が攻撃してきているのだから自分を守る
という無意識の行動をしている場合は、
相手が苦しんでいることも気が付きにくいですが、
相手が苦しんでいることに気がついても
相手が自分のしたことで苦しんでいると考えやすいようです。

自分自身が相手を苦しめている
という発想にならないようです。

防衛行為と似たような行為としては
正当行為、必要な行為だという意識がある場合、
簡単な例を出せば、勉強しない子どもを叱る場合、
親が「勉強しろ」とやかましく言うから子どもが苦しんでいると思わないで、
子どもが勉強しないで自分勝手に苦しんでいる
と思うようです。

パワハラの場合も
自分が過剰叱責をするから苦しんでいるのではなく、
親の育て方が悪い、性格が悪いから
会社でうまくやって行けずに苦しんでいる
と解釈してしまうようです。

相手が了解していることだと考える場合も②が成立しないようです。

また、自分の行為が相手に与える影響を正当に評価できない場合も
自分の行為のために苦しんでいるとはわからないでしょう。
多少苦しむかもしれないけれど
実は重い苦しみを与えているというケースはありそうです。

感じ方が人によって異なる
ということはわきまえておく必要がありそうです。

③と④
相手がかわいそうだと思って自分が苦しくなる
これは実は一つのことです。
共感とは、相手方の感情の追体験です。
苦しみの追体験なわけです。

相手が、例えば親が死んで悲しんでいる時に
自分も一緒に泣くということは、
自分の親が死んだような感情を持ってしまう
つまり悲しいということが共感の理論です。

相手が戦場にいて、命の危険があるという映画を見た場合も
自分も命の危険があるかのように
からだは生理的な反応をするようです。

もっとも、本人ではない場合は
その反応の強さにはずいぶん違いがあるので
プチ追体験みたいなものですね。

この共感が豊かに起きることこそ、人間を人間たらしめている事情です。
これができたので、逃げることも闘うことも劣る人間が
今まで生き延びてきたのだと思います。

この追体験ができない事情があると思います。
要するに人間性を喪失する事情です。

一番切ないのは、
自分が同様の苦しみを味わいつくしたので、
自分が同じことをされたとしても、
もはや苦しいとは思わない
という場合です。

また、自分の置かれている環境が厳しすぎて、
他者の苦しさに追体験する余裕がないという事情もあります。

相手と敵対している時に、相手に共感できない
ということも興味深い現象です。
同じ人間であっても、あるいは人間だからこそ、
一番の敵が人間だったという歴史があるようです。

基本的に人間は、人間を見ると味方だと思うようです。
しかし、相手から攻撃されてしまうと、
相手は、人間ではなく、クマやオオカミと同じように
「敵」ということになり、
仲間という感覚が生まれなくなります。
そうだとすると共感が起こらないようです。

但し、後に冷静になると、
記憶の中では人間という仲間を攻撃してしまった
ということになるようです。

問題は、というか、今考えていることは
人間は、敵だという意識がなくても
「共感を任意に拒絶できるのだろうか」
ということなのですが、この問題はここでは割愛しましょう。

最後⑤ 行動を停止することができない場合です。

相手に共感して、自分も苦しいけれど
戦争とか、上司のパワハラとか、
自分が行為をやめることによって、
今度は自分がもっと苦しい立場に立たされる
という場合も行動を停止できない場合なのでしょうね。



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「自己有用感」の概念整理とメリット、いじめ防止概念としてのデメリット [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


1 「自己有用感」の概念

  現在いじめ防止について、各自治体で取り組みを強めている。
  その中で、いじめ防止に有用な概念だということで「自己有用感」というタームが使われることがある。このタームの仕様については、有益である側面を認めつつも、デメリットもあるのではないかということで取り上げる。
  「自己有用感」とは、日本の文部科学省管轄の中で、一部有力に唱えられている概念であり、ごく一部では労務管理理論の中でも取り入れられている。その定義は「他の人の役に立てたことによる満足感や自信」等とされる。
  この概念は、「日本型ピアサポート」という教育実践理論の中において、育てられてきた概念である。やや回りくどくなるが、説明をする。
「ピアサポート」とは、一般には、同じ困難な課題を抱えた者同士が、仲間を作り、助け合い、支え合う活動を言う。遺族の会とか被害者の会とかはピアサポートと言えるだろう。教育現場においては、これとは異なる意味で使われている。「ピア」(peer)を文字どおり「仲間」という概念で使用し、「子ども同士によって」とか、「教師や保護者を抜きに子どもだけで」という意味あいで使用している。イギリスの、ピアカウンセリングという活動から始まっていると思われる。イギリスのピアカウンセリングとは、選ばれた生徒がある程度のカウンセリング技術を習得し、下級生などのカウンセリングを行うもので、いじめ防止などの効果等を期待されるという。日本型ピアサポートの論者によると、ピアカウンセリングは、イギリスという上級生下級生の形を作りやすい伝統に適合するものであり、日本の6,3,3制の学校制度にはなじまないこと、カウンセリング技術の習得が困難であること、一部の優秀な生徒だけが恩恵を受けるということ等から取り入れられないと批判している。そして、カウンセリングではなく、共同活動の中で自己有用感を獲得することを目指した、日本型ピアサポートという活動を行うこととした。ここでの共同活動とは、異年齢交流、職場体験、地域交流等とされている。
  自己有用感の周辺概念は、自己肯定感、自己効力感がある。これらの概念との違いを述べる必要がある。
  自己肯定感とは、自己否定の対義語で、自己の存在等を肯定する概念である。現状に対する満足、安心感、生まれてきたことの喜び等が含まれる。自己肯定感と自己有用感の違いは、自己有用感とは他者とのかかわりの中で獲得したものであり、他者から与えられたものではなく自分で獲得した感覚であるというところにある。概念的には、自己有用感は、自己肯定感を獲得するための一つの手段と位置付けられるべきであると考える。
  自己効力感との違いも簡単に触れる。自己効力感は何らかの課題、目標を立てて、それを実現することによって得られる感覚であるとされる。違いは、自己有用感は他者とのかかわりの中で獲得するというところにある。
  自己有用感という概念は、教育上一定のメリットのある概念であると思われるが、極めて狭い範囲でのみ流通している概念である。

2 「自己有用感」のメリット

  人間の安定した精神状態が、他者との特に仲間の中での自分の存在の状況を反映しているということに着目している点は卓見だと感じる。このような自己有用感を獲得することによって、精神的安定の獲得に資することは間違いない。また、知識を詰め込む方法ではなく、体験を通じて獲得するという点にも魅力を感じる。
  また、自死リスクに関するこれまでの議論とも整合する。「役割意識の喪失」が起こると自死リスクが高まるという議論がある。例えば、勤労による収入で家族を支えていたという自負のある者が、リストラにあったり、会社が倒産したり、自らが健康を害したりして失職をすることによって、役割意識が失われ、自死リスクが高まるというような形で使われる。自己有用感は、役割意識の喪失の対義語的な概念だとすれば、これまでの議論に整合する。

3 「自己有用感」獲得過程への疑問

  自己有用感発生の活動として、異年齢交流、地域交流、職場体験が指摘されているが、教育関係の議論がよくわからないためか、私には理解が難しい。
異年齢交流は、昭和の高度成長期のあたりには普通に見られた、地域での異年齢の子どもたちの集団的な遊びのことを言うと思われる。確かに年長者は、年少者の面倒を見て、秩序をもって遊んでいたことは私も体験している。しかし、その中で、本当に自己有用感を獲得できていたのかについては疑問もある。通常みられる異年齢集団は、小学校低学年以下の小集団であると思われるが、この時期の年齢差は、力の違いに顕著にあらわれ、力の強い者に力の弱い者が従うという秩序も一方であった。また、面倒を見ている年長者は、同年齢の者たちと対等に付き合えない者が自分より低年齢で、言うことを聞く者たちを束ねていたという側面もあった。下の子どもたちは、年齢の上の子と遊ぶ楽しさ、実年齢よりも上の自分を体験した充実感もあったが、理不尽な扱いに我慢を強いられたということもあったと思う。必ずしも、積極面だけがあったわけではない。
  異年齢交流によって、仮に自己有用感が得られたとしても、それによって同年代の子どもたちのコミュニティーに有益な効果があったかということについて得心は行かない。小学校のいじめ事件で、低学年の児童に対して面倒見の良かった高学年の児童がいじめにあったという事件もあった。低学年との交流の中で自己有用感を獲得していたとしても、それがどこまで効果が持続するのかも疑問だ。いじめの加害、被害の中でそのようにして獲得した自己有用感が何かの役に立つということについて、もう少し丁寧な説明が必要だと感じる。異年齢交流よりもむしろ自己有用感論者が指摘する、昔の子どもたちが、親の手伝いをして、家庭の中で役割を果たしていた、そこで自己有用感を持ったという主張の方がよく理解できる。
  職場体験や、地域交流が自己有用感を獲得することに有効であるということは、自分の子どもたちの職場体験や地域行事への参加の様子を見てもよく理解できないところである。職場体験などは、特にその職場によって体験内容が異なる。地域の大人たちへの尊敬や、実際の職場の理解については有益な体験だと実感できたが、自己有用感と結びつくということは感じられない。地域交流について、夏祭りなどの参加をもって自己有用感を獲得するとする主張があるが、これは全く理解できない。地域交流の中で、低学年の児童を高学年の児童がお世話をするという体験を通じて、自分よりも弱い者に対していたわるとか、支えるという体験は貴重だと思うが、自己有用感という概念が必要だということは理解できない。
  また、自己有用感概念はピアサポートの議論を前提として論じられているため、ピアサポートの形態が自己有用感の概念にも影響を与えている。ピアサポート論者は、自己有用感は、大人が与えてはいけない感覚であると主張する傾向にある。
  例えば、論者は、褒め育てとの違いを強調する。褒め育てで獲得した自己肯定感は脆弱であると主張する。私は、この点は、大人が子どもの何をほめることが有効かという議論に置き換わらないものかと考えている。つまり、無条件の自己肯定感に対応をするようなほめ方、つまり根拠のない褒め方で獲得した自己肯定感は脆いところがあるかもしれない。しかし、子どもが何かできた時に、その行為と結果、あるいは行為ないし努力に対して肯定的な評価をすること、特に他者とのかかわりにおいて役割を発揮したことに対する大人の肯定的評価は、子どもの自己有用感も育むのではないかと感じている。要するにピアサポートの場面以外においても、本来自己有用感は獲得できるのだと思う。大人たちの関与失くして自己有用感を獲得できるのかについては極めて懐疑的である。
付言すると、子どもたちが家庭の中で役割を与えられないということは、このような役割に対する親の肯定評価を受ける機会が少なくなっているということかもしれない。
まとめると、論者の言うように、自己有用感は、理屈通り獲得できる物なのかということに疑問がある。特に自己有用感を普及しようとする論者が直接子どもを指導する場合を想定することはできず、自己有用感プログラムは実際の教師が実践するということを考慮した場合を想定しなければならない。また、地域交流などにおいては、教師が関与しないことも想定しなければならない。自己有用感の追求は、果たして時間や労力という費用に見合うものなのかを検討する必要があるように感じられる。

4 「自己有用感」概念をいじめ防止のツールとすることの危険性

  自己有用感の概念は、危険性をはらんでいる。自己有用感概念は、自己肯定感を獲得する方法としては意義があると思う。但し、自己肯定感についても、自己有用感の追求抜きにも獲得することもできる。たとえそれが脆い物であっても、繰り返し自分が尊重されているという体験を通じて、自己肯定感を獲得し得る。家族など基盤となるコミュニティーにおいて自己肯定感を獲得することは、家族をはなれた他者とのコミュニケーションにとっても有効に働く。
  このような自己有用感の獲得の中で、特に自己有用感を優先させて実践することについては、以下の危険性ないしデメリットを考えなければならないはずだ。
  問題点の第一は、自己有用感を獲得する条件として「誰かの役に立たなければならない」という思考、あるいは「有用なものだけが精神的安定の獲得が許される」という思考に陥る危険があるということだ。
  これは、子ども人権や子どもが学校という公的な人間関係の中で自分が尊重されていると感じる条件として、他者との中で有用でなければならない、他者の中で評価される行動をしなければならないというものを競ってしがちになる危険があるということだ。
現在、政権与党の議員から、例えば憲法を改正して、生まれながらに権利を有する天賦人権説を排斥しようとか、義務を履行した者が権利を行使できるとか、個人よりも国家が尊重されるべきだなどという発信がなされて物議をかもしている。これらの考えは、世界標準の人権概念と相いれない。日本国憲法にも反する内容である。法律家とすれば、驚愕する内容であり、良識を疑う主張であると感じる。
これらの考えは、権利や安心を獲得するためには、バーターとして他者の役に立つことをしなければならないという考え方に親和してしまうのではないかという不安が半ばを過ぎる。
このような懸念は国立教育政策研究所のリーフの記載内容によってより高まる。リーフにおいて「自尊感情」よりも「自己有用感」の育成を目指す方が適当だと明示している。この根拠のひとつとして、自己有用感の育成過程において規範意識の重要性を組みこんで育成を行うことができるという趣旨が記載されているからだ。
  ここでいう規範意識の内容や規範意識を持つための方法論などデリケートな問題がある。規範は多義的な性質をもつ内容があるからだ。例えば、「人を傷つけてはいけない」というものも規範である。これは、自然な感情と合致する規範である。しかし、行政法規、例えば建築基準法上の建物の高さを守らなければならないという高さは、きちんと法律の知識を獲得しなければ得ることができない。このように規範には自然規範というべき規範と法定規範とでも言うべき規範がある。私は、児童生徒の段階では、学校生活のルールを守るということについては、ルールである以上守らなければならないという規範意識(最小限の規範遵守の意識)を持つことは、学校運営の実務上必要なことであると思っている。しかし、いじめを防止するための規範意識を育む教育が、このように自分の感情から離れた規範、あるいは感情が追い付かない規範を無条件に守るという行動を要請するものであっては、あまり効力を期待できないと感じている。禁止事項を増やせばいじめが無くなるというものではない。必要な教育は、自然規範がなぜあるのかという規範や道徳の心とも言うべき点であり、これが相手に対する思いやりであり、相手の苦しい気持ち、怖い気持ち、寂しい気持ちなどに対する共鳴、共感の心を育むことであると私は思う。リーフレットが言う規範意識の重要性を組み込んで育成を行うという意味が、社会的に守らなければならないことを守ることを条件としてのみ得られる自己有用感の獲得を追求するということになってしまうと、日本国憲法や教育基本法などの教育主体が律せられる国家規範に反することとになってしまうという懸念が払しょくできない。
  問題点の第2は、自己有用感を獲得できた子どもたちとできないことどもたちの格差を、子どもたちが感じてしまうのではないかという危険があるということだ。
  例えば、実際の中学校の例で、グループに分かれ、それぞれグループの構成員の良いところを3つずつ発表するという指導がなされていた。クラスのリーダー格の生徒は、他者から、役に立つ点を指摘され、誇らしい気持ちになった。ところが、いじめを受けていた生徒は、全く評価されないという攻撃を受け、あるいはとるに足らないところを、例えば給食を残さないで食べる等、指摘されるにとどまった。自己有用感の授業が新たないじめの場に使われてしまった。この授業も大きな原因となり、対象となった生徒は長期不登校となった。
  いじめというまで極端な例がなくとも、また、発表しあうということをしなくても、大人の視点にしろ、子どもの視点にしろ、役に立つ、活躍する子どもと、そうではない子どもの格差が自己有用感獲得のための授業をすることによって際立ってしまうという危険性は常に存在する。これは、自己有用感が他者とのかかわりの中での評価にまつわる感情であることから、不可避的につきまとう危険なのである。
  しかし、自己肯定感の獲得や人権教育の観点からすると、このような格差を子どもたちに共有させることは問題が大きい。無駄に役割喪失感を掘り起こす危険があるからだ。人の役に立たない人間であると子どもなりに評価してしまうことは、いじめの危険も作ってしまう。
  もっとも、自己有用感を主張する論者も、子どもが役割意識を持たなくても自己肯定感を持つことを否定しているわけではないだろう。しかし、現実の実践の場面においては、自己有用感の獲得を追求し、その他の方法での自己肯定感獲得の努力をしなくてもよいのだというようにとられかねないということである。  
5 まとめ
  以上から、「自己有用感」概念は、うまく獲得すれば、自己肯定感、自尊感情獲得に有益である側面がある。しかし、実際の教育現場においての獲得過程においては不透明であり、かつ地域などとの連携には課題が大きすぎるように思われる。また、他者との関係での役割を果たすこととバーターとして獲得できるものだとすると、大いなる取りこぼしが起きるのではないかという不安と、果たした役割の程度の問題によって自尊感情が低下する子どもが生まれたり、いじめの口実になったりする不安が払しょくできない。日本型ピアサポート論者が、イギリスのピアカウンセリングに対する批判(実践のための技術の困難性と、一部の者に対する恩恵)が、結局自己有用感獲得概念にそのまま当てはまるのではないかという疑問がある。現段階においては、少なくともいじめ対策に限定して考えた場合、自己有用感の獲得を基軸とすることは時期尚早ではないかと思われる。

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和を以て貴しとなす。17条憲法は思ったより哲学だった。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

厩戸皇子が自らしたためたという17条憲法
7世紀ころの文章であることはどうやら間違いではないようです。

その第1条が和をもって貴しとなるという文章から始まるわけですが、
うっかりすると、
人間は相互に仲良くすることが一番だ
という意味にとられてしまうことがあるようです。

それであれば根本的に意味を取り違えていることになると思います。

本当は漢文で書かれているのですが、
読み下し文で見てみましょう。


一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

これが、1条の全文です。

和が「やわらぎ」と訳されていますが
「わ」の方が意味が通じやすいように思われます。
私は、仲良くするという意味ではなくて
「一体となろう」という意味だと思うのです。

どうして和が達成できないかが次にかかれています。

それは、一部の者が徒党を組むことによって、
全体の利益を損ねるということが書かれているようです。

対人関係学的に言えば
複数の群れが併存しているために、
一部の群れの利益だけを追及すると
全体が害されるという主張ではないでしょうか。

一部の群れは、群れの中では仲が良いのです。
おそらく、血のつながりであったり住んでいる地域の仲間であったり
自然と、互いの利益を第1に考えようとする条件があるのでしょう。

また、人間は、どうしても身近な人間の利益は考えることができるし、
それを追及しようとするのですが、
そのことによって別の人が不利益を受ける
ということを洞察することができないし、
また、見知らぬ人の不利益はあまり気にしない
という間違いを犯しやすい
ということがあります。

このため誰かと仲が良いことが
かえって誰かを傷つけたり
全体の利益を害したりする
だから、一筆書きの輪のように
全体の利益を考えていこう
特定の人たちの利益を考えることはやめよう
ということを決まりごとにしようということだと
私は思います。

17条憲法は、そのあとの条文をみても
一般的な道徳を説いたものではなく
あくまでも統治の原理を示したものです。

皇族が、豪族の中で相対的に有力であるに過ぎないという
政治勢力地図の中の時、
外国からの圧迫も置き始めていたので
日本は、結束して外国と対抗しなければならない時代でした。

こういう時代に即して
国の統治をするための最も必要な事項が掲げられているのではないでしょうか。
その意味で、立派な憲法と呼ぶにふさわしい内容になっていると
私は思います。

そして単に豪族たちが相争うことをするなということでなく、
和をもって貴しとするということですから
なんともポジティブな表現ではないでしょうか。

注目するべきは
第1条も、最終である第17条も
合議制を説いているところです。

十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(略)

少数の集団が、こそこそと利益を追及すると
どうしても全体としては損害を被ります。
正義が交代してしまいます。

堂々と公にしたうえで、
良いものは良い、悪いものは悪いと
議論するという方法を取れとのことが記されています。

但し、自分の利益を主張し合うのではなく、
全体の利益を考えること
これは、現代の為政者も耳が痛いのではないでしょうか。

また、これは国家だけの原理ではありません。

対人関係すべからくそうでしょう。

物事の見通しのない人は、
誰かを助けようとするとき、
その人の感情を第1にすることが正義だと思ってしまいうようです。

しかし、人の感情、負の感情は
人と人との関係の中で生まれることが多いわけです。
誰かと対立しているようなとき、
負の感情をあらわにしている人を助けようとすることは人情です。

「そんなことされたの?それはひどいよね。」
と、悲しい顔をした人を見たら言ってしまいそうです。
しかし、紛争は、その人とその人の関係者の間で起きていることなのです。
その人の不安を肯定してしまうことで、
その人とその人の関係者の仲に亀裂が生じてしまい、
結局その人も今よりも苦しい立場に陥ることが
実際には多くあります。

国家という大きな話ではなくても
人間の関係を考えてみると
夫婦、友人、取引関係もそうですが、
関係の一部だけを優遇しようとすると
元も子もなくしてしまう
だから、問題になっている人間関係全体を
高めていく方向で修復することが
必要な視点ということになります。

最後にいじめが起きる典型的パターンをお話しします。

AさんとBさんは元々仲良しでした。
CさんやDさんは、自分たちも仲間に入れてもらっているけれど
AさんがBさんを優遇するので少しわだかまりがありました。

Aさんは、Bさんを大事にしていて、
Bさんとだけ一緒にいることができれば良いと思っていました。

でもBさんは、いろいろな人と仲良くすることができます。

Aさんは、Bさんが自分を大切には思っていないと感じてしまいます。
Aさんは、最初はBさんをつなぎとめようと必死になります。
わざと意地悪をして気を引こうとしたりします。
Aさんは、CさんとDさんを利用して
これ見よがしに、Bさんに対して内緒話をしたりするわけです。

CさんとDさんは、
Aさんが悲しんだり怒ったりするので、
Aさんに感情移入していきます。
Aさんを助けようとして、
「本当にBさんはひどいね」
と、Bさんが何も悪くないのに
Aさんの不安を肯定してしまいます。

いつしか、意地悪がエスカレートしていき、
Bさんは3人から無視されたり嫌がらせをされたりします。

この段階では、学校は、「相性が悪い」
ということで済ませようとして介入しないことがあります。
しかし、この段階で3人以外に加害行為をする人が現れると、
Bさんは、いじめても良い人だという烙印を押されて
いじめが完成するのです。

他人の悩みや悲しみに首を突っ込むならば
全体としてのその人の人間関係を考えなければなりません。
目に見える感情にだけ対処しようとすることは
人間関係破壊することです。

まさにそれがいじめそのものであることが
多い。

和を以て貴しとなす

私たちの時代でも
鋭い輝きを放っていると
私は思います。


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どうして身近な人間である級友を消耗させるまでいじめることができるのか [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

前回、いじめの手法は、200万年前の
人間の狩りをする手法と同じで
相手が消耗するまで集団で追いつめることだ
ということをお話ししました。

しかし、当時の人間が狩りをしたのは、
あくまでも、人間ではない動物だったはずです。

むしろ当時は、全員が平等であることが原則で、
特に弱い者を擁護、援助していたはずだということも言いました。
理由は、そうでなければ、厳しい自然界で
人間という中途半端な動物が
生き残ることができなかったからだとも言いました。

では
そのように仲間と一体化する習性のある人間の私たちが
どうして仲間であるはずの同級生を消耗するまで追いつめることができるのでしょう。

通常いじめの研究をするときは、
どうしていじめたくなるのかというサイドに光が当たりますが、
どうしていじめることができるのか、可能なのか、抵抗が無いのか
ということにこそ光を当てるべきだと思うのです。

人間はいじめをする本性があるという
非科学的で大雑把な議論は何の役にも立ちません。

一番考えなければならないことは、
心は200万年前からあまり変わっていない
つまり人間は自分と同じ群れ(人間関係)の人間からは
尊重されていないと、とてつもなく不安になり
尊重されようと自分の行動を修正しようとする習性をもっていて
それは現代でもそのままだということです。

しかし、人間を取り巻く環境
特に人間関係が様変わりしたことに着目しなければなりません。

200万年前であれば、人間は
生まれてから死ぬまでただ一つの群れに所属するだけでした。
そこで赤ん坊が子どもになり、大人へと成長し
子どもを産んで育てて、一生を終えていたわけです。
狩りをするのも同じ群れのチームで行いました。

(ただ、繁殖がどのように行われたかについては
 別考慮をするべきではないかと思いますので
 繁殖に関しては除いて考えます。)

自分以外の人間 = 群れの構成員
だったのです。

人間のテーマの「生き残るということ」と「群れが存続すること」と
ほとんど重なったはずですから
群れの仲間は、非常に濃い仲間、運命共同体だったはずです。

ところが現代は、
家族以外にも、学校、職場、地域、趣味のサークルなど
人間は様々な群れに属しています。
そのほとんどが期間限定です。

現代では、家族さえも、
簡単に別離ができますし、
職場の都合でリストラなんてことも起こりうる時代です。

同じ学校に通う生徒だと言っても
みんな家庭や部活や習い事という群れに同時に所属しています。
200万年前では考えられなかったこととして、
ある群れの人間関係が他の群れの影響を受けて変容する
という可能性が生じているのです。

みんなで助け合ってテストの答えを完成させる
なんてことを言ったら相手にされないでしょう。
家庭の思惑が、子どもたちの行動に当然に反映されてしまいます。

また、せいぜい数年の期間限定の群れだということで、
群れの帰属意識はそれほど強くならないことも仕方がないことでしょう。
200万年前の群れに比べると
現代の中学校などの人間関係は
とてつもなく薄いものだと把握しなければなりません。

そのような薄い人間関係でありながら
なんとなく利害対立を感じながら
協力し合う関係という意識付けの無いまま
狭い教室に押し込められているわけです。

さらに社会的背景として、
同僚と競走をしなければならないという
過当競争の意識付けだけは注入されているのが
現状ではないでしょうか。

例えば中学卒業後の進路である受験を考えると
学校の生徒たちも
一応競争相手という利害対立する関係かもしれません。
実際の受験、合格者合格率を考えてみれば
数人が同じ学校を受験したところで、
合否にそれほど影響はないでしょう。

しかし、
校内選考等で、上位何人かに入らないと
その高校を中学校が受験を事実上許さない
なんてことになると利害対立が先鋭化してしまいます。

さらに、受験の結果
例えばある人は倒産の恐れの無い大企業に就職できて
老後も社会保険に守られる結果となる。
しかし、ある人は、期間限定の仕事しかなく
次の就職の心配をしながら低賃金で働き、
老後動けなくなったら、わずかな国民年金に頼らなければならない
ということになると、
受験競争の意味あいが異なってきて、
無駄な競争意識が蔓延していくことになります。

自分の興味関心や能力、向き不向きで仕事を決めるのではなく
老後の安定、収入だけが決定要素になりやすいという
事情も生まれてくるでしょう。

不安感は嫌が上にも増強していきます。

では、試験ではなく、推薦で入学をする場合
学力推薦でもスポーツ推薦でも
何か間違いを犯したら推薦がだめになります。
こういう状態が続くことはかなりのストレスになります。
常に自分を評価する人の目にさらされ続ける
という意識が生まれるかもしれません。

あるいはそれは学校ではなく
親の目が最大のストレス要因かもしれません。
本当は十分幅のある道なのに
とてつもなく細い道の上をバランスを取りながら
ようやく歩いているという感覚になっていくのではないでしょうか。
一発試験と違って
学校の評価を365日3年間気にし続けなければならなくなります。

いじめをする側で増えているのは、
学校の中の勝ち組である将来有望な人たちだということが傾向だとすると
このような原因があるはずです。

自分の群れは、全く関係の無い同級生ではなく
自分を評価する権限のある教師や親だとすれば、
同級生に対する群れ意識はますます希薄になっていきます。

このように人間関係が希薄化するのは、
今現実に生きている環境は仮の群れで
本当に自分が所属するべき群れは別にある
という意識付けがなされると加速していくことになります。

さらに、希薄化した人間関係、
群れ意識、仲間意識を持てない人間関係の中では、
人間は、人間に対してあるべき思考を失います。
それが怒りのメカニズムです。

不安感を抱いた時人間に限らず生物は
何とか解消したいという気持ちになります。
不安を作る者に対して攻撃して不安を解消する場合の心もちを
「怒り」と言います。
不安から全力で遠ざかろうとして逃げている場合の心もちを
「恐怖」と言います。

不安を解消するためには、
合理的に対策を考えることが根本ですが、
まず最初に人間がしてしまうことは、
怒って攻撃するか
恐れを抱いて逃げるかのどちらかです。

ところが、不安が将来に対する不安であったり、
評価者から自分がどうみられるかについての不安である場合、
そのような社会制度や親のプレッシャーに
怒りを持って対応しても何も不安感は解消されません。

また、不安があるからと言って
学校に行かないわけにもいきませんので
恐怖を抱いて逃げるわけにもいきません。
そもそもどこに逃げても不安は解消されません。

それでも何とか危機感、不安感を解消したい。
こういう中途半端な状況が蔓延しているのが今の中学生ではないでしょうか。

こういう場合、つまり危機感、不安感を感じているのに
上手に解消できない場合に起こる現象が
可愛く言えば八つ当たりです。
自分よりも弱い者が自分に対して行う
些細な侵襲行為に大げさに反応して
「自分を守る」という言い訳を持ちながら、

わずかな侵襲(たとえば気に入らない)を口実に
社会制度によって抱かされた不安を重ねて
弱い者に怒りをぶつけるということです。

ただ、その怒りのぶつけ方は
ストレートに暴力や暴言として表現されるだけでなく、
執拗に追い詰めていく200万年前の狩りのスタイルが
行使される場合も少なくないということなのです。

いじめが起きるとき、あるいは仲違いがいじめに転化する時
いじめる側にとっていじめのターゲットになる者は、
仲間ではないのです。
自分を攻撃する加害者と烙印を押すのです。
即ち、人間としては扱わないということになります。

だから自分を守るために攻撃し、
加害行為がルーチンになるうちに先祖がえりをして
執拗に追い詰めるようになるわけです。
共犯者は、
加害者を守る、共感を示すという錦の御旗をもって、
ターゲットを攻撃するようになります。
やはり、追いつめ型狩りが始まります。

いじめを受けるターゲットに
いじめの原因を求めることはナンセンスです。
どのように生きていても
誰かに迷惑をかけなければ自由に生きていって良いはずです。
間違っても、いじめられる、即ち
人間扱いされない仕打ちを受ける理由はありません。
さらには、加害者の怒り、攻撃動機は八つ当たりに過ぎないからです。


いじめをする側の思考力の低下がも指摘しなければなりません。

将来などの不安が蔓延している場合は、
交感神経の活性が持続化し、慢性化している状態になります。
試験勉強の様な頭の使い方を日常ではしませんから、
このような生理的状況は思考にストレートに影響を与えます。

それは、
将来的な展望をもって現在を把握することができない
今目の前にある課題だけが検討課題になる
他人の気持ち感情に共鳴、共感する能力が少なくる。
誰かが肯定してくれることを志向し、自分の価値観で行動できない
多数派に居続けなければ安心できない
という思考パターンに陥ります。

この結果、多数の人たちがいじめているのだから
ターゲットはいじめてもよい対象なのだ
という考えに安易に飛びつくようになります。

感情が豊かな教室の実力者が攻撃しているのだから、
その攻撃に乗ることが
自分が評価されるチャンスだと思っているようです。

いじめのターゲットはいじめの加害者たちから人間扱いされていません。
少なくともいじめをしている時はそうです。
夢中になって追いつめているわけです。恐ろしいことです。
だから、ターゲットがどのような気持ちになっているのか
等ということを考えたりできないようです。

後で落ち着いて考えると
とんでもないことをしたという気持ちになることが多いのは
そういうことです。

このようないじめの特質を踏まえて対策を立てる必要があります。
ところが、現在の対策は
とりあえず、いじめの件数を減らそう、
いじめによる子どもの自死を減らそうということに汲々としています。
こんな、思考停止の対応をしているから、
昨年度中高生の自死が平成年間最高になるわけです。
子どもに対する対応は間違っているのです。

いじめに対して命の授業が行われることがあります。
これほどばかばかしいことはありません。
私には、このような授業のいくつかは
どんなに虐められて生き地獄の思いをしても
死んではいけないということを押し付けているだけのように聞こえてしまいます。
死ぬ方が悪いという思考を作り上げる危険があるように思えてなりません。

また、加害者も、命をとろうとまでは思っていません。
ただ、本能的に追い詰めようとしているだけなのです。
命の授業をしたところで
いじめ防止に効果で気だとは思えない次第です。

私のブログを何度か読んでいただいている人にはくどいのですが、
SOSの出し方教育ということも、
結局子どもがSOSの出し方が下手なので
大人が気が付かないという
子どもの自己責任、大人の責任回避の政策としか考えられません。
子どもに甘えるな、SOSを出さなければならない環境こそ防止しろ
それが一番でなければ、いじめも自死も増えていくだけです。


ではどうするか。

一つには、仲間意識を形成させる指導が必要です。
競争ではなく、助け合いや無償の援助の喜びを与えること
自分が仲間の役に立つことの喜びですね。
共同作業を通じて、目標を完成ではなく
目標を助け合い、チーム作りにおく必要があると思います。

その仲間形成は、父兄も巻き込んで行う必要があるようです。
むしろ大人たちが、積極的に尊重しあう姿を見せ
サンプルを提示することが有効だと思います。

この時、仲間であるための条件、なんらかの役割を果たす
ということはしない。
とにかく、単純に近くにいるということが大切なのです。

学校があって、教室があって授業があるということは
何十年も変わらないのですが、
どうも私には、生徒同士の距離が遠すぎ、
心理的接触さえも希薄になっているのではないか
と感じることが多くあります。

実はこういう活動は、
将来の過労死の訓練にもなります。
仲間を頼ったり、助けたりする関係
そういう関係を形成する時間的余裕がないのかもしれません。

二つ目は、人間とは何かという教育です。
道徳の時間には、こういう問題に取り組むべきです。
少なくとも同僚との人間関係よりも
上司との人間関係を大切にするように誘導したり、
国家に帰属すればすべて安全という幻想も
何も解決せず有害です。
人間は尊重されなければ生きる意欲を失っていく
ということを教育していくべきです。
逆に、尊重されることで力を発揮していくものだ
ということもよいと思います。

三番目として
ただいるだけで尊重される体験が必要です。
現代の社会は親子関係も希薄で、
親が子どもとして尊重する条件を付ける時代です。
祖父母との結びつきが弱い。
無条件で可愛がられた経験が無い
これでは群れの中で尊重された体験が
乏しくなることも当たり前です。

自分が群れにとどまるために努力するように
同級生にも努力を要求していくことになります。

努力しない子どもに対して敵意を感じることもあるようです。

四番目としては徹底介入です。
教師が一番弱い子を守る姿勢を鮮明にすることです。
えこひいきという批判に対しては、
校長や教頭が担任を徹底的にかばうこと。

根本には、教師が忙しすぎるということです。
忙しいと、追いつめられている子どもたちの様に
思考力が低下していきます。
将来的な展望をもって現在を把握することができない
今目の前にある課題だけが検討課題になる
他人の気持ち感情に共鳴、共感する能力が少なくる。
誰かが肯定してくれることを志向し、自分の価値観で行動できない
多数派に居続けなければ安心できない
という行動傾向を教師が持ってしまいます。

だからことが起きないと行動しないのです。
ターゲットの顔色が変わったことには気が付いても
ではどうしましょうという発想にならず
何とか勝手に収まってくれという気持ちになり、
ターゲットの存在を疎ましく思う傾向になるのも
ある意味必然的なことです。

根本は、世の中から無駄な競争意識をなくすことです。
少なくとも老後の不安の無い生活を国は保証するべきです。

派遣労働や有期雇用は減らさなければなりません。

私は、現状の受験制度は改めるべきだと思います。
いじめの現場を見ると一発勝負の受験こそが
ストレスを軽減するように思われます。
現状は、子どもたちが評価者である学校の顔色を窺っているというような
危険な状態ではないでしょうか。

スポーツについても
学校の部活動が関与する全国大会はやめるべきです。
その代わりスポーツ少年団を自治体や国は援助すればよいと思います。

就職採用についても
学歴偏重で本当に企業が必要な人材を確保できているのか
真剣に考えるべき時期だと思います。
経済にとってどのような人材が必要なのか、
これまでの様に上司の命令に忠実になるような人材の選び方を続けると
なんだかわけのわからない人が
総理大臣の配偶者が支援しているということで
一流大学を出た最高エリートたちが
忖度してスーパースペシャルな便宜を図ろうとするのではないでしょうか。

なんか選挙公約みたいになってきましたので
そろそろ終わりにしますね。

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ハロー効果 対人関係学が行動経済学・プロスペクト理論と出会う [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


先日、某保健所主催の医療機関対象の講演会でお話してきました。

「人間は、エラーを犯すものである。
気が緩んでいたからとか、真剣さが足りなかったから
とかいう反省をしていたのではエラーは防げない。

ある状況の中で、人間は誰しもある傾向のエラーを犯しやすい
そういう自覚をもって、
その犯しやすいエラーを予め想定して事に当たることが
エラーを予防する有効な方法である。」

なんてことを言ってきたのでした。

そうしたら、その後の駅での時間調整で
行動経済学の本に出合いました。
全くの偶然です。
ノーベル経済学賞を何人か出しているというのです。

さすがに私はとは言いませんが、
対人関係学はノーベル賞をとれるだろうと思っていますから、
どれどれと手に取って拝見してみたのです。

そうしたら、私が今しがた話していた内容が
もっと明確に理論化されているではありませんか。
つまり、それまでの経済学は、
コンピューターの様に合理的な行動をする人間を想定して
理論が構築されているのですが、
行動経済学は、生身の人間の行動傾向を反映した
系統的エラーを組み込んだ
経済学を樹立しようとしているようなのです。

その日一冊「かくて行動経済学は生まれり」
マイケル・ルイス
次の日もう一冊「行動経済学の逆襲」
リチャード・セイラー(ノーベル経済学賞の経済学者)
そして、「ファストアンドスロー」 上・下
ダニエルカーネマン(ノーベル経済学賞受賞の心理学者)
と立て続けに買って読んでしまいました。

面白いです。入門として結果オーライだと思います。
このブログで特に断りがなくページ数を記入する場合は
ファストアンドスローハヤカワ文庫版です。

この本を読むと、対人関係学の先生筋の論者の文献が
多数引用されていて、それだけで驚くとともに納得します。
ロイ・バウマイスター、アントニオ・ダマシオ等々
親近感を持って読める理由がわかるような気がします。

第28章「悪い出来事」は、周辺部分を含めて
対人関係学の記述としても通用するではないですか。

では、もうすでに行動経済学があるから
対人関係学は用済みなのでしょうか。
ノーベル賞は取れないのでしょうか。

実は、行動経済学の本を読みながら、
その近似性に驚くとともに、
その違いもはっきりしてきました。

1 分野、視点の違い
  
行動経済学やプロスペクト理論は、
経済学に限らず、政策学や訴訟技術など
多くの分野で応用されています。

対人関係学は、主として自死予防に始まり、
犯罪予防、夫婦問題や子育て等の家庭内の人間関係の調整
職場のパワハラ予防や労務管理、クレーマー問題、
学校のいじめ予防や生徒のメンタルヘルス等という人間関係の調整等
対人関係的紛争の調整や予防が対象ということになります。
社会病理というエラーの予防に力点があるわけです。

また、刑事弁護や紛争学、弁護業務や相談業務
等でも考察をしているので、
それは行動経済学をもっと導入するべきだという視点も出てきました。

2 統計手法の有無

行動経済学は、統計的な実証、実験をもとにしている科学ですが、
対人関係学の最大のウィークポイントはここにあります。
理論科学と言えば聞こえが良いのですが、
受け手の方々が、「ああそうだな」と実感していただく
ということに頼っています。
そういう意味では、科学的手法が確立していないということを
自覚するべきでしょう。

3 人間観の違い

行動経済学はどちらかと言えば人間の行動という
表出されたものに力点を置きますが
対人関係学は、どちらかと言えば原理論理に
力点を置きます。
進化論的観点から見た考察なのですが、

人間の脳は、現代社会に合理的に対応するまでは
今だに進化を遂げていないということが前提です。
2,300万年は遅れているということです。
その頃の時代に最もよく合理的に対応するレベルであるからこそ、
現代社会では不具合や不合理をきたしている
それがヒューマンエラーの源だという考えです。

「ファストアンドスロー」に出てくる「システム1」が
特にそれだということなのです。
是非お読みください。

4 環境に対する見方

行動経済学は、ヒューマンエラーは環境よりも
人間であることから起きるものであるという傾向があり、
環境因を重視する立場を批判するようです。
対人関係学は、環境因を重視します。

環境因がヒューマンエラーを強めるという見方もしています。

以上の違いがあるので、まだノーベル賞受賞は間に合うと思っています。


それでは、具体的に「ハロー効果」について
対人関係学の解釈をお話して終わりにします。

ハロー効果とは、
ある人のすべてを自分の目で確かめてもいないことまで含めて
好ましく思う(または全部を嫌いになる)傾向
を言います(上巻149頁)。

確かにこれはよくあることで、
つい、あの人が言っているのだから確かだろうとか
あの人の選んだコースは私はとらないとか
芸能人や政治家を応援するパターンなのでしょう。

同じことを言っても
ある人は口汚くののしられ、
ある人は歓迎されるということがあります。
私はどちらかというとハロー効果の恩恵を受けているようです。
肝心なところでは逆に損をしているようですが。

さて、どうしてハロー効果が起きるのか
ということが対人関係学の独壇場なわけです。
それは、以下のように説明します。

「人間は、動物の一種ですから、
 危険に対する反応、危険回避がシステム上重大なものと
 位置づけられています。

 危険を感じた場合に、その危険を解消することが
 最大のテーマとなり、体のシステムが動き出します。
 これは、意識の変化より先に動き出すのです。

 人間の最大の脅威は人間ですから、
 見ず知らずの人を見た場合には、
 脅威、危険を感じます。

 人間も、この『危険を解消する』ということがテーマとなり、
 『危険を解消したい』ということが他のシステムを押しのけて
 最優先課題になるわけです。

 だから、見ず知らずの人間を見た場合には、
 『敵なのか味方なのか』ということが最優先課題になります。

 意識的な思考をする前にシステム1が瞬時に
 これまでの自分の記憶を総動員して、
 声、容姿、服装、匂い等の要素を照合し、
 敵か味方かを勝手に分けてしまうわけです。

 一度味方だと思うと、それはもう仲間ですから
 仲間の弱点や欠点などは補おうという傾向が意識に現れてきます。

 一度敵だと思うと危険人物ですから
 相手のすべてが自分を攻撃する表れだという意識になるわけです。

 まあ現代では、通常は見ず知らずの人と会う時は
 理性を働かせて、ニュートラルな状態に持っていって
 その人本位ということで観察しようとするのですが
 (システム2)
 人間の本能(またはシステム1)は
瞬時の区別をしたがるもののようです。

 もっとも、瞬時に敵を見抜かないと
 200万年前ですと自分や仲間がやられてしまいます。
 このころはとても合理的だったのです。

 ただ2,300万年に限らず
 現代でもその必要性が無いとは言えないのかもしれません。

 味方、仲間だと考えると危険が解消しますから
 目的が達成されます。

 敵だと考えると
 不安を解消するために攻撃したり、
 逃げ出したりすることによって不安を解消しようとするわけです。



 まあ、そう考えているんだけどなあということでしょうか。



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ラスコー洞窟の謎を解く。対人関係学の挑戦。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

壁画で有名なラスコー洞窟はフランスにある。
洞窟と言っても、かなり長細い。
200mを超える長さで、
枝分かれをしている。
この洞窟の壁に動物や人間の絵が描かれている。

約2万年前にかかれたその壁画は
ゆたかな色彩が施されており、
動物たちの形はリアルであり、生き生きとしている。

ラスコー.jpg


このラスコー洞窟の壁画にはいくつかの謎があるという。
一つは、洞窟の中に武器と思われる道具が
かなりの量、残されていたこと。

二つは、この洞窟の一番奥深い所、
井戸の空間と呼ばれるところの絵が何を意味しているのか
ということ
井戸の写真.jpg

三つ目は、そもそもなぜこの洞窟に
これだけの絵が描かれたのか
ということだそうだ。

前提として、
この洞窟は、居住用ではないことである。
どうやら人類は洞窟に居住していたというわけではなく、
外で、竪穴式住居に居住していたらしい。

このため、他の洞窟でも武器や道具が
洞窟内におかれていたということはなかったらしい。
このために、第1の疑問が起きる。

ヒントとしては、この時期、文字は存在しない。
言葉があったどうか、どのような言葉あったか
私はわからないが、
文字がないということから、
それほど複雑な言葉自体がなかったのではないかと考える。

ただ、文字の出発ともいうべき
数字というか、数を表す絵文字らしきものが
あったようだ。

そこまで言えば、私が何を言いたいか
おおよそ見当をつけた人もいることと思われる。

そう!

ラスコー洞窟の絵は、
言葉の代わりに描かれたと私は考える。

今でも土木建築の設計図は、
言葉ではなく絵で表現される。
言葉をどんなに厳密に使っても
実際に絵で描かれた図面を見る方が
簡便かつ正確である。

先ず、おびただしい動物の絵の意味は
絵画とか芸術というわけではなく
きわめて実用的なものだったと考える。

おそらく、
集団的な狩りをする場合に
狩りの方法について打ち合わせをするために
描かれたものだと考える。

バッファローやマンモスの
どこを狙ってどのような攻撃をすれば
しとめることができるのか
それを壁に描いて、
情報を共有することが目的だったと思われる。

そのため、できるだけリアルに
動物の構造を描く必要があった。
色の違いなども
どうしても必要な情報内容だったと思われる。

このために、できるだけリアルに彩色するために
顔料を開発していったのだと思う。

これが第三の謎の答えだと思う。

では、言葉のない時代に
どのようにして、狩りの打ち合わせをしたのか。
それが第一の答えになる。

つまり、実際に武器を手にして
壁画の絵に向かって攻撃をしたのだと思う。
バッファローの腹に矢を突き立てたりしたのだろう。
これならば、言葉が通じなくても
狩りの初心者が何をすればよいか
一目瞭然であるし、
攻撃の際に大いに役に立ったはずだ。

だから、洞窟に武器が持ち込まれて使われていたから
同区に武器が残されても不思議ではないということになる。

そうして、最後に乗った第二の謎
井戸の空間の絵の意味である。

井戸の写真.jpg

この絵は、右にバッファローがいる。
バッファローは左側に頭を向け、
右側に尻を向けて立っている。
右上の尻から斜め左下にやりが付き抜かれており、
腹からは腸がはみ出している。

バファローの左側には
頭が鳥で、その下が人間の体のものが
倒れている。

私は、これは警告だと思う。

人間であれば、はらわたが出た段階で
もはや戦闘不能である。
ところがバファローは、
はらわたが出た直後は戦闘能力が残されている。
うかつに近づくとこちらの命が失われる。

はらわたが出た段階でバファローはやがて死ぬ
焦って近づかないで、
弱り切ってから近づかなければならない。
私にはそのようなメッセージが聞こえてくるような気がする。

鳥の頭は死者を表している。

少なくともこの絵を見た者はバファローにやりを命中させて
はらわたが出たとしても
近寄ろうとはしなくなるだろう。

言葉は、記憶を補うものである。
自分が体験しない出来事でも
言葉で注意を喚起することができる。
言葉を通じて他者の心情に
共鳴、共感することができる。

この言葉のない時代に、
絵を通じて、
危険を教え、えさの獲得方法を教える
そんなことが洞窟で繰り広げられていたのではないか。

絵の達人たちが
命がけで描いていたものだと
私はそう考える。
やがて、文字ができる
その始まりでもあると思い描いている。


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孔子の「仁」と対人関係学 人間にとって大切なことと儒学が戦争遂行に利用されたポイント [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

1 

孔子の政治思想は、徳治主義と呼ばれます。
権力者が正しい行いをすれば民衆も正しくふるまう
という考えの元、
先ず権力者が襟を正せと説きました。

これに対する政治思想は法治主義と言いますが、
現代の法治主義と言葉は同じですが、意味は違います。
その頃の法治主義は、
人は元来どうしようもない考えを持っているので、
権力者が指図をしてた民を従わせ、
従わない者は処罰する
というものです。

こういう風に考えると徳治主義は、
人は元来どうしようもない存在ではなく、
正しいことに向かって行動する
という性質があるとの人間観を前提にしていることになります。
正しい方向を権力者が自分の行動で指し示せば
国はよりよく統治できるということで、
(修己知人)
性善説が前提になっているように思われます。

これが孔子の政治思想の根本ですし、
法治主義的な考え方は真っ向から批判していますので、
これに反する行動をする権力者が
儒学を振りかざして説教したとしても
その儒学は眉唾のまがい物ということになります。

民に道徳を指図して、これに従わない者を処罰する
というのは孔子の教えとは全く無関係ということです。
ここがまがい物と本物の区別の基準です。

2 

孔子は、人の生き方を説いたとも言われていますが、
論語を読む限り、統治論、政治思想、あるいは法律論を説いている
と弁護士としての私にはうつります。
(最終的にはあまり区別は必要なくなるのですが)

その文脈で、
孔子が立派な人にとって必要なことは
「仁」であると述べています。
高校生の倫理社会の教科書では
「仁とは、人を愛することだ」と説明されていますが、
なるほどと思いました・

そういうわけで仁がテーマです。

では、孔子が言う人を愛することとは何でしょうか。
孔子は「仁」の基本は、「孝悌」だと言います。
高校の教科書では、この孝悌とは、
「親子・兄弟間の自然生まれる親愛の情」
としています。私はこの解釈を支持します。

そして、その孝悌の情を、家族だけでなく
集落に広げ、村に広げ、
国家にも広げていく
ということを孔子は説きます。

そうすれば、国家は愛にあふれたものになる
ということになります。

なるほど一つの理想だと思います。
そのように考えると、
孔子が政治とは何かということに回答しているのですが、
権力者が国民の要求を先回りして考えること、
人々をねぎらうことだ
と言った言葉につながると思います。
そしてもう一つ大切なことは
それを続けることということでした。

これは国家の政治だけでなく、
家族の関係でもいえることだと思います。

孔子の黄金律は、自分が嫌がることを相手にもしない
ということだと言われていますが、
この部分を考えると
イエスの黄金律と全く同じということになるでしょう。
相手が欲していることを常に考えることが
愛であるということですから。

さらに、愛について、あるいは親子の心情について
極限的な例についての見解が述べられています。
父親が迷い込んできた他人の羊を
返さないで自分の物したということを
子どもが警察に訴え出たという話です。
それを称賛する人に対して、孔子は
「親は子のために隠す子は親のために隠す」
ということを述べています。
これについては前に書きましたので
省略します。

「親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-05-11



孝悌の情が国中に満ちるためには、
ただ自然に任せているだけでは不十分で、
具体的な孝悌のパターンを鍛えることが必要だということになります。
それが、克己、恕、忠、信ということになります。

克己とは自分に打ち勝つということですが、
現代では、自分の弱さ、怠惰に打ち勝つことという意味が一般的です。
克己心をもって受験に取り組むとかですね。
立身出世のための言葉になってしまっています。

孔子の教えの「克己」とは
私利私欲を抑えるということのようです。
他者との協調を優先するべきだ
という考え方のように感じました。
そうして私利私欲を捨てて他者と協調することは、
人間本来の考え方だと主張しているように感じるのです。

こざかしい文化等がその人間本来の考え方を曇らせているのであるから
目の曇りを晴らす、それが本来の克己ということになるはずです。

「恕」とは他人を思いやること
先ほど述べた孔子の黄金律ということになります。

ちなみに忠は自分を欺かないこと
信は他者を欺かないことということだそうです。

4 

さて、我田引水的に論語を読むわけですが、
対人関係学は、本来人間は
仲間と協調して生きていこうとする習性があり、
仲間のために努力することに喜びを感じる動物であると考えます。

それが言葉や経済等様々な文明によって目を曇らせ
本来の習性、本能によって行動できないために
様々な不具合が生じると説明しています。

これは、きれいごとを言っているのではなく
チンパンジーの祖先と人間の祖先が分かれて800万年
力も俊敏さもない人間が絶滅しないで生き延びた
のは群れを作ることができたからだと思うのですが、
群れを作る原理だったのだと思っています。

この観点から論語を読むと、
仁というのは、
この人間の本能に純粋に耳を傾けることということになります。
どこに人間の本能の純度が高く残っているかというと
親子の情愛ではないかと思われますので、
孝悌の情が仁の基本であるということは
とても合理的なことだということになります。

先ほど子は親のために隠すという言葉がありましたが、
親を警察に告発した子の行動は「直き(なおき)行い」ではないと孔子は言い、
親をかばうことが直きことだと述べています。

一般的にはこの「直き」は「正直」と訳されますが、
対人関係学的には、
文字通り人間の群れを作る本能にストレートだという意味で、
直き心こそ耳を傾けるべきもので、価値があるものだ
という解釈になります。

本当は友達や同僚と仲良くしたいのだけど
それをできなくする事情が現代社会にはある
その事情を少なくし、事情の影響を弱くしていく方法が
対人関係の研究テーマだということになりますので、
孔子の教えとはだいぶ近いのかもしれません。

また、人々が仲良くすることによって
新たな問題が起きにくくなり、
人類は、余計なストレスから解放されて
そのアドバンテージを発揮できるようになっていく
ということなのですが、
そのためには、

仲間の失敗や欠点、不十分点を
責めない、笑わない、いたずらに批判しない
許し、補い、助ける

ということが大切であり、
それが人間本来の群れを作る仕組みだった
ということを主張しています。

これが恕であり、親のために隠すということにつながることだと思います。

そのように仁を探究し、
仁を形にする礼で他人と接することが孔子の教え
ということであれば
対人関係学と
ほとんど同じなのかもしれません。

あくまでも我田引水的に読んだ場合のことです。

これが紀元前4世紀とか5世紀の考察ですから
とても素晴らしいと感銘を受けている次第です。



ところが、儒学は、
戦前国家イデオロギーとして、
戦争遂行の道具とされていました。

学校では教師が孝を教えて
戦場に子どもたちを駆り立てました。

権力者は、自ら手本となることなく、
民を指図し、それに反対する考えを持っただけで
法によらず処罰し、拷問にかけたわけです。
不道徳にもきりがない状態です。

どうして、国中を愛であふれさせようとした孔子の教えが
戦争遂行の道具となったのでしょうか。

いくつかポイントがあります。

一つは、「孝悌」の解釈です。
先ほどは倫理社会の教科書の解釈を紹介しましたが、
儒学では、年長者に対する尊敬と奉仕の感情
という意味だとされているようです。
しかし、これが家族から、集落、国家へと広がってしまうと、
家長への服従、集落の長への服従、
そして国家権力に対する服従になってしまいます。

国家と国家権力者が同一視され、
全体主義の理論武装になってしまいます。

民は、国家の奴隷となってしまい、
権力者は
民の欲することを先回りすることもなく
ねぎらうこともなくなってしまいます。
現実にそうなってしまったわけです。

最も大切な政治思想である
権力者が徳をもって国を治める徳治主義
ということがどこかに行ってしまったわけです。

孝悌とは、確かに年長者に対しての尊敬だと
読めるような話も論語には書かれているのですが、
年長者に年少者は尊敬もって接するという
単純な意味ではなさそうです。

ここでいう年長者は、養われる対象ということなので、
かなりの年長者に対するものではないか
特別の意味があるのではないかと考えています。
当時の人間の寿命や健康状態も知っておく必要がありそうです。

孝悌については、
あくまでも徳治主義の観点から
読み直す必要がありそうな気がしているところです。

もう一つの象徴的なことは「恕」の解釈です。
これは、権力者の民に対する思いやりや、
相互の思いやりということなのですが、
民の国家に対する奉仕活動の意味にすり替えられてしまいました。

現在、儒学や恕の思想に学んで
公立学校で、駅や公園のトイレを素手で掃除させている教育員会が
自慢げに写真付きで宣伝していますが、
まさに戦争協力で利用された儒学を復活させて
広めようとしていることに外なりません。

民がよりよく充実して生きることの価値観を奪い
権力に奉仕させることにすり替える戦前の教育と言えるでしょう。

このように孔子の教えの根本である徳治主義に
反するような教えは孔子の教えとは無関係であり、
警戒をしなければならないということになります。

では徳治主義とは何か
そのような政は現実にあったのかということで、
孔子は周という殷の後の王国をモデルにします。

私は、東日本大震災の直後の
今上陛下、皇后陛下の被災地ご訪問を挙げたいと思います。

この詳細は当時書きました
「両陛下宮城県の被災地に、避難所に。水仙の雅な本歌取り。」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2011-04-28

その時書かなかったのですが、
両陛下は作業着をお召しになって避難所を回られました。
お召し物が汚れるからではなく、
被災者の心情を配慮してそのような服装をなさったものと思います。
着の身着のままでようやく生き延びて
埃まみれの避難所に
立派なお召し物のお二人がいらっしゃったら
被災民はどう思われるでしょう。
これが「恕」だと思います。

作業服をお召しになってひざまずいて被災者とお話された
両陛下のお姿を思い出すと
今でも涙が出てきます。

両陛下の徳を拝見して、
被災者の特に高齢の方々は生きる意欲を取り戻し、
国中が一つになって復興を目指した
そういうふうに私は思っています。

これこそが徳治主義だと思います。

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汝の敵を愛せよ イエスキリストの言葉と対人関係学から考える合理性 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

キリスト教の教義に立ち入った話をするわけではありません。

対人関係学的に考えた場合、
この言葉はとても素晴らしい言葉です。
ヒューマニズムそのものですし、
これは、人間が生きていくために
常に意識する必要があるということが
対人関係学の帰結です。

ただ、それは、その方がよりよく生きられる
というよりも、
損をしない生き方、
失敗を大きくしない方法という
生きるための知恵という意味合いがあります。

先ず、
群れを作る動物である人間には、
仲間の中で尊重されて存在したいという
遺伝子に組み込まれた根源的要求があります、

尊重されて存在するとは、
自分が、いつまでも群れの中に安住できる状態でありたい
ということです。
追放の危険を感じないで存在する
と言い換えてもよいでしょう。

「敵」というのは、
結局、自分以外の人間であり、
怒りを向ける相手
という存在だと思います。

これは、せんじつめれば、
自分の群れの中での安住を
相手に妨害されているという
危機感を感じて、
この危機感を解消しようとする
心理状態の一つが怒りだということです。

もちろん、
身体生命の危険が生じた場合も
怒りが生じる場合がありますが
今回は身体生命の危険ではなく
対人関係の危険による
怒りについての考察です。

怒りを持つことは、
怒りを持った人に、
様々な不利益を与えてしまいます。

第1に、怒りを持つと
その相手と自分との人間関係が
極めて不安定なものになってしまいます。

その相手から追放される可能性もあるでしょうし、
そもそも、仲間という関係が失われてしまうことは、
群れを作る動物である人間としては、
遺伝子的レベルで、
無意識に不安を感じてしまうことになります。

第2に、相手に怒りを向けると
不思議なことに、
怒られた相手に対して
気持ちの深いところで、
同情というか、情けなさの共鳴というか
自覚することが難しい嫌な気持ちがわいてきます。

誰かに攻撃的な気持ちになると、
自分の心も傷つけることが
どうしても避けられないようになります。

それでも、そういうきれいごとな気持ちにはならないよ
というひともいるでしょう。
そういう人は、誰かを攻撃することに
もしかして馴れてしまったのかもしれません。

しかし、そういう人が本当にいたとしたら、
その人は、
人間という存在が傷つけられていても
心を痛めないという状態になってしまっているので、
およそ人間は大事にしなければならない
という気持ちを持つことができなくなっていることになります。

そうなると、
自分のことも、大切にすることが
難しくなっていきます。
大切にしているつもりでも、
たとえば、財産を確保しているだけだったり、
身体の完全性を確保しているだけだったりすることがあります。

心が摩耗していけば、
後ろめたさの一切ない安心感というものを得ることが
さらに難しくなり、
益々形式的な幸せを求めるようになりますが、
言葉では幸せだと言い聞かせても
満足ができる状態にはなりません。
益々形式的幸せを求めて、
自分と他人を不幸にしてゆきます。

これが第3の不利益です。

第4の不利益は、もっと実務的な話です。

怒りは、
交感神経を活性化させてしまいますから、
様々な要素を検討するという能力が低下し、
二者択一的思考となってしまいます。

また、将来的な見通しを立てるとか、
他人の感情の状態といった
複雑な思考ができにくくなってしまいます。

相手に対する怒りが増大していき、
相手を、いろいろな意味でたたきのめさなければならない
という意識を持ちやすくなります。

周囲の人間に対しても、
自分の敵か味方かという択一的な評価になりがちです。
いろいろな出来事も、
相手と自分の関係の中で起きているような錯覚が生じます。

様々な事実を見誤るということが生じるわけです。
関係のないところでミスをしたりすることも出てくるでしょう。

象徴的なことは、
敵と味方を見誤まることです。

信用してはならない人を信用して
大きな損をすることが出てきます。
本当は、自分が間違った人を味方につけていても、
うまくいかないことは、当初の敵のせいだ
という怒りの思考に支配されていますから、
気が付きません。

本当に自分に不利益を与えている人が
自分が味方だと思いこまされている人かもしれません。

本当に戦うべき相手は別にいるかもしれません。
しかし、怒りに支配されている状態では、
脳の機能が低下していますから、
気が付くことはできません。

では、怒らなければ良いのでしょうか。
冷静に自分の利益を検討すればよいのでしょうか。

それはそうなのですが
どうすれば、自分の存在を脅かすのではないか
と思っている相手に対して、怒りを抱かずに
冷静に対処できるのでしょう。
これはなかなか難しい技術です。

少なくとも、
その困難な矛盾を解決する方法が、
汝の敵を愛せよ
という方法論なのです。

怒らない
ということはなかなか難しいです。
しかし、怒りを覚えたときに、
相手を愛する努力をする
そうすると、
怒りはだいぶ緩和されます。

攻撃して叩き潰す
という動物の本能を緩和させることができます。
自分が何をしなければならないか
ということが、見えてきやすくなると思いませんか。

怒りに任せて頓珍漢なことをするよりも
よっぽど自分の本当の利益を追求しやすくなります。

対人関係学は、
ゼロの先のプラスを目指すことを主張します。
いじめゼロを目指すのではなく、相手の弱点をかばいあうことをする
とか、
パワハラゼロを目指すのではなく
助け合う職場関係を作る
といったように、
悪いことをしない
ということでは、なかなか解決が付かない問題は、
その反対の行動をとることで、
解決に近づいていくという主張です。

だから、
汝の敵に怒りを向けるな
ということではなく、
汝の敵を愛せよ
という言葉が
とても素晴らしいと
いつも感動をもって自分に言い聞かせている次第です。


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