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子の連れ去り被害を受けた場合に本当は考えるべきこと 争わないことが主目的というわけではなく、結果を出すための思考 [家事]



最近書いている私よりこのブログを理解されている方が多くなり、
お話をしながら、こちらが教えてもらっている状況です。
そんなやりとりの中で、特に家事事件、夫婦問題の相談で、
私のやり方が「争わない方針」だと言われることがありました。

これは、読んでいただいた側の方、特に当事者の方からは
実践的な表現であり、実務的には間違っていないのですが、
私の真意は、争わないことに主眼があるわけではない
ということをお話ししてみたいと思います。

ではでは

先ず人の感情はコントロールできるものではないので
感情を抱くこと自体は無価値、
つまり良い悪いの範疇を超えていることです。
言っても仕方がないことだと思っています。

例えば足を踏まれて、「痛い」と感じることはあまりにも当然の話で、
痛いと感じてはいけないという人はいませんよね。

普通に日常を送っていたと思っていた夫が
ある日ある時仕事から帰ってきたら
妻も子もいなくなっていて、荷物も消えていたら
最初は呆然とするでしょうけれど
どんどん失望や怒りや焦燥感を抱いていくことも
当然のことだと思います。
身に覚えのないDVがあったことにされて
自分が軽蔑するタイプの男が自分だと言われるのですから
怒りを感じることはむしろ当然です。
怒りを感じないことの方が、むしろ危険な場合があると
当事者の方々を見ていて思います。

しかし、怒りの感情を抱くことと
怒りを誰彼構わずまき散らすことや
怒りに任せて行動をすることは違います。

道徳的な説教をしているのではありません。

例えば、先ほどの例であなたの足を踏んだのが
牛だとします。
踏まれた足は痛いです。
でも、痛いという感情に任せて足を引き抜こうとすると
回復できないようなひどい骨折をするわけです。

足をこれ以上傷めないようにして
足を解放すること
これを考えて合理的な行動することが必要だと
そういうことを言いたいわけです。

やっかいなことは
家族の問題は自分が傷つくだけでなく、
一番傷ついて将来に対して長期間悪影響を受けるのは
子どもだということです。

ところが感情は自分では止められないものだから
自分の感情で行動してしまい
それが子どもにとってメリットがあるのか、
デメリットが大きいのか
ということを考えることは難しいです。

連れ去った側もそうですが
連れ去られた側も、実際は子どもの利益よりも
自分の感情を優先して行動してしまう
ということは残念ながらあります。
難しいことは当たり前です。

また、
行動を感情に任せて行うと自分が損をすることを理解して
損をしないように行動をしようとしないと
相手の誇大妄想的な主張に対して
堂々と反論してしまい、むしろそちらが悪いという
おつりにもならない余計なことを言って
収拾がつかなくなるわけです。

良いことは何もない。
あるとすれば
相手を責めているときだけ被害意識が薄れるので
気持ちが少し軽く、耐えられるようになります。
だから反射的な行動を止められなくなってしまうわけです。
初めから戦略を立てて行動しているわけではないので
結果が出ないことも当たり前です。

これが、最近の裁判所界隈での「争う」ということなのかもしれません。

さて、冒頭で、感情的になることは仕方が無いと言っていたのに
感情に任せて行動しては逆効果だというならば
結局どうしたらよいのかということになるでしょう。

ここが考えどころです。

なぜ感情的(怒りモード)になるのかをまず考えましょう。
それは自分が被害を受けているという意識を持っているからです。
理不尽で不当な被害を受けているという意識ですね。
怒りモードになるのは、突き詰めて考えると
その被害から自分を守ろうという意識です。

それが「悪い」わけではありません。

悪いわけではないけれど、メリットもない。
デメリット(相手から付け込まれる、ほら見たことかと)
はたくさんあるわけです。

じゃあどういう意識を持つべきか。
大事なことは
「あなたは一人ではない」ということを正しく認識することです。
子どもが連れ去られても家族は家族で
家族が連れ去りの瞬間無くなるわけではないということです。

そもそも被害者だったり、加害者だったり
特に夫婦関係はそう割り切れるものではないのではないかと
我が身を振り返っても思うわけです。
ところが、相手が加害者で自分が被害者だという感覚になると
加害者である相手の言動は全て自分を攻撃するものであるから
一字一句漏らさずに自分を守ろうという意識だけが強くなってしまいます。
つまり自分のことしか考えられなくなるわけです。

自分を守る意識を捨てることはできません。
ただ、自分を含めた
家族全体を見るようにする
ということならできるかもしれません。

あなたの問題ではなく家族全体の問題だ
という意識です。
もっと言ってしまえば、本来は
家族の中の話なのだと思います。
(私をはじめいろいろな人間がしゃしゃり出てきているけれど)

では家族全体を見るということはどういうことでしょうか。

家族の一人一人の状態をまず確認するということでしょう。

怒りにまみれている、あるいは失望し、呆然としている
自分がいる。
子どもを連れ去ろうとまでして実行した妻(夫)がいる
そしてわけのわからない状態で
友達からも地域からも親戚からも
何より自分の肉親の一人から孤立させられた子どもがいる。

一人一人の状態をリアルに想像することが第一です。
そうすればやらなくてはならないことが見えてくると思います。

そこには、
不具合が起きている家族があるわけです。
あなたはその家族の中の大事な1人なのです。
家族の問題だとして取り掛からなければ
解決しないか、
あなたの感情に任せた行動によって
益々家族を分断させる方向に向かわせてしまっている
ということに気が付くはずです。

自分だけを守ろうとする意識が強すぎると
自分の被害感情しか出てきません。
被害感情にもとづく怒りなどの行動は
家族を分断してしまう方向の行動になる危険が大きいということです。
結局自分を守れないということになるはずです。

逆に怒りを持てず、落胆だけしていても
それは自分の被害感情だけです。

いずれにしても家族は置いてきぼりです。

「なぜ『家族』は不具合を起こしたのだろう」
という考えに無理して進むことが出発点だと思います。

子どもに責任を負わせることは普通できないので
子どもに原因を求めるのは無駄な考えだと思います。
家族の大人たちを自分を含めてそれぞれ考えていくわけです。

この時考えるコツは
「誰が悪いのだろう」という考え方をしないということです。
誰も悪くなくても家族は不具合を起こす可能性を秘めています。
これは、長年家事事件に携わった私の一つの結論です。
「誰かが『悪い』から不具合が起きた」
という迷信が一般的にはあると思いますが
だから犯人を捜そうということでは、家族は簡単に壊れてしまいます。
人間関係は放っておいてもきずなが保たれるはずだ
というのは迷信です。

悪い、悪くないという発想を捨てて
家族みんなが、そして相手も
「人間のあたりまえの」感情をもって行動をしている
という前提で考えていくことがコツです。

人間のあたりまえは、単純ではありませんが
それほど複雑に考える必要もありません。
「こういう条件を持っているなら通常こうなるよな」
ということで良いと思います。

そこの「こういう条件」を考える場合に
引き出しをたくさん持っている人に補助線を引いてもらうことが
必要になるかもしれません。

例えば足を骨折していたら走れないよな
というようなことなのです。
ここで「こういう条件」というのは
足が骨折しているというものです。

実際の離婚事件などで
「こういう条件」でよく見られるのは病気です。

婦人科の病気のため感情抑制ができなくなっているとか

内分泌腺の病気の中には、
精神的な影響を与える病気があり
不安が抑えられなくなる場合があるとか

内科疾患の治療の薬の副作用であるとか

あるいは精神疾患であるとかです。

また、出産などのホルモンバランスの変化や
事故による脳の損傷など
様々な生物的条件が
後から加わってくる場合があります。

誰が悪いかという発想だけだと
これが見過ごされてしまうわけです。

例えば命がけで出産したことによって
産後うつになったとしても
その人に責任があるわけでも悪いわけでもない
そんなの産んで見ないとわかりません。

しかし、家族の中に問題を抱えた人が生まれる
つまり、他の家族がフォローしなければならない人が生まれた
ということだと考えるべきなのだと思います。

迷信のとりこになっている人たちは
妻が異常に不安を抱いている場合は
夫のDVがあるからではないか
と非科学的に決めつけるわけです。

他人がどう考えようと本来はどうでもよいのですが
家族だけはお互いにお互いの条件を考慮して
家族という人間関係を構築していくべきです。

この条件を見落とす理由で多いのは
「人間は、一生同じ人格を保って生きていくはずだ」
というこれまた迷信です。

人間は加齢や対人関係の変化の中で
自分ではコントロールできない変化を起こすもののようです。

結婚したときはこうじゃなかったのにということは、
言っても仕方がないことです。

どういう相手と結婚すると幸せになるか
というサイトなんかを目にしますが
それは人間の変化を見越してないわけで
参考にはならないでしょう。
大事なことは家族の変化を受け入れて
家族を日々作っていくということなのだと思います。

特に相手が感情、特に不安を制御できなくなる場合があることを
理解をすることが必要だと思います。

例えば、骨折した人に走れということが無茶なように
感情を制御できない状態の人に、
そんな感情をもつなということが無茶なのです。
誰しも不安になりたくてなっているわけではない。
家族の一人の不安に家族として、どう対処していくか
家庭を作る立場としての大人の在り方を
考えなければなりません。

これが子どもだったら
親にあてがわれた安心の中で生きていけば良いのですが
現代日本の多くの家族では大人は夫と妻しかいません。
夫婦がお互いに相手の不安に気が付いてお互いを安心させていく
ということをしなければならないわけです。

現代社会では必須の家事だと思います。

ちょっとわき道にそれますが
これ、実はサルは当たり前にやっています。
仲間の不安を鎮めるために、
お互いに毛づくろいをしているわけです。
餌をとる時間を削ってでもやっているようです。
サルもやっていることを
大人の人間がするのはあまりにも当然ではないでしょうか。

子どもの連れ去りは、十中八九、
連れ去る側に不安があることが確認できます。
多くは病的な不安で、漠然とした不安です。
実務上見られる不安の原因は、通常は体調の変化または病気です。

それなのに理由が思い当たらないからと言って
ほかならぬ家族から
不安を一笑に付されるという形で否定され
合理性や正義で、不安解消行動を否定され
できないことを非難されてしまうと、
いつの間にか不安の原因が夫にあるように扱われる場合も多いわけです。

だからといって
不安になる方が悪いということも
不安に気が付かない方が悪いということも
それはどちらも言えないのではないかと思うのです。
中には励ます形で
「そんなこと心配するなんておかしいよ。」
と言っている男性が私を含めて圧倒的多数ではないでしょうか。
いくつかの事件で、これがDVだモラルハラスメントだと
裁判所で主張されています。

それは不当だとしても、
「そうだよね。心配だよね。」と一言が言えないのです。
言えばそれだけで安心するかもしれないのです。

ただ、そうだとしてもそのことに気が付かないことが
「悪い」とは現代日本ではまだ言えないと思うのです。

だから、自分の何が「悪かった」のだろうと考えてしまうと
答えが出ないということもあり得ることです。
自分ができなかったことは何だったんだろうと考えるほうが
まだ有効かもしれません。

ちなみに家族が持っていた「条件」は体調面からくる不安だけではなく
生い立ち、親との葛藤
何らかの知られたくない体験(これけっこう多いです)
その他、打ち明けられないコンプレックス。
子どもの障害
何年もかかる住宅ローン
というのが、これまでよく見られた「条件」です。
自分が責められるのではないかという事情ということになりますが
ほとんど考えすぎといってよく、過敏状態になっているようです。

また、実際には相手に不安を抱かせる行為があった
というパターンも数は極めて少数ですが一定割合あるのも間違いがありません。


不幸にして子どもの連れ去りが起きてしまった場合、
私の場合は、
先ず、「どうして連れ去りが起きたのだろうか」
ということを一緒に考えます。
必要があれば心理士のカウンセリングを受け、精神科医の受診を勧めますが
時系列に出来事を並べていただくと
案外ヒントはどんどん出てきます。

次に家族再生を目標とするかどうかを決めてもらいます。
ここでいう「家族再生」とは、
またもとのように同居を開始するということだけでなく、
親子のつながりを現状から拡大させていくということも含まれます。
残念ながら、すぐに同居が復活したという事例は極めて少ないし
条件が限られています。

しかし、家族再生の方向に向かう事例は増えています。
少なくとも親子が断絶のままとなっている事例は
少なくなってきています。
(しかし少ないながらも一定数存在し続けます)

再生の特効薬は
「どうやって相手を安心させるか」
自分に対する警戒心を薄めていくか
ということだと思います。

相手の不安のポイント見つけてそこに有効な手当てをする
というのが理想ですが、
なかなか探り当てるには時間がかかります。
しかも相手を感情にかませて攻撃することだけを考えていると
なかなか有効な発見自体ができません。

もう一歩踏み込むと
どうやって相手に、自分が相手を仲間として尊重していることを
伝えることができるのか
そもそも、今の相手にとって
自分が尊重されているということはどういうことか
ということを考え出すことがやるべきことなのかもしれません。


まだまだ言い足りないのですが
私の考え方であると
表面的には争ってはいないように見えるかもしれません。

しかし、あなたの不安は家族から抜け出すことで解決できないし
そういう形で解決するべきでもない
というのですから
強烈な争いをしているとは思っています。

最終的には相手にも、
自分の不安の解消だけを行動原理にしていると
子どもを犠牲にすることになるということも
はっきりと言わなければならない局面もあるわけです。

また、事実関係についても
違うことは違うということを躊躇なく主張していきます。
ここはただ争うのではなく
どうして違うのかということも丁寧に説明していくことが必要ですけれど
そして違うということを述べることの精力以上に
間違ってもいないということを探し出すことに
精力を傾けています。

もっとも、すべての依頼者が
受任と同時に、家族の問題として考えを始める
というわけにはいきません。

特に自分の子どもの問題ですから
どうしても感情が沸き起こってくるし
一度家族の問題として考え始めても
被害を受けているという事実に基づいての感情が
再び、三度沸き上がってくることもよくあることです。

だから、すべてきれいに考えを切り替えるということを
あまり厳格に目標にしない方が良いかもしれません。

ただ、
考えるべき方向というものを
しっかり頭に入れておくかフリーハンドで裁判所に行くかは
結論に大きな違いも出ると思いますし、
ご自分の気持ちの持ちようもだいぶ変わるものだと
当事者の皆さんからお話を聞くにつけ
思うようになりましたので
今回ご紹介させていただきました。

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