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マンスプレイニングは、「必ずしも」女性蔑視と関係するわけではないということに関する一考察 [閑話休題]


特にSNSで、マンスプレイニングだという非難を目にする。
非難されている方の人の言動に共感を持つことはないが、
非難の仕方にも違和感を覚えることがあった。
どうして男女差別の問題に引き直して批判しなければならないのだろう
というのが違和感の理由だと思っていたが
少し違う観点もあるという事情が見えてきたので、ここに記す。

マンスプレイングの定義をウィキペディアで調べると
(ウィキは、寄付を必要としているようです。)
リリー・ロスマンという人の定義が引用されている
「マンスプレイニングは通常、男性が女性に対して行うもので、相手が自分よりも多くを知っているという事実を考慮しようともせずに解説しだすことである。」というものである。

これは、自分では大うけだった。
あるあるだ。
SNSでまじめに情報提供をしているのに、
その情報は間違っているというコメントをする人たちが多くいる
事情を知らない知り合いも読むわけだから、
「何だお前間違ったこと堂々と描いているのか赤っ恥だな」
等と思われないかといたたまれない気持ちになることもある。
しかし、書き込まれたコメントは
怪しげな情報を自信たっぷりに言っていたり、
(出典は学校の教師が言っていたというようながっくりくるものもある)
まったく記事とは関係のないことを自慢げに話していたり、
そもそも定義もめちゃくちゃで論旨も不明なものまである。
それは間違っているよとか、関係ないこと言っているから削除するよ
等というのも、自分が了見の狭い人間のように
そのコメントをした人以外から見られるのも嫌だし
困ってしまう。
恥ずかしい他人のコメントはそのままさらしておくことが多い。

またウィキからの引用だが
(有用なコンテンツですから寄付をすることは有意義なことだと思います。)
マンスプレイニングは、レベッカ・ソルニットによれば、
「自信過剰と無知」の組み合わせからくるようだとされている。

この解説を読んだとたん、マンスプレイニング概念は、
やはり賛成できない、どうやら弊害の方が多いと
笑いを引っ込めることにした。

確かに先の定義によるマンスプレイニングを行う性は圧倒的に男性である。
しかし、女性も行う場合もある。
SNSなどでは見ること少ないが、
日常的な調理や裁縫、家事全や育児、あるいは倹約について
こちらが不慣れだと自己判断するととうとうと語りだす女性はいる。
(その多くに、迷信や都市伝説が含まれる)
オカルト的なことやスピリッツ(焼酎ではない)に関しても
とうとうと語りだすのは女性のほうが多いように思われる。
もっとも、そういうことを語りだして止まらない人間は
自分が信じていることがオカルトの類だという認識はないようであるから、
こう言っても自分のことだろうとは思わないだろう。

あくまでも自分の領域だと自負していることについて
親切心で解説してくれているのであれば
聞いて損はないので聞いたら良いのではないかと思う。
聞きたくなかったらスルーすればよいので、害はない。
これもマンスプレイニングだと言って非難するのは
あまりにも劣等感を感じやすくなっている
ということで自分に注意するべきかもしれない。

よく引き合いに出されるのはパソコンを選んでいたら
口出しをしてコーチをされたという場合である。
しかし、ひところ前にはそういうコーチ屋がいたけれど
最近はこのような人間はあまり見ない。
まだどこかにはいるのだろうか。

というのも、現代では、パソコンも男の領域
という意識はなくなっていると思われるからだ。
一昔前(あ、30年くらい前です)は、
電気店どころか、秋葉原全体が男しかいないような状態で、
パソコンといえば男性の領域という意識がなかったわけではない。
この時パソコンおたくは、女性だから説明を始めているのではなく
「おたくではない人間」だと感じた人間に説明を始めていたのであり、
男女差はなかったと思う。
自慢したいという気持ちはもちろんあるだろうが、
一般人の価値観は自分たちオタクとの価値観とは違うという自覚があり、
鼻高々という感じではなかったのではないだろうか。

こういう解説好きを利用していたのは、
要領の良いおばさんたちだったと思う。
私もずいぶん酒売り場で解説をさせられた。

明らかに困っている人がいるのに店員がいないため
これはこうですよと簡単に説明すると
女性は一応礼を言ってくれるが
男性は明らかに迷惑そうな表情をするから面白い。

こういう利用できる解説マンは、役に立つ。
もう私も前期高齢者に差し掛かってきたので、
教えてくれれば男性でも、女性でもありがたく感じるようになってきた。
マンスプレイニングなどといって
親切な人が困った人を助ける風潮が蔓延することは避けたい。
知らないことはたくさんあるのだから
教えられることで自分が知らないことを感じるほど
劣等感を感じさせられたと感じるのはおかしい。

この類型とは異なり
対等に議論しているのに、反論できなくなって
「わからないからそういうこと言うのだろうから教えてやるが」
等と見苦しい対応をする学者とか起業家は
どんどん非難されるべきだと思っている。
でも、そこでマンスプレイニングだという必要はあるのだろうか。

マンスプレイニングだといって非難することは
異なった論点を持ち出すことではないだろうか。
そう、学者や起業家が論点を外すために教えてやると言っていることに
奇妙に重なるような印象を受ける。
ジェンダーフェミニズムの同志に助けを求めているような
弱弱しさを感じる。

議論の相手を見下したような「教えてやる」という人間は、
マンスプレイニングというよりも
威圧的な手段での攻撃であるのでそのことで否定評価をすればよい
こういう議論の本質から離れた議論をする自分に自信の持てない人は
男女の性差とかかわりがないように感じられる。

もう一つのパターンである
自分の領域でもなく、知識もないのにコメントをする人
(先の定義に一番近い)
こういう人たちのテーマは、「承認要求」である。
多くは人間関係で不合理な思いをしている人たちであり、
「現在のこんな待遇は納得がいかない
自分はもっと評価されるべきだ」
と感じ続けている人たちだ。

スレ主に歯向かっているとか、意見に否定を表明しているというより、
このようなコメントができる自分を評価してほしい
ということのようだ。

しかし、間違った内容、焦点の定まらない主張
論点を踏み外したコメントであることや
関係のないことをコメントしだすという
空気を読む以前の言動のため
評価はダダ下がりになるだけである。
少なくともスレ主は当たり前に不愉快になっている。

それでもどちらかというと、
スレ主に仲間意識を感じている場合の方が多いようだ

自分を高く評価してほしいという思いは、
自分の実力以上の評価をしてほしいというよりも
正当な評価をしてほしいということであり、
それだけ自分は不当な評価を受け続けているという訴えなのだろう。

自分にも覚えがある。
偶然自分のタイムラインに飛び込んできた記事に
うっかりある話題のコンセンサスがある友人のスレだと勘違いして
コメントを出してしまい
スレ主を不愉快にさせたことがあった。
速攻で削除したが、遅かったようだ。

自分も不遇な思いをしていた時期の過ちであった。
ドンマイ。

承認要求が強い状態になっている人は
男性女性に関わらず、いらぬコメントを書き込んでしまう。
承認要求が強く、自分の領域を侵されたと思うと
相手が女性であろうと男性であろうと
中身が見当違いであろうと
コメントしないではいられなくなってしまうようだ。

私はマンスプレイニングと呼ばれている現象はこのようなものだと思う。
男性が行う場合が多いが、
男性の社会的役割意識とはそれは程関連額なく
男性が対人関係において不合理な評価を受ける機会が多いだけのように思える。
条件が同じなら、性差に関わりなく出現すると感じている。

女性に対して威圧的な学者や起業家の類は確かに存在する。
しかし、彼らは、あくまでも「自分よりも弱い立場」だと思う相手に対しては
男女にかかわりなく威圧的な攻撃をする。

そこをつけばよいのであって、
何も自分は女性であるから攻撃を受けているというアッピールをするのは
すでに一対一では議論に負けるから
議論の本質とは関係なく女性であるということで自分を支援してくれ
と言っている結果になることをプライドをもって気にするべきだ。

こういう威圧的な議論の犠牲者は多い。
それをマンスプレイニングという言葉を蔓延させることによって
女性だけが保護されるべきだという風潮になることは
女性の立場を拡充する志のある人ならば警戒するべきであると思われる。

マンスプレイニングという概念は
未整理であるため
何らかのコメントをされた、アドバイスをされたということを
自分が馬鹿にされた、低評価された
という意識を持たせる効果もあるのではないかという心配もある。

分断のための議論ではないかと感じている。

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