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知恵の実と失楽園、文明と不平等の起源 なぜ科学が人類を滅ぼそうとするのか。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

アダムとイブは、
禁じられていた知恵の樹の実を食べたことで、
楽園を追放されました。

禁じていたのはエホバだとされています。

この記事は、この聖書のエピソードを
解説するわけではありません。

対人関係学的に見た場合、
この聖書の記載が、
人類史の大きな転換点を象徴的に表現したものだという
真理を感じたので、
そのわけをちょっとお話してみようと思います。


おそらくアダムとイブという
個を確立する以前の人間は、
群れの中の一員という意識、無意識が大勢を占めていて、
一人一人の利益が衝突するということは
あまりなかったものと思われます。

人間の先祖がチンパンジーの先祖から分かれて
800万年と言われています。
そのほとんどの時期、
人間は群れを作って生存していて、
群れの構成員は全て平等だったと思います。

牙や爪といった武器を持たず、
逃げるための脚力や、敏捷性等を持たない人間は、
一人で生きていたのでは、
外敵から簡単に捕食されてしまっていたでしょう。

しかし、比較的大型の体格をした人間が、
集団を形成することは、
猛獣から見ても不気味ですから、
襲われにくかったと思います。

要するに群れの頭数が
人間の祖先を守ってきたわけです。

だから、群れ全体の頭数を確保することが
人間にとって必要でした。
食料は平等に分けられたと思いますし、むしろ、
むしろ弱い者にこそ手厚く施されたことでしょう。

なぜならば、
弱い者が病気になり、死んでしまったら
頭数が減ってしまうからです。
強い個体も、
自分が強いことで群れから大事にされることで満足し、
おそらく、自分の働きに応じて食料をよこせ
という発想はなかったことでしょう。

自分と群れを対立的に考えるのではなく、
群れの他の構成員と自分も
それほど区別がつかなかったと思います。

「自分が」ではなく、
「私たちの群れが」という意識だったでしょう。

だから、自分の死にあたっても、
群れの存続が図られるのであれば、
それほど怖さは無かったと思われます。
個体が群れに埋没していたともいえるかもしれません。

このような平等は、きれいごとではなく、
個体が生存するための必須条件です。
つまり平等を守ることができる群れだけが
群れの頭数を確保して
遺伝子を継承することができた
ということになると思います。

われわれはその末裔ということになるでしょう。

この遺伝子上の仕組みのために、自分の利益のために
他の構成員に不利益を与えるということは、
自然と嫌悪の情が湧いたのだと思います。
理屈ではなく、遺伝子レベルでの志向、感情
ということになるわけです。

さらに、抜け駆けをする個体を駆除しなければ、
群れを守れないというのであれば、
抜け駆けする個体を集団の力によって駆除したでしょう。

それは、おそらく何百万年かけて
遺伝子に定着していったものと思われます。

ここ数万年の最近になって、
食料が備蓄できるようになってきて、
また生産力も人工的に高められることによって、
客観的には、
必ずしも平等を貫かなくても、
弱い個体が死滅して群れの頭数が減り自分も死ぬ
ということにはならなくなりました。

しかし、客観的な事実の変化に反して
かなり長い間強制平等は徹底されていたと思います。

強制平等が生まれたのも、
理性の力というよりは、
強制平等を志向する遺伝子だけが生き残ったということですから、
客観的に強制平等の必要性が無くても
遺伝子が伝える感情がそう簡単になくなることはないからです。

そうだとすると、知恵の樹の実を食べることを禁じたのは、
遺伝子の声であり、
そういう遺伝子に作り上げた地球の神秘であり、
そういう意味で神であったということは
とても良く理解することができたのです。

では、結局知恵の樹の実の「知恵」とは
何だったのでしょう。

肯定的な面を見ると、
客観的な合理性のないルールを疑い、
必要のない縛りから個体を解放する
という面があるでしょう。

しかし、否定的な面を見ると、
自分の知識の範囲だけで行動することになったとともに、
自分の利益と他者の利益を対立させるようになり、
簡単に言えば利己主義の始まりだということになるでしょう。

他人と自分の区別をするようになり、
他人をさておいても自分の利益を守る。
弱い者を踏みつぶしても自分の利益を図る
ということが始まったわけです。

群れ全体の利益と自分の利益が
同じものにならなくなったために、
自分の個体の死というものが、
とてつもなく恐ろしいものになっていったわけです。

楽園から追放されて以来
「人間は死ぬようになった」ということは
こういう意味で、真理だと思います。

他者と自分の区別を感じるようになり、
他者との間で優越的地位を保とうとすれば、
羞恥の感情も現れるでしょう。

聖書の記載は全く正しいと感じるわけです。

人間が知恵を獲得したことが
原罪だというキリスト教の教えも
すんなり受け止めることができます。


知恵や理性は、私もこれまで
正しいもののように思っていました。
あるいは好ましいものだと思っていました。

しかし、まさにこの抜け駆けという意味での
「知恵」の中には
遺伝子から来る感情である、
「仲間に不利益を与えてしまって申し訳ない」
というものや、
自分の行為によって不利益を受けて、
悲しんだり、途方に暮れたりする仲間の
負の感情に対して共感を覚えたり、共鳴してしまったりという
遺伝子から来る感情を抑圧することができてしまいます。
そうして、自分の利益を図ることができるから図る
という意識的あるいは無意識の働きが
可能になるという仕組みが生まれます。

弱肉強食を是認することは、
知恵や理性の力ということになるでしょう。

知恵や理性の集団的な表れである「文明」も
もしかしたら、利己的な思考の表れではないかと
ハラリの「サピエンス全史」を読むと
そう思わざるを得なくなります。

これを端的に表したのが、
ヒュースケンの「日本日記」です。
ヒュースケンは、幕末ハリスの通訳として
来日した人物で、
日記をつけていたものが公刊されています。

西洋文明が入ってくる前の
美しい日本人の情景がふんだんに記載されています。
日本の滞在時間が長くなるほど、
西洋文明とは異なる日本人の行動様式にひかれていったようです。

ヒュースケンは、次のように書き記しています。
「今や私がいとしさを覚えはじめている国よ、この進歩は本当に進歩なのか?この文明は本当にお前のための文明なのか?この国の人々の質素な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことができなかった私には、おお、神よ、この幸福な情景が今や終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならないのである。」(青木枝朗訳岩波文庫221頁)

結局、このヒュースケンの見通しが正しかったかもしれません。

この点において、ハラリもサピエンス全史下巻で、言及しています。

要約すると、
境界を接しない国に対する侵略は、技術や国力で実現したのではなく、
西洋的な文明によって実現していった
だから、いち早く文明を取り入れた日本が、
西洋列強から支配されず、
他国を侵略していくに至った
というのです。

もちろんここでいう「文明」は
「知恵」や「理性」の総体としての「文明」です。

日本が西洋列強から支配されなかった原因が
西洋文明の導入にあるというハラリの考えは
私は不十分ではないかと思います。

日本の文化と秩序は、
日本人が意識的に形成していったものです。
そこには武士や僧侶たちの意識的な活動がありました。

但し、他のアジアの国々やイスラム圏の国々と異なり、
日本が、他国に攻め込んで支配しようとするようになったんは、
明治維新という、日本の西洋化の結果だと言われれば
得心できるところが多くあります。

「文明」は、他者との競争をもたらしましたが、
競争を勝ち抜くために
物事を単純に割り切るようになりました。

正と悪、
あるいは正と誤
自分側と敵側、
やるかやられるか、
好ましいもの嫌いなもの
加害者と被害者
支配する者と服従する者
勝つ者と負ける者
理性と感性あるいは、理性と本能

単純化して対立させることによって
「同じ人間なのだ」という当たり前の理解を
自分で封殺することができるようになったわけです。
だから、他人を陥れて
自分の利益を図ることができるのです。

これは、明治維新以来
日本においても徐々に定着するようになりました。

江戸時代までの日本は、
善悪で割り切るのは子どもの発想でした。
いや子どもですら、
例えば、仁義礼智忠信孝悌という
様々な価値観があるということを
読本などで知っていました。

かたき討ちは、
人を殺すことでよくないが、
親の敵を討つという側面では共感できる
という複雑な思考を
当たり前のようにしていたことになります。

文明が徹底されれば
ただの殺人者ということで終わってしまいます。

きわめて極端な結論の
どちらかに入ってしまうことにしかなりません。

サピエンス全史のハラリは、
一神教と多神教の影響を示唆しています。

割り切ってしまうことでは、
因幡の白兎は、
わにざめをだました悪ということになり、
皮をはがれても仕方がない
という存在なのでしょう。

しかし、大国主命は、
そんな白うさぎを助けます。
助けることが肯定的に描かれているのが
日本の心だと思います。
簡単に言えば、
「いくら何でもやり過ぎだ。
 もういいじゃないか。」
という発想です。

こういう発想は文明開化とともに
実際上否定されていくことになります。

明治維新以後に書かれた歴史書は
ことさら江戸時代の負の側面を強調していますが、
明治維新はまさに日本のイデオロギー対決の場面ですから、
少し懐疑的に見る必要があるでしょう。

江戸時代までの貧富の差は、
貧しき者の立場をつぶすということはなく、
生活は保障されていたわけです。
上に立つ武士が自らを正して
質素倹約に価値を置いて、
経済的実力以上の振る舞いを禁じていた
という側面があったことを見逃すべきではないでしょう。

もちろん、日本文化の否定的側面もあるのですが、
肯定的側面があまり正当に評価されていないのではないか
という問題意識があるわけです。

さて、そうはいっても、
文明という欲望の正当化という体系様式は、
科学の発展に寄与してきたことも間違いのない事実でしょう。
文明の正の側面ということになると思います。

しかし、その文明ということの出発点が
個人の利益を追求するということであったことの
必然的帰結として、あるいは内包する矛盾として
科学の発展の帰結が、
核兵器や地球温暖化という
人類の滅亡ということになりかねない状態にあります。

また、消えない800万年の遺伝子が、
平等に扱われない苦しい感情の源とになったり、
平等に扱わない自責感情の源となり、
社会的ストレスとなっています。

もともと、遺伝子の声から耳をふさぐことで出発した
知恵や科学や理性や文明です。
理由の理解できない掟から
人間(強者)を解放したという側面がありました。

しかし、
今は、遺伝子の声にこそ耳を傾け
人間本来の幸せを感じる感情を実現させるために、
あるいは、人間の滅亡を回避するために、
弱肉強食の常識を疑うことに使われるべきです。

知恵をそのような方向で
全力で稼働させなければならない時期に来ていると
私は考えます。



手を離した方が母親だ 大岡裁きの意味するものと その人情もなくした文明未開の日本での戦略 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

大岡裁きで、
一人の子どもをめぐって、二人の女性が
「自分こそ母親だ」と譲らず、
ついに南町奉行所でお裁きを受けることになった。

奉行大岡忠相は二人の女性に対して
子どもの両手を持ち引っ張ることを命じた。

一人の女性が痛がる子どもがかわいそうで
腕を離したところ、
大岡は、
そちらを母親と決めた。

わが子の痛みをかわいそうだと思う方が母親だ
という理由であった。


これはもちろんフィクションで、
南町奉行といえば
県警本部長と高等裁判所の長官を兼職するような
典型的な官僚であり、管理職なので、 
滅多なことで自ら現場に出ることはなく、
そもそも親子確認の訴えなんて事件は
受理さえされなかったでしょう。

庶民の願望が現れたものとみるべきです。

では、どうして、このようなストーリーを
生み出した人がいて、受け容れる人がいたのでしょうか。

先ず、第1に、現代との間隔が違うのは親子関係というものです。

どこまで真実性が追及されるかということですが、
一言でいうと、
「そんなのわからないよ」
という意識が最終的には支配的でした。

日本の民法も、実は、
分からないことにこだわるよりも
さっさと決めた方が子どものため
という思想があります。
嫡出子推定制度や
嫡出否認の訴えが、ぐずぐずしていると
提出できなくなるという制度などが
そういう考えの元現行法で定められています。

さらに江戸時代になると
名づけの親とか、拾い親とか
とにかく親をたくさん作って
みんなで子どもを育てるということが当たり前でした。

だから、今ほど、
血縁関係を厳密に(ヒステリックに)考えていたわけではない
ということをまず背景事情として押さえておく必要があると思います。

次に出てくるのは、
では、親として一番重大な資質とは何か
ということです。

子どもが痛がってもその痛みを気にしないで引っ張り続ける。

こういうことは実は世間でよくあることです。
子どもが真実の母親の元にいることが幸せだ
ということが独り歩きして、
親の言うとおりにすることが子どもの幸せだということになり、
親のエゴを子どもに押し付けて
子どもが苦しんでいても手当てをしない
といえば、心当たりがあると思います。

この大岡裁きは、
結局、
子どもが一緒ににいると幸せになる人
あるいは、
子どもを自分のエゴで苦しめない人
それが親だというメッセージだと思うのです。

実はこういう話は世界各地にあるようで、
有名なソロモン王の裁きでは、
子どもを切り裂いて二人に半分ずつ与えよと命じ
私はいらないから生きたまま相手に渡してくださいと
懇願した女性に子どもを渡したという話もあります。

親が、子どもに執着するあまり
子どもが悲鳴を上げていることに気が付かない
ということが、
世界的に存在する問題の所在なのでしょう。

私が多く扱っている事件が
まさに子の取り合いの事件です。
しかも、真実の親どうしの取り合いです。

親どうしが離婚をしても
子どもと親の関係は死んでも続きます。
それにもかかわらず、
親の離婚が一方の親と子どもの
いわゆる子別れにつながってしまうということが
21世紀になっても日本では続いています。

他国と比べて子どものための法制度の整備
ということが著しく遅れていることにも原因があります。

離婚後は一方の親だけが法定代理権や監護権を持つ
という制度は、
一方の家に子どもを遺し
追放された親の干渉を遮断するという
封建的な観念の元
どの国もそういう制度でした。

ところが先進国、お隣の韓国など
このような不合理な制度を改めているうえ、
共同親権がスムーズに進むように
行政サービスや司法サービスを充実させています。

日本は全くの野放しどころか、
子別れを行政が促進しているという
子どもを大切しない野蛮な国として
世界から注目を浴びているところなのです。

さて、
日本の大岡裁きは、現在も受け継がれているのでしょうか、
日本の裁判所では、そういう扱いは少数といってよいでしょう。
どこまでもどこまでも、子どもの腕を引っ張り続ける親が
親権をとるという図式になることが多数です。

このことについて次回お話ししたいと思います。
一番の問題は、
そのような引っ張り続ける母親であっても
「子どもは母親のところにいなければかわいそうだ」
という思い込みがあるようです。

今子供の腕を引っ張り続けているのは
母親だけでなく、奉行所までが加担している
という状況です。
文明もなければ人情もない
荒れ果てた祖国の心象風景に立ち会っている思いです。

しかし、私の経験では、
大岡裁きは、現代においてもなお存続しているし、
それが悲劇的な形になって現れるということです。

ほかならぬ子どもたちは、
自分がもう一人の親と自由に会えないことに
疑問を持ちだしています。
最近は、子どもたちがもう一人の親の方に
逃げ帰っているということが
身近でも起き出しています。

なぜ逃げかえるのかというと、
一つは、別居親の悪口を言われることがいたたまれないこと
(当たり前のことですが、自分の悪口に聞こえてきます)
一つは、兄弟間の差別
一つは、また親子みんなで暮らしたいという気持ちを
実現してくれそうなのは別居親の方だ
という意識が多いようです。

今、わが子に会えなくなって
落胆している親御さんがたくさんいらっしゃいます。
できることは、
針の穴を通すような難しい作業ですが、

自分が子どもがかわいそうだから、
自分のエゴをひっこめるという作業をして、
それを子どもたちに伝える作業をすることです。

相手親と一緒にいる子どもたちを責めていないし
褒めてあげる。
一緒にいる親の悪口を子どもたちに伝えない。

一緒になって腕を引っ張り続ける構図を
早く上から見下ろすことができるようになり、
止める。
譲歩をしながら、
最終的な子どもとの信頼関係をどのように作っていくか
そういう戦略になるのだと思います。

「村八分」から見たいじめと心のケアの本質及び道徳と文明と歴史の前進の落とし穴 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

「村八分」という言葉がある。
村の総意で、秩序逸脱者の家に対する制裁であり、
共同して絶交するという形で
村にいながらにして排除されるものである。

「八分」というのは、
絶交はするが、火事と葬儀の時だけは
絶交を解いて助け合うという意味からきているという。

残りの八分とは、
成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行
とされる。

二分の絶交を解く理由は、
消火活動を助けないと類焼するからということと
死者の腐敗から臭いや伝染病の危険があるから
といわれているようだ。

この理由に対する違和感と
村八分という精神的負荷を与える行為が、
いじめの本質を表していることにふと思い当たり、
少し考えてみた。

先ず、
いじめの本質について、

おそらく、
全部で10あるうち2だけ絶交を解くので八分
という言い方は、何らかのこじつけであろうと思われる。
8個は何でもよいのだと思う。

要は、お祝い事や困りごとは、
村で共同で祝ったり助け合ったりする
その輪の中から排除するというところに本質があるからである。

慶びごとがあるのに誰も一緒にお祝いしてくれない
これは、精神的追放を強く感じることである。
実際に困って、誰かに助けを求めたいときに
誰も手を差し伸べてくれない
ということも同じように苦しい。

いじめとは、あるいは職場のモラルハラスメントとは、
何もない時に起こる
目に見えた嫌がらせ(作為のいじめ)、
だけではなく、
いじめているように見えないけれど、
当然仲間なら共同行動をしてくれるはずの時に
それをしない嫌がらせ(不作為のいじめ)
もあり、
いじめの本質が、
コミュニティーからの排除の意思表示にある
ということが村八分ではわかりやすく示されている。

では、なぜ2つの出来事では絶交を解くのか。

先ず類焼を防ぐということに疑問がある。
舞台は江戸時代の農村部である。
これが確かに都市部の商工労働者の住宅であれば、
近隣の建物と密集しているので、
類焼を防ぐことは必要だが、
農村部は、隣家ともかなりの距離があり、
山林に類焼がある可能性はあるとしても、
住宅への類焼は
それほど一般的ではなかったはずだ。

加えて、ホースすらない時代に
消火活動をどうやって行っていたのか。
特に類焼を防ぐためには、
火元の付近の家を壊すことしかなかったはずだ。

私は、消火活動について絶交を解くのではなく、
火事の後のいわゆる火事見舞いについて、
要するに家屋焼失後の後処理について、
絶交を解いて共同作業を行う
ということではないかと考えている。

次に死者の腐敗臭や伝染病についても
隣家との間隔が離れていることを前提に考えると、
あまり説得力はない。

また、埋葬ならば、
当時は土葬であることも考えると、
それほど共同作業の物理的必要性が高いとは思われない。
すくなくとも、それだけで絶交を解くとは思えないのだ。

ここで、日本には「人が死んだら罪を水に流す」
という思想があり、これを理由として上げる人もいる。
それは、なかなか魅力的な考えだ。

但し、実際は村八分は、
「家」単位で行われていて、
罪を犯した人ではなく、
その親が死ぬ場合も
即ち、もともと罪を犯していない人が死んで
罪を犯した人が生き残っている場合もあり、
この場合でも絶交を解くという理由が少し苦しくなると思う。


私が考える2分の理由は、
端的に、喪失感に対する精神的手当だと思う。
今はやりの言葉で言えば、心のケアである。
但し、それは、
焼失後の最低限度の家庭再建
埋葬から葬儀までの最低限の行為を
共同で行うことであり、
それ自体が心のケアなのだと思う。

心のケアとは何をするべきなのか
という本質がまず示されている。
一言でいえば
その人にとってのコミュニティー機能の回復であり
その本質は共同作業である。

さらに、家族の死亡や火災による家屋の焼失による
人間の喪失感は、
どのような罪を犯した人間に対しても
手当てされるべきだという
当時の「常識」が垣間見ることができる。

もう一つ、
どんな罪を犯した人間でも
家族がかばうことが当たり前だということが
家族ぐるみで絶交されることの本質だ
という側面を見逃すことはできない。

そうだとすると、
罪びとに対する制裁の気持ちが強くても
その家族に対する制裁の気持ちは、
時とともに和らぐのだろうということが考えられる。

そうだとすると、そうだとすると、
人が死んだとき、火事の時、
せめてそういう時は、
力になりたいという感情も
あり得る話なのだと思う。

但し、実際の村八分も
村八分という言葉も
このような二分の絶交解除という理性的な対応ではなかったようだ。
江戸時代についてはよくわからないが
特に戦後の事件については、そのような印象がある。

例外のない排除ということと受け止められていると思う。
もしかしたら、それが自然の感情なのかもしれない。

だから、二分の絶交解除という制度を
誰がどのようにして作ったのか
大変興味がある。

この言葉が確認されているのは
幕末らしい。

村八分という概念は江戸時代に生まれた可能性がある。
そうだとすると、
私は、苛烈になりやすい村の排除に対して、
武士が宗教の力を借りて
排除の感情をすり替えた可能性があるのではないかと
感じている。

そうだとすると、
村八分という陰惨な風習を表す言葉が、
全国的に流通している理由も説明がつく。

武士という制度自体が公務員であり、
その後の明治維新のプロパガンダで
不当な攻撃をされているが、
実際は、道徳を確保していた側面がある。

仙台では四谷用水という開放式の用水路があり、
街を流れる用水路は清流として利用された。
どこかで述べようと思うが、
それは神社やお寺を利用して清流を確保し、
足軽より上の武家屋敷の間に本流を通すことで
水質を監理していた。
そして、年に二回の川底の掃除など
徹底していた。

江戸時代が終わり廃藩置県によって
清流は失われた。

道徳といっても理念的な規範ではなく、
江戸時代は生活を支えていたのである。

死によって罪を水に流すというのは、
仏教を言い訳に利用したのだと思う。

家族の死や自宅の焼失という喪失感を
放置しないことで、
八分にされた家族の破れかぶれの行動を防止し、
あまりにもかわいそうな家族を目の当たりにすることで
住民たちの心がすさむことを防止し、
共同体機能を回復させていくことで、
農業労働者、生産地を疲弊させない
という機能を経験的に必要としていた
と考えている。

それを道徳とか「常識」とかといって
武士の強制力をもって実現していた
可能性は無いだろうか。

また、庶民も
その常識を受け入れるインテリジェンスがあったのだと思う。

ギリギリの理性が
道徳を軽視する勢力によって取り除かれ
村八分という言葉が形骸化され、
全面排除と同義になったのではないかと
にらんでいる。

封建制度が崩壊したのは
歴史の前進なのかもしれません。
しかし、歴史の前進は、
すべてが正しく合理的であるとは限らない
ということを考えるべきだと思うのです。
それは当たり前のことだと思います。

不合理が是正される側面と同時に
それまで、合理性があって意識的に大切にされていたことが、
無意識に脱落している可能性もあることを見逃さないことが
大切であると思います。

それが新しい体制と矛盾しないのであれば、
理性的にそれを取り込んでいくことが
人間関係の営みの点で必要なことだと常に感じています。

そうでなければ、
歴史が進むにつれて、
人間の感情や、当たり前の心が
失われていく危険があることになってしまいます。

現在、パワーハラスメントやいじめ
趣味の集団や地域で
二分すらないような集団的な排除が行われているように
感じてなりません。
昔当たり前だった人の心が
ないがしろにされている原因が、
文明そのものにあるということも視野に入れて
問題に対処するべきなのでしょう。




相手を黒く塗りつぶして黒だと批判する この人はどうしてヒステリックに突っかかってくるのかについての考察 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

相手を黒く塗りつぶして黒だと批判するというのは、
刑法の平野龍一先生の刑法総論が出典です。

他者への批判は、他者の論理的矛盾を示して
どういう風に矛盾するかを説明することが本当なのでしょうが、
やみくもに批判をして
その弟子たちは、なんだかわからないけれど、
その説への批判は、右に倣えですましている
という弊害が法律の学者の中にもあるわけです。

だから、批判されている本家本元筋から説明を受けると
全く目から鱗ともいうような衝撃を受け
「今までの批判は何だったんだ」
となることがあります。

大家の間でもこういうことがありますから
われわれの日常の中に、
そういう不合理な批判、突っかかりがあっても
不思議なことではないのでしょう。

この歳になると
批判をしてもらうことも少なくなるので、
批判でも何でも意見をいただくことがありがたいので、
何とかそこから改善点を学ぼうとしてしまうのですが、
自分の矛盾点を指摘されているのでもなければ、
派生問題の不都合を指摘されるわけでもなく、
こちらの言っていることと全くかみ合わないところで
エキサイトされていると、
やっぱり、嫌な気持ちになるものです。

こういうことは職場では多くあるのかもしれません。
パワハラ上司の指導がこうなっている傾向にあるかもしれません。

受け手は、何が何だかわからないけれど
攻撃されていることだけは理解できるということで
対人関係的な危機意識を無自覚に募らせてしまいます。

一言でいって、
「自分の領域を犯された」
という意識を持ってしまうと
相手に対して攻撃的になってしまう
ということがあるようです。

上司と部下であれば、
自分が上司としてこれくらいの尊敬なり、優位性が必要だと感じているのに、
部下の方が、一般職員から頼りにされていたり、
技術的能力が高かったりすると
部下を自分より下に下げようとして
揚げ足を取り出す(攻撃しやすいところから攻撃する)
ということが起こるようです。

これは、自分の上司としての領域を侵されたことに対する
危機意識の反映なのかもしれません。

こういうことを目撃した時は、
言われている方がへこんでいることが多いので、
批判が的を得ていないと思うということを
せめて、言われた方にだけでも告げてあげてほしいと思います。
これがあるとだいぶ救われます。

余力があれば、
やはりそういう的を得ていない批判は
単なる人格攻撃ですから、
上手にやめさせるべきではあります。

異業種間でもそういうことはあるようで、
例えば、教育の分野についての発言を
他の業種が行うと、
「学校の実情も知らないのにいい加減なことを言うな」
という形の批判が起きることがあります。

その批判がまっとうな批判ではなく、
単なる領域侵害に対する危機感の表れの場合は、
その話のどの点が実情に合わないかということを
具体的な指摘が無いのでよくわかります。

話をしている人が、何とかしなければならないと思って
善意でお話をしていただいているのだから、
もし実情に合わないところがあれば
指摘してあげることが親切で、建設的だと思うのですが、
領域侵害危機繁栄の場合は、
違う、間違っている、正しくない
という結論だけが出てきます。

相手や周囲に、不快な感情だけを与える行為ということになるでしょう。
大体は匿名で行われます。

結論のみ提示型の批判のほか、
専門領域引っ張り型の批判も見られるところです。

その専門領域の事例について述べていないのに、
この専門領域の事例では妥当しない
ということだけなら、
アウトラインを画する作業に役に立たないともいえないのですが、

その専門領域の対象者に対する批判だと決めつけられると、
そのことについて言っているのではないのになあと
だんだんどうでもよくなるわけです。

おそらく、その主張に対する批判ではなく、
それまでのその領域への踏み込みに対して危機意識を持っていて
それがあるとき噴出したということなのでしょう。

こういう場合、相手を黒く塗りつぶして黒だと批判するという
平野先生の批判が当てはまる批判形式になるのでしょう。

特に自死問題についての連携の中では
どうしても、他業種の領域に足を踏み込んで活動する必要があります。

そうではなくて、
心の問題はカウンセラーだということになってしまうと、
カウンセラー以外何もできないことになってしまいます。

それでは、連携ではなく分業になってしまいます。
要するにたらいまわしですね。

我慢しあいながら付き合わなければならないのだと思いますし、
法律の領域に口を出してくる業種があっても
歓迎するべきなのでしょう。
というか、権利が生まれるときというのは、
だいたいが、先ず、法律家以外の人たちが声を上げだして、
法律や法律の周辺科学の人たちと連携して
国家の承認にいたるものです。
自分の業種以外の知見を積極的に取り入れることが
本来的に法律学の命なのです。


どんどん分野を移動してお話は進むのですが、

これが親しい人間関係の場合は
領域侵害の危機意識ではない場合があります。

家族だったり友人関係だったりですね。

必ずしも相手に批判するわけではないのですが、
何か意見を言おうとしている時、
「これを言ったら攻撃されるのではないか」
という意識的あるいは無意識の不安を持つと
なかなか言うことができません。

それでも、言おうと思うことがあるのでしょうね。
そのために、怒りを少し借りてくる必要がある場合があります。

要するに、
「これを言ったら攻撃されるのではないか」
という思考形態が強すぎるので
これを麻痺させる作業ということになります。

この脳の活動を低下させるために
「怒り」という感情が必要になるようです。
あるいは、脳の活動を低下させた状態が
「怒り」なのかもしれません。

ところが、
これで発言することはできるのですが、
「怒り」の中での発言は
これを言ったらどういう感情になるだろうかという
将来に対する推論や
相手の心情に対する共鳴力が
同時に低下してしまいます。

先ずは、本当に言いたいことを言うことが難しくなります。
怒りに任せての発言で、なおかつ相手の気持ちを考えませんので
無駄に攻撃的になります。
話を組み立てることができないので、
否定的な結論だけが出てきます。
おそらく、それなのだろうと思いますが、
相手の言い分も理解することが難しくなり、
相手の言っていることが頭に入らなくなるようです。
同じことを波紋のように繰り返して言ってしまいます。

これが夫婦間だとかの関係だと
心底辟易してしまうわけです。
こちらも怒りがわいてきてしまい、
収拾がつかなくなるということですね。

先ず、怒りをもって話す人は、
危機意識を持っている人だと感じて聞くと
何割かは心が軽くなります。

「ああ、一方的にアドバンテージを預けられちゃったな」
と考えると、何割かは落ち着きます。

もし、これが家族であれば、
相手が怒りを借りなければ発言できない
ということを気にするべきかもしれません。

どうしたらよいか、
相手が怒って発言しているときがチャンスなのかもしれません。
怒って発言しても、
言葉を額面通り受け取らなくて、
本当に言いたいことを言い当ててあげて、
(こちらに怒りが向かっていても
 本当の敵は外部にあることが多いようです。)
受け止めて、あるいは、受け流してあげる
ということをしていくうちに、
相手も落ち着いてくるようです。

これを繰り返していくことによって、
少しずつ、発言しても窮地に陥らない
ということ学習してもらうということになるわけです。
そうして、怒らなくても話すことができる領域が
拡大していけば、平穏な生活となるわけです。

結局両者が、自己防衛をしながら付き合うということは
家族の場合、結構苦しいものです。
弱みをすべて見せ合う(原則として)関係が
楽な関係であるということになります。

この時、怒らなくても良いんだよということは逆効果だと思います。
「怒っていない!」ということになるからです。
本人は、怒っているのではなく、
言いたいことがあって、それを言うために工夫しているだけなのでしょう。

真剣に、真意に向き合うということがコツなのでしょう。

職場でも、何か指示を出すとびくびくしている部下がいます。
改善を提案すると、自分が批判をされているかのように
不機嫌な様子を見せます。

これも慣れが必要なのですが、
むしろ、そういう態度にいちいち気にしないという
上司の側の馴れの方が有効なのかもしれません。

その時も、上司を馬鹿にしているのではなく、
自己防衛の行動だと思えば
何パーセントかは、心が楽になるように思います。


「汝の敵を愛せよ」、紛争学(ウインウイン)と代理人の役割 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

紛争学というといかにもいかめしい響きがありますが、
「ウインウイン」なんていう言葉は、紛争学が発祥だと思うのですが、
割とポピュラーになっていますね。

アメリカの調停技術の理論から発生した学問で、
特に継続的な人間関係の紛争を解決するための理論
と私はうるおぼえで把握していました。

主として家事紛争の場面で活用されているのですが、
もともとは、会社と労働組合の紛争の研究から
理論が発展していったという歴史があり、
まさに私の業務分野に関連している学問であります。

紛争学といえば、日本では、
レビン小林久子先生が有名で、
九州大学の先生だったのですが、
宮城県や山形県に根強いファンがいて、
先生の講演会ともなると、
車を乗り合わせて駆け付けるという現象が起きます。

先生が各分野のADRのご指導をしている
お弟子さん方ともいう方々ということであります。

私は、平成20年だったと思うのですが、
地元の法科大学院のシンポジウムに
パネリストとして招かれて、
レビン小林先生のお話を聞きながら、
議論をさせていただきました。

何を話せばよいのかわからないので、
紛争学についての文献を読ませていただいたのですが、
目から鱗でした。
その後、弁護士会の執行部に入ったことと相まって、
猛然といろいろなことを興味に任せて考えていき、
このブログを開設したことも相乗効果となり、
対人関係学に突き進んでいきました。

なぜパネラーとして呼ばれたかというと、
当時、交通事故のADRであっ旋委員(調停委員みたいなもの)
をやっていて、
あっ旋委員の中から誰かが行くことになっていて、
おそらく年長の私がやらされたのだったと思います。

お互いに、相手が100%悪いと言いあっている
交通事故当事者の示談をまとめていっていた
ということから、
なぜまとまるのか
訴訟と何が違うのかという話をさせていただいたと思います。

この辺のことは詳細は忘れているのですが、
このブログのどこかに書いているので、
後で読んでみたいと思います。

紛争学の教訓(私が把握して記憶している範囲)は、
私のころまでは、複数の先輩弁護士から言われていたことで、
「人間関係を解決する」のが法律家であり、
事件を処理するのではないというところにあります。

どちらが正しいか、
どちらがいくら支払うかということばかり考えても
それは裁判は終わるのでしょうけれど、
人間関係は解決しません。

一方の言い分ばかりを勝たせると
その事件は万々歳となっても
紛争の火種が残ることにより、
新たな事件が勃発して、
結局、幸せになれない
というようなことになることを
恥としなければならない
みたいな感覚なのでしょうか。

また、多くの事案で、
実は金銭についてはそれほど重要視していないのに、
外に主張するポイントがなく、
金額を軸に争っていると
なんか違うということがあります。

「謝ってほしい」
という要求の意味は深く、
今後の人生にとっての意義は大きいことに
気付かされることがあります。

もっとも当事者は、
猛烈に不愉快だったり、傷ついていたりしているわけですが、
必ずしも、それがどこから来るかわからないことが多くあります。

実は、報酬がもらえなかったこと自体に不満が集中しているよりも、
これだけクライアントのために努力して
それを相手が知っているのに、
その努力を否定するかのような金額の根切に対して、
自分が馬鹿にされたというところに
一番のわだかまりがあるなんてことがあります。

相手も、
とにかく金銭を支払いたくないという一点張りで、
相手の人格を傷つけたことを自覚しないまま、
全面的にこちらの落ち度を主張してしまい、
全面戦争になってしまうということがあります。

それは当事者では、なかなか言葉にして
裁判所などに伝えることは難しいのです。

調停委員が、事案をよく理解して、
双方の本当に言いたいことを言い当てて、
双方がそれなりに問題を解決する調停案を作れれば
それでよいのですが、
紛争で葛藤を強めている当事者がそれをすることは
なかなか難しいという実情があります。

だから弁護士が代理人になるのだろうと思うのです。
もちろんこれは私の考えです。
一般かしなければならないということではないのですが、
できれば頭の中に入れていただきたいと思うのです。

弁護士は、依頼者の真意、紛争の要点を把握し、
相手方がどうしてそのような行動をとったかを推論し、
双方の言い分が、法的レベルで対立していたとしても
法理論とは別の座標軸から、
解決の糸口を探し出すことで
紛争を解消することが可能となるはずです。

これに対して、弁護士は、当事者の利益を追及するもので、
その利益は人それぞれ違うとしたら
金銭的な追及をするしかないという考えもあり得るでしょう。

ただ、この考えでは、
弁護士は、依頼者の利益を法律理論で翻訳し、
相手方とは相いれない関係にあることを前提として、
優劣にすべてをかけるということになってしまいます。

紛争の解決にはつながりません。

確かに価値観は人それぞれなのかもしれません。
だから、打ち合わせが必要なのだと思います。

どうして、弁護士を依頼したいのか
法的手続きの中で、本当に解決したいことは何か、
要するに、何のために事を起こすかということですね。

ここをしっかり押さえて、はっきりしないと、
望み通りの結果を出しても満足されないことが
多くあります。
ほぼ完ぺきな仕事をしても
こちらに怒りをぶつけられる場合だってあるのです。

私は、人間の価値に多様性があるとしても、
弁護士が、自分の人格に基づいて提案することは
必要なことだと思うのです。

訴訟や調停は技術ではなく、
人格と人格のぶつかり合いによる
共同作業だと考えています。
その過程の中で、
依頼者、相談者から多くのことを学ぶことができ、
誰かのためにその知識を活かすことができる
そうして、生きる意欲が低下している人に
再び生きる希望を持ってもらう。

そういう素晴らしい理想があるように思えるのです。

「汝の敵を愛せよ」
勝手なことを言うとキリスト教の方々にお叱りを受けると思うのですが、
人間の紛争を解決する時の最大のツールがこれだと思います。

敵を叩き潰すのではなく、
敵を敵ではなくする
味方になるまでにはいかないとしても
対立関係を解消する。

そのためには、
敵を否定するのではなく、
敵を理解しようとすることが必須のことだと思います。

そのためには、相手を馬鹿にするのではなく、
敬意をもって接するようにするべきなのでしょう。
それが、思わぬ失敗をすることを防止する秘訣でもあります。

当事者は、葛藤が強いために、
なかなか自然とこういう考えになることはできません。

弁護士は、依頼者の100%の味方なのですが、
それは、依頼者の表面的な言動に忠実に従うのではなく、
自分と依頼者の人間関係に基づく共同作業の中で、
依頼者の真の利益について問題提起をして、
一緒に構築していくことなのだと思います。

だから、どっぷり依頼者の感情に追随するのではなく、
岡目八目が発揮できる位置に立ち、
依頼者の本当の利益を害しないように
依頼者に代わって、依頼者の敵を愛する
という作業こそが必要なのだと思います。

「女性らしさ」 女性性を否定する呪いから女性を解放する時期に来ている。一部のジェンダーフリー論はフェミニズムとは言えないと主張する理由 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

先日、自分の写真をたくさん掲載するNPO法人の関係者の記事を読み、
「ああなるほど」と、膝を打ちました。

「女の子らしく」しろというのは呪いなのだそうです。
ヒーローもの等で女性が補助役でしか登場しないのは
「女の子らしさ」の呪いなのだそうです。

結局、この論調は一部のフェミニズムを自称する団体と共通で、
象徴的な主張です。
要するに、「女性も兵士にしなければならない」ということです。
これがフェミニズムの堕落の象徴的な主張なので、
考えてみようと思いました。

「女の子のくせに」とどんな時に注意されるでしょうか。
最近、自分の意見を鮮明に表明する場合に
女の子を引き合いにして注意されるということは
さすがになくなっていると思います。
森友学園でさえ、女の子にも宣誓をさせていましたが。

子どもを育てていて、
自分ではあまり男の子らしくとか女の子らしく
とかいうことを言った記憶はありません。
ただ、いろいろな集団活動の現場で
耳にすることが無かったわけではありません。

女の子のくせにという言葉が発せられるのは、
一つに乱暴なことをする場合
だったと思います。

その時は、そこで女性を出さなくてもよいのではないか
と正直思いましたが、
今は、それが女性らしいと感じることは
理由があることだと思うようになっています。

乱暴をしないというところに焦点を当ててみます。

先日、母性についての誤った理解は、
女性性と母性が混乱しているからだ
と指摘しましたので、この点については触れません。
「母性幻想の根源は、ヒト女性行動傾向との混乱にある。人間の価値はどこに。」 http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2017-02-23

私の主張は、行動学的に見て、
人間の女性が争いを好まず、共存を志向している
という特徴を遺伝子的に有しているというものです。

但し、現代のすべての女性にそういう傾向が色濃くあるとか
そうあらねばならないということを主張しているわけではありません。

繰り返しもあるのですが、少し説明します。

すべての出発点は、
ヒトが二足歩行をするところにあると考えています。
その影響があると思うのですが、

受精してもなかなか着床しない。
流産しやすい。
走り回らなくても重い物をもっても骨盤が開く
四足歩行の場合は重い物は持たない。
妊娠期間が長すぎる
出産が危険である。
出産後に母が死亡するケースもある。
死産も多い。
生まれてすぐ死亡しやすい。
生まれてからかなり長期間自力行動ができない。
新生児は極めて弱い。
新生児の依存度が高く長期間にわたる。

こういう傾向があったわけです。

このため、チンパンジーの祖先と別れて800万年
原人と別れて20万年という人類の歴史の大部分が

子どもは母親だけが育てるものではなく、
母親を中心としつつも群れが育てるものだ、
そのために共鳴共感のメカニズムが母親以外の者と成立する
という極めてまれな生物となっている。
母親以外の大人が赤ん坊を可愛がり守ることがある。

こういうヒトの行動傾向が
ヒトが種を保存させるために必要でした。

言葉もない時代からヒトはこのような行動をとってきた。
それは遺伝子的に組み込まれることによってのみ
ヒトという動物に普遍的な傾向となったわけです。

二足歩行がこのような動物としての特徴を作ったのか、
群れを作る特徴が二足歩行を可能としたのか
なかなか面白い問題だと思います。

当時、群れは自分を守るものですから、
あまり個の確立は求められない時代が続いたわけです。

群れを守るというのは群れの頭数を維持するということが基本です。
大部分の人の歴史では、
40歳を超えて生存するということはあまりなかったと思われます。
そうだとすると、子どもを出産すること
子どもを自立するまで死なせないで育てること
これがヒトの一番のテーマでした。

一つには流産を避けること、
狩りなどの戦闘行為に女性を参加させないということは
流産を避けて、出産率を高めるためには必要だったはずです。

もっとも植物の採取だって、アスファルト道路なんてないのだから
流産の危険を回避するためにはいかせない方が確実だったと思います。

それは女性が劣っていることを示すものではなく
単純な役割分担ということです。

いつしか遺伝子的な行動が
文化的な感情を伴うようになるわけです。
なんとなく静かに過ごす女性が好ましいような風潮は
人間独特のものですが、
遺伝子的な行動という頼りない行動様式を
文化的な確実なものにしていったのだと思います。

(アントニオダマシオは
 二次の情動は、後天的なものと割り切っているようですが、
 私は、少なくない部分は遺伝子的要請と文化の混在によるものだ
 と漠然と思っています。)

具体的な男性や女性がどうかというより、
このような人類の悠久の営みによって
遺伝子的にいくつかの傾向が生じてしまうのは、
人類が歴史から切り離せない形で生存していることから
当然のことです。

男性は、命がけで狩りをすることが役割ですから、
動物に対する殺戮を嫌っていたのでは話になりません。
また時には他の群れとの戦闘もあったと思います。
どうしても、共存そのものではなく、
共存に必要な狩りや戦闘の遺伝子が入ってきているでしょう。
不正を許さないということも
チームプレイに自分や群れの命がかかっていることから
どうしても峻厳になる傾向があるのと同時に
感情が高ぶってしまうことも合理的な理由があるわけです。

これに対して女性は、
群れを守るという役割があります。
チームプレイを乱したところで、
よっぽどのことが無ければ命にかかわりませんので、
寛容性があるというか、攻撃性が低いというか
そういう傾向になりやすいと思います。
そこが、正しさよりも優しさを選択する発想になるのでしょう。

男性はどうしても白黒をつけたいわけです。
論理学でいえば矛盾を許さないアリストテレス論理学です。

女性は白黒よりも共存を志向するため
双方の利点を尊重しようとするわけです。
ヘーゲルの弁証法論理学がなじみやすいですね。

こういう女性らしさは確かにあるように思われます。
新幹線の二人掛けの椅子に座っていて
先ず、女性がひじ掛けからはみ出すということは
経験がありません。
男性はひじ掛けから肘がはみ出して出っ張っていると
どうしてもムカッと怒りの感情が出てきてしまいます。
ちょっと、突っついてみたりして。

女性は、あまり、このムカッという感情が
どうやらでないようなのです。

もっともここにも論点があって、
女性は怖いから言わないのだという人もいます。
そうかもしれません。
ただ、色々私的にリサーチしてみたところ、
どうやら傾向として、
反射的な怒りは男性の傾向のようです。
女性を馬鹿にしてという意味付けをした場合に
女性は怒りを持つような感覚を受けています。

これは日常家事的にはもっと鮮明に現れてきます。
本当によく聞くのが、
スーパーマーケットのレジに並んでいた場合、
例えば横入りだったり、その他不道徳な行為に
夫は反射的に怒りの感情を持ち、
感情を抑えきれないで注意等の行動をすることがあり、
妻はそれに耐えられないということをよく聞きます。

正義感が必ずしも肯定的にばかり作動しない
ということになる場面ですね。

男性は、ルールを守らない方が悪い
という価値観で行動する傾向がありそうです。
女性は、ダイレクトに調和を求める傾向がありそうです。
例えば、夫はルール違反でなければ自由な行動をしますが、
妻は、人から見られて恥ずかしい行動はしてほしくありません。

このポイントが
実は、妻が夫に対して恐怖を感じたり
自分を否定されていると感じるポイントになっている
と私は離婚の事例を担当して感じることが多いです。

フェミニズムは、第2派フェミニズムまでは、
女性のこのような非戦闘的、寛容的、協調的な傾向で
世界を変えようとしていました。
それらの傾向は、公正公平、弱者救済、平和の志向に
論理的にもなじみやすいわけです。

平成28年10月20日のAFPの配信記事ですが
「イスラエルとパレスチナの女性活動家ら、平和を訴える行進」
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161020-00010007-afpbbnewsv-int
とても素晴らしいことですし、
これぞフェミニズムだと私は思います。
女性らしさを大切にした活動で、
世界から称賛されるべき人類史的な活動だと思います。

確かに、遺伝子的な要請に文化的なものが加わるとき、
時々の権力の所在によって、
本来遺伝子的な要請ではない事項が付加されます。
女性らしさは、慎みだという事項は、
全くこういうものであり、唾棄すべきものだと思います。

しかし、ヒトという生物的な女性らしさを否定しまうことは
何の根拠もなく、かえって女性を苦しめるものです。
一部のジェンダーフリー論者が国家権力と結びついて、
女性の権利を剥奪していきました。
深夜労働を解禁し、生理休暇を事実上廃止しました。
女性であることを理由に保護されるのがけしからんということらしいです。
そうしてまで果たしたい女性の社会進出はどうなったのでしょう。
賃金格差はどこまで解消されたのでしょうか。

女性らしさを理由にできないということは
女性にとっては大変つらい場合もあります。

また、今の一部のジェンダーフリー論は
女性であることを否定するもので、
女性を男性化しようとしているのではないかと
思えて仕方がないことがあります。

自分の写真をべたべた乗せるNPO法人関係者みたいに
女性も過労死させろと言っているようなものです。

戦闘シーンで女性が補助的な立場でなく
攻撃を主導する立場で喜ぶのは誰でしょう
会社が決めたルールにのっとって
自分の個人的な事情を無視して長時間働くことで
喜ぶ人は誰でしょう。

実は、「女の子らしさ」を否定することは、
強欲な利益至上主義者の手先の効果が
主な効果になっていないでしょうか。

深夜労働を拒否できない状態にすることで
安い労働力を使えると喜んでいる人がいるわけです。
毎月生理休暇が取りにくい状態を
確実に喜んでいる人がいるわけです。
男性並みに活動し、
無自覚流産しても
何のも痛痒も感じない人たちがいるわけです。

これは、800万年の人類史上初めて
女性が、女性であることから受ける
当然の利益を奪われている時代ではないでしょうか。

むしろ、
男性を女性並みにしろと言う主張自体が健全です。

なぜならば、今の時代、
戦闘的な本能は不要である上、有害だからです。
正しさよりも優しさが必要な時代だからです。
もっと、女性の遺伝子的傾向が
社会の支配的傾向になるべきです。
今なお続いている戦争を少しでも少なくし、
それぞれの人間の条件を無視して
過労死するまで働かせることを
優しさで否定するべきです。
誰かを攻撃したくなるような要因を探り
ダイレクトに共存するための文化を構築するべきです。

それには何が正しくて、あるべき姿だなんていうような
男性的な発想は有害になるだけではないかと
今は考えています。

もし、今の第3派フェミニズムの趨勢が
このような発想、遺伝子的女性らしさの強調ですね、
これを否定するのであれば、
それはフェミニズムと呼ぶべきではないと思います。
女性を解放しないで、男性化させるだけの
論調に成り下がっていると思います。
人類史の中で恥ずべき最悪の論調です。
女性性の否定という呪いから生身の女性を解放するべきです。
女性であることを理由に堂々と自分を大切にすることを
是とするべきです。
それは自分だけの利益ではありません。

時代は、男性化社会から女性的傾向社会へと
変化することが客観的に求められていると思います。
そうでなければ人類の生き残り自体が怪しくなっていくでしょう。
案外第4派フェミニズムの担い手は
日本では女性ではなく、
理性的に目覚め、自らの弱点を認識した
男性なのかもしれません。

いなばの白うさぎの対人関係的解釈 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

大国主命大神の話の中に出てくる
因幡の白兎の話は有名ですが、
最近の子どもたちは知らないかもしれません。

島の白うさぎが、陸地にわたりたくても手段がない
一計を案じてわにざめをだまし、
白うさぎの一族とわにざめの一族の
どちらが多いか数えてあげるから
島から陸地まで並んでみてくれと
働きかけました。

わにざめは、それを信じて
おとなしく並んだので
数を数えるふりをして
わにざめの背中を渡り、
さあ、上陸だという時になって
それは嘘だ。自分は上陸したかっただけだと
ぽろっと話してしまったために
わにざめは怒って
よってたかってかみつき
皮をむかれてしまった。

かなり重症で苦しんでいた時に
大国主命の兄たちが通りかかって、
海の水に入って乾かすとよくなると騙しました。
それを信じて乾かしていたところ
塩が傷口に入ってきて
ますます苦しむことになった。

そこを通りかかったのが
末弟の大国主命で、
淡水で洗い、ガマの穂綿にくるまることを教え
白うさぎの傷口が癒えたというお話です。

白うさぎは大変感謝をして、
大国主命がお姫様と結婚することを助けたり
いろいろと恩を返すことになるという話です。


しかし、この話、
もともとうさぎが悪いんです。
わにざめをだましたのですから。

おそらく、当時、多くの数を数えるということも
ある程度の知識が必要であり、
素養のない人は、
数のペテンにあっていたことと思います。

なにせ、算用数字が使えないどころか、
文字すらもあったのか疑わしい時代のことです。
数字をごまかして
他人をだまそうとすれば
簡単に騙せた時代だったかもしれません。

なんらかの制裁を受けること自体は仕方のないこと
かもしれません。

皮をむかれたら生きてはいけませんので、
そこまでが実際あったことではなく、
おそらく、四面楚歌の状態になったのだと思います。

そこを通りかかった大国主命の兄たちも
神様ですから、
今でいえば為政者だったのでしょう。

為政者としては勧善懲悪を徹底していた時代ですから、
当事者の私的制裁を受けた後の白うさぎに対して
さらに追い打ちをかけて罰したということになるでしょう。

これは、正義です。正義の制裁ということになります。
言葉を変えてみれば常識ということですし、
多数派の考えということも言いうるかもしれません。

人をだました者をリアルに描くことは
かなり強烈なことだったので、
白うさぎということにして、
印象を緩和したのだと思いますし、
加害者性を緩めた表現になっているのでしょう。

問題はここからなのです。
大国主の話は、インドが由来のおとぎ話だとされているのですが、
全く知識はないのですが、
白うさぎを助けるということが
もしかしたら日本的な話なのではないかと思うのですが、

大国主は、そんな狡猾で弱い者いじめの白うさぎに対して
適切な対処方法を告げて
白うさぎを蘇生させました。

悪事を処罰するという正義だったり、常識に
反する行動をとったのです。
許すということですね。

どんな者であっても、
困っている状態、瀕死の状態(対人関係的に)であれば
救いたくなり、救ってあげる
というところに価値を置いている
という話なのではないかと
そう思うのです。

この種の物語の傾向として
助けられた者は恩を返すのですが、
それは本質ではないように思えるのです。

善悪にかかわらず人を助ける。
それが人を再生させる
ということのメッセージが、
生きることだけで厳しい時代の中で
育まれていたのだと思います。

衣食足りて礼節を知るの対人関係的補足 友人間のリンチの構造(ちょっとネガティブなのでその意味で閲覧注意) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

中国の「菅子」が出典のようです。
意味は、

「一国の為政者たるものは、計画をたてて経済を豊かにしなければならぬ。豊かな国へは、どんなに遠くからでも 人民は集まってくるし、開発の進んだ国から逃げ出す人民はひとりもいない。その日暮らしにもことかく者に礼節 を説いたところでなんになろう。生活が豊かになれば、道徳意識は自然 と高まるものであり、衣食が十分であれ ば、自分の名誉や恥とかを重くみるようになる。」
ということらしいです。

紀元前600年頃の話ですから、
文明、生産技術と、生活状態が直結していたのでしょう。

なぜ、衣食が足りないと礼節を忘れるのでしょうか。
この場合の「衣食足りる」とは、この時代のことですから
寒さをしのぐ手段、飢えをしのぐ手段がある
ということになるでしょう。

寒さをしのげず、飢えたままであれば
人間だって動物ですから
生きようとするわけです。


飢えていたり、凍えていたりして
生存の危険が生じている場合は、
先ず、食料を口にしたい
生存の不安を解消したいという意識が高まります。

他の群れのやぎをこっそり奪っても食べたいと思うでしょう。
そして、このような慢性的な不安がある場合は、
他の群れのやぎを奪うことによって、
後でもめ事になるというような、

他人の気持ちを考えるという共鳴する能力や
将来的にまずいことが起きるかもしれないという推察力が
活動を停止ないし低下してしまいます。

だから、道徳とか、正義とか
目に見えないものが、心のストッパーにならないのです。
おそらく自分の家族の命を助けるために
他人の家族に不利益を与えるということが多かったと思われます。

この時期には権力者が存在していますから、
新都市の形成のために移住させられた形で
地縁も血縁もない群れが隣り合わせに存在した
可能性があります。

すると、仲間という意識はないですから
自分たちの生存競争のために
他の群れと敵対することはあったでしょう。
大変興味深いです。
家族や少し大きい小集団の中では
分け合って生活したとしても、
隣の群れとは、生存競争が激しかったりしたのでしょう。

だから、礼節を知らないというのは
飢えもあるのでしょうが、飢えそのものではなく
生命の危機に慢性的にさらされていることによって
交感神経の活性化が慢性的に持続していたことによる
脳の機能の停止ないし低下という側面を見逃してはいけない
のだと思います。

現代社会でも、礼節をわきまえず、
ヘイトスピーチを行ったり、
身近な人間をリンチで殺したり、
家族に暴力をふるうなどということが行われます。

曲がりなりにも、衣食はあるはずです。
どうしてこのようなことが起きるのでしょうか。

対人関係学は、衣食が足りても、
交感神経の活性化が慢性的に持続している事情があるからだ
これが、現代社会においての
「衣食」なのだと考えます。

即ち、
このことわざを作った菅仲のころは、
群れの結束は強かったものと思われます。
群れの構成員どうしはかばい合い、補い合っていたと思います。
そうでなければ、群れ全体が消滅してしまうからです。
一人だけ食料を独占してしまうと
群れの他の構成員が死滅していき、
群れを失った者は、農業をすることもできません。
また、一つの群れに属するだけで、
複数の群れに属するということは滅多になかったはずです。

これに対して現代社会は、
家族を中心とする群れに所属するだけでなく、
学校や会社に所属していますし、
税金を払ったり選挙を行い、社会につながっています。
犯罪によって、実名が報道されたり、
ネットに自分の居場所を見つけたり、
ネットで傷ついたりしているわけです。
群れが複数存在しています。

群れの構成員相互の関係も
例えば、家族であっても、
あまり一緒にいる時間がないことが多いのではないでしょうか。

学校といっても他人の集まりということが多く、
好きや弱みを見せるといじめられたり、
就いていけなくなるということがあるのではないでしょうか。

職場といっても、人間として大事に扱われるのではなく、
会社の利益のために、人格を消すことを要求され、
恥ずかしさとか、辛さとか、そんなことは考慮されない
人間らしい結びつきも否定されてはいないでしょうか。

社会についても、
子どもたちは、中学の後半で、
自分の一生を悟ってしまう。
明るい展望を持つことを許されずに、
自分が将来的にみじめな生活を余儀なくされると
そんな気持ちになることも達が
かなりの数で存在するように感じてしまいます。

そのような子どもたちの唯一のよりどころは
同じような境遇の子どもたちです。
友達というような積極的プラスの付き合いではなく、
自分のそばにいる人間がいるという
ぎりぎり最低限の安心感のようです。

その子の弱いところを承認して助け合うわけではなく、
もともと承認されていないと感じる者同士が、
家庭でも、学校でも、職場でも
自分の存在自体を否定されていると感じている者たちにとって、
存在自体を承認する、一緒にいること自体を承認するという
最低限の「仲間」だった可能性があります。

16歳の少年が亡くなったケースでは
電話やメールに出なかったことが犯行の動機とされています。

これは、加害者たちにとっては死活問題だったのでしょう。
仲間すら、自分たちの存在を否定するという意識を持ってしまうと、
自己防衛的な意識が極めて強くなってしまいます。
危険をより大きなものととらえます。

そして、その対象者が、自分より弱い、自分たちは勝てる
という意識を持ってしまうと、
本来、社会や、家庭、学校との関係で持っている不安に対する
カウンター行動が、
弱い、勝てると思われる相手に向かってしまうわけです。

怒りの大部分は八つ当たりです。

回復できないはずの自分の存在意義の回復の行動ですから、
攻撃行動は、終わりが見つかりようがありません。

社会的存在に対する不安が慢性的に持続していて、
相手の心情を考えるような共鳴能力や
このまま続けると死んでしまうのではないか、
そうなったら取り返しのつかないことになってしまうという
近い将来を予測する推察力は
脳の機能が停止ないし低下しているために
発動することはありません。

凄惨な結果になる傾向になってしまいます。

だから、少年たちの加害も、
貧困が原因というよりも、
少年たちが置かれた、承認されない、否定されているような
社会構造にあると考えなければ再発防止にならないのではないでしょうか。

よるべき場所がない少年たちが吹き溜まりのように集まってしまうことは
社会の問題だと思います。
つまり、少年たちが、独力で改善することは極めて困難です。

それでも、社会は気楽なものです。
自分たちが、加害者を追い込んで、
交感神経の活性化が慢性的に持続される状況に落としておきながら、
全て自己責任ということで
加害者を処罰して終わりとしようとしているわけです。

これから、同種の事件は増えるでしょう。
むしろ、陰湿化、非人間化してくると思います。
自分が大切に扱われていないと思う人たちは
他人を大切にしようという気持ちになれないし、
どうすれば他人を大切にできるのかもわかりません。

それでも社会は、追い込まれた少年たちを放置して
即ち被害を放置して、
自分たちが追い込まれている社会からの不安、危機意識を
加害者に対する怒りにすり替えていくことでしょう。

自分のこととして原因を考え、対策を講じないで、
悪いやつを悪いと怒ればよいのですから
とても気楽なことだと思います。


人の振り見て我が振り直せ 自己洗脳の脱却方法 損して得取れ 和の心の再構築 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

一年くらい前も同じことわざで記事を書きました。

「共鳴力、共感力は、人の振り見て我が振り直せシステム。後天的に学習できる。」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-04-01

その時は、人間という弱い動物が生き残るシステムとして
共鳴力、共感力が必要だったということで
お話ししました。

今回は、自分の思い込みを是正する方法として論じます。

例えば離婚調停等をやっていて
「どちらが悪い」という不毛な論争から脱却できたとしても
楽しく家族として生活するためには
現状を改善しなければなりません。

相手に対する不満のポイントばかりが目につくのですが、
実は、そこに不満を抱いていること自体が
解決を不能としている場合があります。

誰しも
自分がこうしたいという感情を基軸に
物を考えたり、感じたりするのですが、
その自分の感情は、果たしてそれでよいのか
ということを考えなければ
解決しないことがあります。

元々、相手にこうしてほしい、ああしてほしいと
願って望んでも
相手も心がありますから
結論だけ押し付けられても
反発することがむしろ多いのではないでしょうか。

相手を変えるためには
こちらかがわかって見せることが
唯一の方法だ

と考えています。

どちらが正しいなんて子どもみたいなことから卒業しても
相手に負けたくないという気持ちがあったのでは
対人関係は解決しないのです。

主義主張があることは別として、
例えば、
食事を作る場合、
自分だけが調理をするのは損をしている気持ちになる
という奥さんがいたとします。

ところがこのご夫婦の場合、
奥さんは、調理はそれほど嫌いではない、
また、おかずの出し入れで、
旦那さんが機嫌が良くなったり悪くなったり
きわめて単純で、(男は大概そうですが)
相手のコントロールが可能というのであれば、
調理をすればよいわけです。

食事を作るのは相手のためではなく、
家族の在り方をコントロールする方法だし、
家族のために作るというフォアザチームの発想を持てば
自分も家族というチームの一員なのですから
損をしているという感覚は強くならないはずです。

知らず知らずのうちに、
チームの状態を一員として判断するのではなく
自分と夫との
対抗関係として人間関係を見てしまっているのです。

「損をしている」という感覚をもつという抵抗感があるということは
「損」とは、自分が尊重されていないことを表すような
そういう評価をしてしまっています。

「損」は間違っているのでしょうか。
家族のために
自分の労力を使うということは損でしょうか。

損得は、近代というか、資本主義的というか
そういう価値観だと思うのですが、
こういう評価基準は家庭の中に入るべきなのでしょうか。

逆に夫は、
自分だけが家族のために働いて
会社で嫌な目にあって苦労している
これを損と言いはしないでしょうが、
だから家族は自分を尊重しろ
というのであれば、
やはり損得の感覚が滑り込んでいるような気がします。

妻に負けたくない、夫に負けたくない、
損をしたくない
という気持ちが、
家族というチームの構成員の中で生まれることは
チームを解消する方向に働くでしょう。

ある意味負けりゃあ良いんです。
それで家族が楽しくなるのなら
一時的に負けても、それでより結びつきが強くなったり
家族が家族でいることに居心地が良くなるなら
なんぼでも負けましょう。

なぜかそれができない。
変な価値観に支配されているわけです。
こういう夫婦は、一方的に負けたくないというより、
相互に意地を張っていることが多いようです。
先日述べたように相互作用だからです。

どちらが、妙な価値観からいち早く脱却するか
という問題なのですが、
既に自分に確立されてしまった価値観を
改めて疑うということはとても難しいことです。

弁護士みたいな第三者が口添えしても
感覚を修正することは大変難しいようです。

このたび、その方法を見つけました。
それは、
むしろ相手の悪いところ、嫌いなところを
徹底的に分析するところです。

相手は、自分に負けたくないと思っている
自分に何か言われると、指図をされているように不愉快になる。
意地を張って言わなくても良いことを言っている。
子どものことを顧みない。
まるで子どもだ。
等々など。

さあ、ここからが問題なのですが、
じゃあ自分はそういうところはないのか
ということです。

多くの場合、形が多少違っても
同じような発想になっています。
意地を張っています。

自分のこととしてはわからないけれど
相手を見て、自分と照らし合わせることで、
相手の嫌なことはそっくり自分もおんなじだと
気が付くことができるでしょう。

ロールプレイングとは、これです。
司法試験などのグループ学習も
これを期待して行っています。
「他人を評価する時は、自分の実力は1.5倍増しになる」
ということです。

対抗意識がありますから
すぐにそれ(自分も相手と同じにはりあっていること)
を認めることはできません。
「自分の行動は、相手が悪いからこうなった」
という発想になるでしょう。

でも現状を変えようとした場合
過去においてどちらが悪いということは
あまり意味のないことです。

どちらがよい関係を作ろうとしたかで
考えればよいのではないでしょうか。

ここで、相手にあわせるという形で
自分を変えて見せる
「私はあなたを尊重しているよ」
という強烈なメッセージになるはずです。

近代的、文明的、西洋的価値観を捨てて
損して得取れではないですが、
和の価値観を再生するべきだと思います。

あなたのご家庭だけでなく、
職場や地域もそうですが、
必要以上の功利的な価値観は、
結局悪くなるだけのような気が
最近特にしているのです。

北ニケンクヮヤソショウガアレバ 裁判についての誤解 真実を知りたい、白黒をつける  [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

宮沢賢治の雨ニモ負ケズの中に

北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

という一節があります。
弁護士になってからは、ずうっと引っかかっていた節です。

権利が侵害されている人にとって
裁判という手続きで権利侵害が回復される
人間性を回復する手段だと意気込んでいたからかもしれません。

といっても、今そのような考え方を
全面的に改めたわけではありません。
そのような効果も全くないとは言えないのはもちろんです。

ただ、それは、必ずしも結果が保証されているものではなく、
むしろ、ギャンブル的要素が強い不確かなものだという
そういう考えも色濃くなっているのであります。

裁判を行う当事者と接する仕事なのですが、
なんのために裁判をしているかという文脈で、
真実を知りたいとか
裁判で白黒つけるんだ
とかおっしゃる方がいて
その気持ちはよくわかるのですが、
裁判は、そこまで精緻なものではありません。

お医者さんなどに診断書を記載してもらう場合も、
自然科学的に一点の曇りがない場合でなければ
協力できないとおっしゃる方もいて
苦労して説明することも多くあります。


真実を発見するシステムとしても
裁判という制度は決して万能ではありません。

100%の真実を見出すシステムでもありません。

では裁判がどういう制度かということですが、
人間関係で紛争が起きた場合、
いつまでも紛争が続くと
当事者だけでなく、周囲も険悪になっていったり、
力の強い者だけが幅を利かす弱肉強食の正解になってしまいます。

このため、主として秩序回復のため
国家権力の強制を背景として、
強引に結論を決めてしまうという制度なのです。

これだけでも、法律や裁判を使わないで済むなら
使わない方が良いということを基本に据えるべきだと思います。

ではどうやって、真実かどうかわからないのに
結論を出せるのでしょう。

それが証明責任です。

大体は、請求する方が
請求がもっともだという裏付け(証拠)を提出する責任を負います。
これがある程度もっともだという時は、請求する方が勝ち、
裏付けを出せなければ請求する方が負け
という、単純化するとそういうルールを決めて
争う制度です。

厳密に言えば、真実かどうかで結論が決められるのではなく
真実だと証明できるかどうか
という話になります。

もっとも、裁判官も常日頃から研鑽を重ねていてい
法律だけでなく、裁判の下になる知識も勉強しているのですが
人間の知識や思考には限界があります。

例えば、交通事故でむち打ち症になったという事例を
考えてみましょう。

まず、今現在むち打ち症で痛みが残っているかどうか
そこからして、証明ができません。
むち打ち症の損害賠償を請求する方は
証明ができないだけで、負けてしまう可能性があるわけです。

また、交通事故の原因が
どちらがどれだけ責任を持つかという過失割合という問題があり、
80%悪いとか55%だとか言いますが、
そんなことメジャーがあるわけではありませんから
真実なんて、本当は決め用がありません。
過失割合の表があるのですが、
突き詰めれば、
過去の裁判例で、平均するとこうだっから
というあやふやな理由しかないのです。

では、かっちり過失割が場合分けできれば
ある程度真実は、白黒は決められるのでしょうか?
これも無理です。
どちらが先に交差点に入ったか、
どちらがどのくらいスピードを出していたか、
どちらかが止まってからぶつかったか、止まる前か
なかなか実際はわかるものではありません。

目撃者がいたとしても
さあこれから交通事故が起きるからきちんと目撃しましょう
なんてことはありえません。
もし何らかの予感がして一生懸命見ていたとしても、
あれ、あれ、あれ、もう一回見せて
ということがむしろ普通ではないでしょうか。

いずれにしてもあてになりません。

一番あてにならないのが当事者です。
相手が悪いという気持ちは強いのですが、
多くの当事者の相手が悪いという理由は、

いつもと同じように自分は運転していた
いつもは事故は起きない、
すると自分は悪くない
だから悪いのは相手だ
という論理?が最も多いのです。

そして、少なくない割合で
いつも道路交通法違反の運転をしていることがわかります。

それでも、裁判で判決が出されるわけです。
裁判なんてこういうものかもしれません。

勝ち負けにはギャンブル的要素があるということは
少しお分かりになったと思います。

だから、
白黒が付いたのではなく、
白黒をつけたことにするということが実態にあっていて、
真実がわかったと実感することはあまりありません。

救うべき人を救っているのか
そらおそろしくなるわけです。

相手方に証拠を出せといっても
出しませんし、
はなはだしくは
もうその文書は燃やして捨てた
ということになると、
どうしようもないことも多いです。

数日前に、対立司法から人間関係調整手続きにという記事を書きました。
一つにはこういう理由もあります。

もしかしたら、今日の記事を読まれた方の中で
絶望的気持ちを抱かれた方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、思うのです。
本当に白黒をつけることは必要なのだろうかということです。
交通事故なんて、多くの割合は当事者が悪いのではなく
危険な自動車走行を許しているという問題があり、
そこから不可避的に生じているのだから、
損害保険システムを改良して、被害者救済をした方が合理的なのではないか
という発想があってもよいように思うのです。

被害があった場合、
どちらかが悪いので被害が生じた
という論理こそ、もしかしたら嘘くさいのではないでしょうか。

過去の評価を強引に定めるより、
よりよい将来に向けた改善作業こそ必要なのではないでしょうか。

過去の出来事に、心がとらわれて
自分の人生を足踏みしたり後退したりしていることこそ
もったいないような気がします。

人間関係調整手続きは、このような考え方に立脚しています。

そう考えると
宮沢賢治の雨ニモマケズの方が
深い洞察力のある本質をついた考えなのかもしれないと
ようやくそういう考えに至ったというお話でありました。
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