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うつ病患者さんの家族に対する支援を充実させなくてはならないのではないかということ [自死(自殺)・不明死、葛藤]



「うつ病が伝染する」という表現が使われることがあります。
もちろんうつ病はウイルスや細菌に起因する病気ではないので
おそらく伝染の定義には該当しないと思います。

ただ、うつ病患者を抱えている家族は
精神的にも追い込まれて、家族も治療が必要な状態になる
ということは少なくないようです。

ある母娘の話ですが、
年配のお母さんがうつ病の方で、
私が継続的に法律相談を担当していたのですが、
お願いして付き添ってもらっていた娘さんが
とても険しい顔つきをした方でした。

お母さんには、私の師匠とも言うべき精神科の先生を紹介して
順調に回復してゆきましたが、
ある日、お母さんの付き添いでやってきた娘さんが
とても晴れ晴れした表情をしていました。
ずいぶん若返ったみたいなことを
年配の私だったから図々しく言ったら、
「そうなんだ」というのです。

お母さんの治療が効いたため
うつ病からくる後ろ向きの発言をしなくなったから
一緒にいて苦しくなくなったのだというのです。
なるほど、眉間のしわがなくなっていました。

うつ病の治療経過は
家族の表情で分かるのだなあと学びました。

後ろ向きの発言とは
他者の言動を悪くとらえる被害妄想
自分や家族の将来に対する悲観
自分の存在価値の矮小化
自己否定など
その本人の気持ちが家族に伝わってしまうことは
家族の持つ共感作用を発動してしまい
耐えられない気持ちになってしまうのは想像ができると思います。

(そう考えると、むしろうつ病の方々は
そのような悲観的な思考に苦しまれていらっしゃるのが
毎日のことなのですから
それに耐えておられると考えると
もしかするとむしろ精神力が強いと言えるのかもしれません)

うつ病患者さんの家族こそつらい思いをしているということなのですが、
なかなかそのことが世の中に知られていないように思います。

友人から紹介された事例では
二人暮らしのご夫婦で、奥さんが重いうつ病の方の場合、
旦那さんは仕事をしながら奥さんの看病をしているのですが
奥さんには時々大きな精神症状が出現して
旦那さんは会社を休みながら看病をしているという
ご苦労をされているという訴えがありました。

政令指定都市や都道府県の
精神保健センターを紹介することしかできませんでした。
利用可能なショートステイみたいなものがないと
夫婦共倒れになりかねないと心配です。

うつ状態を伴う精神疾患の場合、
精神状態に波がある場合も多く
良いときは普通に散歩もできるのですが、
悪いときは、布団から起き上がることも容易ではなく
トイレに行くのも支えないと転んでしまう
ということがあるようです。

患者さんが眠っているときには
家族は起こさないようにと
台所で調理をすると寝どこまで聞こえてしまうので
戸の閉まる風呂場で調理をするという方もいらっしゃるようです。

患者さん本人は忘れていることがあるようですが
「死にたい」とか、「消えてなくなりたい」とか
夜中に突然言い出されると
一晩中心配していなくてはならず、
何度も起きては布団に本人がいることを確認して
夜が明けてしまったという話も聞きます。

通院が物理的には一人で行くことが可能である場合でも
途中で何か発作のようなものが起きてしまわないか心配で
結局同行するのですが、
病院では本人の様子を話すばかりで
家族の献身的な介助はお医者様にも伝わりません。
本人に自覚がないことも多く
家族からの聴取も必要だと思うのです。

結局なるべく一緒にいることになりますので
家族は自分の時間を持つことができなくなるようです。
こうなる前は色々と趣味もおもちなのですが、
患者さんを一人家において出掛けることができないのでなかなかできない。

そういう状態のようです。

社会で何とか荷を分かつような制度があればよいのではないかと思います。
そうでないと、
病気の家族を捨てる人も出てくるのではないかと思います。
24時間、365日、個人が一人で行えることではないように思います。

そのためにも、家族の方こそ、社会に向けて
当事者として発言してもらいたいのです。
そうでないと、親切だけど頓珍漢な人たちが
頓珍漢な制度を作ってしまったり、
実態を知らないために反発を買うようなことを言ってしまったりするからです。

私は今、
うつ病の患者さんを抱えた家族が
家族をうつ病にした相手に対する損害賠償請求の
訴訟を担当しています。
家族の介護費用の請求をしています。
それだけ大変な状態なのだということを
世の中に知ってもらいたいと思っています。

うつ病患者さんだけでなく
すべての人のために頑張っている人たちが
社会から支えられることが
人間らしい社会なのだと思います。



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「嘘」をつく人間はいくらでもいる それで人生を台無しにされた人間もいくらでもいる 自由と民主主義のために杉田水脈議員を擁護しなくてはならないのか [弁護士会 民主主義 人権]



杉田議員の辞職要求の署名が13万筆集められたそうです。
それを自民党に対して提出しようとして、受け取りを拒否された
という報道もなされました。

どうも私は人と感じ方が違うようで、
この動きには大変な不安を覚えています。

この動きの元になったのは杉田議員の言論です。
直接のきっかけになったのは
「女性はいくらでも嘘をつく」という発言です。
この発言をしたことは杉田議員も認めているようですから
発言自体は存在したのでしょう。

また、この発言だけで13万筆署名が集まったというよりも
新潮45に寄稿した文章や
伊藤詩織氏の事件をめぐる言動など
これまでの言動の蓄積が背景にあることは否定できないことでしょう。

しかし、これまで内閣の中枢にいる人物や
与党の役職を担う人物が失言をしても
13万筆の辞職要求署名は集まるということはあったでしょうか。
自由や民主主義、三権分立を否定する発言に
ここまでの抗議活動はあったでしょうか。

そして、今回の杉田発言が
それらの失言以上に非難されるべき言動だったのでしょうか。
この点を吟味する必要があると思いました。

報道によりますと、杉田氏の発言は、自民党内の会議の中で
性暴力被害者の相談事業について、民間委託ではなく警察が積極的に関与するよう主張。「女性はいくらでも嘘をつける。そういう方は多々いた」などと発言したとのことです。

確かに、「女性は男性と比較して嘘をつくことに抵抗は少ない
という属性を持っている」という発言であれば
これは人間の個性を無視して類型的に属性によって評価するもので
差別であると思われます。

しかし、性暴力の文脈で、
嘘をつく女性は多々いたということ
つまり女性の中にも嘘をつく女性はいくらでもいる
という発言ならば間違ってはいないと思います。

痴漢冤罪の例が典型的でしょう。
この事件類型は
男性が自分は痴漢をしていないという発言に対して
被害女性はうそをつかないという先入観から
無実の男性が痴漢扱いされて仕事を失い
家族も加害者家族とされてしまうという悲惨な出来事であり、
自死に追い込まれたケースもあったとおりです。

無実の人間が証拠もなく
嘘に追い詰められていき
孤立化させられ精神を破綻させられるのです。

夫婦間の問題でも女性の嘘(この意味は後で明らかにします)
が横行しているというのが実務感覚だと思います。

夫婦間においては暴力や暴言がなくとも
女性が追い詰められてしまうケースがあり
「適切な支援」が必要な事例は山ほどあります。

それにも関わらず、
夫からの暴力はないと言明してしまうと
相談機関はとても冷淡になり、
それはあなたのわがままだという扱いを受けた
という私の依頼者も複数いらっしゃいます。

だから、情に厚い相談機関は、
この女性は保護しようと思うと
どうしても暴力や暴言があったという方向に
誘導してしまうのかもしれません。

目の前の人を救おうとする気持ちが強く
それによって人生が台無しにされる人間たちが生まれてしまうことを
きちんと考えることができなくなるのです。

女性も支援を受けるためには
夫から何らかの暴力や暴言があったと
言わざるを得ない状態に誘導されているケースもあります。

夫婦間暴力に関する「女性の嘘」の多くはこうやってつくられている
というのが実感です。
それは民間の相談機関に限った話ではありません。

それでもひとたび嘘が発せられると
保護命令が虚偽の事実で裁判所から出されて
保護命令を背景として離婚手続きを有利にする
結果的にはこういう事態が相当数あるということが現実です。

そうして、DV夫とされた男性は
妻を失い、子どもを失い
自分が全否定された感覚となり
家族と関係の無いところの人間関係さえも
自分を排除しようとしていると過敏に受け止めるようになってしまうのです。

こういう男性群は、
不思議と仕事や趣味や社会活動に有能な人間が多いのですが、
喪失感によるダメージや
過敏反応による攻撃性のため
自分の力を発揮できなくなってしまいます。

社会的地位の高いとされる男性たちが
かなりの人数自死に至っています。

DV夫とされた男性には反論の機会も
是正する手段も与えられません。
不合理を是正しようと戦うと
妻の心理的圧迫を強くするうえ
解決手段がないという本当の不合理に沈んでいくしかありません。

だから、杉田水脈議員の言い方はともかく、
女性の暴力被害の真実性を吟味する必要がある
という主張ならば
少なくともそれは取り上げられて、十分検討する必要はある
ということになります。

言い方が悪かったから辞職しろという短絡的な
暴力的は行動は
議論するべき議論をさせない効果しかうまないでしょう。
未だにどのような文脈でこの発言出てきたか
詳細は明らかにされていません。

確かに、いま何を言っても否定される
という事態だと杉田議員自身は感じているでしょう
身内からリークがあったことにも恐怖を感じていると思います。
しかし、衆議院議員という立場ならば
正々堂々と、ご自分の主張を国民に伝達することに
粉骨砕身努力するべきだと思われます。

また、民主主義に価値をおく人間たちならば
きちんと公開での議論を主宰し
発言の機会を与えるべきだとも思います。

辞職署名というやり方は
言論活動を否定し、議論によって最良の方法を見出していくという
自由と民主主義を否定する行動になる可能性があると思います。

ニーメラーという牧師が
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
という演説をしたとされています。
これは共産主義者を守ろうというところに主眼があるわけではありません。

自由と民主主義を守るためには
自分が不愉快に思う言論も守らなければならない
ということを言っていると思います。

これまでどう考えても言い訳の効かない政権与党の重鎮の発言で
辞職要求署名活動が起きなかったに
今回の辞職要求署名が集まったことには
我が国の自由と民主主義の状態の脆弱性が見えるように
私は感じます。

杉田議員の発言には
私の実務家としての立場からも批判するべき点があります。
仮に民間委託先ではなく警察権力が介入するべきだという発言が
それによって、女性の嘘から無実の男性を守ることができる
と考えているのならば
全く現実を分かっていない勉強不足です。

警察も、女性の発言が真実かどうかの
調査をしないことがほとんどだからです。
なぜか、
まずいわゆるDV法がそういう法律だからです。
女性が警察に相談をすれば、それだけで
要支援者、被害者とされ
支援措置が取られます。
夫から逃がすために子どもの連れ去りと
連れ去り先の隠匿を警察が支援してくれますし
役所も支援します。

つまり女性の発言が真実であるか否かは
初めから調査しない手続きだからです。
そして、総務省は、
夫が女性に加害を与えていなくても
「加害者」と呼ぶことにしているのです。

加害を与えていなくても
相談をして要支援者、被害者とされた女性の夫
という意味が加害者なのです。

実際に公文書の記録で残っているケースでも
統合失調の患者さんが夫の暴力があるという妄想に取りつかれて
警察に相談に回されたら
DVは一生治らない、命の危険があると言われて
2時間も説得されて別居したというケースがあります。

男性は言いがかりのような容疑で逮捕勾留され
職場の映像までテレビで全国放送されました。

幸い職場の上司にも理解していただき
多くの支援者が集まり
刑事事件も起訴猶予となり
保護命令申立も棄却されましたが
子どもとは会えないままです。

杉田議員のこれまでの言動からすると
民間相談機関の攻撃をしたかったのだろうということは理解できます。
本当の原因に敢えて蓋をして出先機関だけを攻撃しているような
印象を持ってしまいます。
もっと、全体の国民の正当な利益を擁護するという観点に立って
主張を展開していくことが必要だったと思います。

誰かを攻撃するということよりも
この場合では即時的には無実の人間に不利益を与えないということと
何よりも子どもの健全な成長という視点から
議論を再構築していただきたいと考えます。



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死のうと思わないで行った行為で「自死(自殺)」してしまう現象について 過料服薬(オーバードーズ)「自死」未遂をした人からお話を聞きました。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


おそらく多くの方は、誰かが自死したという情報に接すると
死にたいくらいつらいことがあって
そのつらいことから逃れようとしたのだろう
と思うことでしょう。

何か自死するほどの出来事があったはずだという前提で
自死の理由をあれやこれや詮索するでしょうし、
あるいは誰かを自死に追い込んだ犯人として非難するかもしれません。

また、自死を予防するとは、死のうとしている人を発見して
死ぬことを思いとどまらせることだ
と考えていらっしゃるかもしれません。

しかし、話を聞くと、いろいろな自死の形があるようです。
うつ状態をともなう精神疾患にり患した方々から聞いた話を紹介します。
もしかしたらこういう形の「自死」が多いのではないかということです。

まずは仮にAさんとしましょう。
Aさんは、何年か前に職場で同僚との人間関係をきっかけに
うつ状態を伴う精神疾患にり患し、
労働災害であると認定されました。

Aさんは、抑うつ状態が長く続くこともあるのですが、
一見普通に話ができているように見えることもあります。
ただ、私たち健常者からすれば普通の日常生活である
仕事とか、他人との交流とかをすると
それだけで疲れ切ってしまい、
反動で数日間も寝込むという状態が起きてしまうそうです。
とても出勤をすることはできない状態です。

そんなAさんが、自死未遂で救急搬送されたことがあったそうです。
睡眠薬の過剰服用でした。
ところがAさんは、死のうという気持ちは全くなかったと言います。

ただ眠たいのに眠れない。だから睡眠薬を飲んだ。
それでも眠れないからもっと飲んだ。
それでも眠れないからもっと飲んだ。
この連続が結果として過剰服薬になり、
命の危険があったため救急搬送された
というのです。

睡眠薬を飲み続けているときは
何かにとりつかれているように飲まずにはいられなくなり、
自分で自分を抑制することができない状態だったようです。

Aさんの言葉は印象的でした。
「死ぬつもりはなかったのに
気が付いたら自死していたということになったかもしれない」
と言うのです。

うつ状態を伴う精神疾患ですから
周囲は、本当はそういう事情だったということは分からずに
自死したのだと判断することになるでしょう。
死のうとして薬を過剰に飲んだと考えることでしょう。

もしかしたら、
自死と認定された事例の中で
相当程度はこのような事案があるのかもしれません。
つまり、
(Aさんの場合は突発的に)①強い精神症状が起きてしまい
②精神症状が原因で自己制御が効かなくなり、
③今解決すること(Aさんの場合は眠ること)だけを目指してしまい、
④他の事(死んでしまうこと)を考えることができなくなり、
⑤結果として死んでしまうということが
あるのかもしれないということです。

実際の自死事案でも
このような①から⑤の流れで自死が起きたとすると
とてもうまく説明できる事案はあります。

次にBさんの話を紹介します。
Bさんも、症状の波のある方で、
精神症状(病的状態)が急に悪くなる時期があるそうです。
抑うつ状態がひどくなるようです。

ある夜、家族に
「死んでしまおうかな」とぽつりと言ったそうです。
家族はびっくりして、一晩中Bさんを監視していたそうです。
うっかり眠りに落ちてしまうとすぐに目覚めて
Bさんが生きているか何回も確認をしていたようです。

ところが後で、精神症状が落ち着いてから家族がそのことを話すと
Bさんは、「そんなこと言ったかなあ。」
とまるで覚えていなかったそうです。
Bさんとご家族の両方からお話を聞いたので、
どうやらそういうことがあったようです。

何か原因があって死のうとしているわけではなく、
突発的に死にたいという気持ちがこみあげてきてしまったようです。
これがうつ状態を伴う精神疾患の
本当に恐ろしいところだと思いました。

直接の原因がなく、死のうと思ってしまい、
その手段を考えついてしまい
その手段を思いとどまろうとする自己制御ができなくなり、
後先考えずに死の危険のある行為をしてしまう
ということになってしまいます。

このようなパターンの自死の危険のある人に
「命を大切にしましょう」と言えば
「それはそうですね。大切ですね。」
と心の底から同意されると思います。

「悩みがあったらどこどこに相談してみてください」
と言えば、
「悩みがあったらそうしましょう。」
と心の底から納得され、本当に悩みがあれば相談するだろうと
ご本人も思うわけです。

しかし、①精神症状が強くなると
そのようなことは一切忘れてしまい、
②自分の一番自覚している感情を何とか解消しようと思い
③考えついた手段を止めることができなくなり、
④その結果、自分の命がなくなり取り返しがつかなくなることも忘れ
(あるいは正確に認識できなくなり)
⑤死の危険のある行為を実行してしまう。
ということになるようです。

そうなると、
既に精神症状が出てしまってからだと
命を大切にしようとか
悩みがあったら相談しようといっても
自死予防には有効性が乏しいのかもしれません。

但し精神症状が強くなる前であれば
誰かに相談することによって
悩むことを解消できるならば
自死予防への効果があると言えるかもしれません。

今あなたが抱えている悩みが
精神症状を引き起こしてしまい
死の危険のある行動をする原因となり
結果として自死に至るということを
みんなが理解する必要がありそうです。

どうやら人間は我々が思っているよりも
簡単に精神的な破綻を起こしてしまい、
簡単に死んでしまうことができる
ということのようです。

また上に述べた①から⑤の流れが起きるとすると
それは過剰服薬に限ったことではなく、
他の手段を使った自死の場合も
同じかもしれません。
①精神症状(病気というわけではないにしても)が強くなり
②当面の課題を解消することだけが要求になってしまい、
例えば翌日のプレゼンを行うことをしたくない
嫌な上司と顔を会わせたくない
何かいじめられて馬鹿にされたくない

③課題解消の手段として死の危険のある行為を止めることができなくなり、
④課題解消をすると命を失い、さまざま
⑤死の危険のある行為を実行してしまう。
ということが起きることがありうることを意味しているような気がします。

②の心理状態が理解しにくいと思われます。
例えとして挙げることも躊躇するのですが、
戦前の拷問にこの心理を応用したものがあります。

人間は眠りたいという要求がとても強いそうです。
拷問の内容は、無理に眠らせないというものです。
大量の光線を浴びせたりその他の手段で
眠ろうとするところを眠らせない
そうすると、どうしても眠りたいというのが生物のようで、
眠らせてほしいために、
捜査機関の都合の良い自供を始めてしまう
一度自供をしてしまうと再び抵抗する力が失われてしまい
捜査機関の言いなりになってしまう
ということがあったようです。

これは、人間の動物としての生理的問題でどうしようもないのですが、
自供をするのは、思想が甘いとか、信仰が薄いとかいうことになってしまうので、
一度自供してしまうと堰き止める手立てがなくなってしまうようです。
禁煙を誓って煙草を1本吸ってしまい、
抵抗力がなくなって禁煙をやめてしまうことに似ているようです。

死の危険があるほど深刻な問題でなくても
かゆいからと言ってひっかいていると
ますますかゆくなって、皮膚がボロボロになっていく
ということも
痒さからの解放のために
ひっかくことをやめられなくなっている状態
ということになると思います。

掻けば掻くほど悪くなるという理性が働いているうちは良いのですが
痒みが強くなってしまうと理性が働かなくなる
ということと似ているのではないでしょうか。

意志の力というものに
それほど期待はできない
ということを
頭の中に叩き込んでおく必要がありそうです。

自死予防の柱は
今死の危険のある行為をしようとする人を
力づくで止めるか
死につながりかねない精神症状を起こさないために
人間関係の状態と言う環境を改善すること
となるのではないかと
考えさせられた対話をご紹介いたしました。

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子の連れ去り事例の場合は特に離婚訴訟など戦うべきではない3つの根拠と調停と裁判でデメリットを減らす方法 [家事]



最近の離婚事件事情は、ある日夫が仕事から帰ると妻が子どもと身の回りの荷物とともに、家から出て行っていたというところから始まり、行方をくらまして、夫が近づこうとするとストーカー規制法や保護命令などで近づけさせない。そうこうしているうちに離婚調停、婚姻費用分担調停が申し立てられる。一緒に生活もしない相手に毎月負担感の大きい費用を払い、子どもには会えない。さらには離婚調停や訴訟では、相手はありもしない夫の暴力や身に覚えのないモラルハラスメントを主張してくるという感じです。少なくとも夫から見ればそう感じて当然のことが起きています。
こうなれば、誰でも(およそうつ状態になっていない人間であれば)、「それは事実と違う」という反論を行い、理不尽な事態は許さず、真実を明らかにするために戦おうとするでしょう。そして、裁判なのだから間違った事実にもとづいて離婚が命じられることはないだろうと思います。だから、自分を守るため、あるいは不合理な事態を是正するため戦うということが自然体だと思います。
しかし、その常識だと思われる予想に反して、離婚訴訟で戦うことは、大きなデメリットが確実にあるにもかかわらずメリットがあまり期待できないと言わなくてはならないということが実情です。

1 妻の子連れ別居の意思を固めて、子どもと父親の距離が遠くなる。

訴訟ですから、相手方の主張について、事実と違うことは違うと反論することは必要なことです。やってもいない父親の虐待を認めた判決が下ることは子どものためにもなりません。何としても避けなければなりません。当然訴えられた夫は、裁判で自分の主張を堂々と展開することは必要なことです。
ところが、妻の主張で、ありもしない事実の主張やことさら大げさな表現の主張の多くは、妻にとっては嘘をついている自覚はありません。また、そのような真実とは異なる事実は、結婚生活が破綻している根拠、妻が夫を嫌悪して恐怖を感じている根拠として述べられています。だから言われた方の夫は、原因となる事実が真実ではないから、妻の夫に対する嫌悪や恐怖の感情も事実に反するという感覚を持つのは当然です。すると、夫が裁判で、妻の主張は虚偽だ、ねつ造だ、そのような事実がないから妻の感情も嘘っぱちだと主張することは自然な流れになってしまいます。
しかし、ここは前回の記事で述べたところですが、真実と異なる妻は、それは実際に起きたことだという記憶をもっています。だから妻は、夫は裁判になっても「事実を認めない」、「裁判でさえ自分のいうことを否定するのか。」という気持ちになっていくわけです。
 もともと妻が子どもを連れて逃亡する理由は、確かに夫に対する嫌悪感と恐怖感にあります。但しこの原因が主として夫の行動であるということはむしろ少なく、妻の体調変化に伴う漠然とした不安感であることが多いと感じています。この不安感の強さと、夫がこの不安感に気が付かないで妻の奇異に見える言動を批判し続けることによって、「自分が夫から尊重されていない。」、「夫は自分の言動をすべて否定する。」という感覚が生まれて、やがて自分を守らなくてはならないという意識から夫に対する嫌悪感や恐怖感が生まれてくると考えています(このあたりの詳細はこの記事の前の記事で述べています)。そのように自分が否定されているという意識は、漠然とした抽象的なことが多く、その原因をはっきり述べられないために、無理に夫の行為に結び付ける自己暗示のようなことも、真実に反する主張が起きる原因の一つだと思っています。
ところが、それまで抽象的な夫の行動が、裁判における準備書面や陳述書という明確に自分を否定してくる言動として現れるわけです。「やはり夫は自分の言動を否定してくる存在だ」ということが訴訟活動を通じて確信として高められていくということが実情のようです。夫は、裁判で懇切丁寧に客観的事実を説明すれば、妻は自分の間違いに気が付くと思うかもしれません。こういう劇的な話は奇跡が起きるよりも確率は低いようです。
この弊害は、妻が子どもと一緒に生活しているときに大きくなります。面会交流をすることが子どもにとって必要になるのですが、そのためには二人の間で最低限の信頼関係がなければなりません。信頼関係を再構築するどころか、訴訟活動によって、逆に妻の嫌悪感や恐怖感は夫に原因があるのだという確信が強まって行く結果、夫に対する嫌悪、恐怖が増大し、さらには固定するため、子どもを父親に合わせようという気持ちがますます失われていきます。無理に子どもが父親に会うと、子どもに対して裏切り者という扱いをするので、子どもは父親に会いたいとさえ言えなくなってしまいます。やがて、「お父さんに会いたいとは思わない。」と言わざるを得ないという極めて残酷なシチュエーションになります。父親が嫌いだから会いたくないのではなく、母親がかわいそうだから会うのを我慢するということが、正しいようです。もちろん子ども自身が自分の行動の要因を分析することはありませんし、そのような可能性を訪ねる調査官もいないわけです。
そのような妻に対して、夫は、「人間は道理に従うべきだ。」、「子どものために感情を捨てるべきだ。」という前提の素、子どもに会わせない妻を非難するわけです。しかし、どんなに非難しても子どもは父親に会えません。非難するからますますあえなくなるわけです。感情としては夫の感情がよくわかるので、なかなか言いにくいことですが、妻の感情が可変要素ではないとすれば、夫の言動が可変要素だということを考えなければなりません。子どもを父親に会わせなくしているのは妻ですが、妻の気持ちを強化し固定化しているのはご自分かもしれないのです。どちらが正しい、どちらが悪いでは、子どもは父親に会えないということを多くの事件で学びました。
 そのことに気が付いて、夫自身が、子どものために、子どもを自分に合わせるために、妻の言動は大目に見て妻の葛藤を下げようとされる方もまた増えてきました。しかし、裁判で妻側が客観的事実に反した主張を読んでいるとどうしても夫自身の葛藤が高まってしまい、どうしても応戦したくなります。ますます子どもを父親から遠ざける結果になるのです。
 この悪循環を断つ一番の方法は裁判をしないことだと思うのです。

2 裁判は男性に不利にできている 裁判の幻想は捨てよう。メリットが期待しにくい制度。

 女性から離婚を言い出す場合は、裁判所は「極端な破綻主義」をとります。それはつまり、妻が離婚したい強固な意思があり、別居の事実があれば、離婚を認めてしまうという傾向にあるということです。本当は誰が悪いのかということは裁判ではあまり意味のあることではないのです。ところが、夫が子どもを連れて出ていく場合は、「極端な破綻主義」はとらないと手の平を返すことがしばしばあります。私から見れば、裁判は、男と女で結論が異なることがあるとしか見えません。その他判例実務法体系については前回詳細に語りましたので省略します。
 結局、裁判実務からすると、夫は裁判所に過剰な期待をしているということがリアルな話です。ご自分が本当に理不尽なめにあっているということについて、あるいはその理不尽さの程度について正確に把握できていないのです。本当の理不尽さは、子どもの連れ去りで子どもと会えなくなるという理不尽だけではなく、その理不尽を是正する手立てがないということです。夫から見た妻の理不尽な行為が公的機関によって是認されるということが最大の、そして本当の理不尽だと思います。
 裁判は、しょせん、裁判官がどちらかを決めるということです。裁判官という赤の他人に、自分と子どもの運命をゆだねているということになります。夫にとって裁判は人生をかけた、かなり分の悪いギャンブルだと思います。裁判を正々堂々と行うメリットは、通常考えるよりも期待できないと考えた方が良いと思います。
 弁護士についてかなり憂慮するべき事態であることが当事者の話からは聞こえてくることが少なくありません。ノーマルなケースでも夫と弁護士のコミュニケーションがうまくとれていないことがあるようです。それには理由があります。理不尽な目にあっている人間は、他人に対して過度な警戒感を持つものです。信用できない、普通に自分を扱っているのだろうかという心配がどうしても出てきてしまいます。その結果、あまりにしつこく念を押したり、すべてを記録化して提出を求めるとか、細かいことまで口を出したり、些細な失敗にも目くじらを立てる。こういうことは、理不尽な思いをされた方にはよくあることなのです。これは、連れ去りと我が子に会えないという理不尽な思いをしたために起きた変化と考えることもできます。理不尽な目にあった夫はそれを言うことによって何らメリットがなく、デメリットしかないことに気が付きません。これがわからないと、限度を知らないモラルハラスメント夫の典型的な行為だと受け止められることがあります。なかには、こういう性格だから妻が逃げ出したのではないかと誤解を受けることもあるようです。しかし、これは弁護士は決して口に出しませんからわかりません。事件前の性格から変貌しているのかもしれないということに気がつかない弁護士は、もともとこういう細かい性格で、他人を疑い、細かい指図をして、指示通りしないと激高する人なのだろうという感覚を持ってしまいます。「そういう言い方ははやめてくれ」と私のように夫にずけずけ言える弁護士ならば、関係は壊れないのです。しかし、相手に面と向かって言えないということで、ストレスをため込んでいると、信頼関係がなくなっていくこともあるようです。些細な誤字脱字は直してくれるけれど、肝心の相手との関係について何ら意見を言ってくれないようになり、どんどん不利に裁判が進んでしまう。これは本当に注意するべきです。あなたが心配していることは通常訴訟ではデメリットにならないのに、それをいうことで肝心なことを弁護士が言えなくなるというデメリットばかりが現実のものになるケースがあるようです。ご自分が理不尽な思いをしているという自覚があるならば、自分は他人との関係で、性格が変貌しているかもしれないという意識をもつことは、戦略的に必要です。この葛藤が訴訟活動をすることの妨げになっているかもしれないのです。
 高額なお金を出して弁護士を頼んでも、様々な理由から思い通りに裁判が進まないということだってありうることなのです。この意味からも裁判に過度の期待を持ってはいけません。
 また、判決で勝っても、例えば妻の離婚請求が棄却されたとしても、家族の状態に変化は期待できません。判決で離婚が否定されたから、また同居を開始しようという妻はほとんどいません。このことは、裁判を夢中になって戦っているときはあまり意識に上りません。目指すゴールがわからなくなってしまうのが裁判なのかもしれません。
裁判はメリットがやはり期待しにくいという考えの方が実務的かもしれません。

3 事実に反する判決が出たら、関係者全員が長年それに苦しむ。

 裁判をして和解で事件が終了すればまだよいのです。ところが、判決になってしまって、その判決も事実に反して妻側の言い分を認めてこちら側の言い分をくみ取らない判決が問題です。その結果、事実に反して、夫が子どもに虐待を繰り返していたなどという判決になってしまうと大問題です。
 裁判の後、面会交流の調停を申し立てても、妻側はこの判決を鬼の首を取ったように証拠提出してきます。子どもへの虐待は、裁判所からすればその子どもとの面会交流阻害事由になりますから、裁判所は試行面会さえ命じようとしなくなるでしょう。
 何らかの理由で、後に子どもがその判決を見たならば、自分の父親はなんてひどい父親だったのだろうと思うようになるわけです。これは子どもにとって人生観が変わるほどショックなことになる危険があります。虐待の事実が無くても判決に記載がなされれば、子どもにとって事実となってしまうということです。そしてそのような判決は実際によく出ています。
 さらには、裁判で勝ったはずの妻も、これまで漠然と抱いていた不安が、裁判によって肯定されたという意識を持つようです。改めて恐怖感情、嫌悪の感情が強くなり、固定化するということがあるようです。勝訴判決によって攻撃的な喜びはもつでしょうが、安らかな安堵ということが起きないこともあるようです。
 事実に反する公文書が出されることは、特に子どものために何としても避けなければなりません。そのためには裁判をしないこと、特に判決をもらわないことが上策です。

<では調停、裁判はなにをするのか>

この文章が円満に夫婦生活を送っている人たちにとっては、ご自分の生活を振り返るきっかけにしていただけるかもしれません。おそらく、この記事の前回の記事と前々回の記事と併せて読んでいただければ役に立つと思います。私たちは、いつしか、自分の家族を大切にする方法について、具体的な仲間に対する思いやりの示し方について、学ぶ機会が奪われて行っているように感じています。知らないことはその人の責任ではないと思います。多くの当事者、離婚事件の当事者、円満修復の当事者の方々とこれらの記事は作成しているわけで、生きた教材になると思います。

 不幸にして連れ去り別居が起きてしまい、離婚調停や面会交流、面会交流調停が係属している場合は、今から思いやりを具体的に示すというチャンスが残されています。離婚回避ということはなかなか難しいということは言わなくてはならないと思います。しかし、子どもと別居親との比較的自由な交流というのは近年増加しているように感じます。
今日現在で、問題解決のための有効な心構えは以下のようなものです。

自分が不合理な思いをしていることは、自分の行為が主な原因であるとは限らないこと。
しかし、自分の行動の変化によって事態が改善できたはずだし、これからも改善できるということ。

その上で、調停では、
1)まず相手の気持ちをじっくり聞かせてもらうこと。そのためには、自分の言い分も相手の気持ちをじっくり聞かせてもらえば、引っ込める用意があることを示すこと。相手が望む離婚であっても、選択肢に入れるということを調停委員には表明する。
2)聞かせてもらった相手の言い分をいちいち否定しない。肯定できるところを探し出してでも肯定すること。
むしろ、相手の言い分を相手が主張する前からこちら側で主張して上げるくらいの気持ちで臨むべきでしょう。このためには前回の記事が役に立つはずです。そして肯定を前面に出しながらただすところをただしていく。これはだいぶ難しいことですがやるしかありません。可能な限り、無駄な誤解は解消するべきでしょう。
3)こちら側の修正するべき点については、積極的に、相手がそうだそうだというようなことを自ら言っていくことが有効です。離婚回避とまではいかないでしょうが、面会交流など相手が幾分でも自分の主張が認められたと思うと、面会交流などに効果が出てきます。これに対局の主張が、こちらは何も悪くない。妻が虚偽の事実を主張する何らかの思惑があるんだという主張でしょうね。
4)こちらの意見を通す場合、例えば面会交流の実施などの場合、相手の気持ちを軽くする方法論、相手を安心させる方法、夫側の縛りをこちらから提案していく。これは、通常デメリットがなくメリットばかりが期待できるので、少し大げさに恩着せがましく行うくらいでちょうどよいです。
5)離婚しても別居しても家族です。不完全な状態でも家族ですが、家族全体のことを考えられるのは、自分しかいないということを自覚していただくということです。そうして、家族全体、特に子どもの長い人生のためには、いま与えられた条件の中で実現可能な結果を提案していくという観点で、結論を考えるしかないのだと思います。相手の気持ちを無視して理屈だけで結論を出してしまうと、単なる絵に描いた餅になってしまいます。結果を出すということは、調停になってしまえば、大切なことになってしまいます。

 不幸にして調停が不成立となり裁判になった場合
1)現在のプラスの状態を確認し、死守する。
  例えば面会交流が定期的に行われているとか、妻とある程度事務連絡ができるとか、なんらかの交流がある場合は、それを大切にする。妻を安心させるチャンスが残されていることになります。例えば、子どもの写真をもらったりすれば、大げさに感謝をするということが次回につながります。裁判ではいろいろ言うけれど、それは弁護士の個性であって、自分は妻を攻撃するつもりがないことを示すべきでしょう。これらのプラスは、裁判が継続していっているうちに、どんどん薄まっていくことがあります。ここには敏感になるべきでしょう。
  裁判の勝ち負けよりも大切なことかもしれません。
2)多くを期待しすぎて、すべてを失わないということを考える
  また、元のとおりに家族が戻ることが最善ですが、それは裁判という方法では無理なことです。可能性のある最善なことを実現するために、可能性のないことを捨てるという外科的手術をする選択肢を持つことが必要かもしれません。例えば、面会交流は定期的に行われていて、そのときだけは妻も楽しそうにするようになった。それでも離婚を請求してきているということであれば、離婚に応じて面会交流の維持、充実を勝ち取る方が家族全体としてはよいかもしれないという結論がありうると思います。
3)裁判官にできる限り判断をさせない。
  最たるものは判決をかかせないということです。和解で終わるべきです。相手が合意しそうで、かつ、こちら側に最大限有利な和解案を積極的に提案していくということです。
4)相手の言い分の肯定できるところを探してでも肯定して、否定するところはしっかりと否定する。相手のこちらを責める主張も、和解で終わらせるという方針の下では、こちらに有利に進む材料にもなることがあります。この辺りはなかなか難しいテクニックが必要ですが、要は、なぜ相手がこちらを理不尽に排斥するかという検討をすることです。
  その意味では、離婚訴訟と関係の無いところはいくらでも反省を述べていくということなのでしょう。

夫婦関係は共通の要素も多いのですが、それぞれ異なることもたくさんあります。できるだけ有効な方法論をご提示したいのですが、難しい要素も多いというところが正直なところです。少し事例と当事者のご意見が蓄積されてきたので、現段階の到達点についてご報告いたしました。


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暴力がなくとも妻が夫を強烈に嫌悪する理由 たとえ夫が悪くなくても妻は夫を毛嫌いする。自分が悪くなくてもできることをしていないかもしれないということ。 [家事]



妻が子どもを連れて家を出ていくと、外野は、夫がDVをしていたからだと決めつけることが多くあります。しかし、実際の私が担当した案件を見ると夫のDVということは極めて例外的です。妻が夫を嫌悪していることはよくわかるのですが、夫は原因に思い当たるところがない。妻の主張も、突き詰めていくと、暴力があるわけでもなく、夫が道理に外れたことをしているわけでもなく、原因については何とも曖昧なことしか言いません。こういう事例がほとんどです。だから、夫は、妻が自分を嫌悪している、一緒にいたくないということがすんなり理解できません。単純に自分が攻撃されていると思うわけです。
これは、裏側から見ると、
「暴力やモラルハラスメントが無くても、妻は夫を嫌悪し、一緒にいることが怖くなり、子どもを連れて逃げ出したくなる」
ということなのです。つまり、私たち日常の夫婦喧嘩の延長線上に子どもの連れ去り離婚はあるし、連れ去り別居と関係維持は紙一重のところにあるようです。
これまでの業務の事例、自分を含めた身の回りの事例、当事者の方々との意見交換を踏まえて、夫婦には必ず危機があるということ、それを意識することによって、家族分離という、特に子どもの人生にとって悲劇となる事態を防ぐ一助になればと思い、まとめてみることにしました。結婚しているすべての男女、これから結婚するすべての男女、大げさに言えば人類の共通の課題だと思います。

これまで当事者の方々と意見交換したときや、業務でアドバイスしていて痛感することがあります。それは、日常生活において、「不合理は存在するものだ」という構えに建てないと、理解が難しいということです。「自分が悪くなければ自分には不利益なことは起きない。」ということは作り事だということを理解してほしいということです。これは、特に男性には理解が難しいことのようです。私も男性なのでよくわかります。特に法律なんて勉強すると、責任も悪意もないのに責められることは不合理で許せないという気持ちになるものです。社会的な問題ならば、そういう考えも有効でしょう。しかし、こと家庭の問題、特に夫婦という男女関係の問題では、そういう考えは引っ込めるべきなのです。
あなたが結婚する前に、男女の問題で、そういう「論理的なやりとり」で、「合理的に」ことが進んだでしょうか。私なんかは山ほど不合理な思いに苦しんだわけですが、みんなそれを忘れているだけではないでしょうか。入籍をして、子どもが生まれるころになると、みんな「相手は合理的な反応をするべきであり、不合理な反応は許されないことで、してはいけない」と何時しかそういう考えが身に染みこんで、そんなルールなんてないということに気が付かなくなるようです。これからお話しすることは不合理の(少なくとも)存在を承認することから出発しなければなりません。

つまり、「夫に一番の原因も、大きな原因も無くても、妻は夫を毛嫌いする。」ということです。

先ず「毛嫌い」というぴったりくる表現の意味を解説していきましょう。ここはある程度共通の感情を持っているようです。列挙します。
・一緒にいることが嫌で、同じ空気を吸うことも嫌だ。
・一緒にいると何か自分にとって悪いことが起きてしまう。
・街で夫と同じ背格好の男性を見ると呼吸が止まり、体が動かなくなる。
・夫は損をしていないのに自分だけが損をしているような気がする。
・夫ばかりではなく夫の両親ばかり尊重されて、自分の両親がないがしろにされている。
・自分は人間として、女性として尊重されていない。夫は自分に興味関心がない。
・自分が社会から取り残されていく。
・このまま一緒にいると破滅してしまうのではないか。
・夫が近くにいるだけで、ひどく疲れてしまう。
・常に自分が否定されているような感覚を持ってします。自分は夫から肯定されたことがない。すべて指図される。
・自分のやることなすことすべて否定され、馬鹿にされる。
・自分が存在することを歓迎されていないのではないか。
・自分は夫からぞんざいに扱われ、いつも大声で罵倒されている。
こんな感じでしょうか。

こういうことが現実にあったならば、こう思うことももっともなことがあれば、いっしょにいることは拷問みたいなものでしょう。しかし、実際に、こういう感情が、「なるほどもっともだ」と賛成できることはほとんどありません。少なくとも、そう言われても、夫はぴんと来ないだろうなというケースがほとんどです。

なぜ、夫に主な原因が無くても、妻は夫を毛嫌いし、夫はそれを理解できないのでしょうか。
大きくまとめると2つの理由があります。
一つ目は、妻が勝手に不安になっている。自滅している。
二つ目は、夫がやるべき対応をしていない。
ということです。

妻の自滅ということをいうと、おそらく反発があると思います。できれば妻の自滅と夫の不作為ということがセットとして考えていただきたいのですが、説明の便宜のために分けて説明しています。
妻の自滅というのは、夫の行為とはかかわりなく、妻は体調の変化が起きやすく、自働的に病的な不安を感じることがあるということです。これは全ての女性に多かれ少なかれあることで、個性の差は程度の差でしかないということです。
体調の変化とは、妊娠、出産、月経。あるいは妊娠、出産の想定。更年期障害。甲状腺機能異常などの身体疾患。頭部外傷や高次脳機能障害などのけが。不安障害やパニック障害などの疾患。薬の副作用。他者と安心して関わる経験が乏しかったこと。先天的に他者を警戒してしまう要因がある。等々です。たくさんありますし、女性特有というものではない者もあります。
キーワードは不安だと思います。特に出産後に不安が増大するようです。
例えば、手のかかる赤ん坊の世話をしなければならない。自分は、赤ん坊の世話で手いっぱいだ。我が家の将来は夫一人の収入にかかっている。こういう状況の中、貧困妄想(特に理由もなくこのままお金を使い果たして一文無しになってしまうのではないか。けっこう誰にでもあることが以上に強く起きる。)があれば、扶養者が一人増えたのに、夫が子どもが生まれる前と何ら変わらない状態にあれば、このまま金がなくなっていって、預貯金などもなくなっていくのではないかという妄想はエスカレートするだろうことは想像しやすいのではないでしょうか。
高学歴が必要である職業の人や、目に見えて誰かの役に立っている職業を持っていた女性は、特に、このまま自分は社会から取り残されてしまうのではないかという漠然とした不安を持つようです。赤ん坊の世話に一生懸命でも、ふとそんなことを考えてしまうと、自分は社会から尊重されているのだろうかという気持ちになっていくようです。
自分と子どもは社会から取り残されるのではないかという不安ならば子どもと一緒に頑張ろうという気持ちにもなるのでしょうが、不安が病的に強くなると、「自分は子どもも取り上げられてしまって、天涯孤独になるのではないか」という気持ち、感覚になるようです。子どもをとられまいと異常なまでに執着する理由はあるようです。この時に、「それは自分の利益を求めようとすることで、子どもの利益を考えていない」と声高に妻を責めても良い効果が伴わないことはよくお分かりになると思います。
この不安が高まり、持続してしまうと、最も自分を安心させてほしい夫が自分を見捨てるとか、夫が自分を見限るとか、そういう最悪の状態を心配してしまいます。悲観的な思考というものはこういうもので、最悪のことが起きるということを確信してしまうものです。「こうなると嫌だな」と思ったことが、「こうなった」という記憶に置き換わるようです。一番身近な夫から、自分を守ろうという行動がみられてきます。そうする必要もないのに、「自分は悪くない。」というアッピールが始まり、「その証拠に悪いのは夫だ」という感情が自然とわいてくるようです。夫の些細なしぐさや言動が自分を責めているように感じられますから、それらに対してむきになって妻は反論するわけです。「悪いのはあなたよ。」と。
ちなみに、夫に対して逆切れして攻撃する人は、夫の愛情を求めている人が多いです。また、夫からは自分は攻撃されるはずがないという根拠のない自信を持っていることが多いです。
夫は、ヒステリーなどをぶつけられたり、無視を決め込まれたりしますので、不合理な思いをするわけです。しかし、よく考えてみれば、妻だって、そんなことしたくないのに、体調の変化で不安を感じさせられ、不安解消のためにもがいているということが真実です。女性だって不合理を感じて良いのだと思います。それらに気が付かないことは、二人に原因があるのではなく、そのことに気が付かず、研究もせず、明らかにしない社会の問題だと冷静に考えるとそういう結論しか出てこないのです。気が付けと言ったところで無理なのです。
このような各家族が、他の家族と分断されて別々に暮らしているという社会は、日本ではこれまでなかったことです。理屈は別として色々とうまい仕組みがあって、社会が夫婦を育てていたという側面があったのです。少しずつ先人の知恵を私も発掘しています。どうも日本では、昔の社会の悪い側面だけを現代の価値観から批判するばかりで、こういう経験的なメンタルの手当てを見過ごしがちだということを強く感じています。何事も全面的に否定しなければならないことは少なく、全面的に否定してしまうと良い面も無かったことにされるようです。

次に夫の「するべきことをしない」というのはどういうことでしょうか。
妻の自滅に対する対応、フォローです。家族というチームの一人が体調を崩して困っているのだから、仲間がフォローするということは当たり前と言えば当たり前の話なのです。妻が自働的に生まれる不安に困って自分を守るために夫を攻撃しているのに、夫はそれがわからないから、自分が不合理に妻から責められていると思い、夫も自分を守ろうと妻を攻撃してしまうということが起きているわけです。これは多かれ少なかれどのご家庭にもあるのではないでしょうか。どんなに妻を責めても、妻自身がどうにもならないことがあります。どうしても、朝起きられないとか、どうしても掃除や片付けができないとか、どうしても子どもに愛情が感じられないとか、どうしても金銭管理ができないとか、そういうことは妻に責任が無くてもあることです。足を骨折した人が歩けないということを同じことがメンタル的には起きるということでしょうか。夫の方も妻の不安に日常的にさらされていたり、夫自身の問題があったりして、それらの妻のできないことを自分が責められている、自分が馬鹿にされているかのように受け止めてしまうことがあります。特に妻のヒステリーに対してが一番でしょうね。つい自分を守るため、激しく妻に反撃してしまうのです。妻は、自分ができないことをやれと言われて不可能と絶望を感じるわけですし、自分の不安を否定され太と感じ、自分の存在、自分が生きていくことを激しく否定されたと感じているわけです。
このようなオープンな不安の放出ではなく、連れ去り別居が起きる家庭は、妻は不安を内に秘める傾向が多いように感じられます。じっと夫の不作為や反撃を我慢して、静かに夫の評価を積み重ねていくパターンです。離婚事件ともなれば、自分で合理的な関係修復の提案もしないで、一方的にいかにダメな夫かを饒舌に主張してくるパターンです。その多くが、起きてもいないことが起きたという記憶の置き換えにもとづいているようです。これは、その不安が起きたと同時に置き換えが起きているようです。夕方に「こういうことを言うと、夫からだからダメなんだと言われるだろうな」と思っていたことが、その夜の日記では「夫からだからお前はダメなんだ馬鹿と言われた。」と変わっていたことが証拠から明らかになった事案がありました。言われた事実はないけれど夫かそう言われたら嫌だなという気持ちがあったことは間違いないようです。
とにかく妻は、特に出産後、不安と悲観的思考が支配されていますから、今までそれでよかったということが良くなくなっています。自分が夫から尊重されている自信がなくなっているのです。出産前の情緒的な記憶が薄れているようです。「尊重されていた記憶が無い。夫が何を考えているかわからない。自分は否定されているのではないか。馬鹿にされているのではないか。」という思考です。そうだとすれば、家族というチームの仲間は、「大丈夫だよ。大切に思っているよ。」ということを分からせてあげる必要があるのではないでしょうか。
例えばあなたが仕事で上司から、あなたが会社に貢献したことについては一切評価されず、些細なミスをした時だけ、怒りを向けられたり、あざ笑われたりした場合、あるいは同僚の前で否定評価された場合、間違いなくカーっと体温が上がったり、血圧が上がったり、脈拍が早くなると思います。どす黒い気持ちになることでしょう。おそらく妻は体調が悪くなり、夫婦の蜜月の記憶が薄れていますから、あなたが少し煙たい上司に抱いている感情を妻はあなたに抱いていると考えるとよいかもしれません。そんな上司が、あなたにだけ、家族旅行のお土産をくれたり、「あなたがいるからいつも助けれている」と同僚の前で感謝されたり、あなたが失敗したときも笑顔でフォローしてくれたりすればとてもうれしいと思います。家族は職場以上に孤立した環境ですから、妻にとって、花を買ってくる人はあなたしかいませんし、子どもの前で「お母さんは日本一だ」とほめてあげる人もあなたしかいませんし、どうしても起き上がれないときに年休をとって子供たちの面倒を見ながら家事をやるのは夫しかいません。それにもかかわらず、妻へ何の感謝も示さないで自分の趣味の道具にばかりお金をかけたり、子どもの前でだらしないと叱ったり、「家の幼児で会社を休めるわけがないだろう。子どものことは母親なんだから何とかしろ」と怒鳴って、遠いところから妻の両親を応援に来させるようなことがあれば、家族ぐるみで関係が悪化していくことはわかりやすいことだと思います。
どんなに妻を愛していてもいつも良い顔ばかりはできませんが、全くしないということはだめで、2回に1回、3回に1回は夫も無理をする。尊重を形にして示す。これができれば、妻の感覚、感情にだいぶ効果があるようなのです。
「いつもと同じようにしているのだから、自分は悪くない。自分は一貫性がある。」なんてことを言うことが滑稽であるということを理解してください。妻だって、一貫した行動と感情でいたいのですが、体調がそれを許さないだけなのです。夫が悪くないということは言えるかもしれませんが、妻だって悪くない。人間はそんなに理性だけで行動しているわけではありません。でも人間は、生き物なので、どうしても自分を守ろうとしてしまう。自分が攻撃されていると思ってしまう。
ここで思い出していただきたい結婚が決まるまでのあなたの気持ちが二つあります。
一つ目の気持ちは、当時は、例えば野良犬が、二人を襲ってきたら、あなたは身を挺して将来の妻を守ろうという気持ちがあったはずです。妻から自分を守ろうとしていることに気が付いて、二人の仲を引き裂こうとする野良犬という体調変化から、自分を犠牲にして二人を守るということです。二人を守るのは二人しかいません。「自分が悪くないから相手が悪い。」という論理は、「相手が一人で自分たち二人を守るべきだ」という子どもじみた考えだとお気づきになったことだと思います。夫婦はお互いに、相手の親ではない、しかも自分が子どもの時の「絶対的親」ではありません。もう一つの気持ちは、結婚が決まる前は、相手の気持ちを獲得するために相手を観察して、分析して、自分なりに行動したということです。相手の自分に対する対応に一喜一憂したその気持ちです。相手が変な反応をしたとしても、妻から攻撃があったと感じた場合は、「先ず反撃」するのではなく、「先ず悲しむ」ということが正解だということになります。そしてあまり気にしないで、時間が経過したら別の話題を振ってみる。これで解決することも多いかもしれません。そして、感謝の行動と、感謝の言葉、そしてできないことに対するフォローです。これを3回のチャンスのうち1回は実行するということですね。
3回に1回でも男には難しいという事情があると思います。私だけかもしれませんが、より男の方に事情があります。正義感、社会常識、論理、合理性、もしかしたら「子どもの利益」なんて言うのも含まれるかもしれません。こっちが悪くないのだから攻撃するな。このごみをゴミ箱に入れることやこの本をひもでくくって捨てることやいらない物を買ってこないことをするのは常識だろう、こんなことで大騒ぎしたら、近所から変な目で見られるだろう。自分があの時ああしなかったくせに、こっちがしないときだけ怒鳴るな。多少体がきつくても子どものために頑張れないのでは母親ではないだろう。こんな感じでしょうかね。誰でも覚えがあると思いますよ。
よく、連れ去り妻を批判しますよね。「自分のために子どもを巻き込んで子どもの不利益を顧みない」という具合です。自分に原因がないと思うから相手に100%の責任を感じるのは、仕方が無かったことかもしれません。しかし、もし、夫が妻の体調変化に気が付いて対応を変えて、妻が自分は尊重されているんだと感じる機会がもう少しあったならばと思います。夫が悪いわけではないかもしれません。でも妻が悪いわけでもなかったかもしれないし、夫が別の行動をすれば事情が変わったかもしれないということを、今の日本全体で考える必要があると思います。
女性の方も、安易に夫ばかりを責めることをしない方が良いと思います。夫が自分の不安や恐怖の原因だと決め打ちしてしまうと、離婚ができても、夫が生きている限り不安や恐怖が消えないことがあります。ご自分の体調変化に気が付くということは、特にメンタル的変化については絶望的に難しいことです。でも予備的な知識があれば、必要以上に苦しむ前に、解決方法が見える場合もあると思います。


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共同親権制度が生まれることで何か子どものために効果があるとすれば何か 家族分断法体系は温存されるのか [家事]


まもなく日本も、離婚後も共同親権とする制度が生まれます。
この法制度化に、私は多くの労力を使おうとしていません。

理由は
①外圧による国際水準化なので、共同親権制度はどうしても生まれる
②過剰な期待をすることは大変危険である。
③法律や司法によって子どもの幸せを図ろうとすることは間違い
ということになります。

①先ず、国際水準化ということですが、離婚後親であるにもかかわらず、子どもに対する権利がなくなってしまうというのは、国際的にみて産業貿易が普通に行われている国では日本くらいだということです。特に欧米は、日本人の子どもの連れ去りを犯罪視していて、根本原因が日本の法制度が、離婚によって一方の親の親権をはく奪する単独親権制度にあると見抜いていますから、共同親権制度にしろという圧力がとても強いのです。親権制度は内政干渉にはならず、子どもの人権問題だという正当な理由がありますから、外圧はやむを得ません。日本は、EUの会議等では、北朝鮮と同じ拉致を容認する国だという扱いになっていますので、親が離婚したからと言って子どもとの関係に変化が起きるという法制度を変更することになるでしょう。

②それに対して、子どもを連れ去られた親御さんたちが、共同親権制度に過剰な期待をしていることが心配されます。共同親権制度になれば、子どもの連れ去りがなくなるとか、子どもと面会できるようになるとか、そのようなことを考えていれば、それは間違いだとはっきり言えるでしょう。なぜならば、現実に夫婦が離婚前であれば、現代日本も共同親権です。共同親権の中で連れ去りは起き、子どものもう一方の親への面会は同居親によって阻まれています。別居親は、自分に責任が無くても監護権が裁判所によって奪われ、どこに子どもがいるかもわからない状態が多発しているではありませんか。

③そもそも、連れ去りや面会妨害は、両親の不仲によって発生します。どちらか一方に主たる原因があることが多いのですが、どちらか一方だけに原因があることも少ないように感じます。そして、同居親は、様々な事情で(別居親に主たる原因が無くても)、別居親を嫌悪し、恐怖を覚え、子どもと別居親が交流することを嫌がっています。このような状況を直視し、現実を改善する手立てを講じないまま、法律や裁判で制度を変えたところで、親子の効果的な交流や連れ去り防止ということは変わらないということにこそ、気が付かなければなりません。連れ去りや面会拒否は、親権制度の問題というよりも、感情の問題だと私は思っています。この感情問題を少しでも解決することによって、子どもにとって有効な交流や連れ去り予防を講じていくことこそ本論だと思っています。
 親子というものは、国がどういおうと法律がどう変わろうと、親子なのです。家族で解決することが最も妥当な解決を図りうると考えています。法律をどうのこうのとするよりも、家族が幸せに暮らす工夫の知識、人的物的支援の充実で解決するべきだと私は考えています。

このように共同親権制度に水を差す議論を始めたかというと、理由があるのです。私の考えは正しいと思うのですが、それでは、なぜ、ヒステリックに共同親権反対を叫ぶ人たちがいるのかということに着目したからです。法律家や学者といった、論理を大切にしなければならない人たちまでもなりふり構わずに、感情論で離婚後の共同親権制度に反対しています。加熱するののしりの外から見れば、大変気の毒な議論に終始しているとしか見えないのです。そして、その論拠が見えない。ここを、つまり、彼ら、彼女らが本当は言いたいけれど言えない反対する理由があるのではないかということが着目されるべきなのでしょう。

共同親権反対者の先生方は、連れ去りや面会交流拒否を支持しているようです。このことの是非については今日は議論しません。大事なことはどうやら、離婚後の共同親権制度ができると、連れ去りや面会交流拒否ができにくくなると考えているようです。もしかしたら高名な学者や法律家の先生方の危惧は正しいのかもしれません。検討してみましょう。

連れ去りをする親、高名な先生方が擁護するのは女性限定なので、妻と置き換えて論じます。連れ去りをする妻たちは、本気で夫を嫌っています。但し、離婚事件の中では、いわゆる日本ではレノアウォーカーが有名ですが「配偶者加害」として国際的に論じられているような暴力があるケースは稀ですし、マリーフランスイルゴイエンヌが「モラルハラスメント」で取り上げた自己愛型パーソナリティー障害の疑いのあるようなモラハラも日本の離婚事件ではほとんどありません。通常の市井の夫婦の問題がある事例がほとんどだということは指摘しておきます。ただ、夫の方は、妻の精神的異変に気が付かず、例えば子どもが生まれる前と後と、妻への対応を変えておらず、それがために自分の行動を修正するべきだったということに気が付きません。そのため、妻が一方的に自分に卑劣な仕打ちをする、あるいは弁護士や行政が妻をそそのかしたという把握の仕方をします。このため、さらに絶望が深くなり、精神的ダメージも大きくなるという悲劇を起こしてしまいます。深入りするときりがありませんね。

高名な先生方はこのような事情を知りません。ウォーカーやイルゴイエンヌ等の書籍を結論だけ輸入した講学上の知識で、妻が苦しんでいるのは、夫が悪い、女性は攻撃を受ける被害者で、被害者を攻撃をするのは男性という加害者だという単純な二者択一的思考をされますので、直ちに苦しんでいる妻を加害者である夫から解放しようという使命感に燃えられるようです。彼らにとっては正義感なのでしょう。正義感が人を盲目にして、考えなければならない本当の利益、ここでは子どもの利益を考慮できなくなるという典型例ですね。

どうやって妻を解放するか(家族分断の法・実務体系)。
とにかく夫から逃げる。夫を妻に近づけさせないようにする。女性が子育てをするべきだというジェンダーバイアスがかかった考えがあるので、女性は子どもを連れて逃げなければならないという流れになります。
行政や警察は妻を隠し、住民票を非開示にして、夫が探し出して近づこうものなら、保護命令やストーカー規制で妨害する。裁判所も、子どもは女性が育てるべきだというジェンダーバイアスと、女性は家で子育てをするべきだという時代錯誤的な感覚がありますし、言った当の本人(ボールビー)が否定している、人間は最初に一人(母親)とだけ愛着を形成するという理論を未だに修正しない継続性の原則を金科玉条としています。連れ去りさえすれば子どもを手元に置くことができる法体系になっているわけです。これには例外があります。夫が子どもを連れ去ったケースに限って、裁判所は原則論に立ち返ります。妻に子どもを戻せという決定がいくつか出ています。また、最初に子どもが生活し、友人たちも親戚もいるという環境から分離して、未知の生活を押し付けても誘拐罪は適用されません。逆に父親が元居た場所に子どもを戻すと誘拐罪で逮捕されます。極めて男女不平等というか、恣意的な運用がなされています。
さて、逃げ続けるという単純な作戦なのですが、これは逃げろ逃げろという人たちにとってはそれほど負担はないかもしれません。ものを考えないで済みますね。しかし逃げている妻本人は大変精神的負担がかかります。怖いから、嫌だから逃げていたはずなのですが、次第に逃げているから怖いという感情がわいてくるようです。いつ夫が自分のところに来るかという余計な心配が増えるからです。これは10年たっても消えないケースもありました。それはそうです。元々、理由なく不安を感じていただけの精神的に影響がある疾患を患っていた人が、不安には理由があるということを断定されたため、理由が存在する限り不安を抱かせられるよう呪いをかけられたようなものだからです。
このため、逃げることは長続きすることが難しいのです。逃げたゴールが必要なのです。それが、離婚です。日本の家族法は、法律の体裁をよそに、離婚したければ離婚ができるように裁判例の変更がありました。但し、夫からの離婚だけは、離婚したいから離婚できるわけではないという判例があります。妻からの離婚は、離婚意思が固いとして婚姻破綻があるとして認められる傾向にあります。もちろん子どもの親権は連れ去った同居親たる妻にあり、単独親権制度の下では夫の親権は奪われる。そうすると、あとは強制力のない面会交流の決定は無視して、強制執行できる養育費だけは受け取って、夫とは顔も観ず、声も聞かず、メールも受け取らない、全くの別人になれる。
単独親権制度は、このように家族分断の法律と実務の体系の最終目標となっていたということだったのです。
だから、なりふり構わず離婚後の共同親権制度に反対しているのかもしれません。

この考えが正しいとしたならば、共同親権制度は止められないとするならば、彼らは換骨奪胎を狙ってくるでしょう。逃げるゴールを温存させようとするわけです。これが、選択的共同親権制度というものですが、名前を変えてくると思います。原理はこうです。原則共同親権だが、当事者が同意しなければ単独親権となるというものです。つまり、連れ去りをするような妻は自分のケースでは共同親権には同意しないでしょうから、これまで通りの単独親権になるという「落ち」です。
ゴールがある以上、連れ去りは起こるでしょうし、面会交流拒否は継続されるでしょう。共同親権推進グループの中で政治家が選択的共同親権を創設すると演説していましたが、ブーイングは起きなかったようです。現在の実質的単独親権制度である選択的共同親権をもくろんでいる勢力があるわけです。これで単独親権制度に批判的な諸外国を言葉で交わそうとしているわけです。共同親権という言葉に惑わされて、その内容を吟味しないで、一歩前進なんてごまかされて、実質的に選択的共同親権制度を応援してしまうことが起こりうることを示していると私は思います。

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児相の保護という隔離の後に、直ちに親子再生の働きかけを行う切実な必要性 [家事]

痛ましい児童虐待の事件が報道されると
二者択一的な論調は、
実力による保護を訴え、警察権力の導入などを声高に叫びます。

しかし、私のように保護期間終了後の方々に関わる者からすれば、
問題は保護という名の家族の隔離をした後のことが
当該児童にとっては何よりも大切なことなのに、
それが十分行われていないということを常々感じます。
そのことを議論しないで
隔離だけを優先するということはあまりにも
児童のその後の人生において無責任だと思っています。

結論から言えば
家族を一時的に分断した直後から
方法を工夫しながら面会などの交流を開始しなければならない
ということです。

肝心なことは、
保護や施設入所は高校を卒業するまでなのです。
それまでは、施設所長の名前などで
保護者の代わりを書類上は行っているのですが、
進学や就職に関しては
保護者の関与が必要であることがほとんどです。

また、住居一つとっても
児童養護施設を出ていかなければならないのに
住む場所もないわけです。
生活費も何か保証されているものでもありません。
極端に言えば、社会に放り出されているのです。

家庭に戻れれば良いのですが
児童は家庭に戻れないことがあります。

一番の原因は、
自分が家族に受け入れるという自信が持てないからで、
その原因は長期に生活を別にしていることです。
家族だからと言って、長期間別々に住んでいながら
さあ、出てきたから一緒に暮らしましょうということは
時間の経過ということが原因となってできないみたいです。

例をあげます。
施設を卒業して
住み込みでの仕事をしていた方の自死の介入に関与したことがあります。
まるで、愛着傷害の子どものように、
自分を尊重してくれる人間に対してはべったりとした関係になるけれど
普通にルールを厳守するよう指示をしただけの人も毛嫌いして
自分が排除されているのではないかというような
精神的ダメージを受けてしまっていたようでした。
その結果、
リストカットがどんどん増えて、また深くなっていき、
緊急で入院して一命をとりとめたという事案もありました。

幸いなことも多く
入院費用も、いろいろな協力を得て社会保障の制度内で支払うことができ、
その後も多くの人の好意で働くまでに回復したのですが、
どうしても人間関係がうまくいかず
その後の連絡は来なくなってしまいました。

そういう場合でも
家族の元に戻ろうとはしませんでした。

このケースでも形式的な家族の再統合は試みられたようです。
しかし、再び家族として生活をするということまではできず、
この現代日本の中で子どもは孤立してしまいました。

自分に自信を持てないために人の顔色を窺っていました。
それは生きづらさを感じるでしょう。
自分が相手から受け入れるかどうかは、初めから決められていることではなく、
自分の相手に対する働きかけによってもだいぶ変わってくる
ということを学ばないで社会に出されたということなのだろうと思います。

別のお子さんも
元々は仲の良い親子でした。
どうして保護分離がなされたのか納得のゆかない事案です。
私から見ると
そのお子さんは、
親とうまくいかなかった出来事を記憶の中から穿り出して
敢えてうまくいくはずがないという結論を出しているような
そんな印象を受けることばかり言っていました。

単に自信がないのです。

これまで何年も親子を分断して
誰からも保護されなくなるからさあ保護しろと
親に言っても、親も反発するでしょうが、
もっと深刻なことは子どもが親に関わる自信がなく
親に会うことすらおっくうになっているということです。

色々な事例で個別的な理由があるとは思いますが、
一番は会わない期間が長すぎるということです。
家族分離をさせたこと自体で
小さい子供は自分が悪いから孤独になっているのだと思いますし、
少し年齢が上がれば
自分が当たり前だと思っていた日常が
実は親が自分を虐待していた日常だった
自分の記憶に反して、自分はひどい目にあっていたのだ
という意識が蓄積されていきます。

それでは、日本の制度では、子どもいつまでたっても孤立していくのです。

今子どもが虐待死しなければ良い、
本当は理由がなく不合理に苦しむ人たちが出ても
一人の子どもの命を救えればそれでいいやという思想ならば
現在の制度でよいかもしれません。

養護施設卒業後は、また別の問題だというのかもしれません。
それなら早くその別の問題を解決してもらいたいです。
実際は少なくない子どもが18歳で社会に放り出されているのです。

どうしても今の保護制度、今の日本社会では
最終的には親の力が必要になります。
それが現実なのに、当然訪れるはずのこの出口に向かっての活動が
極めて不十分だと思う事例が多いのです。

その一番の問題は
親子の絶対的な分断の時間が長すぎるということです。

分断を始めたら
できるだけ早期に
親子面会が実施されなければなりません。
様々な工夫が必要ですが、
このまま18歳まで一緒に暮らせないという絶望を抱かせないことが
スムーズな面会実施のポイントになると思います。

また、ファミリーソーシャルワークの専門家も同席し
各家庭の課題ないし改善目標を明確にすることも必要でしょう。
それを上から押し付けるのではなく、
一緒に考えていくことが必要だと思います。

そのためにも長期の分離という絶望的な事態は
くれぐれも必要最小限度の範囲にとどめるべきです。
希望を持てること、希望への道筋をはっきりすること
そしてそれに向けて応援されているという実感を持ってもらうこと
これが大切だと思います。
そのためにはあらゆる工夫をして、直接の家族交流が
定期的かつ必要な時に随時行われる必要があると思います。

大切なことは警察と権力の増強ではなく、
一緒に考えるスタッフの増員のはずです。

分離後も子どもの人生が続くというリアルを
どうか考えていただきたいと思います。
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杉田水脈議員バッシングに見る日本民主主義の現状 感情が知らないうちに支配されている [弁護士会 民主主義 人権]

杉田議員が、自民党の会合の中で女性蔑視の発言をした
というリーク記事で、
野党は杉田議員の辞職を所属政党である自民党に要求しているとのことです。

閣僚とか政府与党役員の失言についての報道は、
第一報は文字だけの報道でも、通常裏付けがあって
続報では、失言を映像などで報道されることが多いと思います。
今回はこういう裏付けがまったく報道されません。

つまり信用性に疑問を持つべきなのです。
これを「報道各社が一斉に報道しているから信用性がある」
等と言って信用性を強調する動きがありますが
こういうことを言われるとますます疑わしくなります。

もともとは配信会社の取材です。
テレビ局や新聞は配信会社の情報を
自社のメディアで報道するのです。
独自取材をしているわけではありません。
通常、共同通信や時事通信のニュースは
各社が一斉配信をすることが多いのです。
それにも関わらず、あえて多くのマスコミが報じていると
いうのは胡散臭いというわけです。

それにも関わらず、蔑視だということで発言を許さないのならば、
また政党内部の発言を理由に辞職を求めるならば
それは前例になってしまうでしょう。

現在の野党が与党となって
自分の価値観に反する意見を述べたならば
議員辞職をさせるとするならば、

リークをしたことにして報道をさせて世論を高めて
いくらでも辞職をさせることもでてくるのではないかあるいは
そもそも立候補をさせないということだって
心配しなくてはならないのではないでしょうか。

杉田議員は、有権者の支持を集めて議員になっている
ということを軽視しては民主主義は成り立ちません。

中国共産党による香港支配の価値観と
極めて類似しているということになぜ気が付かないのでしょうか。

政治家の、党派内の発言が問題にされるべきではないという意味ではないことは
わざわざ断ることではないと思います。
あくまでも政治家の政治的発言の責任の取り方は
選挙によって解決されるべきことです。

そもそものリークが本当にあったとしたら
政党関係者か政府筋ということになるので
特定の意図をもってなされている可能性を考えるべきです。
あまりにも聞くに堪えないからというきれいごとのリークというのは考えにくいです。
もしこのような良心のリークがあるならば
もっともっとほかにもリークがあるのではないでしょうか。

その特定の意図とは
政策の推進です。
特定の政策に対して、反対をさせないために
スケープゴートを作り、
反対意見を出すことを封殺する手法というのは
かなりポピュラーな手法です。

そうして反対意見を出しにくい雰囲気を出して
意図した政策を実行するということです。

これは、何らかの事件があって犠牲者が生まれたときに
よく使われる手法です。

第2次世界大戦以前の開戦の機運を高めるときは
常套手段として使われました。

もし、このような特定の意図があるリークであれば
現在の杉田議員のバッシングは、
リークをした者の描いた図面通りの反応が起きている
ということになるでしょう。

こういう報道をすればこういう反応が起きるということは
日本の民主主義の状態を分かっていればだいたい想像がつくことなのかもしれません。
私たちの感情、特に怒りは
誰かに支配されているかもしれないということを考えなければなりません。
そもそも戦争はこうやって起きているわけですが、
戦争反対を叫ぶはずの人たちは、戦争を起こすイデオロギーに対しては
何ら関心が無いようです。

日本にはまだ民主主義が根付いてはいないようです。

学校教育の大問題だと思いますが、
民主主義は多数決と同義だと思っている国民が多いのではないでしょうか。
これは、日本の政治家たちにも大きな原因があります。

現代民主主義とは
真理というものは絶対的なものがなく、
立場が変わり、時間が代われば
価値観が代わったり、新しい真実が発見される
だから、多様な立場から多様な価値観を反映して
政策が決められるべきだというものです。

また、誤りというのも絶対的誤りはなく、
その中で組むべき真実というものもあり、
政策の具体的内容を修正する契機となる
政策をより豊かにするためのものと位置付けられるという
思想が民主主義なのです。

反対するか賛成するかという二者択一的な議論ではなく、
良いところを取り入れて悪いところを削除する
という当たり前のことを行うことが
民主主義なわけです。

だから言論の自由が保障されなければなりません。

現代日本の政治や言論界は
二者択一的な議論だけが行われ、
自分の反対者に対する尊敬が感じられません。

杉田議員の意見に賛成するか反対するか
という二者択一的な視点からだけ物を見ること自体が
民主主義を壊すことではないかと考えるのはこういう理由です。


女性が嘘をつくと杉田議員が言ったかどうかは不明ですが、
女性が事実と異なることを主張させられているということは
あまりにもありふれた真実です。

家族のある女性が、生きづらさを相談しに行くと
いつの間にか被害者、要支援者とされ、
その夫は、事実の有無にかかわらず「加害者」と呼ばれます。

総務省は、ここでいう「加害者」は日本語の加害者とは違うと
通達を出しているのです。
日本の国が、日本語と違う意味で言葉を使っているというのです。

平気でうそをつくのではなく
嘘をつくように国の政策によって追い込まれているのです。

リーク者が推進しようと意図した政策こそ
この政策の可能性が高いと思います。
常日頃杉田議員はこの政策に異を唱えていたようです。
それに対する反発もよく把握できたと思います。
リークさえすれば必ず反応が起きるということは
それほど難しくない予想だったと思います。

以下、総務省の変な日本語の正式文書を引用して終わります。

https://www.soumu.go.jp/main_content/000687389.pdf

事務連 絡
平成25年10月18日
各都道府県住民基本台帳担当課 様
(市町村担当課扱い)
総務省自治行政局住民制度課
DV等被害者支援措置における「加害者」の考え方について
「住民基本台帳の一部の写しの閲覧及び住民票の写し等の交付並びに戸籍の附票の写しの交付におけ
るドメスティック・バイオレンス、ストーカー行為等、児童虐待及びこれらに準ずる措置」(以下、「支援措置」という。)については、住民基本台帳法をはじめ、関係省令及び通知等に基づき、各市区町村において対応いただいております。
具体的には、住民基本台帳事務処理要領(昭和 42 年自治振第 150 号等自治省行政局長等から各都道府
県知事あて通知。以下、「事務処理要領」という。)、住民基本台帳事務における支援措置申出書(平成 24年 9 月 26 日総行住 89 号中別紙。以下、「申出書」という。)等により対応いただいておりますが、その中に「加害者」という記述があります。
この場合、特に申出書の「加害者」欄は、申出者が記載することとしており、その記載に当たっては、
疎明資料等を求めることとしていません。したがって、保護命令決定を受けるなど、被害者と「加害者」の立場が明確である場合もありますが、申出者と「加害者欄に記載された者」の間の訴訟が係争中であり確定していない事例なども含まれています。
これは、措置の必要性を判断するために事実関係の確定等を待つこととした場合、その間に申出者の
住所が探索されてしまう懸念もあることから、支援措置は、申出内容について、相談機関の意見なども
聞きながら、必要性を判断するスキームとしているものです。
一般的には、「他人に危害や損害を加える人」という意味で、「被害者」の対義語として「加害者」と
いう言葉が使われることがありますが、支援措置においては、上記のとおりこれと全て一致するもので
はありませんので、窓口における「加害者欄に記載された者」等へ対応する場合や事務処理要領第 6-10-サに基づき、庁内で必要な情報共有等を行う場合などはご留意ください。
貴都道府県内の市区町村に対しても、この旨周知くださるようお願いいたします。
なお、この事務連絡は、あくまでも支援措置における「加害者」の考え方について周知するものであ
り、これまでの事務処理の手順、支援措置の必要性の判断を変更する旨の助言ではないことを念のため
申し添えます。
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