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「あなたも悪いところがある。」ということを言えない支援者は支援をやめるべきだという理由。但し、問題は言い方ということについて。 [事務所生活]



DV相談マニュアルなどには
「『あなたにも悪いことがある』と言ってはならない」
ということが記載されていることがあります。
これは大間違いです。それについてご説明します。

おそらく、なんでそういってはダメなのかわからない人が
マニュアルを作っているから
そんなマニュアルの言い回しで良いと思っているのでしょう。
また、それを形式的に真に受ける自称支援者がいることも確かです。

先ず、どのように言うことが相談者にとって有害なのかを説明しましょう。

一番の問題は、
相談者の話を長々聞いた後、
「あなたにも悪いことがあるから」
「我慢しなさい」とか
「気の持ち方ではないですか」
等と言って相談が終わってしまうことなのです。
これは確かにダメです。

ダメな理由1 
相談者もこんなことは言われなくてもわかっています。
自分にも悪いところはあるだろうと思わない人はいないので、
こんなこと聞くために相談に来る人もいません。

言わなくても良いことを言われた相談者にとって
長い時間、恥ずかしさも振り捨てて相談した「あの時間は何だったのだ」
という徒労感しか残りません。
他人に相談することは時間の無駄だということを
学習してしまうことになります。
誰にも相談しようとしなくなり
悩みを一人で抱えているうちに悩みが肥大化していってしまいます。

ダメな理由1は、解決の方法が全く示されていないということです。

ダメな理由2
わざわざ他人に相談に来ないわけにはいかない心理状態ですから、
苦しんでいることは間違いないのです。
先ずは共感を示すことが必要です。
それが相談対応の第1歩です。
最低限必要なことは
「共感をする」ことではなく「共感を示す」ことです。

間違いのない表現は
「あなたは苦しいのですね」と確認することです。

そうして次にどうしたらよいか一緒に考えるということになります。

ダメな理由2は、共感を示さないことです。

この二つがないのだから、およそ相談でも支援でもありません。

なぜこのパターン、「傾聴、共感を示す、一緒に考える」
ということができないかということを考えるべきです。

担当者に相談者の苦しみが伝わってきていないのです。
あるいは共感ができないのでしょう。
相談者を「気まま、ワガママ、子どもじみた自己中心的人間」
だと思っているのです。

そう思わせてしまう相談者の相談事は確かにあります。
しかし、それは話し方が下手なだけであり、
実際は深刻な事態の中で孤立していて苦しいのかもしれません。
先入観を捨てて話を聞いて、
色々疑問なところを尋ねてみることが必要です。

例えば、その人は、自分からは何も働きかけをしないで
家族からサービスを受けることが当たり前だ
というような感覚を持っているように見える場合があるわけです。
一緒に家庭を作っていくという感覚がないのではないかというわけです。

相談担当者は、極力相談者に否定的な態度を示さずに
人間関係の状態は相互作用で形作られると思うのだけれどと説明し
どうして相手を変えていこうとすることができないかということを
一緒に考えていくことが求められると思います。

また、どうして、自分は事態が改善されるのを待っていれば良い立場だと
考えるに至った起源を探ってみるということも大切なことです。
すると、自分の疑問が実は誤解に基づいていたということが
見えてくることがあります。

また、比較的多い原因の中で
誰かが善意ではあるけれど無責任な肯定を行ってしまっていて
自分の不満は正当であると思いこまされている場合もあります。
女性は受身であるから、
二人の関係は良くも悪くも男性次第であり
関係が悪いのは男性に責任があるから
女性はただ関係から離脱するものだという
ジェンダーバイアスのかかったアドバイスをする人が
今の世の中にも多くいるようです。

特に保守的だと自覚している相談担当者は
女性は男性に尽き従うものであり、
日々男性の提案に従うものだ
だから、男性が不十分であれば男性が悪い
女性から関係を作っていくための働きかけをする発想をもっても
女性にできるはずがない
というジェンダーバイアスの濃厚な相談回答をすることは
公的相談機関ではしてはいけないことです。

女性も家庭の主人公であり
自分たちのことにイニシアチブをとることを予定している
自分の思い通りの関係を作り上げていく
一個の独立した人格であるということを肝に命じましょう。
これこそが男女平等、男女参画の思想なのです。

このような積極的なアドバイスや問題解決の選択肢を提起するにあたって
必ず、相談者の改善するべき点について指摘しなければなりません。
それは必ずしも「悪い」という評価をされるべきことではなく、
あくまでも修正するべき点なのです。

あなたも「悪い」という言い方は、やはりだめな理由3なのかもしれません。

ここで相談担当者が気を付ける時は
修復可能な家族は修復するという観点から
相談者も「悪い」わけではないけれど修正するべきポイントがある
相手も「悪い」わけではないけれど修正するポイントがある
という言い方に徹底するべきことです。
これが人間の関係としては
当たり前の話なのだということを
相談者に対して説明するとともに
自分でも改めて自覚しなければなりません。

相談や支援とは
上から真実を教えるというものではありません。
あくまでも相談者に敬意を払いつつ
一緒に考えていくという作業なのです。

完璧な人間はいない
色々な人たちが不完全な人間に関わり合って
成長していくものだ
と思えば、人間みんなが尊敬できる存在だし
幸せになってもらいたい存在だと思えてくるものです。

それにも関わらずマニュアル通り
あなたも悪い(修正するべきところがある)
ということを言えないのでは
対等平等のアドバイスをすることができなくなります。

あまりいないかもしれないのですが
「あなたが悪い」と言えないからと言って
即物的に
でも相談者には困りごとがある。
先ず「あなたは悪くない」と言ってあげたい
そうすると「悪いのは相手だ」と言うべきなのかとして
他人の家庭を壊すだけの「支援」をする人も
いないわけではなさそうです。

また、本当に人間関係に悩んで
深刻な状態にある、絶望の淵にある人に対して
「あなたは悪くない」ということは
また、「あなたが悪いわけではない」と相談が終わることは
致命的な打撃を与えることがあります。

「悪くないのに自分は苦しい目にあわせられている」
という観念を持つことは解決不能感、絶対的孤立感を抱きやすくなり
危険な状態にさせます。

そもそもマニュアルなんてものがなければ相談に乗れない人に
深刻な相談を担当させることは
厳に慎むべきだということを最後に言っておきます。
人の相談はマニュアルで処理するものではありません。



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他人の不安を否定しない=責めない、笑わない、批判しない 特に家族など仲間の不案に対して [進化心理学、生理学、対人関係学]



家族の中に極端な心配性の人がいると、なんとなく嫌な気持ちになり、つい「それは心配しすぎだ」とか、「こちらの気が滅入ってくるから黙れ」なんてことを言ったりしてしまうこともあるかもしれません。これはたいてい不安症の人を益々苦しめるだけの逆効果になります。
1 どうして心配性の人の話を聞くのが嫌なのか。
2 どうして心配性の人はますます不安になっていくのか。
3 不安の感じ方が人それぞれ違うので、心配性の人も大切だということ。
4 心配性の人にどう接するのか
というお話をしてゆきます。

1 どうして心配性の人の話を聞くのが嫌なのか。

 その人が心配していたからと言って、平気でいられればそれで済む話です。例えば、猫が顔を洗うと雨が降る等と言う迷信を信じて天候を心配する人がいても、私はそれだけでは全く雨が降る心配などしません。すべてがこうではないにしても、このように他人に心配に拒否的感情が現れる理由は、心配を共有してしまうことによって、不安を共有してしまいそうになるからであるという理由がある場合が多いと思うのです。
パターン1 自分が無意識に不安にならないように努力している
 本当は現実に向き合うと不安になるので、無意識に自己防衛システムが働いていて、不安をシャットダウンしようとしている場合に置きるパターンがあります。論理的に大丈夫だと結論を出そうとする手段とそもそも考えないようにしている手段があるでしょう。いずれにしても悲劇的な結末の可能性に向き合わない努力を、意識的あるいは無意識に行っているわけです。ところが、不安症の人間によって、その努力が無意味になってしまう。このために、不安症の人は、自分にとって頑張ろうとすることの足を引っ張られるように感じて不快な感じが起こるのだと思います。大げさに言うと生きるための仕組みが妨害されることに対する不快さなのだと思います。
パターン2 よく似ているのですが、不安であることは自覚している場合もあるでしょう。自分も不安だけれど、大人はこのような不安を人前で出すべきではないという道徳感情みたいなもので我慢している。それにもかかわらず不安を人前にさらしている。自分がせっかく努力しているのに努力しないという場面を見ると、人間は自分だけが損をしているという感情と怒りの感情が生まれやすくなるようです。
パターン3 仲間が不安になっていると、不安を解消してあげられない自分が責められている感じがして、自分が否定されていると思ってしまうというパターンがあり、自分が役立たずと評価され内容として、いわば自己防衛手段として相手の不安を否定したくなるということがあるようです。案外これが多いのではないでしょうか。
 不安は無意識に、無自覚に生じるものです。他人の心配を否定する感情の中には、自分も同じ心配を無意識にしている可能性があると思います。

2 どうして心配性の人はますます不安になっていくのか。
 不安は、心理的なものととらえがちですが、生理反応が起きていて、血圧や脈拍、それに体温などの変動が起きています。不安は気持ちの問題が大きいのでしょうが、不安になっているという状態は客観的に存在しています。
 また、不安は自己防衛のための仕組み、つまり生きるための仕組みです。危険が存在していることに気が付いた場合、不安を感じます。すると、不安を解消したくなるという仕組みが生まれ、不安解消した行動の動機づけになっているようです。不安解消行動は、意識的な行動に先行して生理的変化などの無意識の変化が起きているようです。一連の危険回避のシステムが起きるということで、不安が特に人間にとって大切な反応のようです。
 この危険回避システムが妨害されると、それだけで危機感が生まれ、大きくなってしまいます。不安感情が大きくなるわけです。
 もう少し危険回避システムを説明すると、危険に気が付くシステムとして、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、皮膚感覚という五感があります。これが妨害されるということは、例えば視覚を奪われるということは目隠しをされたり、光の当たらない真っ暗な状態におかれたりすることですから、それ自体で恐怖を感じるということはわかりやすいと思います。早く目隠しをとりたい、明るい所に行きたいという感情が大きくなっていくこともわかりやすいと思います。
 そして、危険回避行動の典型は、走って逃げることと手足を使って攻撃することです。手足を縛られるとこれができなくなります。手足を縛られただけで何か危険が迫っているような感覚になることは想像できると思います。金縛りを経験された方はこれを実感できると思います。耳の脈を打つ音が、誰かが近づいてくる足音に感じてしまうのは、恐怖で過敏状態になっているからではないでしょうか。
 この五感と手足の筋肉の反応をつなぐ大切な要素が不安と不安解消要求だということです。そうだとすると、自分の不安を否定されてしまうと、命を守るシステムである不安解消システムの最も大切な部分が否定されたことになるので、不安解消システムの作動を妨害されたような気持になります。あたかも目隠しをされたり、羽交い絞めにされるような恐怖感さえも生まれてくる可能性があるということがイメージできるのではないでしょうか。
 不安解消のための古典的な方法が逃げるか戦うかですが、人間はその後進化を遂げ、複雑な因果関係の把握という思考方法を身につけました。危険の起きるメカニズムを知り、メカニズムが揃っていなければ危険が起きないという法則があるということを理解したわけです。だから、不安があっても、危険が起きない条件があり、それを満たしていれば危険ではないと本当に納得することができれば、不安が解消されるということは確かにあります。これがベストですね。
 ところが、新型コロナウイルスの問題は、目に見えない危険が現実化する可能性があるというものです。家の外に出なければならない人の場合、どんなに危険の条件を認識して予防を尽くしても、完璧に大丈夫かというと、なかなか完璧だとは言い切れないという現実はあると思います。不安が残ること自体は、私は正当な感覚の範囲内だと思っています。

3 不安の感じ方が人それぞれ違うので、心配性の人も大切だということ。

不安を感じることが正当だと言いましたが、私はそれほど感染の不安を感じていません。もっとも、防衛手段を尽くした上でのことで、全く心配していないというわけではありません。不安の感じ方は人によって個性の違いがあると思います。
わずかでも危険の現実化の危険があれば心配になる人。
100パーセント危険の現実化が起こるということでなければ心配しない人。
概ね大丈夫なら心配しない人。
等々、人間の個体間で違いがあることはいろいろなところで感じられるでしょう。実は、このような個性の違いがある動物が、生存競争を生き残ることに適していると私は思います。
考えてもみてください。人間がすべて心配しない楽天家ばかりだったら、将来起こるかもしれない危険に備える人がいなくなり、些細なことで滅亡してしまうでしょう。逆にみんなが心配症で、あらゆる危険が怖いというならば、科学が進歩して危険なものが増えれば、ストレスで人類は滅亡してしまうでしょう。心配性の人が楽天家にブレーキをかけ、楽天家が心配性の人を励ましたり慰めたりしながら、人類は生き残ってきたのだと思っています。
この性格の違いは生まれ持った遺伝的なものも多いのかもしれませんが、群を作る動物特有の状況次第で性格が変わるということもあるようです。ハチが巣の温度を下げるために、巣の外に出て羽ばたいて気化熱で温度を下げるわけですが、必要の範囲でしか巣の外に出てきません。対して温度が高くないのに大勢で羽ばたいて必要以上に温度を下げるということをしないようです。いち早く出てくるハチ、のんびりと出てくるハチ、出てこないハチとうまく分かれているようです。働きバチはクローンですから遺伝的差がないはずなので、これは仲間の状況に応じて、行動のモチベーションが変わるのではないかと考えています。
人間もそうですよね。本当は大人も雷が怖いけれど、子どもが怖がっているのを見て、子どもを励まそうという意識をもつことによって、自分の恐怖が軽減されるということがあるのもこういう周囲の状況を見て感情が変化しているのだと思います。
 心配性の人、楽天的な人、それぞれいてよいのですし、それぞれが正しいわけです。

4 心配性の人にどう接するのか
不安になっていることを責められたり、笑われたり、批判されるということは、不安になる必要がないということを説明して不安解消する方法ではなく、不安になっている結果だけをやめろと否定されているわけです。先ほど述べた防衛システムを否定されるという恐怖感が生まれかねません。
同時に、不安を感じている自分という存在が周囲から受けいれられていないということですから、孤立感や疎外感まで感じてしまいます。当初の不安とは質の違う別の不安、余計な不安を感じてしまいます。人間の体は複数のストレスを受けることに馴れていません。金縛りで耳の脈を打つ音が化け物の近づいてくる足音に聞こえるように、危険に対して過敏な状態となってしまい、不安がエスカレートしていきます。これに周囲から自分が受け入れられていないということを感じること、自分が不安に感じていることに共感を持ってもらえていないという感じることが加わるのですから、人間のメンタルに深刻な影響が与えられるのは理解しやすいと思います。孤立感は、自分の不安を解消する方法は存在しないのだという絶望感につながりやすく大変危険です。
ではどうすればよいのか。
一つ目は、不安を解消する決定打はないということを自覚することです。人それぞれ不安の感じ方は違うのであり、他者の不安を100パーセント無くすことはできない。余計な使命感は持たないということです。
二つ目は、不安のエスカレートを絶つということです。不安はあるけれど、せめて孤立感だけはなくしてもらうということです。
このためには、不安をむしろ肯定してあげることが大切です。肯定できることだけ肯定すればよいのです。例えば、「このままでは国中失業者だらけになってしまい、日本が終わってしまうのではないか。」という不安を口にする人については、「そうだね。影響大きくてみんな心配だね。」というところまで賛同できるならばそれを口にしてあげるということです。「心配だけれど今は様子を見るしかないね。」ということが、不安を肯定されてから言われると、案外すんなりと受け入れてもらえることが多いようです。
三つ目は、人間はいつまでも不安を維持できないということです。つまり、いつしか危険に馴れていきます。ただ、これには条件があり、不安になっている危険が現実化しないことが必要です。自分だけでなく、自分の周囲で感染者や重篤な感染症状が現れないことによって、馴れが生まれていきます。これは動物一般に見られる現象です。人間も鳥もウミウシだって同じ原理です。これを信じて待ちましょう。
四つ目は、不安を否定しない態度ということで、マスク、手洗い、換気、三密の回避、睡眠の確保や規則正しい生活等やるべきことをきちんとやってみせる、これによって安心してもらうということでしょうか。

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コロナ禍によって、DV、児童虐待の加害者にされる危険、加害者になる危険が増大している。虐待しない方法ではなく優しくする方法を実行して家族でコロナ禍を利用して幸せになろう! [進化心理学、生理学、対人関係学]



目次
1 コロナ禍では、過敏な不安を招き、被害者意識が増大する
  日本赤十字社の見解
2 これまでのDVの思い込みの構造と、コロナ禍のDV対策が無駄に加害者を作る要因 二項対立的な対策の光と影
3 加害者になることをきちんと警戒する必要性 悲惨な思いをするのは大人だけど、重大な影響を受けるのは子どもであるということを理解する
4 不安をあおることをしないために
 1)総論 「責めない、笑わない、批判しない」
 2)無駄な正義感を排除する
 3)無駄な合理主義を排除する
 4)無駄な責任感を排除する
 5)無駄な目的遂行主義を排除する
5 その先の共感を示すということ
6 幸せになるということ

本文
1 コロナ禍では、過敏な不安を招き、被害者意識が増大する
  新型コロナウイルスのように、目に見えないものによって自分の身体生命が脅かされることの不安による負担は、人間の思考力をゆがめてしまいます。この不安から差別が生まれるということについて、日本赤十字社は令和2年3月26日付でわかりやすく説明しています。
 「新型コロナウイルスの3つの顔を知ろう!~負のスパイラルを断ち切るために~」http://www.jrc.or.jp/activity/saigai/news/200326_006124.html?fbclid=IwAR3uhvMWBQYQmv1XmMp4wpc1uUvz3GGS_t4l0fJRYTayxznZtYwaBc8yNGU

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  ここでは、不安から、対策を取らない人たちに対する嫌悪感が生まれ、その人たちを遠ざけようとする意識から差別攻撃が生まれるという説明がなされています。
  対人関係学的な考え方は、もうちょっと人間は論理的ではない思考をしているという説明です。
  人間は何らかの不安を感じると、その不安を解消したいという要求が生まれます。この不安解消要求にもとづいて逃げたり、戦ったりして危険を無くそうとするわけです。ところが、不安を解消する方法がなく、不安にさらされ続けてしまうと、思考力が著しく低下してしまいます。人間の考える力は案外簡単に限界を迎えてしまうようです。その結果、やみくもに危険を感じやすくなります。あれもこれも自分の危険になるのではないかと感じ易くなるわけです。この過剰な不安状態が続くと、不安解消要求はさらに強くなります。もう何でも良いから、一と記だけでも良いから不安から解消されたくなり、不安解消が最大のテーマになってしまいます。やみくもに引きこもり、引きこもりになったり、精神的に外部をシャットアウトしてしまうケースもあります。これがやみくもに逃げるパターンですね。もう一つのパターンがやみくもに怒るパターンです。自分よりも弱い者を攻撃して、ひと時の安心を得ようとしてしまうというパターンです。いわば八つ当たりです。
  怒りが生まれるパターンは、2種類のどちらかであることがほとんどです。一つは、勝てる相手であると判断した時で、もう一つは仲間を守ろうとする時です。
  コロナに無警戒の人たちでも、自分と関係の無い場所で、それほど害のあることをしていない人たちもいます。自分一人でその人たちを見ても、直ちに強い怒りにはならない人の方が多いのではないでしょうか。それが、無警戒であることに否定的な報道がなされ、コメンテーターの否定的意見が行われると、勝てるという意識から、怒りがわいてくるようです。それに、自分がそれを我慢しているのにやっている人がいるという不満が怒りを倍増させます。子どもや年寄りや病人を守るという意識がさらに怒りを募らせ、攻撃や差別が完成するという仕組みになります。
  誰かを攻撃することでひと時の安心を得ようとして怒る。これは日本赤十字社の言うとおりです。一人で注意しても防ぐことができず、死者もいるということはコロナ不安が慢性して、不安解消要求を高まらせることになります。自分にとって危険があるのではないかという不安が過剰になり、他者から逃避するという行動が増えるとともに、被害者意識から誰かを攻撃する行動も増えてゆくということをご理解ください。

2 これまでのDVの思い込みの構造と、コロナ禍のDV対策が無駄に冤罪加害者を作る要因 

  この慢性的不安と不安解消要求の過剰な高まりは、あらゆる変化を自分の危険であると把握しやすくなる危険があります。つい、誰か強い者に自分を守ってもらおうという意識が強くなります。夫婦間に実際はDVがない事例で、自分はDVを受けているということを思い込み、子どもを連れて夫の元から去っていくという思い込みDVの「連れ去り行為(外務省の用語)」は、このようにして始まります。コロナ不安がなくても、原因不明の不安障害、産後うつ、甲状腺ホルモンの乱れがある場合、このような被害者意識が事実を超えて高まることがあります。コロナ禍がなくても不安の種があるものなのです。
  そもそも夫婦間に起因しない不安が、夫のDVという言葉を獲得する過程はある程度解明されています。理由のない不安から強い者に自分を守ってもらおうという意識から、不安の強い人たちは、積極的に地方自治体の相談窓口や警察などに相談に行きます。こういう相談機関は、後に説明するように、先ずDVがあるだろうという先入観で、相談を受けます。通常の夫婦は、いろいろな意見の対立があり、それを解決する方法を知らないし。解決するサポーターがいない孤立婚の状態です。些細な夫婦喧嘩や行き違いがあるものです。また、家庭の貧困がある場合、現代日本では責任はほぼすべて夫の責任であるというジェンダーバイアスのかかった評価がなされます。そうすると、相談を受けた方は、「あなたはDVを受けています。」といとも簡単に断定するのです。「このままではDVが過激になっていってしまう。命の危険があるから必ず子どもを連れて家から出ていかなければならない」ということを簡単に言ってしまいます。妻は、自分の理由のない漠然とした不安は夫からモラルハラスメント受けていることが原因だと言われるわけです。そうすると、不安に対する言葉を獲得し、妻の不安は夫に対する嫌悪と恐怖に固定化し、大きくなっていくようです。
  今回のコロナ禍に対応するあるDV相談マニュアルを見ました。これらの危険が顕著にみられるものです。特徴は、一人のDV被害者も見逃さないという決意が表れているものです。そのために、えん罪DV加害者が生まれてもやむを得ない、子どもが無駄に犠牲になることも全く考慮されていないものです。以下、何点か見てみましょう。
  ① 客観的に明らかな暴力・暴言が存在しないように思える場合でも安易にDVがないと判断しないようにしてください。
  これが本当に記載されているのです。結局、相談者は自分の判断をするな、DVがあると思い込めと言っているようなものです。これを法律家が行っているのですから情けない。それを真に受けて相談に乗るのですから恐ろしい話です。どうして、相談を受ける側が客観的に暴力・暴言がないと判断したにもかかわらず、他人の家庭に介入できるのか考えてみてほしいと思います。暴力も有害な言動もなければDVではないのに、それでもDVと判断するなというのであれば、論理性も何もありません。その場合は端的に他人の家に口を出すべきではないのです。
  なぜ、このように何でもかんでもDVにしてしまうか、後述する思想問題とは別に、善意にもとづく要因もあります。それは、実際の相談者が目の前で苦しんでいるからです。何とか助けてあげたい、気持ちを軽くしてあげたいと思うわけです。しかし、解決方法としてDV対策しか引き出しがない。DVでなければ何もする方法が思いつかない。だから、支援したいという要求を満たすためには無理矢理DVにもっていくしかないわけです。これは無意識に行われているようです。DV以外に解決の引き出しを持たなければなりません。これを述べるのが本稿の目的でもあります。
  ② 被害者本人が被害の認識がないから、被害を自覚できるようサポートする。
  では、被害とは何なのでしょう。被害者が被害と思わないことにもかかわらず客観的被害だと言えるのはどういう場合なのでしょうか。考えてみればわからなくなります。確かに被害者は自分が被害を受けているということはわからないことがあります。しかし、実際に苦しんでいるし、苦しみから解放されたいという切実な要求もあります。こういうことは書いてありません。そうすると、相談を受けたものの価値観で、「それは被害だ。」ということを断定する危険があることになります。結局は、相談を受ける方の価値観という主観的な問題になるのです。そして、その相談を受ける人間の少なくない割合で、家族解体思想を持っている人がいます。男は金を入れて、生活は女が子どもと行うという極端なジェンダーバイアスを抱いている人たちさえもいます。その人たちが、リーダー的役割をはたしていて、普通の家庭の許容範囲が極端に狭くなっているような印象もあります。
  この他にも批判したいことはあります。反対当事者から事情を聴かないで、精神的に不安定な人の話だけからDVを認定すること、DVの解決方法が逃避行動しか用意されていないこと、それから、些細なかすり傷でも写真を撮っておけという指示があります。DVと無関係な写真が良く裁判でも出てきます。無関係な写真を出してしまうと取り返しのつかない不利益生まれてしまいますが、こういう指示のためだったのかと理解できました。
  夫に原因がなくても、こうやって思い込みDVは作られるのです。コロナ禍の中で、この傾向は強化されています。思い込みDVの加害者になるということは、実際にありうることなのです。
  妻は、夫が家にいるという変化を、過剰な不安の蔓延から自分に対する危険だととらえてしまいます。行政などの相談機関は、DVと言わなければならない相談員が増員され、マニュアルで強化されています。つい、妻が行政などに相談をすれば、日常的な些細なことをとらえられて夫であるあなたのDVだと断定されてしまいます。気が付かないうちに妻と子どもたちが家から消えているということは、他人事ではないのです。あなたが明確な暴力や暴言がなくても、あなたはDV夫にされてしまいかねません。証拠として自分で転んだ擦り傷や鉄アレルギーの字のような反応の写真が提出されるのです。最悪なケースでは、些細なことで傷害罪で逮捕されたり、自分の家なのに近づくことを禁止されたり、家の周りを散歩することも禁止されることになります。コロナがなくてもそうやって苦しんでいる人たちがたくさんいるのです。

3 加害者になることをきちんと警戒する必要性 悲惨な思いをするのは大人だけど、重大な影響を受けるのは子どもであるということを理解する
  思い込みDVは激増するでしょう。あなたは誰もいないがらんとした家に一人でいなければなりません。妻の実家に行こうとして近づくと大量の警察官に取り囲まれて取調室に入れられ、覚えのない暴力をしない旨の誓約書を書かせられたりすることもあります。妻が帰ってきたかと思うと警察官が同行して、荷物を引き取りに来ているのに、声もかけられず話し合いもできない、あるいは事故に巻き込まれているのではないかと警察に捜索願を出そうとすると、あたかも自分が原因のように無事だから探すな、探した場合にはストーカー警告を出す等と犯人扱いをされるのです。これらはすべて実際に起きたことです。そうして、自覚がないまま接近禁止が裁判所から命令されたり、離婚調停が始まったりします。子どもに会えないということが寂しいだけでなく、不安や孤立感を増大させ、想像以上の苦しみとなります。実際、このような人たちは、孤立感、絶望感から自死する人たちが多くいます。統計的な資料はありませんが、SNSで知り合った人たちが毎年何人か自死で命を無くしています。
  しかし、最大の犠牲者は子どもたちです。父親から離されるという不安は大人が想像するより強烈です。父親がいなくなれば、今度は母親もいなくなるのではないかという心理が働いてしまいます。目の前にいる母親がいなくなる不安の与えるストレスはすさまじく、母親にしがみつこうと必死になる子どももいます。それまで自分と一緒に学校生活を送っていた友達が不意にいなくなることもかなりのストレスです。それまでの安定した人間関係が知らないうちに崩壊しているのですから、極めて不安定な状態になります。それでも、唯一の肉親である母親に心配をかけたくないために、不安を表現することを自ら禁じます。これは後々成長を阻害する深刻な弊害です。また、父親が悪いためにこうなったという考えは、自我の確立する時期に、自分は悪い父親と良い母親の子どもだという意識を持たせ、自分に対する評価を低下させたり、自分という人間を自覚することを妨げたりします。子どもたちの深刻な影響は一生続く可能性があります。
  およそ人の親であれば、他人事だと思わずに、コロナ禍の中で無用の家族分離が行われ、その最大の犠牲者は我が子になるという危険をきちんと自覚するべきです。何としてもコロナから家族を守らなければなりません。
  また、DV問題だけでなく、児童虐待問題も無駄に子どもを分離する危険があります。相談を受けた限りでは、そのような傾向を持つ地域があるようです。親が弱者である場合、つまり、アジア系の在留外国人である場合、生活保護を受給している場合、地域とのつながりが弱い場合、子ども父親と離婚して子どもの血のつながりのない男性と同居している場合などは、警戒する必要があると思います。これらが複数組み合わさると、とても危険です。

4 不安をあおることをしないために
 1)総論 「責めない、笑わない、批判しない」
   出発にはコロナの不安があるということが第1に考えなければなりません。これは仕方がないことです。あなたが理論的に、やることをやっているから心配しすぎる必要がないと判断していても、それでも不安になるということは人間である限りありうることなのです。
   確かに、荒唐無稽とも思われる心配している家族の後ろ向きの発言を聞くとイライラするものです。そういう無駄な不安をしないでほしいと思うことは人情です。その結論は理解できます。しかし、そのためにも、「そんな無意味な不安を言うことはやめろ。そんなことを言っても仕方ないだろう。こっちが暗くなってしまう。」ということを言うことはメリットがなくデメリットばかりです。言われた方は、自分の不安を否定された、自分という人格を笑われたと感じますから、コロナに対する不安が無くならないばかりか、あなたから馬鹿にされるという不安が付け加えられるだけのことになるからです。
   むしろ、「そうだね不安だね。何とかなるといいね。」と感情に同調することによって、感情を共有できたという感覚を持つことができ、自分も肯定されたと感じ、仲間意識も生まれ、不安が軽減します。これによって、後ろ向きの発言が少なくなるわけです。いやだったら肯定する。これがポイントです。
   コロナ不安に、人格否定不安が加わることで不安があおられるわけです。そうだとすると、人格否定感を解消することによって、不安が少なくなり、その結果、思い込みDVの危険からみんなを守ることができるようになるのではないでしょうか。
   人格否定不安は、あなたから自分が尊重されていると思うことによって解消されます。どんなことがあっても、あなたから自分は見捨てられないという実感を持つことです。失敗しても、弱点があっても、不十分なことがあってもあなたが自分を否定しないということが、見捨てられないという実感を強くします。つまり、やるべきことは家族の失敗、弱点、不十分点を責めない、笑わない、批判しないということです。
   でも実際はこれは意外と難しいことです。私たちがこれができない要因を挙げてみます。簡単には考えない方が良いと思います。私は、10の否定行為があるとすれば、3割はこれをしないということから始めるべきで完璧を最初から求めることは無理だと考えています。また、3割成功するだけで、家族のあなたに対する感覚は天と地ほどの違いが生まれると確信しています。
 2)無駄な正義感を排除する
   家族に対して、無駄な正義感を発揮している人はとても多くいます。公衆道徳を守ることは当たり前なのです。これはそうだと思います。しかし、それが守れない場合もあるわけです。例えば自動車からティッシュペーパーを捨てる行為があると思います。これは公衆道徳違反です。これに対して、理由も聞かずに怒りだすということがやめるべきことです。もしかしたら自動車に蜘蛛かゴキブリがいて、必死になってティッシュペーパーで捕獲して車外に排除したかもしれません。もしかしたらもう十分備蓄したマスクを打っているからと言って買ってしまったかもしれません。
   つい正義感の強すぎる人は、家族に対してイラついて激しく叱責をするということをしてしまいます。しかし、家族の弱点は、別の家族がフォローするものです。別の解決方法をあなたが考えるべきですし、小さな不正義をした感情に共感をしてから次の指示をするということも考えるべきです。
   先ず叱責するのではなく、先ず共感を示し仲間であるということを示すそうしてからあなたの望む結論を出す方法を考えるということです。不安を口にするな式の結果だけを押し付ける行動はメリットがなく、デメリットしかありません。
   寛容とはこういうことです。家族は家族の犯罪を隠しても仕方がない、家族をかくまっても仕方がないという考え方こそ、日本の刑法の考え方なのです。
 3)無駄な合理主義を排除する
   現代人は、エリートと呼ばれる人ほど、無意識に合理性を追求しようとしてしまうようです。極端な話、娯楽でもこの合理性を追求したくなるようです。花見をするにしても回る順番を気にするとか、食事をどこでするのが合理的かなどと考えてしまうようです。また、のんびり回ることを追求して例えばスマホをいじることを禁止するなどの言動があったりするようです。ゲームにまで口を出す人もいます。どうも、会社等で、合理的な行動を追求することが身にしみついてしまっていて、不合理な行動を見ると我慢ができないようです。
   花見の順番なんてどうでもよいことで、また日常の家事についても厳格に行う必要性のある家事なんてそうそうありません。こういう普通の価値観、行動基準からすれば、夫などから不意にやり方を否定されることはたまったものではありません。要するに、何が合理的か突き詰めて考えれば、それは統一した結論が出るかもしれません。しかし、日常家事なんて、そこまで突き詰めて行っていたら毎日のルーチンなんてできないのです。
   例えば毎日の掃除とか片付けとか、買い物とか、通常妻が行っていることに、合理性や正義の観点から口出しするべきではないということが結果を出すための一番の方法ということになるのではないでしょうか。通常その時間にいない夫は、妻の補助、言われたとおり動く体制を作っておくことが最善の方法なのだと思います。そして文句言わない。短期間だけやるなら良いのですが、それを継続してやっている場合は労働の質も変わってくるのです。会社の場合でさえもこれが合理的な労務管理です。
 4)無駄な責任感を排除する
   過労死を研究していると責任感の強い人は他人にも責任感を要求することがあるようです。これは、普通の人はたまったものではありません。過ぎ息苦しくなり、あなたという存在が苦痛になるでしょう。
   それから、トンチンカンな責任感というのもあります。例えば生活の苦しさを訴えると、「自分の稼ぎが悪いと言われている。」と被害者意識が生まれて、つい反論したり、口封じのための行動をしてしまう行動に出てしまう人がいます。「そうだねえ。」とのんびり構えてから行動した方がよいわけです。ある程度の鈍感力や無責任を意識した方がちょうどよい男性がとても多くいます。あなたを責めるわけでもなくした発言であなたが不愉快になったら、家族はあなたが突然切れだす人だと感じてしまい、何を話しても怒られると思い、話をしたくなくなります。自分のことを責められているわけではないということをまず考えるべきです。そしてもう一歩先に足を踏み出しましょう。なんか文句を言われたからと言って、いちいち怒らないということですね。これやってみると、案外楽に生きられますよ。
5)無駄な目的遂行主義を排除する
   仕事をしていると、仕事は目的をもって行いますから、家庭の中でも何らかの目的を果たそうとしてしまいます。無駄な合理主義もここから出てくることが多いかもしれません。花見をする場合も、より多くの桜を見ようという目的を自分勝手に設定していることがあります。スーパーマーケットをはしごしようというような場合も、より効率よく物を買い、刺身や肉を腐らせないためにはどうするかなんてことを考えて合理性を追求しようとするのかもしれません。目的遂行主義は、男の悪弊です。
   どうでも良いのです。視覚野に飛び込んできた桜の数なんてどうでもよい。極端な話、桜を見上げないで、屋台のたこ焼きを食べて楽しければそれでよいではありませんか。あなたからわけのわからな小言を言われなくて、楽しい思いをしたという記憶が残ればそれでよいのです。また、多少もたもたしたからといったって、肉や魚はそんなに簡単に腐りません。思い通り売り場を回って満足すればそれでよいのです。あなたが重たい荷物を率先してもってあげたりした方がよほど楽しいのです。カーステレオで自分の好きな曲を流してもらえたらそれも楽しいわけです。
   どうしても狩りをしていたホモサピエンスのオスは、小動物をしとめるという目的で集団活動をしてきたので、合理性を追求することや他者への干渉をすること、集団が目標を持つことにならされ続けてきました。ところがメスは、特定の目的を別に持つことよりも群を分裂させないことに力を注いできました。ここを男性は理化しなければなりません。無駄な正義感、無駄な合理性、見当違いの責任感を持つのが男性なのだと言い聞かせる必要性があるようです。家族の行動の仕切りは、女性に主導権をゆだねることが進化生物学的には正しいということになります。主導権をゆだねた以上は文句を言わない。これが封建時代の男の義務でもありました。
   子育てだって、結局はけんかしても一番良い方法をというよりは、母親の納得する方法を父親がセーブする方に回るというのが合理的かもしれません。いずれにしても、子ども次第ということが結局は子育てが終わることにわかることです。あの子育てをめぐっての果てしないけん制のしあいは何だったのかと気が付いた時は子育ては終わっています。 
   男性向けに表現すると、男性は家庭の外に向かって何らかの目的を持ちたがる、しかし女性は家庭が円満であることそれ自体が目的だというと理解しやすいかもしれません。家庭なんて、進化生物学的にも生理学的にも、活動によって高まった神経を鎮めるためのユニットです。だから、家庭のことは女性にゆだねるべきだということなのです。

5 その先の共感を示すということ
  共感を示すことを軽視するのが男です。言わなくてもわかるだろうとか、共感を示すことが恥ずかしいとかいう事情があるわけです。子どもが母親に対する態度ならそれでよいでしょう。しかし、大人と子どもの違いは、子どもは大人に世話になるということですが、大人は子どもを含めて仲間の世話をすることなのです。
  家族の弱点を責めない、笑わない、批判しないということは必須ですが、その先に足を進めましょう。共感を示すということです。共感するということではないことがポイントです。相手の気持ちはわからないし、必ずしも自然に共感することができるわけではありません。ここで無駄に固く考える必要はありません。家族と言っても相手の心なんてわからないものです。同じ気持ちになるなんてファンタジーの話だと割り切りましょう。心がわからなくても、同じ気持ちにならなくてもできることが共感を示すということです。
  子どもがけんかしたということで共感できなくても、子どもから話を聞きだしてけんかをしたくなる感情をえぐり出して、「なるほどそれなら怒りたくなるなあ」と共感を示すことが有効です。共感を示してからだと、その後の指導が効果が上がります。
  相手の感情が存在したことは客観的事実です。それに根拠があるかどうかは話は別です。感情の存在自体を否定しない。これが共感の根本です。「あなたからすれば、それは怒るだろうな。」、「こういうふうに考えていたなら、心細くなるのもうなずけるねえ。」等と言うことを言葉に出すこと。言葉に出すことが大切です。
  言葉に出すことができても、目が思いっきりイラついていたら台無しになる子とは、案外自覚されていません。
  これだけで、相手は自分を否定されていない、尊重されている、自分は見捨てられないだろうと思うことができるようです。これは結構江戸時代や戦前に、男がせっせと行ってきたことのようです。最近の男性ができなくなってきたようです。誰かから誤解を与えられて、間違った知識を植え付けられている可能性があります。
6 幸せになるということ
  思い込みDVは、必ずしも妻に責任がある場合だけではありません。夫が無駄に家族に心理的圧迫を与えているならそれをやめればよいだけの話です。そこでもう一つ寛容なことは、「これくらいのことで心理的圧迫を受けるのはおかしい。」という考えは捨てるということです。これは狩りをするチームの在り方という男性特有の横並び意識です。家族の調和を優先する考え方は、その人の現状に合わせた対応をするということです。
  どうすればうまくいくのか。どうすれば心理的圧迫を与えないようになるのか。答えは、これまで繰り返し述べてきた考え方にあります。つまり、「心理的圧迫を与えないためにはどうするか。」という発想の先の「家族を幸せにするためにはどうするか。」という段階に発想を先に進めることです。
  「幸せにする。」ということはどうすればよいのか。それは人さまざまで家族と言えども違うのではないかと思われるかもしれません。しかし、家族というユニットでできる相手を幸せにするということは明確にあります。それは、家族という仲間から、自分は尊重されていると実感してもらうことです。自分はこの家族からは見捨てられることはないという実感です。
  そのためには、家族の失敗、欠点、不十分点を責めない、笑わない、批判しないということが基本であり、さらに共感を示すことです。あとは個人の事由にゆだねられていることを尊重するということでしょうか。
  このように、家族を尊重するということに気づいた家族の誰かが行動に出れば、家族は心地よい思いになるでしょう。そうすればよいのかということがわかるとまねをするのが人間です。あなたに幸せが返ってくるはずです。
  私は、人間が言葉もない時代から群れを作ってきた方法を研究している者です。その結論としては、人間は群れから孤立することをとても恐れる動物だということが一つの理由になっているということでした。そうだとすると、群から孤立する心配がないということは、人間が幸せを感じる一つの事情だということになるはずです。
  人間は200万年前から今のような心を持っていると言われています。そのころは、今のコロナに比較できないほど恐怖を抱いてきたはずです。それでも、人間は群れを作り続けて生き延びてきました。私たちもコロナくらいで家族を失うことはありませんし、家族を守って生き延びていく可能性が人間である以上あるはずだと確信しています。家族の中にいることによって安心し、家族のために行動することによって不安を軽減してきた人間は信じられる生き物だと思っています。

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プロフェッショナルな弁護士とは、依頼者の敵を尊敬することができる弁護士ではないかと考えてみる [事務所生活]



1 プロフェッショナルとは

ここでいうプロフェッショナルという意味を話し出すと長くなるので
泣く泣く割愛します。

ただ
牧師が宗教的に人を導き幸せを運ぶ仕事であり
医師が人の病気やけがを治し幸せを運ぶ仕事であるように
弁護士は人々の紛争に介入し
法律その他のツールで紛争を解決するならば
やはり幸せを運ぶ仕事であるはずです。
それがプロフェッショナルの正確な意味だと思うのです。

依頼者の願いをかなえるために助力する
という仕事であるべきです。
それは依頼者を尊敬しなければ
様々な意味で困難になるはずです。

2 依頼者を尊敬しないことによる実務的な弊害

依頼者を人間として尊重しなければ
依頼者の言葉や
その時に置かれた状況への依頼者の反応に左右され、
後は依頼者がそう言ったからそうしたのだ
という言い訳ばかりが出てきてしまいます。

あるいは
通常はこういうケースはこう処理するのだという
人間の心とは関係の無いマニュアル的な処理をしてしまうでしょう。

家族関係や友人関係など
本来壊さなくてもよい関係にくさびを打つこともあるかもしれません。

むしろ弁護士が入ることで紛争を大きくしたり
長引かせたりして
逆に依頼者を苦しめたりするわけです。
これでは何のために高額な費用を支払って
弁護士に依頼したのかわからなくなります。

3 尊敬するという表現でよいのか 尊敬できない場合はどうするか

依頼者を「尊敬する」という表現に違和感を持つ方もいるかもしれません。
「敬意を表する」とか
「尊重する」という言葉の方が受け入れやすいかもしれません。
しかし、私はそれでは意味が伝わらないと思っています。
具体的にどうしたらよいかが見えてきません。
端的に尊敬するべきです。

極端な話をすれば弁護士の依頼者には
犯罪者もいるわけです。
もちろんその行為は尊敬できるものではありません。

第三者から見れば私利私欲に走って行動した結果
紛争になったのではないかと思われるケースもあるでしょう。

それらの行為も尊敬しなければならない
と言っているわけではありません。

問題は人間とは何かということにあるのかもしれません。

例えば犯罪はその人間の本質なのか
私利私欲に走ることがその人間の本質なのか
そういうことを考えればわかると思います。

思考を進めるための補助線としては
人間は誤りを起こすものだということです。
また、人間の感情や行動は、置かれた環境の影響を受けるということです。
ここでいう環境とは、経験や記憶という過去も含まれます。

人間の意思や人格など一貫しているものではないと思います。
かなりあやふやな便りのないものであると感じます。

その人間の弱点、その人の弱点をとやかく言わないで
人間性を信じること
それに応じた対応をすること
それが尊敬するということの意味することの一つなのではないか
と考えています。

人間を根本的に尊敬し
その人のために役に立とうという気持になると
なぜ誤りを起こしたか
なぜ自分の利益を追求しすぎたか
ということが初めて見えてきます。

紛争の解決の方法も見えてくるのだと思います。

私がお話ししているのは精神論ではなく
ある意味実務的な技術論である
ということがお分かりになってきたかと思います。

そうだとすると人間を「愛する」
と言う方が言葉としてはあっているように思われるかもしれませんが、
「尊敬する」の方が私には具体的な方法が見えるような気がするのです。

また、人間は様々な性格、人格が共存していることに価値がある
群としての強さが保障されるという理解も重要だと思います。
自分ができないことをできるということに
無条件に尊敬するべきだと思うのです。

4 依頼者の敵を尊敬するとは

依頼者が被害者で、敵が加害者であれば
依頼者が敵を憎むことは当然であり、
依頼者に相手を尊敬しなさいということには
さすがに無理のある場合が多いと思います。

但し、弁護士まで依頼者の心に寄り添って
敵を憎んでいたら
弁護士業務が不十分なものになると思うのです。

決して宗教的な意味合いのことを言おうとしているのではありません。
あくまでも依頼者の利益のための技術論です。

相手の行動が間違っているというなら
相手方の立場から、相手の立場に立って
何をどうするべきだったと主張することが
最も説得力があると思います。

依頼者側の立場だけで考えてしまうと
結局要求めいたことになってしまい
双方言いっぱなしになってしまうことは
良く経験しているところです。

双方の利益状況と感情を十分考察すること
その結果、なすべき主張も見えてくるし、
和解の譲歩を引き出す可能性も大きくなるし
和解の機運も作っていけるわけです。

裁判の流れや交渉を待っているのではなく
こちらがイニシアチブを取って事態をコントロールすることも
可能になるかもしれません。

こだわりのポイントが双方によってだいぶ違う場合は
本来和解のチャンスです
こちらはこの点はいくらでも譲歩できるけれど
ここは譲れない
でも相手はその譲歩を重大に感じるはずだ
ということで、
和解が成立することも実際はあるのです。

相手が悪い奴だとか憎むべき人間だととらえていると
せっかくのチャンスを見過ごしてしまいがちになると思うのです。

当事者は要求した結果が実現しないと
こちらだけが損をしていると思うことは当然です。
しかし、実際は相手もダメージを受けているものです。
相手の心情、状態を弁護士が分析して
一つの可能性としてアドバイスするということも
自分の依頼者を無駄な葛藤の中にとどめておかないですむ
一つの方法にもなります。

相手を尊敬することによって
少なくとも弁護士に損はありません。
依頼者にもメリットの方が大きい
特に紛争を鎮めるという観点からは
必須の対応だと思えているのです。

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詐欺電話にどうして引っかかるか。高齢者に教えてあげてください。 [民事・消費者]

先ず、固定電話を使っているというところで
今は高齢者の一人暮らしという確率が高いのかもしれません。

知らない電話にもつい出てしまうわけです。
覚えのない電話は出ない。
これが一番です。

高齢者の一人暮らしのご家庭は
お子さんやお孫さんにナンバーディスプレイで
誰からかかってきたかわかるようにしてもらうと良いです。
わからない電話番号は出ないと。
まずここからです。

次にこちらから名乗らない。
電話を掛けた方が自ら名乗るのが鉄則です。

ここで高齢者は、はい○○ですと自分の名字を言ってしまうのです。
こちらの名前を呼ばれるまで名乗らない。
そして、相手がこちらの名前を呼ばないならば

「どちらにおかけですか。」

とはっきり尋ねましょう。
言わない場合は、黙って切って良いです。
相手に申し訳ないのではないかと考える必要はありません。

そんなことをしたら相手に怒られるのではないかと考える必要も無しです。

相手はあなたがどこの誰だからわからないから
心配は無用なのです。

すべて、この電話で聞き取ってメモしているのです。

あなたが○○と名乗ったから
あなたのことをはじめから知っていたかのように
「○○さん」と話しているだけです。

印象的な会社名を言われても
ほとんど何も関係ないです。
NTTなんとかとか電力とか、ファイナンスとか
こちらから用事がなければ切ってかまいません。

住所も知りません
家族構成も知りません。

○○さんのお宅の住所は、そのあたりだと何々区でしたっけ
なんてさりげなく挟み込んで
いつの間にか住所を言わされていたということが多くあります。

間違ったことを言われるとつい訂正したくなって
そうじゃなくて何々区だよなんて言ったり
娘じゃなくて息子だよと言ったりしているのです。
これなかなか気が付かないようです。

一番言ってはならないことは
経済的なことと一人暮らしであることです。

お金を持っていますねとか通帳何冊ありますか
なんて露骨には聞かないようですが
少しずつ語らせていくようです。

こういうのはマニュアルがありますから
逃げることは難しいです。
一番は
なるべく早く電話を切る
ということしかありません。

あなたが高齢者であろうとなかろうと
「私はよくわからないから」
「息子が帰ったら電話をさせます」とか
「明日電話させます」と言って電話番号を聞いてください。
あなたに息子さんがいなくても構いません。
いることにしてください。
もしばれたら、弁護士がそう言っていたと言ってください。

実際、何を言っているかよくわかりません。
それが相手の作戦です。
でも人間はどうしても自分で意味を補って聞いてしまうのです。

とにかく早く切ってください。

繰り返します。
とくに一人暮らしをしている高齢者のお身内の方よく聴いてください。

相手は結構すごいマニュアルを持っています。
会話をしてしまうとどうしても騙されてしまいます。
特効薬は会話をしないことに尽きるのです。

高齢者であろうとなかろうと
とにかく情報を抜き出して悪用しようとしています。

ボケ始めたから一人で決めてはダメだと言ってはいけません。
不正確でもあります。
電話で何かを決めてしまうことは誰でも危険だから
誰でも一人で話を進めてはダメだということです。

年齢にも認知能力にも関係がないのです。

とにかく
息子が帰ってきたら電話させるといって
電話を切ること、インターフォンを切ること
これだけを徹底していただくしかないと思います。


そして消火器くらいのことであれば
誰でも騙されますので、
高額でとても払えないということでなければ

誰でも騙される、私でも騙されるから
仕方がないんだと
あまり責めないでくださいね。

責めたり馬鹿にしたりすると
だまされても打ち明けなくなってしまいます。
お金をだまし取られたことよりも
子どもに怒られたり、笑われたりすることの方が辛いようです。

そして、
とにかく弁護士の無料相談とか
都道府県や政令指定都市の
消費生活相談センター
あるいは警察署の生活安全課に
相談してみてください。

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【支援者・専門家向け】災害がなぜ自殺に結びつくのか。私たちは何を防ごうとするべきか。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


(本件の論証めいた説明は「対人関係学」のホームページで行っています。ここでは、結論だけを示しています。)

1 新型コロナウイルスと自死との関係を債務の問題だけに直結しないことが必要だということ

東日本大震災の経験をした地域では、新聞などでコロナの問題に絡めて自死予防が語られています。これはとても大切なことだと思います。
但し、自死予防の対策として、債務の支払いの問題ばかりがクローズアップされてしまっているという印象もあります。支払いに苦しむことが自死の要因になるということは、弁護士アンケートで、自分の依頼者で自死者や自死未遂者を経験した業務分野がやはり債務問題であるという結果が出たことからも裏付けられていると思います。しかし、債務があっても自死しない人が大半なのです。債務がなくても震災と関連付けられる自死はあるわけです。
もう一つ、統計上は債務の問題と自死の問題が関係づけられるとしても、債務から一足飛びに自死をするわけではありません。私たちの業務分野においては、債務から刑事事件につながったり、債務や貧困が遠因になって離婚につながったりというような関連もあると感じています。即ち、何らかの原因があって、人間は様々な反応行動を起こしてしまうようです。その究極の形が自死だと位置づけるべきだと考えています。実際に、統計分析をすると、自死、犯罪認知件数、離婚、自己破産件数、そして失業は、有意的な関連があります。
つまり一つの仮説として、何らかの要因があると、人間は様々な社会病理的行動を起こす。その極限的な形が自死であると考えるべきだろうと思っています。そうだとすると、自死予防にしても、多重債務にしても、あるいは刑事事件にしても、離婚にしても、共通の原因に対して働きかけることが有効であるということになりそうです。

2 自死その他の社会病理の原因は、不安の持続にあるということ

では、その共通の原因とは何でしょう。
弁護士として、私は、過労自死やいじめ自死の問題を扱い、離婚事件を扱い、刑事事件を扱っていますし、かつては人並みに多重債務の問題を扱ってきました。それらの予防の観点からの仕事も多く手掛けています。これらの行動の共通項は、行為時の思考力の低下です。もう少し具体的に言うと、自己の行動によって将来どのような結果が生じるかという考察ができない、他者とのかかわりを意識できないため自分以外の人間に不利益が生じることを意識できない。自分を守らなければならないという意識が強く働き、これが様々な形で行動の動機となり、かつ、行動を思いとどまることができない要因になっているということが特徴です。
さらにこれを掘り下げてみていくと、その人に自分を危険から守るべきなんらかの理由が生まれていて、不安を感じている。ここでいう危険は、身体生命の危険もありますが、多くは自分の評価が崩壊する等と言った、他者との関係の中での自分の立場のようなものであって、究極的には自分が孤立するという対人関係的危険です。この危険に対する不安を解消したいのだけれど、解消することができず、不安解消要求がいやがうえにも大きくなってしまっている。何らかの理由で、この不安解消を迫られていると感じてしまい、益々不安解消要求が大きくなってしまう。その結果、普段の状態でも焦燥感、閉塞感、孤立感に苦しんでいる。思考は二者択一的になり、悲観的になっている。この状態に陥ると、すべてが自分にとって悪いことだ、あるいは状態がさらに悪くなるという過敏な心理状態になり、さらに不安も感じやすくなるという悪循環に陥るようになるようです。この結果合理的な代替行動を思いつくことができず、身近な不安解消行動に出てしまう。お金はないけれど借金やカードで物を買ってしまうとか、人の物に手を出してしまったり、万引きを止められなかったり、相手を悪く思って攻撃してみたり、このブログでよく取り上げている配偶者を信じられなくなり、むしろ自分を攻撃する存在だと思ってしまうとか、逆に子どもを攻撃してしまうというような様々な社会病理につながるのだと思います。

3 債務から自死に至る経路のいくつかのパターン

債務の問題にしても、この観点から説明するべきなのでしょう。支払いができないほど借り入れをしてしまったり、通常なら返済できるのに失業してしまって支払いができなくなったりという客観的状況が生まれます。そうすると、まじめで責任感が強い人ほど、支払わなくてはならないという意識が生まれます。その結果借り入れして支払いをして利子を二重三重に支払うこととなり、何時しか返済が不能という状態に追い込まれます。これが自己破産の最盛期の平成10年代の自己破産の実態でした。不可能な支払いをしなくてはならないという意識が、慢性的な不可能感を呼び起こすようです。支払日の3日前ほどになると、どうやって次の支払日の支払いをしたらよいのだと眠れなくなる人が多くいました。そして、ついに支払い不能を実感すると、今度考えることは自己破産などをすることによって、自分の社会的評価が下がるという心配でした。ここでいう社会的評価というのは、例えば弁護士のように破産をしたら資格を失うという職業ではない限り、あまり自己破産が表ざたにはなりません。戦前の制度の話をどこからか聞いてきたのか心配する人が実に多かったです。選挙権が無くなるとか、移動を制限されるとか。しかし、その人たちと話しても、選挙に行くことができなくなっても特段苦痛を感じないし、海外旅行に行く予定などないということなので、現実的な具体的な心配ではないのです。もっとも強い心配は、家族に知られてしまうことでした。いずれにしても、対人関係的心配ということが主としてありました。その結果、判断力を失い、危険だとわかっていながらヤミ金等に手を出していくわけです。

4 自死に向かう悪循環と希死念慮

つまり、人間に社会病理的行動を起こさせる思考力の低下の原因は、自分を危険から守る手段がないという不可能感、そしてそれが長期にわたって持続することにあると思います。その結果としての孤立感と眠れないという睡眠不足がますます思考能力の低下を招くのだと思います。そして、その結果、将来的な因果関係や他者と自分の正確な関係の把握が困難となり、焦燥感と悲観、二者択一的思考のスパイラルに陥っていくのです。
自死を企てて未遂に終わった何人かの人と対話をしたことがあります。苦しみ続けて出口が無くなると、死ぬことを思いつくそうです。死ぬというアイデアが浮かんでしまうと、それがほのかに明るく、温かく感じられるそうです。そうしてやがて、自分は死ななければならないという強い強迫観念が生まれてくると言います。希死念慮というのは、世間で言われているより強烈なもののようです。
例えば会社でパワハラを受けている人は、そんなに苦しむなら会社を辞めればよいと誰しも思うでしょう。パワハラを受けて反発しているときは、その人もいつでもこんな会社辞めてやると考えていたと言います。しかし、後で考えると明らかにうつ状態になっていたという時期になると、不思議と会社を辞めるという考えを持てなくなっていたそうです。このまま苦しみ続けるか死ぬかという

5 自死対策は死なないための対策ではなく幸せに生きるための対策であるべきこと

二者択一の選択肢しかなくなるようです。
私は少し意地悪く考えているのかもしれません。どうも自殺対策というと、人が死なないようにする対策だと考えている人たちが多いように感じるのです。しかし、不安と解決不能感と孤立が多くの社会病理の原因だとすると、その解消手段、目についた解決方法に飛びつくということは、けっこう偶然の要素が多きように思われるのです。たまたまその人は万引きをしてしまったけれど、一つ間違うと自死をしていたとか、たまたま自分の苦しみのすべての原因は夫であると思って離婚したけれど、事態をきちんと把握していた自死をしたかもしれないとか、たまたま死なないで済んだという可能性があります。また、多重債務、離婚、犯罪等、不安解消行動の結果、それが新たな解決不能感の原因になり、自死の要因になるということも簡単に想像できることだと思います。死ぬかもしれない状況に置かれてから対策を始めても、効果のある対策はなかなか難しいというのが実感ではないでしょうか。死ぬことの防止ではなく、生きることの支援だということは、その意味で正しいと思います。
私は、もう一歩前に進んで、幸せに生きるということをもっと喫緊の課題として考え始める時期になっていると考えています。

6 新型コロナウイルスの危険性が不安の持続と過敏になりやすい要因を作っていること

現在の新型コロナウイルスと、自死の関連についての問題に移りましょう。
新型コロナウイルスの不安は、どのように感染するのか目に見えないということと、なかなか終息しないというところに特徴があります。日常生活を送っているだけで、感染のリスクがあるように感じてしまう。それがいつ終わるかわからないから、通常の生活をすることができない。ひとたび感染すると入院を余儀なくされ、場合によっては命を落とすこともある。リスクに正面から向き合ってしまうと、そこから解放されたいという要求があるにもかかわらず、解放されるための手段がないという典型的な悪循環に陥りやすいパターンになっています。そうすると、不安解消要求が高くなってしまい、あらゆる不安に過敏になってしまう可能性があります。新型コロナ感染の不安は、純然たる身体生命の危険に対する不安ですが、それが対人関係的な不安を引き起こしやすくなるということです。さらにこれが持続し、睡眠が十分取れないということになると、思考力が低下し、焦燥感と悲観的傾向が表れ、二者択一的思考、将来の因果関係を考慮できなくなり、他者との関係性を把握できなくなる。将来的な孤立感が不安をますます大きく、過敏を助長する。このような悪循環に陥りやすくなります。通常ですと、自分の病気以外では、対人関係的な不具合から不安が始まります。しかし、新型コロナウイルスの現状からは、それ以外に人間関係が良好であっても、不安傾向が持続し、悪循環に陥るということが起こりやすい状態になっているわけです。

7 当面の解決方法

せめて新型コロナウイルスが収束したり、特効薬が開発されたりすれば、不安の持続と蔓延も軽減されるでしょう。しかし、そのような動きを期待していたのでは、有効な対応を打つことができなくなります。
当面の解決方法としては、2つの行動が考えられます。
一つは、不安の中断です。
もう一つは、孤立感の軽減です。

1)不安の中断方法

まず不安の中断方法についてお話しします。
不安それ自体は、危険から身を守るためのきっかけとなる仕組みです。不安を感じると恐怖を覚えて逃げたり、怒りを覚えて戦って危険を無くそうとするわけです。不安を感じないと無防備に危険にさらされてしまうわけです。ところが、人間の不安を感じ続けられる時間は、そう長い時間が用意されていません。早く結論を出したくなってしまいます。不安が持続すると不安を解消したいという要求が強くなってしまいます。これが悪循環の大本です。そうだとすれば、不安を一時中断することで不安の持続からは逃れられることになります。
そんな都合の良いことができるのかということが疑問になることと思います。ところが、多くの人間は、この中断を自発的に、無意識に行っているのです。考え続けても良い方法がないと思って、もう投げ出してしまう。あるいはあきらめてしまうということがあります。あるいは、またあとで考えるから、今日はもう眠ろうとか。それができる人は不安を中断しているわけです。ところが過労自死の例でよく目にするタイプの人は、問題を先送りにすることができないで、解決するまで考え続けてしまうことによって、不安を持続させてしまっています。過労自死をする人はこういうタイプの人が多いようです。しかし、不安が持続してしまっていると、既に思考能力が低下していますので、合理的な解決方法は思い浮かびません。ただただ不安を感じ続けているだけだというのが、残念ながら実態に近いようです。不安を中断するためには、過度の責任感は有害なのです。
不安を中断するために、支援者や医療機関さえも口にするのは、「不安を忘れろ」という指示です。しかし、不安を忘れようとしても、それはかえって不安と向き合うだけになることが通常の結論です。結論は不安を一次忘れることなのですが、それに誘導しなければなりません。
不安を一時中断させるための方法は、別のことに取り組むということです。まじめで責任感が強く、不安スパイラルに陥りやすい人ほど有効です。実際の臨床心理の報告例では、不安症状のため休職を余儀なくされた方が責任感から早く仕事復帰したいと焦り、医師の働くことを考えないでという指示を実現できそうになかったそうです。臨床心理士が、この責任感を逆手にとって、会社を休職しているうちに家庭の中で役割を果たすように指示を出しました。まじめで責任感が強い人なので、家事や育児にまい進しているうちに、見事会社のことを忘れ、どんどん快方に向かったそうです。
何に取り組むことで、その人が夢中になれるのかについては、人間の数だけ答えがあると思いますから、その人なりの行動を提起するべきであって、一律にマニュアルで処理をするような安易な考え方は捨て去るべきです。
もっと楽しいことが良いと思います。ジャズでも映画のような娯楽でもよいですし、何かの研究なども突き詰めれば夢中になれるものです。その中でも社会的活動や家族のための行動というのは効果的であると思います。
肝心なことは、そのことで新型コロナウイルスやその他の懸案事項を忘れ去らなければならないわけではないということです。一時的に別のことに集中できればそれでよいのです。一時的にも不安が解消されることによって、思考力が回復し、希望が湧いてくる。これが東日本大震災の原子力発電所の爆発による放射能の不安から解消された特効薬でした。絶望から一時的に解放されることの効果はとても大きいということが震災の教訓です。

2) 孤立感の解消=コミュニティーの強化

人間は孤立に耐えられない動物のようです。孤立に耐えられないからこそ、言葉もない時代から群れを作ることができ、子孫を遺してきたわけです。孤立感を解消するためには、一番良い方法は家族と一緒にいることです。
しかし、孤立感は、むしろ集団の中にいることによって感じ易くなります。現状の孤立よりも、将来の孤立の不安の方が人間の心理にとって悪影響を及ぼすようです。
このため、将来の孤立を予感させる出来事があると人間は不安を感じるようにできているようです。この不安こそが対人関係的危険にもとづいて発生する不安です。その孤立を予感させる出来事は、集団の中で否定評価をされるということです。自分だけ能力が劣っていると批判されたり、笑われたり、責められたり、失敗を許されないとか、努力をだれもねぎらってくれないとか、発言を許されないなど他の人が認められることが認められない差別などです。自分だけ情報提供されないとか、食料の分配が少ないとかということもあるでしょう。その極端な形態が、暴力や暴言などの仲間からの攻撃を受けるというでしょう。暴力を受けると体は傷つきますが、暴力によって暴力をふるってもよい存在だという強烈なアピールを受けることによって心が傷つくわけです。本来であれば健康を気遣ってほしいのですから。
ところが、対人関係的危険とその心理的影響については、あまり言及されていないように思われます。虐待というと暴力暴言と同義に扱われている場合もあります。しかし、仲間から否定評価されて、将来的な孤立を突きつけられるというところに危険の本質があるわけです。
では、否定的評価をしなければ良いかというように考えがちですが、それは人間はできません。ニュートラルな扱いは、家族の中ではありえないでしょう。少なくとも想像することは私にはできません。否定をしないのではなく、尊重するしかないと思うのです。
自分が仲間から尊重されていると思うと、孤立感は解消され、不安感も和らぎます。仲間のために何かできることを探してしようという意識は、不安を軽減させたり中断させることにもつながります。
では、どうやって尊重を実感してもらうか。孤立を予感させる出来事をしないのではなく、その逆をすればよいということに気づかれたと思います。
能力や失敗について、責めない、笑わない、批判しない。むしろ、別の仲間がカバーする。そんなことで孤立させることはしないということは、大変ありがたいことです。我々は赤ん坊の時にそうやって大人から面倒を見てもらっていたわけです。
また、努力にはきちんと感謝の気持ちを伝えるということ。労うこと。そうすると仲間のために行動することが楽しくなります。
発言はきちんと最後まで耳を傾けましょう。最後まで聞いて、メリットに共感し、デメリットについてどう考えるかということが話し合いです。最後まで聞いてもらえればそれだけで満足することもあります。
意識的に情報提供をしなかったり、分配を差別したりということは実際はないのですが、過敏になっているときはそれを感じやすくなっています。もしそうなればきちんと訂正することが有効です。
これらのことができないのは、自分を守る意識が強すぎる時です。つい、自分の不具合を認めることができずに、他人に八つ当たりをしてしまうということから起きてしまいます。気が付いた人から仲間の中では自分を守ろうとせずに、仲間の不具合を引き受けることが肝要でしょう。そうすると仲間もまねをするようになっていきます。
大事なことは、これを完璧にやろうとしないこと。仲間との衝突はどうしても起きてしまいます。むしろここからが大切なことかもしれませんが、仲間との衝突に対するリカバリーです。衝突した相手が心細く思っているわけですから、衝突したことを忘れたふりをして、いつも通りの態度に復帰するということが有効です。相手が子どもであれば、愛情を表現することも必要になるかもしれません。もしかするとしつけと虐待の最大の違いは、フォローのあるなしなのかもしれないと最近は思っています。
この仲間として最適な仲間はやはり家族です。家族の修正を積み重ねていくことによって人々は幸せになっていきます。現代社会の家族は、相互に尊重し合う余裕と知識がない、それには時代的な背景があると感じています。
せっかくの自粛の機会です。より幸せになるために家族の状態を向上させるという取り組みをするべきだと思います。それが人間ならばやるべきことだと思います。

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震災の時に絆を強めた夫婦と離婚に至った夫婦の分かれ道 とにかく一番近くにいること [災害等]

東日本大震災の後離婚案件が増えました。
統計的なことはわからないのですが、
弁護士同士の会話の中で出た実感みたいなものです。
面会交流事件も増えましたが、
これは震災の前から増えだしていましたので
震災だけが原因ではありません。

震災後の離婚事件では
何かしら震災の影響がありました。

震災直後の離婚では、
夫が自宅におらず、別のところに行っていた
ということから一気に離婚の意思が固くなる
ということがありました。

例えば実家とか
例えば、被災した友人のところとか

つまり、交通機関の途絶で帰れなかったとか
公務員なので被災者の生活を支援していた
というのではないのに、
家にいなかったというものです。

それなりの事情はあるようなのですが、
一番困っている時
一番誰かが近くにいてほしい時に
いないというのは、やはり心が離れる原因になるようです。

この反対に
別居をしていた夫婦で、
妻の別居先に尋ねて行って
水や食料等を運んだ夫は
離婚は避けられませんでしたが
子どもとの面会というか交流が正常に行われるようになった。
という事例もあります。

それでもうまくいかなかった事例もあります。

コロナの不安は、長期戦になる可能性も強くあるでしょう。
せめて、家に帰ったときは
ほっとする時間になるようにしないと
離婚が増え
親に会えない子どもが増えてしまいます。

先ずは一緒にいること
(一緒に入れない場合は、電話やメールで連絡を取り合うこと)
そして、相手の否定評価と指図だけにならない会話をすること
つまり意味のない会話をすること(これは社会人は苦手なのだけど)
なお、衝突することはあるのですが、
問題はそれを引きずらないで
まあいいかと新しいページをめくること
ということになると思います。
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解消しようのない不安の解消方法 誰かのために行動すること コロナ疲れの影響を最小限にするために 東日本大震災の教訓 [災害等]


象徴的なのは、平成23年のプロ野球の開幕の際に
嶋基弘捕手がしたスピーチです。
「誰かのために戦うものは強い」

これは、被災地では感動をもって指示されたスピーチでした。

野球選手だけでなく
一般の地方公務員の方々も
自分や自分の家族の生活をなげうって
震災復興に不眠不休の活動をされていました。

でも、彼ら、彼女らも被災者でした。
住民からの気遣いの言葉があれば
号泣してしまうほどの悲惨な体験をしたり
小さな子どもを家族に預けて活動していました。

一般のお父さん、お母さんも
ライフラインの途絶の下で
今度いつ食料が入るかわからないため、
今ある食糧を子どもたちに優先に食べさせていたので、
だいたいは2,3kgはやせたでしょうか。

その直後、福島第1原子力発電所の爆発がありました。
放射能の恐怖は、目に見えないこともあって
言い知れぬ恐怖を覚え、
色々なことに敏感になりました。

まじめに考えれば
チェルノブイリとの比較で語られるほど
大惨事として、人体への影響の恐怖が沸き起こります。

被災地全体に閉塞感が生まれていきました。

それでも私たちがたくましく生き抜いたのは、
一時しのぎを大切に活用したことと
我が子のために頑張るという行動でした。

自分一人であれば、あれもこれも不安の材料となってしまい
正常ではいられなかったかもしれません。

自分を捨てて家族のために頑張るということは
不安や恐怖が感じにくくなったという体験をしました。
平成23年4月7日の大地震の時もそうでした。
二度目の大地震のために今度こそマンションが崩壊するのではないか
ということまで感じましたが
自分が盾になって家族のダメージを少しでも軽くしようとしたときは
自分の命が無くなるという恐怖は感じていませんでした。
瞬時にとてつもないハイ状態になっていました。

今回、コロナウイルスがどこまで拡散するのかわからない状況です。
季節的なのどの痛みや咳の症状が出ても
コロナではないか、コロナと疑われるのではないかなど
心配の種は尽きません。

今回は自分を捨てて家族を守るという
直接のシーンはないでしょう。
家族がコロナウイルスにり患したら家族も罹患するリスクが高くなります。

しかし、家族を安心させよう
一時的にでも家族を楽しませよう
あるいは、余計な不安を与えないようにニコニコしていよう等
家族のためにできることはたくさんありそうです。

特に人間は、不安を覚えると
それを解消したいという不安解消要求が起きて
不安解消行動に出ます。

不安解消行動が見つからないと
不安解消要求だけが大きくなり、
悲観的な考え方が増えたり、過敏になったりします。

逆に、余計な心配を与えず
家族を尊重している、
家族の不安を否定しないで受け止める
ということを行い、
少しでもニコニコして暮らせるよう奮闘することは
コロナ疲れを生まないために極めて有効だと思います。

できるだけ家族の感情などを受け入れて
そうだねと言えると良いと思います。

精神的には結構きついところもあると思いますが
これができるようになれば
コロナがなかった場合よりも
家族はあなたといることが楽になるでしょう。
そしてあなたのまねをするようになると思うのです。

コロナを利用して家族のきずなを深めようではありませんか。

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コロナ疲れから家族のメンタルを守る。一時しのぎが貴重な時間であることが東日本大震災の教訓 [災害等]

ついに非常事態宣言が出ました。
不安が募ることは仕方がないことです。

しかし、ただ不安を継続していると
それは自分や自分の周囲にダメージを与え続けるだけで
いわば二次災害とでもいうような
マイナススパイラルに陥ってしまいます。

不安になってもならなくても結果が同じならば、
一次不安を中断した方が得だということもありそうです。
強い不安が継続してしまうと
人間はものを考える力が著しく衰退してしまい
思わず不合理なことをしてしまう原因にもなりますので、
かえって危険になる場合もあります。

また、自分が不安に感じているとか、焦っているとかということは
自分では自覚できないということもあります。

これからお話しすることは
とりあえず試してみて損はないと思います。

状況が似ているところもあれば
違うところもあるのですが、
東日本大震災の時も
地震と津波の外に原発事故の放射能問題という
目に見えない恐怖、不安があり、
被災地には閉塞感がありました。
さらに加えて自粛ムードがそれに拍車をかけた側面があるのです。

例えば芸能人のイベントとか
例えばプロスポーツなどによって
一時的に不安を忘れたことが
とても心強く、
希望と意欲を与えてくれたと思っています。

一時しのぎは、とても大切なことだというのが
教訓でした。

さて、どうやって不安を一時中断するかということですが、
これは人間の脳の特性を利用するのです。

人間の脳は、同時に複数のことを考えられない
という特性があるようです。
「私は同時に考えることができる」という人の多くは
実は、時間差で細かく分断して考えているようです。

そうすると案外不安を一時忘れることは簡単で、
別のことに夢中になることで
脳から不安を感じる力を奪えば良いということになりそうです。

東日本大震災の原発事故の時と違うのは
みんなが集まって何かをすることができないということです。
いわゆる3密を避けてできることを
家族で行うということが良いと思います。

映画、DVDなんかはお勧めで
インターネット回線でも観る事ができます。
将棋やゲームなんかもよいでしょうね。
家族で何人かでそれをするということが有効だと思うのです。

料理やお茶会などもよいでしょう。

面白くなかったら、みんなでそれで笑いながらがっかりする。
というのも楽しい思い出になるでしょう。

一日中一緒にいるならばせめて2時間くらい
そういうみんなで何かをする時間を作ることで
結構不安を中断させることができると思います。

家族のために何かをする
家族の不安解消のために何かをする
これが大事です。

自分一人の場合は、不安に押しつぶされそうになっていても
家族の不安を一時的でも解消してあげたいと思うと
人間は強くなることができるようです。

どうやら人間は、
自分を守るときよりも、
仲間を守ろうとするときの方が
強くなっていることが多いようだということも
東日本大震災の教訓です。

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新型コロナウイルスに乗じて家庭破壊が行われる。DVの原理と思い込みDV(虚偽、誇張DV)の原理は根は一つ。家庭を守り、子どもを守るためのやさしさモードのスイッチとは。 [災害等]



ついに国連の職員まで、外出自粛に伴うDV増加を言いだしました。
そのような統計的裏付けもなく、単なる思い込みの声明のようです。
そして、この女性保護名目の動きの行き着く先は、
多くの家庭を分離、崩壊させてしまだけのことになりかねません。
この場合の一番の被害者は親から引き離される子どもたちです。
私たちは自分の家庭を守り、
子どもたちが両親から愛される権利を守らなければなりません。

実は、DV相談の少なくない割合が、実際はDVがなかったり
程度が全然違ったりする思い込みDVのケースです。
確かに新型コロナウイルスをめぐる社会は
DVが起きやすくなりかねない条件があるのですが、
同時に思い込みDVの訴えが起こりやすい条件でもあるのです。

人間の日常の行動や感情は、必ずしも合理的ではなく、
罪のない相手を攻撃する結果になることを
なかなか防ぐことはできません。
しかし、DVや思い込みDVの起きやすくなる原理を理解すれば
対策を立てることができます。
一つの考えを述べさせていただきたいと思います。

1 DVの原理と新型コロナウイルス情勢

私の研究からすると、DVは、分離不安から起きます。
いつまでも相手と一緒にいたいのだけれど
相手から自分が低評価されているのではないかという不安が起き、
相手を引き留めておくために、
相手を否定し、自分のもとを離れたら外に行くところがない
ということを印象付けようとする場合、

そこまで考えなしに行うDVとしては、
自分に対する否定評価は間違っているという苛立ち、
あるいは自分の自信がないために無理やり相手を従わせようとする
相手が自分のもとを去らないことの確認が欲しい
ということから服従を求めてしまう
と言ったような分離不安が根元にあることが多いようです。

強がって、偉ぶっている人ほど自分に自信をもっていません。
自信がないから虚勢を張るわけです。
群を率いる雄ライオンなんかは
たてがみは立派ですが、
通常はボーっとしているではないですか。

つまり怒りや苛立ちは
合理的理由がある行動ではなく
不安を解消しようとする悪あがきであり、
通常は逆効果になるわけです。

このような分離不安は、
対人関係の不具合をきっかけにして起きることがありますが、
他の要因で何らかの不安を感じていると
不安を感じやすくなる状態になってしまっていることが多いようです。
過敏になっているため、通常は不安を感じないことに対しても
何か危険があるのではないかと不安になりやすいということです。

例えば、職場の近くで発砲事件があったとします。
犯人も捕まって平穏が戻ったはずなのですが、
夜遅く、仕事帰りに職場から出ようとした瞬間
花火が鳴ったりしたら、
いつもなら「大花火か見てみよう」なんて暢気に構えているのに
「また、発砲事件なのではないか」と
外に出ることが怖くなるということは想像できると思います。

他の不安によって、危険を感じやすくなって
ありもしない危険に対応しようと脳は身構えてしまうのです。

新型コロナウイルスも私たちに大きな不安を与えています。
感染して肺炎になると死ぬかもしれない
職場が閉鎖されて仕事がなくなるかもしれない
不況になって生活が困るかもしれない
あちこちに患者があふれて死者が急増するかもしれない
そもそも自分だけマスクが買えない

不安の種は、山ほどあります。

私たちは相当過敏になっているはずです。

人間は不安を覚えると、
不安を無くしたいという要求が自然にわいてきます。
そうして、不安の原因から逃げる行動をしたり、
不安の原因を除去すべく戦う行動をとったりして生き続けようとするわけです。
しかし、不安の原因が逃げても戦っても除去できない場合
不安を解消したいという要求だけが強くなっていきます。

そうすると、何でも良いから不安を解消したいということで、
誰かを攻撃してでも不安を解消してしまうようです。
八つ当たりとはこういうふうに生まれます。

怒りは、何らかの不安があり、
自分が勝てると思った相手に向かう性質があり、
不安の原因に向けられることはあまりないようです。

自分より弱いと思っている女性や子どもに怒りが向かう危険がある。
これが、DVが増える要因として考えなければならない理由です。
同じ原理は、女性から子どもの虐待の場合もいえるでしょう。
子どもから子どもへのいじめの原理も同じだと思います。

2 思い込みDVの原理と新型コロナウイルス

思い込みDVの原理は大筋同じです。
先ず、不安を感じる。
この場合の不安を感じる要因は、
男性の場合は、職場での不合理な扱いや社会的な不遇が多いのです。
誰かから尊重されていないと感じる不安です。

女性の場合も、職場や友人関係等での不合理な思いもあるのですが、
特に合理的な理由がなく
とにかく不安を感じるという病的ケースも一定割合あります。
自分の産んだ子どもに何らかの問題が発生した場合も
父親よりも不安が増大するよう場合もあります。

夫が理解できない理由で
不安を感じていることがあります。

不安の中身としては、
自分だけが損をしている
このまま何か悪いことが起きるのではないか
自分が尊重されず、自分の人生を歩めない
というようなことが多いように思われます。

この不安も
他の不安によって、過敏になってゆくようです。
新型コロナウイルスの社会現象では、
外出できない、先の見通しがつかないという
閉塞感、早く終わりにして欲しいという焦燥感が
他のわずかな刺激を過剰に感じる原因になっています。

具体的理由のない病的な不安の場合は
自分の不安がどこから来るのか
言葉で言い表せないことも苦しいことです。

何とか不安の原因を突き止め
不安を解消したいという要求はとても大きくなっているでしょう。

こういう時、夫の何気ない行動が
例えば、部屋にゴミが落ちていることを夫が見つけた様子とか
ご飯の味付けにリクエストがあったとか
そういう事務連絡的会話が
いちいち自分に対する非難のように感じてしまうことがあります。

収入が少なくて家に入れるお金が足りないだけなのに
収入を隠している経済的モラハラだとか
感じやすくなるようです。

そんなときに、つまり合理的理由がないのに過敏になっている時に、
日常的な夫の言動を
「それはモラハラです」とか、「それはDVです。」とか
権威のある他人から言われてしまったら、
不安解消の原因はこれだ、解消の方法は別離だ
と飛びついてしまう
不安解消救急を満たす具体的方法だと
と飛びついてしまいたくなるわけです。

言語化という魔力だと常々感じています。

そのような言葉のマジックで親が別居、離婚した場合、
子どもが一番かわいそうです。
子どもには何の罪がありません。
親の不安解消行動に突き合わせて良いということは全くありません。

3 ではどうするか、相手を尊重するとはどういうことか

お互いに、自分のせいではない相手が悪いということで、
現状を放置するのはあまりにも無責任です。

わずかの工夫で、不安を和らげることができます。

もし、新型コロナウイルスでこの世の終わりが来たら、
その中で一番幸せな人は
助け合って生き延びる家族の中で
自分の役割を果たしていると実感できる人だ
と結論だけ言っておきます。

やるべきこと
第1は新しい不安刺激を与えないこと  です。

家族同士が与える不安は分離不安です。
自分が一人ぼっちになってしまうという不安です。

一人ぼっちになる不安が起きる場合は
自分の行動を否定評価される
自分の失敗を責め立てられる
自分の性格や、出身等その人が自分で何ともできないものを
否定的に評価される。
性格を否定評価される。
努力を評価されない。
等です。

この逆をすることは案外簡単で
どんなことがあっても相手を否定しない
ということに尽きるということになります。

言葉で非難しないだけでなく、
表情や態度も
いいから、気にしないで
という状態にしなければならないことは当然です。

やるべきこと
第2は、ワンチームを意識する

家族はそれぞれが家の仕事を分担して役割を果たして成り立っています。
収入を入れる人
衣食住を整える人
世話を焼かせて役割意識を持たせてくれる子どもや年寄り
笑いや娯楽のリーダーシップを取る人

誰かのために役割を果たそうとする場合
誰からも非難されてはならないことが
家族のために行動することです。
大威張りで家族のための行動を起こしましょう。

一般的には自然の成り行きで役割分担をしています。
それぞれの部署で努力するばよいわけではなく、
相手の行動は家族全体のための行動なら
手が空けば自分も一緒にやるべきです。
リターンは自分たち家族にやってきます。

何か不具合があったからと言って
一度役割分担をした以上
その人を責めてはなりません。
家族全体が責任をとるべきことだと考えましょう。

八つ当たりをする場合は
このワンチームの意識が決定的に欠けている場合です。
家族の誰かから自分を守ろうとしているのですから
家族の中に対立構造を持ち込んでいるわけです。

家族の中で対立している場合ではないでしょう。

ワンチームで、つまり、ドンマイの声掛けとフォローです。
わざとらしく、照れないでやり抜きましょう。

やるべきこと
第3は、自分を捨てるということです。

実は以上3点のことは同じことを別の側面から言っています。
自分を守ろうとするから家族が敵に見えてしまう。
自分が家族のために捨て石になっても構わないというくらいになれば
家族から批判されても、ごめんなさいねと
謝ってみせることができるわけです。

そうすることで、「こんなこと言ったら怒るかしら」
とドキドキしていたのに怒られないとわかると
相手も安心して来るでしょう。

一国の首相でさえ、自分を捨てていらっしゃいます。
どこまで役にたつかわからずデメリットはたくさん指摘されている
布マスクを2枚配布するということをおっしゃり
国民の不安解消行動である怒りをご自分に集めようとしています。

家族の中に首相はいませんが
一人一人が自分を捨てて、
ワンチームの中で役割を果たすという意識で
この情勢は乗り切るべきだと思います。

そして、
不安を一瞬だけでも忘れる娯楽、笑いを提供する
心配をしていないそぶりを見せる
こういう高度な不安解消行動を提供することができるようになると思います。

もしかしたら、新型コロナウイルスの一番の危険とは
家族崩壊というとんでもない2次被害かもしれません。

これまで、思い込みDVだとか連れ去り問題だとか
ご自分には関係がないと感じていらっしゃる方が大半だったと思います。
しかし、新型コロナウイルスの社会情勢は
DV以上に、思い込みDVを多発させる危険があるように感じています。

家族を守って、子どもたちが親から愛される権利を守りましょう。





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