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なぜ言葉も生まれていない200万年前にヒトは群れを作ることができたのか [進化心理学、生理学、対人関係学]

これは、前々回のWEB上予行演習の続きというか
修正しようと思っているところです。
では

ということで、人間とは何かということを考えなければならないのですが、
それは本来、各人が考えることであり、
誰かの考えを押し付けるということはできないと思っているので、
では皆さんよく考えておいてくださいで終わるのが筋が通っていると思うのですが、
それで帰るのも何なので、一つの考えをサンプルとして示したいと思います。

私は、人間は群れを作る動物だというところに着目したいのです。
進化生物学では、200万年前ころから人間は群れを作っていたと言われています。
もちろんそれ以前に、母と子を中心とした集団生活はあったでしょうが、
そういう血縁関係を必ずしも前提としない群れだったと言われています。
30人から100人弱くらいの群れで、
数十人の群れがいくつか関連してあったという考え方もあります。

いずれにしても、基本的には、一生涯、
同じ群れで過ごしていたようです。

そのころは、小動物を狩りしてたんぱく質を摂り
植物を採取して栄養を補充していたとされています。
群れの中でチームが分かれていたようです。

さて、当時は、言葉のない時代なのですが、

言葉もない時代にどうやって群れを作っていたか
ここが問題です。
でも、ほかの動物も言葉が無くても群れを作りますね。

イワシなんて、魚ですけれど、群れで泳ぎます。
大きな水族館でイワシが集団で泳ぐ様は
それは見事で、目を引きつけれられます。

あれ、何で群れで泳ぐかというと
イワシは、集団の内側に入ろうとする性質があるかららしいんです。
みんながみんな魚群の中に入ろうとした結果、
一つの巨大な魚のような群泳が成立していると
こういうことなようです。

集団の内側で泳ぎたいという感情というか気持ちで
成立していることになります。
水面下ではそういう事情が働いていたのですね。
もっとも、イワシは水面の下にしかいませんが。

それで、どうやってそういう都合の良い仕組みができたかというと、
それは、意外に簡単なことで、
中には気まぐれなイワシというか
自由や個性を主張するイワシがいてもよいでしょう。

あんな魚臭い中では泳ぎたくないやなんてことを思って、
ふらふらと自由に海の中で余裕をかましていると
もうそれは、マグロやカツオなんかに目を付けられて
パクっと食われてしまうわけです。

パクっと食われるから骨がのどに引っかかるなんてこともありません。
単独遊泳をしているイワシなんて
極上のスイーツみたいなものです。

そうすると、そういう自由傾向のある遺伝子は
すぐ途切れてしまう。
結果的に、群れの内側で泳ぎたいと思っているイワシの子孫だけが
生き残っていく
そしてだんだんイワシというものは
群れの内側に入り込みたいという性質のものばかりになってしまったと
まあ自然淘汰ってことですね。

哺乳類に目を向けると馬なんてのも
言葉が無くても群れを作るわけです。
これも、やはり本能があり、
群れの先頭で走りたいのだそうです。

これに目を付けて競争を成立させたのが競馬です。

あれ無理やり走らせているのではなく
本能を利用しているから成立するのです。

そうやってみんなが先頭に立ちたいから
群れ全体が早く移動できるようになり、
肉食獣から逃げられると、うまくできているようです。

だから言葉がない時代に人間が群れを作ることを
そんなに複雑にな考える必要はないと私は思いますよ。

色々難しい議論をする人たちが幅を利かせていますから
私がいくら叫んでも届かないのですが、
嗅覚をほとんど放棄した人間が
血をかぎ分けて血縁集団を作ったとか
後で他人が役に立つから最初に恩義を売っているとか
そういう相互互恵なんて小理屈が無くても群れを作れるんです。

人間もイワシや馬とおんなじで
一人でいるのが嫌なんです。
一人にならなければならないと思うと
もうそれだけで不安でたまらなくなる。
だから誰かと一緒にいようとする
基本はこれです。

では、それからどうするか
人間に他の動物と比べて違うというか特徴的なことが何かと言えば、
他者に共感する能力があるということです。

これは2歳時くらいになると
誰が教えるわけではなくそういうことをしてしまうようですね。

子どものおもちゃで、
星型や丸形、長方形などの積み木みたいなのと
その形がくりぬかれている机の小さいのみたいなのがあり、
同じ形だと下に落ちるなんてのがありますでしょう。

子どもの前で、大人が
なかなか下に落とせなくて困った顔をしながらやっていると、
子どもの中には、その人の代わりに
積み木と同じ型の方に誘導して落としてあげる
なんてことをやる坊ちゃん、嬢ちゃんがいるそうです。

同じように下に落とさないでがちがちぶつけていても
ニコニコと楽しんでやっていると、
手伝うことをしないで
自分もまねをしてがちがちたたき出して、
楽しむのだそうです。

人間は、2歳くらいになると
相手が困っているか楽しんでいるかわかり、
困っているときは助けて、
楽しんでいるときは一緒に楽しむことができるようです。
共感する能力が初めからあるわけです。

これは間違ってもサルにはできません。
サルは集団で生活しますが
心の交流というかお世話するのは
母ザルからその子どものサルへと決まているそうです。

サルと違って
共鳴共感で群れを成り立たせてきたのが
人間様だということになるようです。

なぜそんな能力があるかというと
一匹で泳ぐイワシのように、
一人で生活するにはあまりにも弱いわけです人間は。

道具を作れなかった時代には、
一人で小動物を捕まえて殺すなんてことは
とても運がよくなければできなかったでしょう。
そういう脚力も、牙も爪もなかったからです。

体毛が薄いために汗をかいててめいの体温は下げられるという利点を活かして
ひたすら追いかけて追い詰めるという狩りの方法だったようです。
小動物を熱中症にしてしとめたらしいです。

また、肉食獣に狙われたら
走って逃げる脚力も、飛んで逃げる翼もなかった。
もう集団で、
誰かが襲われたら集団で立ち向かった
無鉄砲なまでに助けようとした
こういう本能でしのいできたわけです。

そうやって集団で反撃することによって
肉食獣も
下手に攻撃したらあちらからこちらから逆襲される
という経験を蓄積して
よほど困った時でなければ人間は襲えない
ということを学習していったのだと思います。

共鳴共感というのは
相手の感情を理解するということですが、
その実態は、
相手と同じ気持ちになるということですね。

仲間が悲しんでいれば
自分も同じように元気をなくして泣いてしまい、
仲間に元気を出してもらおうといろいろ頑張る。
相手が元気が出れば、自分も元気になる。

足をくじいて痛がっていたら
自分はけがをしていないのに足が動かなくて困っている
と言うときと同じ反応を脳がしてしまうわけです。
そうして、相手を支えて歩かせることで
相手の不安を解消すれば自分も安心する。

仲間のイベントの脳内の追体験が共感なのです。

これが極限までいけば
相手と自分の区別があまりつかなくなるわけです。
特に生まれてから死ぬまで一緒に生活していると
結局仲間の誰かが困っていると自分が何とかしたくなる。
自分が困っているときも自分は何とかしようとする。
そこに違いがあまりなくなります。

そして、自分はこのくらいは平気だと思っても
相手はもっと苦しんでいるかもしれないと思うと
自分よりも相手を何とかしようと思うようになるでしょう。

だから偶然甘い果物が手に入って
自分も腹を空かせていたとしても、
一人で食べようという発想が生まれなかったのでしょうね。
仲間も腹を空かせているだろうし、
仲間がこれを食べたら喜ぶだろうなと考えると
仲間に果物を持って帰ろうということになるわけです。

親が子どもを思って食べないということと
全く同じなわけです。

そして、仲間の中で一番弱い者を守ろうとしたのも
人間の本能だと思います。
とにかく群れでいることが当時の人間の生命線だとすれば
弱い者を守らなければ弱い者は死んでしまいますから
弱い者を守ろうとしない群れは
弱い者から順番に死んでいったことでしょう。
赤ん坊なんて育たたないわけです。

そういう群れはどうなったか
動物狩猟も植物採取もできなくなり
肉食動物からはスイーツ扱いされて死滅していったでしょう
子孫を残せなかったことでしょう。
イワシと同じ理屈です。

さてさて、
認知心理学という最近ノーベル賞を受賞している学問分野では
共通認識として、
人間の心は200万年前頃完成して
今もほとんど変わらないとされています。

「ええっ!」と疑問を大きく叫ばれたい方も多いと思います。
そんな慈しみと愛情を持った生物だったとしたら
今の日本社会は人間の社会は説明つかないだろうと思っている方もいるでしょう。
大量殺人や、いじめ、パワハラ、児童虐待など
目を覆いたくなるようなことばかり起きている
200万年前と同じ人間ではないのではないか、あるいは、
そんな共感の原理なんてきれいごとじゃないかと
お考えになる方もごもっともです。

しかし、よく考えてみてください。

誰かから悪口を言われたり、誰かからとんでもないことをされて
自分という人間が当たり前に扱われなければ、
嫌な気持ちになりますよね。

解雇だ、学校来るな、家から出ていけなんて
一人ぼっちにされることは命の危険が無くても
とても怖く感じませんか。

誰かに助けてもらえばうれしいでしょうし
困っていても誰も助けてもらえなければとても怖くなります。

人間は、200万年前の一心同体の群れで過ごしていたように
仲間に自分を尊重されたいと心が思ってしまうのです。

弱い者小さいもの、児童虐待などを聞くと
とても腹が立ってしまいませんか。
これも人間の本能なのです。

逆説的に、
人間の心が200万年前と基本的には変わらないということが
よく考えると実感できると思います。

では、どうして人間は仲間のために我慢するということをやめ
弱肉強食、特に共食いのように
他人を食い物にするようになったのでしょう。

どうして共感原理で生きる人間が
他者を排斥することが「可能なのか」という命題になると思います。

色々な理由が考えられますが、
私は他者とのかかわりのあり方が
決定的に変わってしまったというところを指摘したいです。
これが環境と心のミスマッチというわけです。

ここから先も長くなるので概要だけ。あとは対人関係理論のホームページ
「心と環境のミスマッチ」をご参照ください。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/concept.html
(ページの下の方には要約版もあります)

一つは群れの多元化(家族、学校《クラス、部活、小グループ》、職場、地域、社会)
群れの相対化(離婚、退学、転職、その他)
である人間の膨大な数と人間に対しての希薄化

これによって、利害対立にうまく対応できず、
さらに自分の生き残りに不安があることで、防衛意識が強く働き
攻撃が可能となる


ところで、
やっぱりかなり長くなるので、
これを話すことは無理だな。




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弁護士は家族トラブルなどの場合、もっと警察(生活安全課)に足を運ぶべきだ。 [家事]




先日家庭内トラブルの案件の仕事で新幹線に乗りました。
その地に住む依頼者と一緒に、他県の警察署の生活安全課を訪問するためです。
依頼者の相手方が警察に相談していたという情報があったので、
面談するべきだと思ったからです。
私にとってはいつもの普通の業務です。

犯罪をしてしまった人を担当する警察の部署は
刑事課という部署ですが
防犯、女性や少年の保護、その他の事案を扱うのは
生活安全課という部署です。
(ちなみに刑事課と生活安全間の警察官が刑事ですね)

私は、離婚、別居、面会交流の事案を多く担当しています。
依頼者の妻が家を出て
警察、生活安全課に相談していることが多いということもあり、
よく警察を訪問します。
できるだけ早く、依頼者を連れて生活安全課に行くようにしています。

警察に行く弁護士側の一番の目的は
警察に中立になってもらうことです。
家族間の紛争には、可能ならば公権力は入らないでほしいのですが、
それがだめなら、一方の利益で動かず、中立になってもらいたい
そういう思いがあります。

警察が間違った介入をすることは弊害が大きいです。
精神的に問題のある一方当事者の話を真に受けて
二人の関係を収拾のつかない状態に持っていくということがあります。
警察が味方しなかったほうは
行政や世間から犯罪者のように扱われてしまいます。
精神的なダメージが強く、重いうつ状態を招きます。

そればかりではなく、
子どもがどちらかの人質に取られた形になり、
長期にわたって精神的に不安定な親から逃げ出せないで
苦しみ続けるという事案が起きるからです。

しかし、こういう一方に利益が生じて
それ以外の当事者に弊害が大きく出るということには
構造的な理由があります。

犯罪をしたというのであれば、
警察は被疑者としてですが、
その人を呼び出して、その人から話を聞きます。

ところが、そういう犯罪としては取り扱わない
家庭内暴力、特に精神的暴力などの場合は、
被疑者としては扱いませんので、
対象者から話を聞くということがないのです。

ただ、防犯対象者として観察を続け、
何かあれば、すぐに出動して身柄を拘束したり
被疑者にしてしまうわけです。

これは、一方の側からだけ事情を聴くということから
不可避的に、どうしても起きてしまうことなのです。
警察官を利用して相手を遣り込めようという場合でなくても、
一方の側が感じた事情を一方的に聞くということですから、
誤りや、大げさや、勘違いや、ニュアンスの違い
ということがありうることです。
これが一つ。

もう一つは、話を聞くだけではなく、
一方当事者だけの顔を見ている、
苦しみや悲しみの表情を見ているということも大きなことです。

顔を見れば、人間は共感してしまう生き物です。
なんとなく、こちらを助けようという気持ちになるのです。
特に正義感の強い警察官は
困っている人を助けようと思ってしまいます。

その二つ、一方の主観に基づいて事案を把握することと
相談者の顔しか見ないということから
相手に対するイメージがとてつもなく悪い人間だというイメージを持ってしまいがちになる。
これが人間です。

精神的DVなんて言う暴力のない事案の相談の場合さえも
頭の中のイメージは、なたをもって妻を追いかけまわす
狂暴な夫のイメージを抱いている可能性があるわけです。

だから、もう一方の当事者である自分の依頼者本人から事情を説明させ、
本人の顔を見せることが重要なのです。
「あれ?イメージが違うな。普通のヒトっぽいな」
と思わせることができれば成功です。

そのために弁護士は何をするのでしょうか。

私の場合は、まず、事前にいついつ行くから対応してくれと
電話で予約を取ります。
ここで、多くは、「なにしに来るんだ」ということを言われます。

ここで中立になってもらいたいために行くのだ
ということをいう馬鹿な弁護士はいないと思います。
目的を聞かれているのではなく、
警察に来て、何を話すのだ
ということを聞かれているのです。

この時、警察のほうにも利益があるということを
アッピールしなければなりません。

警察の介入する目的は、一言で言えば防犯
危険の未然防止にありました。
だから、危険が存在しない、警察に協力する
ということをアッピールすることになり、
それは、双方利害が一致することなので
警察も訪問を拒否することができない
というところを説明しなければなりません。

ここでもそれをそのまま言う弁護士はいないと思いますが、
一応念のために電話の話し方を説明しますが、

当事者の家庭の問題に
公務とはいえ他人に介在してもらっているのだから、
家族が世話になっているということです。
だから、世話になっていることに対する感謝と
ご迷惑をおかけしたことの謝罪が第一の目的になる
ということは、世間の常識です。
(これはいろいろなところに訪問する目的になります。)

それから、こちらの把握している事情を説明したい
という事案解明についての説明も
公正中立という建前から拒否しにくい内容となります。

これを弁護士が代理する目的としては
一つは、主観的に口論をするのではなく、
一歩離れた全体像を把握して説明するということ、
相手方の言うように感情のままに怒鳴り散らす人間ではなさそうだ
という安心感と
何かあったら弁護士が制御するという安心感を与えることです。
(まあ、それほど心配していないでしょうけれど
 クレーマーみたいな人が来て抗議すると言えば
 忙しいから来年にしてくださいと言われることの反対をするのです)

予約の時間に遅れないように弁護士は依頼者を同行し
生活安全課に行くわけです。
総合案内のない警察署も多いため、
事前に聞いておくと生活安全課に直接来てください
と言われることが多いようです。

時間をとっていただいたことを感謝し、
本人に感謝と謝罪をしてもらい、
弁護士が把握している全体像を説明していきます。

きちんと依頼者の一番知られたくないことを知っていないと
争点把握ができないので、説得力はなくなります。
事情聴取はきっちり行っていなければなりません。

この時、相手方が虚偽の事実を言っているだろうなと想定できるところは
反対事情の裏付けをきちっと提出できるようにしておくべきです。
医師の診断書なんかはよく持って行きますし
コピーを用意していくことが多いです。
それから、スマホのラインやショートメールの画像は
すぐ出るようにしておいて、
プリントアウトしたものを渡せるようにしておくとよいでしょう。

真実がこれだと見せると
大変驚かれることが度々あります。
無ければ、信用されないままなのだと考えると
結構怖い思いをします。

警察官の仕切りを邪魔しない程度に
弁護士が話すわけですが、
当事者はなかなか理路整然と話すことはできません。
自分のことですから当然です。
また、当事者の意見はこうだけど弁護士としてはこういうふうに見ている
ということを話すことも有効でしょう。

ここでどっちが悪くて、あるいはより悪くて
こちらはむしろ被害者だとかいうことは
警察はあまり興味がないでしょうし、デメリットだけしか残らないでしょう。
この意味であくまでも目指すのは中立だということは
何度も意識する必要があると思います。
警察が興味があるのは、防犯です。
危険はありませんよということさえ言えば良いのです。

そして、当事者には、反省するべきことはしっかり反省してもらう。
これが大事です。
悪いと思っていなければまたやるのだろうと思うわけですから
自分の悪いところは自覚している
ということが大切です。

それから、どのような形で修復を考えているか
警察の方から見てどう思われるだろうかという
フィルターを付けて考えることは後々も有効です。

所要時間は1時間弱ということが多いようですが
時間は十分とっておいたほうが良いと思います。
時に待たされることがあります。

生活安全課の職員は、
各警察署でも人当たりの良さや頭の良さ勉強熱心の
エース級をそろえています。
勉強をしていますし、
現場を見ていますから、
実感と実態に即して話せばわかっていただけることが多いです。
加えて情がありますし、家族の再生も
他の公的機関よりもよほど考えてくれています。

上から目線ではなく、
私は、相談させていただきに行くという感じでお話ししています。
家族再生のヒントになるようなことをよく言ってもらっています。

こちらが相手を心配している事柄について
冬にあまり冬服を持たずに別居しているとか
生活費を送りたいとか
そういう事柄ならば、相手に連絡してくれることがあります。

ここ5年の直接面会して話した事例では
あまり悪い思い出がありません。
(電話だと一般論で押し切られてしまったことがありますが。)

先日の訪問では、
温かい言葉もいただき、依頼者も感激していました。
気になった言葉もあります。
防犯対象者から警察に来ることはまずないと
私たちが来たことに驚かれたことです。

これは警察の方からではなく当事者方の何人かからですが
自分も警察署に弁護士の何人かに同行を依頼したけれど
誰一人応じてくれなかったということを聞きました。

警察への同行は弁護士でしかできない仕事だと思います。
積極的に生活安全課だけでなく、
弁護士は警察署に同行するべきではないかと思って、
この記事を書いている次第です。






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いじめ予防対策としての人権教育 教育機関、自治体等公共機関職員向け研修 [進化心理学、生理学、対人関係学]

例によって、講演前のWEB予行演習です。下書きなしに書いていますので、誤字その他の不手際お許しください。
本当の演題は違っていて、タイトルは裏テーマみたいなものです。

1 人権 HUMAN RIGHTS
(挨拶略)
今日は、人権のお話をさせていただきに上がっておりますので、人権という言葉を避けるわけにはゆかないのですが、これがなかなか難しい。人権研修だと文字で書いちゃうと、なかなか、「人権?じゃあ聞きに行こう。」なんてことにはなりません。
色々な出来事を見ても、人権侵害という視点で考えることが少なく、これは人権侵害に当たるのだろうかなんて考えこんじゃったりします。
これに対して外国の方、いわゆる欧米の方々は、直感的に「それは人権侵害だ!」と自信をもって言い切られる方が多いように思われます。なぜだろうなと考えるのですが、おそらく人権という言葉がなかなかなじめなくて、特に権利と言う言葉が、何か知識が必要だというような意識を持たれている方が多い原因になっているように思うのですね。
権利ということは、RIGHTSという言葉の日本語訳がないということで命じに作られた言葉のようです。この元々の言葉は、権利とも訳されるのですが、語感として。正義、筋道 あるべき状態と言う意味合いがあるようです。元々の日本語的には、漢字での「理、道理」が近いような気がします。
そうすると、人権という言葉の意味は、特に欧米の方々が使っている意味は、人間としてのあるべき状態ということであるのだと思います。国や裁判所が認めているかどうかにかかわらず、そういうことがあったら人間として認められていないことになるじゃないか。という意味合いで、「それは人権侵害だ」と直感的に言うことができるのだと思います。
だから人権とは、「人間として生きる」ということの保障という意味なのだろうなと、人間の権利というよりは、「人間であることの権利」というとわかりやすいのかもしれません。人権感覚は、各人の人間とは何かという考え方の問題なのでしょうね。
さあ、あとは、人間とは何かということになるのですが、これは、様々な考え方があるでしょうし、それでよいのだと思います。今日は、人間とは何かということを考えるヒント、一つの方法をお話しさせていただきたいと思います。

2 人間が他の動物と違うところ 人間についての考察例
 1)人間の始まり
一番わかりやすい人間とは何かという考えですが、これはもう、ほかの動物との比較で考えるということが王道だと思います。
  いろいろと特徴があると思いますが、まず群れをつくるということがあげられると思います。進化生物学では、200万年前には、母子とは異なる群れを作り始めたとされています。認知心理学では、そのころ、人間の心というものが作られたとされています。その当時はというと、生まれてから死ぬまで一つの群れで、同じ仲間と生活していました。小動物を狩り、植物を採取して食料を調達していた時代です。もちろん言葉のない時代です。
 2)どうやって群れを作ってきたか。
 言葉がありませんから、道徳や法律もありません。どうやって人間は群れを作ることができたのでしょうか。群れはきちんと秩序があったのでしょうか。これはあったと思います。人間は狩りに適した動物でもなく、逃げるための足も翼もありません。肉食獣に狙われたらすぐに食べられて死んでいたでしょう。それではすぐに絶滅してしまいます。そのため、群れを作って生き延びてきたわけです。群れで仲間割れしていたら、すぐに自滅していたでしょう。強いものばかりが利益を得ていたら、弱い者から次々に死んでいき、やっぱり全滅していたでしょう。
おそらく、群れを作ることに都合の良い感情を持っていたのでしょう。これが、今では心と呼ばれるものの最初なのだと思います。群れの中の個別の人間は、「自分は」という発想があまりなく「自分たちは」という発想で生活していたのだと思います。つい最近まで日本にもあったムラ社会をもっと極限にした状態だと思います。その社会が人間にとってこの世のすべて、一生涯のすべてだったわけです。
 「共感モジュール」という心のシステムで群れを作ってきたと思います。
    仲間の悲しみ、喜びを共有していいたと思います。仲間の困りごとは自分の困りごとだから、仲間の困りごとも自分の困りごととして解決しようという発想に自然になったのでしょう。仲間を助けることは自分たちを助けることだったわけです。私たちの問題ということですね。
    それから一番弱い者をみんなで守ろうとしたと思います。誰かが攻撃されたらみんなで命がけで反撃しようという気持になったのだと思います。このような助け合い、支え合いは、きれいごとではなく、当時は死活問題だったはずです。こういう心をもった人間だけが、飢えや肉食獣から自分たちを守り生き延びてこられたのです。その子孫が私たちだということになります。
 3)200万年変わらない人間の心
  なんかきれい事じゃないかとやっぱり思いますよね。でもそうじゃないんです。私たちの心の中には、ちゃんと200万年前の心がつづいているのです。例えば、あなたは、仲間として認められないと不安、ストレスを感じると思います。人数が多すぎて予算が無くなってきたから、あなた止めてもらおうか。とか、あなたは、ちゃんと仕事をしていないから、これからは、後ろ向いて座ってね。とか言われて平気な人はいませんよね。それは極端ですか?
  普通に、自分が困っていたら誰かに助けてもらいたいとおもったり、誰かに親切にされるとうれしくなりませんか。それから、弱い者を「かわいい」と思うことはありませんか。これは一番弱い者を大切に守ろうとする人間の心だと思います。またネットで、誰かの落ち度があると、よってたかって攻撃しますよね。あの攻撃の口実も、弱い人を守ろうということから始まっていることが多いのです。肉食獣に襲われた人間を寄ってたかって守るために肉食獣に挑んだ人間の様子と重なるように思うのは私だけかもしれません。これは説明も必要でしょうが、今日は割愛します。

3 変容する現代社会という環境
200万年前の心を今の心に直接持ってくると、インターネットの袋叩きようなことが起きてしまいます。200万年前が生まれてから死ぬまでも、狩猟採集から眠るまでも一つの群れで共同行動していたことと、現代が様変わりしていることが一つの不具合の原因、ミスマッチなのだと思います。
  群れは多元化しています。 家族、職場、地域、学校、趣味など、いろいろな群れに属していますが、例えば学校でも、クラス、部活、あるいは小グループなどに属していて、とても複雑ですし、属し方も違います。でも継続的な人間関係を形成しています。
  200万年前は唯一絶対の群れですが、今は転校や転職、離婚等群れの結びつくは弱く、絶対的な関係でもなくなっています。
  200万年前はあまりなかった、仲間どうしで利害対立があったり、競争が行われたりしています。また、その場限りの人間関係も多く生まれています。

  そのような複雑な人間関係の中で、仲間を助けることは美徳ではなくなっている風潮があるように思います。職場でも自分の利益のために仲間と差をつけるという意識もあるように思われます。他人の失敗に対して寛容になれない風潮は、職場や家庭の中で進んでいるのではないでしょうか。じっくりかかわる時間的余裕のないとか心の余裕が無くて八つ当たり気味な行動をしてしま多ということがない人も少ないのではないでしょうか。200万年前に狩猟から群れに帰ったときのような、自分の安心できる人間関係が現代社会には存在するのでしょうか。

4 人権とは、人間のあるべき姿とは
  人間は、群れを作る動物であることから、群れの仲間から仲間として認められることがとても心地よく感じる生き物だと思います。自分が尊重されて安心して暮らしたいと願っていると思います。逆に仲間から排除されることによる、無自覚の不安・ストレスからの解放されたいと思っている動物だと思います。
  仲間の役に立つ自分

5 子どもという時期
  他の動物に比べて、人間は繁殖適性年齢に至るまで極めて長期です。大きな動物でもせいぜい数年で子どもを産むまで成長しますが。なぜ人間だけはそうはならないのでしょうか。
  進化生物学者によると、群れに協調して集団生活をするためには、脳が十分発達する必要があり、この脳の発達のために時間が必要だということが有力に言われています。
  脳科学からみると、危険を感じる扁桃体などは思春期に完成するのですが、いろいろな記憶を合成して、危険ではないと判断する大脳皮質はこれより数年以上遅れて20歳台に完成するらしいです。つまり、思春期の時期は、自分の危険に過敏になっている時期だそうなんです。自分が攻撃されていると思い易く、すぐに反撃してしまう。自分のそのころや子どもたちの様子を見るとよくわかると思います。危険を感じて反撃する子、キレる子、危険を感じて立ち尽くす子危険を感じたときの対処の方法は、個性と人間関係の状態で様々ですが、危険を感じて不安になりやすくなっているということは共通なのだと思います。

6 子どもの成長と生物としての人間の心理
  人間も他の動物と同じで、「自分のことは自分で守りたい。自分のことは自分で決めたい」と感じます。例えばネズミなどが人間に追いかけられたときは、大きなネズミに頼らず、自分の力で逃げていくことを選んでいますよね。どうやら人間も基本的には同じのようです。
  できるようになると(できないくせに)次々主張が始まる。これが反抗期です。歩けるようになると、自分で行きたいところに行くことを主張し始める。幼稚園に入ってお友達ができると、幼稚園の生活のことは自分で決めたくなる子が出てくる。これも個性でだいぶ違うようですが。思春期になって、繁殖の準備を始めると、男女問題を親から言われることは嫌がるようになるし、プライバシーを協力に主張するようになりますね。
荒野て考えると、大人になるということは、なにもできない赤ん坊から、自分の仲間を自分で決めて仲間と協調することができる大人への過渡期だということが言えるのだと思います。
 だから、自分で決めているという実感を本人に持たせないと、本人はなかなか動かないということがよくあるようです。意思を持っている人間であるから 意思を動かすことが大切ということにになりますね。
  この観点から虐待としつけの違いをみると、調教や虐待は子どもの意思を無視して、生命身体、人間関係の危険をあたえるという威嚇によって結論を押し付けることだということができるでしょう。しかし、この威嚇が消えれば効果も消えるわけです。教育・しつけとは、選択肢を与えることによって、結論に誘導するということになりそうです。
  教育基本法1条で、教育の目的を定めています。今までのお話を総合するとそのトップに、人格の完成を目指すとあります。これは「他者との協調性の獲得」という重視すべき面がある、あるいはそれが教育の目的だというようにも感じられるのです。
7 現代版「風の中の子供」
現代の文明社会は、物質的には豊かになったと思います。しかし、子どもたちは幸せになっているのでしょうか、例えば今年2月国連子どもの権利委員会は、さまざまな日本の子どもたちの人権状況について意見を述べています。その中で、過剰な受験競争にさらされているという指摘がありました。隣人との競争、なりたい職業は正社員という社会環境が受験競争の圧をかけているように思います。成績が良くなければうちの子じゃないみたいな条件付きの家族の中の立場ということは子どもの精神状態によくありません。親の不安の反映、雇用不安、精神不安等の愚痴、八つ当たりが子どもたちに影響を与えていることがニュースなどでも知らされています。
 子どもたちも毎日のように習い事があり、友達と遊ぶ時間、場所、精神的余裕が足りないようでうす。人格形成途上である自分を受け止めてくれる人間関係が不足している、未完成であることを責められる状態。子どもたちの帰属意識が不安定になっているようです。まるで落ちこぼれないために生きているような努力と緊張の毎日になっていないか心配です。

8 事例にみられるいじめの構造
  いじめは、いじめることもたちの不安の解消ということから出発することがよく見られます。友達が自分から離れていく分離不安(自分が否定されたという感覚)から、その子をいじめるということが少し前まで主流でした。過剰な正義感、例えば一人の子の落ち度を集団で責めるということも平気で行われることがほとんどの事例で見られます。いじめられる子の状態、存在に、例えば受験なんて関係ないやと伸びの生活しているお子さんや、勉強も運動も何でもできるお子さんをみていると自分が否定されている感覚になり、その子をいじめるという事案もありました。いじめられる子は、なんらかの弱者、孤立者など、反撃の恐れのない子をターゲットにしているという特徴があります。

9 200万年前の心を開放する
いじめ防止の働きかけをするときは、何か新しい考えをどこからか持ってくるというよりも、人間が本来持っていて、環境の中でスムーズに表れない、もともとの心を現代に引っ張り出す、利用するという方法が一番合理的であると考えます。共感モジュールとして説明したものです。
 例えば、他者の心情を考える訓練、遊び「こういう場合どういう気持になるか」ということを、「人の気持ちを考えなさい」とヒステリックに叱るとき以外にも考えさせるということ
 例えば、相手の感情を推量って行動を修正する訓練、親これはうれしいのか、ではこれを続けよう。親これは嫌なのか、では止めよう。やり方を変えようというシミュレーションですね。
 この時大事なのは、正義感と共感の折り合いをつけることです。部活をさぼったことは悪いことでもよいのですが、サボったからと言ってよってたかって非難するのではなく、何か原因があるのではないかという視点で、相談に乗るという方法をあらかじめ知っておくことも大切です。
 最近よく言われているのは、誰かの役に立つことの喜び、誰かに喜ばれることの喜びの誘導、誘発することです。この教育実践の一番やってはいけないことは、能力のある子だけが褒められ、やくに立つという実感を持てる、そうではない子が自分なんてとあきらめるような方法は害悪しかありません。どんな子どもでも何かの役に立つことを実感させることが大切です。他人の役に立つことは特別な能力が必要なわけではない。例えば一緒にいることなんていう、誰にでもできることが大切なんだということを教えることが結果とならなければならないと考えています。

10 大人の子どもへのかかわり方
   今の社会は、放っておくと、子どもたちが自分の立場に不安を感じる社会であるようです。どうか子どもたちの逸脱行動には、不安解消という行動原理があるのではないかと、叱る前にまず考えていただきたいと思います。
   そうして、寛容、許す、再び仲間に迎え入れる、こういうことに大きな価値を見出し称賛していただきたいと考えています。 
それぞれの立場において、絶対に見捨てられないという安心感を子どもたちに与えていただきたいと思います。余計な不安やストレスがなく、自分には絶対的な見方がいるという自信は、子どもたちを大きく成長させる基礎となるはずです。
   よく言われている命の授業とは、このような「人間の」命の授業であるべきだと思っています。
参考文献 「人体」上下ハヤカワノンフィクション文庫 進化生物学
   「まねが育むヒトの心」 岩波ジュニア新書 


うーん。1時間かかってしまいましたね。後半、時間がかかりすぎかなということで要点の私的に終わってしまいましたね。これを言葉で話す場合40分で収まるかどうかですね。
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人間が死んでも消えてなくなるわけではないという意味 自死、過労死担当弁護士としての経験論 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

自死や過労死事件を多く扱ってきて、
あるいは交通事故もそうなのですが、
私たち弁護士は人がお亡くなりになってから事件にかかわるのですが、
私は、お亡くなりになっているはずの方と
一緒に事件を考えている感覚になることがよくあります。

実際、無我夢中で事件と格闘していると
思いもかけない証人や証拠が表れたり
何が起きていたのか不意に頭に入ってきたりすることがあります。

経験論として、
人はお亡くなりになっても消えてなくなるわけではないのだなあと
感じていました。
色々なことがまたありまして
この考えはあながち間違いではないのではないかと考えるようになりました。
今回それを理論化してみました。

現代のお経のようなものだと感じているのですが、
これも何人かとの共同作業だということになりそうです。

****


人間は、群れを作らなければ生きていけない動物です。
家族、友達、職場の同僚等様々な人間の中で生きています。
だから、あらゆる人間関係から切り離した「自分」という存在は、
人間としての存在ではありません。

あらゆる人間関係から独立した自分というのでは、
色々な個性、特徴があるように見えても、
それは意味のあるものではありません。
自分では自覚していませんが、
個性、人格、人となりというものは
自分の人間関係の中で生み出され、維持されて
意味のあるものになっています。

人間が生きているということは、
自分以外の人とのかかわりの中で生きているということです。
意識することはなかなかできませんが、
自分とは
自分の関係する人間関係の中での自分のありようなのです。

だから、人間が生きているということは
自分が関わる人間関係の中に
自分が存在して、自分を形作っているということなのです。

あなたに関わっている人たちも
自分たちの関係の中にあなたがいるということで
あなたが人間として生きているということを感じて、
そのことによって、
その人たちも人間として生きているのです。

だから、人間は今の人間関係の在り方に悩むのです。
悩みを無くすため、せめて軽減するためには
自分と他者との関係を改善することが一番です。
もしそれができないならば
他の人間関係を重要なものと考えるという方法があるのです。

ふだん言われている人間の死というものは、
肉体的な死のことを言っています。
それは動物としての死です。
人間としての死とは少し違います。

人は必ず動物として死にます。
しかし、あなたが動物としても生きているときに
あなたとかかわりのある人たちと
一緒に生きてさえいれば、
あなたが動物として死んだとしても、
あなたのかかわりの中で、
あなたは確かに人間として生き続けます。

一緒に泣いたり、一緒に怒ったり、一緒に笑ったり、
あなたに相談をしたり、あなたに愚痴をこぼしたり、
人間として生きているあなたと
人間としてかかわり、生き続けます。

動物としての死を迎えても
全くいなくなるわけではありません。
消えてなくなってしまうわけではありません。


大切な人が死ぬことはとても寂しいことです。
取り返しのつかないことです。
でも、私が人間として生きているならば、
あなたも人間として活き活きと生きています。

だからこれからも、
私はあなたと共に生き続けます。

いつまでもいつまでも
私のそばで生き続けてください。
これからも変わらずあなたは私の大切な人です。

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一人暮らしの高齢者の万引き事件から考える高齢者問題とキハン意識の本質と孤独との関係 [刑事事件]

一人暮らしの高齢者の万引き事件から考える高齢者問題とキハン意識の本質と孤独との関係

<万引きができる仕組み>
<思考実験A>
<思考実験B>
<何が言いたいのか>
<高齢者問題とどんな関係があるのか>

<万引きができる仕組み>

何年か前から、郡部の警察署の方とお話しすると
高齢者の一人暮らしの方が万引きをする事件が多い
という話題が出されることがありました。

高齢者の心理については前回の記事でお話ししましたので
是非ご参照ください。
一人暮らしの高齢者のかんぽ生命被害の実例から考える高齢者問題 身近な将来の自分たちの問題
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-07-17

万引きをするときに多いのは、
理性のエアポケットが生じていることです。
何か激しい感情に支配されて
大切なことを考える理性が機能しない場合もありますし、
何も考えることができないアイドリングのような状態のときもあるようです。

共通することは、まさにその時
自分がすることは悪いことだ、だからしてはいけない
という気持が働かないということです。
これを「キハン(規範)意識が働かない状態」と言います。

犯罪を繰り返すとキハン意識はすり減って無くなっていくと扱われていますが、
そうでなくてもキハン意識が働かないことがありそうです。

これからちょっとだけ思考実験をしましょう。

<思考実験A>
あなたが、どうしても欲しがっていた小さな商品が目の前にあって、
将来にわたって絶対あなたが犯人だということはわからないという状況があった場合、
(これを具体的に想定できれば、何かの賞がもらえるかもしれません)
あなたは盗みをするでしょうか。

もちろんあなたが盗めば誰かが損をすることになります。

実験を抜きに推測でものを語るのが悔しいのですが、
もし自分が盗むことが誰にも知られなくても
多くの人は盗みをしないでしょう。
仮に盗んだとしても、なにがしかの後ろめたい気持ちになると思うのです。

そうであれば、あなたにキハン意識があるということになります。

<思考実験B>

逆に現実のあなたではなくて
あなたの周囲の人たち全体が混乱している特殊な事情がある場合、
例えば、あなたが数十人の仲間と共同生活している
かなりのサバイバル生活で
そのメンバー全員が
仲間のものは盗まないけれど
仲間以外の者は平気で盗み(カバンの置き引きとかでしょうかね)
その社会も盗まれた方が悪いという風潮がある場合はどうでしょうか。

もちろん、それが現行犯で見つかれば
警察に捕まり刑務所に行くこともあるのですが、
共同生活している仲間は、そんなことはしょっちゅうあるので、
警察や刑務所から出てくると再び仲間の中に戻れるという場合。

そういう生活の中にあなたがいるという
シチュエーションがしっかりつかめることができるかどうかに
この実験が関わっているのですが、
おそらく実験Aよりも、実験Bの方が
盗むという回答が多いのではないかと考えているのです。

<何が言いたいのか>

結局キハン意識というのは、
例えばキハン意識をもつことができないで盗みをしてしまうと
自分の仲間の中での立場が悪くなることが嫌だというように
自分が仲間から受け入れられ続けたいという意識が
それを守らせる一番の実現保障なのではないかということです。

仲間の中から転がり落ちたくないという気持が
共同生活のルールを守らせる原動力だということです。

但し、その仲間とは、現実の仲間というよりも、
自分の心の中で、仲間でいるための資格みたいなものがあって
それを失うことが怖いからルールを守る
という構造なのだと思います。

だから、周りも盗みをやっていて、盗んでも仲間は非難しないというなら
実験Bのように盗みをすることに抵抗がなくなるはずです。

この原理で起きているのが、
ルーズな会社の中での業務上横領事件です。
会社のお金で高額な使い込みをすれば事件になりますが、
みんながやっている程度のことは
悪いという気持が薄れていってしまって
不正に会社のお金を流用していることが多いのです。

誰かの業務上横領が発覚したら
その人の個人責任にしないで
会社全体のお金の使い方を点検する必要があることが実際です。

<高齢者問題とどんな関係があるのか>

高齢者が孤独だということを言おうとしているのですが、
客観的には違うだろうという反論もあるでしょう。
高齢者の多くに子どもがいて、孫がいて
必ずしも一人で生きているわけではないし、
万引きをして新聞報道でもされてしまえば
あるいは刑務所に収監されてしまえば、
子どもや孫の肩身も狭くなるわけです。

それはそうなんです。

だけど、実際には、なかなか子どもと会うこともできず、
電話もたまにしか来ない。
勇気を出してこちらから電話をかけると
「用事がないなら切るよ」と言われる。
たまに電話が来たかと思うと
「あれをやれこれをやれ、あれやるなこれやるな」
という指図とダメ出しばかり。
自分が認知症かどうかのチェックばかりされる
といういことではむしろ電話なんて来なくてよい
と思ってしまうかもしれません。

確かに親子関係や祖父母と孫の関係はあるのですが、
それだけで、
自分は「親子関係の中に帰属している」と感じるでしょうか
「子どもという仲間がいる」と感じるでしょうか

感じ方には個性の違いによってだいぶ違うと思いますし、
離れて暮らすという形態もいろいろ違うと思うのです。
一概に言えませんけれど、
でも一人暮らしの身になってしまうと
もう少し、所属感、仲間意識を満足させる方法が
実行可能な方法があるように思うのです。

万引きする高齢者の方も
自分の子どもの事情は分かっているので、
恨みに思ったり不満に思ったりということで
腹いせや当てつけで万引きするわけではありません。

「自分がだれかとつながっている」とか
「家族がいる」という
実感が持てなくなっているということからくるのだと思います。
仲間からの評価が下がるということに恐れを抱かなくなり、
盗むことにためらいが無くなる瞬間が生まれてしまうのでしょう。

一緒に暮らすことは
様々な制約があるということは
仕事がら嫌と言うほど見ています。
現実社会の中で
直ちにそれをするべきだということを言うわけにはゆかないでしょう。

しかし、一緒に暮らせなくても
何らかの方法で
自分が相手を自分の家族として気にかけているということを
相手にわかってもらうことはできると思うのです。

キーワードは明日は我が身です。

できるなら、顔を出すだけでも出すということを
家族で協力して、あるいは分担して行うことで
その行動を自分の子どもに見せるだけで、
自分が高齢者になったときの選択肢を子どもに与えることになります。

それは自分の老後の利益のためだけでなく、
自分の子どもが高齢者になったときに
孤独を感じない方法を提起することでもある
そう考えるべきなのでしょう。

家族で、そりゃあそうだなと
協力し合って
兄弟でも協力し合うことができれば
高齢者にもっと気遣う風潮が
社会の中にできてくるのだと思います。

孤独を感じている人は
案外身近にいるのかもしれません。

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一人暮らしの高齢者のかんぽ生命被害の実例から考える高齢者問題 身近な将来の自分たちの問題 [家事]



特に地方などでは、
都会に出て就職したり、しょっちゅう転勤したりと
年老いた親と離れて暮らす人たちが多く、
親もどちらかが亡くなる年齢になると、
高齢者が一人暮らしをしているケースが多くあります。

子どもからすると親の健康問題が一番の心配事ですが、
今話題のかんぽ生命の、必要のない保険加入で貯金がだいぶ減ったとか
不必要な消火器や高額布団、貴金属の購入、
そしてオレオレ詐欺というか特殊詐欺ですか、
一人暮らしだとそういうことの被害にあっているのではないか
という心配もあります。

そうかと思うと、近隣トラブルを起こしていたり、
万引きをして警察沙汰になったりと
後は自動車運転トラブルですか
被害の心配だけでなく加害者になる心配も出てきます。

何とかしなくてはと思うのですが、
自分たちの生活で精いっぱいで
どうすることもできないということで、
「あまり考えないようにする」ということしかできない
ということもリアルな話のような気がします。

不安をあおるようなお話になるのですが、
原因を考えて実現可能な対策を立てる必要がありそうです。

かんぽ生命の不必要な契約については
少し前から相談がありました。
事情があって一人暮らしをしていた高齢の父親が
必要のない保険に次々に加入して
莫大な保険料を払っていたというものです。

ところが、事件にはなりませんでした。
父親本人が被害にあったことを認めなかったからです。

どうやって必要のない保険に加入して
無駄な保険料を払わされていたのでしょうか。
どうして父親は自分が被害者であることを認めなかったのでしょうか。

高齢の父親は自宅で一人暮らしをしていました。
若い時は、固い仕事についていて、それなりの地位にありました。
心身とも年齢の割にはしっかりしていました。
一人で暮らすには十分な年金も支給されていました。

毎日が休日で、一日が長く感じられたことでしょう。
誰かと話をする機会もなく、
電話でのやり取りもそんなに頻繁にというわけではなかったようです。

そんなとき、郵便局からかんぽ生命の勧誘に
職員が来るようになりました。
おそらく久しぶりの人間との会話が
高齢の父親にとっては楽しかったと思います。

また、子どもたちのたまに来る電話は
心配のあまりなのでしょう
食事のこと、火の始末のこと、薬のこと
あれをやってはダメだ、これをこうしろと言う
さしずとダメ出しばかりで面白くない電話が
多かったのかもしれません。

勧誘をしに来る職員は
色々なことをほめてくれるわけです。
やれ男の高齢者にしては家がきれいになっているとか
元気そうでうらやましい、自分は生活習慣病でとか
働いていたときに、周囲からちやほやされた感覚が
よみがえってきたのかもしれません。
さりげなく、年金の金額や、貯金額なども
うまく聞き出していたかもしれません。

もしかすると、職員は、相手の感触が良ければ、
わざと保険の話をおざなりにして、
趣味の話を聞き出すなどして
話の糸口をつかもうとしたのかもしれません。

そうしてたびたび勧誘に来るようになると
一人暮らしの高齢者は
職員を取引相手だとは見ないようになり、
話し相手だと認識するようになります。

こうなると職員は、
保険内容を説明するよりも、
自分のノルマのことなどの話をどこかに刷り込んでいたかもしれません。
高齢者から見れば、
保険を契約することで、話し相手を助けることができる
という気持が芽生えていたかもしれません。

人間は「だれかとつながっていたい」
「群れの中に帰属したい」という本能的な要求を持っています。
これは、「仲間の役に立ちたい」という気持になって現れることがあります。
高齢者は潜在的に仲間のために役に立ちたいと
感じていると思うべきなのかもしれません。

ここで職員は、殺し文句を発するわけです。
この保険が下りることによって喜ぶのは
お子さんやお孫さんですよと
「お孫さんのために保険をかけてみてはいかがでしょうか」と

そう言われてしまうと
自分が何かの役に立つことができる
孫や子供が喜ぶことをすることができる
という人間の本能的な要求を刺激されてしまうわけです。

さしずやダメ出ししかしない相手だが、
なんだかんだ言って俺の子どもだ
俺が子どもや孫のために何とかしてやるんだ
という意識はとても幸福なものだったでしょう。

そして、目の前のこの人も助かる。

高齢者は、まるっきり騙されているように見えても
だまされているかもしれないということは薄々感じているようです。
それ程自分に自信があるわけではありません。
相手に自分と話をするメリットが無ければ
もうここには来ないということを知っています。

(高齢者の法律相談で、相談される内容として
遠く離れて音沙汰のない子どもよりも
毎朝声をかけてくれる近所の娘さんに遺産を渡したいと
まあ、イメージで言えばそんな相談類型が多いのです。)

一度契約が成立すると
職員が焦って頻繁に訪れない限り、
あとはどんどん契約をしてくれる
そんなことが起きていたようです。

おそらく高齢の男性にとって
無駄な保険料は保険料として支払ったというより、
話し相手に対する小遣いみたいな感覚だったのかもしれません。

また、現金を支払うわけではなく、
郵便貯金通帳からの引き落としなので、
どのくらい財産が無くなっていたのかは
通帳を記帳しなければわかりません。
その高齢の男性は、記帳しにいかなかったので
ずうっと貯金が目減りしていたことが分かりませんでした。

ある時公共料金の引き落としができなくなり、
子どもたちの知るところとなって、
この問題が発覚したというのが経緯です。

だまされたことを認めることが怖くて
通帳記帳をするのが怖かったのかもしれません。



このケースでは、お子さん方が皆さん遠方にいらっしゃった上、
今更同居ということもなかなか難しい事情がありました。
自分たちとしてはほっといているわけではなく、
気持ちの上では常に気にかけていたこともよくわかります。

ただ、高齢の父親としては、
自分の存在が忘れられているのではないかという
そういう無自覚の寂しさがあったようです。

例えば読書や釣りや映画鑑賞という趣味があっても、
それだけでは人間は生きられないようです。
誰かのつながりの中で
尊重されて生きていきたいという要求があるようです。

ただ、誰かと一緒にいればよいというのではないようです。
だから、老人のための施設に入っても
介護の対象となるだけの人ということでは、
孤独は解消しない危険があります。
むしろプライドを傷つけられるということが起こりそうです。
何らかの役割を与えられた方が
生き生きとするのかもしれません。

まだ、子どもと同居しても
さしずとダメ出しの会話しかなければ、
あるいは家の中に住んでいても
家族の外に置かれていたのでは
孤立感が拡大すると指摘する
自死対策の専門家の医師も指摘します。

同居や施設入所をすればよいというものではない
ということが言えそうです。
ここでも、家事や体調変化等で「死ななければ良い」
という考え方が、
人間として生活する喜びの追及を邪魔するようです。

お金をかけるとか、無理して同居するよりも
理想を言えば週に一度泊まりに行って
世話になるということが良いようです。

食事を作ってもらったり、
話を聞いて勉強させていただいたり、
世話になるということが良いようです。

仕事の話、家族の話
なんでも良いし、繰り返し同じことでも良いでしょう。

帰る時に
「ありがとう、また来るね」と言える過ごし方が理想です。
言葉で説明すれば、
親が自分にしてくれたことをねぎらう言葉を発するということです。

週1度は距離や家族の状態でなかなか難しいのですが、
月1度、2か月に1度
できるだけ直接会うことが大事なようです。

電話や動画電話も良いように思うのですが、
すぐに飽きてしまうことも多いようです。
高齢者の方が役割を発揮している意識になれないからです。

あくまでも実際の面会の「つなぎ」として考える方がよさそうです。
また、用事が無くても週に1度以上
決まった時間に電話をするということも良いようです。
この時は短い電話でもよいので、定期便はお勧めです。
今日は電話が来る日だなということで
あるいは明日は電話が来る日だなということで
安心することもあるようです。

自分が生きていくだけで大変な世の中なのですが、
高齢者になることは
運が良ければ誰にでも起こることです。
つまり、近い将来の自分のことなのです。

自分の将来が少しでも寂しくならないように
親を生きた教材として、
人間を大切にすること
自分が大切にされることの
訓練をするということであり、
自分が死んだあと子供や孫が
大切にされるための実践的練習なのかもしれません。

自分の親の共同作業になることが理想なのだと思います。

同居できないからと言って全て諦めないで
現実にできることはいろいろあるのかもしれません。

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命の授業と聞くと怒りをもって反発する理由 真の命の授業とは [自死(自殺)・不明死、葛藤]

命の尊さを教えることが大切だと
イジメや自死の予防の文脈で無邪気に主張する大人たちがいる。
そんな主張を聞くと不安や焦燥にかられる
これでは、自死やいじめは減らない。

命の尊さを誰に理解させようとするのだろうか。

自死を考えている子どもだろうか
そうだとしたら自死がどうして起きるのか
ということをまるで考えていないことになる。

自死は二つの側面で考える必要がある。
一つは、現在の困難な状況から逃れたいのだけれど
逃れられない事情があって
逃れたいという気持ちばかりが大きくなるものだから、
今の状況から逃れられたいあまり、逃れることを
命を維持することよりも優先したくなることから起きる。
それだけ追い込まれているということだ。

もう一つの側面は、
死ぬのはだれでも怖い
しかし、自分が尊重されないことが続き、
自傷行為や自死未遂を起こしながら
死ぬことの怖さに慣れていってしまうということだ。
これが客観的に追い込まれているということだ。

どちらの側面も無意識に、無自覚に
心のほうが変化していく。
自分ではその変化に気が付かない。

自分が命を大切にできなくなっていることに気が付かないから
命を大切にしましょうということを聞いても
「それはそうですね」ということにしかならない。

また、本気で自死をしそうな人に
命の大切さ、尊さを教えることが有効だというのならば、
自死する人は命を大切に考えない人だということになってしまう。
自死する人はこういうこともわからない人だという考えのように
思えてしまう。
これは差別と偏見を植えつける有害な考え方だ。

自死は追い詰められた末の、他の手段を思い浮かばなくなってしまう
そうやって起きる
追い込む環境によって、だれしも自由意思を奪われるのだ。
誰だってその環境におとしいれられれば
自死をしてしまうのが人間だと考えるべきだ

命を大切にしない人というレッテル張りをする人たち一人一人に
私は話を聞きたいと思う。

「いいや、いじめをする人に対して、命の大切さを教えるのだ」
という反応も来るかもしれない。
それこそおかしいと思う。

では、いじめをした人たちは、
イジメられた子の命をなくそうと思ったのだろうか
もしかしたら死ぬかもしれないけれどまあいいやと思って
いろいろな行動をしたということになる。
だから命は大切だというのだろうからだ。

それも違うだろう。
誰も殺そうと思ってやってはいない。

もう一つ致命的な誤解があるように思える。
自死につながるいじめというのが
強烈な暴力や辱めの行為が明確にあるという誤解だ。

自死は、何か強烈な行為があったことによって
起きるとは限らない。
小さな攻撃を執拗に繰り返した結果として、
例えば口をきかないとか
その人だけを非公式な集まりに呼ばないとか
そういうことが継続して
もはや仲間として尊重されることはないという絶望を受けても
人は自死をする。
こういう人たちは強烈のエピソードがないから
自死といじめの因果関係は確認できなかった
ということをいうような人たちだ。

多くの自死の危険のある環境を
平気で放置する人たちなのだろう。

命の授業と聞くと
特に生命誕生とか、命の価値とかいう話を聞くと
いじめ対策は
いじめで死にさえしなければよいんだという根性が
透けて見えるような気がしてならない。

その結果、
どんなに苦しんでも、どんなにつらくても
どんなに怖くても、どんなに悔しくても
とりあえず死ぬな、命は大切だ
苦しみ続けても、辛い状態が続いても
怖さが消えなくても、悔しい状態が続いても
命があればそれでよしという冷たい考えに思えて仕方がない。
追い込まれている人頼りの自死対策は
もはや対策とは言わないだろう。

それは無茶な話だ
それでは自死は防げない。

そもそも
いじめがなければそれでよいのか
死ななければそれでよいのか

もしそうだとすれば、
いじめはなくならない
自死はなくならない。

管理の立場から責任を追及されたくないということが主眼で
生徒の幸せはどこかに置き忘れられているのだろう。

命の授業なんて百害あって一利なしだ。

どうして命の授業なんてことを思いついたか
自死のメカニズムも
イジメのメカニズムも考えず、
つまり原因を考えて対策を立てるのではなく、
イジメによる自死をなくすという結果だけを求めたという
安直な発想だろう。

それによって、傷つく人が生まれ、
守ることができた人を
守る行動をしないで無駄なことをしなければならない。。
これでは時間がもったいない。

自死予防、いじめ予防のための授業ならば、
本当に教えるべきは、
生物としての命ではなく
人間としての命についてだ。

命があるのは、
家畜だってゴキブリだって同じだからだ。

人間が生きるということは何か
人間とは何か
それを大人が自分なりに教えるということが
人間としての命の授業だろう。

人間はひとりで生きられない
集団で生きなければ生きることができない
共存の形を教えるのが人間としての命の授業だ。
それが対人関係学だ。

人間が尊重されるべきだということ
人間の尊重の仕方
大切な人を安心させる方法
こういうことをこそ教えるべきだと思う

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「子の連れ去り」からの家族再生の開拓者たち。正しい夫からの卒業に挑む。思い込みDVシリーズ [家事]

私の場合、通常は「子連れ別居」という言葉を使うのですが、
今回は、「それにもかかわらず」感を出すために子の連れ去りと表記しました。

<家族再生派が増えていることとその理由>

ある日夫が仕事から帰宅したら妻も子も家にいない
もしやと思って実家に行くと警察がやってきて夫を制止する。
どこに行ったか分からないケースも多い。
やがて、保護命令や離婚調停の申立書が
裁判所から届き、
子どもに一度も会えないまま離婚になり養育費だけは支払わなければならない。
そんなケースが多発しています。

こういう場合、夫としては調停で怒りをぶつけて
最後まで法的に争うか
全て諦めて相手の言いなりになってしまうか
極端に言えばどちらかであることがこれまでの多数でした。

ところが最近家族再生を志向する夫が増えてきました。
なるべく話し合いで解決しよう

妻をできる限り安心させて、
せめて子どもとの面会交流を充実させよう

という方針の夫たちです。

理由は、子ども会いたいからです。

どんなに正論をぶつけて真実を立証しても、
妻が子どもを会わせることに協力しないと
現実には子どもと会うことができません。

裁判所で審判をもらっても
なんだかんだ言っても
やはり母親が頑として子どもを会わせなければ
会えないわけです。

面会できても、子どもも母親と父親の板挟みになって
苦しそうにしています。

そもそも、本当に真実に従い、
子どもの利益を考えた審判が出ると
信じ切るわけにはいかないという実情も大きいです。

自分と子供という大事な関係を
他人の判断に任せることはできない。

自分のできる限りやれることをやる
出来れば妻ともやり直したい
と考える夫が増えてきています。

そのためには、争わずあきらめず 家族再生の努力をするという選択をするわけです。

<家族再生夫の戦略>

家族再生派の戦略は妻を安心させること
先ずはこれに尽きます。

妻が自分のもとから去る理由が
自分を嫌悪しているからないし怖がっているからだ
ということを認めます。

但し、妻が怖がるのは自分が悪い場合だけではない
ということを腹に落とします。
*1
但し、但し、自分が「悪く」なくても、
自分の行為によって、妻の感情は悪化するし、
自分の行為によって、逆に妻の感情も緩和する

と考えるわけです。
意見の対立する相手にこちらの結論に同意してもらうためには、
結論を押し付けてもうまくいかない、
相手をこちらの結論に誘導することが必要だ
*2
そのためには、こちらが自分の行動を修正してみせる
それしか方法がないだろう
それがこちらの戦略です。

<思い込みDVの妻の不安の形>

ここから先は思い込みDVの事例を念頭にお話を進めます。

思い込みDVとは、
客観的には身体的暴力も言葉の暴力もないのに、
妻が何らかの暴力を受けていると感じているケースを言います。

その理由で一番多いのが「夫の正しさ」です。
結論からいうと
夫が正しいので、妻は
自分のことを自分が決められなくなる
これが不安を産む一つの大きなポイントです。

夫の正しさが息苦しさを生む構造は
後注で述べます。
*3

ただ、ここで押さえていなければならないのは、
正しいことを言う、相手の誤りを正すという場合は、
自分でも意外なほど、
相手に対して過酷な対応をしていることが多いということです。
相手を馬鹿にしたり、軽蔑したりしているように
受け取られてしまいがちだということです。

そして、厄介なことに、
自分では正義を実現しようとしている
という自覚がありません。
どうやって自分の気持ちを知るかというと
言葉でしかわかりません。
こうするのが「当然」でしょう
こうするのが「常識」だよ
「当たり前」、「普通は、」

これを言われてしまうと
妻は常識がないつまり非常識
普通ではなく異常
軽蔑されても仕方がない人間だ
と言われているようなものです。

当然仲間から普通以下だとか常識外れなどと
非難を受けたくはありません。
言われないようにしようと思うのです。

だから、これから何かしようとしたときに
例えば食事の準備の買い物をしようとか
子どもに服を着せて外出しようとか
一つ一つのことをしようとするときに
夫の小言を思い出して
ああ言われたらどうしよう、こう言われたらどうしよう
と思い悩むことが積み重なってしまうのです。

夫の言っていることがなんとなく正しいですから
だんだん自分が間違っているような気持にもなります。

その上で、あれをしろ、これをしろと
しないとまた普通ではない常識ではない等と言われると
一日中、夫から文句を言われないように
自分の行為を点検をしながら生活しなければならなくなります。

これは精神的に参ってしまいますし、
もう解放されたいという気持になっていってしまうことは
イメージできるのではないでしょうか。

ここまで極端に矢継ぎ早な指示とダメ出し
をしているわけでは実際はないのですが、
妻の側に事情があって
不安になりやすい状態の場合は、*1
一つの言葉でも、頭の中をいつも占領している
という状態になることがあるわけです。

<再生派夫の具体的行動 妻を安心させること>

一言で言ってしまうと、

指図(さしず)とダメ出し

が、妻を苦しめるということを
大きな柱として押さえておくことが必要です。

次に、別居してしまうと今更、指図とダメ出しはできない
と考えがちなのですが、
これがそうではない。

例えば調停などをしていると
陳述書や準備書面で相手に指図とダメ出しをしてしまう
ということがあります。

別居したことを責めること
例えば理由がないとかわがままだとかですね。
一人で子どもを育てることで子どもが幸せにならないこと
連れ去りだ、拉致だと責めることです。

責めないまでも、子どもにとって父親からの愛情が必要だと
教えさとすことです。

これらは、連れ去られた夫が一番言いたいことです。

「一番言いたいこと」をあえて言わない。

これをまた夫から言われてしまうと
妻は、夫はあいも変わらず指図とダメ出しを繰り返そうとしている
私は夫と会いたくない。同じ場所で息をしたくない
ということになっちゃうのです。
夫が「一番言いたいこと」は
妻が「一番言われたくないこと」だからです。
ここに最初の矛盾が登場します。

どうしても必要があれば代理人弁護士に言ってもらうとか。
調停委員会との内部調整でお願いするということになろうかと思います。

特に調停委員会が妻側を説得して子どもを父親に会わそうとしていて
議題はどうやって会わせるかということに移っているのに、
面会交流の必要性を話しを続けることは、
委員会に対しても窮屈な思いをさせてしまい、
なるほど奥さんは夫が嫌なんだなと印象を作ってしまうという
デメリットしかありません。

夫がやるべきことは妻を安心させること
指図とダメ出しをしないということを理解してもらうこと
それなのに、一番言われたくないことを言われることは
逆効果以外の何物でもないのです。

おそらく調停の議題は、
こちらは面会したい、するべきだ
相手は会わせたくないということなので、
「会わせるか会わせないか」ということで停滞することが多いです。
しかし、かまうことはありません。

「どうやって会わせるか」という議題に正々堂々とすり替えましょう。
つまり、子どもを会わせるように連れてくるためにも
母親の協力が必要だ
母親は子どもを夫に会わせることに不安があるので
会わせたくないと言う。
調停委員にそこはこちらも十分理解できると言ったうえで、
だから、こちら側が母親の不安をできるだけ軽減させて
母親をできる限り安心させて
母親に面会に協力してもらおうとしようとする
そのためにどうしたらよいか一緒に考えてほしい
子どもたちのために考えてほしい
というところから議論を始めるべきなのでしょう。

そうすると、会わせるか会わせないかという議論から
どうやって会わせるかという議題へとすり替えることができるのです。
ここを会わせるべきだということを繰り返していては
子どもは決して父親に会えません。

<母親を安心させる方法>

一緒に住んでいないのだから、
指図やダメ出しをしませんと宣言されても
妻は安心をしません。

妻に
「ああ大丈夫かもしれないな。悪いことは起きないのかな」
と思わせなければならないわけです。

指図やダメ出しというマイナス行為をしないのではなく、
プラスの行為をすることを提案することが理想です。
一緒に住んでいなければどちらも難しいです。

それでもやるしかありません。
一つには、面会交流の具体的イメージを語ることです。
希望がどのくらいのペースでどのくらいの時間を行うのか、
ということはもちろん
例えばどこでどういうことをするのか
ということもなるべく具体的に提案することが先ず基本のようです、

次に、面会交流の際の遵守事項をこちらで先行的に誓うことです。
誓っても何も不利益がない上に、相手は多少安心するようです。
例えば、母親の悪口は言わない
生活状況を尋ねない
父親に会えないことが母親の意思だと言わない
(お母さんが良いと言ったらもっと会えるよ等)
こういうことは、子どもにとって有害な話なので、
子どもためにやめましょう。
後は、高額のプレゼントを送るときは母親の了解を得るとかですね。

こういうことを言われないうちにやる
ということです。

もちろん、養育費を毎月支払うことも言われなくてもやる。

そうやって、相手が一番嫌がる
子どもを連れて別居したことを責めないで容認する
という姿勢を示すということなのです。
心から容認することはできませんから形だけするということですね、
心は後からついてくればそれでよいわけです。

子どもに対する手紙を書くということも
有効な場合があります。
子どもに対する手紙の中で、母親の言いつけを聞けとか
母親を立てることを書くということですね。
母親に対して、子どもに渡してもらうときも、
一人で子育てをすることの感謝とねぎらいをする。
父親にとって嫌なことをさせようとしているわけですが、
それが母親にとって安心する材料だということになるのでしょう。
どうにも皮肉な話です。
おそらく何回も「心は後からついてくる」
とお題目のように繰り返すことになるのでしょう。

ただ、手紙の中で、どうしても、
夫の言いたいことを言ってしまう危険があります。
出来れば代理人と内容について吟味を重ねて良しとなったら提出
という慎重な態度が求められます。
手紙も代理人を通じて相手方代理人に送る方が無難です。
こういう手紙を出したということを
裁判所に提出して調停委員会にも隠さず見てもらい助言を受ける
ということも有効です。

そんなこんなして、子どもと面会交流が実現しても
気を許してはいけません。
「夫の言いたいこと」を言ってしまうのはこの時です。
逆に、言いたくないことを言うことで面会交流が
時間的に場所的に拡大していくことも少なくないのにです。

ここで言いがちな正しい夫の言葉は、
例えば、
「風邪ひいて微熱があるのに
 なんで面会に連れてきたんだ。」
というのが典型的なものです。

そうです、「夫の言いたい言葉」、正義というのは、
本当は、夫なりの愛情表現なのです。
相手のために良かれと思って言うことがほとんどなのです。
だけど、言い方が悪くて
あるいは正義による無意識の攻撃的言動や
相手のとらえ方に問題があるとか言う理由で*1
それがねじれて伝わっているだけのことが多いのです。
本当はそうなのです。

どうやら、愛情を本能のままに表現することを
セーブするということが大事なようです。
私たち不器用で恥ずかしがりの男たちは
女性に人気がある男性の口先だけのようなわざとらしいセリフが苦手です。
でも、受け取る方はそちらの方がよいようなのです。

夫は言い方を考えなければなりません。
さっきの事例で
色々な無理な事情があるにもかかわらず子どもが面会に来るときは、
子どもの年齢にもよりますが、
父親に会いたいという強い意思に基づく場合が実は多いようです。
父親に会いたい事情があるという言いかえもよいかもしれません。
元々会いたいのですが、
その時、たとえ面会が布団の中で休んでいるだけだとしても
父親と一緒にいたいということがあるのです。

母親側も、親切というより義務感によることもあるかもしれませんが
子どもを会わせなければならないという焦りもあるかもしれません。
夫に悪いから会わせてあげようという鬼の霍乱もあるかもしれません。

夫は一言、無理しなくても大丈夫だよ
と言ってあげればよいのです。

それを、
こういう時は家で休んでいるのが常識だろうとか
ふつうはこうするとか言って
つい正義感が無意識に出てきてしまい、
相手を圧迫してしまうし、

子どもも面会が億劫になったり、
自分のことを大切に思わないのだろうかと思うこともあります。

母親側もじゃあどうすればいいのだ
と混乱してしまうわけです。

相手の判断を尊重するというところが
親切心ゆえに難しくなるというのが
思わぬ落とし穴なのです。
失敗が多い人は
相手に話をするときは
紙に原稿を書いてから
電話をしたリ、メールをしたりした方がよいのです。

<家族再生は無駄ではないこと>

これだけ言いたいことを我慢したり
言いたくないことを無理して言っても
離婚を回避するという意味での家族再生は
なかなか難しいということが実態です。

特に35歳を過ぎると難しいです。
でも、たとえ一度離婚をしても、
曲がりなりにも面会交流が続くということに
つながっていくようです。

安心感を積み重ねていけば
面会交流の時間も場所も拡大する傾向になります。
ルーズになるわけです。
だから、面会交流調停の取り決めは
小さく生んで大きく育てろといわれるわけです。

一番言いたいことを言わずに
一番言いたくないことを言う
こころは後回し
という技術が高まっていけば
面会交流をするたびに
相手は安心感を積み上げてくれるわけです。

離婚を受け入れて
相手の面会交流のめんどくさいから一回パスも受け入れた人は
離婚調停成立前に祖父母同席の面会交流が実現し、
離婚調停から3か月で宿泊付きの面会交流に拡大し、
子どもを父親宅に泊めるというところまで拡大しました。

もうこうなると、心が一緒についてきて
お互いに感謝の応酬という
その先を予感させる事態も起こっているのです。

家族再生は困難な道のりですが、
トライして損はないはずだと
頑張っている人たちを応援していて実感しています。

*1 
存在しない夫のDVをあると思いこむ心理過程 思い込みDV研究
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-12-04
もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12
妻は、意外な理由で、実際に夫を怖がっている可能性がある。脳科学が解明した思い込みDVが生まれる原因
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-07-17

*2
北風と太陽の本当の意味、あるいは他人に対する優しさと厳しさの具体的意味
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-05-18

*3
<夫の正しさが息苦しさを産む構造>

これから言うことは、人間に限らず動物全般に共通する心理です。
ただ、リアル感を出すため、あえて「人間は」という言い方をします。

人間は、危険を察知して、無意識に生理的な変化を起こし
危険から解放されたいと願い、
危険から解放されるための行動を行います。

(この「生理的変化」こそがストレスなのです。)

ところが、危険を察知しないにもかかわらず、
ストレス反応が起きる場合があります。

代表的には、危険が来た場合に対処できない場合です。
例えば目隠しをされた場合、逃げることができなくなります。
何か危険が迫っているということもないはずなのに、
何とも言えない恐怖が襲ってきます。
手足を縛られて、放置された場合も恐怖を感じるでしょう。
何か具体的な危険が迫っていなくても
わけのわからない危険が迫っているような
そんな感覚になってしまいます。

食事や睡眠や排せつの機会を与えられ続けられたとしても
目隠しして手足を縛られ続けられたら
ストレスで精神的に参ってしまうと思います。

極端な話、妻は
そのような精神状態になっていることがあるようです。

つまり、自分で自分のことを決められないと感じると
危険がないにもかかわらず、
危険が迫り来ても自分でそれを振り払うことができない
と感じているのだと思います。

<妻の不自由感の生まれる構造>

妻はなぜ自分のことを自分で決められないと思うのでしょうか。
どうやら、自分で決めることが怖くなるようです。

どうして自分で決めることが怖くなるのでしょう。
自分で決めたことをいちいち否定されるからです。
帰ってくるなり玄関が乱雑になっているとか
食事の準備をしていれば匂いがどうのこうのとか
カーテンを変えれば、勝手に買ったことを怒られ、
自分の買ったレシートを見つけ出しては金額に文句を言う
子育てについては、自分の気に入らないことがあれば反対し、
子どもの前で叱られたりする。
クレジットカードの申込書の書き方が分からなければ馬鹿にされ、
やることなすこと否定され、ダメ出しされていけば
自分が何かをすると夫から否定されるということで
もう嫌な気持ちになっていくわけです。

さらに帰宅前に、細かいことを
あれをやっておけ、これをやっておけと指示されてしまうと
自分の予定も立てることができません。

これは大変つらいことでしょう。

暴力なんかふるわなくても
人格を否定されている、
どれがとは具体的には言えないけれど
精神的虐待を受けている
という気持になっていくのはよくわかると思います。

夫の目を気にして、自分のことすら自分で決められなくなる
ということは理解しやすいように思います。



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家族の中に他人を作り家族を分断させる「呪い」の思想 [家事]

 

現代日本の家族関係は、大変もろいものです。
自分は夫から、妻から、親から子から、
一段低い人間だとみられていないか
自分だけ損をさせられているのではないか
と考えてしまって、
家に帰ることが安らぎにならないということが
すぐに起きやすくなっているようです。

一つは家族の人数が少なくなっていて
相手に対する依存度が大きくなっていること
このために家族の自分に対する評価を過剰に気にしてしまう。
人数が少なくなった家族生活のノウハウが無く、
これまでの人間を大切にする生活の知恵も継承されない
というところにも原因があると思います。

もう一つは、家の外の学校や職場が
とても安心できる人間関係を築けない上、
外のストレスが、家庭に持ち込まれやすくなっていることです。

放っておいたならば家庭は機能しません。
意識的に家族という人間関係を作っていく
という作業が必要な時代だと思っています。

家族という群れの強い一体感を作る必要があるのです。
「私たち」という言葉で語られる居心地の良い関係を作る
そういう作業を意識的に行う必要があると思います。

ところがこれに逆行して
家族という人間関係を他人に変えることを良しとする考えが
かなり影響力を持っているということを知りました。

先日地元の有力紙の書評で、
「炊事、洗濯、掃除、子育てに介護が
女性の無償労働行われていて、
その原動力は、外部から注入された「愛」だ
どれだけ尽くしているかで愛をはかられる
だから苦しい」
という一文を読みました。

これはすさまじい「呪い」だと感じました。
もしかしたら、悩んでいる妻たちに対して
「それは夫のモラハラのためだ。精神的DVだ。」
という人たちも同じようなことを考えているのではないか
と思いつき背筋が凍るような思いをしました。

この論者は物書きだそうですから、言葉は正確なのだと思います。
そうすると
炊事、洗濯、掃除、子育てに介護を
無償で行っているということを非難していることになります。

論者は、家事に対価を要求していることになります。
この発想は
すべての労働は対価を要求できるという論理を
前提にしています。
それでは外で働いて給料を家に入れている男性は
誰にどのような対価を求めればよいのかということになってしまいます。

家族のための行動に対価を求める発想は間違っています。
お小遣いをもらって家事をする子どもは別ですが。

あまりにも資本主義経済に毒されている発想です。

資本主義経済体制において賃金を取得するのは、
「他人のために自己の労働力を提供する」からです。

極端な話からはじめると
人間が自分で生きる営みに対しては
誰も対価を要求しません。
例えば一人暮らしの場合、
買い物に行くのも、調理をするのも、食事をするのも、排便をするのも
誰も対価を要求しようとしません。

次に
自分の子どもの子育てをする場合も
授乳、おしめ交換、沐浴、衣服の購入と着替え
おそらく誰かに対価を要求しようと思う人は
本気で思う人はいないといってよいでしょう。

つまり、自分たちのための行動であれば
あるいは仲間のための行動であれば
人間はそれをやりたくてするものであり、
対価を望んで行動するわけではないのです。

ところが、論者の論調は、
家事労働が無償で行われていることを非難してみせることで、
あるいは少なくとも否定的な評価をすることで、
家族の営みの中に
他人性を滑り込ませているのです。

実際に対価を求めなくても
こういう考えが頭の片隅に引っかかると
夫婦は「人間の群れ」としては成り立たたなくなります。

人間は言葉のない時代から群れを作ってきました。
群れとして成立する原理は、言葉ではなく
法律や道徳でもなく、
群れを作るための感情をもっていたからです。

つまり、ずうっと仲間でいたいという感情と
その裏の関係にある仲間として認められないと感じたり、
仲間から外されると感じたりすると
恐怖や不安を感じるシステムが組み込まれていたのです。

共感する能力を背景として
仲間が困っていたら自分のこととして助けたくなり、
仲間が喜んでいたら一緒にうれしくなる。

群れの中の弱い者を保護しようとする感情

このような共感モジュールが遺伝として継承されて
群れを形成してきたと考えるほかはありません。

だから、見返りを求めることなどなく、
仲間のために自分のできることをした
その結果仲間が喜べば自分もうれしいし、
仲間が苦しみを味あわなくてよくなれば
自分もほっとしたはずです。
こうやって人類は群れを作ってきたと思います。

いちいち対価を期待して群れに奉仕するならば、
言葉のない時代に群れは成り立ちません。
即時交換でない限り、
具体的な労働力の提供を記録する方法もありません。
対価を要求して仲間割れになり
群れなど作れなかったことでしょう。

その結果、人間は飢えたり、肉食獣に捕食されたりして、
今よりもずうっと前に種が滅亡したはずです。

だから
仲間のための役に立ちたいということが
人間の本性だと考えます。
仲間のための行動に対価は本質的に必要ないのです。

心が形成されたとされる200万年前の狩猟採集時代は
自分と仲間の区別もあまりつかなかったと思います。
自分の利益は仲間の利益とほぼ完全に一致していました。
生まれてからの付き合いなので、
仲間の感情は手に取るように予測できたはずです。
「自分は」という自分だけを主体として発想を持つことはあまりなく、
「自分たちは」という言葉でものを考えることが
圧倒的に多かったことでしょう。

自分たちと言える仲間の中にいることが
人間にとっては安らぎでした。

ところが論者は、
最も基本的な人間の群れである家族の中に
「私たち」という文脈を否定して
夫と妻を、対立する「個」として分断します。

論者とは異なり、
人間の本性として
家族のために食事を作りたいという男女は多く、
家族みんなのために掃除機をかけるという感覚の人間がほとんどでしょう。
家族の洗濯を一度にするという家庭も多いのではないでしょうか。

それにも関わらず、論者は、
対価を獲得しない労働は損をさせられている
という考えを導入し、家族の仲間を他人にするのです。
本当は、大げさな話ではなく人間の本性なのに、
「それはあなただけ損をしている」
というささやきを繰り返す。
そのささやきに抵抗できず、
「それは愛だ」と答えるや否や
論者たちは、
愛というのは幻想であり、
女性が男性のために奉仕するための「構造的差別」の道具だ
と断言しているのです。

人間の本性を浅はかな理屈で否定するのですから
まさに呪いです。

私たちという仲間の中にいることによって得られる
安らぎ、癒し、充実感という人間の本性的に基づく機能は、
家族が分断されて、個としての対立を際立たされてしまうと
それができなくなってしまいます。

家庭が休まる場所では無くなり、
「自分が損させられている」
という感情が次々に押し寄せてくるようになるでしょう。
「自分は馬鹿にされている」と思うようになるでしょう。

まさに呪いです。

呪われた結果、
何をやっても、自分が誰かに強制されて行っている
家族のための行動に罪悪感を覚えるようになり、
仲間に安心を与えたという喜びは感じられなくなります。

「今いる家庭から逃れたい」
という病的な志向を抱くようになるのももっともです。

これを呪いと言わずして何と言いましょう。

考え方ひとつで
幸せを奪われる人もいるのです。

一度かかった呪いは簡単には解けません。
繰り返し安心感を与えるという
頼りない作業を続けなければなりません。

それでは、女性という人格は
家族の中に埋没する従属的立場なのか
という批判が予想されるところです。

ところが、
それは全く逆なのです。

そもそも、対等の仲間としての群れであれば、
誰が支配するということありえません。
お互いの行動を尊重することが
本来の群れです。
突き詰めて言えば、これが現代社会の日本では
なかなかうまくできないのです。
まだまだ時代の過渡期で、
現代の家族制度に対応しきれていないと考えるべきです。

また、論者の発想こそが
依存傾向の強い人間の発想で、
人間関係を支配と従属でしか考えられない人の発想です。

論者は幼いころから
誰かから評価されたい
という意識を強すぎるくらい持って生きてきたのでしょう。
小さいころから「良い子」だったのだと思います
良い子というのは「親にとって都合の良い子」です。

学校でも良い子、世間的にも良い子でいることに
自分の価値を見出してきたのでしょう。

だから、他者から女らしくしろと言われたら女らしくして、
愛に絶対的価値があると言われれば
愛が足りないといわれることを恐れるのでしょう。
個として確立していない時期に、
目標を他人から設定されて
疑問を持ちながらもとりあえず従ってきたわけです。

だから、他人から「愛が足りない」と言われることが苦しいのでしょう。
社会一般の評価など、本来どうでもよいことです。

自分の行動によって
家族が安心して生活できれば
それでよいはずです。
他人などどうでもよい。
自分のできる範囲での行動で足りなければ
家族を動かして解決すればよいし
家族だけで足りなければ
もっと大きな仲間を作ればよいのです。

依存傾向が強い人は、
夫から評価されることを過度に求めます。

夫から否定されることを恐れて
夫に働きかけないで、
不満ばかりためることになります。
夫が自ら察して解決してくれないと
非難を始めたりしてゆきます。
子どもが親にするように夫に依存してしまっているのです。

依存傾向の強い人が家族から切り離されてしまったら、
個人として確立した人間になるのでしょうか
それは難しいでしょう。
違う誰か、つまり実家や行政や宗教、あるいは自分の幼い子どもと
別の依存相手を探すだけである場合が少なくありません。

夫も妻も、
自分に頼り切っている相手に喜びを感じていたら、
相手はやがて評価を気にしすぎるようになり、
あなたが負担になりすぎて、
一緒にいることが苦しくなる
その結果逃れていきたくなることもある
ということに気づきましょう。

相手が自分の判断で何か実行したことを尊重すること
相手の裁量権を広く認めることこそ
相手が家族のためにしたことは文句を言わない
ということが長続きするコツのようです。

仲間の一体化と従属は全く違います。
相手に裁量権を認めることも
自分が個として確立して初めてできることかもしれません。

家族を分断することはとても簡単に行われています。
呪いがかかった家族を再生することは困難なことです。
しかし、現代社会では家族の再生、再構築が
どうしても必要なことだと考えています。

私たちの幸せのため
敢えて困難な道を作り上げようではありませんか。

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