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まじめさと優しさはどちらかを選ぶことが迫れていることが案外多いこと 優しさを選択することの勧め  [進化心理学、生理学、対人関係学]



1 まじめさの副作用

あまり、まじめさと優しさのどちらを選ぶかということを考えたことは無いと思います。例えば、結婚相手を選ぶときに、まじめで優しい性格の人が良いということに、あまり異論はないかと思われます。また、まじめだけど優しくない人や優しいけれどまじめでない人というタイプも実際はいないとは思います。

しかし、局面によってはまじめさと優しさはどちらかを選ばなくてはならないことがあります。この選択を迫られる事態は案外日常的に登場してくるようです。

例えば職場の場合です。チームを作って大切な仕事をしている場合を想定してください。上司からすれば、ある部下の行動は真剣みが足りないと感じてしまうことがあると思います。同僚の間でも、自分が言われたとおりまじめにやろうとしているのに、別の同僚が全力を出そうとしないで、初めから手を抜こうとしているように見えることもあるでしょう。自分が損をしないだけならなんとなくモヤモヤするだけですむかもしれませんが、同僚や顧客に対しても迷惑をかけることになると思うと、怒りが生まれることを経験される方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ただ、この場合の怒りをもっと分析してみると、怒りの発生経路は少し違うようです。つまり他人に迷惑をかけるから怒るのではなく、自分がまじめにやっているというそのまじめさと比べて、相手のまじめ度合いがずいぶん低いというところに怒りのポイントがあるということが実際ではないでしょうか。その怒りをぶつける言い訳として他人に迷惑をかけるということを後付けしているような気がします。

つまり自分のまじめさの水準に達しない者に怒りを感じるのです。その人間にも自分と同じ水準のまじめさを要求しているわけです。まじめに取り組むということは良いことなのですが、副作用として他人にもまじめさを要求してしまうということがありそうです。その要求の多くが、仕事の結果ではなくまじめさという方法論に対する要求のようです。本人が「まじめにやらなければ結果は出ない」という信念があるのは良いのですが、他者のやり方が必ずしも同じ方法論とは限りません。表現を変えればまじめさを発揮するポイントが違うということは大いにありうるのです。

自分のやり方で他者を拘束してしまうという傾向から、まじめな人は実は付き合いづらいと思われているかもしれません。結果を重視するのではなくまじめさという固定化された方法論を重視してしまうために、結果が出せないことも起こりうることを見過ごしてはなりません。

2 優しさの意味と弊害

 優しさとは何かということですが、親が赤ん坊に対して当たり前のように接することが優しさの基本ではないかと思います。赤ん坊は自分が生きるための必要な行動が自分では取れません。赤ん坊の不自由なところを親が見つけて、本人の代わりに行います。我が子に手をかけることがそれほど苦痛ではなく、それ自体が自己実現であるかのように喜びすら感じながらお世話をしています。多少排泄で失敗したとしても、怒る気にならずさっさと片付ける。常にそういう気持ちが持てるというわけではありませんが、こういうことが優しさであろうと思います。

もちろん、ただ相手に尽くすことが優しさではありません。ありがた迷惑なことはせずに、相手の気持ちに配慮して、相手の助けをするということだと思います。赤ん坊が泣くのはおなかがすいているだろうというように一般論で考えてしまい、本当はおむつが濡れて不快なのに、無理に授乳しようとするのは優しさとは言わないわけです。相手の具体的な気持ちを配慮しないで良かれと思って自分のやり方を押し付けるならば、それはまじめさということになります。

親と赤ん坊の関係を、大人同士の優しさまでスライドすることはなかなかイメージが付きにくいのですが、極端に言えば、相手の個別性を理解して、相手の失敗やミス、あるいは自分に対する八つ当たり等の攻撃に寛容になることが優しさなのだろうと思います。

しかし、ただ寛容さだけを示すと言っても、例えばプロジェクトチームの場合は、やる気のない人にも「よしよし」では、仕事になりません。会社の上層部は、他人にプロジェクトをゆだねるわけですから、寛容だけのチームリーダーは評価されません。それはそうだと思います。

3 「優しさ」による解決方法 会社の事例で

プロジェクトチームでまじめでないと感じる部下がいる場合はどのようにすることが正しい(効率的な)解決になるのでしょうか。

先ず、チーム全体の目標をきちんと立てて、計画を立案して、メンバーで共有します。その際に各メンバーの役割と行動計画を明確にする必要があります。その際に、役割を頭割りで機械的に割り振るのではなく、それぞれのメンバーの個性に応じた割り振りをすること①が理想です。そしてメンバー一人一人がチームの目標と自分の目標をそれぞれしっかり持つことが基本となります。

さらに理想を言えば、このように段取りを立てれば、後は上司は自分の仕事をするだけで勝手にチームが動いていくことになると思います。
それでも、計画通りに事が運ばないことがつきものです。計画通りに事が運べば機会がやっても良いですが、計画通りに事が運ばずに新たな対応が必要になるからこそ人間が仕事をするわけです。

仕事量が減ったメンバーが出てくることは当然です。ここでの上司の仕事は、どうしてだろうと考えることではないでしょうか②。ここを考えないで、「そいつは不まじめだから気合を入れる」ということをして解決しようとするならば、上司というポジションは不要です。

とある職場の実例で、どちらかというと上司の配置ミスのために部下が成果を上げられないということがあり、上司としてはその部下の能力(欠点)について知らなかったために、ただ気合を入れ続け、イライラをぶつけ続けた結果、部下はうつ病になってしまったということがありました。この手当てのためにいろいろな手続きが必要となり、会社は大損害を被りました。

経験豊富な上司であれば、部下のどこに問題があったか見抜くことを期待されています。その部下の個性、例えば能力の偏在によるものなのか、あるいは目標や計画が間違っていたのか、あるいは目標や計画段階では予測できない事態が現れたのか、それぞれの原因ごとに対策が違います。部下の個性によるものならば配置転換をすることが効率的な場合がありますし、事実関係の変化があれば計画を立て直すこと、あるいは別の能力のある人間の補強をするということを検討することが合理的です。

優しさは、物事をいい加減に終わらせるということではなくて、原因に対してその個別性をきちんと認識して、その事例に即応した手当てをするという合理的な対応なのです。こういわれれば当たり前のことなのですが、どうしてもまじめさが勝っている人は、まじめさですべてを解決しようとする傾向があることを頭に入れておくべきです。

4 事例解決 家族等の場合

会社の例えはわかりやすいので、おそらくそんなことは当たり前だと感じていらっしゃるのではないでしょうか。
案外難しいのは家族の場合です。

もちろん婚約中とか新婚の場合は自然と優しさが前面に出ますし、子どもが赤ん坊の時も先ほど述べたように優しさであふれています。問題は、夫婦で言えば繁殖期が過ぎてから、親子で言えば子どもの反抗期を迎えた後の話なのでしょう。そして、悪いことが重なるように、自分のまじめさが会社などで評価されなくなったときに悲劇は起こるわけです。

自分が会社でまじめにやっている、自分としては高評価されて当たり前だと思っている、しかし結果を出すのはずる賢い奴で、そいつはまじめさがないのに会社からは評価が高い、まじめにやっている自分ばかりが注意されている。あるいは、自分では理由がわからないのに、特定の人間から急に自分が否定評価されるようになった、周囲の人間も自分をかばってくれずに不合理な評価を放置しているなど不合理な出来事というものにぶち当たることがあると思います。

そういうあたりに苦労しているうえに、これ以上ひどい思いをしたくないので、細心の注意を払って仕事をしているわけです。ところが、家に帰ると家族が自分の神経を逆なでするような、無神経なふるまいをしている。ついつい八つ当たりをしたくなってしまうという場面も、程度の違いはあれ、実社会ではよくあることなのではないでしょうか。

怒りが生まれるわけです。

さらに、こんなにまじめにやっている自分さえも苦労しているのだから、不まじめな家族はやがてとてつもない苦労をする、今から直さなければならない。という後付けの言い訳をしながら怒りを解放してしまうということがありそうです。

いずれにしても、家族にまじめさを持つように要求してしまうわけです。

あなたが家族の中で孤立し始めるポイントです。

あなたが家族の中で孤立し始める理由は、おそらくあなたがいることが他の家族にとってストレスであり、あなたの行動、言葉、顔の表情、しぐさによって、自分の安心が奪われると感じていることかもしれません。

特に家族の中では、まじめさはプラスにならないでデメリットしかないかもしれないという考えに理解を示すということを提案します。

確かに、家族の夢の実現をバックアップするということは家族というチームの課題かもしれません。まじめな人の言い訳はここにありますし、一定の真理があると思います。

しかし、家族というチームの一番の目的は何なのでしょう。一言で言って、一緒にいて安心できるという考え方もあるわけです。一緒にいて安心するということはどういうことか。今日は結論だけを急ぎますが、「いつまでもここにいて良いのだ、いつまでも自分はこの人間関係に戻れば迎え入れられる。」という確信を持つことと仮説を立てます。逆に不安になるということは、家族という人間関係から追放されるのではないかということです。自分が失敗したり、欠点を克服できなかったり、不十分なことが多かったりすると、人間は仲間から見放されるのではないか、仲間として扱われないのではないかとい不安が生まれてくるようです。どんな失敗、欠点があっても「あなたは私のかけがえのない仲間だ」というメッセージを出し続けることが安心感につながるわけです。いろいろな個性があることを承認して、不足があれば補って、長所があれば頼りにして、個性丸ごと受け入れるということが安心感になるという仮説です。

これが家族が一緒にいる目的なのだという仮説を提案したいと思っています。

それでは、厳しい受験戦争等外の人間関係に対応できるのかという心配は当然あると思います。ただ、現在では、厳しい外の社会に対応するためには、家族の元に帰ってきたときだけは安心感に満たされることが必要だという考え方に、競争社会のコーチング技術は傾き始めているようです。家でも外の社会でも緊張の連続を強いてしまっては勝ち残れるような社会ではないということです。また、自分は変える場所があるという確信がある者こそ、思い切って外社会で戦うことができるという考え方が浸透し始めてきています。家族をモチベーションにするという考え方です。逆に常にストレスにさらされている者は、慎重になりすぎて委縮してしまうという弊害もあります。

さて、かなり偏った考え方を披露したかもしれません。人間関係においてはまじめさよりも優しさで対応した方が、メリットが多く、デメリットが小さいのではないかというお話でした。

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