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夫婦別姓は離婚が増加するという推測の根拠  離婚裁判の現場から [家事]



選択制夫婦別姓制度について、反対をするという目的ではありません。
末尾で述べますが、日本は、デメリットを指摘するとすぐ反対論者だとされてしまいますが
ヒステリックな議論で立法を論じるべきではないと思います。

さて、夫婦別姓にすると、離婚が増加するという推測は理由があるところです。
どのようにして人が離婚するかについて
何も定見のない人たちは、
単なる感覚だけで、あるいは知識がないために
離婚に影響があるとか無いとか
感覚的に言っているだけなのではないでしょうか。

実際に離婚が増加するかは制度が確立した将来どうなるかという話なので
制度が確立する前に証明することは不可能です。

ただ、離婚が起こりやすくなる要因というものがあるので、
反対か賛成かはともかく、一緒に考えてみましょう。

先ずポイントは、人間は群れに所属したいという本能を持っている
という動物だということです。
「所属欲求」といっておきましょう。

所属欲求が満たされるためには
所属する群れの中で自分が仲間として尊重されている
という実感がもたれなければなりません。

夫婦がその群れの最小単位です。
この外に、現代人は、学校、会社、地域、サークル等
様々な群れに所属しています。

昔は、ここに親戚関係、血縁関係、姻族関係等が
群れとして所属要求の対象となっていたのですが、
現代日本では、
これらの関係は群れとして意識されにくくなっているのではないでしょうか。

夫婦が円満に婚姻関係を継続する場合は
夫婦であることに、
所属欲求がある程度満たされている場合です。

この所属欲求が希薄になり
他の群れとの間での所属欲求が満たされていくと
離婚につながります。

わかりやすく言えば不貞でしょうね。
今の配偶者とは群れとしての感覚を持てず
配偶者とは別の人間に対して所属欲求が強くなるわけです。

実際の離婚事件には
不貞を原因とする事案も少なくありませんが、
多いのは別の群れとの家族の奪い合いです。

端的に言えば実家です。
一方配偶者の両親と他方配偶者との間での
一方配偶者の取り合いが行われて
両親が勝利するという図式が離婚の背景には圧倒的に多いのです。

これは、アメリカの離婚と離婚後の家族の研究科
ウォーラースタインの著作でも述べられています。

ウォーラースタインは離婚後の家族の心理面について
65組の家族を25年以上追跡して調査し続けました。
そんな彼女が
長続きする良い結婚とはどういう結婚か
ということを考察しました。
日本ではハルキ文庫で
「後悔しない結婚の条件」と題されて出版されましたが、
元々の題は’The Good Marriage’ です。

その中で、良い結婚になるための課題をいくつか挙げています。
その中の一番最初の課題として、
生まれ育った家庭からの自立
ということをあげています。

自分たちの両親と適切な関係を維持し続けるということが
もっとも基本的な良い結婚の条件だという指摘がなされたわけです。

それでも、この実家の干渉が本格的になるのは
子どもが生まれてからだと思います。
両親からすれば孫ですね。

どうも本能的に孫の取りあい、手なずけ合いが始まるようです。

平常時であれば、多少のことを老いた両親から言われても
精神的動揺もなく、一笑に付すことが可能です。

しかし、(男性も女性もそれほど変わりがないのですが、)
客観的には大きな理由もなく
不安を感じやすくなる時期、健康状態が人間にはあるようです。

その漠然とした不安がある時に
両親から夫婦の相手の悪口を吹き込まれたり
不安をあおられてしまうと
どうしても、夫婦間の信頼関係、帰属意識が揺らぐことがあるようです。

「この人と夫婦を続けていくことは
 この不安を抱え続けていくことなのだろうか」
と考えてしまうと、
その人との所属欲求が弱くなってくるようです。

親は、こちらにおいでということで盛んなアプローチを掛けますから
所属欲求の対象が親の方になってしまう
ということが多くの事件で起きているような印象があります。


さて、そこで名字の問題です。

名前はその人個人に与えられた記号ですが、
名字は家族という群れに与えられた記号です。

自分という個人を特定するために
家族名と個人名と両方をもって特定するわけですが、
その際、
結婚しても性別を改めないで
家族名を持ち続けていくことは
親とのつながりが絶えず意識されていることになります。
また、配偶者とのつながりが氏名からは感じられません。

これ自体が、
現代日本の離婚事情を後押しする条件になると思います。

また、別姓で生まれてきた子どもの名字をどうするか
と決めるまさにその時が
夫婦のそれぞれの親どうしの争いの火花が生まれ、
それぞれの親からのスカウト合戦になり
帰属意識が揺らぐ事情になる可能性が高いと思います。

そもそも、現代の孤立婚が問題なのだと思います。
昔のような、配偶者の親との結びつきが極端に弱くなっている。
あまり、打ち解けた交流すらない。

配偶者と子どもは、その家庭の中だけで群れが完結しています。

他の群れである学校、会社、地域等々の群れには所属するのですが
あまり仲間としての充実感を得られない
いじめやパワハラや、リストラ、無理な使われ方がなされ、
家に逃げ帰らなければならない悲惨な仲間が多いようです。

だから、一人ひとりにとって
家族というものがかけがえのないものに
変えるべき安心できる人間関係にしなければならないのです。

ところが夫婦が孤立しているということは
それだけで不安を感じやすい条件が生まれてしまうようです。
現代日本の夫婦は、離婚事件を担当していると、
孤立や関係解消の危険に無防備にさらされているように感じることが多くあります。
社会的構造から不安を感じやすいという側面を見逃せないのです。

それを若夫婦の親として応援するというよりも
自分の子ども以外を排除して
孫と片親とジジババで群れをつくりたいという形が
透けて見えてしまう。

親との関係では無防備な要素が色濃く表れているということが
今の日本の家族観だと思います。

家族の間で名字を別にするということが
とても危険なことでもある
そう思います。

確かに、本来は名字は個人の問題だから
国家が口を出すことではないということは正論かもしれません。

どちらかだけが親の名字を続け
どちらかが親の名字を捨てるということを押し付けられることは
なるほど不合理かもしれません。

特に圧倒的に専業主婦が少なくなった現代では
女性だけが名字を変えることが多いという現状の不合理は増大していると思います。

どちらも親の名字を使わないという第3の選択肢こそ
平等であり、円満な夫婦関係に役に立つ
とかねてより持論を持っております。

しかしこの説は、およそ論点になっていません。
誰も相手にしないでしょう。


また、個人がしっかりと家庭を作ればよい問題であるから
名字がどうなろうと関係が無く
自分たちは良い結婚生活を送っているという主張も多く見られます。

ここは誰を基準として、どんな人間観によって
婚姻制度を国家が考えるかという問題だろうと思います。

国民みんなが個人として自立しているのか
何らかの外部の影響を受けやすいのか
そういう想定する国民像も考えなければなりません。

選択的夫婦別姓という制度を設計することも
当然有力な選択肢ということになるのですが、
その制度化の家族の保護、強化という課題も
子どもの健全な成長という観点から
大いに考えられなければならないと思います。

どうも家族というユニットの現代日本における価値が
正当に評価されていないのではないかという危惧を
議論からは感じられてならないのです。



冒頭の続きですが
立法には、必ずメリットとデメリットがあるわけです。看過できないでデメリットが無い場合でも、デメリットをなるべく軽減させる手当をしながら立法を行うことが、少数者の人権を守る基本です。日本は、国会だけでなく、言論界においても、推進者はメリットばかり言ってデメリットを隠し、反対者はデメリットばかり主張して、メリットを認めない議論ばかりのような気がします。大変程度の弾く議論になっていると思います。多数決主義と民主主義の違いの分からない人たちばかりではないでしょうか。

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