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DV被害者支援に見る「被害者支援」の落とし穴 被害者女性だけを支援の対象にすることによって生まれる弊害 [弁護士会 民主主義 人権]




被害者支援ということは、だれも反対ができない気持ちになるでしょう。被害を受けた人が被害を回復することこそ正義だと反射的に感じてしまいます。今回の東京都の若年被害女性等支援事業の莫大な公金支出から疑問が再燃しました。この問題では、一般的な論調としては、「若年被害女性等支援事業は素晴らしいことで必要なことでこちらについては文句はない。ただ、公金の使い方が正当ではない。」という批判が主流になっていると思います。

しかし、なぜ「被害」女性だけを支援の対象とするのかということに、DV冤罪や家族再生に取り組む私としては疑問の目が向いてしまいます。

つまり、「被害があることと」、「支援が必要なこと」は決して同じではないはずです。私が問題とするのは、必ずしも被害があるとはいえないけれど支援が必要なのに、予め定められた「被害」の存在が無ければ、支援を受ける必要がある人も支援が受けられなくなる。実はこれが不合理なのではないかということです。

若年被害女性等支援事業で言えば、東京の歌舞伎町や渋谷の繁華街で若年女性への声がけをするのであれば、その若年女性が被害者であろうと、単なる親に対する過剰な反抗であろうと、ホストなどの風俗など浪費の結果であろうと、望まない性産業や反社会的勢力と結びつくことを避けるという意味では、すべて保護や支援をするする必要があるとは言えないでしょうか。その女性の背景を探っていけば、社会的風潮だったり、インターネットの影響だったり、友人関係だったり、何かしらの被害がある場合が多いと思われます。しかし東京都の用意した、あるいは委託事業者が用意した「被害」、「被害者」にあててはまらないということで支援を受けることができず、不幸に陥ることを見ないふりをすることにはならないのでしょうか。用語の「被害」が何を意味しているのか分かりませんが、被害者だけを保護するということは若年女性に限って言えば強い合理性は無いように思われます。同様に女性に限定することについても合理性がわかりません。

このような疑問を持つ理由が、DV被害者支援事業を見てきたところにあります。

これまでの実務経験での出来事を上げます。

一昔前は、DV被害者は、身体的暴力を受けたことを訴えることが必要でした。身体的暴力がないならば、法(国家、自治体)が家庭に介入することは避けようとしていたためです。身体的暴力がある場合は、家庭内にとどまる出来事とは言えないために国家や自治体が夫婦の問題に介入できるという理屈でした。また身体的暴力は、暴行罪や傷害罪という犯罪を構成するために、警察が介入するデメリットが最低限度にとどまるだろうという常識もありました。

実務では、暴力があったと主張をすれば、シェルターに入ることが認められて、様々な支援を受けられることができました。ところが、身体的暴力が無いから正直に無いというと、それらの支援は一切受けられませんでした。

しかし、長年夫婦として生活していた場合、身体的精神的暴力がなくとも、人間として尊重されないと感じたり、結局は人格を否定されていたと感じることによって、同居が精神的に耐えられなくなることがあります。一時的にであっても避難する必要がある場合は、実務的にその存在を見てきています。夫婦で合意をして女性が心身にダメージを受けることをしたが、男性が女性のダメージに無神経であったなど、DVということはできないけれど、一時でも夫と離れて暮らしたい、あるいは離婚をしたいということがあります。しかし、女性が一時的に一人で生活する場合でも、働いて生活費を得ようとしても女性の賃金は一般的に低く、働き続けていたとしても子育てなどの負担から賃金の高い責任のある地位に進出することができないなどの事情があり、自立が簡単な社会構造にはなっていません。シェルターというのは一時利用の避難所です。女性の社会的立場は共通で、経済的に一時的な分離ができないというならば、はっきりした暴力や虐待が無いとしても、支援が全く行われないということは不合理だと私は感じました。

コロナ助成金の時も弊害を感じました。コロナ助成金が全国民に支給され、住民票の世帯代表者に対して送金されました。しかし、離婚を控えるなどして当時夫と同居していない妻も多数いました。コロナ助成金は一人一人の生活に役立てるためのものですから、世帯でもらうものではなく各個人が受給するべきものです。単に行政効率の便宜上世帯代表者に送金されるだけのことでした。だから、別居の事実がはっきりしていて世帯代表者ではない別居者の意思が確認できれば、世帯代表者に送金しないで別居者個人に送金される手続きが取られるべきだと思いました。

しかし、この例外が認められたのが、DV被害女性だけでした。しかし、先に述べたように、別居をする事情は何もDVに限られません。身体的精神的DVが無ければ妻が人間として尊重されると言えるわけではありません。DV以外の事情があって別居していた世帯主ではない女性にはなかなか助成金が届かなかったようです。本当に助成金が必要な人にお金が届かなかったわけです。DV被害者だけが優遇されることに合理性はないと感じました。弁護士会などでもDV被害者に限って送金を別扱いにしろという決議が挙がりました。私は被害者限定はおかしいという意見を積極的に述べた。

このようなDV被害者限定の支援は、弊害をもたらすのです。被害があったというかどうかで、天と地の違いが生じる、つまり生活ができるかできないかという決定的な違いがあるならば、別居しても生活を成り立たせたいと言う人は、実際はDVが無くてもDVがあったと言おうとする傾向が生まれてしまうという弊害が生まれるわけです。また支援者の中には、些細なやり取りをもって、強引にDVがあったと主張させる人も生まれたことでしょう。

裁判でも同じでしょう。DVがあったと言えば裁判が有利になるなら、無理して針小棒大な説明をしてもDVがあったと主張するようになるかもしれません。DV被害だと言えば、裁判所も警戒して警備担当を配置したりします。厳重な警戒を行うことによって、無実の夫はDV加害者になっていくということを感じました。具体的事実を丹念に調査して、その事実と妻の心情の関係を丹念に考察もしないで、単にDVがあった、警察出動を求めたという主張が裁判書類に大量に出回ることになるわけです。わけのわからない警察出動の要請が多発することはこのような風潮、戦略が影響していると思われます。

何でもかんでもDVがあった、自分は被害者だと主張するようになるということです。

前回も述べたように、この被害者加害者の言葉の意味は、配偶者暴力を相談した妻のことを被害者と呼び、妻の夫等を加害者と呼ぶだけのことです(総務省事務連絡 平成25年10月18日付)。妻は相談にさえ行って、DV相談をしさえすれば、自治体から「被害者」と呼ばれるようになります。だから、DV相談をして、被害者と呼ばれて、裁判を有利にしたいと思うのはある意味自然のことかもしれません。

但し、一定の人たちにこのような被害者加害者二分法は都合の良いこともあります。被害者であれば逃がすという一本やりの方法論だけで対処ができるということです。「被害者」という言葉のマジックで、その行政の「支援」によって、被害者以外の子どもや夫が精神的なダメージを受けても「被害者支援のためだからやむを得ない。加害者が悪いから仕方がない。」と家庭崩壊をさせることを肯定する方向に誰も批判の目を向けなくなるという効果があるわけです。このような家庭崩壊一本やり、加害者に働きかけをしない、事情も聴かない、裏付けを取らないというのも被害者加害者二分法ならではのことだと思われます。

女性支援だからと言って、支援者は被害者だという決めつけは、家庭の中に被害を与えた加害者が存在しているという先入観を作り、敵対させ攻撃させあう形での家庭崩壊しか産まないと思います。快い家庭、安心して生活できる家庭を作るということを目標とした政策が実施されないのは、なぜなのか私たちは考える時期に来ていると思います。

DVというのは特殊な人間が相手を心理的圧迫することとは限らないのです。多くの夫たちは、自分は無関係だ他人事だと思っています。実は明日のあなたのことかもしれないのです。多くの人たちに関心を持っていただきたいと思います。

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