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裁判所に、「子どもの福祉」とは、将来を見据えた健全な成長を図るということである」ということを理解してほしい。 [家事]



親が離婚した場合どちらの親が子どもの親権を取得するか
離婚していない場合でも共同監護ができない場合
どちらが監護者となり、どちらと住むか
親同士が離れて暮らす場合に、一緒に住まない親と子どもを会わせること
家庭裁判所では子どもの一生が決まりかねないことが決められます。

子どもの権利条約を受けて
子どもを親の付属物としてみることから
子どもを独立した一人の人間として認めること
子どもには親の利益から独立した独自の利益があるということ
これらのことを強化しようと法改正もなされました。

しかし、裁判実務は果たして変化したでしょうか。
私には大きな変化があるとはとても思えないのです。

法改正の前から
子どもの一生に関わる親権、監護者、引き渡し、面会交流は
子の福祉を第一に決定されるべきだ
という考えはあるのです。

その考えはあるのですが、「子の福祉」という概念、価値観が
それらの判断の基準なり、根拠とはなっていないように感じてなりません。

私は、両親の離婚についてだって、
子どもにとっては家族の形が変わるし
生活の様子が変わるのですから、
自分の一生を左右しかねないわけですらか、
子どもが離婚に反対する権利があったって良いように思えるのです。
しかし、子どもには、両親の離婚について、つまり自分の一生について
意見を言う権利は認められていません。
せいぜい、お父さんとお母さんとどちらと暮らしたい
ということを言えるだけです。

不合理だと思いませんか。

それも、一緒に住んでいる親に気を使って
どちらと暮らしたいと言っていることは誰でもわかることなのですが
子どもの発言が鬼の首を取ったように扱われて
子どもが言ったからということを理由にして決められてしまいます。
まるで、子どもが自分の未来に対して
自己責任を負わせられているようなものです。

原因は色々あるのですが
家庭裁判所が、「子どもの福祉」ということを理解していない
ということに大きな問題があることは間違いないようです。

家庭裁判所の審判書や判決書を読むと
「子どもの福祉」という文字は出てきます。
しかし、本来の意味での「子どもの福祉」ということが
検討されている痕跡がないことがほとんどです。
さすがに、経験トップの裁判官等の審判書では
まじめに検討されていることがわかるのですが、
なにぶんその他の裁判官は家庭の問題を判断するには
若すぎるという印象があります。
若い裁判官が書いた審判書を読んでも、
探しても探しても子どもの将来の利益の検討が示されていることはありません。

ただ、「子の福祉」という文字を置いているだけなのです。
枕詞のように文字が置かれているのですが、
枕詞に掛る言葉がありません。

「子どもの福祉」の意味は確定しています。

「子の将来を見据えて考えるべきものであり、行動科学の知見を踏まえたうえで、どのようにしたら将来子が健全な成長を遂げることができるかという社会の良識にも配慮した視点で考えるべきものである」(例えば、「子どものための法律と実務」安倍嘉人、西岡清一郎監修(日本加除出版社)16頁)

と最高裁以下、「子どもの福祉」について共通認識に立っているはずなのです。

ポイントは、今、問題が起きていないように見えても
将来的に問題が起きる可能性があるのであれば、
しっかりそのデメリットを回避するようにする。
ということです。

現在の家庭裁判所の多くで、
この子どもの将来を考えた痕跡ばかりがない判断ばかりが目につきます。

だから、
面会交流をしなくても、現在子どもは支障なく学校にも行っているとか
突然友達や父親から離されて、自分の部屋や持ち物も置き去りにされた
けれど子どもが「帰らなくてもよい」と言うので
子どもを住んでいた家に戻さなくてもよい
というようなことを本当に家庭裁判所が書いているのです。
本当ですよ。

子どもの将来についての考察はなく、
煎じ詰めれば子どもだから母親と一緒に暮らすべきだ
ということで終わっているのです。

子どもが、「元に戻らなくてもよい」といった時の
その気持ちも考えていないし、
将来影響が出るかもしれないということも
裁判所の文書からは全く考えられていないように感じます。
私には、父親と会いたくないといった日の夜
ベッドでそれを思い出して張り裂けそうになっている子どもの姿を
想像して切なくてたまりません。
子どもがかわいそうだという考えが裁判所においても通じないのは
現代社会の反映でしょうか。

愚痴のようになってしまうのですが、
子どもが子どものままでいると思っているのではないでしょうか。
人間関係の断絶が新たな人間関係の形成に支障を生む
という発想はないのでしょう。
これを近視眼的というのだと思います。

法律学においては
明治期の立法者や大正時代にかけての法学者が
人間とは何か、人間が生きるとは何か、
人間のつながりとは何か、
ということについて深遠な洞察を行ってきました。
そしてそれを受けて裁判官たちが判例を作ってきました。

現在では、人間の営みを探求することなく
初めから結論を決めつけて
つまり何も考えないで印象だけで結論を出している
と感じることさえあります。

おそらく人間の心情や行動、成長
そういうことをはじめから理解しようとしていないのでしょう。

もっと、自分たちが
人の一生を左右させる仕事をしているという
責任感と緊張感を
審判書や判決書の中で見せてほしいと思います。

せめて言葉の意味だけは
自分勝手な使い方をしないで
決められた意味で使用するようにしてほしいと思います。

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