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統一教会時代の問題点である洗脳による家族破壊についての説明と現代の一部マスコミと政治家が旧統一教会がいうから家族の名称を付す政策を批判する愚かさについて [進化心理学、生理学、対人関係学]


安倍首相の事件以来旧統一教会の問題が大きく取り上げられるようになりました。法律も整備されるなど連日報道されています。ただ、思わぬ副作用も生じています。一部のマスコミや政治家などが、政策などに「家族」というキーワードを出すと、旧統一教会の影響を受けているのではないかと批判することです。

しかしどうでしょうか。現代社会の生きづらさを緩和させるためには、家族の在り方を改善し、家族という一人一人の帰る場所、帰属する仲間を確保し、強力なものにすることこそが必要であると私は考えています。一部マスコミの論調は、政策などの中身を検討せずに、「家族」という言葉に対して感情的な反発をあおるようです。

もっとも皮肉なことは、現在の団体についてはあまりよく知らないのですが、旧統一教会時代の洗脳は、ターゲットを洗脳し、家族と分断することによって問題が生じていたのです。統一教会の洗脳こそが家族の分断の行為だったのに、旧統一教会への国民の反発を利用して、家族を支援する政策を非難するということは背理です。結局、唯、家族問題に対する支援を妨害しようとする意図しか感じられないのです。いったい何が目的なのでしょう。

今回は、統一教会時代の洗脳が家族を分断することによって成立するということについて説明します。

先日立正大学の西田公昭先生がテレビで統一教会の洗脳についてお話しされていました。
洗脳が完成するパターンとして以下の段階をたどるというようなことをおっしゃっていたと思います。
信頼 → 社会的遮断 → 恐怖を与える → 権威の構築 → 自己価値の放棄

この流れは先日来このブログで特集している秩序の観点からもわかりやすく説明することができます。西田先生の理論の詳しい正確な内容は、先生はいくつか書籍を出版されていますので、そちらを参考にしてください。

洗脳というものは、人間が進化の過程で獲得した本能を利用して行うものです。
1 進化の過程で人間は群れの秩序形成に貢献するようになった

人間はだれかとのつながりの中に所属していたいという動物です(バウマイスター)。つまり、仲間の中で尊重されて、仲間の中に所属しているという実感を持ち、それによって安心したい動物であり、仲間の中にいられなくなるかもしれないと感じると不安や焦りが生じ、やがて心身に不具合が発生してしまいます。

同じことを「秩序」というワードを利用して説明すると、自分を含めて人間のつながりの中に秩序が存在すると感じると、自分がその秩序さえ守っていれば安心して所属していられるという感覚を持つということになりそうです。ただ、秩序というのは、およそ人間ならばどこでも単一の秩序があるというのではなく、どの人間関係にもそれなりの秩序があるということです。普遍的な秩序もあるかもしれませんが、それぞれの人間関係で独自の秩序もあるわけです。構成メンバーの個性や人間のつながりを取り巻く環境によって変わります。人間は秩序が保たれていることに安心して、その秩序に従おうとしますし、秩序を形成しようとするし、また秩序に反する個体に対して制裁を科したくなる動物なのです。

スタンレイ・ミルグラムの服従実験(アインヒマン実験)という有名な社会心理学の実験があります(「服従の心理」河出文庫)が、私はこれは服従ではなく、権威に迎合しようとする性質が人間には備わっていることを示した実験だと考えています。権威に迎合するということこそ、それによって秩序を形成しようとしているということだというわけです。「迎合の心理」 遺伝子に組み込まれたパワハラ、いじめ、ネットいじめ(特に木村花さんのことについて)、独裁・専制国家を成立させ、戦争遂行に不可欠となる私たちのこころの仕組み :弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp) https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-04-21

2 進化の過程で獲得した心と現代環境のミスマッチ

現代社会は、多くの人間とかかわる社会であることが特徴です。また、同時に複数の人間関係の中に帰属しています。人間の心が生まれたとされる200万年前は、一つの群れで数十人から百数十人の同じ人間とだけ生活していたそうです。当時の人間には世界はそれだけでした。その環境に適合する(そのような環境で生き抜く)ために都合が良いから、そのような心を持った人間だけが生き残って私たちの先祖になったわけです。また、進化は200万年程度では、それほど進んでおらず、私たちの心は200万年前に進化の過程で獲得した心からあまり変化をしていないと言われています。
心はそのままなのに環境が大きく変わってしまったわけです。

3 矛盾する秩序を持つ複数のつながりへの同時存在こそ一般だということ

人間はたくさんあるつながりの中の、どのつながりにどれだけ軸足を求めるかをその時々において選択しなければならない状態になってしまいました。つまり、人間関係の数だけある秩序のどの秩序に自分は従おうかという迷いをもって生きなければならない時代になったわけです。このことは同時に、どの人間関係の中でも、自分の安心する関係を形成できないという疎外感が発生する危険が大きな環境ということも言えると思います。つまり、あっちの方がもっと快適に暮らせるのではないかという迷いがいつも用意されているということです。

例えば、親と友人とどちらの言うとおりにしようかとか、
例えば、奥さんが旦那さんに、「わたしと仕事とどちらが大事なの?」と尋ねるとか、奥さんが飲み干したペットボトルをどこかに捨ててきてというけれど、道徳的には間違っているのではないかとか、
例えば、これをすると不正経理で捕まるかもしれないけれど今銀行融資が通らないと会社は倒産してしまうとか、
程度の問題は様々ですが、二つ以上の秩序のどちらを選ぶか迫られることが多々あることが私たちの日常なわけです。

しかし、通常は、どちらを選択してどちらを切り捨てるということはしません。学校の先生の意見と親の意見が対立しても、その時その時なんとなく選択して、なんとなくやり過ごしているわけです。よほどのことがない限り、退学をしたり家を出たりということは起こりません。矛盾する秩序があっても別々の仲間の中に存在し続けることが通常です。現代社会という環境では、このように複数のつながりがあって、複数の秩序があり、自分に対する評価が矛盾していても、それを受け入れて生活することが自然なことなのです。

ここが問題の本質です。

つまり、洗脳の最大の問題は、今いる人間関係から対象者を離脱させようとしているところにあります。そして、離脱されることによって、一つの秩序だけに従わせようとしているところに問題があったわけです。

4 西田先生の流れを「秩序」というワードを使って説明する

以下西田先生の理論が、私の立場からも支持できるというその中身を秩序の観点から説明していきます。

<信頼>
先ず、当時の統一教会の人たちは、統一教会ということを鮮明にせずに、一般的なサークルや自己啓発ということで、ターゲットに近づきます。退廃文化を批判し、まじめな生き方を示します。そのことは立派な行動にターゲットとしても感じます。
もっとも、この段階では、ターゲットの秩序の軸足は家庭にあります。家庭を大切だと意識しているけれど、洗脳をする側の人間関係も快いというイメージを対象者は抱くようになります。洗脳者側が何かにつけて自分の考えを肯定してくれる、自分の行動を肯定してくれるという行動を体験します。このような扱いは、人間にとって得難い喜びになります。こうして洗脳者側に心理的に近づいていき、軸足は家庭にあるけれど、洗脳者側との人間関係も形成され始めるわけです。家庭の秩序を維持するか洗脳者側との秩序に入るかという選択肢が潜在的に生まれてしまいます。

<社会的遮断>
しばらくすると、修行ということで、何日かの合宿によるセミナーに参加するようになります。
人間はどこかの組織、人間とのつながりの中に所属したいという根本的な要求を抱き続けて生きていきます。それが断たれてしまうと、近場の人間とつながりたくなるということがバウマイスターらの論文 ’The need to belong’ の結論です。この論文では極限的な状況についての文献をいくつも紹介しています。刑務所の中の実験、人質と犯人等、通常の状態ではおよそ近づきたくない人間であっても極限的孤立の中ではつながりを求めてしまうようです。

何日か、物理的に社会から隔絶させられてしまうと、目の前にいる唯一の人間が権威であると感じてしまい、その人とつながりたいという意識が本能的に生まれるという体験をすることになります。
「一緒に住んでいる家族が、実はターゲットに対して危害を与える人間だ。その家族は自分の利益、欲望のために、あなたを犠牲にしようとしている。」ということを言われてしまうと、最初はそんなことは無いと笑っていても、そのような体験を何度か重ねていくうちに次第に家族に対して不審な思いを抱いてしまうようです。

物理的にも心理的にも今いる人間関係から遮断されることは、遮断されていない人間関係を身近に感じ、その人間関係の秩序に自分から飛び込んでいく大きな要因になるわけです。これは人間の本能ですので、意識して本能の発動を遮断しなければ、人間である以上そのような心理状態になっていく可能性があるということになります。

<恐怖を与える>
セミナーなどで、家族や先祖が本人にとって災いの種だとか、やがて家族がターゲットを攻撃してくるとか、あるいは将来日本が滅亡するとかという話が行われるようになります。これだけ聞くとばかばかしいのですが、それをばかばかしく聞けなくなる状態になったときに、最初は聞き手の感覚を肯定しながら話していくわけです。

すると、半信半疑ではあっても、なんとなく不気味な嫌な感覚を持っていくようです。
人間は恐怖をどうやって解消してきたかということを考えるとこれは効果的です。人間の恐怖の克服は、仲間の中にいること、仲間との秩序の中に自分を置くこと、仲間との秩序の形成と強化に自分が貢献することで恐怖を克服するようにできています。その時仲間にもとめることは、自分を無条件で肯定する仲間であってほしいということになります。自分を守ろうという感情が生まれると、同時に自分を守ってくれる絶対的仲間を求めてしまうというのはわかりやすいと思います。

家族を選ぶか、洗脳側を選ぶか、その選択の必要性が人為的に高められてしまうということです。

<権威の構築>
もうあまり説明はいらないと思います。自分を守ってくれる強力な仲間を選ぶ段階に来ています。どの仲間が自分にとって、頼るべき仲間なのかということの判断をしようとしているわけです。ここでどのような対応をすれば、対象者は洗脳者側を選択するのでしょうか。

案外簡単な原理です。鍵は、権威、秩序の選択をどちらにするかという判断の必要性の高まりは、人為的に高められた危機意識によって起きているということに鍵があります。

一つは洗脳者側自身が高めた危機意識は、初めから解消方法を用意してあるということです。解決方法とセットですから、恐怖を感じると同時に高められた危機意識の解消が実現されるという解放の光が見えてくるわけです。そうすると人間はどうしても光の方向に進んでいきたくなってしまうようです。

一つには、発想の順番に注意が必要です。先ず、何かモヤモヤとして不安、危機意識を高めてから、実はその元凶が家族にあり、その解決方法はこちらの権威にすがりさえすればよいという順番こそが必要です。

一つには、ターゲットのリサーチは既に住んでいるということです。最終段階の前に何度も対象者の日ごろの不安や焦りの感情を聴き取っています。人間の発達心理からすれば、家族に不満のない人間はあまりいません。何らかの不満についてそれと知らず話をしているものです。何しろ家族は日常的に顔を合わせていますから、自分の行動の自由が家族の存在によって制限される絶対数もそれは多いに決まっています。また、よそに原因がある問題も、家族に原因があると考えることはとても楽なことです。

そして、具体的に多くの人々が洗脳者側が提示する権威にすがること、権威を中心とした秩序の中にいることで、心配のない安楽な精神生活を送れることができるという例を示すことです。先輩たちの体験談が出てくるわけです。

頼るべき権威が洗脳者側にあると思い込めば、家族を捨てて洗脳者側に権威を求めて、自分もその秩序の一部になりたいという気持ちが強くなっていきます。実際はここまで単純ではなく、これまでの流れを複数回繰り返されることが多いかもしれません。繰り返されるたびに、権威が洗脳者側にあるという意識は強くなります。

ここでもう一つ大事なことは、理屈ではないということです。教義を理解して信じているのではなく、感情的に何かにすがりたくなり、その具体的なものとして示されたからそれが教義になるということなのです。

人間は、何かにおびえて、何かを不安に感じて生きていくものなのでしょう。何かしら焦りや不安が出てくるのは生きている以上仕方がないことなのかもしれません。しかしそれが大きくなり、苦しくなりすぎると解放されたいという気持ちがとても大きくなってしまうのでしょう。そして、本来あるはずのない絶対的な安楽があると思い込んでしまい、その安楽を拒否することがなかなかできなくなるということなのだろうと思います。

<自己価値の放棄>

西田先生の言う自己価値と私の説明は違うかもしれません。私の説明では、自己価値というのは単体としての自分の価値ではなく、突き詰めて考えると仲間の中で尊重されて生きているという他者を意識し他者との中で関連付けられた自己ということが自己価値の本質ないし根幹であり、仲間のために貢献することがそれを支えるものだと考えています。

だから、私の説明では洗脳状態となっても自己価値を放棄しているわけではありません。洗脳者の言われるままに行動すること、言われなくても洗脳者の示す秩序を自発的形成しようとする行動を起こすことこそが自己価値の実現にすり替わってしまうということです。秩序にあるいは権威に、積極的に迎合しようとしている、その迎合の対象を洗脳者側に置くことが洗脳だという考えです。

だから当初は言われるままに物を買ったり、他者にかかわったりしていますが、自分から自発的に何をなすべきかということを洗脳者側の設定した秩序の中で積極的に考えて行動をするわけです。必ずしも言われたとおりに行動するのが洗脳ではなく、洗脳者側の秩序が自分が貢献するべき秩序だと感じて行動することが洗脳だということがポイントです。

その秩序の中にいると、その秩序の外の秩序と比較して、どちらが正しい秩序かということについて考えるという発想も力もなくなります。職場の秩序、チームの秩序、政治思想の秩序等、自分の所属しているつながりの行動に盲目的に従うことは、我々もしばしば目にしていると思います。

5 洗脳を解くための家族

こうして家族という秩序や当たり前の社会の秩序に合致する秩序から離れて、人為的に作られた特殊な洗脳者側の秩序側の人間になってしまうということなのでしょう。
だから洗脳を解くためには、洗脳者側の秩序に対抗する秩序、人間関係を提案することが鉄則になります。教義が間違っているかどうかということは主力にならないはずです。それよりも、その秩序の不具合を語ること、つまり脱会者の話が力になるのではないでしょうか。自分と同じ思考をしていた人が、自分とは違う結論に達しているということは大きな力になるはずです。

さらには家族が自分が帰属するべき人間関係なのだという理解、安心感を獲得していくこと、自分が尊重されていること、そして自分が家族の中で秩序を形成する権威となりうることという自信と仕組みを与えることが有効なのではないかと考えています。

既に洗脳者側の秩序を信奉してからは、洗脳されたことあるいは洗脳の元での行動を、非難することや、馬鹿にすること、つまり否定することは逆効果にしかならないと思われます。実は洗脳されたこと自体を許すこと、理解することが洗脳を解くためにとても大事だということが理解できると思います。

6 終わりに 一部マスコミや政治家の愚かさについて

いずれにしても、当時の洗脳は、家族の秩序、家族との人間形成を遮断することによって洗脳者側の思惑の行動を実行させることにありました。
当該洗脳から回復させるためには家族の力が不可避だったわけです。

旧統一教会の行動を批判するポーズを示しながら、「家族」という言葉が入るから現在の団体の影響を受けているとし、家族支援がけしからんと言うのは、結果的には矛盾だと思います。結局旧統一教会関連の団体を攻撃しようとする余り、問題の本質である統一教会時代の洗脳について不問付していることにはならないでしょうか、

大変恐ろしいロジックだと思えてなりません。

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