SSブログ

大人の発達障害をきっかけに考えた旧黄金律の弊害 現代版黄金律の構築の必要性1 [進化心理学、生理学、対人関係学]



発達障害は、様々な症状の組み合わせということなので、発達障害だからこういう行動傾向があるとかこういう行動傾向があるから発達障害だとは必ずしも言い切れないそうです。ここでいう発達障害の人の行動特性とは、何人かの私のかかわった人たちの共通点の行動傾向を、架空のキャラクターQ氏の目を通してお話ししています。医学的な正確さではなく、人間関係の紛争解決と予防の実務的観点でお話ししていることをお断りします。

よい歳になれば、それなりの処世術を身につけますから、延べ数時間話したくらいではなかなか発達障害だと気が付かないものです。Q氏は、もしかして自分が発達障害ではないかと自分を疑い、精神科に言って心理検査を受けて、発達障害だと診断されたというのです。それでも私はすぐにQ氏が発達障害だと納得できませんでした。

しかし、彼の話を聞くと、なるほど発達障害ということはそういうことかという新鮮な衝撃を受けました。

彼によると、若いうちから人づきあいが苦手で、グループの中に入れず一人で過ごしてきたそうです。仲間と打ち解けることのできない具体的な原因の一つとして、「余計なことを言う」ということがあったようです。こういうことを言うと嫌な気持ちになるかもしれないと考えて、発言をやめるとか、表現を穏やかにするということができないため、思ったことを言ってしまうのです。賞賛や感謝をすぐに口に出すのならばよいですが、そうではないようです。例えば学校で、課題を提出できなかった同級生がいた時、その同級生が「難しくてどうしてもできなかったよ。」というと、「できなかったのではなくて、しなかっただけだろう。」なんて言ってしまうようです。会社などでも、ノルマを達成しなかった同僚に対して、思った通りの言葉を言ってしまう、「やれなかったのではなく、やらなかっただけだろう。」と言っていたようです。

多くの人は不愉快になるし、けんかを売っているのかと思うでしょう。実際にQ氏に対しても、言われた本人だけでなく周囲の人間からも反発をされたり、そういう言い方はだめだよと注意されたりしたそうです。しかし、Q氏は、どうして反発されているのか、どうして自分が注意されるのかが理解ができなかったそうです。

どうやらここがポイントのようです。

Q氏は、自分の言葉は当たり前のことを言っているだけだと思っているようです。言われて当たり前だということでしょうね。どちらかというと正義感に基づいた発言のようです。その言葉で相手が嫌な気持ちになるということが理解できないようです。

もしかすると、課題を与えた学校やノルマを課した会社からすればQ氏の発言こそが正しい発言だと考える人もいるでしょう。しかし、その結果Q氏は孤立してしまい、楽しくない状態になっているのです。他者から受け入れられないことの苦しみはきちんと感じるのです。

これが、会社という組織ならばまだよいかもしれませんが、家庭でも同じならば家族は辛いでしょう。「なんでこんな問題ができないんだ。勉強する気が無いふざけた態度では将来社会から脱落するぞ。」とか、「あんなくだらないママ友との付き合いのためにこんな必要でもないものを買うなんて何を考えているのだ。」とか、子どもの進路や妻の交友関係にまで、過酷な表現で自分の意見を押し付けてくるわけです。

その背景としては、「よく考えないからそういう間違いを犯すのだ。自分が言い聞かせれば、自分と同じ結論になるはずだ。」という極度に自分と他人の区別がつかないという感覚の問題があるように思われます。自分の言葉は、攻撃ではなく、気づきのために必要な方法だということになるようです。

だから、家族の「幸せ」を思えば思うほど、正しい自分の意見を強く押し付けようとすることになります。表現は過酷になり、態度も圧迫的になります。家族のことを思えば思うほど、一方的な押し付けが強まるので、家族はQ氏のような人を煙たく感じるようになるわけです。やがてQ氏の愛情は、家族から拒まれ、Q氏は家庭の中でも孤立していくことになります。愛するがゆえに嫌われるという側面もあるので、これは切ないことです。

Q氏の正しさは、伝統的な黄金律に合致しています。
黄金律とは、「自分のしてほしいことを相手にしてあげなさい」とか
「自分がしてほしくないことを相手にしてはならない」ということです。

おそらくこの黄金律が作られた2000年前であれば、人間の個性というものは、それほど気にしなくても良かったのではないかと想像します。自分がしてほしいことはほとんどの他人もしてほしいし、自分がしてほしくないことはほとんどの他人もしてほしくなかったのだと思います。また、個性ではなく、常識とか社会秩序とかが重んじられていたので、常識や社会秩序に合致したことをされていれば相手も満足していたのではないかと思うのです。

ところが現代社会は、社会が複雑化して、一つの常識や一つの秩序では人間をすべて規律することが不可能になったのではないでしょうか。したいこと、されたいことが人によってバラバラになっているのだと思います。その結果、自分のことは自分で決めたいということを強く感じるようになっているということもあるように思います。

だから、「昔」であれば、Q氏の発達障害は、あまり目立たなかったはずです。世間の常識、共通の道徳に基づいた発言は、少々煙たがられても受け入れられることが多かったと思います。言われた方も常識や道徳に反発することもできなかったのでしょう。その代わり、相手に任せたことについては口出ししないという道徳もあったはずです。世の中便利に動いていたと思います。

発達障害の人の場合に限らず、過去の黄金律は現代社会においては妥当性を欠くばかりではなく、人間関係の不具合の原因になるようです。修正が必要なのだと思います。つまり
・ 相手がしてほしいと思うことをしなさい。
・ 相手がしてほしくないことをしないこと
というように自分ではなく、相手を基準に物を考えなければならないということなのだと思います。

ところで、正しいQ氏の発言が、どのように間違っていて、言うべきことではなかった、あるいは言い方を修正するべきなのかということについて、あえて言葉での説明を試みてみます。

言われた方の心情としては、「自分が努力をしたのに、その努力を否定された。」、「自分の能力や人格を簡単に否定された」と受け止め、自分が人間関係の中で劣っている者、取るに足らない者、簡単に切り捨ててもよい者だという否定評価をされたというように感じ、「攻撃」だと受け止め、危機感を抱かせ、ある人はがっかりするでしょうし、また別の人は腹が立って反撃をすることになるわけです。いたずらに、相手に精神的ダメージを与えることをするべきではないということがするべきではないという理由だと思います。

Q氏は、何の悪気もなくQ氏なりの正義や正しさを言葉にしただけです。しかし言われた相手からすると、Q氏が自分の考えを口に出しているのですから、自分はQ氏から攻撃された、Q氏は自分を否定しようとしていたという悪意であると感じるわけです。

黄金律を現代版のように相手の心を基準としなければ、言われた相手も傷つきますが、結局Q氏も孤立して苦しむことになります。その人間関係全体がピリピリとして不安定な状態になってしまいます。だから修正黄金律にするべきなのです。

但し、修正黄金律の大きな弱点は、発達障害がなくても、他人である相手の心なんてわかりにくいということです。今回はこの問題を短期集中シリーズにして何を考えるべきか、どう考えるべきかということを、検討していきたいと思います。

nice!(0)  コメント(0)