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「パンと見世物をよこせ」は案外正しく必要な政策だと思う理由。特に見世物をよこせ! [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

「パンと見世物をよこせ」

ローマ市民が堕落していることを象徴した言葉とされていると
中学だったか、高校だったかで教わりましたね。

でも、これ案外人間不変の真実だと思うのです。

見世物がサーカスか何か議論があるようですが、
要するに、ほっと一息つくという時間なのだと思います。
大勢の人間の中で生きていると
何かと緊張をしたり、不安になるわけで
人間は放っておくと疲れていくようです。
メンタルは放っておくとやられるわけです。

何かをしないという休息だけで解決できる問題ではなく
何かに夢中になる時間があることで
緊張から解放され、不安を忘れることができるのだと思います。

その何かは人によって違うのでしょう。
高尚な学問や思想に没頭して癒される人もいれば
プロレスなんかを見てストレスを発散する人もいるわけです。

私は、この「見世物」が人間にとって必要なもの
だということが言いたいわけです。

高尚なことの没頭の一つは宗教だと思います。
キリストも、人はパンのみに生きるにあらずということを
おっしゃっているようです。
もちろんこれは見世物ではなく
神様の言葉によって生きるのだということのようです。

見世物と神様の言葉を一緒にしたら申し訳ないのですが、
共通点があると思います。
具体的な人間関係の切り結び、損得勘定から離れたところの
究極の癒しが神様の言葉なのだと考えると
だいぶ俗っぽく低級にはなりますが、
見世物も結局

具体的人間関係の切り結びや損得勘定を
そのときだけでも忘れることのできる貴重な時間で
それがあることによって
生き生きと生きていける
それが人間なのだと
そう思えてくるのです。

今のコロナの自粛ムードの中で
スポーツや芸能も観客を集められないからと自粛されてしまうと
パンだけで生きていかなければならないということになりそうです。

勉強や思想だけで、人間関係のしがらみから解放される
という人はあまりいないように思います。
また、そういういわゆる高尚な高級な人たちの社会というものを
本当に理想とするべきなのかについても
最近特に疑問に感じてなりません。

力を入れずに、どうでもよいことに夢中になる
その場が終われば引きずらないということが一番ではないか
その意味ではスポーツや芸能音楽というのは
最適の見世物のように思うのです。

コロナで解雇や賃金カットがなされ
パン(生物として生きる糧)も足りない状況になっています。
その援助を社会がもっともっと行う必要があると思います。

同時に、集客してはできないならば
テレビやインターネットなど
安価に、しかし、芸能人やスポーツ選手や関連会社の足を引っ張らない方法で
大衆に娯楽を提供することも
必要なことだと思うのです。

特にコロナの影響が長期に続く場合は
見世物を社会が工夫して実施する必要があるのですが
それが一段低級、不必要なものとして扱われることは
間違っているというのが私の結論です。

不要不急であり後回し
ということは間違っているということです。

どんどん安価な娯楽が供給されるべきです。

愚民政策ではなく、人類普遍の政策であると
コロナを通じて考えました。



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子どもにとっての別居親との面会交流の必要性、有効性について [家事]

1 法律の規定
2 離婚後の子どもの研究
3 発達心理学における子どもの心理から
4 片親疎外という問題
5 母親にとっての面会交流のメリット
6 面会交流が関係者の利益になるためのルール設定


1 法律の規定
民法766条は、離婚をする場合は、子どもと親権を持たない親との面会及び交流の方法を協議で定めるよう、平成23年の法改正によって規定されるようになりました。
この改正は、子どもの健全な成長を実現するためには、親権者ではない親との面会交流が行われることが重要だという、子の福祉、子の利益を目的としています。長年の外国や日本の、離婚後の子どもの研究から、面会交流と子の成長の関連が明らかになったことからの改正でした。
2 離婚後の子どもの研究
  子どもの心理、子どもの福祉という観点からの研究は、最近になってようやく進んできました。第二次世界大戦の戦災孤児の研究が、親子の関係と子どもの福祉への影響の研究の大きなきっかけになりました。
  20世紀の後半になって、アメリカのウォーラースタインという女性の研究者たちが、60組の離婚家族の追跡調査を行いました。これはインタビュー形式で行われたもので、対象が限定されているという弱点はありましたが、1971年ころから25年以上に渡り研究がなされました。特に調査後最初の論文は各国の親子関係法制に多大な影響を与えました。我が国の平成23年の民法改正にも影響を与えたと言われています。その中でウォーラースタインらの調査結果の概要は以下のとおりです。ウォーラースタインとケリーの「Surviving The Breakup」(1980)
  1)子のほとんどが別居親に会うことを切実に望んでいた。面会の回数が少ない場合は不満を持っていた。
  2)父と子のお互いの都合に合わせて行われると面会交流が満足ゆくものになる。
  3)9歳以上の子どもを中心に、会いに来ない親に対して怒りをもったり、自分が会いに来ない親から拒否されたなどの失望感を抱くようになる。
  4)思春期前の子どもは親が自分に会いに来ないことで抑うつ状態になる例が多く、思春期になると、会いに来ない親を自ら否定し、拒否するようになる。
  5)別居親と子どもとが愛情あふれる良好な関係を維持し面会交流が子どもの成長に良好な影響を与えていると判断されたのは全体の30%であるが、面会交流が続いている場合はこの喪失感を和らげる重要な働きを持っており、子は親に見捨てられたという思いを抱かずに、孤独感や無力感に悩んだり、自己評価の低下に陥ったりせずにすんでいた。
   この論文の詳細については、(家裁月報41 8 「子の監護事件に関する面接交渉」佐藤千裕 218頁)から引用しました。
   ウォーラースタインらの研究は161人の子どもを対象とした研究でしたが、さらに大規模な研究を行い、両親が離婚していない子どもとの比較を踏まえた統計的研究は、アメイトによってなされました。13000人以上の子どもを対象にした研究でした。アメイトの研究の結論は、離婚している家庭の子はそうでない子と比べて幸福感が低いというものでした。その理由は、離婚した親の子に対する関心の低下、経済状況の悪化、転居による環境の変化があげられました。
   アメイト以降にも研究が続けられ、現在では子どもに対して負の影響を与えるのは離婚そのものではなく、離婚に伴って生じる複数の要因が関与しており、離婚後になお親どうしの葛藤が強いことが影響を与えるというように整理されているようです。
   これらについては、(家裁月報61 11 「家庭裁判所調査官による「子の福祉」に関する調査 ―司法心理学の視点から」― 小澤真嗣 29頁)を参考に論述しています。
   このような世界中の研究を通じて、両親が離婚したことに伴う子どもの成長に対する影響を軽減するためには、子どもが別居親に定期的に面会することが、子どもの自尊心を傷つけず、自分に自信をもって健全な成長を図るために必要なことだという観点が確立し、各国の親子法制に影響を与えてきました。
3 発達心理学における子どもの心理から
  離婚に伴って、子どもは一人の親と同居をし、もう一人の親と一緒に生活ことが無くなります。別居するわけです。この離婚、別離が与える子どもへの影響は、その年齢によって特徴があると言われています。
  前掲の小澤論文によると、幼児期後半と言われる3歳から6歳の段階では、子どもはまだ自分中心にしか物事を見ることができないという発達段階にあるようです。私たち人間は、まず自分の感覚というものを持ち、集団生活の訓練や脳の成長を通じて他者の中に自分を位置づけられていくようです。ですが、6歳前の段階では、他者と自分の位置づけ、自分の空想と現実との境界が曖昧なままであり、自分に関連付けて自分以外の出来事についても考えてしまうところがあるようです。両親については、いずれ仲直りをするだという空想をするのもこの年代の特徴を表しています。また、親の離婚、別居は自分に責任があると考える傾向にあるようです。自分が寂しく感じていること、欲求不満があっても、自分以外の他者の事情について考えを及ぼすことができないため、何らかの不快がある場合は、自分が良い子にしていないからだというように自分に責任があると考えることしかできないのです。大人もそうなのですが、子どもも絶望をすることを回避しようとする思考上のメカニズムが備わっているのでしょう。自分が悪いから嫌なことが起きている。そうだとすれば自分が良い子でいれば悪いことが改善されるはずだという子どもなりの、絶望を回避するための思考をしているのだと思います。つまり、子どもも希望を持たなければ辛いのです。また、この年代の子どもは、親から捨てられるのではないかという恐れを感じるのだそうです。目の前から一緒に住んでいた一人の親がいなくなってしまった。しかしその理由をうまく理解できない。そうだとすると、もう一人の親もいなくなって、自分は一人ぼっちになってしまうのではないかという不安を抱くようです。このため、子どもは同居をしている親御さんに対して必要以上に良い子に振る舞い、同居親の言うことをきくだけでなく、同居親の気持ちまで積極的に忖度しようという心理が働いてしまうことになります。
  これらの子どもの窮屈な思い、恐ろしい思いを解消する方法として、定期的に別居親と面会し、一緒には住んでいないけれど、こうして定期的に面会ができるのだから、それほど悪いことが起きているわけではないこと、別居親も自分のことを大切に思ってくれているということ、自分が悪いからだと考える必要はないということが理解でき、普通の子どもとして親の言うことを良く聞いて健全な成長を図ることができるようになるわけです。
4 片親疎外という問題
  国際病類分類上も取り上げられている片親疎外(PA)という概念があります。かつては、片親疎外症候群(PAS)という病気であると言われていましたが、現在の主流は片親疎外という問題であり、必ずしも病気であるという把握はなされていません。しかし、片親疎外によってさまざまな精神上の問題が生じることは指摘されており、アメリカの精神疾患分類にはまとまった病気としてはいないけれど症状ごとに分かれて病類分類として位置づけられています。
  片親疎外とは、一言で言うと、別居親を激しく拒否する現象です。俗説では片親疎外は同居親が別居親の悪口を吹き込むことによって起きるとされていますが、これは間違っていると現在では言われています。様々な要因が複合的に影響を与えていると整理されています。原因としては両親間の葛藤に子どもが巻き込まれているということは確かにあるでしょう。親の性格なども原因があると指摘されています。しかし、子どもが別居親と会えない理由が別居親が自分を見捨てたと思い、自分が見捨てられるような人間ではないと思いたいため別居親を攻撃して自分を守るという理由や、自分の前から同居親もいなくなるのではないかという恐怖から別居親に精神的にもしがみつこうとして、同居親の感情を忖度してしまう結果別居親を否定しているという要素もあります。
  肝心なことは、同居親が別居親の悪口を吹き込まなくても、両親が離婚をしたという環境から片親疎外が起きてしまう危険があるということです。
  片親疎外の子どもにとっての悪影響は、15歳ころの自我の確立が図られるべき年代において、自己同一性が確立せずに深刻な混乱が生じることです。別居親について自分を捨てた完全な悪人であると思ってしまうと、自分は完全な悪人の子どもであると同時にと自分と同じ被害者であり完全な善人の同居親の子どもであるという両極端な自己という混乱した状態となります。これは成長にとって極めて悪い状況が起きてしまいます。離婚後、年代によって異なりますが、小さい子ほど自分の言うことを良く聞く良い子であり、自分に言われて学校も習い事もよく頑張る子だと喜ばしいと思うことがありますが、実際は幼い子供たちの心は自分の実力以上の無理をしていることがあり、余裕のない精神状態になっている可能性があります。無理は長続きしません。精神的にあるいは周囲との関係上、問題が起きる場合もあります。
  この場合も、片親疎外の悪影響を軽減するためには、別居親との面会交流を定期的に行うことが特効薬だと言われています。子どもは、ありのままの自分でいることを受け入れられることによって、自分は自分の能力以上の努力をしなくても良いんだと安心して生活することができるようになります。楽しみながら、学習し、成長する人間本来の発達がより容易になるということになります。
5 母親にとっての面会交流のメリット
  3歳児神話や子どもは母親が育てるものといったジェンダーバイアスがかかった俗説が未だに幅を利かせています。これらは、女性が社会参加をして生き生きと人生を輝かせることを阻害しています。近代化前の日本においては、一般庶民の間では、西洋とは異なり、子どもを女性だけで育てるという風習はありません。父親も母親も子どもと関わることが楽しく、子どもを大事に育ててきたという伝統があります。近代化の富国強兵政策に伴って、男性は兵士として外で闘い、女性は銃後を守り家族を守るという性別による分業が国を挙げて推奨されるようになっていきました。このような作られた性による分業の意識が、戦争が終わって70年が経つ日本においてもまだ強い影響があるということに驚くばかりです。
  離婚をした場合に、子どもを母親だけで育てる事例がまだ大多数を占めているようです。母親が主たる監護者になることには子どもの年齢などから合理性がある場合もありますが、親どうしがどちらが主として育てるのかを自由に決めることには差しさわりは実際はないはずです。
  一人で子どもを育てる場合、同居親の責任感が強すぎるために、子どもの成長に一人で責任を負わなければならないという心理的圧迫を受けることがあります。しかし、子どもは両親の子どもですから、1人で責任を負おうとすることは非科学的な思考だと言わざるを得ません。別居親にも子どもを育てる責任と義務があるはずです。離婚をしても荷を分かち合って子育てをすることこそあるべき姿であると考えます。
  また、1人で子育てをする場合は、ご自分の親御さん、子どもから見れば祖父母などの援助があることが多いのですが、それでも同居している親御さんの負担は多く、仕事以外のプライベートな時間を子どもためだけに費やすことになります。実際は子どもも大きくなれば手がかからなくはなりますが、心理的には一人で自分の人生を費やして子育てだけをしているという意識になりがちです。しかし、その時、別居親は自分の時間を楽しんでいるのかもしれないわけです。これは不公平です。自分の時間を作ろうと子どもを他人に預ければ費用も掛かります。知らない場所にいる子どもの心理的負担も小さくありません。面会交流が定期的に行われる場合は、その時間を自分のために使うことができます。しかも都合の良いことに、子どもを預ける費用も掛かりません。無料で子どもは飲食をし、同居親が許可をするだけでお土産まで持たされることも多いわけです。面会交流の日程も決まっていれば、同居親も買い物に行ったり、友人たちとの会話を楽しんだり、趣味の習い事も自由にできるようになります。しかも、別居親からは子どもに気持ちよく会わせてもらったということで感謝もされるわけです。
  面会交流は、法律的には子どもの利益のために行われているのですが、実際は面会交流の時間を上手に利用して、同居親が母親としての自分以外の自分を取り戻すための時間なのです。同居親が心理的に余裕ができ、外部の情報も取り入れることができるようになれば、子どもにとっても有益であると思います。
6 面会交流が関係者の利益になるためのルール設定
  面会交流は、これまで述べてきたように、関係者一同の利益になるものですが、離婚に至った男女が顔を合わせるというデメリットがあることは事実です。できるだけ、このデメリットを最小限にするために、面会交流のルールはしっかりと定める必要があります。
  、
1)久しぶりの感動の再会をしないということが大切です。親の方が感極まって泣いてしまうことは子どもに罪悪感を与えることがあり、子どもにとって重く感じ、次の面会交流が精神的に負担になる危険があります。昨日も会ったように、明日も会うように再会することで、子どもは自分が受け入れられているという良いところだけを感じることができると思います。
  2)同居親との生活を詮索しないことも大切です。これも子どものことが理由です。子どもたちが、これを話していいのだろうかと考えてものを話さなくてはならないことが生まれてしまうことを心配するべきです。通常の同居している夫婦であっても、それぞれの実家に他方を連れないで帰省した時には、多少は他方に聞かせられない話も出てくるわけです。子どもはそのような事情が理解できないから、それを耳に入れてしまうと、本当のことを話さなければいけないという軽い強迫観念が生まれ、罪悪感を抱きやすくなるようです。また、同居親が自分の居所や様子を探られたくないということを子どもにあからさまに伝えている場合はなおさらです。ここは意識しなくてはならないところです。
  3)時間を厳守することも特別な意味があります。同居親は、少しでも受け渡し時間が遅れると、連れ去りの心配をするものです。同居親が面会交流に立ち会わない場合は特に時間を厳守することが求められています。
  4)多少の事情変更は大目に見ましょう。特に子ども体調は変更しやすいため、不意の発熱などで面会交流が順延される場合は実際によくあることです。疑心暗鬼にならないで相手方を信頼して、多少の事情変更はあることが原則だというくらいの鷹揚な気持でいるとうまく回り出すようです。
  5)当事者同士で直接の声掛けはしない。こちらはそんなつもりが無くても、直接の声掛けは、疑心暗鬼になっている当事者にとって恐怖と嫌悪の対象になる場合が多いようです。実際に顔を合わせる場合は目礼程度にとどめることとするとよいかもしれません。


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子の連れ去り被害を受けた場合に本当は考えるべきこと 争わないことが主目的というわけではなく、結果を出すための思考 [家事]



最近書いている私よりこのブログを理解されている方が多くなり、
お話をしながら、こちらが教えてもらっている状況です。
そんなやりとりの中で、特に家事事件、夫婦問題の相談で、
私のやり方が「争わない方針」だと言われることがありました。

これは、読んでいただいた側の方、特に当事者の方からは
実践的な表現であり、実務的には間違っていないのですが、
私の真意は、争わないことに主眼があるわけではない
ということをお話ししてみたいと思います。

ではでは

先ず人の感情はコントロールできるものではないので
感情を抱くこと自体は無価値、
つまり良い悪いの範疇を超えていることです。
言っても仕方がないことだと思っています。

例えば足を踏まれて、「痛い」と感じることはあまりにも当然の話で、
痛いと感じてはいけないという人はいませんよね。

普通に日常を送っていたと思っていた夫が
ある日ある時仕事から帰ってきたら
妻も子もいなくなっていて、荷物も消えていたら
最初は呆然とするでしょうけれど
どんどん失望や怒りや焦燥感を抱いていくことも
当然のことだと思います。
身に覚えのないDVがあったことにされて
自分が軽蔑するタイプの男が自分だと言われるのですから
怒りを感じることはむしろ当然です。
怒りを感じないことの方が、むしろ危険な場合があると
当事者の方々を見ていて思います。

しかし、怒りの感情を抱くことと
怒りを誰彼構わずまき散らすことや
怒りに任せて行動をすることは違います。

道徳的な説教をしているのではありません。

例えば、先ほどの例であなたの足を踏んだのが
牛だとします。
踏まれた足は痛いです。
でも、痛いという感情に任せて足を引き抜こうとすると
回復できないようなひどい骨折をするわけです。

足をこれ以上傷めないようにして
足を解放すること
これを考えて合理的な行動することが必要だと
そういうことを言いたいわけです。

やっかいなことは
家族の問題は自分が傷つくだけでなく、
一番傷ついて将来に対して長期間悪影響を受けるのは
子どもだということです。

ところが感情は自分では止められないものだから
自分の感情で行動してしまい
それが子どもにとってメリットがあるのか、
デメリットが大きいのか
ということを考えることは難しいです。

連れ去った側もそうですが
連れ去られた側も、実際は子どもの利益よりも
自分の感情を優先して行動してしまう
ということは残念ながらあります。
難しいことは当たり前です。

また、
行動を感情に任せて行うと自分が損をすることを理解して
損をしないように行動をしようとしないと
相手の誇大妄想的な主張に対して
堂々と反論してしまい、むしろそちらが悪いという
おつりにもならない余計なことを言って
収拾がつかなくなるわけです。

良いことは何もない。
あるとすれば
相手を責めているときだけ被害意識が薄れるので
気持ちが少し軽く、耐えられるようになります。
だから反射的な行動を止められなくなってしまうわけです。
初めから戦略を立てて行動しているわけではないので
結果が出ないことも当たり前です。

これが、最近の裁判所界隈での「争う」ということなのかもしれません。

さて、冒頭で、感情的になることは仕方が無いと言っていたのに
感情に任せて行動しては逆効果だというならば
結局どうしたらよいのかということになるでしょう。

ここが考えどころです。

なぜ感情的(怒りモード)になるのかをまず考えましょう。
それは自分が被害を受けているという意識を持っているからです。
理不尽で不当な被害を受けているという意識ですね。
怒りモードになるのは、突き詰めて考えると
その被害から自分を守ろうという意識です。

それが「悪い」わけではありません。

悪いわけではないけれど、メリットもない。
デメリット(相手から付け込まれる、ほら見たことかと)
はたくさんあるわけです。

じゃあどういう意識を持つべきか。
大事なことは
「あなたは一人ではない」ということを正しく認識することです。
子どもが連れ去られても家族は家族で
家族が連れ去りの瞬間無くなるわけではないということです。

そもそも被害者だったり、加害者だったり
特に夫婦関係はそう割り切れるものではないのではないかと
我が身を振り返っても思うわけです。
ところが、相手が加害者で自分が被害者だという感覚になると
加害者である相手の言動は全て自分を攻撃するものであるから
一字一句漏らさずに自分を守ろうという意識だけが強くなってしまいます。
つまり自分のことしか考えられなくなるわけです。

自分を守る意識を捨てることはできません。
ただ、自分を含めた
家族全体を見るようにする
ということならできるかもしれません。

あなたの問題ではなく家族全体の問題だ
という意識です。
もっと言ってしまえば、本来は
家族の中の話なのだと思います。
(私をはじめいろいろな人間がしゃしゃり出てきているけれど)

では家族全体を見るということはどういうことでしょうか。

家族の一人一人の状態をまず確認するということでしょう。

怒りにまみれている、あるいは失望し、呆然としている
自分がいる。
子どもを連れ去ろうとまでして実行した妻(夫)がいる
そしてわけのわからない状態で
友達からも地域からも親戚からも
何より自分の肉親の一人から孤立させられた子どもがいる。

一人一人の状態をリアルに想像することが第一です。
そうすればやらなくてはならないことが見えてくると思います。

そこには、
不具合が起きている家族があるわけです。
あなたはその家族の中の大事な1人なのです。
家族の問題だとして取り掛からなければ
解決しないか、
あなたの感情に任せた行動によって
益々家族を分断させる方向に向かわせてしまっている
ということに気が付くはずです。

自分だけを守ろうとする意識が強すぎると
自分の被害感情しか出てきません。
被害感情にもとづく怒りなどの行動は
家族を分断してしまう方向の行動になる危険が大きいということです。
結局自分を守れないということになるはずです。

逆に怒りを持てず、落胆だけしていても
それは自分の被害感情だけです。

いずれにしても家族は置いてきぼりです。

「なぜ『家族』は不具合を起こしたのだろう」
という考えに無理して進むことが出発点だと思います。

子どもに責任を負わせることは普通できないので
子どもに原因を求めるのは無駄な考えだと思います。
家族の大人たちを自分を含めてそれぞれ考えていくわけです。

この時考えるコツは
「誰が悪いのだろう」という考え方をしないということです。
誰も悪くなくても家族は不具合を起こす可能性を秘めています。
これは、長年家事事件に携わった私の一つの結論です。
「誰かが『悪い』から不具合が起きた」
という迷信が一般的にはあると思いますが
だから犯人を捜そうということでは、家族は簡単に壊れてしまいます。
人間関係は放っておいてもきずなが保たれるはずだ
というのは迷信です。

悪い、悪くないという発想を捨てて
家族みんなが、そして相手も
「人間のあたりまえの」感情をもって行動をしている
という前提で考えていくことがコツです。

人間のあたりまえは、単純ではありませんが
それほど複雑に考える必要もありません。
「こういう条件を持っているなら通常こうなるよな」
ということで良いと思います。

そこの「こういう条件」を考える場合に
引き出しをたくさん持っている人に補助線を引いてもらうことが
必要になるかもしれません。

例えば足を骨折していたら走れないよな
というようなことなのです。
ここで「こういう条件」というのは
足が骨折しているというものです。

実際の離婚事件などで
「こういう条件」でよく見られるのは病気です。

婦人科の病気のため感情抑制ができなくなっているとか

内分泌腺の病気の中には、
精神的な影響を与える病気があり
不安が抑えられなくなる場合があるとか

内科疾患の治療の薬の副作用であるとか

あるいは精神疾患であるとかです。

また、出産などのホルモンバランスの変化や
事故による脳の損傷など
様々な生物的条件が
後から加わってくる場合があります。

誰が悪いかという発想だけだと
これが見過ごされてしまうわけです。

例えば命がけで出産したことによって
産後うつになったとしても
その人に責任があるわけでも悪いわけでもない
そんなの産んで見ないとわかりません。

しかし、家族の中に問題を抱えた人が生まれる
つまり、他の家族がフォローしなければならない人が生まれた
ということだと考えるべきなのだと思います。

迷信のとりこになっている人たちは
妻が異常に不安を抱いている場合は
夫のDVがあるからではないか
と非科学的に決めつけるわけです。

他人がどう考えようと本来はどうでもよいのですが
家族だけはお互いにお互いの条件を考慮して
家族という人間関係を構築していくべきです。

この条件を見落とす理由で多いのは
「人間は、一生同じ人格を保って生きていくはずだ」
というこれまた迷信です。

人間は加齢や対人関係の変化の中で
自分ではコントロールできない変化を起こすもののようです。

結婚したときはこうじゃなかったのにということは、
言っても仕方がないことです。

どういう相手と結婚すると幸せになるか
というサイトなんかを目にしますが
それは人間の変化を見越してないわけで
参考にはならないでしょう。
大事なことは家族の変化を受け入れて
家族を日々作っていくということなのだと思います。

特に相手が感情、特に不安を制御できなくなる場合があることを
理解をすることが必要だと思います。

例えば、骨折した人に走れということが無茶なように
感情を制御できない状態の人に、
そんな感情をもつなということが無茶なのです。
誰しも不安になりたくてなっているわけではない。
家族の一人の不安に家族として、どう対処していくか
家庭を作る立場としての大人の在り方を
考えなければなりません。

これが子どもだったら
親にあてがわれた安心の中で生きていけば良いのですが
現代日本の多くの家族では大人は夫と妻しかいません。
夫婦がお互いに相手の不安に気が付いてお互いを安心させていく
ということをしなければならないわけです。

現代社会では必須の家事だと思います。

ちょっとわき道にそれますが
これ、実はサルは当たり前にやっています。
仲間の不安を鎮めるために、
お互いに毛づくろいをしているわけです。
餌をとる時間を削ってでもやっているようです。
サルもやっていることを
大人の人間がするのはあまりにも当然ではないでしょうか。

子どもの連れ去りは、十中八九、
連れ去る側に不安があることが確認できます。
多くは病的な不安で、漠然とした不安です。
実務上見られる不安の原因は、通常は体調の変化または病気です。

それなのに理由が思い当たらないからと言って
ほかならぬ家族から
不安を一笑に付されるという形で否定され
合理性や正義で、不安解消行動を否定され
できないことを非難されてしまうと、
いつの間にか不安の原因が夫にあるように扱われる場合も多いわけです。

だからといって
不安になる方が悪いということも
不安に気が付かない方が悪いということも
それはどちらも言えないのではないかと思うのです。
中には励ます形で
「そんなこと心配するなんておかしいよ。」
と言っている男性が私を含めて圧倒的多数ではないでしょうか。
いくつかの事件で、これがDVだモラルハラスメントだと
裁判所で主張されています。

それは不当だとしても、
「そうだよね。心配だよね。」と一言が言えないのです。
言えばそれだけで安心するかもしれないのです。

ただ、そうだとしてもそのことに気が付かないことが
「悪い」とは現代日本ではまだ言えないと思うのです。

だから、自分の何が「悪かった」のだろうと考えてしまうと
答えが出ないということもあり得ることです。
自分ができなかったことは何だったんだろうと考えるほうが
まだ有効かもしれません。

ちなみに家族が持っていた「条件」は体調面からくる不安だけではなく
生い立ち、親との葛藤
何らかの知られたくない体験(これけっこう多いです)
その他、打ち明けられないコンプレックス。
子どもの障害
何年もかかる住宅ローン
というのが、これまでよく見られた「条件」です。
自分が責められるのではないかという事情ということになりますが
ほとんど考えすぎといってよく、過敏状態になっているようです。

また、実際には相手に不安を抱かせる行為があった
というパターンも数は極めて少数ですが一定割合あるのも間違いがありません。


不幸にして子どもの連れ去りが起きてしまった場合、
私の場合は、
先ず、「どうして連れ去りが起きたのだろうか」
ということを一緒に考えます。
必要があれば心理士のカウンセリングを受け、精神科医の受診を勧めますが
時系列に出来事を並べていただくと
案外ヒントはどんどん出てきます。

次に家族再生を目標とするかどうかを決めてもらいます。
ここでいう「家族再生」とは、
またもとのように同居を開始するということだけでなく、
親子のつながりを現状から拡大させていくということも含まれます。
残念ながら、すぐに同居が復活したという事例は極めて少ないし
条件が限られています。

しかし、家族再生の方向に向かう事例は増えています。
少なくとも親子が断絶のままとなっている事例は
少なくなってきています。
(しかし少ないながらも一定数存在し続けます)

再生の特効薬は
「どうやって相手を安心させるか」
自分に対する警戒心を薄めていくか
ということだと思います。

相手の不安のポイント見つけてそこに有効な手当てをする
というのが理想ですが、
なかなか探り当てるには時間がかかります。
しかも相手を感情にかませて攻撃することだけを考えていると
なかなか有効な発見自体ができません。

もう一歩踏み込むと
どうやって相手に、自分が相手を仲間として尊重していることを
伝えることができるのか
そもそも、今の相手にとって
自分が尊重されているということはどういうことか
ということを考え出すことがやるべきことなのかもしれません。


まだまだ言い足りないのですが
私の考え方であると
表面的には争ってはいないように見えるかもしれません。

しかし、あなたの不安は家族から抜け出すことで解決できないし
そういう形で解決するべきでもない
というのですから
強烈な争いをしているとは思っています。

最終的には相手にも、
自分の不安の解消だけを行動原理にしていると
子どもを犠牲にすることになるということも
はっきりと言わなければならない局面もあるわけです。

また、事実関係についても
違うことは違うということを躊躇なく主張していきます。
ここはただ争うのではなく
どうして違うのかということも丁寧に説明していくことが必要ですけれど
そして違うということを述べることの精力以上に
間違ってもいないということを探し出すことに
精力を傾けています。

もっとも、すべての依頼者が
受任と同時に、家族の問題として考えを始める
というわけにはいきません。

特に自分の子どもの問題ですから
どうしても感情が沸き起こってくるし
一度家族の問題として考え始めても
被害を受けているという事実に基づいての感情が
再び、三度沸き上がってくることもよくあることです。

だから、すべてきれいに考えを切り替えるということを
あまり厳格に目標にしない方が良いかもしれません。

ただ、
考えるべき方向というものを
しっかり頭に入れておくかフリーハンドで裁判所に行くかは
結論に大きな違いも出ると思いますし、
ご自分の気持ちの持ちようもだいぶ変わるものだと
当事者の皆さんからお話を聞くにつけ
思うようになりましたので
今回ご紹介させていただきました。

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夫婦別姓は離婚が増加するという推測の根拠  離婚裁判の現場から [家事]



選択制夫婦別姓制度について、反対をするという目的ではありません。
末尾で述べますが、日本は、デメリットを指摘するとすぐ反対論者だとされてしまいますが
ヒステリックな議論で立法を論じるべきではないと思います。

さて、夫婦別姓にすると、離婚が増加するという推測は理由があるところです。
どのようにして人が離婚するかについて
何も定見のない人たちは、
単なる感覚だけで、あるいは知識がないために
離婚に影響があるとか無いとか
感覚的に言っているだけなのではないでしょうか。

実際に離婚が増加するかは制度が確立した将来どうなるかという話なので
制度が確立する前に証明することは不可能です。

ただ、離婚が起こりやすくなる要因というものがあるので、
反対か賛成かはともかく、一緒に考えてみましょう。

先ずポイントは、人間は群れに所属したいという本能を持っている
という動物だということです。
「所属欲求」といっておきましょう。

所属欲求が満たされるためには
所属する群れの中で自分が仲間として尊重されている
という実感がもたれなければなりません。

夫婦がその群れの最小単位です。
この外に、現代人は、学校、会社、地域、サークル等
様々な群れに所属しています。

昔は、ここに親戚関係、血縁関係、姻族関係等が
群れとして所属要求の対象となっていたのですが、
現代日本では、
これらの関係は群れとして意識されにくくなっているのではないでしょうか。

夫婦が円満に婚姻関係を継続する場合は
夫婦であることに、
所属欲求がある程度満たされている場合です。

この所属欲求が希薄になり
他の群れとの間での所属欲求が満たされていくと
離婚につながります。

わかりやすく言えば不貞でしょうね。
今の配偶者とは群れとしての感覚を持てず
配偶者とは別の人間に対して所属欲求が強くなるわけです。

実際の離婚事件には
不貞を原因とする事案も少なくありませんが、
多いのは別の群れとの家族の奪い合いです。

端的に言えば実家です。
一方配偶者の両親と他方配偶者との間での
一方配偶者の取り合いが行われて
両親が勝利するという図式が離婚の背景には圧倒的に多いのです。

これは、アメリカの離婚と離婚後の家族の研究科
ウォーラースタインの著作でも述べられています。

ウォーラースタインは離婚後の家族の心理面について
65組の家族を25年以上追跡して調査し続けました。
そんな彼女が
長続きする良い結婚とはどういう結婚か
ということを考察しました。
日本ではハルキ文庫で
「後悔しない結婚の条件」と題されて出版されましたが、
元々の題は’The Good Marriage’ です。

その中で、良い結婚になるための課題をいくつか挙げています。
その中の一番最初の課題として、
生まれ育った家庭からの自立
ということをあげています。

自分たちの両親と適切な関係を維持し続けるということが
もっとも基本的な良い結婚の条件だという指摘がなされたわけです。

それでも、この実家の干渉が本格的になるのは
子どもが生まれてからだと思います。
両親からすれば孫ですね。

どうも本能的に孫の取りあい、手なずけ合いが始まるようです。

平常時であれば、多少のことを老いた両親から言われても
精神的動揺もなく、一笑に付すことが可能です。

しかし、(男性も女性もそれほど変わりがないのですが、)
客観的には大きな理由もなく
不安を感じやすくなる時期、健康状態が人間にはあるようです。

その漠然とした不安がある時に
両親から夫婦の相手の悪口を吹き込まれたり
不安をあおられてしまうと
どうしても、夫婦間の信頼関係、帰属意識が揺らぐことがあるようです。

「この人と夫婦を続けていくことは
 この不安を抱え続けていくことなのだろうか」
と考えてしまうと、
その人との所属欲求が弱くなってくるようです。

親は、こちらにおいでということで盛んなアプローチを掛けますから
所属欲求の対象が親の方になってしまう
ということが多くの事件で起きているような印象があります。


さて、そこで名字の問題です。

名前はその人個人に与えられた記号ですが、
名字は家族という群れに与えられた記号です。

自分という個人を特定するために
家族名と個人名と両方をもって特定するわけですが、
その際、
結婚しても性別を改めないで
家族名を持ち続けていくことは
親とのつながりが絶えず意識されていることになります。
また、配偶者とのつながりが氏名からは感じられません。

これ自体が、
現代日本の離婚事情を後押しする条件になると思います。

また、別姓で生まれてきた子どもの名字をどうするか
と決めるまさにその時が
夫婦のそれぞれの親どうしの争いの火花が生まれ、
それぞれの親からのスカウト合戦になり
帰属意識が揺らぐ事情になる可能性が高いと思います。

そもそも、現代の孤立婚が問題なのだと思います。
昔のような、配偶者の親との結びつきが極端に弱くなっている。
あまり、打ち解けた交流すらない。

配偶者と子どもは、その家庭の中だけで群れが完結しています。

他の群れである学校、会社、地域等々の群れには所属するのですが
あまり仲間としての充実感を得られない
いじめやパワハラや、リストラ、無理な使われ方がなされ、
家に逃げ帰らなければならない悲惨な仲間が多いようです。

だから、一人ひとりにとって
家族というものがかけがえのないものに
変えるべき安心できる人間関係にしなければならないのです。

ところが夫婦が孤立しているということは
それだけで不安を感じやすい条件が生まれてしまうようです。
現代日本の夫婦は、離婚事件を担当していると、
孤立や関係解消の危険に無防備にさらされているように感じることが多くあります。
社会的構造から不安を感じやすいという側面を見逃せないのです。

それを若夫婦の親として応援するというよりも
自分の子ども以外を排除して
孫と片親とジジババで群れをつくりたいという形が
透けて見えてしまう。

親との関係では無防備な要素が色濃く表れているということが
今の日本の家族観だと思います。

家族の間で名字を別にするということが
とても危険なことでもある
そう思います。

確かに、本来は名字は個人の問題だから
国家が口を出すことではないということは正論かもしれません。

どちらかだけが親の名字を続け
どちらかが親の名字を捨てるということを押し付けられることは
なるほど不合理かもしれません。

特に圧倒的に専業主婦が少なくなった現代では
女性だけが名字を変えることが多いという現状の不合理は増大していると思います。

どちらも親の名字を使わないという第3の選択肢こそ
平等であり、円満な夫婦関係に役に立つ
とかねてより持論を持っております。

しかしこの説は、およそ論点になっていません。
誰も相手にしないでしょう。


また、個人がしっかりと家庭を作ればよい問題であるから
名字がどうなろうと関係が無く
自分たちは良い結婚生活を送っているという主張も多く見られます。

ここは誰を基準として、どんな人間観によって
婚姻制度を国家が考えるかという問題だろうと思います。

国民みんなが個人として自立しているのか
何らかの外部の影響を受けやすいのか
そういう想定する国民像も考えなければなりません。

選択的夫婦別姓という制度を設計することも
当然有力な選択肢ということになるのですが、
その制度化の家族の保護、強化という課題も
子どもの健全な成長という観点から
大いに考えられなければならないと思います。

どうも家族というユニットの現代日本における価値が
正当に評価されていないのではないかという危惧を
議論からは感じられてならないのです。



冒頭の続きですが
立法には、必ずメリットとデメリットがあるわけです。看過できないでデメリットが無い場合でも、デメリットをなるべく軽減させる手当をしながら立法を行うことが、少数者の人権を守る基本です。日本は、国会だけでなく、言論界においても、推進者はメリットばかり言ってデメリットを隠し、反対者はデメリットばかり主張して、メリットを認めない議論ばかりのような気がします。大変程度の弾く議論になっていると思います。多数決主義と民主主義の違いの分からない人たちばかりではないでしょうか。

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妻の子どもの連れ去り事例にみる、DVを感じる妻の心理構造と結果を出せない逆効果を招く夫の訴訟態度、目的遂行主義(職場)コミュニケーションを克服する必要性 [家事]



始めに断っておきますが
客観的に見て夫が悪いから妻が連れ去るというケースはあまりありません。
典型的な暴力や意図的な精神的虐待事案も多くはありません。
どちらかというと、妻が不安をあおられ
その不安が夫にあると思い込むケースが多いと思っています。

だから、良い、悪いという二項対立的なものの見方や
間違っていないのだから不利益を受けることはあってはならない
という非科学的な、古代宗教的な発想では
家庭の中では実際に何も解決しないと思っています。
それらは結果を出せない間違った思考ツールだと思います。

これからお話しすることはこのことを理解した上で
必要だと思った人だけに読んでほしいと思います。

まだ別居が起きていない人に対しては別居予防のヒントですし、
別居が起きた後の人には事態を悪化させないためのヒントとなると
私は思っています。

加えて女性が
どうしてこうなったのかということを理解するヒントになるのであれば
なによりの幸せであります。

<出産を経験した女性は多かれ少なかれ不安が生まれる>

出産前は天真爛漫な少女のような妻も
出産後は、おや?どうしたのかなと思うほど
物事を悲観的に見るようになるとか
くよくよするようなことを言ったりすることがあります。

それと同時に、家事のいくつかが苦手になることがあります。

実際は子育てしながらですから、
物理的に、時間的にできない場合もありますが、
特定の家事、特に片付け、掃除をやろうしなくなるように見えることが
かなり多くあります。

もちろんきちんとなされる方もいらっしゃるわけで
個性の違いはあるのでしょうけれど
多かれ少なかれ、このように何かをやるエネルギーが
足りなくなってしまったようになることがあるようです。

では夫がやればよいのですが、
例えば妻が片づけをやらないので
夫が片付けや掃除をしてしまうと
妻が逆上してしまうということも多くあって、
包丁を持ち出して片付けをやめさせようとした事例もあります。
良かれと思ってやったことで恨まれるわけです。

教訓としては、相手の心は難しい。
確認しながらやらなければならない
ということがまずあります。

この時点で私が何を言っているのだと反発する方は
つまり、片付けしないでごみ屋敷になっているのに
妻の顔色を見ながら行動をしなければならないということは間違っている
そんな妻なら、さっさと離婚して
正しく、衛生的な生活を送るべきだ
子どもが妻に連れていかれても、
再婚の可能性が高まるからよいではないか。
というお考えの方は、ここから先は読むのは時間の無駄だと思います。

精神面の調子によって
今までできていたのにどうしても、自分でもわからないけれど
できなくなってしまう、ということはあることです。
それなのにやらないことは間違っているので、それをしろということは
足を骨折したランナーに根性で走れというコーチみたいなものだ
という場合があると思っています。

その人の人格に関わりなく
精神面や行動面の負変化が生まれることがある
ということを理解することが必要です。
そしてそれは珍しいことではないということです。

自分の母親や姉妹、知人女性と比べてしまい
他の女性はそんなことはなかったということは
単なる知識不足です。
実際はラッキーなだけだったのだと思う必要があります。
人によって出方は全く違うけど
それは程度の違いに過ぎないのだと
そう考えた方が良いと思います。

<不安というフィルターを通してみるとしんどい夫の言動>

出産前、あるいは何らかの病気になる前だと
夫が同じことをしていても、
妻も「はいよ。」、「わかったよ。」と打てば響いていたことも、
不安というフィルターを脳にかけられてしまうと
悪く悪く考えるようになっていきます。

物事一般に安心することができない状態になってしまいますから
夫婦の関係が円満に続くかどうかの自信もなくなっているわけです。

ここで女性どうしだと
本能的に上手なコミュニケーションをとって
不安を最小限にとどめることをしているようです。

男性的コミュニケーションは目的遂行型ですから
一言で言えば指示命令です。
例えば職場で、指揮系統で上司が部下に指図をしても
もともとそういうものだという馴れもあるでしょうし
そうすることで効率よく利益を上げることができるし
無駄なコミュニケーションは一切排除する
という一つの理想形があるのだろうと思います。

私の言う女性的コミュニケーションは、
外向きの目的を優先しないコミュニケーションで
仲間を安心させることを目的にした内向きのコミュニケーションです。

これは会話をするというルーツが二つあることに由来しています。
一つの会話のルーツが、
危険を知らせて仲間を逃がしたり、
獲物を確実に獲得するために攻撃を指図するというルーツです。
これが目的遂行主義的コミュニケーションの由来ですね。

もう一つの会話のルーツは
サルの毛づくろいに由来するというルーツです。
サルはお互いを落ち着かせるために(安心感を与えるために)
お互いに毛づくろいをします。
しかし、人間に毛がなくなることが先か
あるいは仲間が増えすぎてしまったので
毛づくろいをしていると時間が無くなるという事情が先かわかりませんが、
会話をすることによって効率よく仲間を安心させる
これが会話のルーツだと唱える進化生物学者がいらっしゃいます。
とても有名な学説です。  ロビン・ダンバー先生

女性に多く見られる会話は、
仲間を大切にすることが目的のコミュニケーションですから、
本当は人間らしいコミュニケーションだと言えると思います。

今から200万年前の狩猟採集時代のサピエンスの先輩方も、
群れに帰還すれば、女性的なコミュニケーションをしていたはずです。

ところが、現代男性は知らず知らずのうちに
職場での目的遂行主義的なコミュニケーション方法に慣らされてしまって、
家の中でも、同様の会話、発想になってしまうことがあるようです。

家族で団らんする、リラックスする、安心させる
という内向きな目的を持とうとする発想が無くなり、
子どもを進学させる、正しく育てる、
規律正しい生活を送る
常に清潔にする、栄養を偏らないようにする
みたいな、どこかで聞いてきたことを実行しなければならないと思ってしまう

また、目的を持たない会話は無駄だなどと
TPOをおきまえないとしか思えない発想になるようです。
職場の発想からすると
何も生まない家族の会話はイライラしてしまうことなのかもしれません。

職場と家庭は目的が違うということをしっかり認識しなければなりません。

<目的遂行型コミュニケーションとは何か>

目的遂行型コミュニケーションは、
目的がより効率的に達成できるため
無駄を排除し、最短距離で目標を達成しようとするためのものです。

職場では、何を目的とするかの暗黙の了解があるのだと思います。

このため、職場のコミュニケーションは
やるべきことを明確にして指摘する。
具体的やり方は省略して求める結果だけを提示する。
間違いや不足を明確に指摘し、改善を要求する。
改善を確実にするために、反省を要求する。
同じことを繰り返して言わない。

上司の一方的指示または
上司の求めたことだけを部下はフィードバックするという形の
実質的には単方向的なコミュニケーションになりがちです。

相手の感情や状態について配慮しない。
あっても不動文字で予め印刷してある。
自分が指示したことを
相手がそれを遂行してもいちいち感謝は言わない。
やることは当たり前だから称賛するということもない。
できて当たり前ということですね。

間違い、失敗、不十分点は見逃さない。
間違い、失敗、不十分に対する反論は
ずるい言い訳であると感じる。

それはやるべきことだから
やるのが当然でやらないのが悪だと思っている。

どうでしょうか。極端にお話ししましたが
思い当たるところはありませんか。

これを家庭に持ち込まれてしまったならば
生活に潤いがなくなりますね。
職場コミュニケーションは緊張を強いるということも理解できると思います。
夫がいれば、家族は緊張を強いられるということになってしまいます。
緊張が持続することに、人間は耐えられません。
一緒にいることに喜びが感じられません。
どうして一緒に生活する必要があるか
金銭だけの関係になっていく危険がここで生じるのかもしれません。

良心的な方の中には、もう聞きたくない方もいらっしゃると思います。
そういう方は、ここからさらに苦しくなるので、
今日はここで終わりにされた方が良いかもしれません。

<目的遂行型コミュニケーションの最大の犠牲者は妻かもしれない>

それでも、子どもとの関係だけは
目的遂行型コミュニケーションが緩和されます。
本能的に子どもをかわいがる男性は多くなりました。
元々日本人は、つまり欧米の影響が生まれる前までは
今よりももっと子どもをかわいがっていたようです。

このかわいがるとはどういうことかということなのですが、
弱い仲間を守ろうとする人間の本能だと考えると
話は分かりやすくなります。

もう一つ理解していただきたいことは
人間の脳は同時に複数のことをすることができないということです。
それなので、
みんなを平等にかわいいと感じることは本能的にできることではない
ということが言えると思います。

誰かをえこひいきすることで家族の外の誰かを傷つけないためには、
理性が必要なのだということです。
考えなければならないということです。
自然体ではだめだということです。

自然体でいてしまうと
一番弱い者だけをかわいく思えてしまい、
それ以外の人をかわいがるということができなくなる
となるわけです。

だから、小さい子が生まれてしまうと
お兄ちゃん、お姉ちゃんに愛情を持ちにくくなるのは
自然の原理なのだと思います。
だから、理性を使ってかわいがらなければならないわけです。

こういう弱い仲間を守らなければならないという感情は、
責任感、正義感の強い人、真面目な人ほど強くなります。

その結果、子どもが二人も生まれてしまうと
末っ子ばかりがかわいくなり
そのお姉ちゃん、お兄ちゃんがそれほどでもなくなり、
自分以外の家族の構成員で一番弱くない妻に配慮することが
おろそかになる傾向になってしまう
ということになるのではないでしょうか。

悪意ではないのです。
人間の能力の限界ということになるのですが、
理性を働かせないというところに問題があるとも言えるでしょう。
でも誰からも教えてもらえないですし
誰からも「さあここだ。今こそ頭を使え」
と言われることはありません。

特に小さい子を守ろうとすると
小さい子に対してのみ共感力が働いてしまい
その結果、大人に対する共感力が薄れてしまう
という脳の構造の問題もあります。

こうなってしまうと
小さいものを守らなければならないというフィルターを通してばかり
妻の行動を見てしまいますから
小さい子のために、あれをしなければいけないこれをしてはいけない
という意識が強くなってしまうわけです。
妻の足りないところ、間違っているところだけが
目に入ってくる(脳内で認識してしまう)ようになってしまうということです。

加えて人間は仲間を守る行動をしているという意識があると、
怒りが沸き上がるという特質があります。
(この性質があったため、仲間が野獣に襲われても
 無鉄砲にみんなが集合して反撃して人間は絶滅を免れた
 と私は考えています。(袋叩き反撃仮説))

仲間を守らなければならないという意識は、
仲間に害を与える人間を本能的に敵視してしまうのです。

相手が憎いから怒るというよりも
目の前の仲間を助けようとする気持ちが
怒りとして表れてしまうと考えるとちょうどよいかもしれません。

子どもを連れ去られたご経験のある方は
同じ思いをされていると思いますのでよくわかると思います。

だから、相手の個性である能力の限界、その時の相手の様々な条件、
あるいはその時の状況ということは捨象されて
一番弱い者の状態だけで
相手に対する感情が決まってしまうのです。

子がいる家庭では
子どもを守ろうとして
大人同士が相手の行動に干渉し、
子どもの立場を想定して
相手に対して過酷な要求をすることが多くなり、
配慮も遠慮もしない言動がなされることがあります。

(これは無意識に、子どもの理解者は自分だけであり
 子どもは自分に懐くべきだという
 客観的には、家庭内の子どもの取り合いに発展することがあります。)

怒って行動すると軌道修正ができなくなる
ということもあると思います。
引っ込みがつかなくなるのです。
つい言いすぎるということはこういうメカニズムです。

子育てが終わるころになってようやく気が付くのですが、
あんなにムキになって主張した子どもへのかかわり方の
大部分は実務的に意味のないものでした。
どっちでも、子どもの成長にとってあまりかかわりのないことで
そこで生まれた夫婦の軋轢こそ
全くの無駄なものだったということです。
無駄に相手を傷つけてしまったという懺悔だけが残ります。

<目的遂行型コミュニケーションにさらされた者の心理>

さて、目的遂行型コミュニケーションと
子どもを守る意識と無意識の敵視
こういう行動をとる家族と同居している者の心理を想像しましょう。

しかも、ここには下地となる
理由のわからない不安があるということを忘れないでください。

そもそも、漠然とした不安がある
夫婦という関係もいつまで続くのだろうという不安も
その人が持っていることもあるかもしれません。

そんな中で、ふと気が付くと夫との会話は
最後に入った者が風呂を洗うという約束があるのに果たされていないとか
どうして食器を食べたまんまにして洗って片づけないんだとか
冷蔵庫の中の食材の賞味期限が切れているとか
使いもしない物を買ってくるなとか

確かに言われた通りなのだけど
やらなくてはならないことだけど
忙しかったり、他のことをしなくてはならなかったりとか
あるいはどうしてもやりはじめる気力がわかないとか
やろうとしてもできない。

忘れただけことをそこまで言うの?ってくらいしつこく言う。

はたまたしょっちゅう言われる自分こそどこかおかしいのだろうか。

それでも頑張ってやっているのに
感謝なんて望んでいないけれど
嬉しそうな顔をすることもない。
せっかく作った料理もおいしいのだか何だかわからず
テレビを観るついでで食べているようだ。

料理がおいしくないのだろうか。
自分の作り方が悪いのだろうか。

また、うっかりしていたことを指摘された。
子どもの前で言われることが辛い。
子どもが慰めてくれることが救いだ。

私と一緒にいることが嫌なのだろうか。
でも子どもがいることが救いだ。
子どものために頑張ろう。耐えよう、我慢しよう。

(しかし、緊張が持続すると、ミスをしやすくなります。)
(自分の行動のコントロールが難しくなります)
(どこでミスをするのか、どうして失敗するのか
 わけのわからない状態になります)

うっかりしていると夫から指摘されてしまう。
夫が帰ってくると、悪い指摘だけがおそってくる。
わけのわからないところから攻撃を受けるから
攻撃を受けないことは不可能だ。
夫は私を攻撃するためだけに生きているのではないか。

そういう意識が持続していくと
夫は自分を敵視する存在であり
夫と同居していると自分を守れない
という無意識に危機感を抱くようになります。

この無意識の危機感は、嫌悪感、恐怖感として意識されるようになります。
夫がいると常に緊張状態が持続してしまい
夫の帰宅時間が近づいたと思っただけで
脈拍が増え、血圧が高まるようになります。

街で買い物をしているときに夫の背格好と似ている男性を見ると
凍り付いて動けなくなるということが起きるころになってしまいます。

妻は夫が自分に敵意がないということを
理解することができなくなっているようです。

このような不安や緊張を感じると
人間はいち早く緊張や不安から解放されたいとするようです。

この持続がさらに継続すると
不安解消要求もさらに強くなってしまい、
この緊張や不安から解放されるならばどんな方法でも良い
とにかく解放されたい
という意識になっていくようです。

これを誰かに相談すれば
相談を受ける方は
そんなに異常なほど不安や緊張状態にあることはおかしい
おそらく夫のDVがあったはずだという先入観が生まれます。
(マニュアルの構成からそう誘導されています)
とにかく不安と緊張に苦しんでいる目の前の人間を
助けたくなるのが人間の本性ですから
実際は何が起きているのか分からなくても
仲間を守るためにその相手を敵視するという行動パターンで
「あなたは悪くない。それはモラハラです。」
などと無責任な発言をしたくなるわけです。
実際は相談担当者自身の聞いていることによる苦しさを
軽減しようとするためです。

こう言われたら妻は夫に対する怒りを持つことができます。
怒りを持てば不安感情は後退します。
一時的に不安を感じなくてすむようになります。

あとは「皆さんもそうしてますよ。」という形で
子どもを連れて別居という不安解消方法を
しないという選択肢は無くなってしまうわけです。

別居して離婚して不安がなくなる人もいるでしょうが
多くの人は不安を持続させています。
元々の不安の原因は放置されてしまうからです。
全部夫のモラハラで終わりになってしまうからです。

夫に怒りを持つことで不安を解消する。
こうやって離婚後も葛藤の強い人間が作られていくわけです。

<別居後に続く目的遂行型コミュニケーションの行動>

いま述べてきたことは妻側の心理を推測したものです。
しかし、夫の見える風景は全く別物です。

夫は何も「間違った」ことを言っていません。
心の中では妻に感謝している人も多いのですが
それを外に出さないだけの人も多くいらっしゃいます。

自分の行動が間違っていないのだから
言われた妻も理解していることだという感覚しかないでしょう。

結婚してから別居まで
一貫した行動をとり続けているという意識であろうと思います。
おそらく誰しもそうでしょう。

おそらく多くの男性が妻に対して行なっている通り
ご本人も行なっていただけでしょう。
ただ、奥さんは、不安を感じやすい状態になっていた。
その知識も発想も気づきもないのは
現状ではやむを得ないことかもしれません。

しかし、結果として妻は子どもを連れて出て行ってしまった。
どうしてそうなったのか理解できないということが通常でしょう。
また、連れ去られた夫の少なくない割合で
妻に対してもそれなりの配慮をしていて
仕事で疲れていても、旅行や外食に積極的に参加して
車を運転しているのです。

その写真には仲良く笑っている家族が写っています。

それなのに
妻側の弁護士の作成した文書を読むと
身に覚えのないDVをしていることになっているし
精神的に虐待していることになっている。

思い当たる出来事もあるけれど
事実は全く違っている。
例えば、犬の毛を処理するために
ペット用のハサミをもってペットを呼んでいたら
ハサミを家の中で振り回して大声で怒鳴られた
ということになっているわけです。

あまりにも理不尽なことを妻から言われて
あまりにも不合理な気持ちになったので
むしゃくしゃしてゴミ箱を蹴っ飛ばしたら
ゴミ箱を子どもに向けて蹴っ飛ばして
危うく子どもが大けがをするところだった
ということになっているわけです。

それはお怒りになることは当たり前でしょう。
役所も警察も自分が暴力夫だと思っていると感じると
自分は社会の脱落者にされたと感じるのも当然でしょう。

同じ出来事でも
夫と不安を持っている妻とでは
感じ方がまるっきり違うようです。

価値観が目的遂行至上主義コミュニケーションから
協調第一主義コミュニケーションに切り替えなければなりません。

目的遂行至上主義は
目的を遂行するためのルールが設定されていて
ルールに従うことが当然の約束事になっています。
不合理なことは是正されなければならない約束事になっています。

これが裁判所や法律に幻想を抱く要因だと思います。

不合理は是正されなければならない
ルールを逸脱するということはあってはならない
権利は実現しなければならない。

この考え方が間違っているとは言えません。

特に、連れ去り別居の後は、
裁判所が関与するわけです。
裁判所は法律によって行動するのであるし
法律は不合理を正すためにある
そういう思い込みを持たれることはやむを得ません。

しかし、法律は完ぺきではありません。
裁判所も同様です。
不合理が是正されるとは必ずしも言えない。

子どもに会うことも、裁判所を通してやってもなかなか実現できない。
子どもを会わせない親に対して裁判所は厳しくいってくれない。
自分の権利が実現されない
と感じている当事者の方はかなり多いのです。

それにも関わらず、
親なのだから子どもに会う権利がある
子どもを会わせないのは憲法違反だ
居場所を教えろ
勝手に出て行ったのだから生活費なんて払えない。
言ってることは全てでっち上げだ。嘘つきだ。

と「正しいこと」を堂々と主張してしまいます。
間違っていませんけれど決定的な問題は
それを言ったところで結果はでない
ということなのです。

むしろ、それを言われた妻は
夫は相変わらずであり、
このまま子どもを預けたらそのまま連れ去るのではないか
顔を合わせたらまた何か言われるのではないか
近くにいると何か良くないことが起きるのではないか
と、
遠心力だけが働いてしまいます。
どこまでも遠ざかろうという意識だけが高まっていくわけです。

目的遂行至上主義は
家庭問題では役に立たず、逆効果ばかりが生まれてしまいます。

それでも正しいことを言って
正義を貫いて
敗訴なら敗訴で仕方がない。
こう割り切ってもらえるなら代理人としても楽でしょう。

自由気ままに、自然な感情のまま
相手の不合理さを責めたてていながら
元の家族に戻りたい
というのは、これは実際は矛盾しているのです。
職場コミュニケーション的に言えば
結果を出せない方法論だということになるでしょう。

だから、はっきり目標を定める必要があります。
法律論で裁判所に賛同をもらい勝つことが目標か
(このために相手の心はさらに遠くなっても構わない)
法律論、裁判の結果はともかく
相手方と少しでも歩み寄って
家族として再生する方向にしたいのか。

局面局面でどの選択肢にするのか
実は大変難しい問題で
子どもためにも敗訴を恐れず
正々堂々と主張を尽くさなければならない時も
実際は存在します。

また、子どもの将来のためにも
妥協できるところとできないところは見極める必要もあります。

いたずらに、妥協をしまくることをお勧めしているわけではありません。

しかし、家族再生の方向を目指すという場合は
目的至上主義コミュニケーションという思想から
一度離れる必要があります。

やらなければいけないのだからやれ
義務は果たさなければいけない
私の権利は実現されなければならない
相手の気持ちなんて考える必要もない
という発想を離れなければなりません。

どうすれば相手は対話をするようになるのか
相手が自分を拒否する理由はどこにあるのか
今自分には何かできることがあるのかあるとすれば何か
子どもを会わせないという気持ちを緩める方法はないか。
つまり結果を押し付けることをやめて
「結果を誘導してあげる」という発想が必要です。
童話の「北風と太陽」のこずるい太陽の発想です。
真面目な人はどうしても北風になってしまうようです。

大ざっぱに言えば相手を安心させる
という方向に向かって方法を考えるということだと思います。

子どもの連れ去りがある時に
調停や裁判を起こせるということ、あるいは起こされるということは
実はまだ救いがあります。

最も悲惨ケースは
子どもを連れ去って、どこにいるかわからず
裁判や調停すらなく、生きているか死んでしまったのかもわからない
こういうケースだと思います。

裁判や調停があるということは
それなりのコミュニケーションが取れるということです。
うまく利用すれば、相手を安心させることもできるかもしれません。

針の穴を通すような無謀なことかもしれませんが
面会交流が実施されて自由度が拡大していくケースは
これが成功しているケースです。

それでも復縁まではなかなか難しいことが実情です。

でも、相手を安心させることが成功することは
最終結果が出なくても
安心感の記憶が少しずつ定着していくことになることは
間違いありません。
将来に向けた安心のコミュニケーションの下地になります。

このためにもご自分の気持ちを制御する必要があります。
子どもを連れ去られて、ありもしないことを言われて
それでも金を支払えと言われれば
誰だって逆上したくなるわけです。
でもそこで逆上して
俺は悪くないということで終わってしまったら、
子どもたちは親に会えないまま自己形成をしていかなければなりません。

家族の中の誰かが、
家族全体のために自己の感情を犠牲にしなければならないのだと思います。
それが子どもであってはならない
そう思うのです。

自分の感情を制御すること
当たり前だと思っている価値観に反しない行動に対する不利益
それを受けるときに自然に湧き上がる感情を制御するということは
普通自発的には出来ないことだと私は思います。

どうしても、それは、他人の支援が必要です。

その他人は、あなたの感情に寄り添ってはなりません。
あなたは悪くないと言われてしまうと
自然の感情のまま相手とコミュニケーションをとってしまい
逆効果にしかなりません。
あなたの目的のため、あなたの感情を結果的に否定する
そういう人でなければなりません。

それがあなたの弁護士であれば
本当は一番良いのでしょう。
私がそれがうまくやれるかと言われれば
自分こそ自然感情放出型という自覚もありますから
なかなか手を挙げることはできないでしょう。

しかし、こういう発想を頭では持っている。

こういう発想の下で、
家族再生の方向を目指す当事者の方が
全国で増えてきているようです。

当事者でありながら
そのような志を持たれるということに
最大限の敬意を感じざるを得ません。
頭が下がります。

しかし、そのような方が多くなったにもかかわらず
そのニーズにあわせた弁護活動をする弁護士が
(実際は多くいらっしゃると思うのですが)
なかなか見つからない。

できれば、ご指導いただく心理士の先生やお医者様も
当事者の方に紹介したいし、教えも請いたい
一緒に家族再生のノウハウを向上させたい
と思っているのです。

どうしたらよいかわからない。
内弁慶のようにブログを亢進するしか能がない自分を
申し訳なく思っている次第です。

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