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【調査官調査を受けた元子ども達の話の分析】子どもが、離れて暮らす親の実際にはない暴力や虐待を自ら話し出す心理過程。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

必ずこうなるという話ではなく、一つのサンプルとしてご理解いただければと思います。

子ども(10代前半)が親から隔離された事例がありました。5年間親子が切り離されたのですが、その後子どもは社会に放り込まれ、制限がなくなったので、親子の交流が当たり前のように再開しました。普通の親子よりも仲が良く、助け合って生活している微笑ましい関係がはたから見てもわかります。

それでも、離れ離れになったときの子どもの発言の記録や、家庭裁判所の調査官調査において、子どもは離れて暮らした親から毎日のように暴力を受けていたとか、暴言を吐かれていたということを言っているように記録されていました。親は子どもと一緒に生活できるようになったことがうれしいので、子どもの前では言いませんが、私の前に来ると、その時の子どもの発言に対して怒りを表明してしまうということがあるのです。子どもの「公的な」発言に傷ついていて、場合によっては親子の信頼関係もなくなる危険があるという不幸が継続している状態です。

私が親に対して「それは嘘だったんだ」と一喝すると、親も我に返ってニコニコ顔に戻るので事足りるのです。でももう少し、どうして子どもが針小棒大な発言、半ば虚偽の発言をしたかまとめっておこうと思いました。その子が、その時の自分の心情を、独特の言い回しで話してくれたのです。このお子さんは、自分を客観的に見ることができ、語ることができる能力の高い方のようです。

まず、子どもが親元から離されると、親元に帰りたいということしか考えないようです。当たり前と言えば当たり前なのですが、この子どもの当たり前の気持ちは、多くのケースで無視されます。
そして、「自分を親元に返せ」ということを強く希望するそうです。このお子さんは「泣き叫んだけど、相手にしてもらえなかった。」と言っていました。
このお子さんは性格的に、あるいは年齢的に、自分の意思をはっきり言葉にすることができた人だったのですが、おそらく多くのお子さんたちは、特に10歳未満の人たちは「帰りたい」という気持ちさえ言葉にできないのではないでしょうか。「この先、自分はどうなってしまうのだろう?」という不安に押しつぶされそうになっているのではないでしょうか。
ただ、言葉に出せるかどうかはともかく、本当に虐待されていた子ども以外は、強く家に帰りたい、元居た場所、自分の親の場所に帰りたいと思うようです。

通常この切実な子どもの要求は、かなえられません。これは子どもにとって理解が難しいことです。自分がこれまで生きていて、なじんでいた場所に帰れないということがあまり理解できません。混乱が継続するようです。「当たり前の場所に帰る」という自分の要求がかなえられないという事実だけを少しずつ受け入れていくようです。

この「受け入れ」は大きな意味を持ってしまいます。
人間は、「自分」という存在を認識する場合も、単独の個体としての自分を観念することはできません。親との関係、友達との関係、地域との関係などの他者との関係の中での自分の地位、他者との比較において、自分ということを把握しているわけです。子どもの場合は、親との関係で自分を観念しているわけです。親から尊重される自分、親から小言を言われる自分、家族の中の自分という感じですね。それにもかかわらず、家族や親を一瞬にして奪われてしまえば、「自分」という存在もあやふやになってしまうため、強烈な不安に襲われるのは当然でしょう。子どもながら、パニックになっている可能性があります。
子どもを親から引き離すことは、子どもにとって、取り返しのつかなくなるような精神的負担を課すことになりかねませんので、本当に必要のある場合に、必要性の範囲で行うことが必要だということになります。

次に、元に戻りたい。家に帰りたいという願いは、自分を返してくれという願いですから、とても切実な願い、要求です。それにもかかわらず、理由もわからないまま自分の要求が実現しないという体験をすることになります。「自分の願いはかなわない。自分の要求は実現しない。」ということを学習してしまうことになるようです。無力感に支配されるようになります。

親の離婚を経験した子どもたちも、同じような感覚になるようです。強い無力感を味わった子どもたちは、「仕方がない」ということを覚えていくようです。自分の思い通りにならないことは仕方がないことだ、それが当たり前のことだと思うようになるようです。希望を持つことをやめ、まずあきらめることから考えるようになるということは大変恐ろしいことです。

あきらめることを覚えた子どもたちが次に行うことは、自分が迎合する相手をみつけることです。誰に逆らわないことが苦しみが少なくなるのか、どういう発言が受け入れられやすいのかということを覚えていきます。

あるお子さんは一人の大人に、あるお子さんは全部の大人にこびるようになっていくようです。別のタイプのお子さんは、大人にケアされることをあきらめ、コミュニケーションを自ら断つような行動傾向になるようです。
もしかすると、あきらめによる目の前の大人とのコミュニケーションをとることを、一部の大人は順応というのかもしれません。

子どもは大人たちが、自分にどのようなことを言ってほしいか、必死になって探し当てようとします。しかし、その「言ってほしいこと」は、親の悪口であることが通常です。それは子どもにとっては、自分の存在を根底から否定することを自分の口から言わせられていることになります。

他方子どもは親に対して罪悪感を抱いているようです。

この罪悪感は、子どもが小学校入学の直前頃の年齢から見られる感情です。自分が親と住んでいないことに子どもには何の責任もないのですが、一緒に住んでいないことに後ろめたさを感じているようです。離婚事例の初めての面会交流で小さなお子さんが、別居親と会って大泣きして「ごめんなさい」と言っている様子はとても痛々しいものです。

この罪悪感から、大人の期待している発言をしないで、親を擁護する発言をするのかというと、それは違うのです。子どもは、既に親と生活することができないというあきらめがあります。また、第2希望の今いる場所で安心して暮らしたいという要求もあります。また、罪悪感を処理しなければなりません。多くの子どもたちは、親と離れて暮らしていることを合理化しようとしてしまいます。今住んでいる環境の中では、親に問題があったから親から離れて生活せざるを得ないのだという刷り込みが、どんなに注意して子どもに接していても結果的には継続して行われているのですから、子どもは親の悪口を言って、自分の罪悪感を減らそうとしてしまうようです。親の悪口を言うことで、自分の今の望まない環境を受け入れようとしてしまうようです。

それでも大事な一線は超えないようにしようとすることが多いようです。自分が親から離されている根幹の原因となった出来事については口に出そうとしません。その事実が無くても「無い」とは言いませんし、もちろんあったとも言いません。肝心の「そのこと」については語ろうとせず、その代わりに別の暴力や暴言を針小棒大に語りだすようです。調査官は肝心なことについて尋ねようとはしませんので、肝心のその事の真偽は不明のまま調査は終了します。

物理的にあり得ないことまで話し出すということがありました。どうしてそんなことを言ったの?とその本人に尋ねたところ、「確かに、そんな事実はなかった。自分がそんなことを言ったという記憶もない。でも書いてあるから言ったのかな?」ととても頼りない答えしか返ってきませんでした。何か発言の下書きがなければ言えないことなのですが、それは体験した事実でないとするならば、誰かの話をまねたということなのかなと考えています。

いずれにしても家庭裁判所の調査では、子どもの言った「言葉」が重視されてしまって、子どもの真意についてはあまり関心が無いようです。どうしてその発言を子どもがしたのかという子どもの感じ方まで掘り下げられていないようなのです。これは、実際に出来事が存在した場合でも、子どもの心理の流れ、発言に至る流れについて十分に考察がなされることによって、子どもの現在の心理状態が把握でき、親やその他の大人たちが子どもにどうかかわるのがベストかということの資料になるのです。子どもが言ったことが正しいか虚偽かにかかわらず、子どもの発言の由来をよく吟味する必要があるはずです。

これをしないのは、ある子どもが置かれている環境が子どもの心にどのような影響を与えているかという考察や、発達段階にある子どもの心理過程や成長過程についての考察が不十分で、あたかも家庭の中で子どもが平穏に生活しているかのように考えているのではないかと心配になっているところです。

この原因として、聞き取りに十分な時間が取れず、考察にも十分な時間が取れないということを背景に、調査官自身が求められた結論を忖度して、表面的にそれに沿うような資料が得られると、それを生の事実として提示して、求められた結論に結び付けるということが起きていないか、大変心配になっています。

また、子どもたちは、年齢にはよりますが、小学校中学年くらいより上の場合は、調査官調査では調査官しかいない場所での聞き取りであることは知っていますが、その調査結果はいずれ自分の生活の拠点の人間も読むことになる、いずれ知られることになるということをよく知っています。調査官調査の結果から、大人から文句を言われた経験を持つお子さんであれば「ああまたか。」というあきらめが先に立ってしまうわけです。そういうことで自分がすこしでも楽になることを言おうとするわけです。それを言うことによって罪悪感を減少させようという本能もあわさって、事実よりもそういうことを優先するわけです。

こんなことを言うと、「それでは調査官調査ができないではないか。」とご心配になる方もいらっしゃると思います。しかし、子どもとの面接の方法というのは実はよく研究されています。調査官は、子どもの言葉をそのままうのみにすることは本当はないはずなのです。いろいろな可能性をあらかじめ想定しており、子どもが発言した言葉の源流はどこにあるのか、どのような過程でそのような言葉を発したのか、本当は何を言いたいのかということを、肝心な場面、特に子どもの意思が述べられている場面においては十分に吟味するように指導されているのです。そうすることによって、調査官は子どものこれから先の長い人生に対して責任を持った意見が述べられるわけです。

「子どもはこういっている。それはこういう体験や、こういう子どもが置かれている環境からの発言である。そうするとこういう発言の真意はこういうことだと考えるべきであり、子どもはこういう希望を本当は持っている。」という流れが調査報告書の調査官の意見では記載されていることになります。
「子どもはこう言っている。だからこうするべきだ。」という単純な記載は、それはプロの記載方法ではないということになるでしょう。



親権者を決める場合の調査官調査についての考察は以下の記事で行っています。
調査官調査に対して子どもが別居親に「会いたくない」と言う理由 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-29

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