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子どもの納得も、友達とのお別れもできない居住環境の変化をしいることは、子どもから見て、やはり連れ去りと言うべきかもしれない理由。子連れ別居における子どもの精神的負担の構造。 [家事]



特に母親によって、家族が住んでいる場所から
父親の了解も、予告すらなく、
突然子どもを連れて実家その他に別居する
という事件が一向に減少することはありません。
家庭裁判所の事件もやはり減りません。

しかし、家庭裁判所においては
大人の都合ばかりが議論されて、
子どもの幸せについては議論があまりなされていないような印象があります。
自戒の意味を込めて
子どもの心理的負担という観点から
突然の子連れ別居の弊害について検討したいと思います。

では、

人間は群れを作る動物です。
普段私たちはそれを意識しないのですが、
「自己」について意識する時には、
自分以外の他者との関係の中での自分ということを
考えているものです。

人間にとって「自己」についての感覚は、
自分以外の他人と自分との関係の状態によって
形作られていくものだとされています。(*1)
自分が生きている意味を感じ、充実感を感じるのは、
他者との良好な関係を保っている状態なのでしょう。

逆に誰ともつながりを持てなくなってしまうと
精神的に不健康な状態に陥るわけです。
それが、PTSDの本質だという研究者もいます。

子どもも同じです。
特に幼児期までは、両親との人間関係が大切で、
意識がなされなくても
自分の空腹や痛みや不快などの感覚に対して
両親などが改善してくれることによって
安心感を獲得していきます。
この体験は後々も
基本的に人間関係は安心してよいのだ
という自信や自己肯定感につながる基礎となる重要なものです。

幼児であっても、
常に両親が自分の周囲におり、
あるいは決まった時間に自分の周囲に戻って時間を過ごす
という人間関係の中で安心感を獲得していくわけです。

徐々に幼稚園や学校、あるいはスポーツ少年団や習い事の
友達や教師との関係を増やしていき、
予測可能な、「いつもの人間関係」の中で
安心感の輪を広げていくわけです。

安心感というのは予測可能性が前提になるでしょう。
何年か共同生活をしている学校などの友達は、
こうすれば機嫌を直してくれるとか
こういうことを言わなければ問題ないとか
予測可能な仲間です。
人間になじむということはそういうことなのでしょう。

そうして、安心できる人間関係の中で
「自己」という存在が形成されていくわけです。
例えば友達の中での役割を果たしていきます。
率先して行動を提案する役割、
みんなを勇気づけて行動を推進する役割
黙って作業を進める役割
あるいは意見が衝突する場合に調整をする役割、
自我を通さず全体に協力する役割

面白いようにそれぞれ個性があり、役割を果たしています。
これが「自己」という概念を形成するということだと思います。

友達だけではなく、先生との関係も重要な自己形成でしょうし、
通学路や近所の猫や犬に対するお世話をする
ということも自己形成に寄与しているように思われます。

生き物だけではなく
自分のおもちゃだったり、趣味の道具だったり
あるいは部屋のレイアウトだったり、小物だったり
物に対しての愛着も自己形成に重要なアイテムであったりすることがあります。

これまで子どもには人格が確立していないということで
子どもの「自己」に対して考察が十分でなかったような印象があります。
人格が確立するのはハイティーンの頃だとしても、
人格の形成にとってはなおさら、
このような安定した環境において自己形成をしていくことが
大人以上に重要なことなのだと思います。

もちろん、私の子どもの頃は高度成長期のただなかで
転勤や引っ越しが多く、ほとんどが転校生という状況でした。
ただ、その場合も
突然の引っ越しということはあまりなく
きちんとお別れをして、
別れても友達だという確かな思い持つことによって
距離的には別れ別れになるけれど心ではつながっており、
自己形成のための重要である人間関係であり続けていた
ということがあったのでしょう。

そのような心の区切りがつくことで
あたらしい人間関係になじんでいくことができるのだと思います。

さて、
現在よく行われている子連れ別居は
そのような心の区切りを子どもが持つことができない形で
突然行われます。

ある場合は、何が何やらわからないまま家を出て
気が付けば自分の母親や母方の祖父母等
大人ばかりの環境の中に放り込まれてしまいます。

しばらく大人ばかりの環境にいると
学校に通わないことはまずいということで
自分の意思にかかわらず
その地域を管轄する学校に編入させられ
見ず知らずの子どもたちの中に自分が置かれてしまうわけです。

子どもにとって、親が一人
自分の周囲からいなくなったということ自体が
精神的に混乱と恐怖を与えられることですが、
どうやら学齢に達したころになると
友人たちからの離脱が
さらにその混乱を大きくするようです。

子どもにとっての友人関係は
その中に自分がいる場合の友人関係しか想定できません。
自分抜きに、自分のポジションがぽっかり空いた人間関係は
想像することができないようです。

逆に、その友人関係の中にいない自分
ということもイメージができないようです。
自分が何か、現実に地に足のつかない存在になったように
頼りなく感じてしまうようです。

子どもの発達の状態や、人間関係によっては
色々違いはありそうですが、
それだけ小学生にとってのクラスの友達は
「自己」と切り離せない存在のようです。

また、地域の犬や猫、植物や小物、なじんだおもちゃ
それらとも突然に分断されてしまいます。

確かに、新しい居住環境でも子どもは、
祖父母や親せきの大人たちの与えたおもちゃを使って遊ぶでしょう。
それしかないからそれで遊んでいるわけです。

小学生の遊びは、
友達と同じおもちゃで遊んでいるということで
一人遊びをしているように見えて
友達とのつながりが形成されている場合が多いのです。

このおもちゃを楽しみながら
明日友達に話すことを想定しながら遊んでいたりするものです。

祖父母や大人たちから買い与えられたおもちゃにはそれはありません。

子どもからしても
既に小学校に通い始めている場合は
母親が一緒にいればそれでよいと考えることはできません。
子どもながらの社会があり、
社会の中での自己形成が始まっているのです。

友達や動植物や自分のなじんだ物から分離させられることは、
実は、自分だけ別の場所にいるということではなく、
自分の一部分が切り取られるような辛さがあるわけです。

あたらしい友達ができればよいというわけでもありません。
なぜならば、新しい学校の子どもたちは
自己形成に関与した人間ではないからです。

また、予測不能な自分とその子どもと
お互いに予測可能性のある子どもどうしとは
明らかに一線が画されています。

あたらしい人間関係を作ることは大人とは違います。
大人は、それぞれの人間関係を
ほどほどの距離で結びつけることが可能です。
ところが子どもはそのように器用な交際はできません。

これまでなじんだ人間関係の形成を求めてしまいますが
それができないためにあきらめてしまうこともあるでしょう。

また、自分がなじんだ人間関係から
突然、理由もわからないままに分離されるという体験は
深刻な影響が与えられる危険があります。

自分が納得して友達や先生と別れを迎える場合は
別離が起きる場合、条件というものを理解することができます。
ところが、自分にとって突然の別離となる場合は
別離になる場合が想定できません。
こういう場合
ある日ある時、突然人間関係は消滅するのだ
ということを学習してしまう危険があります。

この結果、特定の人間と
親密な人間関係を形成することに恐れを抱いたり
初めからあきらめてしまうということがあるようです。
特に人間関係をすぐあきらめてしまう
という傾向のある子どもたちや大人が報告されています。

これは、その人たちの子どもにも連鎖がおきてしまっています。


突然の居住環境の変化
しかも子どもがしっかりと納得しないままの変化である場合には
このような弊害が子どもたちにあることをしっかり想定しなければなりません。
もちろん、子どもの弊害を考慮しても
行動を起こさなければならないという
極めて例外的な異常事態ということはあるでしょう。

現在の家庭裁判所の実務は
このような子どもの弊害については
無かったことにして議論が進められているように思われてなりません。
きちんと弊害は予想しなくてはならず、
弊害はあるけれどそれを上回る子どもの利益があるという場合に
子どもの居住環境からの分離が肯定されなければならないはずです。

ところが、大人の都合が優先されて
子どもの都合は実質的には何も考慮されていないのです。
母親にとってやむを得ないから分離もやむを得ないというのであれば
子どもは母親の付属物になってしまいます。

それは子どもの幸せが
母親といることと同視されてしまっている
つまり母親に従属するべき人格だということを意味しており
人間に対する深い考えがない
子どもについての配慮が全くないということです。

母親の多くは、
子どもに対してこれらの精神的苦労を与えたいとは思っていません。
子どもの不利益を回避したい方法があるならば
その方法をとりたいと思っています。
そのために話し合う方法こそ大人や法律関係者は作り上げていくべきです。
このような努力は感じられません。

もし、あなたが夫から離れて暮らしたいという場合、
相談した相手があなたの心に「寄り添う」ばかりで
子どもの不都合について何ら言及もしない場合は、
結局子どもの苦しみは子どもの自己責任とされていることです。
その人のアドバイスを聞くことはやめるべきです。

子どもが今いる環境を温存しながら
大人の希望を考える人のアドバイスことを考えた方が良いと思います。

結局あなたに寄り添っているように見えている人は
子どもだけでなく、あなたの利益も考えていないのだと思います。
経済的利益や、自分勝手な思想、未熟な思い込みを
あなたに押し付けているだけの場合が少なからずあるように感じます。

子どもの不利益を考えた上で、行動を実行する
それが最低限求められていることなのだと思います。



*1 この文章をはっきり自覚したのは、J.L.ハーマンの「心的外傷と回復81頁」でした。かなりの衝撃を受けました。人間とはこのようにつながりの中で生きる生物のため、精神的外傷体験は、このつながりを絶たれた孤立状態をまねき、心的外傷の回復はつながりを回復する過程だという主張は私のその後の生き方を変えました。

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