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逆切れのパラドクス もう一つの愛の形 逆切れの対処方法。人間とは。大人とは。♯対人関係的危険 [進化心理学、生理学、対人関係学]


《今回のテーマは逆切れ》

家庭でも職場でもどこででも見られるのですが、こちらが善意で「こうした方が良いよ。」と言ってあげているのに、反発してくる人がいますよね。中には感情的に収拾がつかなくなってしまって、とにかくこちらを非難し始めて「それは今関係ありますか?」みたいな昔のことまで穿り出して逆切れしてくる人です。

その相手の形相を見ていると、自分の想定していた反応をはるかに超えているので、何が起きたのかわからなくなって、ぼーっとして意識が飛んだ状態になってしまったりします。

こちらには悪意は全くないのに、こちらが最初に相手を攻撃しているような反応をされると、自分はそれほど信頼されてもいないし、安心されてもいなかったのだということに気が付いて悲しくなったりもします。

こちら側がいわゆるキレている状態ではないので、なんか変ですが、「逆切れ」という言葉は妙にしっくりきます。

今日はこの逆切れがどうして起きるのかということを私なりにお話ししたいと思います。身近な人の逆切れに傷ついている方の少しでも慰めになれば幸いです。

《逆切れが無いことの方が怖いということ》

逆切れを起こされると悲しくなりますが、発想を変えてみると逆切れが起きないほうがもしかしたら悲しむべきことなのかもしれません。このことから逆切れの構造を組み立てていきましょう。

もし、こちらが相手の行動の修正要求を行ったとしても、しかもやや否定的評価を含んで要求をしたとしても、相手が全く動じないで、返事だけは調子よく返して、行動を改めないということが、一番頭にくることだと思います。無視されたということですね。

そういう無視する相手は自分と良好な関係を築こうとはそもそも願っておらず、「何言ってんだか?言わせておけばよいよ。」なんて態度なのですから、あなたとあなたを無視する人はかなり冷え切った人間関係だということになりますよね。これは「時すでに遅し。ほぼ確定的な別れの予感」だということになりそうです。

これと反対に逆切れする人は、「あなたを無視できない」ということは間違いないでしょう。あなたに対して「自分を否定評価しないでほしい。」という期待を持っていることになろうかと思います。なぜそのような期待を持つかというと、あなたと関係を継続したいと考えているからということになります。

《逆切れのメカニズム 否定評価を無かったことにしたい》

<それなら、どうしてちょっと注意しただけでこちらを攻撃してくるのか>
ということが今回のテーマです。
穏やかに暮らし続けたいというのに、なぜ穏やかな会話が成立せずに、収拾がつかないほど感情的になって、こちらを攻撃してくるのか。関係を継続したいという意図があるならば全く逆効果になる行動をするのはなぜなのかということを考えていきます。

今回の記事は前回の記事の一部を予告通りクローズアップしたものですから、まず対人関係的危険の意識の部分を9行ほど引用します。

「人間が自分を守る」というのは、身体生命を守るというだけではないということです。自分を守るということは、「特定の人間関係で(あるいは社会的に)自分の今おかれている立場・関係を維持する」ということも含まれるようです。
自分の周囲からの評価が下がる危険を「対人関係的危険」ということにします。人間は生物的危険を覚知すると防御反応を反射的に起こしますが、対人関係的危険を覚知してもやはり防御反応を起こすということを指摘しておきます。

そうして、危険意識が高まってしまうと、自分を守ることに精一杯になってしまい、冷静な考えができなくなってしまいます。生命身体の危険意識が高まった場合と全く一緒です。例えばハチに襲われてやみくもに逃げてかえってハチを挑発した形になって刺されるみたいな感じです。」
(以上引用終わり。)

要するに、相手から注意されると、逆切れする人にとっては、その人との人間関係がこれまで通り維持できなくなるのではないかという不安を感じてしまうことから始まっているようなのです。

不安を感じると、何とか危険を解消したいと思うことが流れです。ところが、危険を解消したいという気持ちが強すぎるため、どういう方法を選ぶことが一番効率よく人間関係の維持に役に立つかということまで考えることができなくなるというわけです。


しかし、
「ハチに襲われたとき、知識がなくパニックになっているならば手で追い払おうとしてしまうのもわかるのですが、だからと言ってこちら側を攻撃してくるということは理解ができない。」
と思われると思います。

要するに、危険を強く感じてパニックになるときは、「危険を無かったことにしよう。」という「結論だけ」を強く求めてしまうということなのだと思います。手で追い払い、あわよくばハチを殺してしまえば、ハチの危険が無くなるという発想です。

だから、自分失敗したり、何かを怠ったときに、それを指摘されてしまうと、自分が否定評価されたと感じ不安になり、相手との人間関係を大切にすればするほど不安が大きくなり、あなたの言葉というかあなたの自分に対する評価を無かったことにしたいという結論だけを求めるのだと思います。あたかもハチを手で振り払おうとするように、あなたの発言をこちら側の攻撃で封鎖してしまおうというようなものです。そして、あなたの発言が終わることによって、あなたの自分に対する否定評価を無かったことにしたいという結論だけをダイレクトに求めているというそういう行為になるのだと思います。

つまり、不安が高じると合理的な行動をとれなくなるということなのでしょう。

《逆切れをする人はあなたを信頼しているということ》

もう一つは、根本的にはあなたに対する信頼感があるからだということになります。
危険を感じたときの解消方法には個人差があります。逆切れする人は危険を感じると妙に興奮して攻撃的になる人ということですが、対照的に悪く考えてしまって委縮してしまうタイプの人がいます。いわゆる「ため込むタイプ」の人ですね。「ため込むタイプ」の人は、そのまま委縮して死ぬまで恨み続ける人と、ある時大爆発してしまい致命的な別れになる人といるということが夫婦問題を扱う弁護士ならばよくわかると思います。「ため込むタイプ」の方が深刻な危険が伴います。

だから一見安定した関係に見えて実は潜在的に爆発のカウントダウンをしている「ため込むタイプ」の人よりも、小規模爆発してこまめに逆切れする人の方が、結果的には安定した関係を保てるということになります。

相手が本当に怖かったら逆切れはできません。動物園から逃げ出したトラと遭遇して、「あんたは檻の中にいなさいよ。なんで出てくるのよ。」と逆切れする人はいません。本当に怖いからです。
逆切れしてくれる人は、あなたを致命的に怖い人だと思っていないということになります。本当のDV事案の場合、逆切れはできません。だから精神がむしばまれていくのでしょう。小出しに逆切れしてもらうことは、現実的には相手も健康的な人生を送れるということなのかもしれません。

つまり、逆切れをする人はあなたが怖いわけではなく、あなたとの人間関係が壊れるのが怖いということなのです。対人関係学的に言えば、生物的危険を感じて行動しているのではなくて対人関係的危険を感じているということです。

《逆切れの対処方法1 対処療法》

それにしても怒りを表明してなかったことにするようなことは、実際には困ります。大事な事務連絡もできないということにもなりかねません。どうすればよいのでしょう。

逆切れはあなたとの関係に不安になっているのだから、あなたとの関係に安心してもらうことができればよいわけです。
応急措置的な方法としては、相手からすれば否定的なニュアンスを述べられると感じる事務連絡の場合は、「まずほめる。」、あるいは「まず感謝する。」、はたまた「まず謝罪する。」というプロセスを踏んでから、修正要求をエレガントに提示するということが鉄則です。もちろん、「どうしてこんなこともできないんだ。」というあなたの本音は一ミリも顔に出してはいけません。特に眉間のしわには注意しましょう。

まず否定評価の逆、肯定的評価を言ってから、「こちらは仲間として否定しているわけではないですよ。」ということをアッピールしてから、事務連絡を事務連絡らしく伝達するということなんです。これは結構うまくいきます。

しかし、大事なことは仲間として尊重することであって、まずほめればよいというわけではありません。だから、「あなたは、洗濯物を干すのは上手だけど、料理はまるっきり下手だから何とかしてくれよ。」ということはだめですよ。
何がだめって、否定の仕方が抽象的で、改善の方向が見えないからです。料理のバリエーションを広げてほしいのか、塩分をもっと多めにしてほしいのか、味付けが和洋逆転しているということを言いたいのか、相手に何かをしてもらいたいときは、大人の場合は、具体的にお願いするべきです。

なんだか不満だから何とかしてくれよと言って許されるのは赤ん坊だけです。抽象的な不満の提示は、単に相手を攻撃していることになります。サイコパス的傾向のある人は、特にここが大事ですから、くれぐれも理解して覚えてください。

では、対症療法ではなく、根本的に自分との関係を安心してもらうためにはどうしたらよいのでしょうか。それはどうして自分との関係に不安を持つかその原因がわかれば対策を立てやすいです。

自分に原因があるなら幸いです。自分の行動を改めればよいからです。
相手に不安が生まれるのは、仲間として尊重しないから、否定的評価をするからと言いました。わかりやすく言えば、ダメ出しばかり、小言ばかり言う場合ですね。やることなすこと否定ばかりされていたのでは、客観的にはそれが正当でそれほど大規模なダメ出しでないとしても、息が詰まっていきます。不安を感じる前に、嫌気がさして分かれていこうと考えるかもしれません。

案外気が付きにくいのは、否定することではなく
「肯定しないこと」
かもしれません。仲間であれば当然感謝されるとか、褒められるとか、謝罪されるべき時、手を差し伸べられることを期待するとき、なにもされないということは、蓄積すれば仲間として扱われていないという対人関係的危険の意識を強く感じさせてしまいます。

例えば髪型が変わったら、例えば花を買ってきて飾ったとか、例えば新しいワイングラスを買ってきたら、そういう時「いいね。」と言いさえすれば安心するのに、言わなければ不安になるということです。「良いと思わなかったから言わなかった」というのは子どもの論理です。良いからいいねというのではなく、大人は相手を安心させるために「いいね。」というものとのことです。大事なことはあなたの心ではなく、相手の心です。相手が喜ぶことによってあなたは幸せになれるわけです。それが家族なのでしょう。
ここで、どうでもよいダメ出しをするのが子どもじみたダメダメの人間なのでしょう。(もっともあまりにも変で、常識にも欠けるような場合は、細心の注意をもって、まず肯定してから注意することも大切です。但し、難からの事情で、明らかにそのことに本人が気が付いていないときに、選択肢として指摘するということにとどめておくことが無難かもしれません。)

効率ではなく、相手の心、安心感を大切にするということだと思います。

《対人関係的危険を感じやすい人、あるいは不安を感じやすい条件》

もっともこの対人関係的危険、不安の感じやすさや、反応については、逆切れを受けた相手に責任がなく、逆切れをする本人の個性によるところが多いようです。困ったことに、対人関係的危険を感じやすい人という人はいて、やみくもに危険を強く感じてすぐに防御態勢を取ってしまうことが多いようです。

生まれつきということもあるでしょう。
また、その人の育った生い立ち、体験、記憶に原因がある場合があるようです。
さらには、体調の変化によって対人関係的危険を感じやすくなることも多くみられます。

体験、記憶により危険意識が強くなる場合もあるようです。

結構多いのが厳しすぎるしつけです。
この厳しすぎるしつけは、犯罪を誘発する場合もあるほど深刻な影響が子どもに生じる場合があります。何をしても親から否定ばかりされて育った子どもは、自分に対する自信が持てなくなることがあります。「どうせ自分なんて」というあきらめが常に先に立ってしまいます。そうすると、相手が何か言うと、その言葉が自分を否定する言葉のように聞こえてくるようです。どうせ自分なんて尊重されないという悲観的態度がまず先に立つようです。しつけがさらに厳しく子どもの自由意思を制圧する場合は、逆切れは起きにくく、「ため込むタイプ」のうちの自滅するタイプになってしまいます。子育てというものは難しいとつくづく感じます。親は、いっそのこと子育てを勉強せず、信念も持たず、場当たり的に子育てをした方良いのではないかと考えることもあります。

最近の逆切れ型の離婚紛争事例では、実は相手は小さいころにいじめを経験していたという例を多く聞くようになりました。
例えば妻がいじめを受けていたとすると、夫の発した何気ない単語が、あのいじめを受けたときのきっかけに遭遇した時の気持ちをよみがえらせて、かなり感情的になってしまうということがあるようです。「またあの時と同じように絶望の一歩手前の孤立に陥れられる」という強烈な不安が沸き起こるようです。

幼少期のいじめだけでなく、再婚の事例で前の夫の暴力があったことが何らかのきっかけで思い出されて、今の夫から暴力を受けているような錯覚をしたり、誰かに苦痛を訴えるときに今の夫から暴力を受けていると言ってしまったりという形で現れることもありました。相談を受けるほうは、実際にあったことなので、リアリティーのある話なので、信じてしまうのです。でも、それは今の夫ではなく、離婚した過去の夫との体験でした。端的にPTSDだと思うのですが、相談を受けるほうはそのことを知りませんので、今の夫が暴力夫ではなく殺されるから逃げろと指示してしまいました。また、つじつまが合わないと正当に判断した精神科医も、妄想性障害か統合失調症だと判断してしまったようでした。誰かが夫から事情を聴いて、夫の言い分を信じていたら、きちんとした治療がなされて親子での生活が維持できていたはずでした。

これらのケースでは逆切れなんて言うかわいらしいものではなく、病的な錯乱状態になることがあります。逆切れした本人も何が起きたのかよくわからないし、自分の感情が高ぶった前後の記憶が無くなっているということも結構少なくない事例で見られます。

パワハラや職場での理不尽な対応も夫婦関係に深刻な影響を与えます。人間はなかなか職場の人間関係を職場で完結させることができず、家庭の中まで引きずってくるようです。
職場によっては、やることなすこと上司から否定されるという職場があります。「言われなければ何もしない。」と言われるので、自分の頭で考えて行動してみると、「なんで事前に相談しなかったんだ。なぜ途中で報告しなかったんだ。なぜ連絡しなかったんだ。」等と、何でもかんでも全否定されるということがあると思います。そういう叱責は会社なんだから当たり前だと思い込まされるわけです、上司が場当たり的に叱責しているだけなのに、状況に応じて行動できない部下が悪いと思い込まされているわけです。こういう会社はいつまでも続きません。生産力が上がらず縮小再生産をするしかないので、競争が始まればあっという間に消えてなくなるでしょう。
それでも、無能な上司の話を真に受けて自分は役に立たない人間だなどと思い込まされています。その気持ち(自分は他人の役に立たない人間だ)を引きずって家に帰って、子どもからネットゲームの課金をするからお小遣いくれよなんて言われると、十分小遣いを渡せないダメな父親なのか(父親としても役に立たないと子どもから言われているのか)と瞬間的に悪くとらえてしまい、気が付いたら逆切れしていて子どもがおびえていたなんてことが起きるようです。

取引先から理不尽な苦情を言われたりするような体験が重なると、自分は「どの人間関係でも理不尽に扱われる」のだという悟ったような気持になり、何の悪意のない夫の態度が嫌味な取引先の人間と同じ行動であるように感じられ、「自分はやがて夫からも捨てられる」というような、ちょっと他人ではついていけない思考になってしまうことが現実にはよくあることなのです。

夫の態度とは直接は関係ないのですが、こういう場合は「ため込むタイプ」となりやすく、よりによって夫に対して突如大噴火するパターンの行動を起こしやすいようです。会社では爆発できないから実際は夫が八つ当たりされているような印象を受けることがあります。

生い立ちを含めた人間関係という環境が、気持ちに大きな影響を与えるというパターンでした。

それからどうしようもないのが、体調の変化です。
うつ病が悲観的傾向になったり、考えることができなくなっていく症状が現れることはよく知られたことです。
全般性不安障害も、本来原因が無くて不安が起きる症状ですが、とりあえず原因を妻が夫にとか特定の人間に求めてしまうということが起きることがあります。この診断名が付くケースは結構多いのですが、こういう場合の逆切れは、本当に脈絡がなく、あっけにとられることが多いようです。
産後うつの場合も同じようなケースが多いのですが、出産の心理的影響についてはまだまだ良心的な調査と知識の共有化が進んでいないと感じています。
交通事故などの頭部外傷の事例もありました。
内分泌系の疾患や婦人科の病気も逆切れの原因となる不安を起こさせます。しかし、この点についても、生物学的な研究はなされているのですが、生活や人間関係に対する影響について調査研究が行われていませんし、予め患者に注意する医師も圧倒的に少ないと離婚事件を担当していると感じています。

生まれつきというよりそれまでの人間関係という環境的問題と、何らかの精神的問題、あるいは相互作用によって、対人関係的危険意識が出現しやすい状態になるということがリアリティーがあるようです。

《対処方法2 逆切れされる方に主たる原因が無い場合 人間とは何か》

性格だったり、体験の記憶だったり、疾患だったりが原因で逆切れされる場合には、逆切れをされた方としては、相手の不安に対して対処をしようがないように思われます。この場合は、カウンセリングを受けるとか治療を受けることがもっとも有効な方法となるでしょう。しかし、普通のご家庭の心理士でも医師でもない人にとってはお手上げになってしまうと感じられると思います。

私は、恐らくそうではないのではないかと考えています。すっかり、本人が対人関係的不安を抱かないようになるまで解決を先延ばしするものではないと思うのです。

私は、家族という人間関係は、家族の数と同じくらいにそれぞれ条件が違うのだと思います。対人関係的危険を感じやすい人、感じにくく安心しきっている人、それぞれの組み合わせ程度は無数にあるわけです。

それでもすべての家族について言えることとして、家族は、正確に言えば家族の中の大人は、自分以外の家族に対して対人関係的危険を感じにくくさせる働きかけをするべきだと思うのです。

一つの理由は、人間が他の小動物に比べて長生きするのは、生理学的に家族の力が大きいということ
もう一つの理由は、実は人間に限らず霊長類全般は、群れを作ることで群れから外されることの不安を自動的に感じているのであり、群れである以上は相手を安心させる役割を担っているということからです。

まず、第1の生理学的意味について説明します。
家族という仲間の目的は生理学的に言えば、癒しです。人間は大体が昼間に交感神経が活性化して活動的になり食料を探しにでかけるのですが、食料を捕獲するときも緊張をしますし、肉食獣に襲われて逃げるときにも緊張をします。緊張をすることは目的を果たす活動をしやすくしますが、血管など体の部分が傷つきやすくなります。ところがうまくできていて、夜になると交感神経が鎮まり、副交感神経が活発となり、昼間の緊張で傷んだ血管などをメンテナンスしやすくしているそうです。細胞の一つ一つに体内時計を持っているとも言われています。

そうだとすると、夜は家族のもとに帰ってきてリラックスすることで、副交感神経を高めることによって、このメンテナンスがうまくゆき、その結果人間は長生きできたということになります。帰るべき場所は、ただのスペースではなく、副交感神経を高めるリラックスをする場所であることが人間の生理からも求められているのです。家に帰ってからの方が緊張するのでは、メンテナンスはうまくいかないでしょう。今、その群れに相当するのは家族です。家族は一緒にいて安心できる関係であることが人間の生理からも求められているということです。

自分が家族から一方的に恩恵を受ける立場というのは子どもの時代だけです。大人として家族の一員である以上、家族を安心させるのが大人の務めです。家族が安心すれば逆切れもなくなり、自分の気持ちもより安定する結果となるわけです。

もう一つの理由霊長類全般の話です。おそらく知能が高度に備わり、将来のことを推定できるようになったこと、また、群れを作りたい、群れの中に安住したいという本能があったことから、特にきっかけもないのに群れから外されるのではないかという不安を抱くようになったものと推測しています。そして自分の行動や考え、発言を否定的に評価されることは、この群れから外される予感を意識をしないまま強烈に発動させてしまっているのでしょう。

霊長類全般は、群れの仲間の不安を鎮めるために、相互に毛づくろいをすると言われています。人間には体毛が少ないですから、言葉によって相互に安心をさせようとするという説があります。(Robin Dunbar)
本来、人間は、自分の群れの仲間を安心させるようにできているし、仲間も安心させてほしいと望んでいるということになると思います。この望みがかなえられなくても不安になってしまうのでしょう。

先ほど言いましたが、家族は人それぞれ条件が違います。性格的に不安になる人、不安になるような体験をした人、家族になってから体調面に変化が生まれる人それぞれいます。

考え方としては、安心の程度を求めるということは無理があるということです。安心指数みたいなものがあって例えばその指数が68以上でなければならないというように考えてしまうと、個体差を無視した非科学的な考えになってしまいます。
おそらく、具体的に安心させようとお互いに働きかけを行い、より安心できる環境、家族という人間関係を作ることが人間としての生きる意味だと考えるべきではないでしょうか。そしてそれが多くの人には家族だけれど、人によっては友人関係だったり、職場だったり、様々であってよいのだと思います。ただ、基本は家族だと私は思います。家族を大切にすること、家族をより安心させようとすることこそ人間らしい行為だと思います。

安心させる方法は、相手の不安が仲間から自分だけ孤立させられるのではないかとい根拠のない不安だとすると、そうではないというメッセージを発信し続けるということになります。

具体的には、その人間関係、家族なら家族に対して、「私は絶対にあなたから自分で離れようとはしない。絶対にあなたを見捨てない。」という言動によるメッセージを発することなのです。そして、不安は病気や特別の体験が無くても、人間である以上不安になるというのであれば、何度も発信するべきだと思います。つまり、人間は対人関係的危険を特にきっかけもなく感じる動物であるならば、仲間の対人関係的危険による不安を鎮めるのもまた人間の営みなんだと思うのです。

そのためには、孤立につながるような否定評価がなされるという危険が高まる場合の、家族(仲間)の失敗、不十分点、弱点を批判しない、責めない、笑わない。自分が援助する、代わって行うということを相互にやることだと思います。
その上で、仲間として当たり前の行為を行う。そして、仲間であれば当然に褒められたり、慰められたり、感謝されたりする場合は、褒めて、慰めて、感謝するということが人間らしい行いになると思います。

例えば夫が原因で妻が不安を感じる場合だけでなく、特別な出来事を体験したり、精神に影響を与える病気がある場合も、やることは同じだということなのだと思います。

日々これを行う。日々仲間を大切にする。これを面倒くさがらずに行うということが人間の大人なのだろうと、こういう考えもあるのではないかと考えています。

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相手に合わせて自分の行動を変えられない人は、自分が深刻に傷つく結果になりやすい。「自分が悪くなくても行動を変える」という発想が人生を快適にできるということについて考えてみた。特に夫婦問題における大人の発想とは。♯対人関係的危険。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



何か注意をされても「自分は悪くない。」と思って注意を聞き入れないということは、誰にでも多かれ少なかれあることだと思うのです。でもこれが激しくなると、人間関係がとげとげしいものとなり、無駄に苦しい人生を歩むことになってしまいます。このことをぜひお話ししたいと思いました。

例えば、日常生活で、妻(夫)から、事務連絡的に「あなたが洗った皿に食べ物かすが付いているよ。」と言われただけなのに、何か人格を非難されたかのように感情的になってしまい、むくれてだんまりを決め込んだりとか、負けじと相手方のずいぶん前のことまで掘り起こして大声を出したりする人。まあ、「命令しようとしないで、気が付いたら自分で洗えばよいじゃん。」とか思うのは仕方がないとしても、むくれるとか怒鳴ることはないわけです。

例えば、離婚調停で、相手の主張するある事実については、こっちもやったことは争っていないし、訴訟になってもマイナスにならないから謝っちゃった方が相手も安心するし、それによって子どもとの面会も自由度が増すから謝っちゃいましょう。とアドバイスしても、どうしても相手に「謝る」ということができない人がいます。「自分は悪くない」とか、「こういう行動に出たのは相手方の言動があったせいだ。」なんてことを言うのです。

「そこを謝れば子どもと会える」という場面でも、家族から見てもわかるように大々的に本人は2,3日悩み続け、結局謝れなかったというケースがありました。この時は、私が代わって謝るというか、相手の気持ちをなだめて、無事子どもを取り戻し、家族で再び生活が始まった事案でした。ただ、その後のことを考えると、あそこで本人が謝罪の言葉を口にすることができたら、もっとスムーズに、もっと後腐れなく事が運んだはずでした。

本当の気持ちなんてどうでもよいから、言葉を出してあげれば相手はずいぶん落ち着くのですが、それを説明してもできないのです。これでは相手の気持ちが少し和らぐ方法がみつかりません。特に子どもの面会交流の別居親は、人質を相手に取られているようなものですから、法律だ、裁判所の決定だと言っても同居親が別居親に少しでも安心しなければ、どんなに裁判所が命じても子どもは別居親に会えません。相手が悪いからと言って済むのは親だけで、子どもはそんな理由少しも理解しないでしょう。自分に会えなくなるというのに、頑張ってくれないのかと。

逆に離婚事件でも、心にもない歯の浮くような相手を称賛する言葉を繰り出したり、気持ちの伴わないプレゼントをまめに渡したりする人が、結局子どもとの強い交流を勝ち取ったりしている姿を見ています。あまりにも対照的です。
だから、近くで見ていると、「もったいないなあ」といつも思うんです。

自分の気持ちに反したとしても、やっても別に損をしないならその通り行動さえすれば、もっと楽に生きられるのになあと思うのです。

「自分は悪くないから行動を変えるのは不当だ」という意識の問題点が明確になった極端な例を紹介します。
夫婦で道の路側帯内を歩いていたけれど、夫が気が付かないでいるうちに、路側帯の中を通行しそうに自動車が近づいてきた。妻はそれに気が付いて「危ない。」と言って、夫の腕を引っ張って、夫をよけさせた。それをされた夫は、感謝を言うどころか、ものすごい形相で妻を叩いたというのです。「自分は路側帯内を歩いていて正しい行動をしている。間違っているのは自動車の方だから、自動車がよけるべきで、自分がよけるのはおかしい。」
と言われたという実例を妻側から聞いたことがあります。

笑うに笑えない話です。この極端な例を読めば、それは話が違う、正しいからと言っても、死んでしまってはしょうがないじゃないかと思われるでしょう。でも、ここまでではないのですが、この発想の「形」は先ほどの面会交流の例ととても良く似ていると思うのです。

この発想の形が損だということを説明するために、逆パターンのサンプルを示してみます。
例えば職場で、しつこくて嫌な上司がいるのに、なぜかその同僚だけは嫌味の被害にあわないで、高評価されて、頼りにされている、そんな人がいますよね。
さわやかで堂々としていて、同僚としては正直少し煙たい存在です。自分とこの煙たい人の違いは何なんだろうと考えると、一つには注意を受けたときの態度に違いがあると感じました。

普通の私たちは、上司から小言を言われると、それだけで精神的ダメージを受けてしまうので、例えば「そこまで言わなくてもよいじゃないか。」とか、「どうして私に対してだけ否定的評価をする」とか、「わたしのせいではない。」とかという防御的姿勢になっているようです。上司からすれば、そんな私の表情を見て、反抗的だなと思っているのでしょう。

これに対してさわやかだけど煙たい同僚は、神妙な顔をして小言を聞くのですが、自分に対する低評価の部分は聞き流していて、「結局こうすればよいのですね。ではこう頑張ります。」とけろっとした顔で次の仕事を始めるわけです。

上司からすると、煙たい同僚(上司からすれば部下)は、「(多少言いすぎても)前向きに受け止めるやつだ。」という都合の良い部下になりますし、上司からすると「あまり言いすぎると何をされるかわからない。」という不気味さもでてくるようで、嫌味上司でさえも次第に遠慮をするようになるようです。

職場も無駄に暗くなりませんし、煙たい同僚は全く精神的ダメージを受けていないように見えます。おそらく煙たい同僚はいちいち傷つかず、せいぜい不快に思っているか、上司を馬鹿にしているのだと思います。なんて楽な人生なのでしょう。

得な性格だなあとつくづく思います。うらやましく感じるので、煙たいわけです。上司から何か言われて、いちいち傷ついて、身構えて、余計な感情を上司に見られてしまう我々は、つくづく損していると思うのです。


我々のようないちいち身構える人間の特徴をあげてみます。
<表面的には>
・ 怒りっぽい人、逆切れしやすい人
・ 物事を悪く、深刻に受け止めやすい人 受け流せない人
・ 言葉をことさらに被害的に受け止める人
・ 自分の間違いを決して素直に認めない人
・ 自分には優しくて他人には厳しい人
・ 会話のキャッチボールができないめんどうくさい人
・ 責任を他人に転化する人 注意する上司の方が悪いと思っている人
・ 文句ばっかり言っている人
・ 自己中心的な人 自分さえよければよいと思っている人
・ 仲間を信頼していない人

大体こういう風に他人からは見られているわけです。これではだんだん自分の周りから人が離れて行ってしまうということが理解しやすいでしょう。離婚事件になれば、双方が自分を守るという意識が高まり、それにつれて相手に対して激しい敵対心を抱くようになります。ますます一緒にいることや、何かを一緒にやることが嫌になっていくばかりです。

でも、本当は、こういう相手に過剰反応する私たちは、自分と相手との関係を大切に考えているのだと私は思います。
相手との関係がどうでもよければ、自分がどう見られようと気にしないのですから、むきになって自分を守ろうとしません。あの煙たい同僚のように、自分に都合悪い部分は適当に聞き流すことができるわけです。ところが、相手に嫌われることを極端に恐れるために、自分が否定評価されることを何とか阻止したくて必死になるのだと私は思います。それが逆効果を生むわけですね。

もしかしたら、完璧主義者という言い方もできるのかもしれません。適当に否定されて、適当に軽んぜられた方が、肩ひじ張らないで気楽に付き合えるから、相手からは安心できるのです。こっちも気が楽です。でも完璧主義者の人たちは、少しでも自分が否定されたと感じると、相手から愛想をつかされて、相手は自分から離れていくのではないかという不安を強く感じてしまうようです。何とか打ち消したくて不合理な行動に出るようです。

この逆切れについては、近々クローズアップした記事を書きます。ここでは最低限の頭出をしておきます。それが対人関係的危険の意識です。

「人間が自分を守る」というのは、身体生命を守るというだけではないということです。自分を守るということは、「特定の人間関係で(あるいは社会的に)自分の今おかれている立場・関係を維持する」ということも含まれるようです。
自分の周囲からの評価が下がる危険を「対人関係的危険」ということにします。人間は生物的危険を覚知すると防御反応を反射的に起こしますが、対人関係的危険を覚知してもやはり防御反応を起こすということを指摘しておきます。

そうして、危険意識が高まってしまうと、自分を守ることに精一杯になってしまい、冷静な考えができなくなってしまいます。生命身体の危険意識が高まった場合と全く一緒です。例えばハチに襲われてやみくもに逃げてかえってハチを挑発した形になって刺されるみたいな感じです。

対人関係的危険意識が高まってしまうと、紛争がないところにも紛争が起きてしまいますし、対人会的危険の意識が強すぎると一度紛争が起きてしまったら、収束に向かうということはとても期待できない状態になってしまいます。

対人関係的危険に過敏に反応してしまう人たちが、一番に損をするのは、自分の精神状態を悪化させていくということです。

まず解決がどんどん遠ざかっていくことは実感しています。ここで、当然に「どうしてうまくいかないのだろう。」と悩むわけですが、その疑問には隠れた言葉、自覚していない言葉が隠れているようです。つまり「『自分が悪いことをしていないのに、』どうしてうまくいかないのだろう。」という疑問になっているのです。但し、これは原因を考えているのではなく、ただ相手を呪っているようなものです。少なくとも自分も行動を改めるべきことがあったのではないかという意味で、原因を考えるわけではありません。相手の行動が不当であるということだけが頭の中を駆け巡っているような状態です。

この「自分は悪くないのに、不利益を受けている。」という考えが、本人の精神的状態を著しく悪化させる危険のある思考なのです。

この考え方は「絶望」につながりやすく、生きていくという望みが絶たれてしまう考え方になじんでしまうのです。こういう考え方の傾向が生まれてしまうことはとても危険です。

絶望に陥らないように、人間には絶望回避のシステムがあるようです。絶望回避のシステムがあるということは、人間は本当に絶望してしまうと生きていけなくなるということのようです。ところが、対人関係的危険の意識が強すぎて、かつ自分が悪くないのにどうして自分ばかり不利益を受けるのだという考え方はこの絶望回避のシステムが働かなくなってしまうということが危険の本質です。

例えば自責の念や罪悪感は、絶望を回避するための防衛機制という心理的に備わった仕組みだという指摘もあります。「今ある悪いことは自分にも責任がある。」という考えは、「自分が行動を改めたら、事態は改善するかもしれない。」という希望を持たせることによって、絶望という人間にとって極めて有害な考えを抱くことを回避させるように機能するようです。

父親が過労死した子ども、5歳くらいでしょうか。父親が死亡したということを理解しきれていないようで、自分が良い子にしていたらお父さんは帰ってくると信じてその子なりに精一杯良い子にしようと頑張っていたというエピソードを本で読んだことがあります(東海林智「15歳からの労働組合入門」毎日新聞社)。「自分が良い子ではなかったから会えないのだ」という自責の念はとても痛ましいことですが、絶望を感じないで済む救いとして機能して、その子を守っていたのかもしれません。

これに対して、「自分には何も原因がないのに不利益を受けている」という意識は、解決の方向が全く見えてきません。これまで述べてきたように客観的には事態がますます悪くなっていっています。解決の展望が見えなくなっていきますが、当面の問題、例えば夫婦問題だけでなく、自分の人生すべてにおいて生きる展望が失われていくところまで、案外簡単に行き着いてしまうようです。自分が大切にしている人間関係で不具合が起きたときは、負のスパイラルが加速していくようです。

自死が起きたという話も多く耳に入ります。また離婚後10年を経た姿を見ることができたときに、私の依頼者ではないのですが、かつてのエリート社員がどうして自分は離婚されたのだろうということが頭から離れられず、仕事もダメになったし、生活もままならない状態になっているのを目撃したこともありました。

傷ついた方のみんながみんな「自分が悪くない。」と考えたとは思いませんが、私の目撃した例のいくつかは、「自分が悪くないのにどうして。」ということを繰り返されていました。

この考えは本当は夫婦の問題に限定した問題のはずなのですが、次第に、
・ 自分は、悪くもないのに迫害を受ける運命にある
・ 自分は人と交わることができない人間なのだという
・ 自分は誰からも理解されない運命なのだ
等の考えに変化していくようです。自分から八方ふさがりになってしまうということが起きていくようです。

一時的には「他人が悪い」ということで無理やり納得できたとしても、自分が孤独であることは厳然とした変わらない事実です。日々回復不可能感、絶望感が深まっていくのです。

もちろん弁護士をやっていると、まれに、ほぼ純粋にその人以外の人が悪いという場合を目にすることがあります。夫婦問題で言えば、例えば妻に精神疾患があり被害妄想のために自分が夫から危険な目にあっていると思い込み、妻にアドバイスをした人間が妻の言っていることを疑わず、緊急避難的に子連れ別居をアドバイスして、周到に夫を陥れ、夫の弁護士も仕事をしないで利敵行為ばかりされてしまい、裁判所も勢いに飲み込まれて冷静な判断をしないなど、不利益に叩き込まれたというしかない人も何人か見ています。

もちろん明らかに他人が悪い事例なのですが、こういう場合であっても「自分が何か別の行動をとっていたら最悪の事態は回避できたかもしれない。」という発想をもつことで、結局は自分を助けることになるのではないかと、私にとってもぎりぎりところで考えることがあります。でも、それを本人に伝えることはとても難しいことです。

対人関係的危険の意識は、本能的に感じるものなので抑制することは難しいことですし、あの煙たい同僚のように鈍感になることもどうかと思うのです。

私がぜひ修正するべきだと思うのは、「自分が悪くなければ、自分は快適に生きるべきだ。」という考えです。そうあるべきだということについては大いに共感しますが、人間関係の形成を考えると、この考えは明白かつ単純な間違いです。

大体において、夫婦喧嘩なんて言うものは、どちらが悪いから起きるものではありません。双方が悪くなくても、一人または二人とも嫌な思いをすることがほとんどだと思います。

「自分は悪くないのだから、自分に不利益を与えないでほしい。」と思っているかもしれませんが、では、だからと言って相手の方は悪くなくても我慢しなければならないという理屈は出てくるのでしょうか。なぜ、自分だけが我慢しなくてもよいのでしょうか。突き詰めて考えるとこういう問題なのです。

子どもが親に要求するならばまだわかるような気がするのです。子どもが「僕が悪いことをしていないのに、僕にはお菓子くれなかったんだよ。」と言われれば「よしよし、それじゃあパパがお菓子を買ってあげるからね。」と言って子どもの感情を解決するということはあるかもしれません。

立場を逆にして、親が職場で人事考課を不当に行われて、ボーナスが減額されたからと言って、親が自分の子どもに考課の不当性を訴えてボーナスの不足分をもらうなんて言う話は荒唐無稽な話ですよね。

夫婦の関係は、これと同じです。どちらも悪くなくて、でもどちらかが不利益を受ける場合、その不利益を当然に相手に与えるという理屈は出てきません。「自分が悪くないから不利益を受けるのは不当だ」という考えは、自分は悪くないから、あなたが悪くないかどうかわかりませんが「自分が損するのが嫌だから、代わってあなたが損をしてください。」ということを要求していることになります。つまり、子どもが親にするように相手に甘えているにすぎません。

こう説明すればみんなお分かりになるわけですが、対人関係的危険意識が強く発動してしまっていると、「自分が悪くない」というところばかりがクローズアップされてしまい、「相手も悪くない」という冷静な考え方ができなくなってしまいます。自分が不利益を受けているのは相手方が悪いという発想になってしまうわけです。二者択一的思考というわけです。

現実の夫婦の間では、妻の精神問題からの思い込みも多いですし、ただ単なる自分の思い込みとか思い違いで、自分が不利益を受けるように感じられる事例は無数にあります。誰が悪いわけでもないのに、誰かが不利益を受けるようなことが日常に無数にあります。自分が悪くないからということで自分が不利益を受けてはならないという考え方はどうしても現実的ではありません。

このような不利益のスパイラルから自分を守るためにはどうしたらよいのでしょうか。

私は、根本は、家族の中に善悪を持ち込まないということが一番だと思っています。家庭の中でも、どちらが悪いから不利益を受けるべきだという考えは大変恐ろしいと思います。それでは家庭は癒しという本来家族にあるべき機能を果たせなくなります。

次に、自分の利益と不利益ではなく、家族全体の状態を良くするか悪くするかということで評価をするということが有効でしょう。「私」の利益ではなく、「私たち」の利益を考えるということです。
この2点が不可欠だと思います。

これが「大人の発想」というものなのでしょう。

但し、大人の発想に立つことはなかなか難しいことです。夫婦の関係を大切に思うからこそ、相手の言葉が自分を否定しているのではないかという恐れを生み、過剰に反応してしまうということがあるからです。相手を信頼している余り甘えてしまうということも全く許されないわけではないとも思います。

また、正直言えば、長年一緒に暮らしているのですから、何か注意されるとそれまでのことを思い出して「お前が言うか」と心の中で突っ込みも入れたくなってしまうわけです。注意の仕方の問題もあるのはその通りです。

ただ、そのような自然な感情のままに反応してしまうことは、子どもしか許されないことです。大人がこれをやれば自分自身が孤立していき、解決の糸口が無くなり、精神的に追い込まれていくことであることは間違いないと思います。

大人の発想に立ちきれなくても、自分の幸せのためにも、何か小さな不具合が発生したら、すかさず「家族の希望を叶える」、そのために「自分の行動を修正して解決する」という選択肢を持つようにすることを忘れないことが家族を守ることであり、それはすなわち自分を守ることになるのだと思います。

「自分の思うまま生きようとすると衝突が生まれてしまう。衝突を回避したり、解消したりしようとすると自分を殺さなければならない。」人間は群れを作ったころから、悩みが始まったのでしょう。失敗して悩む人間の方が人間らしいということはこういうことだと思います。悩まないことは大変恐ろしいことなのでしょう。

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弁護士に向けた自死予防への取り組みの勧め 弁護士が行う自死予防とは何か、自死予防における弁護士という仕事のアドバンテージ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

弁護士と自死予防

1 自死予防の3段階の対策
自死予防については、世界的には三段階に分けて対策を整理しています。
第1段階 自死リスクを作らない対策、自死リスクを軽減する対策 プリベンション
第2段階 自死行為、準備行為、自死企図を妨害する行為 インターベンション
第3段階 自死遺族支援 ポストベンション
(日本の場合は公衆衛生の用語で一次予防、二次予防、三次予防という言い方をしますが概ね世界標準の意味内容に近づいています。)

最も肝心な予防策は第1段階ということになります。第2段階になってしまうと、自死を防ぐことが格段に難しくなってしまうからです。
その意味で、この文章で単に「自死予防」という場合は、第1段階の予防対策のことで使うこととします。主に第1段階の予防策について述べています。
第3段階は自死遺族支援ということで、厳密には自死予防ではなくて事後的な対応のことを言います。自死が労働災害や他人の不法行為による場合や保険金の問題、あるいは自死をしたことによって第三者に損害を与えたとの主張がなされる場合など弁護士が関わることが多い分野でもあります。

2 自死リスクはどのようにして高まるのか

自死リスクが高まる仕組みを理解し、その人のリスクの程度を評価できるのであれば、自死予防は比較的容易になるでしょう。ところが、わが国では、なかなかこのリスクアセスメントの研究が進んではいません。
実践に耐えうる理論としては、通常アメリカの研究家である T.ジョイナーの「自殺の対人関係理論」(日本評論社)が紹介されることが多いと思います。
簡単に説明しますと、自死を行う場合は、大きく分けて二つの要素が重要であるとされます。それは自殺願望と自殺の潜在能力の高まりという要素だというのです。
「自殺願望」というのは、自分が家族や会社などの人間関係の中で、自分が存在することに負担を感じるという「負担感の知覚」と、自分がそれらの人間関係に所属しているという実感が薄れていく「所属感の減弱」が起きた場合に起きるとしています。
「自殺の潜在能力の高まり」というのは、外傷体験や自傷行為などによって、自分を傷つけることに馴れてしまう結果、死ぬことに対する恐れが薄まってくるということです。通常は死ぬことが怖いために自殺願望があっても、自死に踏み切れないのですが、死への閾値が下がることによって自殺が可能になってしまうということを言っています。

自殺願望を高める事情としては、対人関係的な事情もありますが、様々な精神疾患によって、病気の症状として自殺願望が高まることもあります。自分の対人関係などの環境と精神保健面の要因が相互作用を起こし、自殺願望が高まるということがリアルな見方であるように感じています。

自殺願望が高まるというリスクの高まりの原因としては、
・各人の精神疾患などの問題と
・各人が置かれた人間関係の環境問題
の双方向から考えなければならないということは強調しておきます。

そして詳細は割愛しますが、自殺願望が高まる要因をわかりやすく説明すると、
<孤立>自分が大切にしている人間関係から、追放される予期不安
     行為の否定評価、差別、人格無視、不利益の強要
<絶望>孤立を回避する方法が無いという認識
<緊張の持続> 孤立や絶望を回避しようとすると緊張をしますが、この緊張が持続することによって、睡眠不足も相まって、思考力が低下していきます。
具体的には、
・二者択一的思考(死ぬか苦しみ続けるか。折衷的な解決方法や評価が思い浮かばなくなる。)、
・悲観的思考(どうせうまくいかない)、
・刹那的思考(将来を考えることができない。とにかく早く解決したい《結論を出したい》という焦燥感)があげられます。

これらは相乗効果があり、介入しなければ悪化していく危険が高くあります。人間は絶望を回避する防衛機制という心理的メカニズムがあるのですが、孤立、絶望緊張などが持続するとこれが誤作動を起こし、自死行為に出る原因になるようです。つまり、絶望を感じなくするために死ぬという行動を起こすようです。自死リスクが極限まで高まると、死ぬというアイデアをもってしまうと、それが何か歩の温かく、明るいイメージを持ってしまい、死ぬことをやめることができなくなるということが大きな一つの自死に至るルートのようです。


3 弁護士が行う自死予防について

1)弁護士、弁護士会が行う政策としての自死予防は第1段階の予防が中心となります。
2)精神疾患などの健康面由来の自死リスクの高まりについては、弁護士がいかんともしがたいことも多いので、その人の状態に応じて、精神科医につなぐ、カウンセラーにつなぐ、家族につなぐという方法が取られます。
依頼を受けて事件を継続中であれば、弁護士がそれぞれと連絡を取ってつなぐこともありますし、病歴、生活歴、その他の精神的に影響与える事情を記載した紹介状を作成し直接各人につなぐことが求められるかもしれません。
これに対して相談会などの場合は、その時限りの関係ですから、相談者が行くべき機関の紹介を相談者自身に行い、相談者の行動に期待するほかないと思います。
この相談会に行政が参加していれば、相談後の行政の関与が期待できます。その場で行政につなぐことによって、行政の関与の下で行政の機関を含めて適切な機関につなぐことができるので、とても有効な形が作れると思います。

3)対人関係が由来の自死リスクの高まりに対しては、弁護士は様々な対応をすることができます。
<相談業務>
人間関係のトラブルについて、法律の案内をしただけで解決する場合も少なくありません。例えば、立ち退きを迫られて困っている場合に借地借家法の法律を説明しただけで、そういう法律があるなら家主と交渉できると言って交渉した方、夫と死別した後の夫の家族に対する扶養義務について説明しただけで、無理な扶養を強いられたことから解放された人もいます。
パワハラを受けて精神的に圧迫を受けている場合は、会社を辞めるという選択肢を持てなくなることがあります。会社を辞めるというアドバイスをするだけで、自死リスクが解消される場合も多いようです。退職によって当面の収入を断念するとか、損害賠償請求を断念しても、会社を辞めるという選択が必要な場合が多くあります。なかなかご本人が選択肢としてあげづらいことについて、第三者である弁護士が選択肢を提起して自死リスクを軽減する方向の選択肢の順位を上げる必要があることです。
相談業務で、紛争自体は解決しなくても、精神的なストレスがだいぶ軽減されることは実感として経験されているところだと思います。
<代理業務>
人間関係のトラブル、例えば債務問題、刑事事件、家事事件、労働事件など、精神的に圧迫をさせる出来事をうまく解決することができれば、自死リスクが解消することがあることはもちろんのことです。これが弁護士ならではの自死対策の一つの特徴でもあります。
そもそも誰かとトラブルがあるということだけで、人間には大きなストレスがかかります。裁判の当事者になることだけでも看過できないストレスがかかるそうです。多重債務の返済日のように、裁判期日の3日前になると眠れなくなると言う人は少なくありません。
弁護士が当事者ご本人に適切にかかわることで、葛藤を鎮めて、自死リスクを作らないという効果が期待できます。
但し、代理業務を遂行する場合も、請求の趣旨を少しでも依頼者の有利にするというだけでなく、自死リスクの回避という観点も合わせて持つ必要があるということになろうと思います。賠償額が多く取れても、それ以上の人間関係のデメリットが生じては、自死予防という観点からは評価ができないことになります。但し、弁護士はメリットとデメリットを提示するだけで、意思決定をするのは当事者ご本人であることは言うまでもありません。

<自死予防の観点からの業務拡大>
自治体などの一般法律相談を担当してご経験があると思いますが、およそ法律手続きが用意されていないような人間関係の不具合があります。あるいは、会社などの団体の顧問などをされている方もご経験があるのではないでしょうか。取締役間の不具合や、経営陣と株主間の相互不信など、誰に相談してよいのかわからない人間関係上のトラブルもあります。こういう分野にも弁護士業務として取り組むことにより、業務分野が拡大したり、通常業務に様々な観点から役に立つことがあります。

3 弁護士に自死予防ができるのか

 1)弁護士という職業に備わる力
   今あげた弁護士の自死予防として挙げた行為は、通常業務として行うだけで自死予防のリスクを軽減させることも大いに期待できます。「自分には味方がいる。自分は社会的に孤立しているわけではない。」という考えは自死リスク(孤立感、不可能感)を軽減することに役に立ちます。また、弁護士という職業はまだまだ社会的に信用されていますから、その弁護士が自分の味方になってくれる、自分の利益を考えてくれるということは、貴重な立場です。
 2)人間関係トラブルの仕事
   弁護士の仕事は、人間関係トラブルに介入する仕事ということができます。また、自死に関連する仕事です。東北大学と日弁連、仙台会の合同アンケート調査の結果でも、多くの弁護士が職務上、依頼者や相手方の自死、自死未遂を体験しており、依頼者の高葛藤や高い自死リスクを見ています。
   統計上も、自死と関連する社会病理が証明されています。社会政策学では、完全失業率と完全自殺率が連動しているということは定説になっています。この失業のほかに、離婚、犯罪認知件数、自己破産申立件数が有意に関連しています(仙台弁護士会自殺対策マニュアル2011)。
なぜこれらが関連するかというと、弁護士の立場からすると、これらの社会病理が、自死と同じように、孤立、絶望、緊張感の持続を根本的原因として生じていることが一つの理由として考えられます。離婚事件の代理人も、刑事弁護人、あるいは債務整理の代理人もすべて弁護士の業務です。弁護士の仕事は、自死のメカニズムに密接に関連している分野を担当しているということも言えるのだと思います。
   
自死の要因として、精神的要因と対人関係的環境要因と両面から見なくてはならないと申し上げました。この対人関係的環境要因について業務の対象としているのは弁護士が第一であることは間違いありません。どうして紛争が起きるか、どうやって紛争を鎮めるのか、その現場に立って仕事をしているということは自死予防にとっても大きなアドバンテージです。
 3)相互譲歩による紛争の鎮静化
   ここの弁護士の業務姿勢についての話ではなく、あくまでも自死予防の観点、自死予防に都合の良いスタイルの話をいたします。
   実は、人間関係の不具合に介入して、双方に働きかけ、双方の譲歩によって問題を解決するという職業も弁護士が第一です。和解による解決や調停やADRによる解決、示談交渉などで弁護士は普通にこのような仕事を行っています。
   精神医学や心理学(家族療法やカップルカウンセリングをのぞく)、あるいはカウンセリングなどでは、自分のクライアントに働きかけるという解決方法だけが取られてしまいます。要するに、その人の精神状態を修正して問題を解決しようというアプローチです。人間関係のトラブルの鎮静化という観点はなかなか持ちにくいという宿命があります。
   また、行政などは、一方の言い分だけを基に人間関係に働きかけをしてしまい、他方の言い分が初めから取り上げられずに、人間関係のトラブルがさらに大きくなり、いつまでも継続してしまう弊害が起きています。これでは自死予防の観点からはマイナス効果になってしまいます。
   依頼者だけでなく、相手方にも働きかけ、双方に行動の改善を提起して問題解決を図ることも弁護士の仕事です。弁護士法によって、原則として弁護士だけに認められていることでもあります。
   この弁護士の仕事の特徴については、自死予防政策にかかわる人からも、弁護士自身からも見過ごされているようです。華やかに報道される事件において、弁護士が一方当事者に味方して法外な要求をするような印象はどうしても社会にあるようです。しかし、調停やADRだけでなく、一般民事事件で和解をすることの方がむしろ通常の弁護士業務だと思いますので、その点は自信をもって良いと思います。弁護士は特に対人関係的環境由来の自死リスクには、解決の選択肢を潜在的に豊富に持っていると私は考えています。
 4)人権という視点
   弁護士は人権について学んでいます。人権感覚は各人によってまちまちでしょうが、人権の知識については間違いなく突出して有していることは間違いありません。
   前述した自死リスクの高まりのところで、孤立感として挙げたことは人権侵害と密接に関係しています。人権についての知識があることは、自死予防には間違いなく有利です。
   さらには、人権侵害ということが一方的に起きるとは限らず、一方の人権と他方の人権が衝突している状態であることもあるという理解は、解決に向かう必須の考え方だと思っています。
   このような視点がない場合は、人権侵害がなされていれば、相談を受けている第三者は、侵害されている方が善で、侵害している方が悪だという形で介入をしてしまうことが多くあります。双方悪ではないということもありうるというリアリティーがなければ、介入者による新たな人権侵害が起きかねません。
 5)事情聴取をする力
   決めつけや二者択一的なものの見方から自由である弁護士は、通常業務として依頼者や相談者から事情聴取をしています。他人から話を聞く場合何をどう聞けばよいかということを考えながら聞く訓練が日常的になされているわけです。そして、依頼者、相談者の話の中で整合しない話があれば、機嫌を損ねないように事実を確認する技術もあるはずです。
   これは対人関係的な環境が原因による自死リスクの軽減にはとても役に立つ技術です。経験上、相手の話の要点や真意を吟味して事情聴取をする力は、医師、心理士や、カウンセラーに比べて突出して高いです。それはその仕事に求められる要素が異なるからです。相手の言っていることがつじつまが合わなくても寄り添うことを目的にする関わり方と、真実を探り出して真実に立脚して関わる仕事との違いがあるわけです。相手のある問題にかかわる弁護士ならではの資質です。
   但し、通常の弁護士業務と異なることは、「自死リスクの軽減」という請求の趣旨に向かっていく事情聴取ということですから、その要件事実は何なのかということを、先ほど述べた孤立、絶望、緊張の持続の要素に沿って各事件において考えていかなければならないことです。
  6)弁護士の役割が軽視されている理由
以上の通り、弁護士こそが自死予防に不可欠の存在であると私は考えています。このことに気が付かないのは、理由があることです。それは自死リスクが高まる仕組みが理解されていないということにあります。そもそもこのことを最も理解しうる職業が弁護士ですから、弁護士が積極的に自死対策に関与していかないことには、共通の理解とならないことは理由のあることだと思います。
先ほどらい強調させていただいていることは、自死リスクが高まる要因としては精神的な要因だけでなく、対人関係的環境要因があるのだということです。日本の自死対策では、20世紀末から21世紀初頭の主として北欧の自死対策がうつ病対策を主として成功をしていることを受けて、精神的要因に対する対策に力点がありました。政策の中心も医師が中心であったことはその結果です。その弊害は、本来精神的問題から対人関係的問題が生じたり、対人関係的問題から精神的問題を発生させたりするという相互作用のリアルを重視しなかったということです。
このため、対人関係的問題は後景に追いやられ、生まれつきの精神疾患と対人関係由来の精神疾患を同列に扱い、精神疾患が生じたならばそれに対応しましょうという、極端に言えばそういう政策が置かれていました。しかし、近時、自死リスクを作らない社会の推進ということがいわれるようになり、明確に意識はされていないとしても対人関係の調整という視点も出てきました。但し、もっぱら社会的な問題が中心になってしまっています。例えば地域の高齢者の孤立生活という問題として扱われていますが、本来的には家族問題という視点が欠落しているように感じているところです。
対人関係は精神問題の入り口の前にある問題ですが、対人関係の問題が解決しない状態が続くと精神問題が生じるという関係にある問題です。精神的問題が発症してしまってから対策を立てるより、対人関係として解決して精神的問題を起こさない方がより簡単に、より効果的に自死予防に役に立つはずです。一度起きた自死リスクを軽減することは実際は難しいことです。自死リスクを作らないことの政策が最も有効な政策であるはずなのです。
そうだとすると弁護士が自死予防に貢献できる余地が無限に広がっている。私はそう感じてなりません。

4 弁護士としてのメッリト
  
  自死予防対策に取り組み、学び、実践を積み重ねることによって、弁護士として大きなメリットがあると考えています。
  一つは人間はと何か、人間はどうして対立し、紛争を起こすのか、そしてその解決方法はということを考えます。このことは大きなメリットを生みます。
  第1に取り扱い事件が拡大するということがあげられます。このようなことを考えなければ、相談を受けても裁判手続きなどになじまなければ依頼を受けらないということがあると思います。ところが、自死問題を取り組んでいくと、事件の解決方法の引き出しが広がりますので、裁判手続きを経なくても解決の道筋が見えてくることがあります。会社内などの団体内の人間関係の問題、家族内の人間関係の修復等々、あらゆる人間関係の解決の糸口を見つけられやすくなるでしょう。
  第2に、自死リスクの高い人に対する接し方は、自死リスクの高くない人にとっても心地よい接し方になります。業務上、何に気を付ければよいかということが見えてきますし、依頼者が何を求めているかということも理解しやすくなります。これは大きなメリットです。
  第3に、通常事件の解決方法が見えてくるということがあります。人間が悩むポイント、訴外を受けるポイントが理解できれば、人間関係のトラブルの真の原因と解決方法が見えてきます。訴訟活動の方針自体を修正し、迅速で満足される活動ができる可能性が広がると思います。私自身の労災事件、家事事件刑事弁護にはとても良い影響があると実感しています。もっとも私の自死予防の理論は、労災事件、家事事件、刑事弁護の経験に基づいても構築されていますので、相互作用が期待できると思います。

5 弁護士が行う自死予防のイメージ
  今回は、3段階ある自死予防政策の第1段階プリベンションについて説明してきました。弁護士が誰でも参加できて、また、その職業的特質からは参加するべき活動ではないかと思っています。特に日常業務に自死予防の観点をいれることはどなたにも可能なことだと思います。これが全国に広まれば立派な自死予防になるはずです。
  どうしても自死予防というと、自死リスクが極限まで高まっている人に、自死を思いとどまらせるということがイメージされてしまい、ハードルが高くなってしまっているということがありそうです。
  第1段階の予防については、これまで述べたとおりです。それでも一般の方にとっては重苦しいことかもしれませんが,弁護士にとっては通常業務ですし、また人間を孤立から救い、不安から安らぎに転換させる政策だと考えると、とても明るく、前向きな活動だと思うのです。私は、人間社会に不可欠な相互の安心感を作る技術を考える仕事ではないかと考えています。人類が幸せに向かう活動という明るいイメージを持っているということが偽らざる本音であります。

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在日ロシア人をはじめとする旧ソ連圏の人たちの人権を守ろう。人権侵害は、正義感から始まることの典型例。人権擁護のための法律家の役割。少数者の人権保護という意味。 [弁護士会 民主主義 人権]

新聞報道によれば、世界中の国、特にゲルマン民族が多数派を占める国で、ロシア国民に対する差別や迫害が起きているそうです。ロシア国籍の人だけではなく、ロシア語を話す人たちや、東スラブ系の旧ソ連圏の人たちや店舗などが誹謗中傷を受けるなど攻撃をされているとのことです。

この今回の出来事は、人権の意味や人権侵害、弊害を伴う正義感情という人間の社会心理をわかりやすく説明できる出来事だと気が付きました。合わせて、人権に対する法律家の使命についても考えていることを書きましたので、是非お読みください。

「人権」の意味はわかりにくいかもしれません。しかし、その歴史を考えるとイメージしやすくなると思います。だいぶ昔の絶対王政の封建時代には、極端に言えば、国の財産や、国民の命などについて、すべてを国王が自由にできるという考えがあったとします。これに対して、どんなに国王の命令だとしても、人間としてそれを侵害されたら本人も人間として生まれてきた意味がないと感じるような行為や、周囲もそれはあまりにも酷いと感じる行為について、それを阻止しようとしたわけです。「それは人権を侵害する行為だから、いくら王様でもやってはいけないことだ。」という文脈で人権という言葉が使われるようになりました。

現代社会では王様はいません。民主主義の世の中になりました。最終的には多数決で国の行動の意思決定をするシステムができました。しかし、人間の社会は複雑ですから、ある行動が多数の国民を幸せにするとしても、同じ行動によって不利益を受ける国民が出てくることは常にあることです。多数派は少数者が不利益になることを決定することができることになります。

現代の民主主義社会では、多数派の意思決定によって、少数者が人間として生まれてきた意味が無いと感じることや、周囲がそれはあまりにも酷いと感じるようなことが起きる可能性があるわけです。これを防止するために、やはり「人権」という言葉が大きな意味を持っているわけです。

さて、ロシア人が迫害されているとのことです。一人一人のロシア人は、ロシアのウクライナ侵攻にかかわっていません。むしろ、ご自分たちが今いる国の人たちと協調して生活したいと考えているはずです。迫害する人たちは、自分が攻撃しているロシア人にウクライナ侵攻の責任があるとは思っていないでしょう。それでも迫害するわけです。なぜでしょう。

私は、迫害する人間の正義感だと言ってよいのだと思います。独立国家であるウクライナへの侵攻は不正義だということ、報道によればウクライナの罪もない国民が傷つけられて殺されている、財産を失くし、家族とも会えないで苦しい生活を強いられている。傷ついて虐げられている人を見れば、条件反射的に何とかしなくてはならないと考えるのが人間の自然な気持ちです。

・被害のひどさと、
・なんともできないもどかしさ、あせりと、
・自分は安全な場所にいるという環境的立場、
・自分の周囲のほかの人間も自分と同じ考えだという確信
という条件がそろえば、それは「正義感という怒り」が生まれやすくなります。

正義感という怒りは、思考力を鈍らせます。
・善と悪の二者択一的思考になじむようになります。
・悲観的考える傾向が出てきます。
・他者の気持ちを理解するという複雑な思考ができなくなります。
・自分の行為によってどのような効果が生まれるかという将来のことなど考えられなくなります。
・二者択一的な思考は、自分の行動を止める人間を悪だ、敵に味方をしているという考え方になってしまいます。
・怒りをぶつける相手が、死ぬか、反撃不能の状態になるまで怒りは持続します。
・相手が弱ってくると、かえって怒りが強くなっていくという特徴もあります。

その結果、自分の正義感を持て余して、正義感情を表現しようとしてたまらなくなり、ロシアに関連するものに対して攻撃をしようとするわけです。相手がウクライナ侵攻に責任があるかどうかなどという複雑なことは考えません。ロシア、あるいは、ロシアっぽいということだけで、「悪」と決めつける単純思考になるわけです。自分が攻撃している相手にダメージが加わっても、ウクライナの国民に対する共感の1万分の1も共感しようとしなくなるわけです。そして、周囲もその人に同調するならば、正義感の暴走は止められなくなってしまいます。

もし、ロシアの侵攻が、ウクライナを犠牲にしても、例えば経済的に、例えば軍事的に自分に利益が生まれるということでロシアにやらせた人がいれば、このような心理はとても都合よいものになるはずです。

他方で怒りは永続しないという特徴もあります。
怒りが覚めたときに、自分が行ったロシア人に対する人権侵害の意味を知ることになるでしょう。ある人はとても恥じ入り悔いるでしょうし、ある人は自己の行為を正当化するために、「ロシア人」は悪だという考えにいつまでも固執せざるを得なくなるでしょう。

ただ、自分がいくら正当化しようとしても、自分の周囲の人間たちは迫害をした人の迫害行為は覚えています。もしかしたら、自分の子どもからの軽蔑が近い将来に待っているかもしれません。

また、迫害を受けたロシア人の知り合い、友人を中心に、「これは酷いことだ。」というやりきれない思いが精神的ダメージとなりいつまでも残るかもしれません。

いずれにしても迫害があった周囲は荒むことでしょう。他者の人権が侵害されることは、自分たちの人間性も荒廃していくことなのです。他者の人権を守るということは、自分や自分の家族、自分の友人たちの人間性を守るということでもあると思います。人間とはそういう性質を持っていると思います。

ロシア人でも旧ソ連圏の人たちでも、人権として、およそ人間である以上守られなければならない一線があるということです。人権侵害防止は、文明国、近代国家としての必須のことです。

人権擁護がなかなか難しいのは、日本では少数者が極端に少数で、少数者自身に不利益の原因を求められやすいということが一つの原因だと思います。その心理の形成過程の中には、自分を安心させたいという気持ちや権威者に迎合したいという気持ちが間違いなくあると思います。そして、正義感情を共有しやすいため、怒りが表現されやすくなり、ひとたび怒りが共有されてしまうと、少数者に対する迫害が止められなくなるという危険が、怒りの性質から起きてしまいます。

特に日本においては、自然な感情からくる少数者への人権侵害が自覚されにくいことに注意するべきだと思います。誰が、人権侵害が行われていると気が付くべき人間かというと、それは人権を学んだ法律家を筆頭に挙げなければなりません。法律家までが、正義感情に任せて人権侵害に加担していたのでは、日本は人権侵害国家という野蛮な国になるでしょう。特に弁護士は、犯罪を行った人を弁護する唯一の資格者です。多数から非難される少数者を守ることが本来的な仕事です。弁護とはまさに人権擁護活動なのです。

現在の日本の人権課題として、正義感情からくる在日ロシア人に対する迫害、人権侵害を防止を大きく取り上げなければならないことは間違いないと思います。
日本の法律家や法律家団体は、ロシアに対する制裁決議などをあげている場合ではなく、迫害や差別を想定して、在日ロシア人や、旧ソ連の人たちの人権を擁護するために活動を開始することが使命だということが、私の考えなのです。

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パワハラについての誤解 3 パワハラ防止をするときに、厚生労働省の言うように「相手が平均労働者だったら苦痛だろうか」と考えることは、百害あって一利なしということ 防止を本気で考える企業はどう考えるべきか 「業務上必要かつ相当の範囲」についても無視することをお勧めする理由 [労務管理・労働環境]

厚生労働省のパワハラ解説で、パワハラの三要素なるものがあげられています。これが「結局何がパワハラなのか」ということをわかりにくくしている根本原因です。私が読んでもわからないだろうなと感じます。

特に三番目の要素である「労働者の就業環境が 害される」という要素の解説として、
1 当該言動により労働者が身体的又は精神的に苦痛を与えられ、労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じる等当該労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じること
2 この判断に当たっては、「平均的な労働者の感じ方」、すなわち、 同様の状況で当該言動を受けた場合に、社会一般の労働者が、就業する上で看過できない程度の支障が生じたと感じるような言動であるかどうかを基準とすることが適当
等と記載されています。

看過できないかどうかを判断しなくてはならないならば、なかなかパワハラだという認定はできなくなってしまうでしょう。また、それは、「社会一般の労働者が」看過できないと感じるような言動であるかどうかということになってしまうと、ますます直ちに判断することができなくなります。結局会社の中の判断者が、看過できないと言えばパワハラになり、一般的には看過できないとまでは言えないと考えるとパワハラにならなくなってしまいます。これでは基準としては役に立ちません。

このような厚生労働省の謎を深めてしまう表現は、労災認定の判断に引きずられてしまっているからなのです。労災認定がなされると、病院代や休業した分減額された賃金の補償、さらには障害補償や遺族年金など莫大な金額の保険給付をしなければなりません。また、精神的な疾患は、何が原因かよくわからないことがあります。そのため、もともと弱かった人に労災保険を払わないための行政基準として、国は、平均的労働者を基準にパワハラなどの過重労働があったかどうかを判断することにしているわけです。私はこの考え方は不正確だと思っていますが、今日は説明を割愛します。

労災認定とするかしないかの判断基準をパワハラ防止の解説にまで持ち込んでしまったということです。

しかし、パワハラ防止は、労災防止だけが目的ではありません。
・ 従業員のモチベーションをいたずらに壊さないで生産性を上げること
・ 従業員が萎縮したり反発したりして、自分の頭で考えることができなくなってしまうような事態を避けて生産性を上げること
という労務管理上、現代日本では不可欠な政策なのです。企業担当者としてはパワハラ上司に注意したくてもしにくいという実情もあるので、できるだけ法律があることをいいことにパワハラを失くしたいということが、客観的には切実な必要性です。

さらには、看過しがたいかどうか、一般的な労働者はどう考えるかという、解決不能な判断を企業担当者に与えてしまい、企業担当者が上司に甘く判断した結果、例えば従業員が精神疾患にかかって長期休業を余儀なくされた場合、企業が看過しがたいとは思わなかった、一般的な労働者はパワハラだと考えないと思ったと主張しても、裁判所が、企業の責任だと認定してしまったら取り返しのつかないことになってしまいます。

莫大な損害賠償を支払わなくてはならなくなったり、取引相手や国民からの信用が低下するだけでなく、気が付いたら他の従業員の優秀な人間だけいつの間にか退職していた、残ったのは自分の頭で考えずに、上司の指示待ちをして、「よけいなことをしない」要領の良い従業員だけだったということになってしまいかねません。

これらの企業の損害を防止することも大切ですが、従業員のモチベーションを高めて、自発的な労働をしてもらうことによって生産性を向上させるというプラスの目的からすると、
上司の行為によって
相手の従業員が、萎縮したり、反発したりをするような指導は
パワハラだとして、指導方法の改善を指導することが一番だと思います。

大体、上司が自分の部下の性格をわからないということは考えにくいわけです。こんなことを言ったらこういう反応をするだろうなということを知らないで指導はできません。どうしても従業員の個性を無視して一律に扱うというなら生産性を上げるという目的ではなく、自分が考えるのを面倒くさがっているという上司の利益の問題になってしまいます。
わざわざ平均労働者を持ち出すのは、企業の事情ではなく、国の事情なのでしょう。

国の基準がどうあれ、企業独自のパワハラ防止基準を定めて、より上の基準を求めるべきだと思います。どうして国は、このような観点に立って必要な方法でパワハラ防止を徹底しなかったというと、中小企業にも義務を課したため、確実に守るべき内容に限定したと、考えるべきです。

ついでに言うと、パワハラ3要素の2番目も問題があります。
2 業務上必要かつ相当な範囲を超えた言動 として
社会通念に照らし、当該言動が明らかに当該事業主の業務上必要性がない、又はその態様が相当でないもの
との記載があります。

 何が社会通念かもわかりにくいですし、業務上の必要性がない又はその態様が相当でないということもわかりにくいです。一般には、業務上の必要性のない言動をしませんからね。態様の相当性の問題で出てくる決まり文句は、「昔はもっと厳しかった」です。大体が自分がやられたように部下にやっているわけです。これでは、よほど異常な行動でなければパワハラにはなりません。それでも、裁判所では莫大な損害賠償を企業に命じることがありうるのです。

部下が萎縮したり、反発したりするような言動は、余裕のある企業であれば、それは、業務に必要がないし態様が相当ではないと判断するべきですし、就労環境を悪化させるとするべきだと思います。

だからと言って直ちに処分をするなど上司を切り捨てるのではなく、改善を指導するということなのです。それがまじめに企業の業績を上げる思考だと思うのですが、国はそうは考えていないことになります。やはり労災認定がトラウマになっているのでしょうか。

うちはそんなに余裕がないよ、パワハラでもその場の必要な指示をしてしまわないとならないよ。研修をしたり、労務管理の指導を受けたりする費用もないし。
という場合には、指導後のフォローをきちんとやるということです。
従業員に、きつくいって悪かったと、他の従業員の前で謝り、憎くて言っていたわけではなく、もしかしたらいい方がわからないのかもしれない。あなたの仕事ぶりは評価しているので、勘弁してほしいと告げることなのでしょう。

そんなことを言いたくないなら、今回の三部作をよく読んで、積極的な目的をもってパワハラ防止に取り組むしかありません。

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パワハラについての誤解2 物に当たることや乱暴に事務用品を扱うということがパワハラになるのか [労務管理・労働環境]


前回の記事が思った以上にお読みいただけましたので、調子に乗って続編を書いています。

前回のおさらいを述べますと、必ずしも部下に身体的な痛みを与えようとしなくても、その時の具体的状況からパワハラかどうかは検討するべきで、特に会社のパワハラを防止して生産を上げたいと思った場合は、部下が萎縮したり反発するような行為は会社としては辞めさせて、もっと効率の良い指導方法を指導しなくてはならないということでした。だから、同じ力で肩をたたいても、パワハラになる場合もあるし、ならない場合もあるということを言いました。

その一番肝心な部分をご理解されたか否かということで、今回は冒頭に事例問題を提示しましょう。

<例題>
部下が仕事で初歩的なミスをしました。上司は、そのことに気が付いたとたん、愚痴も部下批判も言葉ではせずに、眉間にしわを寄せて不機嫌な表情をして、重量が5kgある穴あけパンチをぞんざいに扱って資料に穴をあけ、その後音が出るほど乱暴に失敗した部下の机の隣の机の上に置きました。

上司の行為はパワハラに該当するとして、会社としては改善を促してよいでしょうか。

<問題の所在>
厚生労働省の典型例の説明では、身体的な暴力に該当する例として
① 殴打、足蹴りを行う ② 相手に物を投げつける、
を上げています。
該当しない例として
① 誤ってぶつかる、を上げています。
例題のケースでは、典型例としての身体的暴力には該当しないようです。

もし、穴あけパンチを使う目的もないのに机から取り上げて、意図的に床に投げつければ、これは明らかな威嚇行為であり、「間接暴力」として、会社としては理屈抜きにやめさせるべきだと思います。

では、穴あけパンチで書類に穴をあけてファイリングするという用事はあったことはあったけれど、乱暴に扱ったために穴あけパンチを机に戻すときに比較的大きな音が出たという場合はどうでしょう。

これは、「暴行」だと認定することはなかなか難しいことです。間接暴力に該当するかどうかも難しいと思います。

それでも、パワハラに該当する可能性のある行為です。少なくとも、このような事情を会社が把握したならば、是正を指導するべきです。
むしろ、これまでパワハラ防止義務が企業に課されていなかった時代は、企業としては、このような乱暴な上司従業員に対して、なかなか指導をすることができなかった、二の足を踏む状態だったようです。しかし、今後は防止義務が課させられたので、「こういうことは防止するように国から言われている」という言い方で指導をすることができるようになったと思うべきでしょう。

乱暴な上司従業員と会社の総務など担当者の想定問答
担当者「大きな穴あけパンチを○○さんの隣の机に勢いよく置いたということですが、これは○○さんやほかの従業員が委縮してしまうので、パワハラになってしまう可能性があるので、ご注意ください。」
乱暴上司「え、パワハラですか。私は暴行をふるったわけではないですし、脅かそうと思ったわけではありませんよ。多少ガサツなところはあったかもしれませんが。」
担当者「それはわかっています。でもどうやら、パワハラって、部下が萎縮したり反発したりするような行為をいうようなのですよ。そうはいっても、あなたを処分するとかという話ではありませんから、心配しないでください。あくまでも、大きな音がするように重量のあるものを机に置かないで下さいという業務指示なんです。こういう業務指示をしないと、こちらも注意を受けてしまうので、ご理解ください。」

別バージョン
乱暴上司「私はそんなに勢いよく置いたかなあ。どのくらいが『勢いよく』ということなんだ。」
担当者「やっぱり、相手が萎縮するような置き方がだめだということなのです。処分をするわけではないのであなたの方で『勢いよく』ではないとおっしゃるならば、本当にそうなのだと思います。見ていた人が委縮したと言っているようなので、くれぐれも相手を委縮させるような行動にお気を付けください。」
乱暴上司「見ていたというのは誰なんですか。」
担当者「それは言ってはダメなことになっているようなので、ご不快の段は申し訳ありません。くれもぐれもあなたの行為を認定しているわけではなく、今後委縮されそうなことは避けてください。ということでご理解お願いいたします。」

こんな感じでしょうかね。会社の担当の方が、法律が変わったことを良いことに、今まで言えなかったことを、「言わざるを得ない。」という言い訳をしながら言うようにするということでよいのだと思います。責任は上手に国に押し付けてください。ただ、最終的には経営トップが、断固パワハラを失くして従業員のモチベーションを下げることをしないということが一番大切です。

だから厚生労働省の典型的な6類型
1 身体的攻撃(暴行、傷害)
2 精神的攻撃(脅迫・名誉棄損・侮辱・ひどい暴言)
3 人間関係からの切り離し(隔離・仲間外し・無視)
4 過大な要求 (業務上明らかに不要なことや遂行不可能なことの強制・仕事 の妨害)
5 過小な要求 (業務上の合理性なく能力や経験とかけ離れた程度の低い仕事を命じることや仕事を与えないこと)
6 個の侵害 (私的なことに過度に立ち入ること)

このどれに当たるかということを吟味する必要はないのです。あえて言えば穴あけパンチの件は、2の精神的攻撃に該当するのですが、解説の脅迫にも、名誉棄損にも、侮辱にも当たらないと思います。ただ、あえて言えば、侮辱が一番近いということになると思います。乱暴な上司が、失敗した部下を、その人の席の近くで大きな物音を出しても構わない人間だということを同僚の前で表明したということですから。

しかし、そのような分類をしようとすると、かえってわからなくなったり、パワハラであると言えずに、改善のチャンスを逃してしまうことになります。これは、会社にとって回復しがたい損失になる可能性があるわけです。

 「同じことを取引先に対してやれるのか」という基準もよいかもしれませんね。取引先の担当者の発言に腹が立ったら、重量物をその担当者の近くの床に乱暴に置くようなことをその上司はするのかということですよね。

かえって自分のところの従業員は、今後末永く会社のためにパフォーマンスを発揮してもらわなくてはならないのですから、取引先よりも大事に扱わなければならないと考えることはおかしなことではないと思います。


* 今回の記事は前回の記事と合わせてお読みいただいた方がよろしいと思われます。

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パワハラの誤解1 暴力がなぜパワハラとなるのかを理解しないと、「どの程度の暴力ならば許されるか」等という馬鹿な議論が始まる。パワハラはどうしてしてはいけないのかという基本を考える。 [労務管理・労働環境]


パワハラ防止義務が、今年から中小企業にも課せられました。何を防止すればよいのか、実際のところよくわからないという人もいらっしゃいます。実はこういう方は本気でパワハラを防止しようとしている人です。厚生労働省のチラシを見て、うちは大丈夫などと思っている会社こそ注意をする必要があります。私が読んでも厚生労働省のチラシは、最低限度のことしか書いてなくて、実際企業として何に目を光らせればよいか、イマイチよくわからないと感じることが正解だと思うからです。

こういう場合、考える順番として、なぜパワハラを防止しなければならないのかということから考えることが効率の良い考え方です。

この場合、国の思惑と企業の思惑は別のところにあります。しかし、結局はやることは一緒になるので、両方考えてみましょう。

1 労働者の精神的健康 
国の思惑は、働き方改革の一環として、労働者の働く環境を整えるということが第一です。しかし、昨今、パワハラなどによるうつ病の増加が、労災補償の財政を圧迫しており、財政的観点からもパワハラによる精神損害の被害を防止することが求められているのです。それができれば十分だというわけにはいきませんが、労働者の健康、特に精神的な健康を害さないためにパワーハラスメント防止するということは基本的な視点です。

特に自死や長期休業に至るようなパワハラは絶対に起こしてはなりません。
このような観点からは、労働者の立場でパワハラ問題を取り組む人間から、企業は話を聞くべきです。会社にとって厳しい考え方を知ることは、実際に事件が起きて裁判になる場合という現実を想定することができますし、そのためには事件を起こさないことが肝心だということをはっきりと認識することができます。
但し、あまり極端な考え方を持つ人の話は参考になりません。

2 会社の利益を害すること

1)パワハラが起きて広く知られてしまうと、会社にとっては大きなダメージとなります。
・ 莫大な損害賠償の出費
・ 労基署の関心を集めてしまう
・ 報道をされることによる企業イメージの低下、株価や売り上げの低下
・ 従業員のモチベーションが下がる
この辺りまではよく言われていることです。

2)パワハラが公にならなくても企業損害は想定されます。
・ 理不尽な叱責(理由がない叱責、一方的な評価、人格を否定する表現等)は、それをされた従業員だけでなく、それを聞いている従業員にとっても、会社に対する帰属意識がなくなります。「自分が所属する会社のために頑張ろう」という人間として当たり前の感情が消えてなくなってしまいます。
・ 特に理不尽な叱責がなされると、従業員は防御の姿勢に入ってしまいます。「私が悪いわけではない。」等という言い訳を考えることに気が向いてしまって、自分がどう改善すればよいのかということを考えようとしなくなるということが起きてしまいます。このため、何度同じことを言っても改善がなされないということが起きてしまいます。
・ 頑張っても報われないということを知らされてしまうと、頑張ることが馬鹿らしくなります。表面を取り繕うこと、つじつまを合わせることだけを習熟していきます。
・ 自分の頭で考えて行動することによって叱責をされてしまうと、叱責されないように言われたことだけをするようになってしまいます。叱責されないということが会社での最大の目標になってしまいます。

3)なぜ、従業員が傷つくかを考えましょう
人間は、会社をはじめとして群れの中に所属すると、無意識に、無自覚に、会社の秩序を維持するための貢献しようという気持ちになってしまいます。この秩序は、社訓などで張り出されるものではなく、上司が作り出す秩序に参加しようという意識が生まれるということです。
 もっと簡単に言うと、上司から自分の労苦をねぎらってもらいたいし、自分の努力を評価してほしいという意識を持っているのです。最低限、公平に扱ってくれるだろう、仲間の人間として尊重してくれるだろうと期待をするわけです。
 ここでパワハラを受けるということは、最も正当な評価を受けたい人から不当評価を受けて、仲間として扱わないというメッセージを受けることですから、カウンター攻撃を受け、大きな精神的ダメージを受けてしまいます。
 つまり、素朴な人間、会社としての秩序作りに無意識に貢献しようとしているまじめな人間ほどパワハラで傷つくということは大切な事実です。

また、パワハラを受けて精神疾患になったり自死したりする人たちは、そんな無理筋の上司の指示にもきちんと対応しようと思ってしまうまじめな人間たちですし、決められたことはやらなければならないという責任感の強い人たちであり、頑張れば何とか出来てしまう人たちなのです。そうでなければ、悩んだりしないと思いませんか。私ならできない業務指示を受けたら、適当にやってみてできませんでしたと悪びれないで報告するだけでしょう。

パワハラは、形式的な目標を達成するために、無理を命令し、できないと叱責するということが典型的形態です。上からの目標設定を遂行しようとして無理を部下に押し付けるという具合に起きることが多いです。

そういうパワハラで会社から離れていく人間は、まじめで、責任感があって、能力がある誠実な人間ばかりなのです。
企業秩序なんて興味が無いという人間は、言われたことをやらなければならないとも思いませんので、パワハラを受けても受け流すことができてしまいます。いつ辞めてもよいやという考えがあるからパワハラなんてそれほど気にならないのです。そういう人間だけが会社に残るというのがパワハラです。

私は、会社にとって大変恐ろしいことだと思います。

3 暴力はなぜいけないのか。問題提起。

暴力はなぜいけないのか。
この問いに対してどうお答えになるでしょう。
「ダメなものはダメ」
「暴力はいけないことだということに理屈はいらない。」

私はそれも正解だと思っています。

それではどこからがやってはいけない暴力なのでしょうか。

注意しながら、少し強めに肩をもむ行為はどうでしょうか。
自分の片手で真正面から相手の肩を押す行為はどうでしょうか。
袖口を引っ張る行為はどうでしょうか。

励ますにしてはやや乱暴に背中をたたく行為はどうでしょうか。

それらの行為が、叱責することに伴って行われる場合と
部下が手柄を立てたときに賛辞を述べるときに行ったので変わるでしょうか。

4 パワハラになる基準の考え方

なぜ、パワハラを防止する必要があるか。
労働者の健康を害さないため
会社に損害を与えないため
ということから考えていけばよいです。

それをされた労働者が、反射的に防御反応に入り、萎縮したり反発したりすれば、様々な損害が企業や労働者に生じてしまいます。
それは、本能的に従いたいと思っている上司からカウンターを受けるからでした。

そうだとすれば、それをされた労働者にとって、その行為によって自分が仲間として尊重されていないと感じる行為をパワハラとしてさせないようにするべきなのです。

肝心なことは上司が、悪意がなかったとか、攻撃的な気持ちがなかったとか、不当な評価をしたつもりはなかったとか、そういう上司の気持ちはどうでもよいということです。あくまでも相手がどう思うかということです。

次に、労働者は強い、弱い、感じやすい、感じにくいなど様々な性格をしています。誰を基準として、仲間扱いをしていないと感じるかを判断するべきかということです。落とし穴は厚生労働省のチラシにありました。「平均的労働者を基準とする。」ということを言っています。私はこれはどうかと思うのです。

平均的労働者という労働者はいませんから、結局は判断する人の主観に最終的にはゆだねることになります。例えば労災や損害賠償で、裁判所が「平均的労働者ならばそこまで傷つかないはずだから、パワハラではない。」と言ってくれれば会社としてはよいのでしょうか。しかし、そういってくれるかどうかなんて、「平均的労働者がどう考えるか」ということを考えるのと同じでふたを開けてみないとわからないことです。

そもそも、会社の中でパワハラを防止するための考えです。上司が部下の性格をわからないで叱責していたなんて言い訳にならないじゃないですか。そんなことをわからないで上司は務まらないわけです。こういう当たり前の現実を、どうも厚生労働省はよくご存じではないようです。

病的な悲観的考えを持つ場合や、被害意識で仕事ができない場合を除いて、その言われた人がどう思うかということを基準に考えるべきだと私は思います。
仮に国の言う通り平均的労働者を基準にするとするならば、上司の叱責の後で、平均的に考えることができる労働者の一人が、必ずフォローをする仕組みを作っておくべきです。言われている本人は、自分を正当に評価してほしい、仲間として尊重してほしいと思っている当人からのカウンター攻撃を受けていますから、言葉を客観的に評価できる状態にはありません。だから第三者のフォローがどうしても必要なのです。

会社にとって必要な人材が流出したり、コストパフォーマンスを発揮できなくなることを防ぐためにという観点から、具体的に考えるべきです。間違っても、「平均的労働者」をパワハラ上司に都合よく考えて、このくらいならまだ「平均的労働者」ならば精神的ダメージがないはずだという風に使ってはなりません。
それでは、企業にとってパワハラ防止の意味が半減するからです。

5 3の答え合わせ

3の答え合わせは、上司ならば、具体的な部下が、それをされたことでどう思うか厳しく考えてみて答えを出さなければなりません。叱責をしながら行うことはほとんどが、相手は侮辱された行為だと思うでしょう。同性であろうと異性であろうと、相手の体に触れるということ自体が行うべきことではないということです。
賛辞の際にこそ、自分と相手との関係にふさわしい行動を心掛けるべきかもしれません。賛辞だからと言って、相手が不快に思うことをしてしまったのでは、部下は報酬体験を十分に体験することができません。また、もう一度という気持ちになることが弱くなるということを考えるべきです。

但し、パワハラであれば処分するという硬直な扱いも企業の実情には合わないように感じています。特に上司が善意である場合は、粘り強く部下の心情を説明する場面も出てくるでしょう。会社が処分するよりも、上司が部下と和解をする方が双方にとってもよい場合があります。会社としては、硬直な姿勢を取らずに、双方とよく話し合って、自分が尊重されているということを実感を持てる職場にするということが、パワハラ防止義務の根幹であると私は思います。

暴力は、それをされることによって、精神的打撃が大きいということに注目しなければなりません。自分の健康や痛みのない状態を尊重されないということは、自分という存在はそのようなことを尊重されなくてもよい存在だ、価値の低い存在だ、いつ追放されてもおかしくない存在だという強烈なメッセージになります。同僚の前の暴力は、それを第三者に表明されてしまうことですから、顔をつぶされてしまいます。もはや対等の立場で同僚と接することができないという絶望感を抱かせてしまいます。

仲間にとって価値の軽い人間だという態度表明が暴力ですから、暴力の重さとか場面にかかわらず、深刻な精神的ダメージを与える行為。だから絶対に行ってはならないということが正解だと思います。

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どうか後悔を数えずに、故人との楽しかった時間を思い出していただきたい。それがご供養だと思います。何通かの自死者の遺書を読んで感じたこと。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


お身内が亡くなることはとても悲しいことです。その死が、病死であろうと事故死であろうと自死であろうと、遺族は自分が故人のためにもっと何かできたのではないかという気持ちを抱き、自責の念に駆られることが多いということは、身内を失くした人であれば誰しも知っていることだと思います。

この自責の念は、自死の場合は特に強くなるようです。
すでに自死の危険が高まった後で、自死を防ぐということは、本当はとても難しいことです。そして自死の危険が高まる原因や予防もやはり難しいことが多くあります。

それでも世間は、誰かが止めれば自死は簡単に防ぐことができるのではないかと誤解をしているのかもしれません。

また、国家政策としての自死予防が盛んだったころ、「自死の直前にはサインが必ずある。サインを見逃さなければ自死を防ぐことができる。」という理論が、貧弱な自死のサインのサンプルと一緒にまことしやかに流されたことにより、自死は家族が注意すれば防ぐことができるのではないかという誤解が蔓延したという事情もあると思います。

自死や自死未遂の現状を知れば知るほど、自死を防ごうと思ったら、それこそ24時間、365日態勢で気を付けなければならないということになると感じます。それは現実的には間違いなく無理です。

もちろん、無理なことはわかっていても、手を尽くしたことをわかっていても、遺族は自責の念に駆られてしまうのであって、自責の念を抱くなと言っても無理なことでしょう。

それでも、故人としては、できれば自分が死んだことで身内が後悔をしないでほしい、自責の念に苦しまないでほしいという希望があるようです。

自死の事件では、いくつかの事例で、死の直前に遺書を作成される方が多くいらっしゃいます。かなり冷静に淡々と遺書をしたためられているケースも多いように感じます。

自死に当たって、誰かを攻撃する内容の遺書の場合もありますが、圧倒的多数の遺書は家族に対する思いやりが記載されています。また、家族を攻撃する遺書というのも私は見たことはありません。

遺書の文面で多いのは、ご家族に対する謝罪です。お子さんの学校での様子や仕事の様子などについて、よくここまで知っているなあと思うほどよくわかっていて、次の目標の場面に立ち会えない、応援できないことをお詫びしています。自分が自死することで生活が苦しくなることや世間的に肩身の狭い思いをすることも謝罪していることが多いです。

配偶者に対しては、複雑な表現がある場合もありますが、その場合でもむしろ第三者が読めば、愛情にあふれながら、相手に対する尊敬と自分のふがいなさに対してお詫びが記載されているということがよくわかる内容になっています。

故人は、自分がこれから行うことについて、家族がどれだけ苦しむかをわかっており、それでも死ぬことを止められず、謝罪の言葉を残すことが精いっぱいであることがよくわかります。理屈では割り切れないかもしれませんが、自死とはそういうものなのだと考えなければならないと思います。合理的な思考ができるような精神状態ではないということは間違いないと思います。

そういう気持ちを持った自死者にとって、自分の死について少なくとも家族にだけは責任を感じてほしくないということが本音なのだと思います。遺書を拝読する限り、唯一の心残りと言ってもよいのかもしれません。

私の拝読したいくつもの遺書の内容からすれば、自死を余儀なくされるまで追い詰められた人間がこれから命を失うというその時であっても、家族との楽しかった出来事の思い出や、子ども成長、あるいは不安を忘れることができた家族とのひと時というものは、何物にも代えられない貴重な思い出で、かけがえのない財産なのだと思います。その中でも、自分と一緒にいる家族が楽しんでいたり、喜んでいたり、あるいは安心していたり、自分を頼ってくれたりしたその時の表情に、自分が生きてきた意味を感じて、慰められていたことになります。

(そういう人間としての充実した出来事の記憶すらも、自死を止めることができない。それほど自死を防ぐことが難しいということなのだと思います。)

だから、故人が生前に楽しそうにしていたこと、喜ばれていたことを思い出すだけでなく、故人と一緒にいたときにご家族自身が楽しかった出来事、喜んだ場面、安心した記憶を思い出すことが、故人にとっての何よりの供養になるのではないかと考える次第です。

これは、自死の場合だけでなく、故人をしのぶ場合に共通のご供養の在り方なのかもしれません。



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自衛隊を憲法に明記する以上に自衛官の労苦に報いるために必要なことは自衛官の生活の保障だと思う [労災事件]



私にご依頼いただく方々の中で、自衛官の方、元自衛官の方、自衛官のご家族という人たちが割合としてかなり高いのです。自衛官のご遺族の代理人として国と裁判をやったということも一度ではありません。本当はいろいろな観点から自衛隊ということは論議しなくてはならないと思うのですが、「中途半端な身内意識」から議論をさせていただきたいと思います。

自民党の憲法改正の4つのポイントの第1に自衛隊の憲法への記載というものがあります。自衛官の労苦に報いるためだそうです。そういう目的であれば反対もできないかと思うのですが、「なんか違うのでないだろうか」という気持ちがあるのです。

まず、自衛隊が違憲だなどと主張する国民がどれくらいいるのかということです。おそらく圧倒的多数の国民は違憲だなどと思っていないのではないでしょうか。共産党ですら、「他国が攻め込んできたなら自衛隊とともに戦う。」ということを昔から言っているのだそうです。

本当に違憲だというならば、国家意思のもとに活用することはできません。例えば、刑事訴訟法上は保釈制度が定められています。保釈制度は違憲だというのならば保釈制度を直ちに廃止しろという主張になるはずです。「違憲=憲法違反」という評価は重みのある評価です。「違憲だけれど活用しよう」などという主張は法律論としては成り立たないことです。

つまり保守も革新も自衛隊は、「本当は自衛隊は違憲ではない。」ということで認識は共通しているのだから、いまさら憲法改正をしてまで憲法に明記することは必要がないと考えてしまうのです。「もしかすると、自民党が自衛隊は法的には違憲の疑いがあると考えているのかもしれません。」

また、自衛官に報いるという目的は尊いのですが、自衛官のご努力に報いるならば、もっと実のある報い方を行うべきです。

一つは、自衛官の賃金が安すぎるということです。国防ということで24時間体制で働いている割には、それに見合う給料になっていると言えるのか国民的な議論が必要でしょう。寝ずの番をしたり、深夜の演習や早朝の起床など、過酷な勤務状況です。国を守るという善意でもって働いていただいているということが実情ではないでしょうか。労働に見合う報酬を支払うことこそ、労苦に報いることのど真ん中だと私は思います。
しかしながら現在は、人事院勧告を反映して、賃金が年々減額されているようです。

二つは、定年が早すぎる割には、定年後の仕事に恵まれていないことです。自衛官は階級にはよるのでしょうけれど、大体が55歳定年です。私ならとっくに定年を迎えています。多くの国民は、自衛官は定年後にいろいろな職業が待っていると誤解していると思います。私は自衛官の遺族の代理人として公務災害の裁判を国相手に行ったのですが、被告であった日本という国家は、自衛官の定年後の収入統計を証拠で出してきて、自衛官の定年後は年齢別の平均的賃金を大きく下回ると主張してきました。国の主張立証によれば、定年後の収入は低く、それに対して対応がなされていないということでした。確かに共済制度は評価されるべきですが、働いて収入を得たいという気持ちをもっと尊重するべきではないでしょうか。

三つ目は、災害補償が辛すぎるということがあります。上で述べた公務災害は、再審査請求が長期間防衛相で放置されて、村井知事さんに防衛省まで行っていただいてようやく動き出したのですが公務災害ではないと認定されました。仙台地方裁判所でも理解不能な理屈で棄却され、ようやく仙台高等裁判所で公務災害であると認定されました。月間100時間残業の証拠を自衛隊で提出していながらのことなのでどうして不認定や棄却になったのか、法律論では説明ができません。被災から認定までに9年以上がかかりました。
このように労災補償がなかなか認められないという問題があります。外国に派兵された自衛官の自死がやたらと多いということが随分前に指摘されていましたが、これは公務災害だと認定され、遺族は正当な補償を受けたのでしょうか。

こういう実のあるところで、まさに労苦に報いるべきです。こういう肝心なところで報いていないのではないかという憤りが私にはあります。こんな私としては、憲法に自衛隊を明記しからといって、「それで報いになったと思わないでほしい。」という激しい感情があるわけです。そんな金のかからない対策ではなく、生身の人間が自衛官になることを躊躇しないような当たり前の報酬を出してから言ってほしいとそう思うわけです。

専門的な話をもう一つだけします。
それはメンタル問題です。自衛隊の中には、残念なことながらいじめがあることが報道されます。学校以外のいじめの判例を作ってきたのは自衛隊であるというくらい多くの事件があります。いじめがあるということは、それだけではなく、日常的にいたわりあうという風潮がないということなのです。

風潮がないと言うと語弊があるかもしれません。意識的に風潮を作らない限り、いじめが起きやすい職場環境だということが正確だと思います。

いじめがあったからと言って、いじめた自衛官が特殊だったとばかり考えたのであればいじめはなくなりませんし、実際続いているわけです。私は、過酷な労働環境や、平時であっても一人の怠慢が部隊全体や国民の命に直結するという高度な緊張感を維持し続けなければならないという職場環境に原因を求めなければ、対策が立てられないと思っています。もちろん様々な研究がなされているようですが、この研究を強力に推進する必要があると思っています。

日露戦争の際には、自衛隊ではなく帝国陸軍ですが、八甲田山で対策も立てないで行軍を行った結果、多くの犠牲者が出てしまいました。根性と愛国心だけでは国防はできないのです。メンタルの問題に焦点を合わせると、いじめの報道をみるにつけ、まさに八甲田山の行軍演習のような非科学的な労務管理がなされているのではないかという心配が大きくなります。

どのような事情が他人に対する尊重する気持ちや配慮する気持ちを奪うのか、どうすればそれが解消されるのかについて、予算をつぎ込んで研究を急ぐべきです。

憲法に自衛隊を明記することで、これらの予算が進むのでしょうか。それならば意味がなくもないのかもしれませんが、ハード面ばかりが注目されてそこにばかり予算がついている現状をみると、あまり明るい気持ちにはなれないのです。

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事後的な緊急事態条項よりも、事前の備えの充実こそ、防災、減災、早期復興に必要なことだと思う。 緊急事態条項を目的とした憲法改正に対する疑問(不理解)の由来 [災害等]

自民党が憲法改正案の4つのポイントを発表しています。憲法改正に限らず国家政策は、必ずメリットがあればデメリットもあります。デメリットを指摘することは必ずしも政策に対する反対を意味するわけではなく、デメリットを少なくしてメリットを拡大させてほしいという期待の表れでもあるわけです。

その4項目の中でも緊急事態条項を理由に憲法改正をするということについて、今回は述べてみたいと思います。断っておきますが、私は、緊急事態宣言が、災害時の混乱を良いことに全体主義国家的な強権を握り国民を支配するという火事場泥棒的な目的があるとは考えておりません。自然災害は必ず復興します。復興後、全体主義的な活動は猛烈に批判されて、政治的には致命的な影響が出るので、そんなことはしないと思うからです。

また、他国の侵攻の危険を理由に有事だからといって全体主義国家的な政策をしても同様だと思います。

私が、緊急事態法の必要性をよく理解できていないということなんだろうと思います。それならばもっと勉強すればよいではないかとおっしゃるでしょうけれど、どうも勉強する気になれないということが本音です。

東日本大震災を経験して、あの混乱のさなか、国会が開かれたからと言って、あるいは内閣に強い権限が与えられたからと言って、何か良いことがあるのかイメージが付かないからです。あのときは、今はなき民主党内閣でした。国会も少しして開かれたと思います。法案を提出しても野党の何でも反対ばかりで、被災地の役に立たなかったという記憶があります。あの時民主党内閣の権限が強くして、自民党の反対を無効にすれば何か良いことがあったのでしょうか。やはりイメージがわいてきません。

大震災の経験からは、事後的な対応を準備するよりも、事前の準備を充実させることが防災や減災にとって不可欠だということが実感です。

まず、危険な場所に近づかないということが原則でしょうね。できれば危険を減少させるようなハード面対策が立てられれば有効でしょう。ソフト面とすれば避難経路の確立と、練習が有効です。どのような被害の場合、どのような対応を取るかというシミュレーションを確立していなければなりません。その場になってから考えたのでは、精神的に動揺してデメリットの多い行動をとってしまうものです。このことを東日本大震災から学ばなければなりません。事後的に損害賠償の責任を負った誰かの責任とばかりは言えないのです。

そして避難所の確保です。低体温症の防止という対策は各地で確立したのでしょうか。必要な物資の輸送ルートや輸送体制も必要です。交通網は道路も含めて遮断される可能性がありますから、上空からの輸送の充実が不可欠だと思います。

また、震災の規模が大きくなるほど避難所や仮設住宅の使用日数が増えるわけですから、プライバシーの確保や安心感の確保についてどのような準備が現在進んでいるのでしょうか。

震災後の就労の問題も現実的な問題です。被災者任せではなく、きちんと対策を立てることこそ必要な政策ではないでしょうか。

まだまだメンタルの問題など重要な対策が未整備ではないかと心配しているところです。

私の立場からは言わなければならないことがあります。それは震災対応をする公務員に十分な手当てをしなくてはならないということです。

国家公務員法、地方公務員法では、自然災害などの緊急事態には、避難誘導などの仕事が公務員の法的義務とされています。

今回も津波が来る沿岸部へ、公務員が避難誘導の仕事で車で行くことが命じられました。今にして思えば「死にに行け」ということに等しい任務ですが、当時は津波の規模を実感としてイメージすることができなかったのかもしれません。仙台市でも少なくとも2名の職員が津波の犠牲になりました。

死の危険のある公務の場合の災害には公務災害補償の一部が1.5倍になる法律があるのですが、地方公務員災害補償基金仙台市支部長、同仙台市支部審査会は、2名の公務員の死を特殊公務災害とは認めませんでした。

理由は、「当該公務員が善意でやったことだから」、「被災で亡くなったどうか目撃者がいないのでわからないから」というものでした。
詳細は
特殊公務災害 地方公務員災害補償基金審査会で、逆転認定の解説:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp)
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2014-06-13

各地で同様の理由で特殊公務災害が当初は認められませんでした。南三陸町の防災庁舎で町民に避難誘導を呼び掛けていたために逃げ遅れた職員の方々にも同じように認めませんでした。理由は、どの支部でもコピペで記載されていました。各公務員が善意でやったことだから危険任務に従事したとは言えないという屁理屈でした。

これは、国会でも取り上げられ、内閣を動かし、ようやく改善されましたが、公務員に対する扱いは、公的にもこんなものでした。こんな扱いならば、命の危険のある仕事は拒否をした方が良いということになるでしょう。

最後はその政党の議員さんに大変お世話になったのですが、それ以前にはその政党の地方議員からは妨害活動をされ、私の意見書に難癖をつけられてあやうく手続きがとん挫するところでした。遺族のあきらめない気持ちに支えられ、ようやく不合理を改善できました。

ある町の公務員が、避難所の運営で文字通り血を吐く不眠不休の活動をされていましたが、元々身体が弱かったということで公務災害自体が認められないこともありましたが、これは支部審査会で逆転し、公務災害であるとであると認定されました。この事件では川人博先生の弁護団チームに参加させていただき、私もいくばくかの貢献ができたのではないかと思っています。

さらには、避難所での地方公務員の活動は、自分の家が被災しているにもかかわらず行わなければならないことでした。不安の持って行き場のない住民の容赦ない攻撃にも無防備にさらされ続けました。うつ病を発症し、離婚に追い込まれた公務員もいました。

それにもかかわらず、残業代が支払われない自治体もあり、働いた報酬を不当に払われない公務員が続出しました。事前に、働けなくなった被災者の対策を確立していなかったことで、現場で献身的に働いた公務員につけが回った格好になっています。

震災直後は、法律や権力はあまり役に立たなかったということが実感です。一般公務員や自衛官、消防署職員、警察官の献身的な活動、あるいは一般国民の善意の活動こそが具体的な力になりました。

緊急事態条項が必要かどうかを検討する以前に、このような東日本大震災の教訓を生かした事前の準備をきちんと充実したものになっているという実感がわかない限り、事後的な緊急事態条項の必要性を検討しようというモチベーションがわかないということが正直なところです。

以上の次第で、事後的な震災対策のための抽象的な緊急事態条項のための憲法改正に賛成しようとは思えないということです。

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