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共同親権に関する各弁護士会の意見についての疑問 死刑反対とのダブルスタンダード 法律家の意見となっているのか [弁護士会 民主主義 人権]



国が共同親権制度創設についての中途半端な提案をして、パブリックコメントを募集しているが、この動きに合わせた各地(都道府県)の弁護士会の会長名での意見が出されている。中には某国政政党の機関誌の見出しの表現そのままの意見を出す弁護士会もある。まず反対ありきの意見が反映され、賛成論へどれくらい配慮するかによって表現が違うだけのような印象もある。

とても不思議な問題としては、各弁護士会や日弁連が死刑廃止の意見を述べるときに、他国との比較を理由にする。つまり、「先進主要国の体制は死刑を廃止している。死刑が廃止されない日本は人権意識に遅れている。即刻死刑を廃止しよう。」という論法である。

共同親権制度についても比較法的な検討をするならば、「先進国に限らず世界の大勢は共同親権制度を取っている。共同親権制度を創設しない日本は、子どもの健全な成長に価値を置かないと評価されている。即刻共同親権制度を創設しよう」という論法になるはずだ。実際単独親権制度を強いている国は、世界的にはごく少数である(私の知る限り三か国しかない)。今回比較法的検討を加えないで共同親権に反対する弁護士会は、死刑廃止の意見の際、比較法的検討を述べないことになるはずである。そうでなければ、結局先ず何らかの賛成反対の結論が先にあって、後付けの理屈で、自分の結論に都合が良ければ比較法的な引用をするかしないか決めるということになってしまう。こんなことをしていたら、弁護士会の意見の理由なんてそんなものであり、法的な意見ではなく、一部の政治的意見が弁護士会を利用して述べられているだけということになって、弁護士会の意見に影響力は無くなるだろう。

次に法律家としての意見として情けないのは、制度の趣旨について全く理解がなされていないということだ。原則論があって、そして他の事情も考慮して原則論を修正するというのが一般的な法的な検討ということになる。法律という広く影響を持つ強力な規範は、必ずメリットがあればデメリットがある。先ず原則的な必要性について確認して、弊害をできるだけ除去するように修正をするという手法が法律家、特に実務法律家の手法であり、求められていることだ。共同親権の法案に対する意見で先ず必要なことは立法趣旨に対する見解を述べることである。ところが、共同親権制度の立法趣旨に言及がなされない。おそらく知らないのだろうと思われる。

これはどうして世界の大勢が共同親権制度を取っているかということと関連する。

世界的にみても、共同親権制度は自然に生まれるものではない。当初は単独親権制度であった国が多い。それを20世紀から21世紀にかけて共同親権制度へと変更したということが共同親権制度の歴史である。どうして、世界は単独親権制度から共同親権制度へ変更したのか。それは子どもの利益を図るという目的があったからである。

子どもの利益というものは、人類の歴史上国家制度に関しては後景に追いやられ続けた。家族に子どもの利益を図る行為をゆだね続け、家族のない子どもには一部の篤志家が世話をするという貧弱な対応だった。そもそも子どもの利益について研究自体がなされていなかった。

第二次世界大戦ころから、戦災孤児の研究が行われ、家族の中で成長することの意義が瞬く間に世界的に共有されるようになっていった。前後して発達心理学が整備されて生き、子どもの心理的成長も研究分野として世界中で取り組まれるようになった。その後、離婚という切り口から子どもの利益の研究が行われるようになり、逆説的に子ども成長における両親の関与の重要性が世界規模で研究されるようになった。そうして離婚後も子どもの双方の親が関与することが、子どもが自尊心をもって成長するために重要なことであることが世界的コンセンサスになっていった。但し、日本を除いてということらしい。日本以外は、子どもを一人の人間として認め、人格主体であり人権主体であるということを理解して、親から独立した子どもの利益として、両親から成長に関与される権利が確保されるべきであるという考え方を当然のものとして受け入れて、単独親権制度から共同親権制度へと次々と変更していった。共同親権制度は人道的な観点から創設されたものである。

このようなそもそもの議論をする弁護士会の意見書は見当たらない。ただ、弊害がある、DV事案や高葛藤事案がある場合、話し合いを強制されることになるから反対だということに尽きるようである。

物事には先に述べたようにメリットとデメリットが必ずある。デメリットがあるからとにかく反対というのでは法律家の意見にはならない、メリットを生かしながらデメリットを回避するということが法律家たるもの意見にならなければおかしいだろうと思う。

比較法的に考えるまでもなく、どの国でもDVはあり、離婚の場合には高葛藤になる。日本だけが特別DVが多いわけでもなければ、日本人だけが特に多く離婚の際に高葛藤になるわけでもない。日本だけが子どもを置き去りにして大人の感情の垂れ流しに「寄り添っている」ということは世界的に見て異常なまでに不道徳なことである。実際欧米からのこの点の日本批判はすさまじい。子どもの健全な成長のために大人はどうしたらよいかという観点から世界中の国は、理性によって共同親権制度に変えていったのである。このようなそもそもの原則論が論じられていなければ、弊害論に後付け的に飛びついて、反対することになるだろう。これが弁護士会の意見というのでは心底情けない。

何より情けないのは、弁護士会長の意見書が某政党の機関誌の見出しよろしく、共同親権制度は時期尚早であり、国民的議論が先行するべきだという表現になっている意見を述べている弁護士会があるということだ。何が情けないというと、弁護士は離婚手続きに関与し続けてきているわけだが、もちろん子どもがいて離婚をするという場面に立ち会ってきたわけだし、様々な事故や事件で片親が死亡したという事例にも立ち会ってきているはずだ。その中で傷ついたり、自信を失ったりしている子どもたちに無数に立ち会ってきたはずだ。少年事件にも立ち会ってきたはずだ。その子どもたちが、本当は両親と一緒に生活がしたいという切実な願いを持っていたり、その願いがかなわないことによって苦しい思いをしたり、間違った行動をしてしまったりという行動に立ち会い続けてきたのではないだろうか。また、家庭裁判所の研究資料や発達心理学や認知心理学の学問は一般にも公開されていて、子どもたちが健全に成長するためには何が必要かということについても弁護士であれば知ろうと思えばいつでも知ることができたはずだ。第二次大戦から何年が経過しているか。離婚後の子どもの調査結果が出てからも何十年も経過している。それらのデータや学問的到達にアクセスしようと思えばいくらでもアクセスできたし、事件において子どもの状態について見聞きしていればアクセスして子どもの問題の解決のためにどうしたらよいのか考える時間はたっぷりあったはずだ。それにもかかわらず自らアクセスもしないで、議論を作り出そうともしないで時期尚早などと言っているのであれば、これから何十年たっても時期が成熟するということはあり得ない。自らが、物を言えない子どもの代弁者となることをサボタージュして議論を起こさないにもかかわらず時期尚早とは何事だと言いたい。

世界人類は、大人の自分本位の感情を理性で抑制して一斉に共同親権制度に切り替わった。世界の中で時期に遅れているのはほぼ日本だけなのである。


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