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中学生のスマートフォンの使用について注意するべき事項 自分が他人に対する加害者とならないために、そして自分自身が苦しまないために [進化心理学、生理学、対人関係学]



中学生の自死に、スマートフォンの使用が関連する可能性がある事案がよくあるため、私の見解をお話しします。

現在スマートフォンの普及が目覚ましく、現実問題として、生徒同士で授業内容や持参物等の情報交換や、部活動の諸連絡等活発に活用されており、使用を一律に禁止することが現実的ではない状況もあるようです。
むしろ、スマートフォンを禁止にするよりも、使い方についてその弊害などのデメリットを十分に指導する方が建設的ではないかと考えています。

これまでスマートフォン使用の弊害、危険性として指摘されてきたことは、SNSなどを通じて、生徒が犯罪に巻き込まれたり、成人等からの被害を受けたりすることです。つまりスマートフォンを使用することによって被害者にならないためにするという観点です。この問題も大変大事な問題なので、引き続き、指導をしていくべき事柄だと思います。
今回私が指摘することは、生徒どうしのSNSやメールでも、その使用方法によっては、受信者が傷ついたり、発信者自身も傷ついたりして、深刻な事態になりかねないことを注意するべきだということです。このことについてお話します。自分が加害者になるということです。
SNSやメールといったインターネットのコミュニケーションは、相手の様子がわからないところで情報を発信するところに特徴があります。このため、相手の気分感情を十分に考えないで、自分勝手な考えで相手を傷つける情報を発信してしまう危険が高くなります。通常の顔を合わせてのコミュニケーションの場合、話す相手方の表情や周囲の様子を見て、話の内容を変化させたり、話をしなかったりという選択肢を実行することもできます。例えば、相手が嫌がっている話題を出して、相手が不愉快そうな表情をすれば、話題を続けることを中止するということがありますね。また、あなたの話を聞いている人があなたの発言を制止したり、あなたが第三者の表情を読み取って話題を変えたり、自分の発言に謝罪したりすることもできるでしょう。そもそも相手を目にしている場合は、相手を傷つけるような言葉をわざわざいうということは、よほど喧嘩している場合をのぞいては、あまりないことでしょう。
ところが、SNSやメールの発信は、自室など一人きりの空間で行うことが多く、相手の気分、感情を配慮する材料が圧倒的に少ないという事情があります。このため、何かを発信しようとするときに、相手の顔が見えないため、これからそれを発信することで相手が傷ついたり、困惑してしまったりするかもしれないという発想をなかなか持つことができない事情になってしまいます。自分の頭の中だけでの判断ということになります。これは、大人の世界でも、メールやSNSでは攻撃的人格に変貌したかのような発信をして周囲を傷つけたり困惑させたりするトラブルが少なくありません。実は、メールやSNSでのコミュニケーションは、本当は難易度の高いコミュニケーションなのです。
このため、普段ならば面と向かっては言わないようなことも書き込んでしまったり、表現なども相手を配慮しない表現で書き込んだりしてしまうようです。
相手方からすれば、自分がそんなにひどいことを言われてしまったという現実によって、自分が発信者から仲間として扱われていない、いずれ仲間外れにされてしまうだろうという不安や恐怖を感じてしまうこともあります。情報を受け取る相手からしても、あなたの表情や声の様子などがわかりませんから、書き込まれたとおりに受け止める危険があります。面と向かって言っていたらジョークになることも、深刻な攻撃だと受け止めてしまいかねません。SNSなどでそのやりとりを複数の人間が見ることが可能ならば、情報を受けた相手方はみんなの前で侮辱されたとか、みんなが見ている前で攻撃されたとかという感情を抱いてしまいます。不安や恐怖がより深刻に表れてしまいます。
情報の相手方ではなくとも、それを見ることができる第三者も不愉快な思いをする場合もあります。あるいは、第三者も最初の発信者に共感してしまい、相手方を傷つける書き込みをする場合もあります。
生徒どうしのメールやSNSの危険性は、情報を受け取った相手方が、情報発信した人間の想定しない深刻な精神的ダメージを受けてしまう危険があるということです。
もう一つ、生徒どうしのメールやSNSの危険性は、それを書き込んだ側にも精神的ダメージを与える可能性があるということです。
SNSの発信は、文字情報を入力して送信すれば完了します。自分で入力した情報を見直すということがなかなかできません。つい、その時のノリで、あるいは誰かの書き込みに対して対立感情がわいてしまい、つい反射的に自分の本意ではない過激な言動を書き込んでしまう危険があります。あるいは書き間違いをしてしまうことだってありうるわけです。
それにも関わらず、一度SNSに書き込んだ情報は、自分一人で消去することができません。誰かが保存してしまえば半永久的に残ってしまう可能性があります。しかも、アプリによってはそれを第三者が同時に見ることだってできるわけです。つい感情的に、あるいは調子に乗って書き込んでしまった情報が、自分の手を離れて多くの人が見るところになってしまう。しまったと思ったときにはもう遅いということが少なくありません。後で落ち着いて見直してこんなことを書かなければ良かったなと思ったり、第三者が自分の書き込みに対して非難する書き込みをされたりして、取り返しのつかないことをしてしまったと後悔することになってしまいます。その書き込みは多くの人たちが見ているとすると、ひとりひとりに訂正、謝罪することも簡単なことではありません。
訂正が効かない失敗をしてしまい、それも自分が大切に思っている人間関係の人たちから嫌われたり、攻撃されたりすると、どうしたらよいか分からなくなってしまいます。何とかしなくてはいけないのになんともできないということは、心を焦らせる事情になってしまいます。絶望的な気持ちになることもありうると思います。人間の精神に極めて有害な作用を与えることになりかねません。
以上のようにSNSやメールなどの発信は、便利なツールですが、情報発信者にとって、相手方にとっても、あるいはそれを閲覧できる第三者にとってもとても危険な側面を持ったツールです。そのことをまず理解していただきたいと思います。
この危険な側面をできるだけ現実のものとしないで活用するために、SNSやメールを利用する場合の提案をいたします。
1)必要な情報交換など、最小限度の情報発信に努める。
2)他人を攻撃したり、困惑させたり、他人の人格を否定したりする発信をしないことはもちろん、うわさや、評価をともなう発信もしない。
3)定期的に保護者に見てもらい、相手を攻撃したり、困惑させる発信や結果としてそうなってしまう表現が無いか点検してもらう。表現方法の修正を教えてもらう。
4)間違った書き込みをしてしまった場合には、保護者など大人に相談をするなどして直ちに謝罪をする。
5)緊急性が無いSNSやメールの利用は、時間帯をあらかじめ定めて、その時間外の利用はお互いに情報発信はしないようにする。

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コロナ警察、帰省警察の心理。過剰不安を否定してしまっては、解決から遠ざかる。 [災害等]

やめろと言われているのに夜中に飲み歩いて
自分がコロナに感染するだけでなく
感染を知らずに、他人に感染させるなんてことになると
誰が感染させたとかどこで感染が起きたか
ということが気になるのは致し方ないかもしれません。

一番は、その人の立ち寄ったところに立ち寄りたくない
という気持ちから行動を知りたい
ということはむしろ一般的かもしれません。

だんだんこれが高じてきてしまうと、
感染をしなくても
新幹線や飛行機を使って旅行するだけで、
非難の目が向けられて行って、

帰省をしただけで、
早く帰れなどのビラが投げ込まれるという
帰省警察なんていう行動も
報道されるようになってきました。

ここまで行くと
正義もだいぶ歪んでしまっていると
感じてしまうところです。
もっとも
元々私は正義というのは
他者を攻撃するための口実だと思っているのですが。

実は、これらの強迫神経症的な
決まりごとの順守圧力は
二つの共通の要因があります。

一つは、決めごとを守ることによって
安心を得ている人が
守らない人に対して脅威を感じるというパターン。

もう一つは、自分決めごとを守って不自由な思いをしているのに、
それを守らないで、一人だけ得をしている
つまり自分だけ真面目に守って馬鹿を見て損をしている
という意識です。

コロナはどうやって感染するか目に見えませんから
やみくもに怖がってしまう典型的なできごとです。

自分が感染するという恐怖だけではなく
自分の家族の高齢者や小さな子供が感染したらと思うと
それはこわいでしょう。
なんとか大丈夫だと安心したいのは人情です。

しかし、感染は見えない。

そこで、言われたことを守ることによって
安心感を得たいと思うわけです。
三密をさけ
うがい手洗いをする。
不要不急の外出はしない。

このためにしたいこともしない。
しかし、自分と家族を守るために我慢するわけです。

不自由感、拘束感が生まれますが
これがいつまで続くかわからないという閉塞感も生まれるわけです。

最初は、比較的科学的に
予防策をとっているわけです。
なるほどこういうことをすれば感染のリスクは下がるのねと。

ところが、次第に、いちいち理由を考えないで
ルーチンワークになっていくにつれて
元々の理由なんてどうでもよくなっていきます。
それをすることで感染をよける
儀式的な行動みたいな、おまじないみたいな感覚になるわけです。

理由があってやっていることが
やらないと災いが起きるかのような圧迫感を持つようになるわけです。

そうすると自分が不自由ながら決まり事を守っていても、
それを守らない人がいると

相手は好き勝手やって自由に行動しているので
「ずるい」
という感覚になるようです。

こちらが我慢しているのに自分だけ得をしてずるいという感覚が
倫理や道徳の始まりなのかもしれません。

しかし、実際は何も禁じられているわけではないから
法律やルールに反した行動をしているわけではありません。
コロナ警察の方々が
勝手に法律やルールを作っているということが実態でしょう。
それは、それを守ることによって自分を守る
という素朴なルール意識ということになります。

そのルールに依存すればするほど
逸脱者には厳しくなります。
自分が正義であり、
相手が反社会的な行動だということを
疑うきっかけは何もありません。

そうすると、
非難ビラの投げ込みなども
正義を分からせるためのごく正当な行為であり
親切な行為であるとすら感じているかもしれません。

心配なのです。

こういう場合の適切な対処方法は、
心配いらないことを教えてあげることでしょう。

鉄道を使わないできましたよとか
熱をこまめに測っていますよとか
きちんと手洗いをしていますよとか
だから心配しなくても大丈夫ですよ。
ということを教えてあげる。
外に出るとき(その人から見えるとき)は手袋をするとか。

ただ、理屈の上ではそうなのですが、
これを喧嘩腰にやってしまうと
また別のややこしい問題が出てきてしまいますので
注意が必要です。

帰省してだめなことはないのですが、
そうやって過剰に心配していることも事実なので、
一概に否定するよりは
心配をかけない方法を工夫する必要があるのではないかと
私は思います。

そのコロナ警察の人に
過剰な心配をするなということは無理であり、
過剰な心配をする方が悪いということも
なかなか言えないことではないかとも思うのです。

特に高齢で何らかの疾患を抱えている人は
みんな心配しているし
少しでも感染リスクを下げたいと思っていることは
過剰な心配だと言って非難することはできないと思います。

法律で禁止されたことをやっていない
という開き直りは、その後をややこしくします。


問題は、
自分が知らず知らずのうちに
コロナ警察になっていないかということです。

隣の家に帰省者がいたとしても
隣の家に近づかなければコロナは感染しないように
自分がルールだと思っていることを他者が破っても
それだけではコロナに感染しないという
科学的な知識をしっかり持つ
ということだと思います。


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【文研研究】「離婚の新常識 別れてもふたりで子育て」しばはし聡子著(マガジンランド)すべての夫婦問題親子問題に直面している人たちに読んでほしい。そして、これから結婚して死ぬまで幸せでいたい人にも。 [家事]

出版のうわさはキャッチしていたのですが
コロナの問題があり、なかなか書店に行けませんでした。
先日仙台の丸善に行ったら面陳列されていて
(ふつう本棚には背表紙を見せるように陳列されますが
表紙を見せるように陳列することを面陳列というそうです)
力を入れて売られているようでした。

日曜日に買って、水曜日に他県で面会交流調停だったので
新幹線の中と待ち時間で読みました。
素直に中身が頭に入るのですらすら読めました。
(見習わなければ。)

内容は期待以上のものでした。
是非皆さんに買って実際に読んでいただきたいので詳細な説明は避けます。

IMG_1405.jpg

最初は子どもを連れて離婚した妻の視点から書かれているのですが、
実際の相談活動では男性側の相談も受けておられるとのことで、
何を書くべきかということをとても意識されており、
男性読者が読むことをきちんと想定されています。

子の連れ去りにあった男性は
最初は、何が起きたのか分からず
衝撃だけを無防備に受ける形になり、
様々な疑心暗鬼をいだきます。

この本を読めば
ある程度のことを理解することができます。

その時の女性の心理をえぐり出すように描かれているからです。
ここは当事者ならではの貴重な情報になっています。
この種の事件を多く手掛けている弁護士としては、
ここで書かれていることは個別事情ではなく
ある程度、共通した心理だと感じました。
他者の相談を自分の体験で咀嚼して、ここで表現されているという感じです。
だから、必ず、これを読む人みんなの問題解決についてのヒントが書かれていると思います。

離婚を経験した人ばかりだけではなく、
夫婦問題で多少なりとも悩みを持っている
おそらくすべての結婚経験者にこたえられると思います。

但し、
妻側の落ち度ばかりを探す視点で読んでしまうと
自分の体験と重なって理不尽な思いばかり蓄積されていくことでしょう。
結局何も理解できない危険もあります。

「自分はどうすればよかったのか」
という疑問を持ちながら読むと
急に視界が開けてくると思います。

もう一つ注意することは、
読者の妻の「どの時点の心理」かというところに注意を払うべきです。

通常の連れ去り事件の場合であると
妻の連れ去りの直前あたりの心理や
連れ去りを決意する過程(不満の飽和過程)
ということで読んだ通り理解すればよいです。

そうではなくて、
例えば、女性が不貞をして、それにもかかわらず
夫にDVがあったなどと言い張って連れ去りをする場合
(最近は結構多くあります)
こういう場合は、連れ去りの時点を不貞の時点と置き換えて読む必要があります。

どうして妻が不貞をするに至ったのかという視点で
不貞をする前の段階までさかのぼって理解しようとすると
重なる部分がきっと見えてくるはずです。

この読み替えはご苦労されると思います。
不貞は悪いことだということは間違いないので、
不貞をされた被害者は100パーセント相手が悪いと思って疑いませんので、
それ以上の考察に至ることが難しいものです。
当然のことです。

しかし、そのとらわれから自分を解放し、
(自分が悪いわけではないにしろ)
自分がどうすればよかったかという視点を持つことができると
案外事態が見えてきて
余計な苦しみから逆に解放されることが少なくありません。

「それでは、これからどうしたらよいのか」

少なくとも対立を激化させるより鎮静化させる方向へ
話を持っていくことが求められるということに気が付かされます。
しかし、裁判所などでの話し合いはまっすぐには進みません。
男性と女性でどうして対立するのか
という男性の時間軸と女性の時間軸との違いも明快に書かれています。
ここは大変勉強になりました。
多くの事件を考えると思い当たるところが強くあります。

この本は、
連れ去りにあった男性たちに
特にこれから子どもたちに自分を会わせるんだと頑張っているすべてのお父さんたちに
是非読んでほしい本です。

間違った方向、目的から遠ざかる方向から
目的に向かっての最短コースに修正をすることができる本です。

もちろん、離婚をしようとしている女性たちも必見です。
弁護士として常々もったいないなあと感じているのは
わざわざ離婚までしようとしているのに
離婚しきれない女性たちの行動と感情です。

わざわざ無駄な問題を起こして
結果として相手を挑発して、その相手の反応によって
ご自分のストレスを高めているという悪循環がよく見られます。
この本を読めば
何がストレスの温床で
どうすればそれが解決するのか
という方法が描かれています。
堂々と胸を張って離婚後の人生を謳歌する方法が提案されています。

本当の意味での女性解放の道筋が描かれていると感じました。

最も感心したことは、
子どもに対してどのように愛情をかけるか
という根本的なことが中心に据えられていることです。
その注意ポイントが具体的な体験をもとに描かれています。
これは身を切るような作業だったと思います。

どうも、自分が苦しいと
他者の苦しみから目を背けてしまう傾向があるようです。
「自分が苦しんでいるのだからあなたの苦しみは勘弁してほしい」と
そう言う言い訳を自分の年端のいかない子どもに対しても
知らず知らず行っているという警告は背筋が凍る思いでした。
ここに気が付かれたのは、
お子さんをよく見ているから、お子さんに愛情をもっているから
ということになると思います。

もしかしたら、両親の離婚を経験した方も
この本を読むと何が起きたのかが理解できるかもしれません。

さらには、これから、結婚して子どもを作ろうとする方も
ほとんどの夫婦が多かれ少なかれやっている間違いを
予め知識として持つことによって
無駄に傷つけあうことをしないで済むようになるかもしれません。

弁護士にも、家庭裁判所にも
他人の結婚問題に首を突っ込むことをしている人たちすべてが
必ず読んで、考えなければならないと思います。

この本は、
不思議な本です。
学術書でもマニュアル書でも体験本でもなく、
またそのすべてでもあるような本です。

一番のセールスポイントは
読んでわかるし、すぐに役に立つことです。
その意味では、間違いなく格好の実務書です。
夫婦問題、親子問題を抱えている私のすべての依頼者に
お勧めすることになると思います。

追伸
「はじめに」にすべてのエッセンスが凝縮されていると思います。
書店で手に取ってここを読まれて心が動いた方は買いだと思います。

漫画も読む順番を間違えましたが
なかなか良い味わいです。
泣けました。


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仲間の一番弱者のために戦うという意識。第2波新型コロナウイルスに対する反応から見えてきたもの やみくもな不安から脱却して、合理的な予防をするために [災害等]



感染者数は、第1波の最高値を超えて過去最高の更新が続いています。
第1波の時には芸能人が亡くなったり、重症化したりと
やみくもに恐怖が先行していましたが、
第2波となり少し様変わりしてきたようです。
何をどのように心配して、どういう行動をとるべきか
だんだん見えてきたような気がします。

第2波の特徴は、
第1波のころの具体的な恐怖心
(自分も苦しんで死ぬかもしれない)が後退し、
数字が多くなってきたから抽象的に怖いとか
言葉のごまかしで、心配しなくていいとか、
あおりとまやかしに左右されやすくなっている
というところが強くなっているようです。

やみくもに不安になっていて、
些細な刺激で、自然に不安を感じてしまい、
根拠の有無を吟味しないで助けにすがろうとする
そう言う社会心理状態であるように感じます。

こういう場合第一にやるべきことは
言葉の意味を正確に理解することです。

言葉の誤用としては、
PCR陽性反応は感染者ではないという間違いです。

ウイルスなどの「感染」という言葉は、
ウイルスなどが体内に入り、体内で「増殖」することを言います。

どうやって感染、つまりウイルスの体内増殖を検査するかというと、
ウイルスの特徴を利用して検査をします。
ウイルスは細胞を持ちません。その意味で生物と言えないかもしれません。
いわばむき出しの遺伝子
みたいな状態で存在します。

生物である細胞は
細胞内のDNAという遺伝子を転写(コピー)したRNAを作り、
細胞分裂をして細胞を増やしていきます。

ウイルスによっても違うのですが
新型コロナウイルスはもともとはこのDNAしかありません。
増殖する場合は
人間の細胞を支配して、支配した細胞にRNAというコピーを作らせ、
増殖をするわけです。
これが感染です。

つまり体内に新型コロナウイルスのRNAが確認できれば
「新型コロナウイルスに感染した」ということになります。
これを検査するのがPCR検査です。
PCR検査ではRNAの有無を検査するそうです。

ですからPCR検査で陽性であれば
コロナウイルスが体内で増殖したのだから
「新型コロナウイルスに感染している」
ということになります。

ウイルスではなく、細菌の場合は事情が違うようです。
細菌の有無もPCR検査で調べますが、
細菌は、生物ですから細胞があり、
RNAもDNAも両方をもともと持っています。
RNAの存在を確認しても増殖と言えず
感染したとは言わない場合もあるかもしれません。
大事なことは細菌とウイルスは全く別物だということです。

さて、感染をしても症状が出ない場合もあることは
報道されているとおりです。
体内の異物追放能力等によって
症状が出ないでウイルスが体内から消滅する場合もあるのでしょう。

この場合は感染をしたけれど発症しなかったということになります。
発症とは症状が出現したことを言います。
発症しなければ重篤化することもないので、
重症化して死ぬこともありません。

しかし、感染をしている場合、
体内に増殖したウイルスがあるわけで、
それを唾などとともに他人につけて
他人を感染させる危険はあるわけです。

自分は発症しなかった場合でも
他人に感染させて、他人を発症させる危険はあるわけです。

このために、発症をしていなくとも
感染者を隔離して新たな感染を防ぐことが必要となります。
また、感染者はいつ発症してもおかしくないので
症状を管理して、重症化を防いだり
重症化したらすぐに手当てをして
最悪の事態を防ぐことが必要となります。

この意味でPCR検査は必要だと私は思うのです。

隔離して病状を管理するためには
病院やホテルなどの施設が必要となります。

感染者があまりに多すぎると、
どこも満杯となり、入る施設がなくなってしまいます。
自宅待機ということになると
外出をして新たな感染者を出したり、
気が付かないうちに重篤化していて
手遅れとなってしまう事態も招きかねません。

だからやはり感染者数の推移は見守る必要があると私は思います。

感染者の中での発症割合や重症化割合は下がっているようです。

ここにどのような原因があるのかはよくわかりません。

一方で、一定割合で発症者も重症者も出ていることも確かです。
特に代謝の落ちた高齢者や、特定の持病を抱えた人が
感染して発症をすれば重症化する危険を考えなくてはなりません。

また、第2波の新規感染者数は
8月に入ってからは伸び方の勢いが増してきて、
爆発的な増加をする可能性も示しています。
そうすると、自宅待機の割合が増加してしまい
野放しに近い状態が生まれるかもしれません。
今絶対数で少ない重症者が
爆発的に増える危険もあるわけです。

確かに一部の論者の言う通り
あまり心配しすぎて無駄な不安をあおるということは
デメリットが大きいのかもしれません。
しかし、何らかの別の目的で、無責任に
不安を持つなと言っているのだとしたら
取り返しのつかないことになるでしょう。

もしかすると健康な若者は
自分が感染して死亡するという意味での
心配をする必要はないのかもしれません。

ここで、我々は理性を働かせる必要があると思います。

自分が感染することを恐れるというよりも、
高齢者や持病のある方に感染させて、発症させない
という意識を持つことが
結局自分たちのメンタルにも有益なような気がします。

恐れて逃げるのではなく
誰かのために戦うという意識です。

コロナ弱者のために社会が防衛する
その防衛チームの一員であることを一人一人が自覚して
行動する。
社会(国)がそのための必要な費用を負担する
そうして、早期にコロナを克服して
経済活動を再生していく。

目先の経済活動を優先して
コロナが蔓延して収拾がつかなくなり
致命的な経済破綻を回避するという意識です。

こういう意識を持つことで、
自分を含めた日本社会の状態を見ることができ、
無駄な不安におびえることが亡くなるのだろうと思います。

第2波コロナから見えてきたことは
我々はつながっているということです。
名前も知らない人、顔も思い出せない人とも
感染する可能性があるということでは
共通の利益を持っている仲間です。

道ですれ違う人
交通機関に乗り合わせた人
店の中で出会う人
好むと好まざるとにかかわらず、
運命を共有する仲間だということを理解して
仲間の一番弱い人のために戦う
ということを意識して取り組めば
理性的に、有効に、合理的に
第2波コロナを乗り切りやすくなるのではないかと
感じたところでありました。

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【緊急警鐘】イソジン(ヨード)の誤用は重大な副作用が起きます。良薬の落とし穴。なぜ弁護士が呼びかけるか。 [家事]

誤解しないでいただきたいのは、
イソジンは、良く効く薬です。
先月、私自身
歯茎を傷つけたことから細菌感染を起こし
腫れあがった上に膿まで出てきてなかなか治らず
病院になかなかゆけないで困っていたところ、
ふと思い立って、イソジンを用法のとおりに薄めて使用して
患部をゆすいだら
2,3回の使用でたちまち腫れがひいたという
体験をしたばかりなのです。
水道水の洗浄ではこうはいきませんでした。

正直イソジンと正露丸には信仰のようなものさえ持っているのです。
あとモーラステープですね。

但し、どんな良薬でも薬ですから副作用は必ずあります。
イソジンに含まれるヨードの場合は、
甲状腺モルモンの体内合成を阻害する副作用があるので、
これを習慣的に使用してしまうと
ヨードの体内過剰摂取が起きてしまい、
甲状腺機能低下症をおこす危険があります。

甲状腺機能低下症は、
様々な症状を起こしますが
甲状腺ノート(非医療関係者)3 甲状腺機能低下症
倦怠感(このために家事や仕事ができなくなってしまう)
うつ病のような精神症状、つまり、
悲観的な傾向、過剰不安、意欲の低下、妄想的な被害意識
身体的影響も出てくるようです。

どうしてこのようなことを弁護士が言うのかという理由ですが、
俺は知っているぞ的な知識ひけらかし、しったかぶり
というのもあるのかもしれませんが、
業務上、患者さんによく出会うからです。

対人関係トラブル(離婚、職場のトラブル、近所づきあいトラブル)に
よく出てくる病名だからです。
甲状腺ノート(非医療関係者)を作成したいきさつ

しかも、病気が原因でさしたる理由がないにもかかわらず
夫に不信感を持ち始める妻に対して
「あなたは悪くない。それは夫のモラハラです。DVです。」
なんて言ってアドバイスをする公的支援者たちが多いものだから
無駄な離婚が増え、子どもたちが父親に会えなくなる
というケースが多発しているのです。

病気が原因だと分かれば
治療を受ければある程度は、精神症状、身体症状も落ち着きます。
また、病気を理解することによって双方の誤解も解け
温かく見守る方法も探し当てることができるのです。

患者さんは、治療を受けることによって
より重篤な状態にならなくてすむわけです。

この治療や相互理解の機会を、
甲状腺機能異常という概念を知らないために放置され、
離婚して何年もたつのに、
理由のない夫に対する恐怖感情が継続している人たちを見ています。

人間関係の修復を目指すものにとっては
天敵のような病気です。
だから、無駄にこのような疾患にり患する危険から守るために
この記事を書いているのです。

さて、問題はここからです。

ヨードを過剰摂取しても
健康体の人は一時的な症状が出るだけでおさまるようです。
元々甲状腺機能に問題がある人などに
甲状腺機能低下症の発症や症状進行が見られるというのですが、
実は甲状腺機能低下症は
かなり多くの人がり患しているのに
なかなか発見されないという特徴があるそうです。

アメリカでは人口の10パーセントが甲状腺機能低下症にり患している
とアメリカの専門医が言っていました。

日本でも見過ごされている甲状腺機能低下症が
実はかなり多くある可能性があります。
見過ごされる理由があるからです。

健康診断で検査項目がないことが多いということもありますし
触診で甲状腺機能異常を疑うことができる専門医が少ないという問題もあります。
また、うつ病や統合失調症、認知症と誤解されて適切な治療をされないこともあるようです。
さらには、さまざまな婦人科疾患と間違われる場合もあるようです。

多いのは、程度の軽い甲状腺機能異常です。
性格や人格に問題があると誤解されたり
倦怠感の症状をなまけ病ということで非難されたりしていることです。
大事な人から誤解されたり
自分自身を誤解して苦しんでいる人が多いようなのです。

きちんとした服薬で症状が抑えられ
無駄に苦しむことがないことが多いのに
発見されにくいので適切な治療を受けられないという問題があるそうです。

そこに来てイソジンの過剰摂取で症状が重篤化したらと思うと
心配でなりません。

イソジンの紹介のされ方が誤用を招くされ方だという問題が一つあります。
予防のために、心配に任せてうがいをしていたら
コロナが収まるまで長期にわたって使用する危険があります。
単なるうがい薬だという誤解を与えれば
用法を守ることに注意が向かない危険もあるでしょう。
簡単に過剰摂取になってしまう危険があるわけです。

さらに、コロナが陰性になるということも大きな問題です。
症状が出て、感染や発症を自覚している人たちが
隔離を恐れてイソジンを使用して
医療機関などに行かない傾向が出てくる危険はないのか
ということを考える必要があるということです。

これは大きな問題を引き起こすでしょう。

無責任な発言をした人だけでなく
無批判にその発言を拡散したメディアは
このような危険を発生させたという自覚を持ち
自らが発した危険な情報から国民を守るために
必要な情報を十分すぎるほど提供しなくてはならないと思います。

そうやって、私の常備薬イソジンも守りたいと思っています。





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なぜネアンデルタール人は墓地に花を置いたのか?Why did the Neanderthals put flowers in the cemetery? [進化心理学、生理学、対人関係学]

1960年代にイランのダール洞窟で、
ネアンデルタール人の化石とともに
大量の花粉が発見されました。
自然にある量ではないということで、
これは人為的に墓地に花を持ち込んだのだろう
と解釈されたわけです。
ネアンデルタール人は、
死者を弔うという宗教的行動をしたのか
薬草を運んで死者をいやそうとしていたのではないか
等と議論があります。
遺跡は7万年前のもののようです。

現生人類のホモサピエンスが墓地に花を置いたことが確認できるのは
それから5,6万年後の今から1万2千年くらい前
イスラエルのナトゥーフ人の墓です。
この発見がなされたのは、2013年のことです。

なんでこんなことを言い出したかというと
先日、カサブランカを車で運んでいてふと気が付いたからです。
対人関係学は、200万年前の人類の様子を想像する学問でもあります。
言葉のない時代に人間はどうやって群れを作っていたのだろう
なんていうことを考えているので、
人間とは何かということについて、文明を引き算して考える癖があるわけです。
ネアンデルタール人は数万年前まで存在したサピエンスの仲間ですから、
もちろん考察対象ですし、
花を手向けたのはどうしてかということは
ずうっと気になっていたことでした。

そして、車内のカサブランカの香りにむせながら
唐突にもしかしたらこれが正しい答えなのではないか
というひらめきが起きたので、
どうしても書いてみたくなったというわけです。

そしてその仮説を検証するべく調べていったら
ネアンデルタール人の花については、
あまり詳しい資料がなかったのですが、
ナトゥーフ人の資料に巡り合って
私の仮説が裏付けられているのではないかと
我田引水的に納得してしまいました。

ネアンデルタール人の行動の謎は、
数万年後のホモサピエンスの行動をヒントに考えれば
おそらく正しい結論にたどり着くということを発見し、
また、答え以上の重要で新しい思い付きがわいてきて
少し興奮しています。

そういうわけで答えから先にお話ししていきます。
ネアンデルタール人が死者に花を添えたのはおそらくその通りであろう。
きわめて実務的な、必要性があってそれをしたのである。
それは、死臭を消すためであるということ。

死臭はとてつもないもので、
一度つくとなかなか消えません。
当時は衛生状態も悪く、生きた人間であっても今より大変臭かったはずで
相対的に死臭はそれほどひどくは感じなかったとはいえ
やはり、その匂いにはまいってしまったことでしょう。

現在は、埋葬技術が進んでいます。
死臭ばかりではなく、病気の蔓延の原因にもなりますので、
名残は惜しいとしても、埋葬をする掟が確立されています。

当時はそのような技術はなく、
おそらく、死者が出れば、
死者を放置して移動をしたのだと思います。
(今でいう自然葬)
定住生活を始めたのは、農耕の開始と関わるとされ
今から1万年前くらいからではないかとされ、
それまではホモサピエンスも狩猟採取時代で、
定住せずに群れで移動して生活していたといわれています。

ナトゥーフ人の遺跡は都合がよすぎるくらいこの説を支持します。
先ず、ナトゥーフ人は、移動生活をせず定住生活を始めた人類であったと
遺跡から裏付けられているそうです。
時期的にも1万2千万年前ということで、符合します。
何よりも、この遺跡の草花が、セージやミントという
香りの強いものだったということが報告されているのです。
花は死臭を消すためのものだったという説が
どうしてメジャーにならないのかが不思議なくらいです。

おそらく考古学者たちは
化石ばかりを見ているので、
生身の死体を想像することができないとか、
文明の産物を前提として考えてしまっているのではないかと
マウントをとった気にさえなりました。

では、それより遡るネアンデルタール人がどうして花を置いたのか
どうして死者から立ち去ることをしなかったのか、
どうして、数万年間、花を手向ける遺跡が存在しないのか
という疑問が生じてくるわけです。

ネアンデルタール人は洞窟で暮らしていたとされています。
ホモサピエンスは、洞窟ではなく平地で生活していたようです。
ラスコー洞窟はホモサピエンス(クロマニヨン人)の洞窟ですが、
洞窟では生活していなかったということが定説になっています。

もし洞窟で暮らしていたとするならば
ある程度定住していたことになるのかもしれません。
そうすれば、死臭に対処する必要があったことになります。
洞窟であれば、地盤も固いため土葬も困難だったからです。

だから通常は、死者は
洞窟の最奥の縦穴の下の場所に置かれたか、
洞窟外に置かれ自然葬にしたはずです。

しかし、ダール洞窟のネアンデルタール人は
手元に死体を置いていたかった
それはなぜか。
今回その文献が見つからずあやふやな記憶で申し訳ないのですが、
花が置かれた死体は、子どもだったということを読んだ記憶があるのです。
そうであれば、答えは簡単です。
自分の子どもが死んだので
動物や昆虫に死体を渡すことが忍びなかったのではないか
だから手元に置きたかったのではないか
と思うのです。

親ならば、死体が壊れていっても匂いがしても
それほど気にはならなかったかもしれません。
親の悲嘆を群れの仲間は理解して大目に見たのかもしれません。

だけど、そっと匂いの強く色の鮮やかな花をおいた。

人情の機微を表現するほどの言葉はなかったはずですから、
無言で花を置いたのでしょう。
おかれた花を見て、親は(勘違いをして)
慰めを感じたのだと思います。
花には不思議なほど、人を癒す力があります。
これは文明とはあまり関係のないことなのではないでしょうか。

死者と近い人間には花は慰めになり、
死者と少し離れた関係にある人間にとっては
臭い消しになったというわけです。

その後ホモサピエンスが定住を始めるまで
死体に花を置くということは発見されていません。
何せ花粉ですから、長い間に痕跡が失われている可能性はあります。
もしかしたら、その間も死体に花を置くことはしていたかもしれませんが、
おそらく、
死体は、生活圏から離されていたというか
生活圏を死体の安置場所から移動していたのだと思います。

この間ホモサピエンスは定住を始めていませんので
ナトゥーフ人の遺跡まで花を手向けた跡がないことは当然です。

ダール遺跡のネアンデルタール人も
よほどの事情があって、それを仲間たちも承認するほどの事情があって
遺体を手元に置いていたという
ごく例外的な出来事だったと思います。
だから、花粉が保存されないことと相まって
それほど死体と花の組み合わせが発見されないのでしょう。

ちなみにネアンデルタール人が、そこまで
死者を悼む心があったかということが一応問題とはなりますが、
私は当然あったと思います。
サピエンスに心が形成されていったのは
約200万年前、ホモハピリスの頃の話なので
7万年前のネアンデルタール人が仲間を大切にしたことは
当然のことだと思います。

死者に花を手向けるのはこういう起源があったのだと想像します。
すぐに宗教の存在を考えるのは
文明人の悪い癖だと思います。

「慰められたのは遺族であって死者ではないことになる。」
「死者の実存を信じたからこそ花を手向けたのだから宗教的だ」
という反論もあるかもしれません。

私の考えは、むしろ遺族は、自分と死者との区別が
あまりつかなかったということなのではないかと考えています。
自分の一部が永遠に失われたという感覚ですから
死者が慰められることは自分を慰められることであり、
自分が慰められることによって死者が慰められたと感じるということが
自然の人間の感情ではないかと感じています。

埋葬とは、死者と遺族を切り離す行為ですが
どうしても必要な行為でした。
それを遺族に納得させる必要もあったと思います。
そして、それは遺族を慰める作業がどうしても必要だったはずです。
むしろ、ここから宗教が生まれる必要性があったのだと思います。
無神論者的には宗教が作られる必要性であり、
信仰を持つ者にとっては、啓示に目覚める契機ということになるのでしょう。

ネアンデルタール人は情に厚かったのかもしれません。
優しがあだになり滅亡した可能性もあるのではないかと想像を膨らましています。
洞窟に暮らしていたのであれば3密ですから
あっという間に滅ぶことも今では想像ができてしまいます。

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業病という言葉から差別の本質について考ええる。石原慎太郎氏の謝罪に学ぶ [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

石原慎太郎氏が、ALSという病気を業病と呼んで非難されました。
彼は謝罪をしたとのことです。
人を傷つける言動に修正が求められるのは当然のことですが、
誤りを認めて修正するということも褒められるべきことだと思います。

一連のこのエピソードによって、
差別ということの本質を
改めて考えるきっかけになりました。
そのことをお話ししたいと思います。

業病という言う意味は、広辞苑によると
悪業の報いと考えられていた難病と出てきます。
二版では、これで終わりですが、
報道では、業が前世の行いと解説されていました。
最近の版では載っているのでしょうか。

この考えは、7世紀の日本では既に存在していたようです。
光明子伝説という聖武天皇の皇后の逸話からもうかがい知ることができます。
(光明子は、8世紀の人物)

6世紀に仏教が日本に伝来してきました。
輪廻や因果応報という概念も入っては来たのですが、
いわゆる俗説的な解釈も広まっていきました。
本来は、すべてのものは定まった実体はなく
物事の動きの結果であり、一時的なものだという理論であるにもかかわらず
(方丈記の冒頭に文学的に示されていますね)
因果応報のことだと単純化されてしまいました。
結果が起きている以上、なんらかの原因があったはずだという具合です。

ちなみにこの因果応報は、果報は寝て待てという言葉もあるように、
良い意味でも悪い意味でも使われるというか
あまり価値がこめられない概念が本来の意味だと思いますが、
悪行の報いというネガティブな意味を持たされてしまっています。

自然科学も発達せず、病気のメカニズムもわからない時代です。
体が変形したり崩壊したりする病気で、
進行していって治せない病気は
当時の人たちはとても怖かったと思います。

人間の数も多くない時代ですから、
苦しみや悲しみに対する共感も頻繁に起こったと思います。
自分も同じ苦しみを味わうかもしれないという
不安や恐怖を引き起こしたでしょう。
何とか不安から解放されたいと感じたことでしょう。

そこに仏教の教えが俗物的にゆがめられて、
理由のわからない現世の苦しみは、
前世での悪い行為(悪業)が原因だという観念が生まれたようです。

そうして、難病に苦しむ人は、
前世に悪業を行った人であり、
自分はそうではないから難病で苦しまないから安心して良い
という考えで不安をぬぐっていたようです。

そして、難病の、体が変形したり、壊れたりする人たちは
報いを受けるほど前世で悪業を行ったひどい人間だということで
人間として扱わないという差別をし、
共感を遮断して助けを放棄していたようです。

住む家を追い出されて街をさまよう生活を余儀なくさせられていたようです。

私は、社会的差別の始まりがここにあるのではないかと感じています。
差別の端緒の本質をよく表しているように思います。

共感をするべき人に共感をしても
助けることもできず、自分が苦しむだけだ

いっそのこと、人間ではないとすることによって
共感を遮断してしまえ、
そのためにはむしろ敵だということで攻撃することによって
自分の心を軽くしようという心理が垣間見れます。

つまり、自分の不安を起こさないために
絶望を起こさないために
誰かを攻撃するということです。

いじめの構造にもよく似ています。

しかし、このことが道徳的には是とはされていなかったようです。
それが光明子伝説として語り継がれています。

光明子は聖武天皇の妻で、夫妻は為政者として仏教を広めました。
光明子は、夢の中でお告げがあり、それに基づいて
蒸し風呂のような当時の浴室で千人の垢を流すという願をかけます。
最後の千人目に、重篤な皮膚病の老婆が現れて、
体のあちらこちらにある患部から出てくる膿を吸い出せと命じます。
光明子は意を決して、膿を吸い尽くします。
そうすると老婆が阿しゅく如来の化身だったという伝説です。
もちろん、史実ではないですが、
そこに庶民の価値観が見えて取れます。

この話を支持する国民感情があったからこそ
この話が伝説として残ったのだと思います。

一方で、体が変形する難病者を業病者として排除の論理に立つ国民もいれば
そうはいっても自分の肉親だからかばいたいという国民感情があり
揺れ動く人々の気持ちが見て取れるような気がするのです。

また、伝説は仏教のプロパガンダという側面があるので、
難病者に対する排除をことさら強調して
その中で光明子の善行を際立たせているのかもしれないので
注意は必要ですが、
私は光明子伝説は、いろいろと学ぶべき資料だと感じています。

さて、いずれにしても、
業病という言葉がそのまま使われていたか否かは知識がないのですが、
前世の報いの難病という概念はすでにあったことも間違いなく
業病に対する差別も確かに存在したのだと思います。

苦しんでいる人をさらに差別するということも
差別の本質なのかもしれません。
業病は、差別とともに始まり、
差別の歴史そのものなのかもしれません。

一方でこのような概念がありながら、
近世になると、
業病が性病をさすようになることもあったようです。
梅毒など体が崩壊していき、当時は不治の病、進行性の病
という概念があったことからそう呼ばれたようですし、

前世を信じる人は少なくなり
自分の現世の不道徳の結果の病気だ
という意味合いが強くなっていったのでしょう。
渡辺淳一の「花埋み」ではこういう使い方をされています。

これは、もちろん本来の意味の業病を知らないで使っているのではなく、
当事者が、何の因果でこういう病気になってしまったのかと
嘆く場面で出てくる言葉遣いのようで
あえて誤用をしているという側面があるように感じられます。

病気以外でも
自分の不幸を嘆くときに
業という言葉を出して嘆くことが
文学には見られます。

これはもう、前世という概念を信じているというよりも
嘆き、理不尽な思いを表現する慣用句のように使われているようです。
信じてはいないけれど
知識として業病が前世の報いということは知っていたのだと思います。

つまり、理不尽なことがありその原因がわからない
もうこれは、前世というものがあって
その時に何か悪いことをしたとでもいうのか
みたいなニュアンスなのでしょう。

不合理なこと、理不尽なことが起きると
最終手段として自分に帰責性を求めて
絶望を回避するということは
現代の人間でも起きてしまう心理のようです。
子どもでもこういう思考パターンが見られます。
最終的な自己防衛手段とされています。

人間は理由なくひどい目にあうことに耐えられない動物のようです。
理由なく迫害されるよりも
自分に原因があるということで慰められるようです。
ぎりぎりの心理状態ですが。

差別は常に不合理なものだから
人間に対して絶望を与える大変危険なことになります。
差別を受けた人が自分に原因を求めてしまい、
自尊心をなくしてしまうのはそういうメカニズムのようです。

今回石原氏が業病という言葉を使ったのは、
進行性の病気で、体が変形していくなど外見上も悲惨な症状が伴う
難治性の病気という意味で使っていることは頭では理解できます。

こういう言葉に無神経であることの理由は、
歴代の作家たちが
業病の意味を知っていながらも、
表向きは前世や因果応報という場面ではないところで
業病とか業とかという言葉を用いていたことを
字面通りにしか理解できておらず
書き手が伝えたい理不尽さを表現するにあたって、
前世というありえない話を持ち出さざるを得ない
というニュアンスが伝わっていなかったということ
理解できていなかったということ示していますい。
この点を本人も不徳のいたすところとしているのでしょう。

この点に差別のもう一つの本質があります。

それは悪意がなくても差別なのだということです。
石原氏はALS患者が前世において悪い行為をしたとは
一切考えていないだろうと思います。
悪意はないのだと思います。

それでも、患者本人や患者の家族、知人たちは傷つくのです。
業病の正当な意味を知っている場合だけでなく
日本人として日本語のニュアンスとして
敏感に否定的意味合いを感じ取っているわけです。

そしてそれは、そう感じることが
日本文化の中では、正当な受け取り方だと思います。

大事なことは差別とは、
結果として差別をする側の心理的な不道徳性に本質があるのではなく
差別される側の、心理的ダメージ
排除をされる孤立感、疎外感、恐怖、不安という
自分を守らなくてはならないという強迫観念を引き起こされる側の
心理状態で判断されなくてはならないということです。

差別を受ける人の気持ちや差別される苦しみというのは
しかしながら、その人と接点のない人はなかなか気が付きにくい
ということを障碍者差別を学んでいく中で気が付かされます。

大事なことは弱者が、少数者が、
自分の苦しみや、ハンディキャップを克服するための方法など
声が伝わる仕組みが必要なのだと勉強しています。

恩恵として与えることは
差別解消とならない危険があります。
逆に人を苦しめることもでてきます。

まずは、その人の話を聞く、
その人が安心して話すことができるようにする
ということから始めなければならないようです。

また、人の苦しみから目を背けようとしないこと
これが一番難しいことかもしれません。









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