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一人で生きられるって、それは素敵なことだろうか?  [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


表題に比べて無粋な書き出しをするわけです。
現代社会は、お金さえあれば「物理的には」、誰ともかかわらずに生きて行けるようにも思われます。今の人間関係で、思い悩むときは、いっそのこと人間関係を断ち切って一人で生きてみようかなんて思うこともあると思います。

そうやって実際に一人で生きている人もいるかもしれません。
また、本当は誰かと暮らしたいのに、事情があって一人で生きていると言う人も多くいらっしゃいます。

対人関係学の基礎になる学説のうちの非常に大きな位置を占めるバウマイスターという認知心理学者の「The Need to Belong」(所属の要求)という論文があります。結論から言うと、「人間は、他者のグループに所属することを本能的に求めており、その要求が満たされないと心身に不調が表れてしまう。」ということを述べています。様々な文献の研究からそのような結論を導き出しているようです。

だから一時「一人で生きていたい」と思っても、やがては人間の中で生きていきたいと思うようになるか、その願いがかなわないまま精神を病んでいってしまうのかもしれません。

ただ逆に、職場や友人関係などで誰かとかかわっていながら、所属の要求を満たしているはずなのに、その人間関係が原因で同じように精神を病むような現象が見られます。これはどうしてでしょうか。

パワハラなどの自死事案を多く担当した私は、そもそも人間の要求は、誰かとかかわっていればよい、人間の集団に所属していればよいというだけのものではないと考えています。「自分がそのグループで、仲間として尊重されるという関わり方をしたということ」が、人間の根源的要求なのだと、バウマイスター先生の学説を修正する必要があると考えています。

バウマイスター先生の論文は、先ほども文献研究の手法だと言いましたが、人質にされた事案とか、刑務所内の対立の事案とか、極端な事案が多いようです(翻訳がされていないので、私の英語読解力の範囲での話ですが)。その中でも、つい人間は人間を求めてしまうということで磨かれた真実があることは間違いありません。

しかし、現実の人間の紛争や過労自死の事案を見ると、「仲間として尊重されない人間と一緒にいること自体が人間にとって過酷なことであり、心身に不具合が生じることだ」と結論付けたくなるのです。

ただ、この「仲間として尊重されている」と感じているかどうかということは大変難しくて、一方が他方を尊重していると頭の中では考えていたとしても、他方が「こんな扱いでは自分は尊重されていない」と感じると、心身に不具合が生じたり、仲間から離脱しようとするところが難しいところだと思います。

どんな場合に相手が「仲間として尊重されている」と感じているか。それは人それぞれなので、インターネットや本には書いていないことです。相手をよく観察して(どういう場合に嫌がるか、嫌がる場合はやめる。どういう場合に喜ぶか、喜ぶことは積極的にやる)、場合によってははっきり言葉にして尋ねてみるということでかかわりの中で学習していくということなのでしょう。

さらに難しいことは、相手が仲間として尊重されると感じることが、自分にとっては苦痛である場合があるということです。人間は「自分」というものがあり、自分を自分で裏切り続けると、やはり苦しくなるようです。一方で他者と一緒にいたいという要求がありながら、他方で自分を壊したくないという気持ちなのでしょうか。例えば会社で、会社の命じたことが自分の良心に反することなのに、無理にそれを行い続けるとやはり心身に不具合が出てきてしまうようです。

相手が会社であれば、自分を大切にするために退職をするという選択肢を持つべきです。
これが相手が家族の場合が切ないところです。ただ、この場合は別離だけが選択肢ではなく、相手に対して働きかけを行い、自分の気持ちを相手に理解してもらい、相手を変えていくということも選択肢として持つべきだと思うのです。

この調整のお手伝いをする人がなかなかいないのが現代日本です。私はそのような時に家族再生のお手伝いをすることも弁護士としての仕事だと思っているのです。

そして現代の様々な公的な「支援」は、別離だけが唯一の選択肢だとでもいうような働きかけをしているのではないかと憂慮しているのです。

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