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【フェミニズム・家族解体主義についての誤解】 フェミニストは愛する夫がいることが少なくない。家族からの女性解放でいう「女性」とは、自分以外の女性をいうこと [弁護士会 民主主義 人権]

上野千鶴子氏が結婚をしていたということが週刊誌で報道されて話題になっています。話題の論調として、上野氏はフェミニストであり、夫婦という制度は女性を拘束する制度であり理解できないと言っていて、他人にも一人暮らしを勧めていたくせに、自分はそれに反する生活をしているということに対する批判が多いようです。

これ等の批判は誤解に基づくものだということを言いたい記事なのですが、決して上野氏を擁護しようという目的で書くものではありません。

先ず一人暮らしの勧めについては、私はこの人の代表的な功績だと思うのです。年配の人たちは、おひとりさまの勧めについては「なんにせよ人は他者と死別していく運命であり、やがて一人になっていくさだめがあるけれど、それも決して悪いものではない。」というメッセージだと受け止めていて、上野氏の話を聞くことで救われる人が一定数いるようです。社会貢献しているようです。自身が結婚することと矛盾はしないと私は思います。

ただ、少なくない読み手の中には、「現在独身の人は、結婚なんてしないで一人で暮らした方が良い」と言っていると受け止めていた人も多いようです。

むしろ問題は、「結婚という制度に反対していたはずなのに、自分は結婚していたではないか」というところにあるのだろうと思います。

ただ、そのように考える人は、フェミニズムの思想についての誤解があるようです。

実際のフェミニストの大家、業績を残した少なくない女性たちは、愛する夫がいることが多いのです。
入籍こそしていませんがボーボワールもサルトルというかけがえのないパートナーがいました。図らずも、結婚というのは、先ずお互いの気持ちで成立するものでありそのような人間の思考を社会が制度化したという順番であり、社会が女性に夫婦の関係を作ることを強制したものではないということを証明することになりました。また子育てをした多くの親たちは、子どもは生まれながらにしてそれぞれの性を内包して生まれてくるということを経験しているところだと思います。

今回は、あの日本の男女参画でいうところの「DVサイクル」を広めたレノア・E・ウォーカー氏と、1990年代にアメリカ司法で猛威を振るった作られた過去の記憶による身内からの性被害を思い出すということがあるかという記憶論争の一方の論客となったJ・L・ハーマン先生の例を紹介して考えたいと思います。

ウォーカー氏は、The Battered Woman(邦訳バタードウーマン 虐待される妻たち 金剛出版)の執筆者です。この著書の中で、「暴力サイクル」の理論を主張しています(理論のオリジナルは私にはよくわかりません)。つまり、夫による妻の虐待は、3つの期間を繰り返すというのです。第1期は夫の緊張が高まっていく時期、第2期は激しい虐待を行う時期、第3期は夫が妻に優しくなり、自分の暴力の悔恨を示し、愛情を注ぐ時期だというのです。そして第3期が続くと第1期となり緊張が高まり、やがて緊張が爆発して第2期が来るというサイクルを繰り返す、妻は第3期の幸せがあるために、第2期の虐待が行われても逃げようとしなくなってしまうというような理論です。

日本の男女参画や法務省関連の女性の権利の研究会では、この暴力サイクルを「DVサイクル」と言い直して定式化しています。「先ず不安を抱えている女性は夫から虐待を受けている。次に虐待を受けているはずの妻たちが夫から逃れようとしないのは、DVサイクルによって無力化しているからだ。第3に逃亡を手助けしないと女性は救われない。なぜならばDVを行う男性は今は収まっているかもしれないけれど、サイクル理論によって必ずまた暴力をふるう。その時は命が奪われるときかもしれない。」という主張を、産後うつや精神状態に影響を与える疾患や服薬の副作用等によって精神的不安定になっている女性に言って、子どもを連れて逃げ出すことを説得するわけです。

このウォーカー氏の理論を利用した日本の男女参画理論については既に詳細に批判しているところです。「DV」サイクルという学説などない。レノア・ウォーカーの暴力のサイクル理論とは似て非なるもの。 The Battered Woman ノート 3 各論 2 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-12-12

この「バタードウーマン」の前書きで、著者は、亡くなった自分の夫の愛情が無ければこの著作は完成しなかったであろうと述べているのです。そして夫と男性の友人たちに対して感謝を述べるところから謝辞が始まっています。

また、この著書を普通に読めば、妻一般が夫から虐待されている等ということは言っていません。繰り返し虐待されていた妻の事例の分析がなされていることが誰でも読み取れます。また、日本の配偶者加害の事例にはこのサイクル理論が当てはまらないこともすでに私は述べています。日本の官製フェミニズムの理論は、アメリカの理論を機械的に輸入して構成されていることをわかりやすく示した事象であると思っています。

一例だけ挙げますと、欧米の家父長制度と日本の家制度は、目的も実態も次元も異なる概念ですが、安易に結び付けて論じる人間が多くいます。単に家ということばついていることと、原則として戸主は男性であることから、安易に関連付けてしまったのでしょう。また、家制度と夫婦と子供を中心とする家族制度を混同して論じている論者も少なくありません。日本の家族制度の知識が無いということと、そもそもの家父長制自体をよく理解していないことを示しています。

もう一人、ジュディス・L・ハーマン先生のTrauma AND Recovery(邦訳「心的外傷と回復」みすず書房)をあげます。

実はこの本は、私にとってとても大切な本です。節目節目で読み直して勉強している基本書の一つです。多くのことを学び続けています。それなので、ハーマン氏を先生と呼称しないわけにはいかないのです。

ハーマン先生はこの本によって、日本では賞賛されることが多いと思います。ところが、記憶論争ではとても悪名高い学者になってしまっています。アメリカでは、1980年代から90年代にかけて、成人に達した女性等が、10年前や20年前に家族などから自分が性的虐待をされた記憶がよみがえったとして刑事民事の訴訟を提起して、その主張が通って、父親らが裁判所から高額な賠償命令を出されたり、長期刑が執行されたりした時代がありました。これらの被害を主張した女性たちは、自己の不安をカウンセラーのカウンセリングを受けていて、カウンセリングを受けると10年以上前の記憶が突然よみがえり性的被害を「思い出し」、それらの人々の支援の下で法廷闘争に入るという経過をたどっていました。エリザベス・ロフタス先生らが、記憶というものの性質からそのように抑圧された記憶がよみがえるということがあり得ないことを論証して、1995年を境に、失われたせい虐待の記憶で裁判所が何らかの決定をすることがなくなったと言います。また、そのようなカウンセリング技法も実際上廃れてしまったようです。そのような記憶を「思い出した」女性たちは、精神状態が悪化してしまい、カウンセリングとしては逆効果になったことも原因のようです。

この時、記憶の真実性を否定するロフタス先生に対抗して論陣を張ったのがハーマン先生でした。記憶論争になった時点でハーマン先生に勝ち目がなかったのだと思うのですが、関与したカウンセラーのカウンセリングの実態をよく知らかなったのではないかと思います。複雑性PTSDの理論からは、記憶を自分で封印しようとする防衛機制が存在するということ、被害者の被害から目をそらさないことこそがカウンセリングの要諦だというようなことを主張させられてしまったのではないかと私は贔屓目に見てしまうのです。

いずれにしても不安を抱える女性は、家族の虐待が存在するという画一的、形式的なカウンセリング手法と、立ち直るためには裁判闘争が必要だとする手法は、日本の配偶者相談と重なってくるように感じてしまいます。

さて、この「心的外傷と回復」の冒頭の謝辞の中で、ハーマン先生が何よりも最初に感謝をするのは夫と家族だと述べているのです。

このように、日本のDV被害女性救済システムの理論的バックボーンになった学者たちの中で重要な役割を果たした著名な学者たちは、愛する夫がいて父親とも円満な関係を送っているごく普通の学者たちだということがわかります。

日本の業績を上げているジェンダー学者の女性たちの多くも夫や子供がいて家族とともに人生を歩んでいます。つまりフェミニズム=すべての家族制度の解体ではないのです。そういう理解は、正しくないということなのです。

どうして、いつの間に、フェミニズムというものは、「家族というのは女性を抑圧する社会システムであり、女性を家族から解放しなければならない。」という家族解体主義を含む理論だと誤解をする人たちが生まれてしまったのでしょうか。

ただ、実際にそのように機械的に主張するフェミニストたちもいらっしゃいます。上野氏もフェミニズムは多様性があってよいなどと言っているようです。フェミニストが結婚しても良いのか、結婚しないほうが一貫するのかなどということは、あまり表立った議論はなされていないようです。だれがどのような考え方をとろうと私はそのこと自体にはあまり関心はありません。しかしながら、日本の国家や地方自体の家族政策が、結果として、家族解体を推し進める政策になってはいないかという点について、危機的な意識を持っているということなのです。

多くの配偶者暴力相談の担当者たちも、夫や妻があり、家族を持っていることでしょう。それなのに、ろくに調べもしないで、妻を夫から逃がして行方をくらませることを主導的に手助けしているわけです。本件の問題は、自分に家族がいるのに、どうして他人の妻に対しては、「家族から逃げろ」ということができるのかということに関連していることだったのです。また、いくら多様性があるからと言って、「結婚制度は原則として女性を抑圧する社会システムだ」として自らも家族を作らない原則的主張者群と自らは夫のいるフェミニスト群は、どうやって折り合いをつけているのでしょうか。

これに対する回答は案外簡単なことかもしれません。一口に「女性」と言っているからわかりにくいだけであり、「女性」の概念には二つのカテゴリーがあると考えると誰でも理解できるようになります。即ち、家族を持つと家庭に支配されるタイプの「かわいそうな女性」と、生育過程においても恵まれた上に支配をしない夫を選ぶ能力のある女性の二種類の女性があるということになるでしょう。

夫がいて女性解放の作業を行う女性たちは、自分たちは自立できる能力のある女性であるから、「かわいそうな女性」を解放して差し上げるという考え方なのかもしれません。「あなたは悪くない。それは夫のDVだ。」というとき、「あなたは夫を選ぶ能力もなければ、夫に支配されないで対等な関係を形成する能力もない。私とは違うカテゴリーの女性だ。」と言っていることにならないでしょうか。その上で「だからあなたが解放されるためには、夫や家族から逃げなくてはならない。」という宣告をしていることと実は同じ意味なのではないかと感じているのです。

30年間の事件を担当したことを通じて、離婚調停や離婚訴訟になる事件でさえ、夫の暴力や精神的虐待に支配されていると感じられる事例はごく少数でした。実際は暴力や精神的虐待が無いにもかかわらず、行政や警察は、女性に子どもを連れて夫の元から去るように協力に「支援」をしたのです。それらの支援をした事例のうち、行政などが夫などから事情を聴いた事例は全くありませんでした。

私の実務経験からすれば、夫から事情も聴かないでDVの存在を決めつけて逃がしてあげなければならないほどかわいそうな女性は、むしろごく例外的な存在でした。それにもかかわらず、ろくに調べもしないで女性を夫から逃がし、子どもを父親に会えなくしている事例がほとんどだったということです。その中で夫が自死した例も多く、子どもたちが親を恨んだり軽蔑しながら大人になり、その過程の中で自分を見失う事例が少なくありませんでした。

精神的不安や焦燥感を抱える女性を、すべてかわいそうな女性だと決めつけて夫や父親を孤立させる形で家族を解体するという手法は、本来のフェミニストのオリジナルに近い理論からも単純に間違っているというべきです。せっかく日本のフェミニストの巨匠の結婚報道がありましたので、良い機会だと思いお話しさせていただきました。

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