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【家事調停の技術論】子どもがいる場合の家事調停は3面構造で考えなければならないという意味。子どもの独立した人格、利益を考える意味。面会交流調停を例に。 [家事]


家事調停の担当件数が多くなっているのですが、
家庭裁判所に危機感を感じています。

例えばということで、面会交流調停の場合を例に挙げてお話しします。

数年前に、最高裁も
面会交流の動画や、子どもに配慮した話し合いを勧める動画を作成し
子どもの独立の利益を考えろと言う号令をかけ
国も、家事事件手続法を改正し、子どもの代理人の制度を作りました。

しばらくはそのような傾向に調停実務も流れかけたのですが、
最近はまた後退していると感じているからです。

でもどうやら、家裁全体としては流れは確立しているようで、
個々の調停委員会や裁判体の問題のようなのです。

言ってみれば
言葉では、子どもの利益を考えなければならないということは知っている。
しかし、実際の調停の運営における活動では
子どもの利益を考えた結果になる方向に進めていない
という印象を持ってしまうのです。

目標は知っている
しかしその目標を実現する方法についてはわからない。
というような感じです。

無理も無いと言えば無理もないことではあります。
最高裁もそこまで懇切丁寧に説明はしていないようです。

むしろ現場から問題提起をしていくべきことなのでしょう。
ということで
問題の所在が少し見えかけました。

裁判所のスタンスは、
「別居親、同居親、どちらの立場にも偏らず公平を保つ
その上で子どもの利益を第一に考え、調停を進める
面会が子どもの利益を害さないならば、
どのような形で面会を実施するかを議論する。」
というのが、公式見解「的な」もののようです。

これと違うことがあったならば、「違う」と言って是正を求めることができる
ということになりそうなのですが、
そう簡単な話ではありません。

実際の問題点をイメージ的に提示すると

<タイプA>
別居親は会いたいと言っている
同居親は会わせたくないと言っている
話し合いは平行線で、まとまらない。
調停は終わりにして審判にしたらどうだ。

<タイプ特A>
話し合いは平行線でまとまらないから
間接交流で実施するべきではないか。
(来るか来ないかわからない写真を待つことにして終わり)

<タイプ特大A>
話し合いは平行線でまとまらない。
面会は時期尚早なので、今回は取り下げたらどうだ。
(いつになったら時期尚早でなくなるのかは不明)


面会交流調停申立人である別居親からすると
こういう対応をとられていると感じやすいものになっています。
ひところはもう少しよかったのですが。

ただ、実際は、調停委員は同居親に対して
面会交流を実施するように説得しているけれど
それを別居親に報告しないだけということもあるので
そこは注意した方が良いのですが
教えてもらわなければわかりませんからね。

問題点を整理して実践的な解決方法を考えましょう。

裁判所は二つの価値観を示しているわけです。
1 同居親、別居親を公平に扱う。
2 子どもの利益を第一に考える。

しかし、上記の問題例を見ると
1の大人の当事者間の公平が第一になっており、
2の子どもの利益を考えていることが伝わってこない
という問題があるような気がするのです。

先ず、子どもの利益を考えて、
面会することが子どもの利益を害するかどうかを検討し、
害さないなら面会の方法を考えなければならないわけです。

それにもかかわらず、相も変わらず
会いたい、会わせたくない。どちらも平等
ということになってしまってはいないのかということです。

これで話し合いがまとまらなければ
結局子どもは別居親に会えないのですから
別居親は子どもに会えないのですから、
同居親の言い分に偏った結果にしかなりません。

不平等な調停だと感じる原因はここにあると思います。

形式的公平を貫く方法論になってしまっていて、
実質的に不公平な結果にしかならないのです。


しかし、考えてみれば
民事調停だってこういう大ざっぱな調停運営はしません。

民事調停の場合だって、
双方の言い分には隔たりがありますが、
それでも、何らかの合意を成立させるべく間に入るわけです。
例えば「この点の利益を実現できるならば
金銭的な要求については譲歩できるのではないですか
金銭的には譲歩しても利益が大きいとは考えられませんか」
とか、「解決の利益」を考えて当事者の方々と一緒に考えます。

双方に支持的に関与することで、
案外まとまらないと思われる調停もまとまるものです。

「相手の言い分には納得できず、反発しかないが
何とか紛争自体は終わりにしたい」
という気持ちがあるから調停に参加するわけですから
こわもての主張がなされても
双方が譲歩して成立する余地はあるのです。

どこにくさびを打つか、そのポイントを見つけることが
調停委員会の仕事なのだと思います。

家庭裁判所の調停委員会の役割だって
両当事者の言い分が
平行線かどうかを判断することではないと思います。

(これで済むならねえ。)

そもそも、「同居親と別居親に公平に扱う」
ということをわざわざ価値観として重視するから
それを第一に考えてしまうというミスリードになるのではないでしょうか。

(当事者が何を大切にしているか、どうして感情的になるかについて
 理解していないことを表していると思います)

子どものいる場合の家事調停は
当事者が少なくとも3人いると考えなければなりません。
父親、母親、そして子ども(たち)です。

父親と母親は、調停に出てきて好きなことを言いますから
調停委員は二人の話をよく聞いていればよいわけです。
しかし、子どもは調停に出席しません。
調停の場ではものを言わないわけです。
だから、子どもの利益は大人が考えなければならないことです。

目の前にいない、語らない人間の人権や利益を考えることは
大変難しいことです。
目の前にいる人間の意見に引きずられてしまうことは
放っておけばそうなってしまうことです。

子どもの発達などの知識、想像力、理性的判断という
極めて高度な精神活動が求められているのが
例えば面会交流調停なのです。

この精神活動を補うために
専門家である調査官が面会交流などには配置されるわけです。

ところが、調停委員だけでなく、
調査官や裁判官までも
大人の平等第一主義をとってしまって
子どもの利益を結局はないがしろにしてしまっている
こういうことが起きているのだろうと感じています。

実際に面会交流調停なんて、
調停委員や裁判官の強力なプッシュが無ければ実現しません。
二、三年まえまでは、こういう裁判所の働きかけがあって
子どもが安定して別居親と会えるようになっていたのです。

今は大人の平等主義が最優先になっていて
あまりプッシュをしてくれないと感じられてなりません。
それでは、子どもは別居親に会えません。

同居親は別居親と顔を合わせたくないから
子どもを連れて別居したのですから
せっかく別居したのに子どもを相手に会わせようと
思うわけがないのが当たり前です。
同居親は子供を別居親に会わせたくないものだという
リアルから出発しなければ何も始まりません。

別居親の代理人は、子どもを別居親に会わせるという
別居親との合意した目標がありますから、
同居親の感情を少しでも下げる工夫をして
拒否反応を少しでも低くするようなアドバイスをします。

しかし、裁判所がこれを面と向かって別居親に言うことは危険です。
そもそもどうして別居になったのかについては
両当事者で言い分も違いますし、
実際は言葉で説明できないことの方が多いかもしれません。

それにもかかわらず、
子どもが別居親に会えない原因がすべて別居親にあると
裁判所が言っていると聞える話になってしまいます。

同居中の出来事の真偽を確かめようとするのではなく、
調停開始後の別居親の態度が
新たに同居親の不信感や警戒感を引き起こす場合は
(けっこうあるぞ)
それを指摘するにとどめた方が良いのではないかと思われます。

但し、同居親の不安があることも、通常の場合間違いないので、
連絡の取り方とか、子どもの受け渡しとか面会交流そのものの
ルール作りをきっちり行うということは前向きな話になるでしょう。
それは別居親も受け入れるべきだし
通常理不尽な要求というより、どうでもよい話が要求されるだけなので、
どんどん受け入れるべきだと思われます。


具体的な方法論としては、
面会交流調停が難航しそうな場合は必ず、
面会交流の必要性についての調査官のレクチャーを
(面会交流プログラムを)必ず早い段階で実施するべきです。

調停期日を一回つぶしても行うべきだと思います。
その方が解決が早くなるということが実感です。
そして、調停委員も一緒にプログラムに参加するべきです。

表向きの理由は
調査官がどのようなことをレクチャーしたか
しっかり把握して調停に入ることによって
両当事者の会話が進むということです。

少し内緒の理由は
調停委員も面会交流の必要性について繰り返し学習してもらいたい
ということからです。
(代理人弁護士も参加した方が良いですね)

そして最大の理由は
調査官自身が、当事者にレクチャーすることによって
出発点とするべき子どもの利益について
調査官自身が再確認する必要性を強く感じるからです。

これが抜け落ちていると、
子どもの利益を第一にするために理性的な精神活動を求められて
そのために調停に出席する調査官でさえも
調停に出席している人間の感情に振り回されて
子どもの利益が後景に追いやられてしまうようです。

自分が気に入った正義感で
相手を制裁しようとする行動原理が
どうしても見えてくることがあります。

感情に振り回されず、知識と理性に基づいて
子どもの利益を第一にした結果を出すと言う役割が
全く果たせません。

大人の当事者双方の感情に振り回されず
冷静に、理性的に子どもの利益を第一にする
そういうためにはこのように、
一見非情に思えるような精神活動が必要になる
私はそう思います。

面会交流の阻害事由がなければ
どのようにして面会交流を実現するか
という話に進まなければなりません。

それは同居親にとっては、感情的に受け入れられないことです。
しかし、子ども利益について一緒に考えなければなりません。
その現象自体は、感覚的には
同居親に対して不平等に扱うような現象になるわけです。

大人の間の平等よりも子どもの利益という場合は
どうしても一方の親の表面的な不利益が発生してしまい
一見不平等に見えてしまいます。
それは形式的な平等よりも優先するということを
はっきりと意識しなければならないことです。

これは、面会交流阻害事由がある場合は
別居親に不利益になるのですから
実は同じことなのだと思います。

ただ、場面が異なるだけの話だと思います。


そして、家庭裁判所で子どもの利益を考えなければ
あとは子どもは自己責任で成長していかなければならない
このことの重さをよく考えてほしいと思うのです。

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