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紛争を解決するため、被害予防のためにやってはいけないこと 調停、ADR 、そして国際紛争 [弁護士会 民主主義 人権]


わが国で被害予防の対策が成功した例の代表は、交通事故防止対策です。単に交通事故に重罰を科すだけで終わりにせず、どうして事故が起きるのか、どうすれば事故を防ぐことができるのかということを科学的に分析して、一つ一つ対応をしていました。

例えば、夜間の交通事故を分析して、歩道上の明かりを増設したり、横断歩道を増設したり、信号機の位置、角度を変更したりと、こまめに対応が行われます。例えば飲酒運転と事故が関連性があるとすると、飲酒運転禁止のキャンペーンを展開して私たちの気持ちを変化させるなどの対応を行い、事故を減らそうと絶えまぬ努力をしてきたわけです。こういう警察関係者や科学者、付近住民の科学的な努力、理性の力で交通事故、特に死亡事故を減らしてきたわけです。

加害者憎しで刑罰だけを強めていったら、こうは劇的に死亡事故件数は減らなかったでしょう。被害者や家族など関係者が、運転手の落ち度を憎むということは当然ですが、誰かが理性によって次の犠牲者を出さないという活動をしていたわけです。

裁判所で行われる調停や裁判外の話し合い機関であるADRによって紛争を解決する場合の、調停委員やあっせん委員にも、同じようなことを求められています。

調停委員やあっせん委員の、話し合いが始まる前にもっている情報は、通常とても貧弱なものです。私もそういう仕事もしていますが、話し合いが始まる最初は正直何が起きているのかよくわかりません。でもそれでよいのだと今は考えています。わからない状態で、双方の当事者の方から、いろいろなことをお伺いするわけです。そもそもその取引上の常識は何か、通常はどのように行われているのか、どういう想いで調停を申し立てられたのか、教えていただくという感じで始めていきます。法律効果を導く事情(要件事実と言います)だけでなく、調停申し立てに至った心持もうかがうことで、判決ではない解決の方法が見えてくるのです。

これに対して、事情がよくわからないくせに、情報を持っていないくせに、最初の話し合いの場で、既に一方の立場になっている調停委員にも出会ったことがあります。この時は当事者の代理人として調停に臨んだ時でした。そんなことをしたら、当然他方は激高して話し合いになりません。私は代理人の立場から調書代わりの準備書面や上申書、進行に関する意見書を同日か翌日に裁判所に提出して問題提起をするとともに証拠を残すことにしています。

このケースは父親が面会交流を求めた事件ですが、その調停委員は浅はかな本による知識で、面会の要求はDVの一態様だという決めつけをもって調停にあたったようです。女性保護の観点から父親に対して攻撃的な態度をしたようでした。その調停委員の態度は正義感に基づくものであるわけです。しかし、公平であるべき調停委員が一方的な攻撃をするのですから、許されることではありません。ちなみにこの事件は裁判官が毎回調停に出席し、無事定期的な面会交流が確立しました。

思い込みや決めつけで作られた正義感は、警戒をするべきなのかもしれません。

思い込みや決めつけをしないためには、まず、情報を丹念に収集することが必要です。一方の主張だけで感情を作り、それを当事者にぶつけてしまうことは、絶対にやってはいけないことです。

不利に扱われた当事者は態度を硬化します。裁判所でも自分が尊重されていないと感じてしまいます。そうすると自分を守らなければならないという意識を強くします。聞く耳を持たなくなることもあります。自分の主張に固執してしまい、一切譲らないという態度をとるようになってしまいます。話し合いの解決は困難になります。逆に、十分に事情を尋ねられて、いくつかの部分に共感を示されれば、例えば解決金額が多少不利になっても、解決を志向して行動することが期待されます。

公平が大切です。この場合、よくある誤解は、調停委員やあっせん委員は、どちらかの当事者に感情移入しないで、どちらとも距離を置いて対応しなければならない、それが公平だという誤解です。しかしこれをしていたのでは、話し合いでの解決は難しいと思います。

心理学の手法にもあるのですが、どちらにもえこひいきをする方が公平な扱いになりやすいということが正解です。それぞれ紛争があり、当事者同士で解決つかない場合は、それぞれに言い分があることが通常です。どちらにも「味方」になるのではなく、その言い分の理解できる部分に「共感を示す」ことがコツだと思います。「こういう状況の中では、私もそういう行動をとるでしょう。」、「こういうことがあれば誰でもそういう気持ちになると思います。」ということを、共感できる部分を探し出してでも共感を示すということを心掛けています。

たったこれだけのことで、信頼関係が生まれていきます。そして、双方にとって、最も不利益にならない方法を考えて、メリットとデメリットとともに提案することができます。当事者は、調停委員に騙されているわけではないという疑心暗鬼にならないで考えを始めることができますので、メリットとデメリットを素直に検討することができます。決めるのは当事者ですが、決めるための柔軟な思考を可能にしているということも言えるかもしれません。

暴行などの不法行為の調停もあります。責任は争わないとしても、賠償額に争いがある場合に話し合いになります。被害者は大変お気の毒な場合が多く、被害の様子に思いをはせることは致し方ありません。しかし、だからと言って、無制限に被害金額を加害者にねん出させようとしてしまうことは絶対にしてはいけないことです。適正に、早期に、円満に解決することを目標としなくてはなりません。場合によっては、自分の正義感をセーブする必要があります。現在の裁判例に照らして無理な要求の場合は、要求をする側に対して、それでは解決は難しいという見通しをはっきり示すことが必要になります。そうでなく、ただ被害者に同情的になり、被害者の利益に従って加害者を説得してしまうと、まず調停ではなくなるし、加害者は調停という手続きをやめて訴訟での解決を目指すようになります。それも当事者が決めることですが、とりあえず調停が申し立てられ、相手方も調停に応じているということを尊重しなくてはなりません。裁判になって解決が長引くことは申立人の人生にとって深刻な影響を与えることもありうることです。そこまで考えて調停をしなくてはなりません。安楽な正義感は人を傷つけ、被害者の被害を拡大しかねないのです。

調停委員はあくまでも第三者です。調停委員の感情を満足させることを優先にしては調停ではなくなります。当事者の方々の意思決定を第三者の立場から補助するというくらいの気持ちでいなければなりません。もちろん、多くの調停委員が心得ていることですが、正義感が強く過ぎてしまうと、決めつけや思い込みも発生してしまいます。

紛争の局面では、解決することと感情を表現することが矛盾することが出てきます。憎しみを抑えて解決ができず、解決は遠ざかっても憎しみの感情を表に出したいという場面はほとんどすべての案件で出てくることかもしれません。当事者の方が、選択によるデメリットを覚悟してどちらを選ぶかということを冷静に決めることは自由です。しかし、当事者でもない第三者が、正義感を優先してしまって解決を後退させることはしてはならないことです。素人の代理人、支援者がよくやる誤りだと言ってい良いでしょう。

感情を満足させるために当事者に不利益が起きることを第三者が選択するということは話し合いによる紛争解決の場面だけでなく、様々な場面で見られる現象です。例えば虐待の防止を言うとき、交通事故対策のようにどうして虐待が起きるのか、虐待を防止するためにはどうしたらよいのかということを冷静に考えることをしないで、虐待親を感情的に攻撃し、厳罰化や警察の導入拡大ばかりを進めていたら、次に虐待される子どもを守ることができなくなってしまいます。虐待防止の道筋を示せない感情的な対策は、むしろ有害である可能性もあるわけです。子どもが虐待によって命を落としてから、人生を台無しにされてから厳罰が課されても、当事者にとってはあまり意味がありません。第三者の正義感を満足させることを優先にしてしまうことは、大変恐ろしいことです。

そのような視点で国際紛争を見た場合、日本は、ロシアに対する制裁を敢行して紛争当事国の一つになってしまいました。この制裁決議に、れいわ新選組以外の革新政党もすべて賛成しました。特に組織の中で批判もないようです。ロシアに対する制裁は、正義感の表れとして行われるわけです。しかし、その制裁によってウクライナの一般国民、特に子どもたちはどのような恩恵を受けるのでしょうか。私にはその道筋が見えません。経済制裁によっては、紛争は終結しないし、一方当事者のリーダーたちは戦争を終結させる目的をもって経済政策をしてはいないようです。制裁はあくまでも制裁でしかありません。

ウクライナの子どもたちの一日も早い安心感の獲得と経済制裁はつながってはいないように思われます。このような紛争の一方に加担した日本が、停戦の交渉をつかさどることはできないでしょう。少なくともその資格はないわけです。正義感を抑制して、子どもたちに安全と安心を提供する方法を真剣に考えるべきだと私は思います。正義感情の放出はこれと矛盾することだと思えてなりません。また、日本の国会の状況は、第2次世界大戦前夜のようにすら感じられるのは、私だけでしょうか。

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パワハラについての誤解  パワハラ国賠で勝利和解をした事案報告 じゃあパワハラとは。 [労災事件]

 

先日、町と県相手の国賠訴訟で、パワハラ被害者が勝利的和解を勝ち取りました。実質審理1年弱というスピード解決でした。とても学ぶべき論点が多く、こういう大事なポイントほど報道ではあまり取り上げられていませんでしたので、詳しく解説しようと思います。他人を使って事業をしている方、特に自治体などの公的団体の管理者にぜひお読みいただきたいと思います。

<事案>

中学校の先生が、職員室で同僚から一方的な暴行事件を受けて、比較的重篤な頸椎捻挫の傷害を負った。被害者の教諭は公務災害申請をしようとしていたが、学校長や教育長は、なんだかんだ言ってずるずる引き延ばした。公務災害を申請すると、暴力事件が県の教育委員会に知られることになることを恐れたためだ。発覚を恐れて、事件から2か月も学校事故報告書さえも作成しなかった。公務災害申請を断念させるための手口は、
・事件から2週間も放置。
・2週間後から1か月半にわたり、忙しい中学校教諭である被害者を頻繁に校長室などに呼び出し、のべ390分も公務災害申請の断念を迫った。
・断念を迫る「論法」は、「公務災害には該当しないかもしれない。」、「公務災害を申請して何がしたいの。私はわからない。」、「公になると子どもたちにも悪影響が出る。」、「暴力があったということはあなたにも悪いところがあったからだ。原因があって結果がある。」、「どっちもどっちだ。」、「お互い謝って終わりにするべきだ。」、「フィフティーフィフティーだから治療費の半分を支払って終わりにするべきだ。」
・異動願を書かせて学校、町の管内から追い出そうとした。
・公務災害申請を断念させるため、数度加害者を立ち会わせて公務災害申請を断念させようとした。居直る加害者を放置し、被害者ばかりを説得した。

主治医のカルテによると、当初、暴力に対する自然な反応だけだったが、校長の説得後半月あまりをして、不安の症状が出現し、1か月半には抑うつ状態と診断されるように、校長の説得期間に応じて症状が悪化していった。そして、ついに働けなくなり休職に入った。
その後も復帰したり休職したりという状態が続き、現在は長期休職中である。事故から10年以上を経て、損害賠償が認められたのが、先日の和解である。

裁判所が簡単に不法行為を認めた本件について、公務員の労災認定機関である地方公務員災害補償基金宮城県支部長は、この精神疾患を公務災害と認めなかった。異議申し立てをした同支部審査会でも、校長の行為は単なる自己保身であると認定しながら、それでも公務災害と認めなかった。2回目の異議申し立てをした本部審査会でようやく公務災害と認定された。事件から5年が経っていた。

<なぜ公務災害基金は当初認めなかったのか パワハラという言葉の問題>

裁判では実質審理1年弱で損害賠償の必要性が裁判所によって認められたという極めて明々白々の不法行為でした。それにもかかわらず、どうして公務災害と認定されるまで二度の異議申し立てと5年の年月が必要だったのでしょうか。じつは、これこそが、「パワーハラスメント」という言葉についての問題性を示していることなのです。

どういう問題かというと、
我々は、「パワーハラスメント」といわれると、どうしても、どこか暴力的な要素があるものだという先入観があるのだと思います。実際の暴力だけではなく、大声を出すとか、乱暴な言葉を使うとかというイメージです。あるいは、威圧による強制というイメージでしょうか。パワーハラスメントが行われていれば、目で見て耳で聞いてすぐにわかるはずだとなんとなく感じているかもしれません。

公務災害に該当するような上司のパワーハラスメントのサンプルも、身体的、精神的攻撃のほかは、「上司等による次のような精神的攻撃が執拗に行われた場合 ・人格や人間性を否定するような、業務上明らかに必要性がない又は業務の目的を大きく逸脱した精神的攻撃 ・必要以上に長時間にわたる厳しい叱責、他 の職員の面前における大声での威圧的な叱責など、態様や手段が社会通念に照らして 許容される範囲を超える精神的攻撃」
とされています。

本件では、大声を出されたわけでもありませんし、叱責を受けたわけでもありません。明らかに必要のない業務(教員一人に草むしりをさせるとか校門の拭き掃除を毎日やらせるとか)をさせられていたわけでもありません。もちろん暴力もありません。
あえていうならば、「人格や人間性を否定するような、業務上明らかに必要性がない又は業務の目的を大きく逸脱した精神的攻撃」ということなのだと思いますが、これに該当するということがよくわからないようなのです。(もっとも、実際の公務災害手続きの際は、このような言葉さえまだ整備されておらず、「執拗な嫌がらせ」というカテゴリーの該当性の問題になっていました。)

<現在の主流のパワハラは、暴力的な言動のないもの>

私は、本当に多いパワハラは本件と同じように、暴力的でも威圧的でもない上司の行為なのだと感じています。多くの人が職場が原因で悩んでいるのですが、「自分がパワハラを受けている」と理解していない人が圧倒的多数だと思います。この普通のパワーハラスメントこそ、防止しなければならないと思っています。

なぜならば、コンプライアンスを重視する圧倒的多数の企業では、さすがに暴力を伴うパワハラや、威圧的な強制パワハラ、意味のない仕事の押しつけパワハラ、長時間叱責パワハラは、行われなくなってきています。しかし、こういう典型的なわかりやすいパワハラではなくとも、人格や人間性は否定されるのです。そして、暴力などの場合と同様に被害者は精神的に傷ついて長期間精神的に病んだ状態になってしまいます。人生が台無しにされてしまうのです。もちろん抑圧された感覚は、生産性を低下させる大きな要因になります。

また、将来的に会社が莫大な損害賠償を支払うことになるパワハラを行っている上司は、
パワハラを行っている自覚がありません。
・暴力は振るっていない
・乱暴な言葉は使っていない
・無駄な叱責をしてはいない、必要な注意、指導をしているだけだ。
・部下を馬鹿にしているということもない。
だから私はパワハラをしてはいない。
こういう単純な図式で考えるため、会社で休職者や退職者が出続けている理由がわからないのです。

相談を受けた方も、マニュアルの該当性ばかりを考えていたのであれば、それがパワハラだと気が付かないかもしれません。パワハラが精神を害する理由を理解できていない人は、どうしてもこの行為はマニュアルのどこに該当するかという発想を立てて、見つけられないために該当しそうもないと簡単に結論付けてしまうかもしれません。

<パワハラ防止のために必要なこと>

どうすればよいのか。
答えは簡単ですが、そこから先が難しいかもしれません。

答えは、
何がその人の人間性や人格を否定することになるのか
ということに敏感に反応できればよいということです。

そして、いちいち自分のしていることは「人間性や人格を否定しているだろうか」と考えるよりも、そもそも人間性や人格を尊重する労務管理を心掛けるほうが、パワーハラスメント起きない職場にするためにはとても効率が良いです。従業員のモチベーションを高める方法での生産性を上げるほうが、ローコスト、ハイリターンになるわけです。

さて、人格や人間性を否定するということをもう少し具体的にお話ししなくてはならないと思います。この答えは対人関係学が常々指摘していることです。
つまり、会社という組織の中で、その人を尊重するということ、仲間として認める扱いをするということです。

<この事件で人格や人間性が否定されたと認定されたポイント>

最後に、冒頭の事案の中で、どの点が被害者の先生を尊重していないポイントなのか、どの点が仲間として認めていなかったのかということについてみていきましょう。

1 被害者として扱わない 
校長は、一方的暴力の被害者である先生を、被害者として扱っていません。暴力によってけがをしたのであれば、被害者は恐怖を感じるでしょうし、憤りを感じるでしょう。これに対して校長は、「あなたも悪い。」、「あなたも謝れ。」、「損害の半分は自分でもて。」というようなことを言いました。犯罪の被害者である先生は、人間として当然に仲間である校長や教育長からは、いたわられたり、同情されたりすることを無自覚に期待しています。ところが、そんないたわりはみじんも感じさせない仕打ちとなる言葉を発していたということになります。

これを読まれている方は、校長や教育長は特別ひどい人間だと思われるかもしれません。しかし、組織では、こういう対応をしてしまう管理者は多いのです。例えば部下同士のもめごとがあり、一人が一方的に他方を攻撃していたという事例で、他方は一人に対して反撃しないという事例があるとします。でも人間関係は悪くなっている。こういう時、管理職は、面倒な状態になることを嫌がり、何とか事態を鎮静化しようとします。しかし、理をもって解決することは実際は難しく、なるべく矢面に立たないで解決を実現したいと思うのでしょう。あろうことか、被害者に対して、加害者と話し合って解決しろと言い出すことが結構あります。なかなか立派な組織においても、こういうことは普通にみられます。一方的な言いがかりをつけてきた人とどうやって話し合えばよいのでしょう。こういうことは加害者が古参である場合によくみられることはご経験が誰しもあるでしょう。

2 あなたの人生より大事なものがあるという態度。

  校長や教育長は、事件から1か月半も公務災害手続きに協力しませんでした。公務災害認定を受けると、治療費が支給されるだけでなく、療養のための休職をした場合、休業補償を受けることができます。後遺症が残れば障害補償金が支給されます。公務災害が認定されないと、私病ということですから、治療費を自腹で払うことになりますし、休業をすると賃金が支給されず、退職をしなければならなくなることもあります。
公務災害申請は、被害者の将来設計、生活の保障、健康を確保するための最低限の手段になるわけです。
この公務災害の申請に協力しないということは、「あなたの将来設計、生活、健康より大事なものがあるから、そのためにそれらをあきらめろ。事件は無かったことにしろ。」ということに等しいわけです。
校長や教育長は、もっともらしい言葉をもっともらしい態度で言っていますが、支部審査会は、自己保身にすぎないと切り捨てました。たとえ、子どもたちの精神的安定のためだとしても、そのために先行きの人生に希望が無くなってもよいという態度を取られることは、やはり仲間として尊重しておらず、人間性や人格を否定するということになるわけです。ましてや、校長や教育長の保身のために、自分の人生を捨てろと言われたならば、自分が人間として軽く、価値のないものとして扱われていると思うことは当然だと思います。大変恐ろしいことです。教育長は、紛争が継続していれば「子どもたちがかわいそうだ」と言いました。教師であれば、教え子のことを第1に考えるということを計算しての卑怯な言葉だったと思います。自分の保身のために、このような教育者の良心を傷つけようとする行為を許すことができません。

3 校長、教育長という信頼をされるべき立場

  これらの、非人間的扱いが、日ごろから軽蔑している人間から行われたのであれば、それほどダメージは受けないと思います。
 ところが、教育長や校長という立場は、教育委員会や学校のトップです。どうしてもこの肩書の人間に対しては、まじめな性格の人間は、信頼を寄せてしまいます。つまり、公平公正に正義の観点から自分に接してくれるはずだという期待ですし、自分の立場を理解して自分にアドバイスをしているはずだという期待です。こういう期待をしている自分を自覚しているならば、期待をやめればよいだけなのですが、自覚していないので、知らないうちに傷ついてしまうのです。
 事例の先生も、校長がこういうことを言うのはおかしい。事実が伝わっていないのかもしれないという思いで、何度も事実を説明しています。しかし、校長には伝わっていないようで、別の日になればまた一から説明しなければならない状況でした。校長は議論をしていないのです。被害者の先生がどういおうと、結論を押し付けることしか頭に入っていませんでした。何度も同じことを、また初めから言わなければならないということは、たいへん疲れてしまいます。この疲れは、無力感に変化していくようです。
 事例の先生は、1か月余りの呼び出しによる説得活動の間、ずうっと校長や教育長に対して、期待を持ち続け、話せばわかってくれるという期待を持ち続けてしまいました。しかし、最後に、自分が何を話そうと、聞く耳を持っていないこと、自分は被害者なのに異動願を強要されて厄介払いをされそうになっていることを突然深く自覚しました。当然先生は校長に猛烈な抗議をしたのですが、すべてがわかり、つまり自分が尊重されておらず、人間性や人格を否定されていることを実感し、うつ状態になってしまいました。10年を経過しても回復しておらず、むしろ悪化傾向もみられるほどです。中学校教師にとって、校長と教育長が自分を人間扱いしないとなれば、絶望しかないのだろうと思います。

 事例の先生のつながりのある人が、報道を受けて町の教育委員会に事件のことを問い合わせたそうです。その人の話によると、教育委員会の地位のある人が問い合わせに答えて、「そもそも暴力事件の発端は被害者先生のミスにあった。」というようなことを答えたそうです。事務連絡上のミスは確かにありました。しかし、ミスがあったからと言って、職員室で暴力をふるうことが正当化されることではありません。そもそもより本質的なことは、教育長と校長が結託して事件をもみ消そうとしたことにあるわけです。教育委員会は、町の公金を多額に支出するはめになっていながら、まだ事件の本質を理解していないようです。ということは、今後も同様なことが起こり、多額な公金が支出される可能性があることを町民は覚悟する必要がありそうです。

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デッドボールで選手全員がグラウンドに出てこなくてはならない切実な理由 [進化心理学、生理学、対人関係学]

 

プロ野球を見ていると、デッドボールや、あわやデッドボールという投球があったとき、バッターが血相を変えてマウンドに走り寄る場面を見たことがあると思います。それを見てベンチから選手、コーチも飛び出してきて球場全体が騒然となります。そのあとつかみ合いになったり殴り合いになったりすることもあるようです。最後の暴力的行為はいただけませんが、その前の全選手がグラウンドに出てくることはとても大切なことです。これがなければ野球は成り立たないと言ってもよいと思うくらいです。

もしピッチャーが危険な投球をしてバッターが激高しても、誰も出てこなかったらどうなるかを考えるとその理由が見えてくると思います。

バッターの心理を考えてみましょう。
危険な投球は、二重の意味で、バッターの危機感を一瞬で高めます。
1つの意味は、もちろん生命身体の危険です。プロ野球は硬球を使いますから、ぶつかれば痛いです。それが130km毎時で飛んでくるのですから、骨に当たれば骨折の危険がありますし、頭部に当たれば生命の危険もあります。命がなくならないとしても、選手生命という形では予後不良になる可能性があります。野球というスポーツは危険を伴うスポーツであることは間違いありません。危険な球を投げられてバッターが委縮してしまうと、戦う意欲がなくなってしまい、たとえ体に異常がなくてもメンタル的に選手生命が断たれるということはあるでしょう。プロ野球に進むくらいの人たちですから、危険を感じたら委縮ではなく、怒りによって危険を除去しようとする根性を皆さん持ち合わせていると思います。

もう1つの危険の意味は、「対人関係的危機感」です。このような危険な投球をあえて意図的にピッチャーが行ったとするならば、自分がピッチャーや相手球団から、人間としてあるいは同じプロ野球選手として尊重されておらず、潰しても良い選手だと扱われているという危機感です。疎外感と言ってもよいと思います。このように、仲間として、人間として尊重されていないという危機感を「対人関係的危機感」と呼ぶことにします。ピッチャーは意図してバッターをデッドボールで潰そうとは思っていないと信じていますが、命の危険を感じたバッターからすれば、自分が意図的に攻撃されたと思いやすくなっています。

このような危機感に対して、自分の危機感を除去するために、怒りという感情をもって攻撃行動に移るのは、動物全般の生きる仕組みです。動物は植物と異なり、危険を感知したら逃げるか戦うかして危険を取り除き、生き続けようとします。さて、怒りに任せてマウンドに駆け寄ったとき、気が付いたら自分一人だったらどういう気持ちになるでしょう。

敵である相手チームから自分が尊重されていないということについては、怒りをもって攻撃することで危険を除去しようとすることができます。しかし、味方チームが、自分の危機意識を共有してくれていないと感じることは、大変なことです。敵チームには期待がそれほど大きくないのですが、味方チームには自分を尊重してくれるはずだ、自分を助けてくれるはずだ、自分の危険に対して共同して除去してくれるはずだという大きな「仲間に対する期待」があるはずです。この期待が裏切られたということになると、自分は味方チームからも、生命身体への配慮、対人関係に対する配慮がなされていない、自分は味方からもそのような扱いを受けていたという強い絶望が起きてしまいます。

これは人間の生存を脅かす条件となると思います。人間は、動物として身体生命の安全が図られることが生きる条件であることはわかりやすいと思います。同時に人間は、群れを作る動物として、群れの中で尊重されているという実感がなければ生きていくことに自信が持てなくなるようです。自分という存在は、仲間の中の自分の位置という概念で把握しているわけです。

誰も応援に来てくれなかったら、そもそも人間として、自信がなくなり、将来にわたり精神的問題が残る可能性も強いと思います。そもそも、自分の窮地を放置する相手を、これから先仲間として見ることはできなくなるでしょう。

このため、どうしても、乱闘が始まりそうになれば、味方を援助するためにグラウンドに出てくる必要があるわけです。これはチームとして活動する場合、切実に大切なことなのです。

もっとも、実際に乱闘に及ぶことは必要ではありません。暴力をふるう必要はありません。味方は、いち早くマウンドに駆け寄って、相手に対して怒りの感情をぶつけながら、本人が暴力をふるうことを制止する必要があります。本人は、自分の危機意識が共有されていいて、仲間が自分のことのように怒ってくれているということを実感できれば目的は達成されるということになります。怒りも徐々に収まってくるはずです。

乱闘シーンを見ていると、本人とは別の場所であまり関係のない人たちが暴力をふるっているような気がしますが、あれはいただけません。しかし、それよりも、あとからのんびりグラウンドに来てにやにやしている人間はもっといただけないということになると思います。こういう選手が干されるのは仕方がないことかもしれません。

野球はチームとして戦い、相手チームとゲーム上敵対する仕組みになっています。だから大変わかりやすいのだと思います。実は、日常生活でも、集団の中でデッドボールに近い危険球は良く投げられているのでしょう。言われた者の立場に立つことが難しいためそれがわかりにくく、グランドに出てくる人は少ない。日常生活では、攻撃チームと守備チームと整然とわかれておらず、味方からデッドボールが投げられるようなことが多いので、ますます混とんとしてくるのでしょう。多くの人が、誰も自分をかばってくれないと傷ついて、精神不調を起こしているのはこういう仕組みなのだと思います。

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父母と子の三角関係 思い込みDV連れ去り離婚の原因の一つ? 付録:エディプスコンプレックスに日本人がピンとこない理由 [家事]


思い込みDVからの子連れ別居離婚において、面会交流調停の中で試行面会が行われると(この意味については後述*1 )、これまでの私の経験では例外なく、子どもの父親との再会を喜ぶ姿が確認できます。それまでの調停期日において調停委員会は、父親はDVの暴君ではないかという疑いを持って父親に当たっているのですが、この試行面会の様子を見て見方が逆転します。調停委員のこちら側に見せる表情が格段に柔らかくなるのです。

すべてがすべてではありませんが(例外としては父親が子、特に第1子に厳格すぎる場合)、妻が子を連れて別居を行う事例では、同居中の父子関係は良好であることが多いです。もっと突っ込んで言えば。
むしろ、父と子はとても仲が良い
ということが多いです。子が男の子でも、女の子でもあまり変わりません。

調停や裁判に出てきた妻の主張を読み込むと
妻は、同居中、夫と子が仲の良いことに複雑な感情を抱いていた。
ということになるようです。

嫉妬という言葉とは少し違うようです。妻は、複雑な感情を持っていながら、この時点では子どもに対してはもちろん、夫に対しても愛情を持っているからです。どちらかに負の感情が生まれているのではなく、どうやら妻は、夫と子が仲よくしているのを見て、
自分だけが仲間外れになっている
というような危機感(疎外感や孤立感の予感)を抱いていたと考えるとわかりやすいような気がします。

これまでこのブログでくどいくらいお話ししていますが、妻が子の連れ去りをする前段階として、妻は夫とは関係がなく、不安を感じやすい状態になっています。産後うつ、精神症状を伴う内科疾患、婦人科疾患、不安障害やパニック障害、うつ病などの精神障害、職場のトラブル、薬の副作用などがその原因です。

だから、「子どもが父親になついて、自分が解放されて楽でよい。」と感じてもよさそうな場合でも、自分が孤立してしまうのではないかという不安を感じてしまいやすくなっているようです。これはかなり切実な不安になってしまいます。

加えて、日本人の場合、伝統的に父親も子煩悩だという民族的特殊性があります。大伴家持までさかのぼらなくても、江戸幕府末期から明治維新初期に来日した外国人がこのことを指摘しています。大森貝塚を発見したウイリアム・S・モースの「日本その日その日」(講談社学術文庫)では、日本は子どもの天国だと表現していて、父親が子どもをかわいがる様子、子どもが喜ぶ様子が生き生きと描かれています。また、親子が川の字で寝るのも、アジアだけの風習のようで、例えば西洋では、子どもが幼児の段階でも子ども部屋で一人で寝かせられていることが当たり前のようです。日本の父親は子煩悩であるということが一つのポイントになると思われます。

明治初期のように、庶民の暮らしが大家族で営まれており、兄弟もたくさんいるようであれば、妻からしても夫が誰とどのように仲良くしようとあまり気にしなかったことと思います。あまりに一人の子どもをひいきしてしまうと、妻が言うまでもなく、いろいろな人間が批判したのだと思います。
ところが、現代では、住宅事情もあり、夫婦と子どもだけでの生活が営まれており、子どもの人数も多くないようです。わかりやすく、親子3人の生活の場合を念頭に置くことにします。
3人の家族という人間の群れがあると考えてみて下さい。自分以外の2人が仲良くしているというだけで、残された一人は孤立感や疎外感を抱きやすくなるのが人間の性質なのかもしれません。自分だけが楽しそうな空間の登場人物ではないと意識してしまうと、自分は群れから仲間として必要だとされていない存在かもしれないとつい考えてしまうということがあるように思われます。

その孤立感を深める事情もあります。それが先ほど述べた年齢や出産、女性という性に伴う体調の変化です。
さらには、男性と女性ではわが子に対して、出産の有無に伴う不可避的な傾向の違いがあるのではないでしょうか。

父親の子に接する態度と母親の子に接する態度は大きく異なることが多いようです。母親は、妊娠期間中、ずっと子どもが自分の体内にいて、自分と有機的に一体のつながりがあったわけです。それが月満ちて子どもが体外に出たからといっても、どうしても子どもが自分の体の延長線上のように感じることがあるのは考えてみれば仕方がないことのような気がしています。頭では、子どもも独立した人格があるということは理解していても、どうしても自分と子どもとを一体に感じているところがあるようです。子どもが何かを失敗すると、父親はかわいそうにとしか思いませんが、母親は自分が失敗して損をしたような感覚になっているような反応を見せることが見受けられます。子どもがかわいそうという気持ちももちろんあるのでしょうけれど、まさに自分のこととして悔しいという感情が生まれるようです。

これに対して父親は、基本的には子どもが生まれてきてから親になり始めるし、子どもからなつかれてはじめて親になると言われています。どうしても生理的一体感は父親の担当ではなさそうです。子どもが生まれたときには、既に子どもは自分の外の存在だということを受け入れているわけです。

この結果は、子どもとの接し方の違いとして現れます。

父親は自分とは違う存在として子どもを見て、子どもの行動についても、興味深く見ることができ、楽しむことができます。子どもがしたいことを手伝うような接し方をすることが多いです。そうするとある年齢に達した子どもからすれば、大げさに言うと、父親は自分の意思決定を肯定してくれる存在ということで、父親と遊ぶ時も緊張感を持たないで、リラックスして楽しい時間を過ごすようになります。

母親はこういう放任というか、無責任な接し方はできません。「子どもは自分の体の一部」という感覚がありますから、子どもがどう行動するかということは、自分がどう行動するかということとほぼ同じです。子どもにかわって、子どもの行動や考え方までも自分が決定しようとしてしまうわけです。言葉を悪くすれば子どもを支配したいような行動をするわけです。但し、この母親のかかわり方は、乳幼児期には子どもの成長と安全にとって必要な行動様式です。いつ、このかかわり方を後退させて子どもの独自性をはぐくんでいく方向に転換するかということはとても難しいことだと思います。父親と母親がけんかをしながら決めていくしかないと思います。父親と母親が意見を衝突させて、その間で子育てをすることは、どちらかに偏ることが避けられるという意味では子どもにとっても都合の良い意思決定システムだと思います。

そういう母子の一体感が、子どもの年齢とともに不具合が目立つようになるころに、父親と子どものフランクな関係というか、父親の無責任というか、おおざっぱな接し方は、もしかしたら母親からすればとてもうらやましいことなのかもしれません。子どもは、自立を志向し始め、母親の言う通りには行動をしようとしなくなります。子どもからすると、あれやこれや細かいところまで口を出してくる母親は緊張の対象になってしまうことがあります。そうするとなおさら、自分に対しては見せない子どもの、リラックスして楽しそうにしている様子は、父親と子どもが相性が良いからなのではないかという勘違いを生むなど、母親の不安を掻き立てることになるのかもしれません。

そして、母親はそういった不安を自分の心の中で合理化しようとしてしまいますし、よりネガティブな考えに陥っていく危険があります。流れをシミュレーションしてみると、
子どもは
・ 夫の腕力が強いから子どもは逆らえないために夫の言うことを聞く
・ 夫は娯楽ばかりで楽しいことしかしない。自分は教育やしつけなど子どもにとって面白くないこともしなくてはならない。
・ 夫は妻の至らないことについて子どもに告げ口をして自分から子どもを引き離そうとしている。
・ 夫は外で働いていて経済力があるから子どものわがままを許すが、家計を預かる自分は子どものやりたい放題をするわけにはいかない立場である。
・ 自分は子どもを産む機会、子どもの世話をする奴隷として見られていて、仲間であるとは評価されていないではないか。
等々ですね。

ここで考えなければいけないのは、このような母親の考え方は、母親の人格や性格の問題ではないということです。要領の良い母親は、良好な父子関係をラッキーととらえ、自らの仕事を軽減させて自分の自由を獲得するわけです。まじめで、夫と子どもを大切に考えている母親だけが、不安を感じやすくなっていることと合わせて、孤立の不安を感じてしまうわけです。そして大きな個人差はあるにしても、多かれ少なかれこのような孤独を妻が感じやすいということを夫などはよく知っておく必要があります。

事件から気が付いたことを上げます。
1 できる限り、親子3人の関係の時間を作ることに努める。2対1の関係を極力避けるようにする。少し声を大きくして、妻も参加している外観を作る。内緒話は絶対しない。
2 妻の体調や子どもとの志向と合わないため、父子の関係での行動がなされることは多い。こういう場合でも適宜報告を行い、欠席者の妻の追体験ができるようにしておく。写真をラインで送るとか。
3 夫婦間では情報を極力共有する。
4 子どもに対しては、ふざけていても妻に対する否定評価を告げない。フォローする。子どもは母親から叱られたりダメ出しをされたりすることで、「自分は母親から嫌われているのではないか。」という不安を抱きやすいので、そうではなく、母親が子どもを大切に考えているため、そういう風に子どもが思うようなこともするのだという説明を妻の立場に立って告げる。
5 子どもからなつかれると、無意識に優越感を抱く父親は多い。「産まなくても、授乳をしなくても子どもは自分になつく、自分に対する評価は子どもがしてくれた。」という変なコンプレックスに起因する感情を感じてはいけない。
6 まとめると、子育ては父母というチームで行うもので、自分はそのパーツであるということを常に自覚し続ける。
こういうことでしょうか。

最近私は、人間の仲間は、相互に、仲間を安心させる行動をするべきだという考えを持つようになっています。夫婦問題を論じる人たちは、あれをやってはならない、これをやってはならないということを説明しますが、どちらかというとどうやって相手を安心させるかということを考えるほうが、実践しやすいし、的を射ているような気がしています。放っておけば人間(霊長類)は不安になる動物のようです。この不安の手立てに、特に現代社会は無防備になっているような気がしています。

付録:エディプスコンプレックスが日本人にはピンとこない理由。

外国人の家庭がどうなっているかということについては、フルハウスなどのアメリカのファミリードラマや映画、小説などでしか情報がないのですが、ほとんど赤ん坊と言ってもよいような幼児が一人の部屋で寝かせられていることに驚きます。日本ではというか、私にはあまり考えられない待遇です。
家族の中で、このように子どもが孤立している時間を過ごすとすると、本編では母親が味わったのではないかと推測している孤立感を、西洋では子どもが感じているのではないか思ったのです。西洋では父親は日本ほど子どもにかかわろうとしないとすると、子どもの親に甘えていた記憶というのは、乳児のころの母親との愛着形成だけだということになるのではないでしょうか。子どもが甘えるということ自体が、安心したいということなのだと思うのですが、そうすると親離れするときに甘えたい対象は、自分の生活全般の面倒を見てくれた母親しかありません。母親から自分を引き離した対象は父親ですから、自分の安心要求を妨げるのは父親だということになるでしょう。性的な話ということではなく、このような安心を妨げる存在として父親が意識されてしまうということはありうることだと思うのです。前述のように日本では、寝るときも親子が川の字で眠りますので、いつでも子どもは母親に甘えられますし、父親も自分にかかわってきますから、父親が安心感を妨げる存在には西洋と比べると格段となりにくい事情があるように思われるのです。女児の場合のエレクトラコンプレックス、つまり母親に対する敵対的な感情は、子どもから見ると自分を支配しようとする母親に対する複雑な感情が、自分を支配しようという行動傾向のない父親に対する感情が複合して生まれたものとは説明できないのでしょうか。理論がどうこうというより、ピンとこないというレベルの話なので、ご寛容のほどを。


*1 思い込みDVからの子連れ別居離婚とは
ある日夫が家に帰ると、妻と子が家におらず、身の回りのものなどがなくなっていて、行き先もわからず、警察に届けても安全に暮らしていると言われ、キツネにつままれているうちに、家庭裁判所から連絡が来て、離婚調停が始まる。身に覚えのないDVが主張されている。子どもにも会えないまま、生活費の支払い義務と離婚が決定される。

子どもの同居親である母親(父親の場合もある)は、別居親である父親の子どもと会わせろというつつましやかな要求に対しても、頑として拒否をする。その理由として、「同居中、父親は子どもを虐待していたから、子どもが怖がって会いたくないと言っている。」という主張がよく見られる。様々な証拠を提出して、同居中の父子関係が良好であることを示す。何よりも父親は父子関係に自信を持っている。それで、裁判所で試行面会が小一時間開催されることになる。


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子どもの学費を支払わないと言ってしまう夫の心理 攻撃的感情によって客観的にわが子と対立してしまう原理 環境が人の心や認知をゆがめるという科学的把握の勧め [家事]


何人かと話していて、「あれ?変だな。」と思うことがありますよね。違和感をはっきり自覚するまで意識しなかったり、話している相手の属性かもしれないと思って深く考えなかったりするのですが、別の人から続けざまに話を聞くともしかしてと思うことがあります。

妻に子どもを連れて、突然別居されて、一人自宅に残された夫と話していて、感じたことです。

養育費を決めるときに、その養育費は、通常の生活を送っていることが念頭に置かれた養育費なので、イレギュラーなことで出費がかさむ場合に備えて、調停条項では、事故などで入院をするとか、高額の入学金が必要になった場合等は、「改めて協議を行う。」という文言を入れることがあり、むしろ多いかもしれません。
それに抵抗を示す夫がいるのです。現実にも、別居後子どもが私立の学校に入り、入学金の支払いが困難なのに、支払いの分担をすることを拒否するような事例もありました。

但し、実際に婚姻費用を払い、住宅ローンを払うととてもたくわえを作れないということも少なくないし、無謀な入学をする場合もあり、一律にそれを非難できるかというと難しいことはあるのです。

それでも金銭的に余裕があり、子どもを養育する意欲が高い場合であっても、子どもを連れて出ていかれた妻に対する感情が強くなってしまい、子どもが困ってしまうにもかかわらずに拒否するという事例があります。多くの事例では夫は自ら支払うことを望んで支払うのですが、拒否をするケースもあります。

そういう時は、やや強めに支払いをアドバイスするのですが、お金を出すのは私ではないので、どこまでいうべきか迷うときもないわけではありません。しかし、それまでに十分打ち合わせをして、この人は払うべきだと感じたときは、かなり強めにメリットデメリットを提示して、支払いを促すがほとんどです。

なんでそんな余計なことを弁護士がするのでしょうか。それは依頼者である子どもを連れされた夫が後々不利益を受けることが目に見えているからです。すべてのケースで一律に行うわけではなく、夫は本当は子どもの役に立ちたいと思っていると確信できる場合です。つまり、夫が子どもを大事に思っていて、子どもの発育に関与したいと思っている場合です。まあ、圧倒的多数の場合なのです。

実際は、そういう私が払うべきだと感じた事例では、本当にお金のない事例以外は、支払いは行われます。方法はそれほど難しくありません。

第1に、夫が拒否することで終わりにしないで、しっかりと議論の対象にすること。
第2に、学費の支払いを拒否することで、子どもが進学を断念することになるというデメリットがあることをしっかり告げること。
第3に、子どもが進学を断念したら、子どもは父親から愛情を受けていないと感じることになるという見通しを告げること。

概ね以上です。
これだけで、かたくなに拒否していた夫は、支払いに応じるようになります(私のケースでは)。

つまり、夫は、なんとなく、妻の口座に送金することに対して強い抵抗があるわけです。そしてその妻に対しての恨み、攻撃感情が強すぎて、子どもが不利益を受けるということまで、しっかりと考えることができない状態になっているようなのです。その結果、子どもが夫に対してどのような感情を抱くかなんてことまでとても考えることができないようなのです。

このことにはっきりと気が付くことはなかなか難しいことです。おそらく多くのこじれる事案では、夫側の代理人が、「ああ、こういう子どものことをかえりみないで、自分の不利益を少なくすることに必死な人なんだ。だから妻は出ていったのかもしれない。」などと思っているのかもしれません。

私は、人間的におかしい人ではないので、話せばわかるだろうというくらいの気持ちでいつも説得していました。しかし、子どものイレギュラーの出費に抵抗をする人が連続して現れ、それらの人がかなり尊敬できる行動パターン、思考パターンをしているのに、なぜか出費を拒否したということを目の当たりにして、少し考えてみました。

結局支払いに転じるのは、先に挙げた3つのパターンですが、特に「不利益を受けるのは子どもだ。」ということが頭に入れば、「あっ!」という声を上げることに気が付いたのです。そして、「もしや」と思い、次の同じパターンを示した夫に対して、「子どもを連れ去られた夫は、皆さん多かれ少なかれ、妻の口座に送金するというポイントに反応してしまい、お子さんの利益を忘れてしまうことがあるようです。」と説明したら、とても腑に落ちた様子で、早々と支払い条項を定めることに積極的に転じられたということがありました。

ここで、夫の代理人が、「子どもの利益を考えられないなんて、それはおかしい。支払わないなんて言うことがあなたできるのか。」などというネガティブな評価を依頼者にしたら、おそらく、気づくことがなく、妻に対する対抗意識で拒否し続けるのかもしれません。

本当に子どもが損をするということに気が付かないようです。

「お前の学費は払わないけれど、面会交流で楽しく振舞え。」と言っているに等しいことに気が付かないようです。私たちが気が付くのは、第三者だからなのでしょう。でも第三者でも、依頼者の妻に敵対的意識を持ちすぎてしまうと気が付かなくなるかもしれません。第三者の代理人のアドバンテージがなくなってしまいます。それだけ人間の被害感情は人の認知をゆがませるということだと代理人は肝に銘じるべきです。

元々がそういう性格なのではなく、連れ去り別居という行為によって、人の心が強い影響を受けてしまい、敵対感情が最優先となってしまい、それ以外の考えるべきことが考えられなくなってしまうというメカニズムをよく理解することも大切だと思いました。



逆もまた真なりですから。


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【超長文御免】死ぬという確定意思のない自死(自殺)と自死予防は何を予防するかについて 「自分で死を選んでいる」という誤解だということの具体的説明 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

特に若年の自死の問題に関与すると、必ずと言ってよいほど聞こえてくる話があります。それは、
「その人は、死ぬつもりなんてなかったと思うよ。はずみで死んでしまった事故だったのだよ。」
というものです。
そして、自死の前日や当日、本人が楽しそうなそぶりをしていたことや、自死の日の直後の日に、いろいろな計画があったことを理由として、その人は自死をするつもりではなかったはずだと述べられます。これから死のうという人が、そのあとの計画を立てようと思うわけがないというのです。

無理もない誤解だと思います。このように考える方々は、おそらく、「自死する人は、長期間死のうかどうしようかということを迷い続けて、何日か前からいつどこで死ぬかということを決めていて、死ぬことを決めた日の前は、一貫してこれから自分は死ぬんだということを考えていて暗い表情をしている。」はずだという前提を作っているのだろうと思います。

そういう自死もあるのかもしれませんが、私が調査したり、仕事として関わった自死には、そのような計画性のある自死の例がすぐには思い浮かびません。通常は無いと言ってもよいと思います。
だからその前提が多くの場合には間違っていると言ってよいでしょう。

言葉をうんぬんするときりがないのですが、それは「自死」とか「自殺」という言葉からくる誤解だと思います。要するに、「自分で自分の命を絶った」ということですから、言葉を当たり前に受け止めると、「自分の『意思』で自分の命を絶った」のだと人は無意識に考えてしまうのでしょう。外形だけを見れば自分で危険行為をしているわけですから、自分の「意思で」自死を決行したと感じることも無理がありません。
しかし、人間の行動は、必ずしもその人の意思に基づいて行われるわけではありません。「そうしたいからそうした」とは限らないのです。

国などの、「追い詰められた末の死」という言葉も、誤解を招く原因となる危険のある表現なので、この言葉の意味についても慎重に理解しなくてはなりません。

実際の未遂例や既遂例を調査した限り、命を絶つという効果を目的に自死行為をしたという目的的行為があったとは必ずしも言えない自死行為や、自分の命が危険になるということを自覚していることのない自死行為が、とても多いことに気が付きました。

以下、典型的な2類型の、死の意識が希薄な自死行為がどうやって起こるかについて説明します。

1 薬物、アルコールの影響での夢遊病型
前回の記事の中の万引き(トランス型)も参照にしていただければ幸いです。

不幸な偶然の条件が重なると、人間は自分の意思とは別に行動をしてしまうことがあります。極端な例を紹介します。ある種の向精神薬とアルコールを併用して、まったく記憶のない状態(記録に残らない精神状態)になってしまいました。それでも、自動車を自分で運転し、自分の好きな商品の売っている深夜の店舗に行き、比較的広い(二階建ての)店舗のその売り場まで歩いていき、異常を感じた店員が近くに来て制止しているにもかかわらず、店員がそこにいないかのように全長1メートルくらいある商品を何点か自分のカバンに詰め込もうとして逮捕されました。その時のその人は、目の焦点が合わず、口を閉じることもできず、よだれを流しっぱなしにしていた状態だったとのことです。ほかのことを一切考えずに、その商品を手に入れる行為だけをしていたわけです。

この人は、外形的に見れば、自分で商品を盗もうとしていたということは間違いではありません。しかし、それを自覚してはいません。夢遊病ならば、自動車運転をして正確に店舗にたどり着き、その商品を盗む行為をするという複雑な行動は、とてもできないような気がします。それでも、その姿を見ていた店員によると、あたかも映画のゾンビのようにオートマチックで動いている感じだったということらしいのです。また、店員がいることを気にしないで行動をしていたということからも、少なくともまともな意識状態ではないことがわかります。

どうやって、このようなヘンテコな行動が起きてしまうのでしょうか。


その人の頭の中で、常日頃から「その商品が欲しい」という気持ちがあったことは間違いなかったようです。それでもお金がかかりますし、どうしても必要なものでもありません。理性が働いている場合は「まあいいか。」ということで、窃盗をしないことはもちろん、お金を出して買うこともしないという「自己制御が可能」な状態だったのだと思います。ところが、複雑な過程を経て、複雑な効果が表れて、「行動は可能だけれど自己抑制ができない状態」が生まれてしまったのだと思います。これは、脳のある部分(前頭前野腹内側部)が機能を停止し、その他の部分は活動しているということで説明ができるのではないでしょうか。

自死者の多くが、自死の前に精神科治療を受けていたというデータがありますから、現在の精神科医療の大勢からは、自死者の多くが向精神薬を服用していたことが推測できます。また、少し古くなったデータですが、少なくない割合で自死者の体内からアルコールが検出されているという報告もあります。そうだとすると、向精神薬とアルコールの併用や、どちらかの過量接種が起きて、脳の局所的な活動、停止が起きて、「行動は可能だけれど自己抑制ができない状態」が生まれることはありうることだと思います。

先ほどの窃盗の事例では、頭の中にその商品が欲しいという記憶が何かしらあって、窃盗行為を抑制することができなかったという状態でした。これがこの実際の場合と違って商品が欲しいという記憶ではなく、何らかの精神的に追い込まれている事情があり、「死んだら楽になる。」という死に対する明るいイメージを持っていたとしたら、その人は窃盗ではなく、自死をしていたかもしれません。その場合、単なる死に対する明るいイメージだけでなく、「死ぬ方法」についても考えてしまったりしていたら、ますますその方法を行うことを止めることができなくなってしまうと思います。

WHO等の自死に関する報道についてのガイドラインとして、自死の具体的な方法については詳細を報道しないことを要請しています。こういう薬物・アルコールの影響で意識がない状態での自死を考えると、報道によって自死の具体的方法を知ってしまい、記憶に残ってしまったら、その方法を止めることができない状態になり、実行に移す危険が高くなるわけです。具体的方法について報道しないことはとても大切です。

向精神薬などを過量服薬するという形で死亡する場合もあります。複数の未遂者と家族から最近もこの話を聞きました。

ある方は、抗不安薬を飲めば眠れていたそうです。しかし、その日は眠れなかったので、眠るために追加で飲んでしまったようです。それでも眠れないため、さらに追加して薬を飲んでいくうちに、だんだんと意識がもうろうとしてきて、「映画のゾンビかロボットのようにオートマチックで動いているように」飲み続けていったそうです。本人にはその時の記憶がなく、家族が見た様子ということになります。そうやって一錠ずつぼりぼり噛み続け、気が付いたら大量に薬を服用してしまっていたようです。薬を飲み続けている様子は、先の商品窃盗の犯人のような状態だったのでしょう。家族は必死に服用を止めようとしましたが、力が強く、服用をやめないので、救急車を要請して緊急入院となりました。一か月近く入院したそうです。家族がいなかったらもっと大量に服薬していたでしょう。命を落としてしまう危険もあったと思います。つまり、自死として死亡したかもしれなかったということです。

別の方は、マンションの階段を上りだす人で、飛び降りる寸前で家族に止められて無事だったということが何度かあったそうです。そのうちの半分くらいは自分では記憶していないというのです。

最初に挙げた窃盗の事件の精神状態は、さすがに珍しい事例だと思います。意識のない中で行った行為はかなり複雑な行為でした(実際は何度か同じように車を運転しようとしてできなかったり、発進直後に事故を起こしたりしていたようで、たまたまこの時はうまくいったという事情があったようです)。しかし、自分の命を落とす行為は、もっと単純で簡単に手軽にできてしまいます。そこまで複雑な脳の状態にならなくても可能です。

私が話を聞いた人たちは、その時に家族がいたため、家族が危険行為に気が付き、危険行為を止めることができました。しかし、家族がいなかったら、亡くなっていても不思議ではありませんでした。夢遊病みたいな行為でも、自分で過量服薬をしているし、自分で飛び降りをしたならば、統計上は「自死」があったということになります。

自死ではないのですが、向精神薬を何錠も服用していた方が、亡くなった夫の墓を開けて遺骨を確認したという事例があり、他県の事例ですが呼ばれて刑事弁護をしたということがありました。まったく記憶がないというわけではないのですが、概ね記憶がなく、断片的にしか覚えていないとのことでした。
思いが強すぎて、その思いの強さだけで行動をしてしまうという現象は私一人だけの弁護士経験の中で何度も見ていることです。

また、バスに乗っていて、目的地になかなかつかないことで奇妙な焦燥感にとらわれて苦しくなったという人もいます。まるで、テレポーテーションで瞬間移動ができないことにイラついているような感覚だったそうです。このイラつきで精神的にいっぱいになってしまい、バスを途中で降りてしまったというのです。目的地につかないことに焦っているにもかかわらず、かえって目的地に到達することが遅れることをしてしまうという不合理な行動をしてしまうことを止めることができなかったというのです。この人は、自分が飲み始めた向精神薬の副作用だと判断して、その薬の服用をやめたそうです。それからはその症状は出なかったとのことでした。ちなみにこの感覚、私も起きたことがあります。途中でバスを降りるまではなかったのですが、ちょっとの間イライラが止められなくて苦しくなり、途中で下車したくなりました。向精神薬は飲んでいないのですが、ある種の内服薬でそのような症状が起きたのかもしれません。あるいはその時の精神状態の影響でしょうか。

他の自死未遂の経験のある方から話を聞いても自分では記憶していない行動や、自分で制御できなかった行動、精神状態を経験したことがあるそうです。こういう話を聞くと、かなりの割合でこのような夢遊病のように自覚がないまま危険な行動をしてしまい、その結果亡くなってしまったケースが多いような印象を受けてしまいました。

こういう状態での自死があるとすれば、家族がいる場合でも自死が起きることをよく説明できます。家族仲が悪いわけでなく、むしろ家族に対する思いやりがある人でも、夢遊病状態だったために、家族の将来を考える暇もなく、危険な行為をした結果命を落とすこともありうることだと理解できることでしょう。家族のことをどうでもよいと思っていたのではなく、考える暇もなく薬物の影響で命を落としていたということが実態だったという事例は無数にありそうです。

2 慢性的な緊張持続による精神疲労型

精神疲労型の自死は、外在的なストレスあるいは内在的な事情によって、精神的に強い緊張を強いられることが長い期間持続してしまっていて、精神的体力がなくなることによって緊張を感じ続けることができなくなる場合です。「精神的体力」がなくなるという言葉は私が作った比喩のようなものですが、あたかも思考が飽和状態となってしまうことによって、合理的な行動をするための思考(衝動を自分で抑制)をする力が失われたような精神状態を言います。これは自死に限らず、紛争を抱えている当事者には陥りやすい状態で、程度の違いはあるわけですが、ありふれていてよく見られる状態です。

薬物を摂取していない事例で、精神疲労型と思われる事例を紹介します。

ある若者の例では、発注先のパワハラがあり、それを会社が放置していたという事例でした。友人たちの強い勧めによってその不合理な職場を退職すると決めたので、友人たちもほっと一息を入れていた時に、あと半月で退職というところで自死をしました。自死の直前の様子として、会社の同僚の目撃談を入手することができたのですが、パソコンには向かっていたけれど画面には何も表示されておらず、ぼーっと画面を見ていただけのような感じだったそうです。会社を飛び出してから気が付いたことですがインスタントコーヒーをいれようとしてコップに粉を入れたままボットの湯口の下に置いたままだったそうです。何も考えられない、思考が停止したような状態から、死の危険のある行為に向かってまっしぐらに進んでしまったというところに、一つの目的にだけ向かってしまい、他のことを一切考えていないという意味においては、最初の窃盗の事例に近いような精神状態であったようです。

ある人は、長期間土日も休みがなくストレスフルな仕事をしていました。脅迫に近いクレームが来たり、職場から窃盗の濡れ衣も着せられました。そんなある日、ふと気が付いたら、背広姿にサンダル履きというおかしな格好で、デパートの小さい紙袋をもって家を出て、本来の職場ではなく、かなり距離の離れている他県の支店の同僚のいる駅まで、新幹線を乗り継いで5時間以上をかけていっていたようです。その駅で降りて、山間部に入り自死をしています。医師の意見では解離性遁走という精神的状態だったのではないかということでした。自分で自分の行動を抑制できない状態です(仕事上の情報交換で、その同僚から助けてもらった直後だったので、その地域の名前を漠然と記憶していたようです。そこを訪れる必要は全くなかったとのことでした。)。その時の行動を見た人はいないのですが、おそらく薬物の影響がある事例のようなオートマチックの動きだったのではないと推測できます。やはりこの事例も、死ぬことだけを考えて、他の様々なことを考えられない状態だったと思います。

パワハラやいじめなどといった外在的事情がない場合の例もあります。おそらく精神病の影響で、精神的に消耗しきっていたような状態になり、家族の前で興奮状態となり自死をしようと何度も繰り返し、家族が止めていたのですが、興奮状態が収まってしばらくしたので家族が一時部屋を出たら、わずかの時間で自死をしたという事例もあります。これも、店員から止められるのを振り切って商品を盗もうとした行為をほうふつさせます。その危険行為をするという強い意思を止められない状態となっていたということになるでしょう。

事例を挙げればきりがないのですが、亡くなる際の状態がわかる範囲では、覚悟の自死という事例は聞いたことがあまりありません。やはり、薬物の影響下のような自分の意思とは別に、あたかもオートマチックに死に至る危険の高い行為を行ってしまっていたということがほとんどのようです。

自死が起こる前のサインとして、かなりはっきり起きることは、自分に対する激しい攻撃行動です。自分の身体を傷つけたり、自分の部屋を荒らしたり、自分の大切な持ち物を衝動的に破壊したり、その攻撃衝動を抑制できない状態です。あるいは、不合理に自分を責めて、自分の過去の行動が自分に悪い結果をもたらすというような異様な自責感情が述べられていたこともあります。あるいは自分に対する絶望もみられたことがあります。激しい攻撃的感情に基づく行為が、自分に向かったときに自死が起こる危険性が高いことは間違いないようです。

この点、さらなる説明が必要だと思います。生物は、死にたくない、死なないようにしようという本能があるわけで、自分に対して命がなくなるかも知らないような攻撃をするということはあり得ないのではないかということです。
しかし、自死直前の人たちの言動を調査すると、不合理な自責の念の言葉があることが多くの例で確認できます。まさに自棄的な発言です。それから、理由もなく、「自分は死ななければならない」という信念のような固い気持ちに支配されていたことを、多くの未遂経験者は語ってくれました。

夢遊病やトランス状態になってしまうと死ぬことに対しての恐怖を感じにくくなるようです。ましてや自分が危険な行為をしているという自覚がない場合は、死への抵抗が起きるきっかけもありません。「自分は死ななければならない。」という信念のような気持になっているときは、うまく言えませんが、「生物的に命を失う。」という意味とは別の意味で死について言っているように話を聞きました。でも結果としては、命を落とすことになることは間違いありません。

「死ぬ」、「死ななければならない」、「死ぬことは解決することという明るい気持ち」という「アイデア」や「イメージ」が頭のどこかに強固に張り付いていて、それまでに様々な事情で緊張感が持続していて、その結果考える精神的体力が失われてしまい、自分に対する攻撃衝動が抑制できない状態になった場合、自死が起きてしまうケースが多いのかもしれません。

3 自己コントロール不全と精神的疲労

1の薬物影響による夢遊病タイプと、2の精神疲労による衝動タイプの共通項として、「人間は自分の行動を意思によってコントロールできるとは限らない」という事実です。あるいは、何らかのアイデアやイメージが頭に張り付いているときには、意思にかかわりなく行動してしまうことがあるということかもしれません。しかも死という行動にまっしぐらに行動してしまい、他のことを考えられない状態になっているわけです。
一見死という結果を目的とした行為のように見えても、実際はその行為と結果を認識した行為とは限らないということも少なくない割合でそういう事実があると思います。
だから薬物がない事案でも、自死があったからと言って、その人が家族のことを思いやっていなかったというわけではないことも共通です。ほかのことを考える力がなくなってしまっていて、結果として自死の危険のある行為をやめられなくなったということのようです。

また、自己抑制をする場合、それは本能ではなく理性の力を必要とし、その理性の力は簡単に失われてしまうというメカニズムも報告しておきたいと思います。

うつ病患者から話を聞くと、我々が行動するときは、自覚をしていないのですが、いろいろと思考をして実行をしていることがわかります。
例えば、食事をするということ一つとっても、例えば牛丼を食べるときも無意識に食べているように思えて、実は、どんぶりの重さや温度を計算して持ち方や力の入れ加減を工夫して、中身がこぼれないように工夫して、どんぶり飯を箸を器用に使って食べているようです。ところが、重篤なうつ病になると、思考を働かす精神的体力がなくなり、どうしてよいかわからなくなったり、食事をすることをあきらめたりすることもあるようです。食欲があれば、考えないで食べるのでしょうけれど、食欲もないので、無理に考えて食べることをしないということみたいです。

例えばエアコンのリモコンが目の前にあっても、椅子から立ち上がって、2歩も歩いて、リモコンに手を伸ばして取るということが考えられなくなるようです。まったく意味のないことを考え出してしまうこともあるようです。つい、家族に目の前にあるリモコンを取るようにお願いして、怒られるなんてことがよくあるそうです。

このような状態が慢性化する場合は、通常自死をするという気力も精神的体力もありませんから自死の危険は減っているはずです。しかし、精神状態には波があるために、幾分活動ができるときもあるようです。また服薬によって精神状態が上向いて活動が可能になるときもあるようです。これらの場合も衝動的行動ならばできます。しかし、その行為の結果どうなるかということについて考えて、自分の衝動を抑制しようという理性を働かせるということは、精神的体力がついていかない場合があるわけです。この場合が最も危険な状態ということになると思います。

追い詰められた結果で自死を意識的に行うことを余儀なくされているというよりも、「追い詰められた結果で死の危険のある行為を抑制できなくなった」という表現が適切な事案が実は多くあると私は確信しています。

4 自死予防の対策 何を予防するべきか

このような分析から言えることは、これから自死をする人は、いかにももうすぐ自分で死ぬ方法を実行しますよという雰囲気があるわけではないということです。それまで普段と変わりなく会話をしていても、そのあとの予定がある場合であっても、何らかの刺激によって引き金を引かれて、死の危険のある行為が抑制できなくなって、実行に踏み切る可能性があるからです。
そうすると、リスクを示すものとして、自己抑制が効かなくなる事情、自己抑制が効かなくなっている行動が、予防手段として重要視されなければならないことになると思うのです。

精神的体力が失われる事情としては
薬物、アルコールの過量接種があります。個人では薬物やアルコールもやめられなくなり、オートマチックで摂取しますので、できるだけ家族と一緒に住むこと、心配してくれる他人と同居することが望ましいということになります。

対人関係の不具合が継続していることが精神的体力を奪う事情です。
厄介なことに、人間は、職場、家族、学校、地域、ボランティア、サークル等様々な対人関係で、自分が尊重されて過ごしたいという本能的欲求を持っているようです。できれば、家族などコアな群れを意識的に大切にして、他の群れで不具合があっても家に帰れば安心できる状態となっていることが自死予防の観点からは切実に必要なことだと思います。

その上で、不具合のある人間関係があることを受け入れるということです。そういう改善不能な人間関係に期待をしないということ。過剰な期待は絶望を深くしてしまいます。まあ、これをどうするかが対人関係学のテーマなので、これからも考え続けていきます。

人間は他の霊長類と同じように、安心をすることを意図的に行わなければならないと考えています。

睡眠不足も精神的体力を奪う事情です。催眠剤による睡眠は、自然睡眠よりも効果が低いという指摘もありますので、日光に当たるとか適度に運動するとか健康的な睡眠を追及することは大切なことだと思います。

これらの精神的体力の低下を防止するとともに、自死の危険なサインに気づくことも予防効果が上がると思います。具体的には

・自分の体に衝動的に傷をつける行為。
・自分の持ち物、テリトリーに対する衝動的攻撃
・日常生活から逸脱したような強い感情表現
・泥酔するまでアルコールを摂取すること
・用法容量を逸脱した精神薬物の服用

何も考えないでただ行動しているような夢遊病的な行動、他者の制止を聞き入れない状態などは大変危険な状態だと思います。
何が何でも身を挺して、意識を回復させて、話を聞くことが最低限出来ることかもしれません。

自死というのは、個性や健康状態、タイミングというものが左右するもので、人間ならばこういう時に自死をするという決まった思考メカニズムがあるわけではないということがリアルな考えだと思います。いじめがなければ、パワハラがなければ、家族問題がなければ、自死が起きないということは全くの間違いであることだけは言えることだと思います。

孤立をしないこと。これが人間にとって一番大切なことかもしれません。


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幼児がしない万引きを大人がする理由 :万引き犯(トランス型)の犯行時の意識変容の仮説を基に、規範意識が低下する機序についての一考察 被告人質問までに弁護士が行うべきこと [刑事事件]

万引きは、店舗から商品を、お金を払わないで持ち去ることです。盗みですから、窃盗として刑法235条で罰せられます。10年以下の懲役または50万円以下の罰金という重い罪です。資本主義経済の根本を揺るがす重大犯罪だから重い刑を科したと説明する学者さんもいるところで、万引きくらい見逃してくれよということはとてもできないことは確かです。

不思議なことに、小さな子はあまり万引きをしません。もしかしたら、小さい子がお店に行くときは、いつも親が一緒だから親が注意してみているという単純な理由かもしれませんが、比較的低年齢から、ここにある品物はお金を出して買うものだということを理解しているのかもしれません。

大人の万引き犯も、もちろん、お金を出して買わなければならないということは知っています。知っているのですが、万引きが止められなくなる事情があるようです。
ただ、一口に万引きといっても、少なくとも大きく二つに分けられるようです。

一つは盗んだ商品を中古屋さんに買い取ってお金に変えようとする類型(転売目的型)です。盗んでいること、盗品を売却するということは、はっきりと意識的に行っています。どの商品を盗んで、どこで買い取ってもらおうということを計画的に行っていることも多いです。

もう一つは、今回のお話のトランス型とでもいうような類型です。実は、この類型の万引きがいわゆる大人(特に高齢者)の万引きの典型的な類型です。しかしながら、弁護士であっても、その心理過程をよく理解していない人が多くいます。ケチでやったとか、ストレス発散のためにスリルを感じたかったのかとか、そういう人格の人だというような決めつけをしていることが多く見られます。それではなかなか弁護ができないと思いますし、再犯の可能性を低下させることもできないと思います。弁護士が付く意味があまりないと思います。

こういう類型は、警察の調書に「むしゃくしゃしてやった。」と書かれていることが多くあります。ある意味、警察官の理解の方が真理に迫っているといえるかもしれません。

家族など関係者からも軽く考えられることが多いのです。その一つの原因として、大した金額の商品を盗むわけではなく、それくらいのものを買うお金は持っているから、どうして万引きしたのかわからず、「魔が差した」くらいの扱いになるからです。もう二度としないだろうと誰しも思うのですが、このタイプの万引きは繰り返されます。

最初はすぐにお金を払って解放されたり、警察官から説教されて終わりになることもあります。二度目は、事情によっては逮捕までされないということがあり、罰金刑や執行猶予となることも多いのですが、その後も周囲の見込みに反して万引きを繰り返し、やがて刑務所に収監され、懲役という強制労働を行うことになってしまいます。もちろん、事情によっては、初めての万引きでも刑務所で強制労働の判決が出ることもないとは限りません。

また、一度逮捕されればわかるはずなのですが、大きな店舗、つまり、誰も見ていない、盗みやすそうな店舗ほど、防犯カメラがしっかりと撮影しています。バックヤードでは巨大なモニターが、8分割等各防犯カメラの映像を同時に映しており、犯人が周囲を伺ってモノをとる瞬間を担当者が見ています。録画もされています。その他さまざまな工夫がなされており、万引きは確実に分かります。その場で捕まらなくても店には証拠が残っています。

おそらく万引きを繰り返す人は、盗むことは悪いことだとか、万引きは必ず捕まってしまうということさえ、その瞬間は忘れていて、やめようという気持ちにはならないようです。盗む直前の心理状態は、悪いことだから止めよう、捕まるからやめようと思えない状態になっているということが特徴のようです。

盗むことしか考えていないし、見つからないようにしようとは考えているようなのですが、どうやって見つからないようにするかということまで実際はあまり考えていません。ちょっとレクチャーを受けた人であれば、あからさまにこれから盗みますという表情としぐさをしていることがわかるようです。現場は防犯カメラだけでなく、その場にいる私服ガードマン、場合によっては死角にいる制服店員にみられており、出口まで一緒に出てくることも気が付かず、自動ドアの向こうに出たところで肩をたたかれるわけです。その様子は一部始終撮影されていて、裁判の証拠として提出されます、

この状態を極端にした万引き事案がありました。
その人は、深夜もやっている中古販売店に行って、自分の好きなある商品を万引きしたとして逮捕されました。自分で自動車を運転して、自分が欲しかった商品を、その商品売り場に行って、持って帰ろうとしたのです。

私が警察行って面会したところ、その人はその時の記憶がなく、気が付いたら警察署の拘置施設(通称ブタバコ)にいたというのです。自動車を運転できるくらい意識があり、たくさんある商品の中から欲しかった商品を手にしたし、万引きしようとして万引きしたのだから、知らないというのは下手な言い訳、噓だと感じるのが普通かもしれません。

私は、こんな嘘ついても意味がないのだから、むしろ嘘ではないのかもしれないと思って話の続きを聞きました。その人は、不眠症で精神科医から睡眠薬をもらって飲んでいたそうです。睡眠薬だけでは眠れなくなっていたので、お酒を一緒に飲んだんだそうです。お酒の弱い人だったので、いつもはビール一杯で眠っていたそうです。本人もこの日もそれで眠ったと思っていたようです。ところが、気が付いたら警察にいたというのです。自動車まで運転したと聞かされて驚いたようでした。

服薬していたのはマイスリーハルシオンという寝つきをよくするベンゾジアゼピン系の睡眠薬でした。調べてみたら、アルコールと併用すると、異常な効果が生まれて夢遊病みたいな状態になることがあるということでした。また、逮捕時の状態を聞いてみると、目つきが明らかに異常で、口が閉まらない状態でよだれが垂れ流しで、店員が近寄って注意しても聞こえないようにその結構大きい商品を手当たり次第にいくつもカバンに入れようとしてたという明らかに異常な状態だったとのことでした。寮住まいだったので、同僚から話を聞いていみたところ、前にも酒臭い息で自動車に乗ろうとしていたことがあり、止めたらおとなしく帰ったということがあったということでした。

私は文献を整え、同僚から陳述書をとり、向精神薬とアルコールの併用の危険性について本人にレクチャーを行い、二度と併用しないという反省を引き出し、検察官と協議をさせていただきました。飲み込みの早い検察官だったため、起訴されずに釈放されました。

この中古品の事件の人は、薬物による影響でしたが、本人の自覚がないまま、自動車を運転して万引き行為ができていました。意識がなく記憶もなかったけれど(記憶ができない意識状態)、行為があったというおかしな状態でした。この人のケースでは、服薬から意識が戻るまで数時間(おそらく6,7時間)ありました。


ここで話が戻るわけですが、薬物の影響のないトランス型万引きの意識状態も、このような状態なのだと考えられないかということなのです。もっともそのトランス状態は、せいぜい数分から数十分程度のことだと思います。また、記憶がなくなるわけでもありません。犯行時の記憶もあることが多いです。

でもよく似ていることは、自動ドアの外で肩をたたかれた時に「ハッ」と我に返るということを、多くの人が経験するということです。上手に話を聞き出すと、それは、「やばい、みつかってしまった。」という「ハッ」ではなく、あれ今自分は何をしていたのだろうという「ハッ」のようなのです。

もちろんだからといって、すべてのトランス型万引き犯が無罪になるわけではないですし、責任が軽減されることもほとんどないでしょう。しかし、このトランス状態を起こさないようにできれば、また万引きをしなくて済みます。トランスという言葉を使わないでストーリーを作ることで説得力ある情状弁護になるのです。裁判官が、「なるほど再犯の可能性が低い」と思えば、刑が軽くなるのは刑事政策上当然だからです。もっとも被告人の的を射た反省も必要です。

ところで、では、このトランス状態は、薬物の影響もない場合に、どうやって起きるのでしょうか。

手がかりとしては、万引きの被疑者(容疑者というか犯人というか)から事情を聴いた警察官の調書があります。警察官の多くは、偏見を持たずに、なるべくリアルに事情を話させようとするようです。とても良い資料になります。もっとも、被疑者の方が、自分の心理状態を正確に話すことができませんので、読む側の理解力で補う必要があります。そうすると、「むしゃくしゃしてやった。」とか、「頭の中がもやもやしていた。」とか、「逮捕されるまで頭の中にカスミがかかっているような感じだったとか。」なかなか興味深い表現になっていることがわかります。警察は、どうしてむしゃくしゃしたか、もやもやしたかということについても、熱心に事情聴取するのですが、はっきりと共感できる話はあまりありません。しかし、断片的に、本丸にヒットしていることが、すべてがわかった後で気が付くことができます。もしかしたら、下手な弁護士よりも被疑者の人生によりそっておられるのかもしれないと感心することが多いです。

いずれにしても弁護士は、その警察官の地道な捜査をおいしくいただいて考えることができますから、つまり頭さえ使えばよい状態まで持ってきてもらっているから、楽なのかもしれません。これは裁判官から見ればもっとそうなのだろうと思うのですが、調べているときは夢中で、断片的な知識がアトランダムに入ってくるので、全体像が見えにくいという宿命があるのです。

さて、もやもや、むしゃくしゃの原因について例示してみましょう。
高齢者(65歳くらいより上)の万引きのケースでよくみられる要素は、孤立です。農村部の一人暮らしで、近所にも話し相手がいないという事情が多いです。寂しいというより、誰とも会話がない状態が何日も続くことによって自覚のないまま精神的に変調をきたしているという感じです。
50歳代の女性については、体調の変化が無視できません。男性の弁護士にとっては聴き方が難しいのですが、家族などから症状について確認することは最低限必要だと思います。
孤立や体調の変化が原因となっている場合、家族をはじめ警察や弁護士が適切にかかわることが条件になるのですが、逮捕されることによって、ホッとされ、逆に笑顔が増えるということが起きます。つきものが落ちたという感じがします。

複合的にからんでくる要素は、何らかの事情でお金の心配をしている場合です。亡くなった夫が借金をしていたことが発覚して請求が来ているとか、子どもの学費の心配をしているとか、一見「それは心配ですね。」という事情ですが、弁護士が間に入れば払わなくてよいお金だったり、それほど心配しないでもよいような、自分勝手に不安になっているような場合も少なくありません。うつ病の患者さんにみられる貧困妄想に似ているような心配です。また、罪悪感や極度の悲観的なものの見方が背景になっているような心配である場合も少なくありません。これだけ見ていると軽いうつ病にかかっているような気がしてきます。

また、自分に対して高い要求があり、それが満たされないことで自己否定をしたり、罪悪感を感じたり、あるいは頑張りすぎて疲れていたりという場合もあるようです。ここは、見逃されがちです。

また別の側面から言えば、何か強いこだわりがあることが多くあります。自分の努力が誰かにダメにされてしまって、あきらめがつかないというようなこだわり、こだわってもどうすることもできないとわかっていても、後悔だったり、恨みだったりがどうしてもまとわりついているという感覚があったりですね。それから、自分の努力が報われないという思いは、気が遠くなるような疎外感を産むようです。例えば、子育てをして、夫につかえ、夫の母も夫も介護をして、子どもたちは独立してそれぞれの家庭をもって、自分一人がお金の心配をして報われない。何のために自分は生きながらえているのかというむなしさですね。

これらの、孤立感、解決不能感、悲観的思考、虚脱感、貧困妄想等があるとするならば、やはりうつ状態によく似ています。そうして、自分を大切にするという温かい気持ちではなく、自分を守らなくてはならないという焦燥感が優位になってしまう。その結果、自己否定、自尊感情の低下がみられます。

自分が誰からも大切にされないという感覚、自分を大切にできなくなってしまう感覚は、自分の社会的立場をあきらめているような状態ですから、法律や道徳を守ろうという意識が弱くなるという関係になりそうです。

加えて、いつも「自分を守らなくてはならない」という感覚でいること、危険に対して常時準備をしている状態、緊張が持続してしまっている状態は、精神的な疲労状態となるのではないでしょうか。冷静に考える体力が消耗してしまったような印象を受けます。

そこに貧困妄想が加わるため、万引きがやめられなくなるというモデル図式がよくあてはまる事例が多くあります。
衝動が理性で止められなくなるという感じです。但し、衝動自体は誰にでも起きているものです。それがいかに違法な衝動だとしても、行動に移さなければ問題がないと思います。

具体的に言うと、いつもお金を節約してお昼はおにぎりを作って食べているとします。スーパーに用事があって行ったところ、お総菜コーナーに690円のお寿司があったのを見つけるとします。いつもは、買うとしても500円くらいのお寿司ですが、690円の特売のお寿司には、いくらとエビのお刺身があったとします。食べたくなるのは、誰にでもあることです。食べたいなという感覚は瞬時に意識に上ります。それ自体は何ら悪いことではありません。意識の中には、690円は自分のお昼代としては高くて贅沢だということが次にでてくるでしょう。次は、じゃああきらめようとなることが普通です。しかし、冷静に考える体力がなくなっていて、しかも自分を大切にしようという意識が極限に弱くなっている。「どうなっても自分なんてどうでもよい存在かもしれない」という意識が悪さをしているわけですね。そうすると、「自分はお金がないのだから盗むしかない」というところでルーレットが止まってしまうみたいな感じになるようです。盗んだら見つかる、盗むことは悪いことだという意識が立ち上がることができず、そのまま盗んでしまうようです。特売のお寿司を見て盗もうと思うまで、一瞬の間でこのような思考というか無意識というか、反応が起きてしまうようです。

もし、犯罪をする人が、そういう「犯罪をするような人だ」ということならば、どんなに弁償しようと、後悔を口にしようと、何度も同じ犯罪をしてしまうことになります。実際に万引き事犯は繰り返しますから、そのように見えてしまいやすいかもしれません。しかし、ある一定の年齢までは、万引きをしていない人がむしろほとんどです。そうだとすると、その人の人格が万引きをする人格ではなく、普通の人が、ある原因があって万引きをしている、やめるきっかけ、働きかけがなかっただけだと考えることが自然なのではないでしょうか。

私は、通常の犯罪は、普通の人が原因があって行っているものだと考えていますし、刑事弁護をしているといつも感じています。だから原因を探すわけです。対人関係学なんてことを言い出す背景として、刑事弁護があったわけです。

弁護士の仕事の内容というのは、個々の弁護士で考え方がずいぶん違います。刑事弁護については、私は、その人が二度と同じ犯罪を起こさないようにするという刑事政策の特別予防の役割を担っていると考えています。そうすると、弁護人がかかわることで、再犯の可能性が低下するならば、それは低下した結果もプラスに評価してもらって、裁判官に処遇を考えてもらってよいのだということになるわけです。万引きの原因を突き止めたならば、原因の除去に弁護士が協力することも弁護士の仕事だと私は思っています。

万引き犯について、弁護士がやるべきことは、もちろん弁償などの被害回復もあります。最近の若手の先生方は、かなり勤勉に活動をされています。昔コロッケ定食とビールの無銭飲食の弁償に、それ以上の交通費をかけて行ったところ、大変驚かれたことを思い出しました。今はそれが当たり前のことになったのかもしれません。

それ以上に、原因の除去のお手伝いができれば、再犯の可能性は低くなり、最高の情状となるでしょう。

第一は孤立の解消です。
前に再度の執行猶予をいただいた高齢者の万引き事犯ですが、離れたところにいるその人の子どもが、精神科に連れていき、カウンセリングを受けたということがありました。カウンセリングの効果は絶大で、本人もとても楽になったと喜んでいました。それをそのまま当時は弁論で述べたのですが、どうも違うんじゃないかと今は思います。それまで、苦労して育てた子どもたちが、自分のもとを離れ、家庭をもち、夫の母親や夫の介護はすべて自分がやっていた。電話さえもあまりよこさない状態だった。それなのに、カウンセリングに連れて行ってくれるし、休みの日も交代で顔を出すようになった。そのことがうれしかったのではないかと思うのです。そのことによって気持ちが安定して、自分の行動をコントロールする余裕が生まれたのではないかと思うのです。おそらく、「友人にも、私が失敗して、息子たちが心配して病院に連れて行くのよ。」なんて言う、愚痴のような自慢話をできることがとても嬉しいのではないかと思うのです。孤立ということが人間の意識に対して、向精神薬のように影響を与えているような気がしています。

家族の中で、感じなくてもよい孤立を感じてしまっているケースもあります。不器用な人たちも多く、家族を安心させることが照れくさくてできない場合もあります。家族の再生は、ちょっとしたことを意識的に行うことで難しくないことも多いです。家族の思いやりを自覚させることで、安心感を抱いてもらうこともできないことではありません。また、逮捕されていると、面会や差し入れだけでなく、それを逮捕されて自由を拘束されている人は強烈に感じます。ある意味チャンスです。

まじめすぎる人、責任感が強すぎる人が、できないことをやろうとして無理をしてしまい、万引きするしかない状態まで自分を追い込んでしまうということがあります。「あなたはまじめすぎるのではないか。」という問いかけが解決の突破口になることがあります。そういう視点は、刑事弁護ではとても大切な視点です。もともとの原因を探し当てる極めて有効な思考ツールになることがよくあります。

自分を大切にすること、貧困ではないのだ、考えすぎだということも、認知のゆがみを是正するというような大げさなことを考えなくてよいと思います。私はこう思うと、エビデンスを示しながらぶつけていくことだと思います。前提として、その人を「万引きをするような人」という目で見ないで、普通の人が原因があって万引きをしたのだから、原因が無くなれば大丈夫だから一緒に原因をなくしましょうという気持ちで、一緒に考えていくという姿勢があれば、「判決を左右する程度の効果だけ」ならば十分期待することができると思います。あとは、抽象的ではなく、具体的に、社会復帰後、何を行うかを計画を立てていただき、実践の中で再犯防止の活動がすくにできるように調整していくということだと思います。

基本的には転売目的型万引きの弁護も同じように考えることができます。








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同居親(母親)が病的に面会交流拒否を主張する場合に、どのように面会交流調停を進めるか。DVがないのに妻が夫のDVがあると思い込む、思い込みDVの心理的メカニズム [家事]



考える必要性に迫られたので、いつもの通りご一緒に考えていただきたいと思います。

子どもの両親が別居して、子どもと同居している方の親が別居している方の親に子どもを会わせることを拒否している場合、あるいは話さえもできない場合、別居親が申し立てて面会交流調停が家庭裁判所で行われます。

理由があって別居するわけですから、子どもと同居している親は、「子どもを別居している親に合わせたくない。」という気持ちになっていることは、リアルな話だと思います。

ただ、子どもの立場で考えると、子どもがもう一人の親と会う事によって、一緒に暮らせてはないけれど別居親も変わらず自分のことを考えてくれている、一緒に暮らしていた時と何も変わらないと納得できますので、子どもにとって有益です。気持ちが安定しますし、自分が放っておかれているわけではないということを理解できれば、自分に対する評価が低くなるということも回避しやすくなります。もっとも例外的に、同居中、別居親から虐待を受けていたような場合や別居親が暴力的な恐怖感を抱かせるような行動をとっていたような場合は、様々な工夫が必要になりますので、こういう事態は除いて考えます。

ただ、こういう例外について言及すると、事実が違うのに「私の場合はそういう例外的に子どもを会わせなくてもよい場合だ。」と言ってくる同居親が出てきてしまうので、話はややこしくなります。何せ会わせたくないですし、子どもの父親の顔を見るのも嫌(ないし恐怖)ですから、子どもと同居している方の親が何とか会わせない方法がないか考えるのは当然と言えば当然のことです。まあ、それでも今回は、会わせるには細心の工夫が必要だという場合を除いて考えます。

最近、面会交流調停で、かなり高葛藤の同居親が増えているような感じがします。(だから、理性的に面会を実施する同居親の方の気持ちの努力に、自然と無条件の尊敬を感じてしまうようになっているわけです。)

子ども健全な成長を図るためには別居親との面会をさせるべきだと考えても、同居親が会わせようとしなければ、子どもは別居親に実際に会うことができません。なんとかしなくてはなりません。しかし、どうやら家庭裁判所の調停委員や調査官、裁判官は、その同居親がなりふり構わず、感情をあらわにして「絶対に会わせない。」と言う姿を見ていると、動揺して思考不能になるようなのです。そういう人間のヒステリー状態をあまり見たことがないのだろうと思います。免疫がないというか。そうして、この感情あらわな人との対応を早く終わりにしたいと、それは思うでしょうね。人間の心理としてはそうなるでしょう。そして、早く終わりにする方法を無意識に探し出すのだと思います。「同居親である母親が感情的になっていて、収拾がつかない。」とはっきり言って終わりにしようとする場合もあれば、「DVがある場合は面会交流を認めない場合もある」とか、「相手の葛藤がまだ強いので時期尚早だ。」という言い方も最近多いように思います。肝心なことは、母親の気持ちに「寄り添って」子どもの利益を図る活動を停止するということになることをどう考えているのか伝わってこないことです。

別居親からしても、それではということで審判を求めてしまうと、子どもの利益以外の事情が考慮されたような審判内容になってしまうということあるので、そのリスクを考えなければなりません。できれば調停で解決した方がリスク管理ができます。

そのうえ、別居親までもが同居親を非難し続けるだけの調停になってしまうと、調停委員は、解決の方向が全く見えなくなります。このため、ますます早くこの事件を終わらせたいと思います。その調停委員から、別居親の憎悪の話を聞いてしまう同居親は、ますます自分に対する別居親からの攻撃が現実のものとなっていると感じます。「ほらわたしの言った通りでしょう。だから怖いのよ。」と。これでは目的に近づく行動ができていないどころか、逆方向に向かってしまっているわけです。相手を非難したいのか、子どもを自分に会わせたいのか、どちらかを決めてかからなければなりません。さあ、ここが頭を使って事態をコントロールすることができるかの試金石となります。

同居親である母親の拒否の気持ちの根っこがどこにあるかということを考える必要があります。ただ、そうはいっても、別居親だけに求めてもうまくいかないという事情もあります。何せ別居親からすれば、突如妻が子どもを連れて自分の元から立ち去ったという強烈な体験をしていますから、直ちに理性的に、相手を刺激しない方法でうまく立ち回れと言ったって、難しいのです。これは、別居親が父親であろうと母親であろうとあまり大差はありません。ときには時間をかけることも必要だと思います。

気持ち的にはすっきりしなくても、せめて別居親の代理人だけは同居親の「会わせたくない理由」に思いを巡らす必要があります。準備書面かなんかで夫のDVが原因で、そのDVはいつ頃のこういうDVだということが説明されていることもあるのですが、それが真実でなければ別居親の心には響きません。それ以上に、真実かどうかを検討する以前の話として、DVに関する記述が曖昧なことが実に多くあります。どんなに読んでも、「これはDVなの?」と首をかしげることも多いです。これはおそらく、同居親の代理人が、あまり本人の話や気持ちを理解しないまま「DV」という評価に引っ掛かりそうな出来事を探して書いているからなのだろうと思います。人間の心理は、単純にこういう事実があればこういう風に反応するという関数ではありません。その事実の持つ意味は、人によって様々です。そのさまざまな事情こそ代理人は理解しなければなりません。「なりません」というか、そこを理解することによって、第三者である裁判官を説得する流れを主張することができるのです。だから、時間をかけて丁寧に聴取し、また人間の心理についてよく考える必要があるわけです。特に妻側の代理人がDVの結果となる心理状態を本当は理解しないで話を進めていて、勝てる裁判を落としているような事案が実に多く心配な状態になっています。

DVや精神的虐待を理由として離婚や面会交流拒否を主張する場合でも、必ずしも夫の行為が原因で妻の高葛藤が生じているわけではない事例がかなりの確率であります。むしろ、DVや精神的虐待が認められたケースが少ないということが実感です。夫の行為を理由に離婚に際して慰謝料が認められたケースは、私の担当している範囲では最近ではあまり記憶にありません。(不貞など別のはっきりした理由がある場合は除く)

同居親が母親である場合に高葛藤で面会交流を拒否しているケースは、母親の体調面に問題があるケースがほとんどです。医師でもない私がどうやってそのことを知ったかというと、同居親である母親の代理人が、虐待による損害を証明しようとして、診断書を証拠提出することが多くあります。この診断書を見ると、ある程度の医学的知識があれば、夫の行為によって妻の葛藤が高まったのではないということがわかってしまいます。また同居中に通院していたり、投薬を受けていたりしていることを夫は知っていますから、診断名がわかる場合もありますし、服薬している薬からおおよその疾患名が見えてきます。出される診断書の診断名は、パニック障害とか全般性不安障害とかが確かに多いのです。しかし、ある内科的疾患にり患している方がとても多い。その内科疾患は、精神的不安や焦燥感を抱かせるという症状があるのですが、内科のクリニックでは専門医であっても、がんに進行しないかという管理ばかりで、病気の生活面に与える影響についてレクチャーをするということが無いようです。本来夫婦を読んで病気の影響をレクチャーすることが必要であると私は常々痛感しているところです。

また夫婦仲の良い時期にも妻は通院していて、薬の名前から、うつ状態とか不安状態と診断されている事案も多いです。

共通して言えることは、妻には、夫を嫌悪する前から不安を感じやすくなるような体調的な問題があったということです。もともとは漠然とした不安だったわけです。それを「どこをどう経由してそうなるのか」、不安の原因がある時期を境に夫に求められるようになり、焦燥感を抱いて子どもを連れて別居するという現象になるようです。別居の半月ほど前には、行政やNPOの女性の相談や警察の相談を受けていることが、離婚調停の証拠から出てきます。

ここで考えなければならないのは、別居親である夫が、「責任がないのだから、無理やりにでも、法律で強制執行の方法を設けても、とにかく子どもを別居親に会わせるべきだ。」と声のトーンを上げても、なにもよいことがないという現実です。「責任はないけれども原因がないわけではない」ということが、むしろ面会交流を実現するための思考ツールとなります。原因を除去ないし軽減すれば、拒否が緩和されるかもしれないという風に考えることが建設的だということです。面会交流実現の可能性が高まるということです。そして、一度面会が実現されれば、そこでトラブルがなければということになりますが、案外面会交流は続いていきます。子どもはハッピーになれます。

さて、「責任がなくても別居親の夫に原因がある」とはどういうことでしょうか。

「妻の不安はもともとあったのだろう。」ということですから夫は関係ないのではないのと思われることももっともです。ここで注意しなければならないのは、論理的に因果関係を考えるという近代合理主義は棚上げしていなければならないということです。「家族というユニットは、お互いの感情を大切にして行動しなければならない。」という命題を持ってください。あなたの言うことが論理的に正しくても、「それを言うことで家族が悲しむならば、言わないで済むなら言わない」ということも命題の一つの帰結です。自分がそこまでしなければならない義務はないとしても、「それをすることで家族が喜ぶのであればしてあげましょう。」ということも帰結の一つでしょう。

夫に原因はなくても「妻は実際に不安を感じている」ということがあるということを認めることが原因探しの第一歩です。そしてそれは妻にも「責任」がないことが多いのです。さあ、夫の「原因」に切り込んでいきましょう。

同居中、夫は、妻が不安がっているならば、不安を解消してあげたいと思うし、そうするべきでしょう。妻からすれば、とても不安ですから、不安を解消したいと思うわけです。そして、不安が強くなればなるほど、不安解消の要求も高まっていきます。そして自分ではどうしようもないと思うと、他人に自分の不安を解消してもらうことを期待するようになります。誰に期待するのでしょうか。それは、身近にいて、利害共通の人間ですから、夫に期待が向くことは当たり前のことだと思います。夫に対する自分の不安解消行動を期待してしまいます。「安心させてほしい。」という気持ちです。「そう言われたって医者じゃねえし。」という夫の気持ちもそれはそうなのですが、ここで妻が求めていることは不安解消という結果をどうやって実現するかではなく、自分が不安を感じていることを共感してもらいたい、できれば一緒に心配してもらいたいようです。うまく結果が出ないとしても、夫が自分のために安心するための行動をあれやこれや試してみるという姿勢を示してもらいたいようです。その共感に基づくいたわりの行動が妻の不安軽減の特効薬の可能性があるなということなのです。

実際は、DVがないのにDVがあったと思い込む「思い込みDV」の事案は、妻が夫を嫌悪する前、割と妻の相談事を夫が一緒に考えてあげるなど、妻が夫を信頼している事情があるケースが多いです。

そうはいっても「できないことをやれと言われてもできないのだからやらない。」という思考も合理的な人間の取ってしまいがちな行動です。そんな結論を求められているのではなく、一緒に何とかしようという行動を見せることを求めている、「妻は夫に期待している」と説明すればわかりやすくなりましょうか。外食に誘うとか、音楽を聴くとか、肩を並べて散歩に行くとか、ドライブするとか、買い物するとか、前に喜んでくれたことを提案するとか、そういうことで落ち着いてくるようです。ここでのコツは、妻は忘れているのですが、過去に妻が喜んでくれたことを夫が思い出して提案するということです。まじめすぎて責任感が強すぎて頑張ってしまう我らが夫は、「結論への方向が分からないからやらない。」という行動をとりがちです。私はここがポイントなのだろうと思っています。

まじめすぎる夫は、妻が不安を解消するために、あるいは解消したくて夫に無理難題を言うと、自分が責められているような気になってしまい、逆に妻を叱ってしまうということに心当たりはないでしょうか。

まじめすぎて、責任感が強すぎて、頑張ってしまいがちの人は、自分を守ることにも敏感になっている危険があるかもしれません。梵天丸(のちの伊達政宗)の師匠の虎哉和尚は、妻に寝首をかかれる場合はあきらめろと教えたそうですが、それは現代でも気持ちの上では通用するのかもしれません。(ただし、妻による夫への精神虐待事案の場合は別。)

このように不安の対処をしてほしい、自分が何をしても夫だけは許してくれる(限度はあるけれど)という安心感を提供してほしいという妻の期待があると考えるとわかりやすいと思います。期待は、現代日本の家庭事情から、夫に集中してしまいます。期待が嫌が上にも高まっているのに、夫は期待に応えてくれいないというより、悪意はないのですが戸惑ってしまっているからなのですが、答えようともしない。むしろ沈黙や無視、あるいは取り乱した自分(妻)を責めることによって、自分の不安を煽り立てている。こうなってしまうと、妻は「自分が不安を感じているのは、夫に原因がある。」と責任転嫁するような思考になじみやすくなってしまうようです。妻の不安が夫に向かう、責任は夫にはないかもしれないけれど原因はあると言えないでしょうか。

そうやって、そもそもは漠然とした不安からはじまり、夫の冷たい態度で不安が増大し、あれやこれやがみんな「夫の冷たい態度」に理解と記憶が変容していくわけです。そこで、その不安に対して、やみくもに妻に対して「あなたは悪くない。それは夫のDVだ。」と吹き込もうとする支援者の言葉にひとたまりもなくなるというのが、簡単に夫のDVがつくりあげられてしまう流れ、思い込みDVの正体なのではないかと考えました。

まじめすぎて、誠実すぎて、自分では妻の不安を解決できないと判断する夫の冷たさと比較して、「うんうん。不安だよね。苦しかったよね。」とマニュアルに沿って話す人は、自分を理解してくれる人間だと感じてしまいやすくなっているわけです。騙されやすくなっているということです。

そうすると、ありもしない夫のDVを主張しているということは(確信犯の場合は別ですが)、まだ、夫に対する妻の期待感が残っているということになるような気がします。こういうケースの場合は、アクシデントのように面会交流が行われることもありますし、面会交流が行われると、自分と夫と子どもと楽しく時間を過ごして、自分から面会時間の延長を申し出たりすることも多いのです。ただ、残念なことに別居親である夫は、何が起きたのか自分の頭の中で整合性が取れません。妻の気まぐれに感謝をすることができないようです。この時、大げさに感謝の言葉を述べて、「またね。」と笑顔で言えたならばと思うと、つくづく残念です。第三者だから見えてくることもあるのです。

それはそうと、期待が残っているならチャンスだと私は思うんですね。やっていないからDVを反省できなくても、DVを受けたような思いをさせたことを「思いやる言葉を発すること」はできるわけです。テクニックですから代理人の腕の見せ所です。そうやって、相手のツボを押さえて、自分に対する行動制限を自分で課して見せる。時間を守るとか乱暴なことを言わないとか、当たり前のことなのですが、当たり前のことを言葉にすることで相手が安心するということが多くあります。そして、少しでも相手が子どもにとってプラスのことを言ったり、考えたり、行動したりすれば、すかさず「感謝」と「称賛」の言葉を出します。これはそういう気持ちになれというのではなく、そういう評価を言葉などわかる形で提示するということです。

安心させるという行動を、相手が認識できる形で実行するということです。

面会交流が実施されれば、そういう相手を安心させる行動のチャンスの宝庫ですから、感謝や称賛をまめにやる。そうやって、面会交流は時間的にも内容的にも拡大していくようです。そういうことができれば、結構早い段階で調停条項を超えた宿泊面会なども実現できています。しかし、これができない人が多い。自分が妻から受けた「仕打ち」が強烈すぎることが理由の一つです。

現実は、ありもしないDVを言われたこと、子どもを連れされたことから脱却できません。これも無理のないことだと思うのです。些細な刺激があると、妻の不安を煽り立ててしまい、相手の思い込みの架空DVを後付けしてしまう言動をしてしまうようです。客観的に拡大していた交流が足踏みしたり、中断したりしてしまうこともあります。

別居親側からの視点で述べていましたが、裁判所、調停委員会でも、思い込みDVの可能性がある場合は、同居親である母親の不安を下げる方法を考えてほしいと思います。まずは、不安をできるだけ言語化すること。初めから思い込みだという結論を押し付けるのではなく、警戒するべき事情とそうでもない「気持ち」の事情とを仕分けをしてあげるということですね。そして、気持ちの原因についてはわからないという態度をとっていただきながらも、そういう気持ちであることについては積極的に承認してあげるということが大切だと思います。そこに別居親に情報を提供して、さらに安心させる工夫を考えてもらい実行する。家庭裁判所は安心できるところだ、別居親もそれほど具体的に警戒するべきことはないのだという安心感をみんなで作り上げていく。

こういうことができる裁判所になれば、みんなが幸せになると思います。
子どもは両親の愛を実感することができるし、親同士の葛藤が鎮まることも子どもの安心につながることです。
同居親は、それほど心配する必要がないということを実感できれば、つまり、その後悪いことが起きないということを学習できれば、穏やかに日々を暮らせるようになるかもしれない。
別居親も子どもからも同居親からも親として認めてもらい、何よりも子どもと会えるわけですから今よりはずっと幸せになると思います。

どうしてそれができないかをみんなで考える必要があるのではないでしょうか。

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人は追いつめられると感謝の気持ちが持てなくなり、世話になっている人を逆に攻撃し、自らを追い込んでいくことを起こしやすい理由。期待感の増大と落胆の相関関係。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



今回の記事は、次回の記事の前振りです。次回の記事はこれを始めて説明すると長くなるので、この部分だけ予め説明しておこうというものです。

今回は、認知症、いじめ等被害者という事例をあげ、次回は夫婦問題を取り上げるという流れです。

認知症によくある症状として「ものとられ妄想」というものがあります。
本当は自分が置き場所を忘れただけなのに、「嫁が私の通帳を盗んだ」とか「財布を隠された」とか訴えて収拾がつかなくなるということです。
少し突っ込んで話を聞くと、元々息子の妻に不信感があったわけではなく、むしろ息子の妻は、かなりいろいろご苦労されて本人の世話をしていることがほとんどのようです。お嫁さん本人は、絶句し、今までの自分の苦労はなんだったのだろうと、それは落胆するわけです。しかし、認知症のご本人も自分が攻撃されたと本気で考えて切迫感があり、悲壮感もあるようです。

これはよくあることです。原因について思い当たることがあるので説明を試みます。献身的に介護している方にとっては気休めにもならないことかもしれません。納得はゆかないとは思いますが、こういうことかと腹に落としていただければ幸いです。

財布や通帳をなくした本人は、元々不安の塊の中で日常を過ごしています。本当はもうすでに他人に財産を管理してもらっていますから、財布や通帳が目の前になくても何も変わらないことも多いのですが、それ以前の習慣として財布や通帳が自分が生きていくために大切なものだという考えが残っているわけです。なくしたら困ってしまうということは消えません。ところが、通帳や財布を見て安心したいとき(不安が募ったときにこそ安心したくなります。)、それがどこを探してもないのです。おそらく不安がすでに大きくなりすぎているため、合理的な探し方もできなくなっているし、別の場所で見つけたとしてもそれが探していた通帳や財布だと認識することが困難な場合もあるでしょう。ますます不安が高まって収拾がつかなくなります。

こういう不安の極限にある場合、つまり心理的に追い込まれたとき、この方の要求は、既に財布や通帳を「見て安心したい」ということから、自分の「今抱いている不安を解消したい」という方向に偏っていっているのではないでしょうか。一般に私たちも、自分で不安が解決できない場合は、他人に解決してほしいという気持ちが強くなります。そんな時誰に助けてもらいたいと思うでしょうか。自分が助けてもらえるのではないかと期待する人です。では誰に期待するでしょうか。これが一番期待できる人ですから、自分が世話になっており、自分がしてほしいことをやってくれているという実績のある人ということになります。これが夫の妻ということになることが多いわけです。自分の子どもには期待できないということが多いようです。

息子の妻に、安心させてほしいと期待しているわけです。しかし、そういわれても、姑とはいっても他人の財布や通帳がどこにあるかなんてわかりません。加えて、既に、疑われているような扱いもされ始めているわけです。なんとも対処しようがありません。

姑からすれば、息子の嫁が頼りの綱だったわけですから、その嫁がわからない、期待できないことが分かれば、通常は絶望して落胆するわけです。しかしながら、息子の妻が近くいるからという理由で、あるいは息子の妻が反撃をしないことをよいことに、自分の不安を「怒るという方法」で解決しようとしてしまうということなのだと思います。

不安が怒りに転化する理由は以下の通りです。
不安の解決方法は怒りを持って戦うことか、恐れを抱いて逃げることです。そうやって危険をなくすということが生きる仕組みです。どちらかは瞬時に無意識、無自覚に選んでしまいます。これはかなわないなと認識できれば、逃げ出すわけです。逆に相手が自分を攻撃しないと認識していれば怒りの反応を起こしてしまいます。子どもが自分の要求を親が受け入れないときにかんしゃくを起こすこととよく似ています。共通項は、自分勝手な相手に対する期待を持ち、相手がその期待をかなえてくれないことを原因として、怒りを爆発させるということでしょうね。

だから、収拾のつかない怒りは、一歩間違えば、深刻な恐怖、萎縮、絶望に代わっていたかもしれないという危険な状態を示しているわけです。

いじめの事例も似たような現象を必ずと言ってよいほど見聞きします。いじめ相談を受けて、事情を聴いていると、大勢の中で勇気をもって手を差し伸べてくれる人が必ずいるようなのです。それでも本人の口からは、「誰も自分を助けてくれようとしない。」という訴えを聞くことになります。「あれ?でも、さっきあなた自身が、この人が自分に味方したということを言ったのではないの?」と尋ねると、その問いについてはあまり理解ができないようなのです。事実は記憶しているものの、味方になってもらったという評価ができないようです。おそらく、心理的に追い込まれすぎているため、自分の苦境を解消してもらいたいという期待が極限まで高くなっていて、次の瞬間自分がクラスから受け入れられるような行動をしない限り、味方であると評価できなくなっているような印象を受けました。

つまり、人の立場によって、「援助があったか否か」という評価が変わってしまうのです。集団の中で無視をされていたり、馬鹿にされていたりしている場合、それでもクラスの中で公然と親切にすることは、第三者である私から見れば、とても勇気のある行動だと感心してしまいます。しかし、いじめられている本人からすれば、自分の苦境をとにかく終わりにしてほしいですから、それに見合う行動を期待してしまいます。その期待に達しない場合は、自分の要求をかなえてくれていないわけですから、感謝の気持ちが起きないのです。心理的に追い込まれるということはそういうことなのでしょう。

わたしも、同じ仲間だと思っていた人から、理由がわからない攻撃を一方的にされていたということに気が付いた時があります。私の知らないところで批判がなされていたようです。その人に対して怒りを持つというより、どうしてその人の周囲の人はその人をたしなめてくれないのだろうという気持ちになりました。かなり精神的に危険な状態に私はなっていました。そういう時、その加害者ではなく、加害者の周囲にいる人に期待をしてしまい、周囲の人に怒りを持ってしまったことに気が付いたことがあります。

そしてこの追い込まれている時に、不適切な第三者の関与が入ってしまうと、取り返しのつかないことになるだろうなと思います。誰も味方がいないという被害者の自分の立場の認識を、第三者が肯定してしまい、被害者は危機感を絶対的なものとして感じてしまうでしょう。解決の展望がないということを結果的には宣告しているようなものです。そうやって、被害者の怒りをあおること、不安をあおることを始めてしまうと、被害者は、ますますさらに自分の置かれている環境が悪く、救いようのないものだと感じてしまいます。激しく落ち込み立ち直れなくなってしまうか、誰彼構わず怒りを放出してしまうかという極限的な状態に追い込まれてしまいます。現在の苦境から、第一希望の解決方法が直ちにかなえられることはないかもしれないけれど、希望の道がある。思っているよりはそんなに悪い状態でもなく、あなたのことを考えてくれている人もいる。この人とうまく付き合うことによって事態が打開できるかもしれない。というような戦略を立てた方がよほど良いような気がします。実際そういう戦略で、不登校が長期化することを回避して、進学をすることができて、社会適応をしているお子さん方もいらっしゃいます。ある学校では教頭先生が献身的にご指導されたというケースもありましたし、ある学校では保護者同士が事態打開に向けて協力し合ったというケースもあり、そういうご報告をいただくことはとてもうれしいことです。攻撃的な感情を助長していたのでは、このような解決は不可能だったはずです。周囲を攻撃することによって、さらに孤立を深めた方々もいらっしゃいます。

逆行として考えられることは、例えば献身的に毎日指導に来てくださった教頭先生に対して、期待が高まってきますから、不安を解消してほしいという期待も高まるわけです。その感情を爆発させて、「なぜうちの子は学校に行けず、いじめた方は学校に行っているんだ。」みたいな攻撃をしたら、さすがにご指導に訪れることをやめるかもしれません。人間ですからね。

さて、結論部分に入るのですが、
自分がこの人のために努力をして尽くしているにもかかわらず、どうしてこの人は自分を攻撃しているのだろうと、人間としては極めてショックな場面に遭遇したとします。
その人がまず行うべきは、自分がショックを受ける前に、「相手が心理的に追いこめられている事情があるのではないか」と想像してみることなのだと思います。そして、よほど困っているときに、自分がその人とどのような関係にあったか、もしかしたら「自分がその人から期待をされるような立場にあったのではないか」ということを考えてみることです。

自分が期待されているから、攻撃を受けても仕方がないのかと我慢する必要はありません。親子とか家族という事情がないのであれば、率直に怒りを受ける理由はないことを告げるべきだと思います。結局その方がその人の利益になることですし、その人を認知症の方とか子ども扱いしないことになるのだろうと思います。そういう人とかかわりを持たなくなることもやむを得ないでしょう。

但し、夫婦や家族になると、少し違ってくる。こういうことを次回延べたいと思っているところなのです。

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【憲法9条はもはや空文?】ウクライナ問題でロシア非難決議に令和の議員だけが反対したことを受けて。 [弁護士会 民主主義 人権]

ウクライナ侵攻に対するロシア非難決議が
衆議院でれいわ新選組の3議員だけが反対して可決されました。

反対の理由は、正直よくわかりませんが、考えるきっかけになりました。

憲法9条との関係です。

憲法を改正しようとする勢力が、今回のような非難決議や経済制裁を行うということは
立場としては一貫していて矛盾がないのだろうと思います。

問題は、護憲だとか憲法9条を守れとか言っている勢力が
今回のような一方的な非難をすることに葛藤なかったのかなということです。

憲法9条を遵守する立場ならば
国際紛争を、対話による和平実現という愚直な努力で解決するという
方法論を選択することが自然の流れだと思うのです。
対話を呼びかける名誉ある地位に日本は立つべきだと主張するならば
一方的に非難をしたり、経済制裁を先行することは
対話の呼びかけの障害になるというデメリットがあるからです。

また、そういう9条ができた背景として
国が追い詰められることは戦争を起こす要因、戦争を拡大する要因になる
ということだとすれば
一方的非難や経済制裁は逆効果になると考えるのが
やはり自然の流れのような気がするのです。

論理必然的にそうなるかと問われると
余り自信はありませんが。
こういう問題の所在があるけれど賛成するというならば
その理由を護憲を自称する勢力は説明するべきだと思うのです。

護憲勢力が今回の一連の決議に賛成した理由として考えられるのは
世論が戦争反対、ロシアの蛮行を糾弾するべきだとなっていると判断し、
その前提として
西側から流されるニュースはすべて正しく、疑う要素がないと判断したからだと思います。
ここで決議に反対してしまえば
選挙戦にも影響をしてしまい組織にとって不利益が生じるからということ
なのだと思います。

憲法9条をがちがちに考えた場合
この決議が示す日本の状況は、もはや憲法9条の実態がなくなり
第二次世界大戦前夜の日本を見ているような気さえしてきます。

つまり、報道によって世論が誘導され
蛮行を絶対に許さないという強い感情が絶対正義として盛り上がり
我こそは、正義のガーディアンだと競って名乗りを上げている
そんな感じがするのです。

今回のウクライナ侵攻についても
どうやって、侵攻をやめさせ、これ以上犠牲者を出さないか
その方法論が論点とならず
勇ましい勧善懲悪の論調だけが新聞紙上においてさえ話題になっています。

ロシアがどうするかというより、日本がどうロシアを止めるか
という方法論がスルーされている気がしてなりません。

ただ、強硬な態度を示すことがだけがアプリオリに選択されているのではないでしょうか。

前回の記事で、満場一致パラドクスということを述べました。
もし、今回れいわが反対票を投ぜず、
満場一致で非難決議が可決されたら
今日の記事の発想には私自身ならなかったと思います。

れいわの反対の理由がいまいちよくわからないのですが、
反対の理由に共感が持てなくても
今回の国会による非難が満場一致の決議とはならなかったということから、
また別の角度から考えることができました。
価値のある反対投票だったと思います。

ふと、もし大戦前夜に日本に対して、どこかの国が
このまま戦争をしても勝ち目はないし、ますます孤立するよ
間に入ってあげるから和平をした方がいいよ
と言ってくれたら、どうなっていたのだろう
という幻想が一瞬頭をよぎりました。







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