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裁判員裁判が厳罰化することには理由があるということ [弁護士会 民主主義 人権]


裁判員裁判が厳罰化するということは
弁護士の中では共通認識となっています。
それ以前の裁判官による裁判に比べて
一般の人たちが入る裁判員裁判は、
刑が重くなるだけでなく、
被告人の主張が排斥されることが多いというわけです。

学者の中には、
裁判官が裁判員を誘導しているのではないか
というご指摘もあるのですが、
直ぐ近くでやり取りをしている立場としては
裁判員の方々の率直かつ
共通の考えによって、
このような傾向となっているように思われます。

刑事裁判の厳罰化は、
裁判員裁判という制度にその理由があると考えるべきです。

裁判員裁判と裁判官による裁判の違いは
初めて刑事裁判にかかわった人たちが裁判をする
ということから来ています。

大きく言うと二つのことにあると思われます。

一つは、法的知識、法的理解、訓練があまりないこと
一つは、事件、特に損害を目の当たりにした経験があまりないこと
ということになります。

裁判員裁判を行う事件は重罪事件と決められています。
典型的な事件は殺人事件です。
殺人事件では、通常、
殺人の事実を示すために、死体の写真が証拠提出されます。
死因と思われる怪我の状態が写っているわけです。
色身を落としたり、写真を少なくしたり、
あまりショックを受けないような配慮はされますが、
死体は死体です。

人間は、生きている人間を見ることはあっても
なかなか死体を見るということはありません。
しかも、外傷のある死体の写真を見ることは
滅多にないことです。

言い知れない嫌な気持ちになります。

これは、対人関係学の立場からすると
無意識に死体に対して共鳴共感してしまうと考えます。

人間は、群れの構成員から学ぶという習性があります。
群れの誰かが喜んでいれば、それを理解し、
自分も利益にあずかるということですし、

群れの誰かが苦しんでいたり、悲しんでいたりすれば
それを理解してしまいます。
一つには、その人を助けようとする本能が発動することと
一つには、同じ苦しみを追わないようにする動機付けになる
ということです。

死体に共鳴、共感するということは、
既にどうしようもなくなった状態ということですから、
死の間際の壮絶な苦しみだったり
もはや助からないという絶望感に共鳴してしまうことになります。

自分ではそれを意識しているわけではなく、
ただ、体調的な嫌悪感から嘔吐やめまいを起こしたりすることがあります。

これは、人間の自然な反応だと言えるでしょう。

そうすると、このようなむごい事態について
何らかの決着をつけることを志向します。
これが許されることは断じて容認できません。
不安感、絶望感に近づけば近づくほど、
それを解決したいという無意識の心の動きが出てきます。

一つには、理解を拒否するパニック状態に陥る
一つには、無かったことにしたいという気持ち
一つには、誰かのせいにしたい
ということがごくごく自然な人間の反応です。

人が簡単に命を奪われるということを
なんとか否定したいというように
心が動いてしまうわけです。
その存在は、人間をたまらなく不安にします。
共鳴力、共感力を通じて
被害者の過去の死亡と自分の将来の危険が
結びついてしまうということです。

誰かのせいにしたいという心の動きに注目です。

これらの心の動きは、不安や危機意識に還元できること
不安や危機意識を解消したいという志向があること、
解消行動として闘争と逃亡があり、
危険を作るものに対して勝てるという意識があれば
闘争によって解消しようとする傾向があり、
闘争によって解消しようとしている心の状態が怒り
ということになります。

裁判員は、中には不安を持て余して
裁判を続けることが不可能な人も出てきます。
これは当然なことだと思います。

しかし多くは、自分が安全な立場にいるということを
相当程度理解しています。
不安解消行動は怒りになる傾向にあります。
また、加害者が一段低いところで
おとなしく座っていますから、
責任は目の前の人間だと思うことは
当然のことです。

勢い、被告人に怒りを覚え
被告人を厳しく処罰することで
不安を解消しようという傾向に
意識しなければなりやすいのです。

その結果、
その人を処罰する方向での考えが強くなり、
もともと正当防衛や緊急避難など
被告人に有利な制度が頭に入りにくくなる
ということになります。

むごい結果を起こした被告人を
「自分たち」とは別の存在なのだと意識することによって
被告人の苦しみやジレンマに対する共鳴、共感を
水から遮断した結果ということもあるでしょう。

被告人に有利な情状について
冷静に考えることはとても至難の業でしょう。

さて、これが裁判官であればどうでしょう。

裁判官は、一人で裁判をするまでは
原則10年のキャリアが必要になります。
それまでに死体の写真もある程度見るようになります。

はじめは誰でも裁判員と同じ反応となります。
しかし、徐々に、自分とは関係の無い出来事であることを
理解していきます。
悲惨な状況に馴れていくわけです。

嫌悪感や、絶望感、怒り
という心の原因となる不安感、危機意識は
感じにくくなるということが通常です。

そうすると、その結果である
嫌悪感、絶望感、怒りという感情的部分が後退し、
理性的な判断ができやすくなるという
環境が整備された形になるわけです。

昔は罪を犯した場合、
集団的に罰するということがあったようです。
一人の人に集団で石をぶつける姿が
聖書などに喪描かれています。

これは、一つは、神との誓いを破るという
とてつもない滞在を目の当たりにした
不安、危機意識があり
無抵抗の人間に対して
「勝てる」という意識から怒りの意識を持ちやすくなり、
順法精神がある自分とは、全く違う存在という
自分を安心させるメカニズムが発動するので、
意思が当たる人の苦しみや痛みに
共鳴共感するシステムを遮断して、
酷いことをやめるきっかけを失うからです。

しかし、後々自分の行動を思い返して、
人は後悔をするか、
他人を攻撃することに痛みを感じなくなるか
いずれにしても悪い結果となるので、
近代の裁判は
理性的にふるまえる立場の者が
訓練して理性的にふるまって行う
ということに改められたわけです。

日本の裁判員裁判制度は
そのような近代裁判の本質とは何かを
問うているのだと思います。

私は即刻制度を廃止するべきだと考えます。

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