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強固な組織、強烈な支援者に囲まれている人が、腐敗したり、組織外の人たちに対して容赦のない攻撃をする理由 インターネットを使って人を追い込む構図と追い込まれる構図 [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 現代社会は強い組織を作る必要があるけれど

現代社会は圧倒的な量の人間が存在します。何かの目的をもって活動するためには、団体を組織して活動する必要が出てきます。例えば経済活動を優位に進めるためには会社を作るわけですし、政治的主張を国政に反映するためには政党をつくるわけです。組織体ですから人間が多くいるわけですが、構成員それぞれが勝手なことをすると力になりません。組織が一つの生き物のように一つの意思をもって行動してこそ組織を作る意味があります。

だけど、大きな組織を作ればよいというものでもなければ、強い結束で一糸乱れぬ思想や行動をすることが必ずしも良いことばかりではありません。むしろ弊害が生じる原因にもなるわけです。かえって組織がだめになり組織を作った目的が遠くなったり、消滅したりすることがあります。組織はこのデメリットを作らないようにしながら、本来の目的に向かう必要があります。

2 強い組織が持つデメリットがある

(腐敗の生じる内在的危険がある)強い組織には、不正経理や汚職等の不祥事が起きる要因が宿命的に存在するという自覚をする必要があります。この点一般には、誤解されています。例えば企業の不正経理の場合は、ワンマン経営者とイエスマンの幹部たちという特殊な人間関係がたまたま存在したために、そのような不祥事が起きたと解釈されがちです。しかし、実際は、メンバーの個性にかかわらず組織には起こりやすい事象です。

(排他的活動をして孤立する危険がある)強い組織は、排他的な方向で働きやすいという問題もあります。国会論戦を見てもわかるように、論点について話し合ってよりよい結論を出そうと協力することは見られず、賛成か反対という二者択一的な行動が起こりやすくなります。

(他者を過度に攻撃する危険がある)また、自分と意見の違う相手に対しては組織に対しての攻撃だととらえる傾向が出てきてしまうようです。そしてひとたび敵だと認識した組織外の人間に対しては、相手の人格を否定するような容赦のない攻撃をしてしまうようです。

これ等のデメリットが表れてしまうと、組織外の一般人からは否定的に受け止められてしまいます。一般の人たちの怒りや反発の対象になったり、恐れて近づかないようにする対象になることで、一般の人たちがどこかの組織を選ばなければならないならば別の組織を選ぼうという意識になってしまいます。つまり組織化をする目的を大きく害する結果になってしまうわけです。

どうしてこのようなデメリットが生じるのかについて考えてみましょう。

3 統一的な組織、強い結束力とは何か

まず、組織が統一的に動くとか、結束力が強いというものはどういう状態なのでしょうか。

(形式的行動規制組織との違い)ここで似たような状態がみられるものとして、マニュアルが整備されてみんなマニュアル通り動いている場合や、規約がどこかの中学校の校則のように事細かに記載されて、それに反する行動をとられたらこまめに処分されるような組織があります。これらの決め事は、ある程度は必要な要素なのかもしれません。しかし、このようないわば心の外で決まりがあり、それを義務的に守ろうとする組織は統一的行動ができるとか、結束力が強いという状態の組織とは違うと思います。このような組織は結果を残す前に成長をしない危険が強いと思います。
その理由の例を少し上げると、外食チェーン店を見ればわかると思いますが、マニュアルは臨機応変の対応が求められる事態にはうまく対処できません。
またマニュアルや規則さえ守っていればよいやと言う発想になると、言われたことしかしないという発想になってしまい、強い組織にはなりようがありません。

強い組織は、個々のメンバーのモチベーションが高く、組織のために自発的に行動をしようという意欲がある組織でなければならないはずです。個々が強いモチベーションを持つこと、この方向が統一されているところが、強い組織という中身です。

4 モチベーションの統一がなされるということはどういうことか

その組織によって求められるモチベーションは異なります。ごく単純に言うと、会社であれば利潤を大きくしようとか、公益法人であれば社会貢献をしようとか、より多くの弱者を保護しようとかということになるでしょう。

その組織の目的とメンバー個人のモチベーションが合致していると確信すると、メンバー個人はさらにモチベーションを上げ、行動的になるわけです。
このため経営学・労務管理では、従業員のモチベーションが研究テーマになるわけです。実際この理論を実践に活かして、活動されているコンサルタントの先生がいらっしゃいます。全国的に飛び回り、実際の成果を収めている企業体を私も目撃しています。

ところが、メンバーの少数だけのモチベーションが上がっても、全体としてはそれほどではないという場合は強い組織ではありませんね。一人だけ空回りをしているという現象はよく見るところです。

大事なことは構成員の多くが同じモチベーション、あるいは同じようなテンションをもって組織の目的を自分の目的として認識して行動する状態が作られなければなりません。

つまり、その組織の目的を達成しようという雰囲気が必要です。言葉を変えて言えば、目的に向かうという組織全体の秩序が形成されていることが必要なのです。

5 秩序はどのようにして作られるのか

秩序は、進化の過程で群れを作って生き延びてきた人類が本能的に求める状態です。言葉のない時代でも群れを作ることができた理由は、現代的表現で言えば、群れの個人個人が、秩序を乱さないようにしよう、秩序の形成に貢献しようという本能的な気持ちがあったことがその一つだと思っています。

ところで言葉のない時代に、人類の先輩たちは、何を秩序だと理解して従おうとしたのでしょうか。私は、群れの仲間の一人を権威者として認めてその他の仲間がその一人に積極的に従おうとしたと考えると無理が無いと思います。その秩序の的になった一人も、いつもどこでも権威であったというわけではないと思います。狩りをする時の権威者、動物に襲われた時の権威者、仲間同士のけんかの際の権威者等、その時々、その場面ごとに権威者が入れ替わったと考えています。

どうやって権威者になるか、その場の雰囲気と言ってもそれほど遠くないでしょう。一番冷静な人間、一番声の大きな人間等様々な理由で、その場に最もふさわしいと他の群れの構成員が直感でこの人が権威だと判断したのでしょう。偶然的要素もかなり大きかったのではないかと想像しています。それでも権威者になり、自分が権威者だと自覚すれば、その個人も役割を果たそうと必死になったことだと思います。それでうまくいっていたのだと思うのです。

権威なんて誰でもよかったと思います。とにかく秩序を作りたくて、権威を切実に求めていたということが先なのだと思います。

6 秩序の何が悪いのか

秩序があれば、組織としての目的を達しやすくなります。同時に秩序があると組織が腐敗したり、他者から反発を食らうようになると言いました。
秩序の何が悪いのでしょう。どうして秩序があることがデメリットになるのでしょう。

原理的な説明の方があっけなくわかると思います。先ほどの人類の先祖のころは狩猟採取時代と言われて、人間はせいぜい数十人から百数十人の構成員で群れという組織を作っていました。しかも原則として生まれてから死ぬまで一つの群れでした。秩序のある群れは強力な組織で、文明が始まる前の非力な人間の命を十分維持することができたわけです。偶然生まれた権威者であっても、それにほかの仲間が従って行動することによって、十分人間が生き残ることができたのでしょう。その当時であれば、秩序があることには弊害があまりなかったと思います。環境に適合していたと言えるわけです。

ところが現代社会は、人間関係が大量であり、一人の人間はいくつもの組織、群れに所属しています。家庭、学校、職場、地域、国、社会、地球、インターネット等数え上げたらきりがありません。所属の強さや意味合いもそれぞれ違います。

そしてそのすべて人間関係にそれぞれの秩序があるのです。人間関係があればその中の秩序を作って安心したいのが人間だからです。国の秩序は国の秩序としてあり、企業の秩序は企業の秩序として別に存在するわけです。企業は常に国の秩序に反するということを言いたいわけではありません。それぞれに秩序があり、大部分は国の秩序に合致しているとしても、それは二つの秩序の内容が合致していたということで説明するべきだと思います。こう考えると以下で説明するように不正や違法の行為がなぜ起きるのかということを考えやすくなると思うのです。

一つの人間関係の秩序が、別の人間関係では受け入れられないということは多々あるわけです。

権威の的がそれぞれの人間関係では違うということがわかりやすいかもしれません。

組織の理念であるとか、政党の規則であるとか、宗教団体の協議であるとか、そういう抽象的な概念が権威となる場合もあると思うのですが、実際の組織を見ていると、特定の誰かが権威となり、その人に従おう、迎合しようとしているのが実際の人間の組織のように思えてきます。一から十まで一人が指図するということは無いでしょうが、肝心の組織の行動を決定する場面では、一人の権威者が強い影響力を持ち、事実上決定権があるという仕組みができているのではないでしょうか。

特に教義とか理念が難しすぎて一般の構成員にはあまり理解されていない場合は、なおさら具体的な個人を迎合の的にしてしまう傾向があると私には感じられてなりません。

秩序の何が悪いのかとして話し始めました。この「悪い」とか「良い」とかいうことも、実は絶対的なものがあるわけではなく、それぞれの組織の秩序によって異なります。
単純な話、会社であれば利潤追求が是であり、ボランティアであれば利潤追求は目的になりません。政党であればめいめいが勝手なことを言ってまとまりが無くなり何が主張なのかわからなければ悪でしょうが、学術団体などであればそれぞれが自分の研究成果を自由に発言できなければそちらの方が悪だということになるでしょう。

特定の組織の秩序が強すぎてしまうと、一つには他の秩序、特に法秩序や道徳のような社会秩序に反することが起こりうるという問題がでてきます。または、秩序を優先するにあまり、個々人の個性が圧迫されてしまうということが起こりうるわけです。

7 組織腐敗の構造

先ほど、例えば企業の不正経理が、トップが堕落しているという問題だけではないということを言いました。トップが堕落していても、健全な組織であればトップを排して、新しい人がトップになり、腐敗が起こらないはずです。

なぜ国の秩序からすれば明らかに違法であるにもかかわらず、トップダウンで不正経理が行われるのでしょうか。これは、組織の結束が強すぎるということが、実際は特定の個人に権威が集中していることで、その個人抜きでは秩序が形成できないような状態が強く背景にあると思います。

特に他の秩序との乖離がみられる時というのは、組織が存続の危機にある場合です。何よりも組織の存続が最優先になるという場合に、その組織単独の秩序が発動されやすくなります。

組織の構成員は、組織の存続に向かってモチベーションが高まってしまいます。こういう組織の危機の場合は、秩序形成を求める力も強くなるようです。より強く組織のトップに権威を求めて、より積極的に迎合しようとしてしまうわけです。すると、トップが苦し紛れに違法な行為の提案をしてしまうと、強い組織のメンバーの多くが組織防衛のためにそれしか方法が無いと思い込みやすくなってしまいます。不正であると頭では理解しても、それに反対することがとてもやりづらくなってしまいます。人間の本能に逆らうことになりますし、自分だけ逆らって他の人間がトップの違法指示に迎合したとしたらということを考えるとますます一人だけ反発することは、本能的にできなくなります。

組織防衛という錦の御旗のしたで、企業秩序が社会秩序から遊離してしまう瞬間です。単に不心得者が違法行為をしたという側面もあるでしょうが、それが組織の中で受け入れられる構造はこのような人間の本能に根差していると考えるべきです。特に権威の資質などを見極めずに、偶然の事情でおおざっぱに権威者を決めていた人類その祖先のやり方が、現代社会では不適合の状態になっているということなのだと思います。

こうして、社会秩序違反を自ら犯すことや仲間の不正を容認することは、当人たちにとって秩序を害する行為をしているという罪悪感は希薄になるわけです。むしろ、自分は会社の秩序を維持するために、自分を捨てて組織のために尽くそうとしてしまうという秩序にかなう正義の行為を実践している奇妙な感覚さえ感じてしまうわけです。

国家に独裁者がいれば、大義のない無謀な戦争が起き、会社であれば不正経理が行われてしまいます。政党や宗教団体であれば教義に反する活動が公然と行われても、周囲はそれを秩序内の行為であると強引に理屈づけをしてしまうわけです。これが秩序に迎合するということです。戦争は平時であれば秩序違反の忌むべき行為ですが、有事なると戦争に勝とうとすること自体が秩序を体現する行為になるわけです。

これらの事情は、組織が悪い人が集まっているということではなく、およそ人間の組織にはこのような傾向に陥る危険が存在するということだと私は思うのです。

組織においては、権威者の役職等を年数などで区切り、一度権威者となったものは、権威を持たないように工夫をするということがとても大切なことなのです。

8 組織外の人間に対する排斥と攻撃的行動

  人間が組織を作る目的は、組織外の人たちに受け入れられることによって、組織の目的がよりよく達成されるということがあるはずです。カルト集団で、集団を大きくしようと思わないというごく一部の集団を除いては、そうであるはずです。
 ところが、組織ができてしまうと、組織を守ろうという意識が強くなる場合があります。強い組織が、特に一人の権威者への迎合で秩序が成り立っている場合、権威者に対する攻撃は、その組織の秩序に照らして考えると、組織の秩序に対する攻撃だと構成員は受け止めますので、組織全体に対する攻撃だと瞬間的に受け止めてしまいます。権威者への人格攻撃だけではなく、権威者の判断に対する攻撃も全く同次元で受け止めているわけです。

 組織が権威者をその道以外の権威で高めようとしているときは、組織の腐敗が始まっているのではないかと警戒するべきです。組織は権威者はオールマイティーに権威を持っていると思い込みたいという性質が生まれるわけです。とある国家の元首が、ゴルフで18ホールすべてホールインワンを成し遂げたという話があることが、ゴルフ関係者では周知のことです。これが亡国の機関が流した情報なのかは不明です。もしそうであれば強い組織の内在する問題点が露呈したものであると思います。ここで肝心なことはホールインワンをしたことが本当かどうかではありません。それが本当だとしても、組織のトップたるものは、組織を永続させるためには、そのような自分の領分以外での権威付けには、特に神経を光らせてこれをやめさせるべきだということなのです。健全な組織、理性的な組織というものはそういうものです。

 さて、組織が攻撃されると、組織は容赦ない攻撃をその相手に向けて全力を挙げて行うという傾向が起きます。命が奪われることも容認するかのような発言を目にすることがあると思います。これは組織の秩序が強くなりすぎて、自分の組織の秩序が唯一の秩序になってしまっているということを意味しています。即ち攻撃対象者の行為は、自分が迎合している秩序と異なった秩序で行われているとか、自分たちの秩序を破壊する行動だととらえるわけです。こうなると、相手を人間として扱ってはいないのです。

しかも、その行為が容赦なく、品位を欠いたり物騒であったとしても、社会秩序に反する行為だと感じてはいません。自分たちの迎合する秩序にかなう正義の行為だと確信して疑っていないのです。

 人間は狩猟採集時代は、一つの群れで生活していましたから、群れの秩序はすなわち人間全体の秩序だったわけです。秩序を害する存在というのは人間以外の肉食獣などだったわけです。そうすると自分たちの秩序を害する存在に対して、自分たちの生存をかけて全力を挙げて総攻撃を仕掛けようとしたわけです(袋叩き反撃仮説)。そのオオカミやトラなどに向けられた怒りが、別秩序の人間に向けられているということなのです。これは本能的にそうなってしまうことです。だから理性によって、意識的に制御しなくてはならないということなのです。現代社会で怒りが人間に向けられた場合、犯罪をしてしまう場合もあるでしょう。そうはならなくても、組織全体の怒りを一般人に見せることで組織に対する警戒感が強くなってしまい、組織が弱体化していくことにもつながりかねません。
  
 私たちは誰かに対して容赦のない怒りを持つことがあると思います。その時は、別々の秩序の交差が起きていて、本能的に怒りを感じている可能性があると疑ってかかる必要があると思います。多様な秩序を肯定しない偏狭な考えである場合があります。その怒りは大多数の人に受け入れられず、あなたの信用を落としたり、あなた自身が後悔する場合もあるし、あなたの大切な人があなたから離れていく場合もあります。

 自分は別に何の組織にも属していないと感じている方も多いと思いますが、何かしらの人間関係に属さない人はいません。自分の怒りを反射的に疑うということが現代人にとっては必要なことなのかもしれません。
 
9 非組織的な秩序への応用 例えば政治的な対立

以上は、例えば規約があり、会議が定められていて、役員の取り決めがあるような組織をイメージしていただきお話を進めてきました。ところが、このような
・ 特定の人間が権威になる
・ 特定の人間を権威の的としてその他の複数の人間が迎合する
・ その集団が攻撃を受けるときなど、迎合する人間が秩序を維持しようと他の秩序に相いれない行動をしたり、他者を排斥したりする
という組織のデメリット的な行動をする現象があることに気が付き、面白いと思いました。

組織を形成していなくても、一時的に、強力な秩序が形成され、それに積極的に迎合している場合があるというところが興味深いところです。

典型的な事象としては、政治的な言動でしょうか。左翼、右翼に限らず、何らかの事件が起きると、自分の立場に危機感を抱き、あるいは自分の迎合する権威に危機感を抱き、なんとなく仲間意識が生まれて共通の敵と対峙するという感じです。そして、このような場合、無自覚に組織を感じ、組織を守ろうとする秩序に迎合する気持ちになっているようなのです。特に統計的な裏付けも何もなく、直感的に「自分の立場を支持する人間が多いだろう」という意識が強くなっているようです。

しかし実際は、その問題について興味のない人間も多いですし、興味があっても自分の立場を決めていない人間も多くいるでしょうし、どちらかの立場に立ったとしてもそれほど信念が無いという場合が圧倒的多数なのだと思います。しかし、その瞬間的な秩序形成をしようとする人たちは、他者の多くもこの事件に強い関心を持ち、何らかの例外を除いては自分の迎合する秩序を支持するはずだと思い込んでいるようなのです。

こうなると、自分に反対する人間は、何らかの意識的に組織化された反対勢力であり、自分たちの私益の目的によって反対しているのだろうという極端な二者択一的思考に陥るようです。つまり、反秩序派という、人類の祖先的には人間ではない肉食獣のような存在に見えてくるようです。

憲法9条改正問題でもそのような二者択一的議論をする人が多いように感じられます。「憲法に武器を持たないとかいてあるのだから日本は絶対に戦争をしてはならない。」と考える立場の人たちは、それぞれの理由で反戦を叫ぶわけです。それはそれで確かに説得力のある見解だと私は思います。しかし、「憲法にどう書いてあろうと現実の世界情勢を見ると、日本が他国から侵略される危険がある、命を守るために武装を強化しなくてはならない。」という考えが成り立たないわけではないと思います。国民という人間の数は膨大すぎるほどなので、それぞれの秩序があることは全く不思議ではありません。それぞれ対話をして国がどうするべきかを決める必要がどうしてもあるわけです。それでも、双方が他方に対して、必要以上の攻撃的言動を行ったり、自分の正しさの絶対性を主張するので、話し合いの土俵にも立てないのではないでしょうか。一般国民の外にそれぞれの立場の組織があり、相いれない行動をしているため、事態がますます複雑になっていくような気もしています。

10 インターネット炎上のメカニズム

このような秩序の多元化は、インターネットにより加速し、さらに攻撃が起こりやすくなっているように感じられます。

本来何のかかわりのない人の行動であるはずなのに、現実の人間が自分たちの秩序が侵されたという危機意識をもって特定の誰かを攻撃するという現象が起きているのだと思います。組織がないのに、どうやって秩序を感じたのでしょうか。

要素としては以下の通りです。
1)攻撃対象者の行為が、自分たちの秩序に反していると評価
2)1)の評価形成にあたって、具体的人間に権威を感じている
3)自分を支持する人間が自分の背後に多数いるという主観
4)自分がその対象者を攻撃することで、権威に対して迎合しようという積極的意思を持つ

例えば殺人犯が現れたところで、自分に何の関係もない人が被害者であれば、それほどその犯人を自分の手で攻撃したいとは思わないわけです。人間の生命身体の安全という秩序違反それ自体が攻撃にはつながらないようです。

だから1)と2)の形成は、3)の形成も含めて同時に起きるのかもしれません。

誰かが、その対象者の反秩序について、秩序に反した行動だと評価することによって、やはり秩序違反の行動だと納得すると同時に、他者も同じように感じているということ実感し、自分だけでなく多くの人間が同様に感じているはずだというところまで思い込んでしまうようです。

例を挙げて言うべきでしょう。

例えば、私生活を映し出すという体裁の番組があったとします。出演者の一人が、何らかの怒りを表明し、他者を攻撃したとします。それが理不尽な攻撃であり、それを見ている人たちがうまく言葉にできないけれど、否定的な価値観を示したとします。

それを見ていた一般視聴者の多くも、攻撃者に対して共感を得られないか、あるいは攻撃を受けた者に共感をしてしまい、その共感が番組のコメンテーターに様って裏付けられてしまうことによって1)、2)、3)が瞬時に形成されてしまうようです。

こうなってしまうと、自分は世界の中で多数派に存在しているという秩序側の人間だという意識が形成されて、自分は多数派だという意識になるようです。そしてここがミソというところが、コメンテーターは否定的な態度を示したものの、その理由を言葉でうまく説明しなかったとします。そうすると、多数派の一人だと自覚している人たちは、自分の力で秩序の形成に一役買いたくなるわけです。秩序に迎合しようと、どうしても人間はそういう傾向になるようです。

これこれこういうふうに言えば、その人がどういう風に間違っているかを説明できるということを思いついてしまうと、その言葉を発表したくて仕方が無くなるわけです。秩序形成に自分が貢献することができると思ってしまうと、貢献して有能な仲間として認められたいという気持ちに人間はなってしまうようです。

そのご指摘発表の受け皿が用意されていれば、そこに書き込むなりして、自分の気持ちを満足させることができるはずです。自分の評価に敏感ですから、評価を受けやすい媒体があればそこに発表するからです。

ただ、現代のインターネット社会は、そのようなお仕着せの発表舞台が無くても良いようです。SNSで発信されると、それに対しての返答がある場合があるようです。但し、そういう反応を受けるためには、発信者がそれなりの支持を従前から受けている場合か、自分の仲間内の場合なのでしょう。要するに、そこには自分と同じテレビ番組を見て、自分と同じような感想をもち、秩序を共有する仲間がいて、自分を受け入れてくれるのです。そうしてその仲間を大切にしながら、仲間以外の人間を容赦なく攻撃することによって、仲間の中で自分が秩序形成に貢献しているという実感を持つことで、大きな満足を得られるようです。

インターネットで攻撃をされる人は、別の秩序を持つ人間であり、自分たちとは敵対する関係だ、肉食獣のようなものだという意識ですから、攻撃は容赦なくなります。インターネットの発信者は、ギャラリーを意識して発信しますから、攻撃は他者に受けの良い演出が加わることになります。

発信の受け手も、その意見表明が自分の気持ちを代弁してくれたと思えば評価をするでしょうし、意見のない人はほぼ受け流して反応しないことでしょう。その投稿の界隈では、攻撃に対する否定評価は表れにくく、肯定的表明だけが発信されていくわけです。

自分が攻撃されていることをインターネットで閲覧した当事者は、自分が人間扱いされていないことにまず衝撃を受けるでしょう。本当は狭い仲間内での意見表明にすぎないのですが、その界隈では支持者ばかりが投稿をしますので、自分を攻撃した人の意見が大勢を占めていて誰もそれをたしなめる人がいないために、世の中全体から自分は排斥されているとつい感じてしまうことは、私には簡単に想像することができます。大きな事態が生じても不思議なことではありませんし、攻撃を受けた人間の特殊な感受性では決してありません。

番組のあおりとは、インターネットでの攻撃を呼びかけるものではありません。インターネットが当たり前の社会において、特定の価値観を表明して一人の個人に対する否定評価を不特定多数の人間に対して発信表明することなのです。それで十分です。

まず私たち一般人は、いつ誰かをインターネットその他の自分の怒りの行動で傷つけているかもしれず、その行動によって相手は自分が想定もしないほど深く傷つくということがありうるということを自覚するべきなのでしょう。自分が想定できなかった人物もそれを見るという意識が利用者にはまだまだ希薄なようです。

テレビ制作者やインターネット発信者は、不特定多数に対して否定的価値を表明し、一般的秩序違反であるという発信をする時は、その影響で誰かが致命的な攻撃を受けないように工夫をするべきです。リアルな番組であっても演出で行われている場合はそれを公表するべきですし、攻撃の対象となる可能性のある番組は作るべきではなく、可能性が生まれてしまった場合は徹底的にかばうという責任感を持つべきだと私は思いました。

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